孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

劉備は、関羽からの使者によって起こされ、髪を結う暇もなく、そこいらにあった衣をてきとうにひっかけて、みずから馬を引いて、屯所へと走った。あとから、身づくろいを担当する老爺が、驢馬に乗って、てってけと懸命に主公を追いかける、という、緊迫したなかでも、妙にほほえましい光景がそこにあった。
「子仲さんが、無事だったって!」
髪もざんばらに、息をきらせて屯所へやってきた劉備に、糜竺は立ち上がると、劉備の手を取り、それから、まるで崩れ落ちるように、その場に拝跪した。
「申し訳ございませぬ」
劉備は、その手を包むようにして、がっしりと掴み、泣きそうなほど嬉しそうな顔をした。これはなにも、大げさな劉備流の感情表現ではなく、糜竺という人物が、劉備にとって、そのものずばり、恩人だからである。
徐州でも著名な財産家であった糜竺が、私財を投じて劉備に仕えることがなければ、その後の劉備の運命は大きく変わっていたはずである。そして劉備は、糜竺への恩義を、方と着たりとも忘れないのであった。
「なにを謝るのだ。謝らなくちゃならねぇのは、こっちだぜ。すこしでも、あんたを疑ったおれを許してくれな」
「いいえ、本来ならば、蹴り飛ばされて唾棄されてもおかしくない身でございます。七年も主公や、ほかの方々を騙してまいりました。この咎はかならず受けまする」
「騙すたぁ、穏やかじゃねぇが、それが壷中とかいうのと繋がっているのかい? 孔明はどうして樊城から戻らない。子龍はどうなってしまったのだ」
「子仲さまに咎はございませぬ、劉予州。むしろ、新野にとってのいちばんの功臣は、この方でございます。なにもかもお話いたしますので、どうぞこのお方を罰することはなさらないでください」
と、劉備が来るまで、糜芳のとなりで、じっと沈黙を守っていた嫦娥が、蹲ったままの糜竺をかばうように、そっと隣に座った。

糜竺は、なにもかも明らかにすると関羽と陳到に言ったのだが、それは嫦娥が一緒ではないと駄目だという。
糜竺が嫦娥の身を案じているのはあきらかで、しかし、その嫦娥も、瀕死の怪我人を置いて、屯所から出ることはできないと頑張った。
斐仁の命はあきらかに消えかけていた。
もはやうめくことすらできず、刻一刻と、その顔色が、土気色に変わっていくのがわかる。
糜竺と斐仁という、思いもよらない組み合わせに、陳到も関羽もおどろいたが、しかし、両者に共通するものが、まったくないことに戸惑っていた。
あえていえば、斐仁は軍の官品の管理をしていたから、そのあたりが文官の糜竺と繋がりができる部分だろうか。
陳到としては、糜竺が、養子兄弟に言った、『東の蔵にはなにがあっても足を踏み入れるな』という言葉が気にかかっていた。
とはいえ、東の蔵は、孔明の命令により、それこそ床板をすべてはがし、壁すら壊してすべてくまなく調べたが、なにも出てこなかったのである。
残ったのは、面倒な片づけ作業。そして、不気味な場所であるから、人夫として借り出した兵卒たちの恨みを買っただけ、というお粗末さ。
しかし、そこにいるだけで、百の目にいっせいに睨みつけられているような、居心地の悪い感覚は、どうしてもぬぐえないのだが。
ともかく、嫦娥が屯所を動かないので、糜竺もやはり動かず、仕方がないので、劉備を呼んで来る、ということになったのだ。

