孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

壷中の隠れ村のある義陽への間道はすぐに見つかり、案内人が優秀なのもあり、これまでさしたる混乱もなく、行路はつづいている。
明日には義陽に到着するであろう。
さまざまな想いが胸に去来する。
見上げると、夜空には、煌々とかがやくほの白い月が、地上の寝静まるありとあらゆるものを監視するかのように、冷たく君臨していた。
月があまりに大きく明るいために、ほかの星たちは闇にかすんでいるようにすら見える。
炎番を自ら買って出て、崔州平は、みなの寝静まった陣のなか、ひとり、空を見上げていた。
明日は、修羅の中に身を置くことになるであろう。だが、いまは嵐の前のように静かで穏やかな時間が流れている。
そして、ふと、かつての村での出来事が頭をよぎる。

こんな夜は、大人たちが眠らないために、子供は息をひそめていたものだ。
だれも自分たちのところに忍んでこないようにと、祈るばかりの夜だった。早く朝になってほしいと願い、熟睡できたことはまったくない。どんなに厳しい訓練を積んだあとでも、夜の恐怖のほうが、肉体の疲労にまさっていたのだ。だからまだ幼いというのに、心を狂わせて死んだ子供たちもたくさんいる。
それでも生きていられるのは、子供である、という以外に、とりたてて風采が優れているわけでもない自分が、彼らの好みではなかった、ということだ。
結果的に、おかげで実家へ戻るときも、さほどもめなかった。
親がどれだけの金を劉表や播天流にばらまいて、死んだことにしておいた次男坊を取り戻したかはしらない。また、興味もなかった。家を守るために売られた子供を、金で取り戻した。それだけの話だ。

容姿のよい子供の末は悲惨だ。早くに別の訓練をするために、仲間たちから離される。その訓練の内容は、ほかの子供たちに知らされることはなかったが、彼らの大半が、一度村を出たら、それきり戻ってくることがないために、自分たちより、もっと恐ろしい目に遭っているのは確実だった。
しかし、子供のなかには、彼らが自分たちとはちがって、人殺しのための厳しい訓練を積まされることが少なかったから、きっと贔屓をされているのだといって、うらやましがっていた者もいた。やがて成長すれば、彼らがどんな仕事をするのかわかり、だれもそんなことは言わなくなる。
彼らは潜入先への囮として使われる。その美貌と色を武器に、標的の心を逸らし、その間、ほかの壷中たちが動いて、任務を遂行する。運良く任務が果たされれば、囮ともども引き上げることができたが、たいがいの場合において、囮は見殺しにされる。

昼夜別たず厳しい訓練を積まされているのにもかかわらず、ふしぎと壷中の任務達成率は低かった。
子供たちは村である程度成長するまで、実家のことを口にすることを禁じられる。
そして村での暮らしに慣れてきたころ、ようやく村と、外の社会とのかかわりと仕組みを教えられる。
播天流や、その部下である老師たちは、とにかく劉表が儒の最後の砦であることや、それを守るための壷中の素晴らしさを賛美するのであるが、それを聞く子供たちの内側に芽生えるのは、絶望だけであった。
それまで、もしかしたら帰れるかもしれないと、唯一の希望としていた帰郷は、どんなことがあっても叶わないということがわかったうえ、しかも自分が村から逃げたら、故郷の家族に累がおよぶことが明らかになるだけだからだ。
だから彼らは総じて、刹那的な暮らしを好むようになる。危険を好み、向こう見ずで、だれのことも信用しない。
互いに互いを密告しあって、厳しい暮らしをすこしでもよくしようと努力するだけが村の生活。仲間意識もなければ、情も湧かぬ。悲観的で、死を望む。
かれらはその毎日を、死に向かって生きているようなものだった。

