孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

「その男の言葉に騙されるな!」
孔明の声にも匹敵する大音声で、車列をのなかでも、ひときわ大きな馬車から、男が姿を現した。
播天流だ。
隻腕の男は、輜重の上に毅然と立つ孔明を、はげしい憎悪をもってにらみつけた。
輜重の上の孔明を見て、趙雲は思わず笑ってしまう。
「あきれるほどに派手なやつだな」
そして、なんと颯爽としていることか。
これほどまでに美しく、毅然としている者を、趙雲は知らない。あれこそが、俺の守った者なのだ。
それに対する播天流は、立派な甲冑に身を包み、悠然と龍髯を風になぶらせ、万軍の大将もかくや、といった出で立ちなのに、まるで精彩がない。
胸に召春を抱き、そして、恵開、安沈、子玲ら少年たちを背後に従え、馬車からゆっくりと、趙雲は外に出る。
もはや、捕虜である趙雲を止めるものすらいない。
動くものは、播天流と、趙雲と子供たちのみ。
趙雲が姿を現すと、孔明の白皙の面差しに、はっきりと喜色があらわれた。
だが、言葉には出さない。趙雲は心の中で満足してうなずく。それでこそ万軍の将なり。冷静であれ。

「播天流よ、久しいな。この期に及んでもなお、我が言に反駁できるというのであれば、するがよいぞ、さあ、聞いてやろうではないか」
と、孔明はきびしく決め付ける。
孔明の言葉には、よどみがなく、また、迷いもなかった。
そして、その厳しい眼差し。それが己に向けていられるものではないとわかっていてもなお、その容赦ない双眸に、百戦の勇、趙雲は怖じた。
峻厳とした山のように高らかで、悲しいほどに孤独で、すべてを知り、見つめながらもなお、真っ直ぐに真実のみを見据えるその勇気。いまはじめて、趙雲は、諸葛孔明と言う青年の持っていた、本質に触れたのであった。
趙雲に片腕で抱かれていた召春が、怯えてさらに首にかじりついてきた。
少年たちも、趙雲に縋りたいのであろう、空いた手を握るもの、その服の裾を掴むもの、さまざまである。
趙雲は、彼らを安心させるために、言った。
「怯えることはない。あれがおまえたちを助けてくれる、諸葛孔明だ」
「太陽のひと?」
「そうだ。だから、俺たちは必ず助かる」
子供たちを安心させるための方便ではない。
趙雲は、本心からそう思っていた。
俺は諸葛孔明を裏切らなかった。やつのいちばんの主騎でありつづけた。だから、あいつもまた、俺のいちばんの守られるべき者。

播天流は、武器は持っているものの、戦意を喪失している壷中の者たちを厳しく叱咤するのであるが、だれもその言葉に従おうとはしない。
播天流は、必死の形相で、周囲の子供達に叫ぶ。
「戦え! どうした、やつらは敵だぞ! 戦うのだ!」
邪悪に歪んだもの。
永遠に誰も信じることの出来ない者。
一人で生まれ、一人で生き、誰とも繋がることができず、憎まれ、蔑まれ、そして自らも憎み、そして死だけを築いて死んでいく。

趙雲は、はじめて播天流を、心から哀れだと思った。
もしも、自分が、兄のいった『光』に出会えていなかったなら、もしかしたらこうなってしまったかもしれない、生ける屍。それが播天流であった。
「もうよかろう。おまえの負けだ」
趙雲が言うと、播天流は、悪鬼のような形相を向け、趙雲に叫ぶ。
「黙れ、この、捕虜めが! どうした、みな、何故この男を捕らえぬ! そうだ、こいつを人質にするのだ。どうだ、諸葛亮、形勢は逆転したぞ! 子龍を助けたくば、村を明け渡し、降伏せよ!」
播天流は、片腕で、すらりと剣を抜き、趙雲に突き立てるのであるが、ほかの周囲にいる壷中たちは、動かない。
どころか、趙雲に剣を突き立てる播天流に対して、武器を構えようとしている。
「あきらめろ、播天流。おまえは、天地が引っくり返ろうと、勝てはせぬ」
「人質風情が、黙れ!」
ぐっと咽喉元に刃が突きたてられるが、趙雲はまったく恐ろしく思わなかった。
腕に抱く召春は、きつく播天流を睨みつけ、その背後にいる少年たちも、同じように播天流に憎しみの目を向けている。
それだけではない。ほかの少年たちも同様に、播天流に怒りの眼差しを向けているのであった。
いままで騙してきたこと、自分たちを器物のように扱ってきたこと、容易く殺されていった『兄弟』たちのためと。ありとあらゆる憎悪を籠めて。
「俺を殺したら、おまえはここにいる全員に殺される」
「莫迦な!」
「認めよ。村の壷中は、なぜおまえを助けるために軍師に弓を射掛けない? そして、お前の周りの壷中たちは、なぜ俺を追いつめるために、子供たちを奪わない? おまえの味方はどこにいる? どこにもいやしない。いちばん最初に戻ったのさ」
「播天流よ」
孔明の、高らかな声が、張り詰めた空気のなか、響く。
「いますぐ、子龍を解放せよ。さもなくば、一斉に弓を射る。播天流の周囲にいる子供たちよ。もはや我らに刃向かう気がないのであれば、いますぐその場から離れるがいい」
「莫迦な、子龍もいるのだぞ! 子龍も殺すつもりか!」
播天流の声に、孔明は眉根ひとつ動かさず、趙雲を見つめる。
趙雲もまた、その視線をまっすぐ受け止めた。

