孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

趙雲は馬車に乗せられたあと、道を覚えないようにと目隠しをさせられ、そのあいだ、見張りのこどもたちと伴にふたたび場所に乗せられた。
子供たちは、大人たちの目を盗んでは、交替で懸命に盗んできたちいさな鋸で、趙雲の手枷を削りつづけた。おがくずは道中に、ばらばらに捨てた。
趙雲は、細心の注意を払い、子供達に興味がないそぶりをしなければならなかった。そうしなければ、播天流の注意が、子供たちに向いてしまうのは必定であった。
青黒く変色し、まるで幽鬼のようだと歩哨に笑われながらも、趙雲は沈黙をつづけた。たとえ腐ったものが食事に出されても、肉体を衰えさせないために、慎重に口のなかで判別しながらそれを食した。豚のようだと嘆く己の声は無視した。生き残るのに、誇りなんぞもはや気にしておられない。
子供たちは、生に対しすさまじい執着をみせる趙雲の姿に怯えつつも、大人たちの目を盗み、自分たちに分けられる食糧をすこしだけ持ってきた。
それをありがたく受け取りながら、趙雲は、大人には、決してじぶんと会話をしていることを悟られてはいけない、親しくしているような素振りを見せてもいけない。他の子供たちにもだ、と言い含めた。十歳くらいの子供たちが、どれだけ趙雲のことばを守り、そしてその言葉の裏に隠れた重要性に気づいているかはわからない。
「表には、どれくらいの数がいる?」
趙雲の質問に、子供たちは顔を見合わせ、答えた。
「両の手で数え切れないほど」
「馬車の数は」
「わたしと安沈(あんちん)の両手でも足りないほど」
と、言ったのは、もっとも年上で知恵の回る、恵開という少年であった。安沈というのは、少年たちのなかでももっとも年下の、いつもにきびを気にして、頬をいじっている少年である。
「二十はある、ということか。大人はたくさんいるか」
「大人と、それから鎧を着た上の子たち」
彼らは、自分たちより先に村に連れてこられた子供たちを、総じて『上の子』と呼ぶ。
「でも数はわからない。でもいっぱい、いっぱいいるよ。みんなで義陽へ集まるのだって。仲間もたくさんいるのだって」
義陽。さして要害の地でもなかったはず。しかし、その特長のなさが、かえって播天流の隠しとりでとして気に入ったのだろうか。
あれこれ想像を働かせていると、もはや趙雲の真となり、という位置がすっかり定位置となっている召春が、あどけない声をしてたずねてきた。
「子龍さまは、逃げたら、どちらへ行くのですか」
召春は、ほかの少年たちには九つとは思われぬしっかりした口を利くのであるが、趙雲に対しては、まるで父にするように、甘えた口調でしゃべるのである。年からいっても、召春の父親は、趙雲の父と同じくらいと思われるので、それが原因なのだろう。
召春の問いは、趙雲についていったなら、自分たちがどこへ連れて行ってもらえるか、と問うているのと同じである。まず、自分たちがどこに行くのかと質問するよりも、相手を思いやって、子龍がどこに行くのかと尋ねる、小さな子供たちの気遣いに、趙雲は笑みをこぼした。
「新野だ。行ったことは」
趙雲の問いに、子供たちは一様に首を振った。
「小さな町だ。だが、そこには仲間たちがいる。おまえたちを助けてくれる、俺のつよいつよい仲間たちがいるぞ。講談で聞いたことはないか。劉予州と、家来の関羽と張飛の話だ」
すると、いちばんにぎやかで大きな瞳をもつ、子玲少年が、ぱっと目を輝かせて、
「知っている!」
と得意そうに言った。他の子供たちが、あわてて、しいっ、と合図をする。