村から出ても、沁み込んだ人間に対する不信感は、消えることがなかった。
それでもしばらくは穏やかに過ごした。
この穏やかな時間こそが、壷中においてきた兄弟たちの苦しみを土台にしたものだと、胸に痛みをおぼえながら。
やがて、実家に帰された自分の身代わりとなって、庶子であったという理由だけで壷中にやられた弟の身に降りかかった、あまりに悲惨な出来事を知ると、崔州平は、それまで、胸の奥でずっと氷河のように凍り付いていた憎悪の塊が、ゆるゆると溶け出していくのを感じていた。
そして、みずから曹操の前に立ち、自分を、劉表をほろぼすための尖兵に使って欲しいと願い出たのだ。
曹操は崔州平の意気におおいに感じ取るところがあったらしく、快諾をくれた。
崔州平は、曹操の細作たちが捕らえてくる壷中の者たちをひとりひとり説得し、仲間につけていった。
かつての仲間だった男の言葉は、どんな言葉や脅しにも屈さぬと、曹操の細作たちを困らせていた壷中の者には、魔法のようによく利いた。
仲間はどんどん増えていき、系統だって動けるほどの組織にまでなった。
これならば、壷中と戦える。
そう判断し、崔州平は荊州でことをかまえる準備をはじめた。
荊州の者たちは、この地が十年ちかく、壷中という名の組織に守られてきたことをしらない。
無辜の民を残虐に犠牲にして成り立った平和だ。幾多の子供たちの呪詛を受けて、いまこそ炎に飲まれてしまうがいい。
崔州平のもとにあつめられる情報は、そのまま部下たちによって正確に許都に伝えられた。
曹操は、崔州平がよしと判断した情報にしたがって、すぐに南下してくる。
だが、曹操を迎え入れるだけでは、崔州平の復讐は終わっていない。
壷中の村をひとつひとつ潰すか、それとも罠をかけて樊城にあつめ、子供たちを救い出し、老師たちを刑場にひったてて殺すか。


策を練り、ことを具体的に詰めていく崔州平の前に、訪問者があらわれた。
それは、思いもかけない相手であった。村で一緒だった女だったのである。
女は一人ではなく、品のよい、初老の男を伴っていた。とはいえ、親子というふうでもない。
初老の男のほうは、崔州平は見たことがなかった。崔州平が知っているのは、村に出入りしていた大人たちだけで、村の外で動いている壷中は、名前は把握していたけれど、顔と一致していなかった。
女のほうは、よく知っていた。
女の姿を見たときに、崔州平は、壷中におのれの動きが知れたのかと怖じたほどである。

その女は、かつては壷中の村におり、崔州平と同様に、ある名家から差し出された少女であった。
面差しに生まれ持った品があり、双眸が群を抜いて美しいというので、あえて色をつけず、年頃になったなら、とくべつな仕事につかせようというので、例外的に清い身のまま、十五まで、さしたる訓練をうけることなく過ごしていた少女であった。
ところが、老師たちの思惑がはずれたことには、その少女は十二を越えたあたりから、ぐんぐんと杉の木のように背が高くなり、並みの男たちは普通に見下ろすまでになってしまった。
容姿は磨きぬかれた白い玉のようにうつくしいのに、背が高すぎるので、とても男の気を引ける少女ではなくなってしまったのだ。
これは使えないということで、ふつうならば、少女はほかの子供たちの訓練に戻されるところなのであるが、少女はちがった。
彼女は、他の子供たちが血を吐くような訓練をつづけている傍ら、書院にこもって、難解な書物を何冊も読破し、知識を身につけていた。
その主な知識は医学に関するもので、実際、少女は、舞や筝の稽古が終わると、壷中の医術をこころえる老師の手伝いをしていた。少女の聡明さや、度胸のよさは、医者に向いている、というので、少女はそのまま、医術を専門にまなび、敵方に盛る毒を調合したり、あるいは、女たちの堕胎の手伝いをしたりすることになった。
村での自由な色事は一切禁じられている。
だが、その裏で、過酷な労働のはけ口を求めるかのように、長じて、大人たちの監視がゆるくなった壷中の青年たちは、かつての復讐をするかのように、子供たちを毒牙にかける。そのため、少女たちは特に受難を蒙る。また、外での任務に連れ出されたさいに、意に添わぬ形で男を相手にしなければならない少女も多かった。
腕のよい堕胎医は重宝された。少女が仲間の少女たちから、特別に尊敬のまなざしを受けるようになるまでに、時間はそうかからなかった。
運がよいと、崔州平は、わずかに妬ましく思ったが、仲間の少女の堕胎を手伝う彼女は、いつもつらそうであったし、体を治癒するということで、ほかの仲間たちよりも、ずっとみなに深入りする形となって、その分、重荷を背負っていることに気づくと、やがて少女に同情するようになっていった。
とはいえ、壷中では、男女は別々の宿舎で眠り、訓練時以外では口をきくことも禁じられていたから、村で言葉をかわしたことはない。
少女は、崔州平とほぼ同時期に、実家の跡取りの弟が病死したので、村から出ることになった。
それからしばらく会ったことがなかったが、意外なところでその姿を見ることとなった。
少女はすっかり女になっていた。
女をそこで見たときに、崔州平は、壷中がどれほどに諸葛玄のことを過剰に恐れていたかを知ったのであるが、それはさておき…