ああ、わかっているとも。
目は閉じない。じっと真っ直ぐに、孔明と、孔明の周囲で弓を番える…あれは陳到か? そして関羽。あのひとまで来ていたのか。
ほかにも見知った顔がたくさんいるではないか。どいつもこいつも、弓は俺よりずっと上手い。だから、心配なんぞどこにもあるものか。

孔明は、櫓の上の黒装束の上の男を見て、それからうなずき、そして、片手を上げた。
同時に、わらわらと、播天流の周囲にいた兵士たちが持ち場を離れて逃げていく。播天流は、必死に逃げるな、と怒鳴るのであるが、聞くものはない。
孔明が、叫んだ。

「射よ!」

一斉に、ぶん、と弓が放たれる。
この風に立ち向かうような、威勢の良い音が、趙雲は好きであった。
そうだ、だから弓を手にしたのだった…決して、自ら手を汚さずにすむから、弓を選んだのではなかった、と趙雲は思い出していた。
何百という矢が、一斉に飛んでくる。
うわあ、と不様な悲鳴がした。
あっけないものだ、と趙雲は思った。
咽喉元につきたてられていた剣は、からんと音をたてて、地面に転がった。
たんたんたんたん、と雨音にも似た音がつづく。
流れ矢が一本もこちらに向かってこない。
すごい連中だ。俺の仲間なのだ。
「もう目を開けてもよいぞ」
と、ぎゅっと自分にしがみ付いていた子供達に言うと、趙雲は、隣で矢を一身にうけ、仰向けに倒れている播天流を見た。
これが、公孫瓚を殺め、劉表に取り入り、多くの子供たちを踏みにじって、今日まで生きていた男の末路なのか。
その顔には、悲しくなるくらいに人間的な、恐怖に満ちた表情が浮かんでいた。
何百という人間の人生を狂わせた怪物の顔ではなかった。
下手をすれば、どこにでもある顔…そうとも表現できそうではないか。どこで、この男は狂ってしまったのだろう。

たった一人、なにも生まず、生み出すことができず、一人で死んだ。

「子龍! 子龍!」
輜重から飛び降りるようにして孔明が村から飛び出し、ついで、陳到と、趙雲の部将たちが、いっせいに村から飛び出してきた。
関羽だけは村に留まり、趙雲に向けて大きく手を振っている。世知に長けた男らしく、村に残っている壷中の残兵や、豪族たちを取り仕切るために、わざと残ったのであった。さすがの配慮である。
「怪我は!」
というのが孔明の第一声であった。
すぐに追いついてきた(というよりは、おそらくトロイ孔明をすぐに追い抜かせたであろうが、気を遣ってゆっくり後ろにくっついてきた)陳到が、笑って言う。
「何をおっしゃる。我が精鋭たちは、弓にはなにより自信があり申す。まちがっても、趙将軍に流れ矢があたるようなことはございませぬ」
「ああ、矢はたしかに当たらなかったが、ひどい顔だな、とても子龍とは思えぬ」
と、孔明は、ほとんど泣きそうな顔をして趙雲の頬に触れてくる。
さきほどの、毅然とした軍師の姿とは、まるで別人であった。
子供たちはというと、陳到をはじめとする子供好きの部将たちにそれぞれ抱えられ、安全な村の中に運ばれていった。
村の外にいた壷中も同様で、たいがいは武器を捨て、大人しく降伏した。おそらく樊城のことがあり、すでに戦意は喪失していたのだろう。
それでも往生際がわるく、山へ入って逃げようとする者もいたが、結局は捕まって引き据えられ、これには見せしめとして、鞭打ちの刑罰が処せられた。

