孤月的陣
第五章 タイヨウ 太陽
⑮
馬車にやってきた男は二人。
趙雲より一回り若い青年二人であった。
てっきり目隠しをするようにという指示を与えるため、そして子供たちと交代するためにやってきたのかと思った趙雲であるが、青年二人の目つきを見て、暗い予感が胸を覆った。
馬車の扉が開く前に、子供たちは趙雲から離れ、それぞれ緊張した面持ちで、青年たちを迎え入れる。そのなかに、播天流の姿がないのを見て、子供たちは安心しているようだ。
だが、趙雲は、最悪の、そして想像していなかった事態を、青年たちの双眸のなかに見つけた。
彼らがなにも言わぬうちから、全身が怖気たち、震えが立つのがおさえられない。
開かれた扉の向こうには、船から出された荷車や馬車が止まっており、それぞれに兵卒や、あるいは宦官ふうのもの、召春や恵開のようにちいさな子供たちが、大人の指示に従って動いている。
黒塗りの板塀や土塁が見えたので、おそらくその内側が義陽の隠し村なのだろう。
わんわんと責めるように聞こえてくる蝉の声と、さわやかな山風が、妙に平和でそぐわない。いや、そぐわないのは、本来ならば静寂に包まれているはずの山に、これほどの人間が大挙している、この事実なわけであるが。
二人は壷中の古株であろう。片方は背がひょろりと高く、目ばかりが大きい不恰好な男で、もうひとりは固太りした、丸い鼻がひどく目立つ、これまた不恰好な男であった。
趙雲が、捕らえられてから、はじめて見る顔である。
そして、彼らは馬車の中央に鎮座する趙雲を見、かしこまる子供たちを見回す。
俺のろくでもない直感よ、外れてくれ、と、このときばかり趙雲は思ったが、やはり研ぎ澄まされた戦士の勘は、悲しいくらいに的確に事態を予測していた。
趙雲は、彼らが現れるまで、義陽の村に着いたら、自分は、やはり播天流によって監禁され、やつの思いついた『罰』とやらを受けるのであろうと漠然と思っていた。
片目を潰されるか、両手足をもがれるか、ともかく命は取らないであろう、ということだけはわかっていた。
だが、播天流は、やはり並みの狂人ではなかった。最悪の狂人であった。
青年たちは、子供たちを見回し、最後に召春に目をつけると、後ろ手で、ぱたりと馬車の扉を閉めた。背の高いほうが丸い鼻のほうに尋ねる。
「ほかの餓鬼どもは、外にださなくていいのかい」
「べつにいいだろう。なんにも出来やしないさ」
「だって、騒ぐよ。五月蠅いのは嫌いなのだ」
「だったら、俺がやっている間に、おまえが剣でもって、そいつらを脅しておけばいいじゃないか」
そうか、と愚鈍そうな男は、そういうと、やおら剣を抜き、恵開と子玲、それから安沈を、一箇所にあつまるように指示し、それから召春の前に立つ。
「なんだか臭うな」
「仕方ない、こいつのせいだもの」
と、いいざま、背の高いほうが、後ろ手に枷をはめられている趙雲の肩を、軽くこついた。
それを合図にして、趙雲は尋ねる。
「なにをするつもりだ」
「口が利けるのか」
あたりまえのことを、青年ふたりは驚いて言う。
「てっきり、とっくの昔に咽喉を潰していたかと思ったよ。やっぱり、播天流さまは、こいつが特別なのだろうな」
「色小姓にしてやろうと思っていたのに、寸前で逃げられたって話だよ」
初耳だな、と趙雲は青年たちの会話に、つい笑みを漏らしてしまう。
なるほど、事情がまったくわからない者たちからすれば、趙雲と播天流の間にあるつめたいいざこざは、つまらぬ痴情のもつれと誤解されるものなのかもしれない。まして、これほど倫理が狂っているところでは。
「俺の質問に答えよ。その娘をどうする」
「威張ったやつだな。新野じゃ将軍だったらしいけれど、いまはただの捕虜だろう」
いいつつ、丸い鼻の巨漢は、趙雲を拳で、ごつんと殴りつけた。反動で、体が床に倒れる。
それを見て、召春が小さな悲鳴をあげた。
「おい、そいつは気絶させていちゃだめなのだ」
と、妙に呑気に背の高いほうが、丸い鼻をたしなめる。
