孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

目の前にいる女を見間違える、などということは有り得ない。
孔明は素早く頭を働かせたものの、どうしても、現状を掴まねばと焦る気持ちが先に立ち、そこにうまく黄月英の存在を当てはめることができなかった。
劉備の軍師になると決めたとたんに、だまって隆中の家から去ってしまった妻女。うろたえる孔明に、まるで慈母のようにやさしく微笑んで、月英は言った。
「月英という名前は、もう止めましたの」
「止めた?」

月英は、底の高い靴を履けば、ほとんど孔明にならぶほどの高さになる。年も孔明より上で、孔明としては、月英というのは、姉の明鳴の代わりにやってきた、しっかり者、誤りのない者、おのれを支配し、管理する者、というふうに見ていた。
彼女を尊敬はしているが、それは女人にたいするやさしい情愛とはまたちがったものである。
目の前にいるだけで、孔明は落ち着かなくなる。
姉の前にいるのと同じくらい、緊張してしまうのだ。もちろん、怒鳴ったり、小馬鹿にしたり、物を投げたりはしてこない。そんな粗野な真似をする女性ではない。
しかし、孔明が知る限り、彼女以上に知識と経験のある人間はいない。
彼女に対してだけは、どうあろうと対抗できず、ただ赤子のように、はいはいと、言うことを聞くしか、なくなってしまうのである。

「止めたとは、なぜ」
「父の名づけた名だからですわ。いまの名は嫦娥と」
「嫦娥。月の女神の名だね」
「郎君の『孔明』に対応させてみましたの。もちろん、だからなんだというわけではないのですけれど」
「うん、でもよいのではないかな」
「わたくしも気に入っております。さて、それは牛殺しの毒です。食糧にするための牛を、穏やかに殺すための薬。その肉を食べても、人にはなんの害もないという優れものですわ。ただし、毒自体を舐めたら死にますわよ」
孔明は、あわてて手にしていた毒いり瓶を元に戻した。
「月英…いや、嫦娥、ここは、きみの薬倉庫なのか?」
ええ、と、ここが君の席かと問われたくらいの軽さで嫦娥は答えると、傷の痛みに耐える偉度のもとへと向かい、床に仰向けにすると、腹の傷の具合をたしかめた。
「あなたにしては、よい処置ができましたこと。腕を上げましたわね。誉めて差し上げますわ」
「ありがとう。うん、君に言われるならば、鼻が高いよ」
まるで小僧に戻ったようだな、と自分に呆れつつ、孔明は答えた。
嫦娥は、棚から、応急処置用にとって置かれた清潔な布や、塗り薬などを取り出し、あざやかな手並みで、偉度の傷を手当てしていく。

そのとき、倉庫の外でただらなぬ声が起こった。
それも一つや二つではない。
あわてて孔明が窓から外をのぞくと、またもや、思いもかけない人物が大暴れをしているではないか。
関羽である。陳到である。ほかにも見知った部将、兵卒たちが、壷中の兵卒を相手に大暴れをしている。
そして、村の四方にある櫓を中心に、崔州平の黒づくめの兵士たちが、歩哨たちとはげしく小競り合いをし、櫓を制圧した兵士が、かんかん、と鐘を勝ち誇ったように鳴らし、そうしいて、村の外に向けて、長弓を射掛けている。
外に向けて攻撃している。
その行動の意味は、たったひとつ。
播天流があらわれたのだ。

もはや、薬を盛って村を制圧、などという悠長な作戦は取っていられない。
関羽に、そして陳到に、自分が無事なことを知らせなければと外へ飛び出そうとした孔明であるが、背後の月英の存在に気づき、足を止めた。
「月英…いや嫦娥。ここは、きみの薬倉庫であったのか?」
孔明の問いに、嫦娥は悲しそうに瞑目したまま、答えない。
答えないことこそが、彼女の答えであった。
なんということか。
怒りと悲しみが、雪崩れのように足元を揺さぶっていく。