「ずいぶん殴られたのであろうな。顔色が変わってしまっている。それに、ちゃんと目は見えているのか。腫れあがっているぞ。どこか、おかしなところはないか。耳は両方とも、ちゃんと聞こえているのだろうな。歩けるか? 手は動くか? 本当は、もう立てないくらいなのに、むりして立っているのではないだろうな。いますぐ寝台を用意させる。もちろん、清潔なものをだ。肩を貸す。無理するな、喋るな。笑うな!」
「おい、俺はずいぶん死人のような顔をしているらしいな。見るやつ全部の顔がひきつる」
「鏡があったら、みせてやりたいほどだよ。いつもの倍は腫れているのじゃないのか。せっかくの良い男がすっかり台無しだ。播天流め、きっとあなたの顔にも嫉妬していたにちがいないよ。よい湿布をもらってこよう。疲れているか? わたしは喋りすぎだろうか」
華奢な腕をまわし、手を貸すといいはる孔明に、趙雲は好きなようにさせておいた。
孔明はひたすらよく喋り、矢継ぎ早に質問をしてくるのであるが、どうやら答えは期待していないらしい。
となりに孔明がいる、という事実が、いまだに実感が沸かず、思わず趙雲は声をたてて笑ってしまう。
気が抜けたというのではない。たとえ大地が引っくり返ったとしても、この俺が主騎である限り、こいつが死ぬなんてことは有り得ない。俺はなにをいままであくせくしていたのだろう、という、己を笑う声であった。
「ほんとうに、大丈夫か、子龍?」
おそるおそる尋ねる孔明の面貌は、矢で受けたらしい、ちいさな切り傷が頬にあるだけである。
こいつの運のよさは主公に勝るな、と感心しつつ、趙雲はその傷を軽くなぞって見た。その頬は温かい。そして、双眸から流れた涙の痕が、くっきりと残っている。孔明は言う。
「話したいことが山ほどあったのに、なにから伝えればよいのかわからぬのだ。愚かであろう」
「それを言うならば、俺もだ」
すると、不意に孔明は、趙雲の真正面に立つと、その両腕を差し伸べて、ぎゅっと力強く、しかし優しく趙雲を抱きしめてきた。
普通ならば、男のくせに気持ちが悪いと跳ねのける趙雲であるが、孔明の、自分とはまったくちがう華奢で、どこか柔らかさすらある体の感触と、温かさを全身に感じ、胸が熱くなった。
血に汚れた手を気にしつつ、触れるか触れないかの加減で、そっと自分も孔明の背中に手を回してみる。
孔明は、趙雲の肩に顎をあずけるかたちで、さらに腕の力をつよくして、耳元で言った。
「上手くいえない。無事でよかった。叔父のように、あなたも去って行ってしまうのではないかと、本当に恐ろしかった。よかったよ」
「そうか」
とだけ趙雲は言った。
いままで、だれかにそこまで身を案じてもらったことがない。だから、答え方が判らなかったのである。
孔明の肩越しに、仰向けになったまま、放置されている播天流の姿があった。

俺は、この男から、なにを学んだだろうか、と趙雲は思う。
俺が本当に人から教えてもらいたかったのは、こんなふうに心配されて、喜んでもらえたときに、どう答えたら、自分の心がじょうずに伝わるか、そういうことだったのだ。
おまえは人殺しが巧すぎる。
そうだ。俺はこれから、もっと巧くなるだろう。
それは、いま目の前にいる、この男を守り抜くためだ。
もし、俺の本心をあんたが知っていたなら、そして理解ができたなら、今日のような日は来なかったのではないだろうか。