劉備は、糜竺を庇う、鶴のような姿態をもつ嫦娥をみて、はてな、と首をかしげる。
「姐さん、どうもあんた、初対面じゃないね?」
「あいにくと、劉予州とお会いしたことはございませぬ。わが名は嫦娥、医者を生業にする者でございます」
ほう、と驚きつつも、劉備は納得せず、首をひねりつづける。
「おかしいな、俺は人の顔を覚えるのだけは得意なのだ。どこで会ったのだったかな。あんたみたいな別嬪、なかなか忘れられるものじゃないのだが」
意外なことに、容姿を誉められた嫦娥は、喜ぶどころか、皮肉げに唇をゆがめて、目をそらした。その表情は、見るものを落ち着かせなくする類いのものである。
ふつう、劉備の言葉は、単なるお世辞とわかっていても、たいがいの者の微笑を生むものであったから、このような醒めた反応はめずらしい。
劉備自身も、ちょいと勝手がちがうようだと戸惑っているのが、傍目にもわかった。
そうして、あっとなる。
「思い出したぜ、孔明。孔明の引っ込んでいた草庵で会ったのだ。ただそのときは、ちらりと笠の下の顔を見ただけであったから、すぐに判らなかったのだよ。あんたはたしか、孔明の草庵の外で、なにやら手持ち無沙汰にしていたっけな。俺が何をしているのだと尋ねたら、家の者に用がある、といって、孔明の弟御のところへ行ってしまったのだ。そうかい、あんたは孔明の知り合いかい。おい、俺の記憶力も、まだまだ衰えてないだろう」
と、得意そうに関羽に言う劉備であるが、むっすりした関羽にすぐにたしなめられた。
「兄者の賢いのはよーくわかったから、話を元にもどそうではないか。使者にあらかたの事情は話させたが、兄者はどこまでわかっている?」
「壷中っていう、劉表さんが操っている組織が、妙な動きをしていて、どうやら儂らにとってまずいことになりそうだ、っていうことと、さらに不味いことには、孔明と子龍が樊城の壷中ってのと対決しているのじゃねぇか、ってことと、斐仁が帰って来たが、糜芳のウッカリ者が半死半生の目に遭わせちまって、話が聞けねぇってこと、それから子仲さんが元気で戻ってきたが、恐ろしいことを口にして、屯所のみんなが蒼くなっている、ってことだ」
「概要は掴んでいる、ということだな。細かい事に関しては、子仲どのがお話してくださる」
糜竺が、意を決して、口を開こうと顔をあげたとき、がたり、と大きな物音がした。
みると、驚いたことに、それまでもはや身動きひとつしなかった斐仁が、起き上がり、懸命に劉備になにかを訴えようとしているところであった。

「斐仁、儂になにが言いたい」
勘の良い劉備は、無駄な問いはせず、ずばり、虫の息の斐仁を抱えるようにして、尋ねた。
斐仁は、死に捕らわれながらも、懸命に唇を動かして、劉備に言葉を告げる。
「軍師が、趙将軍をお助けするため、壷中にみずから捕らわれ、それをお助けするため、趙将軍も樊城へ戻り…」
「うん、それで?」
声が消え入りそうになるのを、劉備は励ましつつ、促す。
「将軍は、播天流の罠と」
「播天流?」
劉備は、顔をあげ、やはり斐仁の声を必死に聞き逃すまいと側に寄っている関羽と顔を見合わせた。
どちらも公孫瓚のもとに身を寄せたさい、趙雲を指導していた播天流と面識がある。
「播天流は、壷中の、要で」
「壷中ってのは、どうして軍師を捕らえた?」
「趙将軍を、捕らえるため」
「なんだと、なんだって子龍が狙われる?」
だが、それには答えず、斐仁は、最後の力を振り絞って、劉備の襟元をぐっと掴むと、必死の形相で訴えた。
「仇を、わが一族の仇を」
劉備が肯くのを待たず、斐仁はがくりと力をなくし、七年間、偽りの忠誠を誓い続けてきた男に看取られて、事切れた。