「播天流さまが言っていたじゃないか。あの男の世話を、どうして同じ娘にさせるのか、理由は簡単、あいつに情を移させるためだ」
口調が似ている、といって、下卑た笑いをして、丸い鼻は、同じように丸い腹を震わせる。
「情が移ったところで、あいつの目の前で、娘を犯してしまえ。自分が心をかけた者がどうなるか、その結果をとっくりみせてやれ。そう言った」
「そうか。それじゃあ、気絶させちゃあ、駄目なのか」
予感していたとはいえ、趙雲は、播天流の底知れぬ憎しみと邪悪さに、体のすべてを使って暴れだしたいほどの怒りをおぼえた。
趙雲が打たれ強いことは、播天流はよく知っている。だから、趙雲の気にかける者を引き裂いてしまえばよいと、そう考えたのだ。
播天流は、樊城においても、同じことをしようとした。
すなわち、孔明を捕らえ、そして劉表に差し出そうとしたではないか。だが、ほかならぬ子飼いの刺客であったはずの花安英に裏切られ、果たせなかった。
だから、孔明に代わるものを、わざと作り上げる状況を作ったのだ。
ひたすら、苦しめるために。無力さを思い知らせるために。最悪の後悔を味あわせるために。
「やめろ! その娘に手を出すな!」
肩を使って、自力でなんとか起き上がりつつ、趙雲は叫んだ。
召春は、幼すぎるがゆえに、青年たちのことばの意味がつかめないでいる。しかし、自分に恐ろしい出来事が迫っていることは、場のただならぬ空気で察したようだ。
徐々に後退するのであるが、狭い馬車のなか、すぐに追いつめられてしまう。
「その娘が、いくつだと思っているのだ! まだ九つであるぞ! そのようないとけない娘を、おまえたちは毒牙にさらすというのか!」
「九つ? へえ?」
さしたる関心もない、というふうに、丸い鼻のほうが、みずからの顎をさすりながら言った。
「それじゃあ、病気は持っていないな。いい役目だね」
「貴様!」
「うるさいよ!」
ふたたび、殴られた。
しかし趙雲は叫ぶのをやめず、安沈が懸命に削ってくれた手枷を、なんとか自力で外そうともがく。少年たちはというと、二人の青年の姿に、すっかり怯えてすくんでしまっているのだ。
丸い鼻は、背の高いほうに、それこそ道端の花をいかに手折るかの相談をしているかのように、言うのであった。
「あまり乱暴にするなよ。まえに襲った村に、これくらいの女の子がいてさ、押し倒してやったはいいんだが、無理があったみたいで、途中で血がたくさん出て死んじゃったんだ。あのときは気持ちが悪かったな」
「色をつければ高く売れるって。こいつ、刺客になるほど体力ないから、早いところ、色をつけて売ってしまったほうがいいんだ、って播天流さまが言っていたよ。役立たずなんだから、仕方がないよね。さあ、さっさとやっちまおうか」
青年たちは、怯えて声も出せないでいる召春に手を伸ばす。
そして、その手が体に触れた途端、召春は、火がついたように泣き叫びはじめた。
「いや、いやだ、いやだ、いやだ! 助けて、父さん、いやだっ、怖いよう! 父さん、父さん、助けて!」
悲痛な声を糧に、いまや怒り心頭の趙雲は、なんとしても手枷を外そうとするのであるが、とりあえず手ぬぐいは取れたものの、手枷はなかなか外れようとしない。
そうこうしている間にも、青年たちは、召春を引き倒して、のしかかろうと、その着物に手をかけていくのであった。
もしも、この手枷が外れるのであれば、冥府の鬼卒に生きながら食われてしまってもかまわない。
召春の、必死に暴れ、父の名を呼び続ける声を聞きながら、趙雲は四肢ももがれよといわんばかりに、力を籠めつづけた。
※ ※
不測の事態であった。
「不測の事態だな」
ことばにしても変わらない。やはり不測の事態である。
陳到は、嫦娥の案内で、胡家から奪った輜重を運ぶ兵卒になりすまし、まんまと義陽の隠し村に入り込んだはいいが、まさか集った豪族たちの有り様が、ほとんど難民と呼んでもいいほどだとは、予想していなかった。