「関羽と張飛は、天下無双の大豪傑だ。刀をひと振りしただけで、十人の兵士の首をはね飛ばしてしまうのだ。ねえ、そうでしょう。曹操からかかえきれないほどの宝物をもらったのに、義兄のもとへかえるのだって言って、千里の道を、おとのさまの奥方さまをけんめいにまもって戻ってきた、『ちゅうぎのし』なんだ」
だいぶ誇張があるなと思いつつ、趙雲は腫れた頬に注意しながら、答えた。
「関羽はたしかに忠義の士の鑑だな。ただし、十人は大げさだ。五人はあるかもしれぬが。」
「五人!」
それでも十分に驚きに足りる。しかし、関羽、張飛、そして陳到であれば、相手にわずかな隙も与えずに、それくらいの人数を血祭りにあげることは可能だろう。基準は自分だ。自分が可能だから、趙雲は答えたのである。
「首をはねられた人は、みんな、悪い人だったの?」
召春の問いに、趙雲は正直に首を振った。
「わからないな。ただ、俺たちの邪魔をしたから、斬るのだ」
趙雲の言葉に、子供たちは、理解しかねているのか、顔を見合わせる。
「相手が善い人か、悪い人かもわからないのに、斬ってしまうの?」
「物事に、善悪だけで処理できることはひどく少ないのだ。残念だが。世の中がもっとわかりやすければ、だれも悩んだり苦しんだりしない。いま、この世の中の皆が…おまえやおまえの家族たちも含めて苦しんでいるのは、世の中がわかりにくいからだ。
では、ここで質問をしようか。おまえたち、お腹が空いてどうしようもなくなった、畑はみな焼かれたか、掠奪されたかして、雑草しか生えておらぬ。だが、武器になりそうな鍬だけがあり、どうやら隣の村には食糧があるようだ。さて、どうする」
「隣の村に、食糧をわけてもらいに行くよ」
年長の恵開のことばに、ほかの子供たちも、その意見に、うんうん、と肯いた。
「だが、隣の村も人がたくさんいて、自分たちの食べる分しかもう食糧がない、と断られた。こちらは、一口も口にできるものがなにもない、村では、大人も子供も餓死寸前だ。さて、次にどうする」
「どうしても、っておねがいする」
「駄目だといわれたら? そして、お前の手には鍬があるぞ。それを振り上げれば、相手を倒して、食糧を奪うことができる。村には、自分の帰りを待つ家族がいるのだ。どうする」
子供たちは顔を見合わせ、それから困ったような顔をし、ついで、どうしてこんな意地悪な問いをするのだ、というふうに趙雲を見た。
「答えられまい。だが、たいがいのものはそこで、己を救うために鍬を揮い、敵でもない者を殺して、食糧を得て生き延びた。そして、殺された者の一族は、復讐を誓い、また食糧を得た者の一族を殺しに行く。そうしてどんどん血の輪がひろがった。さて、どこに悪者がいる?」
「最初に食糧をわ分けてくれなかった村人かな」
「ちがうよ。頼み方が悪かったんだよ」
と、子玲少年が恵開に反駁した。
「ゆっくりたのんでいる時間がなかったんだ、やっぱりわけてくれなかった人が悪い」
子供たちが意見を戦わせているのを、趙雲はしばらく耳を傾けていたが、やがて口をひらいた。
「分けてくれなかった者にも事情があった。分けてしまったなら、自分たちが飢えてしまうからだ」
「それなら」
だれが悪いのだ、というふうに、子供たちは困りきって趙雲を見る。
「もはや善と悪のふたつだけでは分けきれないことが、世の中には有りすぎる。死ぬかもしれないから、他者の命を奪って生きようとすることが悪だというのならば、善とはなんなのだろう。ひとのために餓死すればよかったのか? その者に、なにも否がないのに?」
「わかりませぬ」
子供たちは膝をかかえ、じっと趙雲の話に耳を傾けていた。
召春が、かなしそうに言う。
「子龍さまも、そういうことをしたことがあるの?」
「ある。食糧をたとえに出したが、それが武器であったり、もっと大きな場合には土地であったりする。すべからく、世に悪も善もなく、すべてが混沌とあるのが現状なのだ。わかるだろうか」