そうして、孔明を促し、立ち去ろうとした趙雲であったが、不意に、ぞくりと背筋を駆け上るものがある。
「軍師!」
とっさに孔明を突き飛ばし、襲い掛かる刃を交わした。
信じられない。
全身に矢を受けてもなお、剣を手に襲い掛かる、播天流の姿が、暮れなずむ山道に、幽鬼のように浮かび上がっていた。
趙雲は、集中して矢を受けている胸に、播天流が何枚もの鎖帷子を重ねているのを見つけた。そのために、心の臓は無事だったというわけだ。
それにしても、たいした胆力ではある。
もはや播天流は、本物の妄執に捕らわれた鬼だ。
「だれぞ参れ! 早う!」
孔明が叫ぶが、兵卒たちは、壷中の残党の収拾に忙しく、なかなかこちらの様子に気づかない。
それほそうだろう。あれほど矢を浴びせかけておいた人間が、まさか生き返るなどと、だれが想像するだろうか。
「子龍! 剣を!」
孔明が、手にしていた剣を趙雲に投げ渡した。
初めて手に取ったのに、不思議と馴染む長剣である。その細工に見覚えがあるなと思いつつ、趙雲は、襲い掛かる播天流の剣を交わした。
こいつ、もしかして本物の化け物ではなかろうか。
らしくもなく趙雲は思った。
凄まじい力であった。
力で押して、負けるはずはないのに、足が滑って、自分が後退していく。
「亡者め!」
なんとか力で押しのけたものの、こちらの体力も、ほとんど回復していない。
数日間に及ぶ軟禁と、連続して行われた拷問めいた暴力、そして召春を助けるために力を使い果たしたことで、趙雲には、ほとんど余力が残されていなかった。
このままでは危うい。
「軍師、逃げろ!」
視界の端で、よせばよいものを、道端に落ちている大きな岩を掴んで、播天流に投げようとしている孔明の姿がある。
石のひとつで、この人間針ねずみが大人しくなるわけがない。
関羽、あるいは叔至。それくらいの手練れでなければ、播天流を倒すのは無理だ。
慎重に足を運びながら、趙雲は播天流の隙を見つけていく。
こちらが満身創痍なら、相手は半死半生。五分五分ではないか。落ち着け。勝機はかならずある。
ぶん、と音がして、孔明が、心の底から趙雲がうんざりしたことに、本当に石を投げた。
それは掠りもせず、播天流の注意を引いただけに終わった。
播天流が、すばやく孔明に向かって剣を振りかざす。
だめだ、間に合わない!
それでもと、足を踏み込んだ趙雲であるが、そのとき、ひゅん、と風を裂く音がした。
夕闇の中、播天流のかざした剣が宙で止まっている。
その手首には、ぐるりと縄が巻かれている。
そしてその先には、ほかでもない、はげ頭の旧友が立っていた。
「朱季南!」
「子龍、やれっ! 俺の妻の仇を討ってくれ!」
その声に弾かれるようにして、趙雲は播天流の胴を、渾身の力をこめて真っ二つにした。
すさまじい切れ味をもつ剣である。手入れはよくされているが、しばらくのあいだ、人を斬ったことがなかったのだろう。