これで戦えるか、と問われれば、かつて細作の長であった陳到ですら、否、と答えたであろう。非戦闘員が多すぎる。ここで壷中とぶつかって、戦って勝利したにしろ、巻き込まれて死ぬ民間人はどれだけいるだろう。しかも、みなただ者ではない。荊州の名だたる豪族ばかりなのだ。
自分たちはいい。武将として、職務をまっとうしたのだと胸を張ればよいのだから。ところが、問題はあとである。ややこしい因縁話があるとはいえ、豪族たちが、『劉備』によって殺された、という事実は動かせなくなる。
恐らく、結果がすべてと割り切る曹操の武将であれば、さっさと狼煙をあげて、村の制圧にかかったであろうが、陳到と関羽には、それができなかった。
関羽はというと、目立ちすぎる外貌をしているため、まったく風采が上がらない陳到とは対称的に、目立つことができずに、輜重の荷物のなかに埋もれるようにして、じっとしている。
窒息していなければよいのだが。
しかも、それまで忠実な案内役であった嫦娥も、知らないあいだにどこかへ消えてしまったのだ。
あの女、どうもまだ我らにすべてを語っておらず、胸に秘めたるところがあるようだから、勝手な真似をしなければよいが。
それにしても、なにより不測の事態を招いている原因は、この輜重に群がる、人、人、人。
やれ、服をよこせ、食べ物をよこせ、水をよこせ、里からの便りをよこせと、よこせよこせと要求ばかり。どう見てもふだんはしゃなりとした柳腰の奥様ふうの女が、輜重の衣をめぐって、野良犬のようにすさまじい喧嘩をしているのもいるし、食糧の配分をめぐり、殴り合いをはじめたところもある。
ああ、こういうとき、張飛どのがいれば、『てめぇら、喧嘩をするなら、ぶっ殺す』のひと言ですべてが治まるのに、と陳到は嘆息する。
その張飛は、劉備と伴に、樊城へと向かっている。これは壷中の細作を巻くための工作なのであるが。
「服も食糧もたっぷりある! 喧嘩をするな、おなじ荊州の仲間ではないか! 仲良く、仲良く!」
と告げる自分の、なんとそらぞらしいこと。
もはや、村は制圧する以前に、この多すぎる難民によって、村としての機能をほとんどなくしてしまっていると見てよい。
輜重があらわれるまで、村の見張りをしていた兵卒たちも、難民たちを制するのに手いっぱいであるから、もしここを外部から襲われたらひとたまりもないだろう…
そうして、輜重の荷車の天辺に立ち上がり、彼方をふと見た陳到であるが、まさに、肝が跳ねて咽喉から飛び出るかというくらいに驚いた。
山道を、登ってくる馬車と荷車の列がある。
あらたな輜重ではあるまい。そうではない。車の周りには、鎧甲冑に身を固めた兵卒たちが、規律正しく配置されていたからだ。
樊城から、播天流が到着したのである。
早すぎる!
陳到は、すばやく荷車から降りると、隠れている大将の関羽に、すばやく事情を説明した。
蒸し風呂の中に閉じ込められている状態となっていた関羽は、だらだらと汗を流しながらも、きつく顔をしかめ、陳到に尋ねる。
「して、播天流の手勢はどれくらいになるか?」
「木々が邪魔をして、全体がよく見えませぬが、おそらく三百はあろうかと」
「三百…こちらの、いますぐに迎撃が可能な人員は?」
「二百もございませぬ。この混乱では、武器を取ることもままなりませぬ」
「叔至、焦ってはならぬ。地の利は我らにある。いそぎ、各武将に伝令。輜重の物品はすべて捨て、武器を取れ。そして、村の中に入る壷中をすべて取り除き、あらわれた播天流を迎え撃て」
「当初の計画どおり、というわけでございますな」
「うむ…汗をかきすぎて、心地よい風がほしかったところぞ。赤兎を引け!」
言いざま、関羽は輜重の山から、勢いよく、物品を払いのけて、ばあっと溶岩のように飛び出した。それに呼応するように、隊列の奥のほうに、やはりこれも暑いのに布をかけられて、ほかの驢馬や黒馬たちといっしょに、ちんまりしていたい赤兎馬が、主の登場に声援をおくるかのように、おおきくいなないて、飛んでくる。