「子龍さまも、わたしたちも、悪人であったり、善人であったりする、ということですか」
「そうだ」
飲み込みの早い子供達に、趙雲は笑みを浮かべたが、顔がはれ上がっているために、期待していたほど優しい効果は挙げられなかったらしい。痛ましそうに、子供たちが顔をひそめる。
「俺は弱い者。そしておまえたちも」
「播天流さまも?」
「そうだ。己を強い、などと嘯く者に、ろくなものはおらぬぞ。己が弱いと知っているからこそ、考える。危機に際して、どうしたら切り抜ければよいか、だれも傷つけずにすむか、真剣に考える。なまじ、強いなどとうぬぼれている者は、力だけで切り抜けようとする。勢いと運があれば、なんとかなろう。しかし、力は弱くても、強くなろうと努力する者は樵夫のようなもので、強いのだとうぬぼれ、頭を使わぬものは、大木だ。あっさり為す術もなく切り倒され、その身は刻まれ、弱いと蔑んでいた者たちに使われる」
「播天流さまは、ともかく体を鍛え、技を身につけ、老師たちの言うことを聞いていれば強くなれるとおっしゃいました」
「己の頭で考えよと、いわれたことはあるか」
子供たちは、一斉に、ない、と首を振る。
かつての趙雲もそうであった。公孫瓚のもとへいたとき、ただひたすら、上長の命令を聞け、他の言葉に耳をかたむけるな、それこそが主公に対する忠義の証しである、と言われつづけてきた。
成長し、公孫瓚の、見かけよりもずっと弱気な性質や、播天流の妄執的な性格が見えてくるにつれ、そこにひそむ落とし穴に気づけたから、まだよかったのだ。
嘘も技術なのである。公孫瓚時代の播天流は、少年であった趙雲に見抜ける程度の『嘘』しかつけない(自分ではもとより嘘などとは信じていないのだが)でいた。
だが、嘘を重ねているうちに、その技術が磨かれて、もっともらしい『真実』に聞こえるように説得できるようになってしまった。相手が子供ならば、騙すのはたやすかろう。
これまで、どれだけ多くの子供たちが、その嘘をよすがに、死んでいったのだろう。想像するだに、怒りと悲しみ、さらに、かつて誰にも抱いたことのないどす黒い憎しみが胸にうごめく。
連日のように播天流に嘲弄され、殴られているうちに、趙雲の内側は、確実に変化し始めいた。
まだわずかにあった、播天流に対する負い目は、すっかり無くなっていた。そのかわり、形になりつつあるものは、いまや外に出るものを待ち続ける、鋭利な刃のように研ぎ澄まされていた。
「俺の話と、播天流の話、どちらがほんとうか、おまえたち自身のあたまで、ゆっくりでいい。義陽の村に着くまでに考えるのだ。内側の心の声に耳をすませろ。嫌だと思うことを誤魔化さず、なぜに嫌なのか、そしてなぜそう感じるのか、じっくり考えるのだ。そして、どちらかを選べ」
「選べ、って? それでは、もしわたしが播天流さまの言うことを信じたら?」
と、恵開が不安そうに言うと、他の子どもたちが抗議の眼差しを向けてくる。
しかし、趙雲は笑みをうかべ、決まり悪そうに、それでもつよい眼差しを持つ恵開を見た。
よい目をしている。自分で考えることの責任に気づきはじめた、意志を持つ目だ。
「その質問が出るということは、おまえの中で、すでに答が出来上がっている、ということではないのかな」
「うん…でも、子龍さまのおはなしは、すこしむずかしいです」
「俺は口下手だからな。あいつなら、もっと優しく判りやすいことばで、おまえたちに説明できるのだが」
「諸葛孔明という方?」
子供たちは、しょっちゅう、趙雲が孔明の名を持ち出すので、その珍しい姓名もあいまって、会ったこともないうちから、すっかりその存在に慣れていた。
「そうだ。あいつは口から生まれたような男だからな」
