孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

胡家の主は、名を叔世といい、ごく平凡な男であったが、なぜか面貌の真ん中に、立派な鼻を持っていた。この相を見た観相家に、将来は、思いもかけぬところから財産を得るであろうと予言されたことがある。そのときは半信半疑であったけれど、没落寸前の貴族の家より若く美しい娘を妻にもらってから、彼の運命は大きくかわった。
その娘とは、まったく気性が合わず、夫婦生活はまったくもって退屈なものであった。ほどなく子は生まれたものの、これは父ゆずりの立派な鼻を持っていたが、そのほかは、似通ったところがなかった。気品ある鼻梁に、整った愛らしい顔立ちをしていたので、『済』と名づけた。これは美しく立派、という意味をこめてある。
妻とともに家にやってきた老女は、この済は、母方の、やはり美貌で知られた祖母に瓜二つだといった。賢い子であったから、きっとお父様の助けになりましょうと、老女はそれなりに心を砕いたものであるが、この妻も、生まれた子も、まるで叔世に心を開こうとしなかった。
叔世はどこにでもいる男、俗物であった。
一方、妻のほうは、どこかで遠くからあらわれる幸運を、あてもなく待っているような、いつまでも少女じみた願望を胸に抱いている女であった。
心の通わぬ妻子とはほどなく心が離れ、やがて叔世は、あらたに迎えた二番目の妻、そして子供達に愛情を注ぐことになる。
とはいえ、家門はそのころから傾き、妻を二人も抱えて、やりくりをしていく当てがなくなってきた。
そこへ、幸運があらわれた。まさに、妻が待っていたような形で、それは馬にのって現れた。
蔡瑁が叔世の留守に、狩りの途中に立ち寄った胡家にやってきた。そして、対応にあらわれた妻に目をつけたのだ。
まるで押し込みのようであったと誇りを踏みにじられた家人たちは訴えてきたが、叔世は、めったいない勘をはたらかせ、これがわが家の窮状を救うのではないかと考えた。
妻の様子があきらかにおかしいことに、叔世はすぐに気づいた。叔世は蔡瑁に面会し、それとなく自分の留守にあったことをにおわせ、妻を引き取るように要請した。
当時の叔世としては、妻とは名ばかりになっている女を、財産家であり権勢家である蔡瑁が、引き取ってくれれば、というそれくらいの算段であった。
傍から見れば異常なことであるが、それほどに、叔世の心から妻は離れてしまっていたのである。妻という名の、同じ屋根の下に住む女、それだけであった。
ほどなく、蔡瑁より、大金を提示され、妻を所望したいといわれたとき、叔世はためらわなかった。
むしろ蔡瑁に感謝し、これでいまの妻子を守れる、この女も、役に立つではないか、とさえ思った。
そうしてしばらくは平穏であった。
樊城では、蔡瑁の『妹』なる女が劉表の第二夫人に納まった、という話が聞こえてきた。風聞によれば、どうも妻にそっくりのようであったが、叔世は沈黙した。領内のものには、妻は盗賊に襲われ、そこで命を落としたと説明した。
蔡家からは、毎年のように多額の金品が届けられた。沈黙の代償というわけだ。
徐々に胡家はかつての繁栄を取り戻した。胡叔世に才覚があったのではない。運がよかっただけなのだ。叔世に才覚はなかった。そのことを自覚していた。自覚していたがために、大望を抱かなかった。それが、後ろ暗い大きな秘密をかかえてもなお、長生きができた理由である。
しかし、やがて問題が生じた。蔡瑁に攫われた妻の子、済が長じて、母親の失踪に関し、当然のことながら関心を抱くようになってしまったのである。
最初は誤魔化していたが、この息子は、父親よりもずっと聡明であった。父の語る嘘の矛盾点をつき、家人たちをひとりひとり締め上げて、やがて母が生きており、蔡瑁に連れ去られたことを知った。
息子は、是非に母を助けたいと言い張った。
叔世は、息子をなにより疎ましく思うようになった。
このままでは、蔡瑁と胡家の関係がばれる。それどころか、樊城で劉表の夫人と治まっている元の妻の正体がばれてしまう。罪は蔡瑁のみならず、長年の付け届けを受け続けていた、こちらにも及ぶにちがいない。