関羽は、赤兎馬の手綱を取り、大男に見合わぬほど、身軽にひらりとその背に飛び乗ると、あっけにとられる豪族たち、そして壷中の兵卒を睥睨した。
九尺はあろうかという、黒い鎧に身を固めた大男の登場に、だれものが言葉をなくしている。
そうして、周囲の目線が、おのれに集っているのを十分にたしかめてから、関羽は不敵ににやりと笑みを浮かべると、それまで邪魔になろうといって、顎のあたりでまとめていた髯袋を、ぱらりと取り払った。
とたん、流れ落ちるような、見事な長い黒い髯があらわれた。
「か、関羽?」
「関羽だ! 関羽と赤兎馬だ!」
豪族の中に、そして壷中のなかにも、関羽を知る者がいたらしく、恐怖とおののきの声があちこちで聞こえてくる。姿を現しただけでこの動揺。ほかの将ではそうはいかない。
もしも自分であったなら、だれだ、おまえは、と誰何されたあげく、答えもいうちから、四方から兵がわあっと寄ってくるにちがいない。目立つ容姿を持っている者は羨ましいなと思いつつ、陳到も、配下の部将に渡された、得意の得物を、ぶん、と宙で振り回し、関羽の登場に華を副えた。
それが引き金となり、壷中の兵卒たちが、一斉に輜重に化けた関羽と陳到の部隊に襲い掛かってきた。
しかしこうなれば、天下一の荒くれ者集団を自認する劉備の配下である。まさに水を得た魚。
彼らはそれまで、難民たちへの対応に右往左往していたのがうそのように、めいめいが武器を取り出すと、意気揚々と壷中の兵卒たちに立ち向かっていった。
※ ※
薬倉庫に首尾よく潜入した孔明と胡偉度であるが、整然と並べられた壷、そして甕を前に、すっかりことばをなくしていた。
「…どれがどれだ?」
胡偉度は、以前に義陽の村に訪れたとき、この倉庫に何度か入ったことがある。
そして、役に立ちそうな薬(主に媚薬や眠り薬であったが)をくすねて、樊城に持ち帰っていた。だからこそ、薬の配置、なにがあるかはわかっていると、思い込んでいたのだが…
「漢語ではありませんね。だれかが、あとからここの整理をしたらしい。蛮族を雇ったのか?」
壷や甕には、それぞれ紙が貼り付けられており、そこには孔明や胡偉度が馴染んでいる漢語の類いは一切なく、子供が戯れに書いたような絵がそこにあるばかりである。
「壷中の子供が悪戯をしたのだろうか」
と苛立つ偉度に、冷静に孔明は壷の一つを取り出すと、言った。
「ちがうな。これはちゃんとした文字だ。暗号の代わり使っている様子だが、コレは恐ろしく由緒正しい古い文字だぞ。『巴蜀文字』というのだ」
「読めるのですか」
「いいや。文字だということはわかるが、意味となると、さっぱりわからぬ。だが、薬の類いは、においでたいがいの判別はつく。しびれ薬を探すぞ、片っ端から蓋を開けてみるしかない」
「薬にもお詳しいようですね」
と、偉度は、ほとんど記憶と勘を頼りに、毒と、そうでないものを判別させていく。
孔明はというと、几帳面な正確もそのままに、棚にずらりと並べられた小瓶を、ひとつひとつ開けてみては、においを嗅いだり、色を確かめたりしているのであった。
「教えてもらったのだよ」
「司馬徳操の私塾で? そんな勉強までするのですか」
「いいや、そこでは、せいぜいが薬草の作り方とか使い方くらいかな。わたしは妻に教わったのだ。まあ、知っていて損はないし」
へえ、と気のないような返事をするわりに、興味が有りそうにちらちらと孔明を見る偉度に、孔明は目を合わせないまま、意識しているわけではないが、早口になりながら、説明した。
「おまえは結婚というものをしたことがないだろう。わたしは、周囲に勧められ、押し切られる形で結婚したのだ。まあ、崔州平や、均のように、想い想われ、などというのは、やはり稀な例なのだよ」
「知っていますよ、程子聞が話していましたもの。かわいそうに、諸葛亮は、黄家の醜女を押し付けられた、本人が煌びやかで、妻が醜女、世の中よく出来ている、今度あったなら、新婚生活はどんな味がするか、聞いてやるのだって」
「聞かれたよ」