陳到は、斐仁の言葉に、すばやく頭をはたらかせた。
公孫瓚、袁紹、そして劉表。趙雲の移動とほぼ同じくして移動し、形成された組織が壷中。
壷中はいま、荊州の豪族たちを義陽に集めている。
壷中は孔明を、趙雲を捕らえるための人質にとったという。それを助けるため、趙雲が樊城に戻った。
壷中の要は、播天流という男。
だめだ、さっぱりわからん。
首を振り、ふと糜竺と嫦娥のほうを見ると、意外なことに、両者とも顔を蒼くして、どころか小刻みに震えているのであった。
嫦娥と目が合うと、それまで冷静な矜持をたもっていた女丈夫は、涙目になっており、ふいと目を逸らすのであった。
ぴんときた陳到は、嫦娥に詰め寄る。
「貴女には、まだ我らに話をしていないことがあるはずだ。なぜいまの話を聞いて嘆かれる? 斐仁が言った、播天流とは、何者なのだ? なぜ趙将軍が狙われる?」
「播天流とは、袁紹のもとにいた趙雲を、公孫瓚のところへ連れて行った男だ」
嫦娥の代わりに答えたのは、劉備である。じっと腕を組み、ざんばら頭のまま、むずかしい顔をして考え込んでいる。
「公孫瓚ってのは、おれの学兄でもあったのだが、残念なことに、見かけは立派だったのだが、天下の英雄を名乗るには、ちょいと度胸と運がなかった。いい奴だったのだがなぁ。そこんところが、趙雲もまだ若かったので、不満だったのだよ。それで、兄貴の葬式を理由に、公孫瓚に暇をもらって、出て行ったのだ」
「いや、待て、兄者。たしか、その前にいろいろ相談に乗っていただろう。たしか播天流のことも話をしていたと思うぞ」
「おお、そうだった、おまえの記憶力もたいしたものだ。うむ、思い出したぜ。播天流ってのは、一見するといかにも善人、頼りがいのある武将ってなふうなんだが、見掛け倒しもいいところで、やたらとおのれの考えを、人に押し付けてくる奴だった。最初は子龍が気に入りで、なにかと面倒をみていたのだが、子龍もちょうど大人になる頃で、だんだんと播天流の押し付けが嫌になっちまったのだ。それが気にくわねぇ、ってもので、播天流って男は、子龍にひでぇ言葉を浴びせて、すっかりしょげさせてしまったのさ。で、結局は、子龍は公孫瓚のもとから去ることになった。そのあとのことはよくしらねぇが、公孫瓚の城が袁紹に落とされたときに、たしか戦死したのじゃなかったのだっけ?」
「いいえ、播天流は生きておりました。袁紹に捕らわれ、晒し者になっているところを、お助けしたのが趙将軍だったのです。ところが、播天流は、助けられたことを、逆に将軍が、おのれを笑うために助けたのだと思い込み、深く恨むようになったのです」
と、嫦娥が、たんたんと言葉を次いだ。
「ものの見事に逆恨みじゃねぇか」
「播天流は、貴方様方が知っている者とは、もう別なものに変わってしまっております。あれは、狂っているのです」
ふむ、と劉備はうなずき、それから嫦娥に体を向けた。
「嫦娥さんとやら、あんたは、どうやら全部を知っているようだ。あんたの知っている、壷中についてのことを、ぜんぶ話しておくれ」
嫦娥は、もはや潤んでいない、つよい眼差しを劉備に向けると、よどみなく、壷中についての説明をはじめた。そのあいだ、口を挟むものは、だれもいなかった。

起き抜けに、身なりもととのえず馬を駆って飛び出していったかと思えば、出奔したはずの糜竺をともなって戻ってきた劉備に、新野城のものたちは、唖然とした。
しかも城門には、新野中の娼妓たちがあつまって、じっと息を殺して、なにかを待っている様子である。
劉備が従えているのも、いつもの関羽をはじめ、趙雲の副将・陳到、糜竺、そして男装の背の高い女という奇妙なとりあわせ。しかも、その面差しは、みなどれもひどく緊張したものなのである。
それでも怯えているのでも、不安を隠して虚勢を張っているのでもなく、どの顔も、いまにも噴出しそうな怒りを抑えているような、それを互いに牽制しあっているような顔であった。
何事かあったらしい、とたいして知恵をめぐらす必要もなく、だれもがそう感づいた。