胡叔世に、長子に対する愛情がなかったのか、と問えば、おそらくそれは、しばしのためらいののち、刃向かわなければよかった、という答が返ってきたことだろう。
胡叔世は蔡瑁に事態を説明した。そうして、母を恋しがる息子に、母親に会えるかもしれぬ、という甘言で釣って、壷中に向かわせたのである。
もちろん、それは、蔡瑁からすれば、いつ裏切るかもしれない胡家に対する、人質の意味もあったのであるが、叔世には、それがわからなかった。
その後、息子と会う機会はあったが、もはや別人のようであった。胡家では用意できないような立派な衣服を身にまとい、男とも女ともしれない…去勢されてしまったのではと叔世は畏れたが、さすがにそれはまぬがれたようである…妙に世慣れた少年がそこにいた。目が合うと、不気味なつめたい笑みを向けてくる。すべてを知ったうえでの、蔑みの笑みであった。
睨まれたり、泣かれたりしたほうがよほどいい。あれは幽鬼だ。心の底から、叔世はそう思った。
わが家の長子は死んだのである。
無理にでもそう思うことにして、叔世はそれ以上、妻のことも子のことも、考えるのをやめた。

※ ※ ※
兵糧や衣服、武器をつめた輜重の車が用意されると、叔世は奥向きから呼ばれ、これから村に出発するという兵士たちの挨拶を受けた。
屋敷には、壷中のことなどなにもしらない妻子がいて、我が夫は、我が父は多くの者に傅かれ、なんと立派なのであろうと誇らしく思っている。
胡家は、最初の妻が『死んで』以来、増築に増築を重ね、このあたりでは右に並ぶものがないほど、大きな屋敷になっていた。井戸は屋敷内に三つもあり、門は四方に四つ。私兵がいつも周囲を見張り、家人の数は数十人に及ぶ。
亡き妻に関する噂というのは、どんなに打ち消しても消えることはなかったが、叔世は気にしないことにしていた。息子があれからどういう暮らしをしているのかさえ…すこし想像を働かせたなら、叔世は恐れおののいてしまうだろうことを敏感に察知して…わからないふりをすることにした。
壷中の長という、播天流という不気味な片輪の男の言にしたがえば、実に優秀だという。
母子そろって、という言葉が気にかかったが、叔世は、それ以上の思考を停めた。叔世にとって、目の前のこと以外に重要なものはないのであり、おのれの手から離れたものが、今この瞬間にどのような目に合わされているかなど、想像の範囲外なのである。天より人に等しくあたえられた宝、想像する力というものを、まるで活かさない、その男が胡叔世であった。
「これより、『村』へ参ります」
「うむ、播天流殿は、いつごろこちらにお戻りなのか」
壷中の若い男は、淀みなく答えた。
壷中に属するものは、みな洒落者で、容姿が優れている。壷中からの使者だという者と、一晩過ごしたことも、一度や二度ではない。彼ら、あるいは彼女らは、命ずれば、けっして断ることをしなかった。
「明日には、胡叔世さまにも、よろしくお伝えいただきたいと」
「うむ、折りがあれば、村に足を運ばせていただこうぞ」
叔世の呑気なことばに、壷中の男が、拱手したその手の下で、嘲弄を浮かべたのだが、叔世にはわからない。
「では、これにて」
いつもであれば、男たちは踵をかえし、輜重を動かして門から出て行く。
しかし、その日は様子がちがった。
男は、拱手したあとに、手をゆるゆると腰に提げ、それからすばやく、鎧をまとったおのれの腰に提げた剣に手をかけて、すらり、と剣を抜き放ったのである。
その凶悪な白い光が初夏の光に輝くさまを、叔世は、わけもわからず見つめていた。
「わが主より、ご伝言でございます。胡叔世、いままで大義であった、と」
なに、という言葉は続かなかった。
一瞬、男の腕が動き、同時にばさり、と頭上で音がする。
何が起こったのだろう。背後にいた家令が、けたたましい声をあげて、どすん、と腰を抜かしたのがわかった。
目の前の視界が悪くなる。