答えながらも、瓶や甕を手早く探りつつ、孔明は、偉度がまるで挑発するように…いや、なんとか孔明から、程子聞について聞きたがっているのに気づいていた。
偉度は、ほかならぬ、自分の知らない故人の姿を、孔明の記憶の中に、なんとか掴もうとしているのだ。孔明自身に興味があるからなのではない。
断袖の間柄とはいえ、偉度の気持ちのひたむきさを思えば、孔明もむげにはできない。まして程子聞のことも知っている孔明にとっては、偉度の気持ちが哀れであった。
偉度の満足するようにさせ、答えられるところは、答えようではないか。
「わが妻はどうやら世間では、醜女として有名なようであるが、だがな、醜い、醜いというが、あれは醜くはないぞ」
「あばたもえくぼ」
「そうではなくて…偉度、ちゃんと真面目に探せ。時間がない」
偉度はというと、倉庫の大きな蓋のしてある甕の上に座って、もはや手を動かさず、孔明のすることをじっと見つめているのだった。
「おまえは、胡家の、自分の家族を助けたいとは思わないのか?」
「べつに…胡家で、わたしだけが苦労するのもおかしな話ではありませんか。第一、弟たちは、わたしの名前はもちろん、顔すら知らない。どこでなにをしているのかもね。たぶん、あなたが江東の兄上に抱いてらっしゃるのと同じ感覚ですよ」
「おまえはその話に持っていくのが好きだな。たしかに兄上がどうなろうと、こちらに累が及ばぬかぎり、わたしもどうでもいい」
偉度は、声を立てて笑った。
「わたしはね、あなたのタテマエだけじゃない、ときおり見せる、容赦ない本音を言うところが好きなのです。もう、諦めませんか」
なにをいうか、と思いつつ、孔明は偉度を見た。偉度はもはやすっかりやる気をなくし、膝をぶらぶらさせて、うろたえる孔明を面白そうに見ている。
「必死になったところで、あなたの救おうとしているのは他人ではありませんか。彼らは自分たちが苦境にいることすら知らない、愚者。世の敗残者なのですよ。そんな連中は、さっさと冥府に送ってやるべきだ。そのほうがよっぽど親切というものです。あとで残った人間で、荊州は仲良くわけてしまえばいい。
荊州が、ただひたすら曹操に侵攻されるがままになっているこの現状は、いま表で輜重にむらがっている、目先しか見ない莫迦な連中が作り出した状況だ。それはあなたも思ってらっしゃるのでしょう?」
やれやれ、と息をつきつつ、孔明は花安英、こと胡偉度に言う。
「おまえの悪い癖が出たな。本当にそう思っているのなら、どうしてここまでついてきた。面倒くさくなったのではあるまい。おまえは気づいているだろうか。お前のなかには二つの人間がいるのだよ」
「へえ?」
「そう。素直で正義感にあふれ、不正を許すことの出来ない潔癖な少年と、意に反し、身も心も汚して生きねばならず、世を恨んでなんとか己を保たせている少年。その二つをうまく整合させることができず、お前は苦しんでいるのだ。ちがうか。だから他者に縋らずにはおられない」
「なんだかピンと来ませんね。外れておりますよ、それ」
「そうだろうか。最初、わたしはおまえに似ていると思った。わたしの中にも二つの『諸葛孔明』がいて、復讐に猛る心をおさえきれない凶悪な心を持っているくせに、ちょっとしたことにも感動し、泣き、大はしゃぎする人間と、世のすべてを冷たく睥睨し、どんな非道な出来事も、無感動に眺めることの出来る人間の二つ。
だが、この一連の出来事で、この二つとうまく折り合いが付けられるようになってきた。そして、わたしがおまえに似ていると思ったのは、思い違いではないかと思うようになった」
「では、なんです」
「おまえは、わたしより、おそらく子龍に似ているよ。偉度よ、おまえの中にある憎しみはいつか必ず表に出さねばならぬもの。だが、一方のお前の清くあろうとする心が、憎しみがあふれるのを留めてしまう。このままではおまえ、狂ってしまうぞ。そう、播天流のようにな」
「わたしは、あんな男に」