「その方が、わたしたちを助けてくれるのでしょう? そして、その方のところに、子龍さまは連れて行って下さるのでしょう? ですから、わたくしは子龍さまを信じます」
そういって、召春は、九歳の少女らしい純真な笑みを浮かべて言った。
子供を持たぬ趙雲は、真っ直ぐな信頼を受け止めかね、むしろ照れてしまう。陳到の娘の銀輪さえ、こんなふうに信じきった笑みを浮かべてきたことはなかった。
「おまえは名前のとおりの子だな」
思わず言うと、召春は首をかしげる。
「おまえの父は、おまえのことをとても慈しんでいたのであろう。おまえの父にとって、おまえはすべてが萌えいずる希望の季節、春に等しかった。だから春を招く娘、という名前をつけたのであろう」
他の子供たちは、親からもらった字の意味を聞く暇もなく攫われたもの、あるいは、だまされてつれて来られたものがほとんどであったので、紅一点の召春を見て、いいなぁ、とつぶやく。
趙雲としては、純粋に名前の美しさを誉めたつもりであったのだが、それを聞くや、召春は涙をぽろぽろこぼして泣き出した。
「父さんに会いたい。文字もなにも覚えなくていい。父さんにもう一度会いたい」
ああ、しまった。だから俺は配慮が足りぬ、朴念仁なのだ、と己を叱りつつ、後ろでがりがりと手枷を削り続ける少年に、手を止めるように言って、それから涙をこぼす召春に言った。
「泣くな。かならず、俺はおまえを父親のもとへ連れて行ってやろう。だから、それまで泣いてはならぬ。泣くと力が削がれるからな。笑っておれ」
「笑う?」
少女は怪訝そうに、しゃくりあげながら趙雲を見上げる。その痛ましい泣き顔に、己をさらに責めつつ、趙雲は大きく肯いた。
「そうだ、笑うと力が湧いてくるからな。俺のよく知っているやつも、なにがおかしいのやら、よく笑っておった。誰からも無視されても、いつも笑っていたよ。
そうだ、さっきの食糧のたとえに話をもどすか。手元に食糧はない。家族はみな飢えている。隣の村には食糧があるが、頼んでもどうしても分けてもらえなかった。そのようなとき、その男は変わっている。ありとあらゆる方法をつかって、食糧を分けてもらう方法を考えるのだ。凡人ならば、十の方法を試して諦めて武器を取る。賢人ならば、百の方法を試して諦める。
だが、そいつは千も万も、だれもが納得するまで、とことん考えて、あきれるほど、平然とした顔をして、だれもできやしないとおもっていたことを実行してしまうのだ。それがあまりに当たりまえの顔をしているので、最初は、あいつでなくっても、自然とこうなったのさと、だれもが思う。
だが、後になって考えると、やはりそいつがそこにいなければ、だれも助からなかったということが知れてくる。なのに、そいつはすこしも威張ったりしない。ちょっと人より、変わった方法を見つけるのがうまいのだといって、人を救ったことを威張るのではなく、見つけることがうまいことを威張るのだ」
「そのお方も諸葛孔明さま? へんなひと」
召春は泣きやんで、笑みをこぼした。
「そうだ。おもしろいやつだ。きっとおまえたちに会わせてやろう。そいつは俺の」
あなたは、ほかのだれでもない、この孔明の主騎なのだ。
新野で言った孔明の、柔らかな笑顔が浮かんだ。主騎か。それでもいい。俺はおまえを、こう思おう。
「俺のいちばんの友だ」
「でも、男は闘うべきときがある、って、うちの父ちゃんは言っていたよ」
と、少年たちのなかでも器用なニキビ面の安沈が、鋸をごりごりと動かしながら、趙雲の背後で口を尖らせた。
「それも一理ある。でも、人殺しなんて、しないほうがいい。おまえたちは、人が死ぬさまというものを見たことはあるか?」
「ない…殴られているのをみたことは、あるけれど」