そもそも、『壷中』の名を自分に教えてくれたのは、だれだ? 
糜竺と、そして舅の黄承元ではないか。その娘、そして自分の妻である月英も、なんらかの関わりがあると考えてもよかった。
だが、まさか、と思っていたのだ。
いや、考えたくなかった。
たしかに、結婚生活は、けして人並みの幸福を得られるものではなかった。
しかし、それでも数年にわたり毎日ひとつ屋根のしたに暮らし、ときには苦しみも分かち合い、共に笑いもした相手である。
孔明は、残念ながら、嫦娥をけっして女人としてはみることはできなかった。彼女があまりに賢女でありすぎたから、妻として従わせるどころか、人として対等に並び立つこともむずかしいほどに、彼女が優れていたから、妻としてみることができなかった。
だが、よき友だと見なしていた。彼女の知識は尽きることなく、まるでそれこそ世のすべてを静かに照らす月のように、なんでも知っていた。いま、孔明のもつ知識の大半は、彼女に拠るところが大きいのだ。
夫婦という容に抑えられてしまえば、これほど息苦しい相手はいなかった。
だからこそ、解放された新野では、どれだけのびのびできたかしれない。
それでも、憎んではない。畏れてもいない。やはり彼女は特別なのである。
黄家の醜女…そう呼ばれたのは、背の高さゆえではない。
彼女は、たいていの男にとって、あまりに賢すぎる、すべてを見抜いてしまう、意志が強すぎる、『都合の悪い』女であった。だからこそ、敬遠されたのだ。
彼女を前にすると、眠れる龍と呼ばれながらも、おのれの狭量を見せ付けられるのがつらかった。
あまりに子供じみていたと思う。

「君は、君も壷中だったのか」
「手紙、読みまして?」
と、器用に偉度の包帯を巻きながら、孔明に目を向けず、嫦娥は言う。
孔明はその真珠のように白い手を、まるで魔法をつむぐ指のようだと感心して見ながら、答えた。
「義父上のもののことか」
「『忘れるな、旧讐は壷中にあり』。あれは、わたしが、偽手紙の男についでに書かせたものですの。元直さまの手紙を書いた、あの男です。張飛殿が捕らえたのですって」
「あれは、君がわたしに壷中のことを知らせるために? 義父上はどうされている?」
「生きておりますわ。信頼のできる者に、山中に隠させております。本人は、監禁だといって、怒ってらっしゃいましたけど、孝行とは、つねに親に理解してもらえるものではないようですわね」
そういって、嫦娥は笑った。
その孤独すら乗り越えた、覚悟に満ちた力強い笑みに、かえって孔明は胸が締め付けられた。

彼女の婚礼はひどいものであった。
あるとき、黄承元がやってきて、うちに娘がいて、とても賢いから、あんたにぴったりだ、と言う。
孔明は冗談だと思って、それならばいただきましょうと言った。
礼を考えれば、そんなことで大事な婚儀が決まろうはずがない。
しかし、その日のうちに、まるで花嫁を積んでいるとは思えない、ごくごく普通の馬車がやってきて、これからわたくしがあなたの妻になります、といって月英を運んできた。
孔明はまだ世間知らずの青年だったから、これを呆れ、怒った。しかし、権勢家であり、蔡瑁ともつながりのある黄家に気を遣って追い返すことはできなかった。そのときは、侮辱されたのは自分だと思ったものだが、今思えば、そんな屈辱的な婚儀しか父親に用意してもらえなかった、この女性の胸のうちはどんなものであっただろう。

「元気ならば、よいよ」
孔明が言うと、嫦娥は、悲しそうにちいさく首を振った。
「正直におっしゃってくださっても構いません。わが父は、あなたさまの叔父の仇にあたる人間。あなたさまがそうしろとおっしゃるのであれば、父には、二度と日を拝ませませぬ」

壷中は、諸葛家の長子である孔明を、仲間に組み入れようと狙っていた。
大切な跡取り息子を奪われてはならないと、叔父の玄は、偽の手紙をでっちあげ、中原や江東にそれぞれ非難した諸葛家に、壷中の存在をばらすと脅した。
もちろん、手紙はもとから存在していなかったわけだが、お陰で孔明は守られた。
だが、手紙がある、と信じていた壷中は、孔明を放っておくことができなかったのである。
だから、何度も劉表の手元で、壷中としてではなく、家臣として遇しようともしたが、これはばあやの機転で免れていた。
そこで、彼らは、もっと身近に見張りを置くことにしたのだ。
壷中の女を、孔明の妻にあてがうことで。