崔州平は、屋敷にやってきた女に、かつての名で呼んだ。すると、女は首を振り、どこか悲しそうな目をして言った。
「もはやその名は捨てました。わたしの名は嫦娥。夜の闇を照らす、月の女神からあやかって頂戴したものです」
かたわらの初老の男も名乗り、それが、新野にいる劉備の股肱の臣、糜竺だと知って、崔州平は、さらに驚いた。
この二人の共通の知り合いといえば、そして自分にも繋がる者といえば、孔明しかいない。
いや、もうひとつ、繋がりがある。
壷中だ。
さては、この二人は、劉備側から壷中の動きを封じるために送られてきたものか? いや、あるいは劉表に指示された劉備が、この二人を俺のところによこしたのかもしれぬ。
構える崔州平に、嫦娥は言った。
ひとつひとつの言葉が、選ばれぬいた言葉に聞こえた。
「壷中を潰したいのです。たとえあなたが、曹操の幕下の者でもかまわない。わたしは、壷中の命令に従って、多くのちいさな命を殺しつづけてきた。そうしなければ生き残れなかったとはいえ、わたしは自分を呪います。その償いをしないかぎり、死んでも死にきれない。壷中を潰せるものならば、ともに戦います」
それがはじまりとなり、崔州平は嫦娥や糜竺らと連動して動くことになったのだ。

もしも、播天流の暴走がなかったなら、ことはもっと容易にいくはずだった。
糜竺は嫦娥の毒を劉表に盛り、まず天辺の頭をつぶしたあと、つづいて壷中の村のひとつひとつを解放していくという予定であった。
播天流が、かつての部下であった趙子龍を、異常なほどに憎んでおり、その存在を社会から抹殺するために、奇妙な行動に走るということがなければ、ことはもうすでに終わっていたかもしれない。
嫦娥と糜竺の案により、もし自分たちがうまくいかなかった場合、本来ならば壷中を本当の意味で仇といえる孔明に後事を託そうと、わざと意味ありげに『壷中』の名を告げ、印象を刻ませた。徐庶の手紙のニセモノをつくって、わざと孔明を怒らせもした。
だが、糜竺が樊城より、手ぶらで戻ってきたあとに、立て続けに起こった出来事に、崔州平は身動きがとれなくなった。
とりあえず、糜竺を新野に返し、情勢が落ち着くまで隠れさせたあと、樊城の様子を伺いつづけた。
劉琦の学友が趙子龍の部下によって暗殺され、どうやら家督争いに一石を投じるために、諸葛孔明が裏で糸を引いているらしいと、樊城の文官たちが噂していると知り、ますます混乱した。
孔明は、別の意図で糜竺が告げた『壷中』のことばを鍵にして、思わぬ早さで樊城に巣食う闇の存在に気づいていった。
だが、同時に崔州平も、すべての行動の練り直しを余儀なくされたわけである。


ぱちぱちと音をたてて闇に浮かび上がる赤い炎の、その神秘的な動きと揺らぎを、眺めるともなしに眺めて、崔州平は今後のことについて頭をめぐらせていた。
荊州の各地にあった村々に放った部下たちは、それぞれ、村がすでにも抜けの空になり、どうやら義陽に集りつつあるという報告をしてきていた。崔州平たちは、播天流が劉表を裏切っていることなど夢にも知らなかったので、彼らの動きに悔しく思うと同時に、安堵もしていた。
もし、播天流という男の狂気が、諸葛孔明と趙子龍という存在のために、あぶりだされていなければ、壷中が分裂していることもわからず、とかげの尾だけを捕まえて満足し、頭の部分は逃げられたままになっていたかもしれない。