それもそのはず、結髪が、切られて一斉に顔にかぶさってきたからであった。体が動かない。目の前の若い男の、蔑みに満ちた顔が目の前にある。この男がまだもっと幼いころに、同衾したことがある。だからこそ、気安く思っていた。自分の言いなりになり続けるであろう類の、奴隷。それが逆らうことなど、叔世の脳内には、太陽と月が引っくり返ることほどに有り得ない事項であった。
「死ね、そして永遠に呪われるがいい! 豚めが!」
おのれに向けられる呪詛の言葉の意味がつかめない。
そうして、ざんばらに落ちかかる前髪のすきまから、腹に深々と突き刺さった白刃を見下ろし、それでもなお、叔世は、なぜ自分が死ななければならないのかが、わからないでいた。
口に血があふれてきたので、声を出すことができなかったが、できることといえば、まだ存命している母親の名前を、心の中でいっぱいに叫ぶことであった。

若い男が叔世を剣で刺し貫いたのと同時に、輜重の周囲に配置されていた壷中の若者たちは一斉に動いた。
豪奢なつくりの屋敷に、我先にとなだれ込み、まるでいままでの復讐をするかのように、家人たちを引きずりだしては無慈悲に殺し、めぼしいものは奪い、家畜は解放して奪い、屋敷に火をかけた。
みな、その権利があると信じていたので、容赦がなかった。自分たちと、そして兄弟たちの、屈辱と死の蓄積が、ここにある富なのである。
「子供は殺すな」
かつて、自分が、荒野の果てで聞いたものと同じ言葉を、男も兄弟たちに伝えていた。
「村へ連れて行く」
同じ目に。どんなに謝ろうと許してはやらぬ。自分たちも、同じように許してなどもらえなかったのだから。

そのときである。
どおん、どおんと大音声とともに、閉ざされた門を、大きく叩く物がある。
掠奪に気をとられていた壷中のものたちは、顔を見合わせ、門に意識を集中させた。
どうやら、門を破るために、柱をつかい、複数の者たちが、何度も門を叩いているようだ。
近隣の農民たちが、主の難を知って、駆けつけてきたのか? だとしたら、厄介ではある。すくなくとも、彼らは近在の農民には、まるで恨みはない。おかしなことではあるが、彼らは義賊を自認していたので、農民たちならば、殺すつもりはなかった。
「よし、中へ招きいれ、取り囲み、武器を奪え。そして縛って放り投げておけばよい」
何度目かの大音声のあと、互いに目配せをしあい、兵卒たちは、門を開いた。
そして、なだれ込む農民たちを脇から捕らえようとしたのであるが…
まっ先に駆け入ってきたのは、見たこともないほど脚の長い、大きく立派な赤い馬にまたがった、天をも衝くような長髯の大男であった。
手にはぎらりと光る、身の丈ほどある青龍円月刀。そうしてなつめ色の顔には、鋭い双眸があたりを睥睨しており、輜重を放置したまま、掠奪にはげむ壷中たちを見回して、雲も割れる勢いで呼ばわった。
「我は劉予州が義弟、関雲長なる! あさましき影を喰らう者どもよ! 観念し、わが刃の餌食となれ!」
関羽がぐっと手綱を引くと、それに答えるかのように、赤い大きな馬は、鋭いいななきを一つあげると、どどう、と胡家のなかに押し寄せていった。
だれかが、悲鳴のように劈く声で、叫んだ。
「関羽だ! 関羽だ!」
それに呼応するように、関羽の精鋭たちが、同じく波の如く、いっせいに押し寄せてくる。関羽の部隊は、みな関羽の好む黒い鎧に色を合わせていたので、そのすさまじい早さは、黒い大波が大挙して押し寄せてきたがごときであった。
そして、そのあとに続くのが、白銀の鎧を基調とした、陳到を主将とする、趙雲の部隊の者たちであった。
もとより、大きな勲功を狙わずに、着実に敵を片づけることを得意とする部隊だ。関羽たちが大波のように去っていったあと、残され、まだ反撃をしてこようとする壷中の兵士たちを、着実にひとりひとり始末していく。その手際には無駄というものがなにもなく、蛮行もしないために、気を逸らすこともなく、おおよそ感情というものがないようにさえ見えた。そのために、壷中は隙を狙うことすらできなかった。
壷中は、たとえ相手が曹操の精鋭たちでも、相手にできる自信を持っていた。
実際に、小競り合いでぶつかったことがある。
だが、これほど強い兵卒たちとぶつかったことはなかった。