「新野の人間だって、そんな言葉はつかわないよ、嫦娥。父上は、大切にしたまえ」
「おやさしいのね。代わりに、わたくしを殺しても構いませぬ」
「きみには…なにも、ないよ」
残酷な言葉を言っているな、とわかっていたが、嘘をつくことはできなかった。彼女は尊敬している者。敵でも味方でもなく、彼女は、孔明の学問のよき指針であり、相談者。
「それに、君が死んでしまったら、困る者がたくさんいるのではないかい。きみの医術は、たくさんの人に必要とされている。わたしは軍師として人を殺す命令をし、君は医者として人を助ける。相談してそうなったというわけではないが、よく出来ているとは思うよ」
孔明が思わず笑みをこぼすと、偉度の手当てを終わった嫦娥もまた、穏やかな笑みを浮かべた。
「実は、もう二度とお目にかからないつもりで、あの隆中の家を出ました。たとえ縁あって妻となったとはいえ、わたくしはやはり、壷中の女。父の命令で、郎君を見張るため、諸葛家に入り込んだ、いわば細作でございます。正体の知れた細作は、もはや用は立たない。ですから、お別れを言いに参りましたの」
「別れ?」
嫦娥はすっくと立つと、ほぼ孔明とならぶ双眸を、つよくして、言う。
「郎君、最後のお願いでございます。ほかならぬ、貴方様の手で、壷中を潰してくださいまし」
「わたしが」
嫦娥は、大きくうなずいた。
「わたしには、どうしても兄弟姉妹を殺すことはできない。どんなに怨みがあろうと、やはりわたしは医者だから、人を殺すことができないのです。たとえ正義のためとはいえ、人を殺してしまったなら、明日から、わたしはどうして生きて行けばよいのでしょう。
ひどい我侭を口にしていることはわかっております。でも、わたしには、どうしてもできない。崔州平も、糜子仲殿も、やはり似たような理由で、壷中を潰すことが出来ないのです。
わたしたちは、あまりに多くの年月を壷中に奪われてしまった。過去を人質に取られているようなものなのです。わたしたちだけではない、ここにいる、花安英も、程子聞も、風狗も、蔡瑁も、蔡夫人、斐仁…播天流もそのあわれな一人。
壷中という組織は、多くの人の命を喰らい続け、いつしか、巨大な化け物のようになってしまった。人を助けるためでも、欲望を満たすためだけでもない。ただ、人の命をひたすらに消費するだけの、奈落の穴なのです。
これを潰すには、壷中の人間にはできない。多くの手から守られ、いままで壷中から逃げ切っていた、貴方様にならばできるはず。どうか、わたくしたちのこの苦しみを断ち切ってくださいまし。過去から解放して!」
「過去から」
ふと脳裏に、樊城で、刺客に襲われた諸葛玄の姿が浮かんだ。
さりげなく近づいてきた男の白刃が、腹に容赦なく深々と突き刺さる。
怯える孔明に、諸葛玄が、安心させようというように、笑った。
大丈夫だ、と。

戦って、きっと勝て。すべての絶望を断ち切るのだ。

声なき声が、いまこそはっきりと、時を越えて聞こえてきたような気がした。
ぎゅっと、傍らに持っていた徐庶の剣を掴む。

亡き叔父君の遺志を受け継ぎ、そしておれの志もついでくれるなら、きっとおまえが、この国のあたらしい主公の軍師として、おれのいる中原にまでやってきてくれることを夢見ている。
おまえの語る天下は、だれの語る天下よりも美しく、力強いものであった。おれはおまえが与えてくれた夢を見て、眠り続けていることにしよう。
かならず起こしに来い…

ああ、そうだ。必ず行くと、決めたのではなかったか。
すべての過去を振り切り、いまこそ、君の待つところへと足を向けよう。

「趙子龍さまは、播天流とともに村の外におります」
子龍。
その名を聞き、孔明は、はっきりと現実に戻ってきた。
「なんと? さすれば、火矢など射掛けたら、子龍まで燃えてしまおうぞ!」
「急ぎ、関将軍と陳将軍と合流し、崔州平との仲立ちをしてくださいませ。そして、みなで力をあわせて壷中を潰すのでございます!」
「わかった」
つよくうなずく孔明に、嫦娥は、その肩を、しっかりと両手で掴んで言う。
「よろしいですか、郎君。貴方様は、もはやわたくしでもない、崔州平でもない、徐元直でもない。まして、叔父上でもない。新野の方々を、劉玄徳と、趙子龍を運命の輩(ともがら)として選ばれたのです。もう過去を振り返ってはなりませぬ! ただひたすら、前を見て、わたくしのことは忘れておしまいになって! よろしいですね? 司馬先生が希望をこめてそう名づけたように、まことの龍になりなされ。そうすれば」
孔明は、もはや何も言わず、目の前の妻を、万感の思いで抱きしめた。
このひとは、こんなに華奢であっただろうかと、悲しく思いながら。
「そうすれば、わたくしも、救われます」
わたしは君の涙をいままで知らなかったな、と孔明は、口には出さず、その肩に落ちる涙の気配を感じて思った。
「この『弟』はわたくしにお任せを、さあ、早くお行きになって!」
嫦娥は、孔明の肩をつよく押して、薬倉庫の外へと押し出す。
播天流の船で、趙雲に突き飛ばされたことが、どうしても思い浮かんだ。
あの莫迦な、責任感のつよすぎる男を助けに行かなければ。
孔明は、徐庶の剣をしっかりと掴むと、あちこちで修羅の起こっている村を駆け、大音声で、仲間たちの名前を呼んだ。
その声は、風雲を割る雷のような勢いで、あたりに響き渡った。
「関羽! 陳到! わたしだ! 諸葛孔明だ! わたしはここにいる!」