と、子供たちは、毎日のように播天流に殴られる趙雲に気を使ってか、声を落として言った。
「殺すのを見るのも、実際に手を下すのも、いいものではないぞ、すこしも。人は、一人でも死なないほうがいい。敵が味方になるほうがいい」
「わたしもそう思います」
と、泣くのをやめた召春が、さらに趙雲に身を摺り寄せるようにしてことばを合わせた。そして、真っ直ぐ趙雲を見て、たずねる。
「子龍さまにはご家族がいるの? わたしたちのような子がいる?」
「いない。妻もない。そうだな、新野の連中が、おれの家族なのだ。俺は、いままであまりに多くの死を作り出しすぎた。その点だけは、いまいましいことに、あの播天流のことばは当たっているのだ。武人であり続けるかぎり、俺は人としてなにも生まず、破壊することのみを義務として、これからも生きていくのであろう」
しかし、それは、だれの意志でもない。おまえの命令によって動く。
趙雲は、ここにはいない龍に呼びかけるようにして思った。
だから、俺は、きっとお前以外の何者をも、内部に入れることはないだろう。
「俺は、だれかの親にならない代わりに、おまえたちのように、寄る辺ない者たちの親となるのだ。おまえたちが、ほんとうの父上、母上のもとに戻れるまで、俺はおまえたちの親となろう」
だれと限ったものではなく、皆を救う。孔明が尊大なまでに明るく笑っていられるその心意気を、趙雲はこのとき、真の意味で理解した。

ふと、表ががやがやと騒がしく、馬車が、がくりと止まった。
ひといきついた馬のいななきが聞こえてくる。義陽についたのかもしれない。
板の隙間から、あふれんばかりの蝉の声が四方八方から、攻め入ってくるかのように聞こえてきた。
蛙の声が聞こえないところからして、水場が遠い。山中なのであろう。
馬車の小窓を除いていた恵開が、声を強ばらせ、振り返った。
「義陽の村についたみたいだ。だれか、こちらへくるよ」
趙雲の手枷を、懸命に、あとすこし、あとすこしとつぶやきながら削っていた安沈が、顔をあげる。
「たいへんだ」
といいつつ、安沈は、機転をきかせて、あと親指ほどの長さを切りさえすれば、完全に外れてしまうであろう手枷に、汗をふくために首にまいていた手ぬぐいをまきつけ、おがくずをあたりに散らした。そうして、やってくる大人たちを待った。

                           ※ ※

村は、思った以上に疲弊していた。
それは、始めてこの場所にやってくる崔州平、そして孔明の第一印象であった。村は狭かった。がけの淵にあり、井戸を中心に、家財道具一式を積んで、道のあちこちに、さまざまな人々がつかれきって座っている。
嫌でも徐州での出来事を思い出し、孔明はぞっとした。昨日より熱さが増したため、水がどうしても欲しくなる。木陰がほしくなる。おそらく、だれもが、ちゃんとした屋根のある建物のなかでくつろぎたいと願っているにちがいない。
しかし村が急ごしらえで体裁だけを整えたものであることは、ひと目で知れた。そのために、妙に新しさの目立つ簡素な建物の中に入ることのできなかった人々は、仕方がなく、乞食のように表にでて、ぐったりと、暑さにかまけて身を横たえているのであった。
中には乳飲み子の姿もあれば、うら若い娘の姿もある。
曹操がやってくる、と誇大に人々が恐れた結果が、これであった。荊州の人間にも、曹操がおこなった徐州の大虐殺の記憶が鮮明なのである。

枯れ井戸は、ちょうど木々に隠れる位置にあり、崔州平と部下、そして花安英を抱える孔明は、難なく村に潜入することが出来た。
人々が輜重の隊列に群がっていたお陰である。
四方を外部にむけて目を向けている哨兵たちすら、あふれる難民じみた豪族たちに手を焼いていたのだろう。群がる人々を輜重から引き離す作業に追われ、孔明たちに気づかない。