押される一方だ。まるで勝てない。
一つの部隊と戦っているというよりも、一人の得体の知れない大きさをもつ巨人と戦っているような錯覚を、壷中の者たちは抱いた。
戦意が失せていくのは、時間の問題であった。

ほどなく、胡家には、死屍累々が折り重なり、生きているのは、わずかに生き残った胡家の人間と、関羽と陳到の率いる兵卒たち、それから、陳到が絶妙な技巧でもって、相手が子供と知れると加減をして、命だけは取らないで置いた壷中の者たちだけとなった。
嫦娥は、おそらく戦場のあとは見たことがあっただろうが、実際に関羽や陳到の動きのすさまじさを見て、言葉をなくしたようであった。
ふらふらと門をくぐると、屋敷の前にて、前のめりになって倒れている胡叔世の体に触れる。
陳到は、血糊で汚れた槍を、丁寧に拭きながら、嫦娥に尋ねた。
「それが、胡家の主か」
「そうです。死んでいる…最初から、播天流はこの男をも始末するつもりだったのか。蔡瑁に近すぎるから…」
「輜重を用意させ、さらに殺して財貨をも奪おうとする、鬼卒も怖気をふるう振舞いぞ。おい、おまえたち、まだ奥に婦女子が生き残っているようだ。助けてやれ。ああ、その前にその井戸で顔を洗っていけよ。礼儀だ、礼儀。それと、不埒な真似をしたら、宮刑だからな」
「宮刑?」
部下たちに命ずる陳到の言葉に、どこかうつろな顔をした嫦娥が顔を上げる。
「ああ、うちの部隊長の趙子龍どのは、女子供に暴行をはたらく者には、徹底して容赦せぬ。もちろん、どれだけ恐ろしいかみな知っておるので、実行にうつした者はおらぬが、万が一、婦女子を陵辱せしめる者があれば、まちがいなく御将軍みずからが宮刑をされるであろう」
「軍律に反するのでは」
「さあて、軍師はもっと苛烈なお方と見ましたぞ。おそらく問答無用の縛り首」
「あのひとなら、そうでしょう」
嫦娥はいうと、屍の散乱する屋敷を、暗い目をして見回した。
「思いもかけず、輜重を奪うことができたようですね。これで村への侵入はたやすくなった」
「犠牲はあったがな…嫦娥殿、村への道は、あとは間道をまっすぐ進めばよいのでしょう。貴女は、ここでわれらを待たれたほうがよろしいのでは」
陳到がいうのを、奥から泣きじゃくる子供を両腕にかかえてやってきた関羽が、それに同意した。
「儂もそう思う。これから先は、すまぬが女の出番はない。いかな貴女が医者とはいえ、あとは壷中と我らの殺し合い。殺し合いに医者は不要ぞ。それより、この屋敷の女子供を助けてやってくれまいか」
関羽の言葉を黙って聞きながら、嫦娥は、泣きじゃくる子供を受け取った。
「女たちは?」
関羽は、陳到と顔を見合わせ、黙って首を振る。
「そう、ですか。では、この子たちは、いまからわたくしの弟たち、ということになりますね」
「どういうことだ?」
「壷中では、仲間を呼ぶのに、兄弟姉妹と呼びかけるのです。この子の兄の済は、とても優秀な壷中の刺客でございました。樊城にいるのですが、無事かどうかはわかりませぬ」
「む…ともかく、儂のいうとおりにしてはもらえぬか。貴女には感謝しておる。一時は疑ったが、それも謝る。我らは、なんとしても子龍と軍師を助け出したいのだ。貴女に気を配っている余裕がこれからはなくなる。頼む、呑んでくれ」
関羽がいうのを、泣きじゃくる子供をやさしくあやしながら、それでも嫦娥は決然と首を横に振った。
「いいえ、それはできませぬ。壷中の村へ行くのは、わたくしの天命。それに道なりに行けばよい、と将軍はおっしゃいますが、ここから先、間道は二手に分かれます。正面につづく道と、枯れ井戸に隠した地下の道への入り口でございます。この大事なときに、万が一迷われたら、如何なさいますか。かえって怪しまれ、作戦がふいになってしまいましょう。播天流は、川よりこちらに向かっている頃合。問答しているヒマも惜しいほどなのですよ」
「うむ…たしかにそうではあるが」
「将軍方」
嫦娥は眦を決して、関羽と陳到を交互に見た。