                      ※ ※

最初に、孔明の姿に気づいたのは、やはり、いかなるときでも冷静さを失わない陳到であった。
関羽はというと、その名望が高すぎるあまり、有象無象がその首を狙って押し寄せてくるため、とてもではないが、黒装束に身を固めた孔明の姿を見分けることができなかったのである。
目の前にいる男を鮮やかな手並みで切り伏せると、陳到は、ほとんど返り血の浴びていない姿で、近寄ってきた。
もちろん、切り伏せた数は関羽に勝るとも劣らないのであるが、その技量が凄まじいために、返り血を浴びるよりもすばやく動くことができるのである。

「軍師! おお、ご無事でございましたか! よろしゅうございました、主公もきっと喜ばれましょう! 詳しく話すことはできないのですが、いま、主公は張飛さまと樊城へ向かっており、我らだけが、軍師たちをお助けするために此方へ参った次第でございます。して、子龍様は、いずれに?」
「叔至、こちらも詳しく話している暇がない。実はわたしは、一度は劉表の虜になったのであるが、劉表は死に、壷中という樊城の刺客集団の長、播天流に捕らわれた。船で義陽へ連れて行かれるところを、子龍によって逃されたのだ」
「なんと? では、子龍様はどちらに?」
孔明は答えず、崔州平と部下たちが、しきりに火矢を射掛けている村の外へと目をやった。
もちろん、黙っている播天流ではなく、櫓の上にいる崔州平の部下に、応酬せよとばかりに矢を射返している。
地形的には、村のほうが高所にあたるため、此方が有利にはちがいないのであるが、まずいことに、数が不足している。

村の内部では、劉備軍と崔州平が連合しておらず、めいめいで行動しているために防御が系統だっておらず、敵か味方か混乱している状態。
それに対し、不利な場所にいるとはいえ、播天流の側は数も多く、一時の混乱さえ収まってしまえば、あとは見事な調練の結果を見せて、つぎつぎと反撃を繰り出してくるのだ。
崔州平の火矢は効き目があるようであったが、しかし人数は播天流側のほうが多い。そのため、せっかく点った火も、すぐに消されてしまっている。

「このままでは、こちらが制圧されてしまう。陳到、そなた、弓が得意であったな」
「は、それなりには」
「よし、あの櫓にいる、黒装束の男に弓を射かけよ。ただし、決して当ててはならぬ!」
承知、といいざま、陳到は余計なことはなにひとつ言わず、担いでいた弓をきりりと引いて、櫓の上の黒装束の男の目の前を、ぎりぎり掠めるように、ひゅん、と矢を飛ばした。
とたん、男はすばやく矢をのけぞってかわし、そして、それが村の内側から飛んできたものとしれると、頭を返して、村を睥睨する。
そうして、弓を番えた不届き者を見つけると、はげしく怒鳴った。
「孔明! おまえ、なんのつもりだ!」
「州平、すまぬ、話を聞いてくれ。みなに、弓を収めるように命じてほしい! このままだと、我らは逆に播天流に包囲され、全滅するぞ!」
「莫迦な! おまえ、あそこにいる己の主騎を助けたいがために、俺をたばかっているのではあるまいな!」
櫓から怒鳴る崔州平に、孔明もあらん限りの声で怒鳴り返した。
このあたりの応酬は、襄陽時代、まったく変わらないところである。
「莫迦はおまえだ! 村をじっくり見ろ。そして、播天流のほうもだ! やつらは確実に前進をしている。それにくらべて、こちらはどうだ! 敵も味方もわからず相打ちをしている者すらおる! 一時だけでよい。わたしに時間をくれ!」
「なんだと?」