今度こそ、地に伏し、命の絶えた播天流を見下ろし、剣を鞘にしまうと、趙雲は孔明を助け起こし、そしてあらわれた朱季南に向かい合った。
事情を尋ねるべく、口を開いた趙雲に、朱季南は、やんわりと手で制する。
「待ってくれ。聞きたいことは山ほどあるだろうが、いまは喋りたい気分ではない。すまないな。なぜ俺がここにいるか知りたいのであれば、薬倉庫でクソ生意気な餓鬼と一緒にいる、嫦娥さんに聞いてくれ。俺はこのまま山を下り、許都へ帰るよ」
朱季南は、そういって、くるりと一度は背を向けたのであるが、途中でぴたりと足を止め、それから孔明のほうを向いて言った。
「諸葛孔明だな。あんたとは、会わなかったことにしたい。だが、これを受け取ってくれないか。大事なもの…らしい。一部の人間にとってはな」
といって、朱季南は、片方の耳だけについていた、玉でできた耳環を孔明に渡した。
「俺にはもう、用がないし、関わりたくない。許都に帰って、妻の墓を守って暮らすのだ。おそらく、おまえともう会うこともなかろうよ。さらばだ、子龍。それと、会わなかったことになっている孔明どの」
「さようなら。ありがとう」
孔明は、そういって作法どおりに拱手して、夕闇に消えていく朱季南のうしろ姿をじっと見つめていた。
その手には、玉の耳環がある。
「ふむ…どこかで見たことのあるような。これがなんだというのだろう。女物のようであるが、だれかの形見なのだろうか」
「とりあえず、邪魔でないのであれば、取っておけばよかろう。もし、いらないのであれば、俺に言え。処分する」
「うむ、ありがとう。ところでな、子龍。その剣、どうだ」
「すばらしい業物だな。どこで手に入れた。これほどのものは、名工とて、そうそう打てまい」
「気に入ったのだな。それならばよい。貴方に貸す」
「よいのか?」
「よいのだ。それは、徐元直の剣だよ。その剣は、敵を多く殺すためじゃない。敵を多く救うためにつかうのだと、いつも言っていた。わたしは駄目だ。ただ持っているだけで、何の役にも立てられない。だから、貴方に使って欲しい。駄目か?」
孔明が、心配そうに趙雲を見る。
趙雲は、断る理由がなかったので、是非に、と返事をした。
すると、孔明はふしぎと安堵したような顔をした。
「なにを安心しているのだ?」
「いや、人はいなくなっても、志は消えないものだと、そう思ったからだよ。貴方が、それを継いでくれてうれしい。ありがとう。志は消えないのだ。それが正しければね」
「誤まった志が残る場合もある」
「だから戦いが絶えない。だが、嘆いている暇はないぞ。そのために、われらは戦うことを選んだのだから。さて、それにはまず、治療をせねばなるまい。薬倉庫にはさまざまな薬があるから、あなたの怪我もすぐに治るであろう。
ただしね、入る前に、すこし約束をしてほしいのだが、そこでなにを見ても、なにを聞いても、いちいち驚いたり、笑ったり、呆れたりしないでほしいのだ。約束できるか? なに、できない? せめて笑わない、というのだけでも約束してくれ。うん、よし。ならば案内する…」
やがて、薬倉庫に入った趙雲は、孔明の言いつけをすべて破ることになり、次の朝まで、孔明に口を利いてもらえなくなった。

                           ※ ※

朝もやのなか、豪族たちがぞろぞろと、義陽のふもとの村を目指していくにあたり、黒装束の崔州平たちだけは、まったく別の道を辿りはじめた。
関羽をはじめ、陳到ら、劉備の部将たちはなにも言わず、彼らに軽く拱手をし、黙って見送った。
孔明と趙雲だけは、道が完全に分かれる直前まで、崔州平について行った。

おそらく、今度こそが今生の別れとなるだろう。

それでも不思議と、孔明の胸には寂寥はなかった。
道はちがってしまっても、志はつねに変わらない。
それが確かめられたのだ。この友は、やはり自分にとって、なくてはならぬ者、誇りであった。
それは、おそらくこれからも変わらないであろう。
「さて、ひとつ安心させておく。このたびの南下に、俺は加わらない。曹公とは、首尾よく壷中を潰せたなら、河北の片田舎に、のどかな所領を頂戴することで話をつけてあるのだ。そこで、妻と子と一緒に、しばらく穏やかに暮らすよ。たぶん、徐庶も、似たようなものだ。お前のことは話しておく。きっと喜ぶだろう」
「よろしく伝えてくれ。しかし、きみは曹操よりだいぶ報酬をもらえるであろうが、徐兄はどうだろう。曹操に逆らったようだし、しばらくは官位も低かろう。もし…困るようなことがあるのならば、わたしの」
と言いかけた孔明を、崔州平は手ぶりで止めた。
「おっと、いつまでも、おまえだけが金持ちというわけではない。孔明、おどろけ。おそらく俺たち三人のなかで、いちばんの小金持ちは、いまや徐庶であるぞ」
「なぜ? 商売でも始めたのか」
と自分で言っておきながら、孔明は、不器用で生真面目な徐庶に、そんな才覚がないことに、すぐに思い当たった。
「わからぬか。徐庶は、大博打に勝ったのさ」
「博打? そんなヤクザな方法で? 州平、なぜ止めなかった?」
孔明の抗議の声に、崔州平は、声を立てて朗らかに笑った。
そこにはもう、過去の翳りを背負う、苦悩する青年の顔は、どこにもなかった。
「止められるわけがないだろう。徐庶は、水鏡先生の莫迦な門下生どもの、『諸葛孔明はいつ劉備のもとから逃げ帰ってくるか』の賭けに、一人勝ちしたのさ。それこそ、ほんとうにひと財産築けたのだぞ。賭けの結果、『諸葛孔明は劉備の軍師でありつづける』これだ。がんばれよ、孔明。敵味方にはなるが、手紙は書く。達者でな」
そうして、崔州平は、四角い顔に、かつて見せたことのないような、一点の曇りもない笑みを見せて言った。
「おい、泣くな。最後に見た顔が、泣き顔だったと徐庶に知れたら、俺が怒られるのだぞ。そうそう、笑っておれ。最後だから言うが、おまえはやっぱり笑っているほうがいい。笑っているからこそ、われらが太陽だ。ではな」
そうして、崔州平は、一気に馬を走らせて、部下を引き連れ、許都の方角へと向かって行った。
その顔も、やはり泣いていた、と思う。
だが、孔明は、崔州平という友を思い出すときには、いちばん最後に見た、あの笑顔を、必ず思い出そうと心に決めた。
踵を返す孔明に、趙雲はただひとこと、
「良い男だったな」
と、言った。