「貴方方はお優しい。とても感謝しておりまする。ですが、あえて無礼を承知で申し上げます。わたくしは、壷中の女。血で穢れた女にございます。もとより、死は常にわが背にあり。恐るる物はなく、あるとすれば、本懐を遂げずに生き延びることのみ。わたくしの身になにがあろうと、どうぞお捨て置きくださいませ。嫦娥は、壷中を潰すことのみを生きる糧としてまいりました。もしここで引いてしまったなら、わたくしにすべての思いを託し、死んでいった姉妹たちに顔向けができませぬ。どうか!」
決然という嫦娥に対し、関羽も陳到も言葉がない。ふたたび顔を見合わせるが、そのどちらの顔にも、これは動かせまいよ、と書いてあった。
「わかった。さすれば嫦娥どの、貴女を村に連れて行く。引き続き、案内をお願いできるだろうか」
「お任せくださいませ。目隠しをしても行くことが可能ですわ」
嫦娥は、陳到が知る限り、はじめて顔をほころばせて笑った。その顔はまるで童女のようで、むしろこの修羅に似合わず清らかで、陳到は胸を痛ませた。

                           ※ ※

間道は、途中より道が狭くなり、そして茂みに覆い隠すようにしてある、小さな洞穴の入り口にぶつかった。
それが熊の巣穴の類いではないことは、入り口に積み重なれた土塁の形ですぐにわかった。近在の猟師たちに気づかれぬよう、たくみに葉をかぶせているのである。花安英の案内がなければ、存在を見つけることはかなわなかったにちがいない。
「この間道を、川からやってくる播天流たちが使う可能性はないだろうか」
崔州平の問いに、花安英はきっぱりと答えた。
「ないでしょう。播天流が水路を選んだのは、樊城の金目のものを、すべて村に運び入れるため。それだけの大荷物を、この間道は通り抜けることができませぬ。おそらくは、正規の街道を通って、正面からやってくることでしょう」
「間道内に、哨兵が配置されている可能性は」
「ないかと。間道の存在を知るものは、わたくしと播天流、それから風狗のみ。これをつくった人夫はことごとく殺してしまいましたから、哨兵を置く手間はないと、播天流は笑っておりました」
「まったく、おまえたちと話をしていると、人の命が砂粒よりも軽く思えてくる」
崔州平は、ぶつぶつ言いながら、洞穴に繁る木々をかきわけた。そして、花安英をかつぐ孔明に振り返る。
「きつかったら言えよ。そもそも、俺としては、なんだっておまえまで律儀にここまで来なくちゃならないのかが、よくわからないのだがな、軍師」
そうして、崔州平の部下たちと同様に、黒装束に身を固めた孔明を見遣る。
動きやすい筒衣と単衣、加えて頭巾、という出で立ちの孔明は、その常を知る者からすれば、まったくの別人に見えた。
しかし、崔州平は一歩、後退すると、まじまじと孔明を眺め、それから言う。
「おまえは、駄目だ。目の印象が強すぎる。これを」
といって、目を覆い隠すための仮面を取り出した。孔明はそれを受け取ったものの、しばしためらい、つけることをしなかった。すると、幌の縁で、負ぶってもらうのを待っている花安英がいう。
「それがなければ、あなたの目は印象が強すぎる。すぐにばれてしまいますよ」
崔州平を見ると、もっともだと頷いているので、不承不承ながら、孔明は面貌に目を隠す仮面をとりつけた。視界が悪いし、鼻の上に違和感がある。
「物好き軍師、ここでやめてもよいのだぞ」
崔州平の言葉に、しかし孔明は以上に頭を振った。
「彼を知り己を知れば、百戦危うからず。ところがわたしは相手のことがさっぱりわからない。だから、この目で確かめにいくのさ」
「長生きしないよ」
孔明の憎まれ口に、親しい友ゆえの軽口で切り替えしつつ、崔州平は洞穴に入っていく。そのあとを、部下たちが続いていく。
「なるほど、突貫工事だったのだな、いつ落盤してもおかしくない。あまり大声を立てるな」
崔州平が指示をしたとおり、洞穴は、ただ岩穴を砕いただけのもので、補強の類いもなにもされていなかった。時間も人も足りなかったのであろう。人夫は罪人だったということだから、目の前に死が待っているとわかっていて、丁寧な仕事をこなすはずがない。