怪訝そうにする崔州平に、孔明は、外側からの矢が飛び交うなか、いまだ村の中での小競り合いがつづくのを尻目に、みずから輜重の天辺に上った。
「軍師! 的にされてしまいます!」
陳到があわてて止めようとするのであるが、孔明は構わず、みずから輜重の上に立ち、そしてさらに目立つように大きく手を広げると、村の内外に響くように叫んだ。
「みな、鎮まれ! 我が名は諸葛孔明! 新野を守りし劉予州の軍師である!」
村の外から射掛けられた矢が、孔明の頬をかすめ、軽い傷を作って、過ぎ去っていった。山風がそれをさらになぶる。
そうして、ふたたび大量の矢が、村の外から雨のように飛んでくる。これは避けられない。
孔明はひやりとしたものの、孔明の身に突き刺さる前に、矢は、あらわれた関羽の槍がすべてを打ち折って、地面のぼとぼとと落ちて行った。
そうして、関羽が、にやりと、珍しく悪戯小僧のように笑う。
「軍師、無事でなによりだ。さて、貴殿のお得の舌を、存分に揮われよ」
「ありがとう」
孔明はいい、ふたたび周囲を睥睨する。
「みな、鎮まるのだ! 無益な戦いは止めよ! そして共に、真の敵と戦おうではないか!」
真の敵、というあまりに曖昧な表現に、かえって鍔迫り合いをしていた兵士たちは、孔明のほうを胡散臭そうに見上げ、その手を止める。

突然の修羅に、村のあちこちに隠れていた豪族のうち、孔明のことを知っている者がいて、戦が小休止に入ったのをみて、そおっと姿をあらわした。
「確かに、貴殿は諸葛孔明殿とお見受けした。此度のこの襲撃は、貴殿の命令によるものか。なぜだ。新野の劉予州からすれば、曹操は不倶戴天の敵。われらは曹操から逃げてきたというのに、なぜに貴殿が我らを襲う?」
「わたくしたちは、貴方たちを襲いに来たのではない。この村を占拠する、『壷中』を征伐に参ったのでございます。この村にいらしたということは、貴方様は『壷中』の名をご存知のはず」
孔明の言葉に、豪族は言葉を濁しつつ、うむ、と曖昧に返事をする。
「この場に集う、ありとあらゆる者よ、聞くがよい。劉州牧は死んだ! いまごろは、許都にいる曹操に、この報告は入っているであろう。曹操がやってくる。それはまちがいのない事実だ」
劉表が死んだ。
その話に、あちこちから悲痛な声が挙がる。
「貴殿らは、そも、曹操より逃れるために、壷中の長、播天流に指示され、ここに集ってきたはず。それは、ここに隠れて曹操をやり過ごせば、その財貨は守られると、そういう説明ではなかったか? 如何か? 
だが、よく村を見るがよい。この村に、貴殿らを守るなにがある? わずかな兵士にわずかな土地。飲み水も食糧も事欠くありさま。麓で私兵は解雇させられた。おかしいとは思われぬか? これが人を守る体制なのか?」
「しかし、播天流は、われらを長年守り続けてくれた者ぞ。いまさら、裏切ろうはずがない!」
ほかの豪族が、孔明の言葉に抗議の声をあげる。
すると、その隣にいた関羽が、重々しく、どすん、どすんと響くように言った。
「その台詞、われらが新野城に眠る、『壷中』をつくるために犠牲となった、難民の骸に対しても言えるのか! そなたたちは知っているはずであるぞ、『壷中』は、自分たちを守るための組織であるのと同様に、難民たちから財貨を奪い、殺してしまうための口実でもあった! きさまらの穢れた手には、われらも、もう飽き飽きしておるのだ!」
と、関羽はどん、と矛の柄を、地面に叩きつける。

孔明は、関羽の話に、あらためて深い闇を覚え、眩暈がした。
子どもたちは攫われた。大人たちはどこへ行ったのか。
想像はしていたが、やはり大人は財産を奪われ、殺されていた。
しかもその骸が、自分たちが寝起きしていた新野城に眠っていた。
斐仁が守っていたものが、それであったのか。他勢力に、侵攻のよい口実をあたえてしまう、いまわしい事実。
だからこそ、劉表は、斐仁に沈黙を守らせられていた…