もうすこしだ。もうすこし。
長年味わった苦痛を、悲しみを、屈辱を晴らすときが来ている。
これが終わったなら、妻と子供たちを追いかけて許都へ向かおう。高位はいらぬ。家族で平凡に暮らしていければそれでよい。
自分は、あまりに早く老いすぎた。そしてあまりに醜いものを目の当たりにしすぎた。もはや、平凡であること以上の望みがなくなってしまっている。
妻の杏の顔を思い出し、そして子供たちの顔を思い出して、崔州平は、思いもかけず、不安と恐怖に揺さぶられる。
壷中の実力は、自分がよく知っている。義陽に総員が集っているというのならば、これだけの手勢で、立ち向かえるものなのか。二度と遭えなくなるかも知れぬ。
いやだ、死にたくはない。
「州平、眠れぬのか」
この男の声は、なぜだか人を安心させる。態度は倣岸不遜、まぶしいまでの美貌と、周囲に守り抜かれた幸福な生活。崔州平の嫉妬する姿そのままなのに、一度も本気で憎んだことがない。
あてがった馬車の幌から身を出して、孔明は、炎番をする崔州平のそばにやってくる。
両腕には、しっかりと、徐庶の剣が抱えられている。まるで彼の人が剣に宿っているかのように、義陽への道のりで、孔明は片時たりとも剣を手放そうとしなかった。
生暖かい幌の中と、山中の空気はちがうのだろう。初夏とはいえ、孔明はぶるりと身を震わせると、足早に炎の前にやってきた。
「あの少年は落ち着いているのかね」
「花安英かい。ああ、熱も引いてきた。おどろいた体力だ。よほど鍛えていたのだな。体をゆったりめの衣で隠していたので、とてもそうは見えなかった。華奢な子供に見えていたのだが」
と、ここで不意に孔明は、なにかを思い出したらしく、その唇に笑みをはいた。
「だが、わたしの主騎は、なにかがおかしいと気づいていたというのだよ。たいしたものではないかね。わたしは武人というものは、みな愚鈍で残酷で、情緒などさっぱり解さぬ獣のように思っていたがあるが、あの男に会ってから、自分の思い込みや小ささを見せ付けられた」
孔明がおのれを相対化して、人をそのように褒め上げるところを初めて見た。興味をそそられた崔州平は、斜め向かいに座った孔明の顔を見るが、さらに驚いたことには、孔明はいままで見たこともないほど思いつめた顔をして、じっと炎を見つめているのである。
「州平、播天流という男は、君から見て、どんな男だろう」
親友の親友たる所以で、崔州平は、すぐさま孔明がほんとうに聞きたいことに気がついた。
「嘘も誇張も言わない。あれは狂人だ」
一瞬、孔明の表情に、まるで針で付かれたような痛みが浮かんだ。
「虜を平気で拷問にかける男か」
「無事ではあるまい。あえて残酷なことを言わせてもらうが、覚悟をしておけ。生きていれば、それだけで幸運だ」
赤い炎に照らされる孔明の表情は、仮面のように血の気が失せて、白い。貧血を起こしているのではないか。配給した食べ物はきちんと食べたのだろうか。崔州平は、孔明が、なにかひとつの気にかかることがあると、食欲がまったくなくなってしまう性質を知っていた。
孔明は、抱えている剣を、ぐっと掴んで、崔州平に尋ねてくる。
「嫌なことを質問する。君は、わたしを憎いと思ったことはないか」
「ない」
即答した。これは自信をもって答えられる事柄であったからだ。
「わたしは、君らを苦境に追い込む礎を作った男の甥だ。それなのに、ずっと安全なところにいて、みなに守られてこの年まで生きてきた。わたしは思うに、ずっと子供のままなのだと思う。わたしが本来味あわなければならなかった痛みのすべてを、まるで君たちが代わりに受けてくれたようなものだ。崔州平、道中ずっと考えていたのだが、わたしはこのまま、おのれの道を進んでよいとは思えなくなっている。この償いはなんでもする。言ってくれ」
「なんでも?」
「ああ。なんでもだ」
剣を掴む手が白い。
この莫迦、みょうに見当違いの思いつめ方をするのだ。自分では複雑な人間だと思っているらしいが、こちらから見れば、とんでもない純粋莫迦だ。だから新野の人間と気が合うにちがいない。
すこしばかり意地悪な気持ちになり、崔州平は言った。
「では、俺と共に曹公の前に膝を折るか」
「それが君の望みなのか」
孔明は暗い瞳をして言い、それから、目線を落として、言った。