「花安英、この洞穴は、まちがいなく村の外れの枯れ井戸に出るのだな。そこに出たとたん、哨兵がずらりと並んでいる、などというのは、なしだぞ」
「ご安心を、といえないところがつらいところですが」
おいおい、と孔明は小さく呟きつつ、存外に重い、小柄な花安英の体を担ぎなおした。
花安英は、樊城にて、腹を深々と突き刺されたのであるが、驚異的な回復力をみせ、その後の手当てもよかったのだが、傷はほとんど塞がり、熱も引き、黄疸も出ずに、順調なのであった。
この少年の、捨て鉢に見えて、じつは誠実で、なにかに縋ってやまない気性を知った孔明は、むしろ花安英の経過が、もうすこし悪ければよかったのに、とさえ思う。この少年が、風狗によって殺された程子聞に寄せていた想いは本物であった。だからこそ、危ういのだ。
風狗は趙雲によって倒されたけれども、花安英の憎しみと悲しみは、果たしてそこで割り切れたものであろうか。実の父によって、修羅に突き落とされた、あわれな少年。そのわずかな人生の清算をするために、妙な計算を働かせていなければよいのだが…
おのれの咽喉下に巻かれた、両の手の色が白い。ときたま、担ぎなおすと、ぐっと力が込められる。背中に接する胸の熱さが、愛情にも似た思いをさらに強くする。
もし孔明に子がいたら、それが父性愛と同質のものであるとわかったであろう。

洞穴は、いくつか分かれ道になっていたが、花安英の案内を待つまでもなく、点在する蝋の存在で、入り口がすぐに知れた。慎重なようでいて、どこか抜けている体質というのは、ここにも見え隠れしている。
ふたたび花安英を背負いなおし、八尺の孔明にはいささか低すぎる天井を、崔州平たちのあとにつづきながら進んでいると、ほかならぬ花安英から声が掛かった。
「そんなに大変ならば、わたしを下ろして行きなさい。もう大丈夫、歩けるから」
「だめだ。傷が開いたらことだぞ」
傷なぞ、と、どこか投げやりにつぶやく花安英に、孔明は、じっとり汗ばむ額を気にしつつ、言った。
「言うのを忘れてしまったが、花安英、そなたはわたしにこれほどの迷惑をかけておいて、まさか死ぬつもりではあるまいな」
しばし、答えはなかった。孔明がこれほど直截に尋ねてくるとは、思っていなかったのだろう。孔明は暗澹たる気持ちになりながらも、薄闇をすすむ。
ほどなく、花安英の返事がかえってきた。
「勝手にあなたが助けたのだ」
「助けたことには変わりない。樊城でわたしが言ったことを覚えているか。かならずおまえを更生させると。わたしは、おまえを生かすのだと決めた。そなたは、壷中として多くの命をあまりに多く殺めてきた。おまえは、おのれの手が穢れていると思うか」
「きれいではないでしょう」
「そうだな、おまえの手はたくさんの血で塗れている」
「血に穢れた生き物を、まっとうな道に立ち返らせ、反省させ、つぐなわせようと? そうして自己満足にひたろうとおっしゃるのか?」
「その口ぶりでは、そう考えた男がどこかにいたらしいな。だが、怒るぞ。わたしを誰だと思っている」
「襄陽きっての変なひと諸葛孔明」
「そのとおり。わたしは、おまえが道を外したとは思わない。道を外している者とは、まっとうな顔をしてごく普通の生活をしていながら、周囲を軽蔑し、だれをも信用せず、裏で悪口ばかりをたたき、人が前に進まんとする意気をことごとくくじく類いの人間ぞ。人は極限におかれた場合、不本意であろうと、戦い、血肉を裂く覚悟を決めねばならぬ。おまえのいたのは、まさにその極限であったのだ。それを責めることは、まさにお門違いというものであろう」
「わたしは正しいと」
「壷中というもの事態は大きな悪だ。だが、その悪に絡めとられ、そうしなければならない立場にあったおまえは悪ではない。おまえがおのれを悪だと、穢れたものだと恥じているのなば、いますぐに止めよ。それができぬというのであれば、花安英よ、わたしはここで、おまえを捨てていく。だが、おまえが己のために戦うというのであれば、たとえ片足だけになろうと、目指すところへ連れて行くつもりだぞ」
「なんのために? 亡くなられた、叔父君のためか」