「まだ信じぬか。まだ仕方がなかったと言い切るか。ならば、もっと教えてやろう! そなたたちの仲間である、胡家の主は死んだぞ。ほかならぬ、壷中の者によってだ!」
関羽の声に、孔明は思わず薬倉庫にいるはずの、偉度を思った。
関係ないと言い切っていたが、本当に、心の底からそう思っているはずがない。母を、そしてついで父を亡くしたというのか。
孔明は一息つくと、心の中で精一杯、偉度にあやまりながら、みなに告げた。
「胡家の長子は、わたしが保護しておる。これで、我らが貴殿らの敵ではないということが、明らかになると思う。
われらの敵は、播天流なり! そして、村に残る壷中の子供たちよ! 樊城は落ち、風狗は死んだ! おまえたちはどこへ行く? このまま、播天流と共に、死路へ向かうか? なんのために? 
おまえたちの犠牲が、荊州を守るためというのは嘘だ! 播天流は、おまえたちを故郷から遠く離れた場所へ連れて行こうとしている。己の子供じみた夢を果たすため、おまえたちは使い捨てにされるのだ。それでもよいのか? なんのために戦うのだ? おまえたちを探して、壷中に近づきすぎた者は、みな始末され、財産は奪われた。名誉も功もなく、おまえたちは闇から闇へ葬られるだけの存在になってしまうのだぞ、それでもよいのか!」

もはや、村の中の壷中の兵士たちは、ひとことも発さず、じっと孔明を見上げている。
孔明も、かれらの視線をすべて受け止めていた。
村の外にいるであろう子供たち、そしてとらわれている子龍に向けて、言葉をつづけた。
「わたしは、おまえたちを助けるためにやってきた。わたしの叔父はかつて、壷中が、難民の子を助けるための組織になるであろうと、夢を託して、それをつくることに力を貸した。
ところが、欲と狂気に取り付かれた者たちが、理想を踏みにじり、壷中をおそろしい殺人集団に変貌させてしまったのだ。叔父は、子供たちを、おまえたちを助けるために一人で動き回り、そして暗殺された。
わたしは、叔父の遺志を継ぎ、おまえたちを助けるためにやってきたのだ。壷中での罪は問わぬ。武器を捨てよ。故郷へ帰るのだ! 耳心地のよい言葉だけに惑わされてはならぬ! 己の中にある疑問と真っ正直に向き合え! 
苦しいならば、苦しいと言ってよい! 悲しければ、悲しいでよいではないか。たった一人の男の野望のために、心すら縛られて、おまえたちは死んでいくというのか!  戦え! この世に絶望などというものは存在しない! 息苦しければ暴れよ! 己の境涯に不満があれば戦え! 己の心に巣食う、すべての絶望を断ち切るのだ!」
しわぶきひとつしないなか、孔明の声は、山間を雷鳴のように駆け抜けた。
それに答えるのは、轟々たる山風のみであった。

                      ※          ※

召春は健気に、懸命に男たちの手から逃れようとしていた。
それでも、まだ九つの娘である。
小さな四肢をバタバタと暴れさせ、ときにはツメを立て、噛み付こうとするのであるが、二人はむしろ、それを楽しんでいるかのような素振りで持って、召春を追いつめていく。
「止めろ、この外道めが!」
「怒鳴るだけ怒鳴っとけよ、将軍。見ているだけじゃ、つまらないだろうけれど」
と大きな鼻をもつ巨漢のほうが、にたにたと笑いながら言った。
この世には、情緒というものをまるで理解せず、正義とか、倫理とか、そういったものの本質すら理解できずに、生きてしまえる人種が確かにいる。
趙雲は、懸命に壁際に這いずり、そうして、後ろ手にされている手枷を、壁に何度も打ちつけた。
衝撃で、手枷が外れることを期待したのである。

「おまえたち!」
趙雲は、少年たちに呼びかけるのであるが、少年たちは、すっかり怯えて、動けないでいる。
召春の、悲痛な声だけが馬車にえんえんと響いている。
少年たちは、大人たち、『上の子』に逆らったら、どれほどひどい折檻を受けるか、知っているから、恐ろしくて身動きが取れないのだ。
くそっ、と悪態をつき、趙雲は、あらん限りの力で枷を壁に打ち付けた。
召春の、必死に助けを求める声が聞こえる。宙を暴れるその小さな手足は、まるで溺れているようであった。とても正視に耐えられない。

あきらめるな、あきらめるな。ここで絶対にあきらめてはいけない。
ここにはいない播天流の、邪悪な哄笑が目に浮かぶ。
ああ、たしかにお前は、俺のことをよく知っているとも。自分が切り刻まれるよりも、他のものが傷つくところを見なければならないほうが、俺にとっては最悪の責め苦なのだ。
だからといって、こんな小さな娘を、なんの咎もない、ただそこにいたというだけの娘に、こんなひどい仕打ちを出来るのは何故なのだ? 