「そういえば、いつであったか、君は天下を治める宰相になりたいと言っていたね。それが君の望みであるなら、わたしはその手伝いをするよ」
「宰相? そんなこと、言ったかな」
そう言って、声を立てて笑う崔州平に、孔明は目をぱちくりとさせる。
その表情が、出会ったときの紅顔の美少年そのままであったので、懐かしくなり、また崔州平は笑ってしまう。
「なあ、孔明、俺は、とっくの昔にそんな夢を見ることをやめてしまっているのさ。水鏡先生は、門下生に大望を抱かせるのがお上手であった。俺も、一時は、そんな途方もない夢をみたことがあったが」
「君ならば、果たせるだろう」
「おい、よせ。おまえが言うのは嫌味だぞ」
戸惑う表情を見せる孔明に、崔州平は妙にほがらかな気持ちになって、つづけた。
「なあ、なぜ俺が、身の丈に合わぬ夢を見ることをやめたのだと思う?」
「曹操に会ったからか?」
「ちがう。たしかに曹公も怪物じみたお方だが、その前に、俺は夢をあきらめていた。あきらめていたからこそ、曹公の配下になることに、迷いがなかったのだ」
「では、なぜ?」
ふふん、と鼻を鳴らし、学生のころに戻ったかのように、いささか傲慢な口調で、崔州平は言う。
「俺はおまえたちとは別に、各地を放浪していた。袁紹を打ち破った曹公の実力がどれほどのものなのかを知りたかったし、西涼の羌族をたばねる馬氏の動向、公孫氏が南下するかどうか、小覇者亡きあとの江東の動き、蜀に閉じこもる劉璋の今後の対策、すべてを知りたかった。知った上で、俺の力を存分に生かせる君主を求めていたのだ。
ほんとうに、ありとあらゆるものを見たぞ。ただの書生であれば、見ることもかなわなかったような裏側を見ることもできた。壷中もまんざら捨てたものではない。そんな顔をするな。冗談だ」
『そんな顔』の孔明は、まるで負ったばかりの火傷に触れられた人のように、痛ましい表情をしていた。それが嫌味にならないところが、この男の愛嬌なのである。
「東西南北どこへも足を向けた。貴賎を問わず、さまざまな者と出会った。ところでね、おまえは人を量るときに、なにを基準にして量る? やはり、だれか見知った者、あるいは書物の中で出会い、おのれのなかで神格化している理想の英雄と比較するものだろう。俺も、最初はそうしていたのだよ。
ところがだ、ある時期から、自分が奇妙なことをしていることに気づいた。俺は、いつも知ったやつと、よその人間を比較している。そして、困ったことに、どんな人間と比べても、俺の知っているそいつは、格段に優れているのだ。そして俺は、襄陽で毎日のように顔をあわせていた親友が、じつはとんでもないやつだ、ということに気がついた。
間抜けな話だよ。何年も行動を供にして、離れてようやくその事実に気づく。俺はその程度の眼力しか備えていない、凡人なのだ。おまえのことを、理解するのが遅かった」
「だから、曹操の元へ?」
「いいや、俺という人間の性分には、曹操くらい大きな勢力の下につくのが一番合っている。俺は平和な暮らしがしたいのだ。お前のように、理想のために重荷を背負って、仲間たちと苦労をしながら前に突き進むような生き方はできない。俺は子供の時分に、私というものを一切ゆるされなかった。
だから、いま与えられた私…家族を守りぬきたいのだ。対称的に、おまえには私がない。だが、それを恥じることはないぞ、孔明。おまえはその名のとおり、明るく輝くもの。唯一無二の太陽なのだ。太陽に裏側があってはならない。おまえは与えられた運命を行け。俺は別の道を行く」
孔明は沈黙した。
打てば響く、といったこの友からすれば、めずらしい反応であった。だが崔州平には、友であるからこそ、孔明の沈黙する意味がわかる気がした。
怜悧な顔をして、その実、情に脆い親友が、赤子のように泣き出さないうちに、話題を変えてしまうのがいいだろう。
こちらとて、このまま言葉をつむいでいたら、自分のことばに押し流されて、泣きそうになってしまう。できることならば、襄陽で過ごしていたときのように、気心の知れた友三人で生きていきたいと思う。
だが、もう遅い。道は別たれた。いつか見た草原の轍のように、もはや道は交わることはなく、ただひたすら前に進むしかほかにない。たまに横を向いて、お互いの行路を確かめる。
そうして励ましあうことが、三人の選んだ道であった。