「この機を逃してはなりませぬ。あちらに」
と、花安英がすばやく孔明に言う。
花安英の指す方角には、小さな高床式の倉が有り、歩哨がいた様子があるのであるが、輜重の列を守るために持ち場をちょうど、離れている。
負ぶっていくとかえって目立つ、というので、孔明は花安英を下ろし、倉に向かうべく足を進めたのであるが、その背に崔州平のことばがかかる。
「孔明、俺は、おまえの作戦に乗ったわけじゃない。水や食糧にうまく薬を入れたとして、それでもなお戦意を失わぬのが壷中。おまえも花安英も甘い。おまえたちに、すこしでもしくじりが会ったときは、外に待機させている俺の部下は、容赦なく火矢をかけ、俺たちは中に入る壷中の殲滅にかかる。それを忘れるな」
「わかっている」
孔明は肯くと、崔州平とわかれ、徐庶の剣をしっかりと片手で掴みながら、花安英に肩を貸しながら、薬倉庫へと向かう。
十台ほどの大きな車に、それこそ小山のように大量の物資を運んだ輜重のほうでは、荷台の上に乗った兵卒が、
「慌てるな、順番、順番。ちゃんと配る! 噛むな、怒鳴るな、引っかくな!」
と呑気に人々を諌めている。
どこにでも、叔至のように、動じない男がいるものだな、と孔明は思いつつ、だれもこちらを見ていないし、邪魔で仕方がないので、目を覆っていた仮面を脱いだ。
「ばれますよ」
花安英がたしなめるが、孔明は頓着せず、言う。
「わたしの顔を知る者は少ない。名前ばかりが先行している人間なのでね」
「そうじゃなく、あなた、ときどき自分の顔に対して、ひどく鈍感ですよね。わたしはあまり人さまの顔を誉めたりしませんが、あなたは特別です。あなたみたいな睫毛の長い男は見たことがない。程子聞が、あなたに夢中になった理由がわかる気がしますよ。あなたには、なんというか性別がないのだ。男でもない、女でもない。だから、どちらの気も引いてしまう」
「大丈夫。わたしと会話をした時点で、たいがいの者の夢は破れる。第一、睫毛ならば、お前も長いではないか。それに、すれ違いざまに見た男の睫毛の長さなんぞ、だれが気にするものか。それより、おまえであろう。知った顔がいたらどうする。お前こそ仮面をかぶれ」
「わたしが播天流に逆らったことは、まだこの村のものは知らないはずです。ですから、余計な心配はご無用。わたしがここに来るといったのは、私自身の蹴りをつけるためだけなんかじゃない。わたしはそこまで感傷的な人間じゃないんだ。あなたがへまをして、取り囲まれた場合、わたしが助けるためですよ」
「そうであったか、すまないな」
花安英、と名前を言いかけて、孔明はちらりと、わあわあとひっきりなしに人の群がり続ける輜重の列をちらりと見た。
人々に物資を配っているのは、胡家の雇われた人間だろうか。花安英の家族がいてもおかしくない。
薬を皆に盛って、村を占拠する作戦がうまくいかなければ、崔州平は容赦なく村を焼く。焦っていることだろう。
「いまさらですまぬが、この期におよび、花安英と呼ぶのもどうかと思う。本名を教えてくれぬか。わたしは真のお前とともにこの難局を乗り切りたいのだ」
「ほんとうにいまさらですね。字など、どちらでもよろしい。程子聞は、花安英のほうが、わたしにふさわしいと」
「そうか? たしかにそなたは花の顔(かんばせ)の持ち主では在るが、花のようにたおやかでもはかなげでもなく、ずっと剛毅だ」
風狗によって刺された傷を軽く押さえながら、花安英は、呆れたように孔明に言う。
「どうでもいいところに気を使われる方だ。では言いましょう。わたしに字はないのです」
「ない?」
鸚鵡返しにする孔明に、花安英は、独特の、皮肉げな笑みを口はしに浮かべた。