「ああ、うるさいな!」
と、暴れる召春の手を押さえようとしていた背の高い男が、ゆらりと趙雲の前に立った。
趙雲は、あらん限りの憎悪でもって、青年を睨み上げた。
もし、目線で人を殺すことができたなら、青年はおそらく死んでいたであろう。
「なんだよ、いやな目をするやつだな」
うろたえつつ、青年は、無造作に拳を振り上げると、趙雲の横面を殴り倒した。趙雲はそのまま、どおっと横に倒れ、前進を床に叩きつけられた。
身動きが取れなくなった。
「子龍様!」
召春の声が聞こえた。
それは、最後の頼みの綱が断たれたことを知った少女の、絶望の声であった。
意識が遠のいていく。
冗談じゃない。ここで、みすみす播天流の思惑通り、俺はだれも救えず、一生を後悔にまみれて生きることになるのか。

泣き叫ぶ召春を押さえつけ、いよいよ事に及ぼうとする青年のうち、鼻の大きなほうが、猪のように鼻をひくつかせ、眉をしかめる。
「なんだか、きな臭いにおいがしないか?」
「火事みたいだな。なぜだろう。村の中から…火矢?」
だん、だん、と続けざまに力強い音がして、馬車の窓から、隣の馬車に矢が突き刺さったのが見えた。
わあわあと、兵卒たちが慌しく動き出したのがわかる。
「おい、なんだか変だ。敵じゃないのか?」
「なぜだ? 味方だけのはずだろう?」
そうして、背の高いほうが、窓から外を見ると、次から次へと、村の櫓から、火矢が飛ばされており、それからあちこちに火事になっているのが見えた。
「たいへんだ! 裏切りらしい!」
「それじゃあ、俺たちはどうすればいいんだ? こいつは? 播天流さまの命令は?」
「しょうがない、さっさとこちらを片づけてしまって、それからみなに合流しよう」
そうして、床の上に召春を貼り付けるのであるが、大きな鼻のほうが、大事なことに気がついた。
「そうだ、あいつが気絶していたんじゃ、意味がないんだった。一部始終を全部見せてやれ、って、播天流さまは言っていなかったっけ?」
そうだった、と合点して、背の高いほうが、床に伏したまま、ぴくりとも動かない趙雲に寄って行く。

どくんどくんと、鼓動が耳の側で聞こえてくる。
鼓膜が破裂したのだろうか。それとも、臓腑が破れて、もはや、痛みすらなくなってしまったのか。
ここで寿命は費えるのか。
だとしたら、次兄の言葉はまったく当たらなかったことになる。

…おまえの道は、恐怖と、危険に満ちた道だ。報われることも少なく、涙を噛み殺して、前に進むような苦難の連続となるだろう。
だが、この道の行く手は、まばゆい光に包まれている。おまえのすべての労苦は、この光によって救われるだろう…