                           ※ ※

義陽の胡家までやってくると、つぎは、偉度、そして嫦娥との別れが待っていた。
偉度は、実家になんぞ帰りたくないと、ぎりぎりまでごねていたが、嫦娥に、養母も父も殺されてしまったこと、家人のほとんども同様で、生きてはいても、ひどい目に合わされてしまった者たちばかり。
幼い弟たちを、どうするのだと説得され、結局、しぶしぶながら、胡家に、養生をかねて帰ることになったのである。

しかし、偉度の様子からして、大人しく義陽に留まっているとは思えなかった。
「別れの言葉を告げねばならぬのに、これほど意味がないように思えるのも珍しいぞ。偉度、なんだかお前とは、まだまだ縁があるような気がする」
孔明が言うと、偉度も相変わらずの憎まれ口を叩いた。
「それはそうでしょう。樊城で、かならずおまえを更正させてやると大口を叩いていたではありませんか。あいにくと、この性分は、ちょっと休んだだけでは治りませんので、あしからず」
要するに、怪我さえなければ、おまえにひっついていたいのだろう、と趙雲が解説してくれたが、そのとおりだと孔明は思った。
なつかれて悪い気はしない。
最初は自分に似ていて嫌だと思っていたが、いまは、この少年は、趙雲に似ている、と孔明は思っている。
崔州平は、おまえはなぜだか、この手合いにやたらと愛される、と言ったが、それで満足だ、と孔明は思った。
やはり孔明もまた、この手合いを愛しているからである。

「偉度が落ち着いたら、劉公子のもとへ参ります。あちらの黄漢升さまの具合も気になりますし」
と、嫦娥は言った。
嫦娥と語るとき、趙雲は気を使ってか、さりげなく(本人はそのつもりらしいが)席をはずす。
このときもそうで、やはり孔明は妻と二人、胡家の庭で、しばし語らうかたちとなった。
「曹操はじきに南下してこよう。そのまえに、わたしとしては、あなたに江東か、あるいは蜀に逃げて欲しいのだ。そのつもりがあるのなら、人と路銀を用意させるが、どうであろう」
「戦になれば、医者が必要とされましょう。よき稼ぎ場ですわ。郎君…いえ、孔明どの。お気遣いはありがたいのですが、わたくしのことはご心配なさらずに。曹操は、才覚のある者を好むと申します。もしわたくしが、あなたにつながりのある者だとばれても、医者とわかれば命は奪いますまい」
「そうかもしれないが…ひとつ、聞いてよいだろうか」
なんです、というふうに、嫦娥はまっすぐ孔明を見た。
嫦娥にじっと見据えられると、ほんとうに孔明は落ち着かない。
嫦娥、月の女神とはよく言ったものである。
満月の夜に一人で夜道を歩いていると、なんだか大きな月に監視されているような心持になる。あれと一緒なのだ。
「わたしときみは、離婚したのかな」
「ちがいますの?」
「わたしに、そのつもりはないよ。第一、きみ、養父上に勘当されたと聞いたよ。帰る事のできる家が、なくなってしまったということではないか」
「そうですわね。でも家に意味があるのでしょうか。屋根が有り、柱があり、そして気心の知れた者と共に住めれば、それがわたくしの家ですわ」
まさか、と怯えつつ、孔明は慎重に尋ねる。
「月英…ではなくて嫦娥、もしかして君、ほかに好いた男がいるのか」
すると、嫦娥は、おそらく袖に忍ばせていたらしい、先の曲がった怪しげな太い針金を取り出した。
「これを鼻の中に突っ込んで、あなたの多すぎるオツムのお味噌を、すこし減らして差し上げてもよろしいのですよ」
「すまぬ。わたしの早とちりであった。ならばいい、ならばいいのだ」
「なにがよいのです」
「思うのだがね、わたしは、やはり天下一の変わり者で、どういうわけか、家庭とかいうものに、とんと関心がない人間なのだよ。ずばり言ってしまえば、女色につよい関心がない。ああ、かといって男色にも関心はないぞ。おそらく、これは生まれ持っての体質に、おおいに影響があると思うが」
「明鳴姉上は、あなたさまは天性の巫子として生まれたと」
「そうなのだろう。だから、わたしはおそらく、これからあたらしい妻を迎えない。そして、あなたもまた、帰る家がない。そこで、条件がぴったりと合うと思わないか。
あなたがどこかで休みたい、帰りたいと思ったなら、わたしのところへ帰ってくるといい。いつでもかまわない。ずっと待っているよ。たぶん、世間じゃ、あわれな夫だと陰口を叩くだろうが、そんなことは知るものか。わたしは、あなたも知っているとおり、天下の変わり者なのだからして」
「本当ですわね」
「だめか」
「結論を急ぎすぎるのは、悪い癖ですわ、直しなさい。ええ、そうですわね。あなたには、たまに厳しいことを言わなくてはならない女人が必要です。これも縁。わたくしがその役目を引き受けて差し上げましょう」
「そうかい」
「ええ。単にそれだけですわ。妻としてではなく」
「それでいいのだよ。わたしも、夫としてではなく、友として君を待つ」
そうして二人は、本当の意味で互いを理解しあい、夫婦というかたちを超えた、共存関係を手に入れたのであった。