「さて、湿っぽい話はこれで打ち切りにして、重要な話をしよう。義陽の隠し村であるが、どんな容をしているのか、大方の予想はつく」
と、崔州平は、枝をひろって、火のそばの地面に大きな円を描いて見せた。
「これが、播天流が好む村の陣容だ。荊州の方々にあった壷中の隠れ村は、みんなこの容(かたち)をしている。あいつは、かつて袁紹に攻められたときのことを覚えていて、いつ攻め手がやってきてもすぐわかるように、四方八方に見張りを置いている」
「周囲をぐるりと取り囲めたら、容易いな」
地面をじっと睨んで言う孔明の声は、わずかに震えている。やれやれ。
「ところが、あいつも莫迦ではない。村の位置はいつも険阻な山間か、あるいは崖っぷちなのだ。つまり、村自体は円を描いているが、攻める側としては、側面しか攻めることしか出来ないようになっている。しかも村の中には、縦横に地下の抜け穴があって、万が一の時には、間道に脱け出して、逃げられるようになっているのだ」
「その間道を、いまわれわれが逆に伝っている、というわけか」
「だが、村の規模はそれほど大きくはない。村を作るに当たっては、劉表は惜しみなく人夫を播天流に与えた。たいがいが、あとで始末してもあとくされのない囚人ばかりだ。だが、あの花安英の話からすれば、今回は、播天流は、義陽の村を作るに当たり、劉表には内密で動いたらしい。
だから、人夫もさほど動員することができず、村は小さい。それなのに、壷中の全員を集めているどころか、壷中に関わりのある豪族たちをも村に集めている。あきらかに、村は人口過密だ」
「山間に村を築いているとなると、水や食糧はどうしているのだろう」
「そこだ。井戸を掘ってはいるだろうが、たかが知れている。そも、播天流は、なんのために豪族の家族たちまで村に集めていると思う?」
孔明は、しばし考え、それからさあっと血の気を引かせた。
「まさか、豪族たちを抹殺し、その金品を奪うためか?」
「おそらくな。そも、壷中はそういった蛮行を繰り返して続いてきた組織だ。いまさら豪族たちと宥和して、曹操と対抗しましょう、などと言い出すとは思えない。とはいえ、集ってきた連中は、みな後ろ暗いところがあるやつばっかりだ。いまさら、そいつらを助けてやることもないとは思うが」
ぱちぱちと小さな音をたてて燃え続ける炎越しに、孔明の責めるような視線が刺さってくる。
「いままでは、君の皮肉な物言いは、君の性格から来ているものだとばかり思っていた。だが、そうではない。君も花安英も、同じように他者をあっさり突き放す。そうしなければ生きてはこられなかったことはわかっている。でも、そうした態度を続けるかぎり、君たちはずっと、壷中に捕らわれているのだ。ちがうか」
「かもしれぬ」
「州平、繰り返しになるが、わたしに出来ることがあるならば言って欲しい。叔父の償いは、わたしがする。それとも、わたしでは力不足だろうか」
崔州平は、ふうっと大きなため息をつき、それから気を紛らせるべく、頭を掻いた。
「ならば言う。俺は、正直、壷中の村に集った連中は、すべて見殺しにしてもいいと思っている。俺の作戦はこうだ。村に着いたなら、夜になるのを待ち、村を取り囲んで、火矢を射掛ける。あらかじめ、退路に兵卒たちを配置しておき、逃げてきた者たちをすべて抹殺する。降伏すればよし、降伏しなければ容赦はせぬ。まあ、壷中のことであるから、降伏なんぞしないであろう」
「莫迦な。そのような策をとれば」
「そうだな、おまえの捕らわれの趙子龍も、火に巻かれて死ぬ。運が良ければ助かるかもしれぬが、もともと趙子龍は劉備の家臣。曹公の敵ぞ。そしておまえもだ」
「州平、本気か?」
「本気だ。俺の願いを言う。俺のやることに手を出すな。もし、気に食わぬというのであれば、俺の策を上回る手段をなにか立てるといい…止めてみろ」
孔明の顔に、さきほどまでなかった怒気があらわれた。
崔州平の感覚からすれば、主騎という者は、主を守ってこその盾。使い捨ての人材である。だが、孔明はそうは思っていないらしい。趙子龍の話題になると、孔明は、らしくもなく、感情的になる。
どうやら新野で、孔明は、真の友を見つけたらしい。
ちがう道を、確実に歩いて行っている。
一人、置いてきぼりにされたような、さびしい気持ちになったものの、それは言葉にせず、炎のそばに孔明を残し、崔州平は仮眠をとるために立ち去った。