嘘つきめ。気が遠くなってきた。
どこか遠くから、懐かしい声が聞こえてきた。
涙が出るほど、なつかしい声だ。

「戦え! この世に絶望などというものは存在しない! 息苦しければ暴れよ! 己の境涯に不満があれば戦え! 己の心に巣食う、すべての絶望を断ち切るのだ!」

これは、おまえの命令か。
ならば。

「うん? 生きているみたいだぞ」
ぼやけた視界の目の前に、男のつま先が見えた。趙雲は、手をわずかに動かして見せた。そして、だれにも気づかれないよう、うっすらと笑みを浮かべた。
次兄よ、嘘つきと言ったのは撤回する。
「ほら、ちゃんと顔を上げていろよ」
と、趙雲の前髪を掴み上げ、乱暴に上を向かせる。毎日のように殴られていた顔は腫れあがり、変色していたが、そこに浮かぶ表情は、まぎれもなく笑みであった。
「なんだい、この野郎、気味の悪い」
そういいつつ、青年は、前髪を掴んだまま、趙雲がしっかりと蛮行を見届けられるように、壁にもたれさせる。
趙雲は笑みを浮かべたまま、しばらく大人しくされるがままになっていたが、やがて上半身がしっかり起き上がると、青年に言った。
「わざわざありがとうよ」
「うん?」
趙雲は、倒れた衝撃で、すっかり割れていた手枷をぱっと振りほどくと、体をぐるぐるに巻いていた鎖を一気にほどいた。
そうして、あわてる男に重い鎖を投げつけると、ちょうど目の前にある、青年の腰から剣を奪い取り、すぐさま袈裟懸けに青年を切り伏せた。
鼻の大きいほうは、召春を押さえつけていたが、相棒が切り伏せられたのを見ると、あわてて馬車の入り口へと這い出そうとする。
だが、趙雲はそれを逃さず、背後から羽交い絞めにすると、その野太い首を、腕の中に絡め取った。
鼻の大きい男は、不様にも趙雲に首を絞められたまま、がたがたと震えだした。
「た、助けて。俺は、ただ、命令をされただけなのだ」
「そうか、命令か」
おそろしく静かな声音で、趙雲は言う。
それに気をよくしたか、鼻の大きな男は懸命に言う。
「そうだよ、命令だよ。でなければ、こんなことをするものか! そうだよ、本当は、こんなことしたくなかったのだ」
「でも、しようとしただろう。九つの少女を、陵辱し、生涯消えない傷を負わせようとした」
「そうしなければ、俺たちが殺される!」
「そうだな、おまえたちが死んでいたかもしれない」
と、趙雲は、震える男の肩を、宥めるように、何度か叩いた。
「将は兵卒を選ぶ、兵卒は将を選ぶ。これは義務だ」
「そ、そうとも」
「だが、おまえはそれを怠った。死に値する。死ね」
ごき、と鈍い音と共に、男の首は折れ、そのまま馬車の上には、首がひしゃげた巨漢の遺体と、何が起こったのか判らぬままに切り伏せられた男の、二つの死体が並ぶこととなった。

おまえは人殺しが巧すぎる。
ああ、そうだろうとも、と趙雲は、播天流の声に応じる。
だが、その技術が、人を救うのであれば、俺はこれからだって、何人だろうと殺すだろう。俺はたった一人に理解されれば、それでよいのだ。あれがみなに光明をもたらす太陽であるならば、俺は闇に浮かび続ける月となろうではないか。

「無事か。怪我はないか」
趙雲が、がたがたと震える召春の、乱れた衣を直してやると、召春は、ようやく危機を逃れたことを察したのか、趙雲の首に縋りつき、はげしく泣き出した。
腕の中にある、少女のぬくもりに、趙雲はほっとして、さらにつよく抱きしめる。
もう一方では、少年たちが、安堵のためか、それともなにも為すことのできなかった不甲斐なさを、少年なりに悔しがっているのか、互いに身をよせ、すすり泣いている。
だが、趙雲は少年たちを軽蔑するつもりはなかった。
壷中での暮らしは、どこか、かつての白馬義従を思い出させた。勇のない者はとことんまで惨めな暮らしを強いられた。逆に、趙雲のように目立ちすぎるものは、残酷だといって敬遠された。なにを努力しても、人として認められない場所であった。

表が、恐ろしいくらいに静かだ。さきほどまで満ち溢れていた敵意、殺意の類いが、うそのように消えてしまっている。
この空気は知っている。
戦が終わったあとの、なんともやるせない、虚しい空気。
孔明のさきほどの声からして、どうやら事態は動いたらしい。
まったく、凄まじいやつだ。
「さあ、おまえたち、行こう」
どこへ、という眼差しで、少年たちは趙雲を見上げる。
趙雲は、しゃくりあげる召春を胸に抱いたまま、床に転がる男たちからそれぞれ武器を奪い、怖じて足を動かそうとしない少年たちに言った。
「俺は強制はしない。おまえたちが、ここのほうが安全だというのならば、ここに残るがいい」
「子龍様は、どこへ行かれるのですか」
「帰るのさ」
そう言って、趙雲は、馬車の扉を開いた。
すると、少年たちは、あわてて趙雲のうしろに駆け寄ってくる。

馬車の扉を開くと、そこには、あちこちで黒煙があがっている。
播天流の馬車の列は乱れ、しかしそこかしこに、孔明の言葉にうろたえて、いまや行動を決めかねている子供たちと、そして形勢不利なのを悟った大人たちが、行き場を失い、右往左往としている光景があった。

次回、『太陽』 17・最終回につづきますm(__)m
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