実はこの会話は、二人を警護していた陳到と趙雲が一部始終を聞いていたのであるが、趙雲は、孔明らしいと苦笑いしつつも納得し、陳到は、こんな気の毒な夫婦がこの世にあるのか、あんまりだ、といって、孔明と嫦娥の両方に同情し、めそめそ泣いていた。
そして孔明は義陽を発ち、周囲もあきれるほどあっさりと嫦娥と別れ、新野へと向かったのであった。

                       ※      ※

新野に近づくにつれ、孔明も趙雲も、そしてほかの武将たちも、疲れが吹っ飛び、心が浮き立つのが押さえられなかった。
さあ、今日は祝宴だ、主公は帰っておられるだろうか、と喜ぶみなを、やはり笑顔で見渡していた孔明であるが、すぐに、その表情は凍りつくこととなる。

すぐさま趙雲が、孔明の表情に気づき、轡をならべて声をかける。
「どうした」
孔明は、強ばった表情のまま、その白い指先で、まっすぐに前方を指差した。
そこには、青空を真っ二つに割るように、白い狼煙がひとつ、はっきりと上がっていたのである。
それは紛れもない。曹操来襲を告げる、狼煙であった。
その場の誰もが、それまでの無邪気な笑みを消し、ぼう然と、狼煙を見つめた。いよいよ、来るべきものがやってきたのであった。
「曹操が、来る」
「休む間もなし、か」
「千客万来、大いに結構、存分にもてなしてやりましょうぞ、軍師!」
関羽と趙雲はいさましくそう言うと、新野城に向けて、高らかにひづめをひびかせて、馬を走らせた。
そうだな、と孔明はちいさく呟くと、新野城に向けての道を走り出した。
国の半分が、総力を挙げて襲ってくる。
大戦となるであろう。
だが、逃げぬ。戦え。
孔明はおのれに呟くと、まだ見ぬ敵に向かって、挑戦の笑みを浮かべた。

いま、天下が大きく動こうとしている。


エピローグ

樊城にやってきた劉備は、あきらかに土気色の顔色を、役者がつかうような白粉で誤魔化している蔡瑁と対峙することとなった。
劉表に会いたいと言ったのだが、どうしても駄目だという。

樊城は、いままでに見たこともないほどに荒れていた。
床や家具の類いは、もはや根性と気合、という二言でしか形容できないほどに、血糊の痕もぬぐわれ、壊れた器物は掃除され、整然としていたが、柱や壁に残る、刀傷や、痛ましい爪の痕などは消しようがない。
それは、最近、それこそここ数日で作られたものであるのは一目瞭然である。
しかも、火事があったらしく、大工がとんてんかんとがんばっているものの、どう誤魔化そうと、樊城に内紛があったことは隠せない様子である。

「ったく、堂々としてりゃあいいじゃねぇか」
と、張飛が悪態をついたが、劉備もまったく同意見であった。
ここまで来て、こいつらは儒の思想とやらにこだわるわけか。
馥郁たる香の匂いがいつになくきついのは、もしかして血の匂いを消すためじゃないだろうな。
孔明、そして子龍はどうしただろう。
樊城がこんだけ妙に落ち着いているっていうことは、ふたりとも場所を移されたのか?