崔州平と交替の火の見張り番がやってきたため、孔明はおのれにあてがわれた馬車の中へと戻っていった。幌を掻き分けると同時に、幌の中で横になっていた花安英が声をかけてくる。
「なにかございましたか」
なぜわかる、という愚問はしないでおいた。
花安英は、他者のありとあらゆる挙搓に敏感だ。おそろしく記憶力に長けており、他者の声の調子、足音、ちょっとした動作のちがいで、言葉や表情では覆い隠せない本心を瞬時に見抜く。
「薬が切れたか。痛みはあるか」
「熱も下がりましたし、たいして痛みもございませぬ。それよりも、わたしの質問にお応え下さい」
やれやれ、と孔明は一息つき、花安英の隣に座った。
初対面からこの煌びやかな少年が苦手であったが、いまは弟に対する感情のようなもの…いや、これまでの日々のなかで、知らずに切り離されていたおのれと再会したような、不思議な親近感を抱いている。
「花安英、そなたは義陽の村に行ったことはあるのか」
「ございます」
ない、という答を想定していた。なぜなら、花安英の実家に近すぎるからだ。家門を守るために、妻と子を修羅に突き落とした、いまいましい男の守る家。どんな男だかは知らないが、確実にろくなものではない。父と顔をあわせていたのだろうか。その質問をするのは酷だろう。
孔明が次の言葉をためらっていると、花安英は、ちいさく声をたてて笑った。血色はだいぶよくなり、頬に赤みがもどってきている。若いというのもあるが、この少年が、思いもかけず、勤勉に体を鍛えていた証左であった。
「義陽の村は、播天流が谷の間に無理につくった円形の村。向こうは四方を常に見張り、外敵の侵入をいち早く気づくことが出来る。しかし、近づくほうは、丸裸の状態で、真正面から切り込むしかない」
「この間道は、どこへつづいているのだ?」
「村の地下に走る道に続いております。道、とはいってもただの穴です。人夫の手が足りなかったので、構造が脆い。播天流は自分たちが脱出することばかりを優先して、村の地下のあちこちに道を走らせた。そして、谷間には、村と並行するように小川がございます。これを堰き止め、流れを変えて、村の地下を走る穴に流してやれば、おそらく村の地面は陥没し」
「みな死ぬ。おまえもか、安英。みな死んでしまえばよいと? おまえの弟たちもそこにいるのだぞ」
「崔州平は、なんと作戦を立てたのです。わたしが水なら、向こうは火でしょう」
「そのとおりだ」
「どちらにしろ、みなを助けようなどという甘い考えは捨てることです。樊城の弟たちを救っただけで及第点ですよ」
「莫迦な。数ではないぞ」
「数ではないというのなら、なんです」
花安英の突っかかる物言いは、すっかり気にならなくなっているものの、孔明はしばし沈黙し、考えをめぐらせた。
「安英、おおよそでかまわぬ。村に集っている者の数は、どれほどになるであろう」
「村はそれぞれ八十八人をひと括りにして構成されておりました。ですから、老師たちも含めて、壷中の者だけで四百人。うち、樊城に配置されていたのが半数近くございましたから、二百人ほどでございましょうか」
「となると、それだけの数の食糧を、どうしているかという話だな」
「用意しているのは、胡家でございましょう」
そうか、と孔明は答えて、それからまた沈黙した。
花安英にとって、残酷な考えが浮かんだのであるが、闇の中、力なく横たわる少年を前にしては、とてもではないが口にできない。
甘いとはわかっているが、さて、どうしたものかと、さらに考えていると、花安英が孔明に言った。
「義陽の胡家から、村へ運ばれる輜重(しちょう)を襲いなさい。兵糧を絶ち、飢えて弱った壷中を攻撃すれば、あるいは降伏させることも可能かもしれない」
「下策だな。時間がかかりすぎる」
「しかし、一片に炎だの水だので崩壊するよりは、あなたの求めるように、多くの子供たちを救うことができる。子供と戦いたくないのでしょう。ならば、この策がいちばんです。崔州平が納得するかどうかは別ですが」