「花安英なんていうのは、響きがいいから、勝手に名乗っただけのもの。程子聞が、それがとても似合うといったから、捨てられなかっただけの話なんだ。
父も母も、わたしがどんな名を名乗ろうと、自分たちに関係がないかぎり、どうでもよかった。だから、わたしに真の字なんぞないのですよ」
花安英の名の響きはたしかに典雅で、優雅さをこのむ程子聞ならば、好んでこの美麗な少年を呼びそうであった。
しかし、孔明は、この少年の内側にある脆さと強さを知っている。花安英。華やかで賢い、というだけではこの少年にふさわしくない。
「なんです」
「わたしは名づけるのが下手だが、『偉度』というのはどうであろう」
しかし、花安英は、孔明の意に反し、鼻を鳴らすと、よたよたと、輜重へむらがる難民たちとすれ違うようにして、薬倉庫のほうへと歩いて行ってしまう。
「だめか。『並外れた才覚・器』という意味をこめたのだが。そなたの優れているのは、なにも美貌だけではない。武芸も、画才もあるし、それに、わたしを緊張させるほどに弁舌の才もあるのだ」
「緊張? へぇ? わたしに緊張などなさっていたのですか」
「していたとも。だいぶことばを選んでいたのだぞ。気に入らぬか」
「偉度なんて、野暮ったい(注・現代の中国読みですと胡偉度=フ・ウェイトゥとなります。おっとと、ご存知だと思われますが、中国語は濁音なしなので、Duでトゥ。いい響きですね。ちなみに孔明はコンミン、子龍はツィルォン。通して読むと趙雲はチャオ(ユン)ツィルォン。やっぱりカッコイイ)
「だめか。それでは仕方ない『飛剣』というのはどうだ」
「よい名前を考えられるではありませんか」
「うむ、昔わたしが戯れに、山で拾って飼っていた、針ねずみと同じ名前なのだが」
「…ねずみ?」
「うん。いつしかいなくなってしまったが、やつのことだ。野犬に負けることもなく、いまも元気で山の中で毛を尖らせていると信じているが」
「…偉度でいいです。返事をするかどうか、わかりませんが」
「うむ、ではそなたは今日から偉度と名乗るがよいぞ。胡偉度。響きもよいし、そなたにぴったりではないか。さて、それを祝すかのように、薬倉庫の前には誰もおらぬ」
その場に似合わず、うきうきした様子の孔明を、花安英あらため胡偉度は、あきれて言う。
「あなた、どうでもいいことで、ものすごく機嫌がよくなるのですね」
「得な性分なのだよ。ほら、まさに天の配剤」
孔明は、さっそく戸口に手をかけるのであるが、扉が開かない。南京錠が差されている。
「あっさり運が費えたようですね」
偉度の嫌味にも、孔明はまるでへこたれない。懐に隠し持っていた、小さな針のような金具を持ち出し、南京錠に差し入れる。
「あなた、軍師、ですよね?」
と、倉にしつらえられた階段にもたれつつ、見張りもかねている偉度は、南京錠を器用にかちゃかちゃとやりはじめた孔明を呆れてみている。
「なにを呆れているのだね。よいか、ひとつよきことを教えてやろう。もしも罪人の詮議をするときには、たかが咎人と軽くあしらわず、注意深く彼らのことばに耳を傾けているといい。わたしは、先だってつかまえた新野の泥棒の意見に従って、外出時には、こうしてかならず、鍵を開けるための金具を持ち歩いているのだ。なかなか重宝するのだぞ。ほら」
ほどなく、がちゃり、という音がして、南京錠は開いた。
「軍師を辞められても、泥棒という手段がありますね」
「大泥棒から英雄になった例もある。世に、ありとあらゆる機会は転がっているのさ。そなたが刺客から、世人に崇められるような聖人になる可能性もな。さて、しびれ薬はどこだ? 教えてくれないか、偉度」

次回、『太陽』 15につづきますm(__)m
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