「蔡瑁どの、お加減が悪い様子だが」
なんとなく白々しく、劉備は尋ねてみる。
すると、やはり白々しく、蔡瑁は、
「年を取ると、あちこちがたがきますので」
と、つまらない返事を寄越した。
「劉州牧は、かなりお悪い様子ですな。せめて、ひと目でも恩人に会わせていただきたいのでございますが」
「しかし州牧は、すっかり休んでおられまして、いつ目が覚めるとも知れませぬ」
「では、目が覚められるまでお待ちいたす」
劉備が言うと、蔡瑁は仰天して、だめだ、と言った。
それを見て、短気な張飛が席を立ったそのとき、奥から、少女のような柔和な顔をもつ、品のよい少年があらわれた。
「おお、これは劉琮さま」
「父は、母が診ておりますゆえ、問題はございませぬ。ただ、医者に、絶対に興奮させてはならぬと止められておりますゆえ、劉予州におかれましては、今回はお引取り下さい」
この餓鬼は、こんなに口の回る堂々とした餓鬼であったかな、と劉備はいささかうろたえつつ、あらわれた劉琮に礼を取り、尋ねる。
劉琮は、華麗に礼を返して、なにやらどきりとするような、嫣然とした笑みを浮かべた。

父親より、母親似だな、と劉備は思った。
いや、それよりも、蔡瑁に似ている。劉表にはちっとも似ていない。
ちらりと脇の蔡瑁を見ると、なにに遠慮をしているのか、うつむき加減で顔がますます冴えない。
こりゃあ、陳到のあつめた情報、どんぴしゃり、というところだな、と劉備は胸が悪くなりつつも思った。
そういったどろどろした話は、劉備は大嫌いなのだ。
しかしそれは隠して、あくまで殊勝に食い下がる。

「たったひと目でよいのです」
だが、劉琮は首を振る。
「父上は、劉予州とお会いになられると、喜ばれていつもハメをお外しになる。ですので、やはりお取次ぎするわけにはまいりませぬ。兄上も、このたび父を養生させるためといって、みずから夏口に退かれたのですよ。それはご存知でしょう」
言外に、お前にはこの城に、もう用事はないのだと言っているも同然であった。
さすがの劉備もこれにはカッと腹を立てたが、相手は十五にも満たない少年である。そして、あどけない顔をしているが、とんでもないくわせものだ。

仕方がない、いったん引くか。

そうして辞去しようとする劉備に、ふと、劉琮が追いかけてきて、言った。
「お尋ねしたいのですが」
と、劉琮は、その小さな柔らかそうな手のひらに、玉でできた耳輪を取り出して、劉備に見せた。
「じつは、わたくしの家人が、この耳輪の片割れを、新野で使いをしたときに無くしまして、そちらで、落し物として、どなたか拾ったという話はご存知ございませぬか」
「いいや…悪いが、そういった細かい話は、孔明か子仲さんに聞かないと」
劉備が答えると、ほんの一瞬だけ、劉琮の表情に、劉備が怖気をおぼえるほど、不気味な暗いものが走った。
だが、それは電光のように一瞬のもので、劉琮は、すぐに貴公子の顔を取り戻すと、お手間を取らせました、といって戻って行った。
なんでぇ、あれは、と張飛は呆れたが、劉備は、なにか得体の知れない不吉な予感を覚えずにはいられなかった。

そうして、新野へ帰る道中にて、劉備は、孔明たちが無事、関羽と合流し、新野へ戻ったこと、そして最悪なことに、曹操の南下が始まったこと、さらに、自分たちが樊城へ行ったそのときには、すでに劉表が死んでいたことを知ることとなった。

かくて歴史はまたひとつ、大きく歩を進めていくのであるが、それはまたの機会に語られることであろう。

劇終

一年の長きにわたり、連載させていただきましたが、最終回を無事迎えることができました。
これも応援してくださったみなさまのお陰です。本当にどうもありがとうございました。
どうぞ次回作にもご期待くださいませm(__)m はさみの。

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