納得はむずかしかろう、と孔明は思った。
二百の子供たちのうち、どれだけが戦力として数えてよいものなのか、敵のことが把握できていないうえに、こちらの兵力は五十あまり。輜重をうまく襲ったとして、村の中にどれだけの備蓄があるかどうかも関わってくる。だめだ。
樊城の子供たちは、ほんの一部しか救えなかった。
ほかにも、助けを求めている子供たちはたくさんいるはずなのだ。
なにより、趙雲が捕らわれている状態で、敵の殲滅を前提とした策に乗るわけにはいかない。

「軍師、あとひとつ、わたくしの策がございますが」
そういって、安英はにっ、と不敵な笑みを孔明に向けた。
「なんだ」
「間道をこのまま抜けて、村に入り込むのです。村は狭い。しかし人ばかり多い。壷中の精鋭中の精鋭は、樊城であらかた死んでしまうか、播天流と行動を共にしているかのどちらか。人は多くても、兵力的には手薄、ということです。
そして、食糧に薬を盛る。動きを封じたところで、村を占拠する。わたしたちは陸路を抜けておりますので、水路の播天流は迂回する道をとっているはず。わたしたちの方が、一日は早く義陽に着きます。そして、なにも知らぬ播天流たちがやってきたところを、攻撃するのです」
「なるほど、それならば時間も食わぬし、確実だ。しかし、薬の類いはどこで手に入れる」
「ほかならぬ、壷中から手に入れるのですよ。壷中の得意とするところは、潜入と毒による暗殺。毒ならば、必ず専用の倉においてございます。それを盗み出し、壷中に盛るのです。よいしびれ薬がたくさんございますよ。拷問用のも」
「薬ならば、教えてもらったので、わたしにも知識がある。倉の位置を教えてくれ」
「いやです」
「安英、連れてくことはできぬ。足手まといだ。それとも、死にたいか」
「でも、あなたはわたしを連れて行かなくちゃならない。でなければ、倉の位置はわからないのだから」
孔明は、闇になれた目に見える、強情な少年の眼差しをじっと見据えた。
この少年もまた、孔明と同様に、決着をつけに義陽に向かっているのだ。ほかならぬ、おのれの故郷である土地へ。
「わたしが連れて行く。だが、期待するなよ。見ての通り、わたしは脆弱な文官だからな。そなたを担ぐのにも限度がある」
「ほかの者に頼めばよろしいでしょう。なぜ自分が、というところにこだわりなさる」
「ほかの者では手に余るからだ」
答えつつ、趙雲の自分に対する気持ちが、なんとなくわかった孔明であった。

次回、『太陽』 12につづきますm(__)m
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