「それもある。しかし、おまえのためだからだ。偽り続けてきた己を捨てよ。もし戦うつもりなのであれば、もはや理屈も理念も不要。心のままに戦え。おまえはそうせねばならぬのだ。ほかならぬ、おまえの目の前で死んでいった者たちのためにな」
孔明の背のうしろで、花安英が声をたてて笑ったのがわかった。
「とても軍師たる方のお言葉ではございませんね」
「そうかね。人から守られた者は、守ってくれた者の遺志を継ぎ、最善を尽くすべきだと思う。わたしの場合は、叔父の意思を継ぎ、壷中を潰す。おまえの継いだ遺志はなんだ? それは、おまえがいちばんよく知っていることではないか」
「わたしにふたたび血に見(まみ)えよと」
「そうだ。這い蹲り、泥をすすり、血にまみれて生きよ。不様でもかまわぬ。それが生き残りしものの責務であり、贖罪なのだ。嘆くヒマはないぞ。わたしは亡者たちの意志を守るためならば、いかなる者の血も浴びる覚悟だ。善悪、正邪も関係ない。もはや振り返りはせぬ。立ち止まりもせぬ。おまえはどうだ」
「伴に戦えと、そうおっしゃるのか。だからわたしを背負って進まれるのか」
「そうだ。人は常に、まったく同じ道を歩くことはできぬ。だが、同じ方向を目指して、励ましあって進む旅人同士にならば、なれる。わたしは、おまえと生きるという約束はできぬ。だが、おまえを命ある限り、気にかけ続けるであろうことは約束する。どうだ、わたしと同じところを目指して歩かぬか」
ふたたび、花安英のくぐもった笑い声が聞こえてきた。しかし、先ほどとはだいぶ柔らかい調子のものである。
「かび臭い洞穴で聞く言葉では有りませぬな」
「場所は選べなかった。すまんな」
花安英からの返事はなかった。
なかった代わりに、孔明の首のあたりに巻かれた両腕が、さきほどよりぐっと強い感触をおぼえた。それが肯定の返事であった。
不思議と、叔父の顔が脳裏に浮かんだ。いつも思い出されるのは、樊城で災禍に遭い、怯える孔明を宥めようと、懸命に笑う痛々しい笑顔ばかりであったのに、そのときは、いちばん思い出したかった、太陽のように明るい笑顔であった。悲しみも苦しみもすべて抱えたうえで、人に希望を与えられるような、明るい笑顔を持ってみたい。
わたしはいま、花安英を救い出すことができたのだろうか。他の子供たちも救い出せるのだろうか。向かう先がいかに荊の道であろうと、進まねばならぬ。ほかならぬ、彼らのためだ。
そして、なにより助け出したいあの男を、かならず助けに行く。そして言おう。
「わが道は太陽の示す道ぞ…かならず、そなたもわたしも、闇から脱け出すことが出来よう」
「あまり期待しないでおきます。あとで裏切られたとき、辛いから」

貧乏性だな、と孔明が軽口を叩く前方で、崔州平が足を止めた。
どうやら出口らしい。
「なるほど、たしかに古井戸に突き当たった。だいぶ日も落ちたようであるな。都合がよい。みな、隠れて様子を見よ。物音を立てるな」
そうして、崔州平は、部下たちに肩車をしてもらう格好で伸び上がると、古井戸にかぶせた板塀をそっとずらして、表の様子を探る。そうして、戻ってくると、孔明たちに行った。
「天はわれらに味方をしておる。どうやら、輜重が到着したようだ。村人たちはみな、そちらに気をとられている様子。いまが機会到来ぞ。打ち合わせどおり、素早く動け。薬草庫の位置は、まちがいないな、花安英」
崔州平に念を押され、孔明の背中越しに、花安英はうなずいた。
「よし、まずは薬草庫よりしびれ薬を盗み取り、村人の井戸という井戸へしのばせるのだ。まだ夕餉のしたくも終わっていない様子だ。重畳ぞ。食事に薬を忍び込ませれば、ほどなく効果は出よう。そこで、われらは村を制圧し、播天流を待ち受ける。よいな?」
崔州平の部下たちはそのことばに強くうなずいた。
しかし孔明としては、輜重を運んできた男は、おそらくは花安英の実家の胡家のものであろうと考えると、複雑な思いに捕らわれるのであった。

次回、『太陽』 14につづきますm(__)m
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