「ならないと言い切れるか? わたしは、わたしがお前に対する公孫瓚にならないだろうと、言い切れる自信がない。他者に縋り、判断を委ねる癖をあらためよ。己を確立したうえで、他者を愛せ。そうしなければ、おまえはいつまでたっても、誰かの従属物でありつづける」
「…昔だったら、そして傷が治っていたら、この毒のどれかを盛ってやるところだけれど」
「そのまえに解毒剤を探すさ。さあ、おしゃべりは中断だ。表がなにやら騒がしいぞ。急げ、崔州平というのは、本当にやるといったら、かならずやる男なのだ。火の海になるまえに、ともかくしびれ薬だ。おや、これなんぞどうであろう」
と、孔明は、三角円錐の紫色の瓶を取り出した。
そこにはちいさな紙が貼ってあり、牛が目をぱっちりと開いたまま、横になって震えている絵が描かれていた。
「わたしには毒に見えます」
「匂いはないか。舐めてみるか」
「およしなさい、ここで死んだらどうなさるのです」
「まったくそのとおり。ちゃんと教えて差し上げたのに、どうして毒に関する知識は、そんなに覚えが遅いのですか」
第三者の、そして、女の声に、孔明も偉度もおどろき、思わず、手から瓶を落としそうになる。それを慌てて偉度が拾うのであるが、はずみで傷を捻ったらしく、痛みに顔をしかめて、蹲ってしまった。
それを見て、薬草庫に入ってきた、面貌こそ白い玉のようにうつくしいものの、杉の木のように背の高い、男装をした女は、あきれ果てた、といわんばかりの顔を孔明に向けた。
「しかも、これほど重傷の子供を連れてきて、軽蔑いたしますわ、郎君」
「うん、すまない」
としか答えようがない。己の顔は、よほど間抜けであろうな、と孔明は思いつつ、ひっくり返りそうになる声を励まして、目の前に立つ、男装をした女に尋ねた。
「月英、そなた、なぜここにいる?」
※ ※
「播天流だ!」
物陰にひそみ、孔明の首尾を待っていた崔州平は、山道を登ってくる播天流の車列を見て、大きく舌打ちをした。
崔州平は、孔明には、村をいつでも焼く準備がある、と言い切っていたが、それでも、諸葛孔明と言う友の、その度量に賭けていたのである。
だが、思った以上に播天流の動きが早すぎた。そして、輜重をめぐる、このあきれたお祭り騒ぎ。
この状態で播天流があらわれたなら、やつは、すぐさま容赦せず、輜重に群がる豪族たち難民を切り伏せにかかるであろう。そのほうが、食糧も物資も無駄にならぬと計算するであろうから。
部下たちは、どうするべきかと、崔州平に視線をあつめてくる。
落ち着け。いまが考え時だ。ここで、運命の舵を手放してはならぬ。
と、村の中心、ちょうど輜重の集っていたところで、ひときわ大きな声が挙がった。まさか、配給がままならぬために、豪族どもが暴徒と化したのか。
だが、風に乗って流れてきた声に、崔州平は愕然とする。
「いま、なんと聞こえた?」
同じく茂みに隠れる部下たちも、蝉の声を縫うように聞こえる声に、じっと耳をすます。それは、はっきりとこう呼ばわっていた。
「劉予州の義弟、関雲長、ただいま見参! 闇に巣食う者どもよ、おのが非道を恥じ、大人しく冥府への旅路につくがよいぞ、この関羽が死出の見送りをしてやるほどに!」
「関羽だと? まさか!」
崔州平は茂みから身をかがめたまま飛び出し、そして、村の中央を見渡せる土手にまで駆け寄った。ちょうど、櫓の上から、関羽めがけて矢を番えた兵士が、関羽の隣で長弓を番えている兵士に、射抜かれて地面にもんどりうつところが見えた。
「劉備の軍が動いた…」
孔明を助けるために。趙子龍を助けるために。
信じられない、と崔州平は愕然とした。こんなことをして、劉備に何の得が? 劉表…いや、劉表の残党たる荊州豪族と矛を交えるつもりなのか。あんな弱小勢力のくせに?
「いかがなさいますか、長?」
部下の声に、我に返り、崔州平は、みなに命じた。
「ここまできて、遅れを取るわけにはまいらぬ! いまこそ雌雄を決するときがきた! 者ども、新野の者たちに遅れを取るな! 村を制圧し、そして播天流に火矢を射掛けるのだ!」
終末が近づいている。