孫乾が気の利いたところをみせて、御用はございますかと、事情を聞かないで尋ねてくる。
劉備は、目立たぬが生真面目な古参の将に、にっこり笑うと、これから土を掘り返すので、人を集めて欲しいといった。
なにがなにやらわからぬ孫乾であるが、劉備とその周囲の雰囲気に気圧される形で人夫をあつめ、それからぞろぞろと、いわれるまま、調練場へと向かったのであった。
東の蔵へと足を向けようとする陳到に、糜竺が声をかけてくる。その後ろには、例の養子兄弟がぴったりくっついている。
だれも押し黙っているなか、糜竺がちょうど沈黙を破ったかたちになる。
「そちらではない」
陳到は、どこか納得できない思いで、向かおうとしていた東の蔵を見た。あれだけさんざん暗い噂が流れ続け、しかも実際に白骨死体の見つかったこともある蔵だ。かならずなにかあるにちがいない、それを見つけられなかっただけだ、と思っていたのだ。
陳到の顔に浮かんだ表情で、察しの良い糜竺はそうとわかったのか、東の蔵に痛ましい目を向けていう。
「むかしは、そこがそうだった」
まるで、そこに誰かが立っていて、じっとこちらを見ているような気配をおぼえ、陳到は思わず振り向くが、糜竺の視線の先には、やはり無人の東の蔵が、事態の雰囲気にまるでそぐわぬ晴天の下、いつものように不気味な存在感を見せ付けているだけであった。
いや、だけ、ではない。

やれやれ、と陳到は、向こう側より、元気よく飛んでくる武将の姿を見て、うんざりした。
糜芳である。
陳到と関羽の横槍に腹をたて、劉備に注進すべく、さきに城にやってきた糜芳であるが、このところ、身を守れといわんばかりに、逐電した(と思われていた)糜竺の悪口を四方に叩き、俺は無関係なのだと騒ぎすぎたがため、逆に劉備に避けられていた。
糜竺と糜芳は、年が離れている、というのもあるが、顔立ちは似ているのに、そこに浮かぶ表情が、まるで逆、という兄弟であった。糜芳は、糜竺が母親の腹のなかに忘れていったものを全部持って生まれたために、あんなふうなのだ、と陰口をたたかれることすらある。
「兄上! いままで、いったい、どこに隠れておったのだ!」
糜竺が、めずらしくあからさまに、不機嫌そうに、つい、と目をそらす。
「あとで話す。そなたは黙っているがいい」
「なぜだ! 理由を言ってくれ。兄上のいないあいだ、俺がどれだけの迷惑を蒙ったと思う?」
むしろ迷惑を蒙ったのは、そっくりそのまま新野に残されていた、糜竺の家族のほうなのだが。
「俺には兄上の話をいちばん先に聞く権利があるぞ! いったい、この騒ぎはなんだ? 主公まで引っ張り出して、なにがはじまる、というのだ?」
泡を飛ばしてまくしたてる糜芳であるが、その、事情もなにもわからず混乱する気持ちはわかるものの、まるで雰囲気を察していない。斐仁のこともあり、ぐっと拳をにぎりしめ、一歩、足をすすめて口を開こうとする関羽を、手でやんわりと押し留め、劉備が言った。
「すまねぇが、おまえは、ちょいと引っ込んでいてくれ」
「しかし、主公」
食い下がろうとする糜竺に、劉備はきびしく叱るように言った。
「頼むから、引っ込んでいてくれ。いまは、おまえの愚痴に耳を傾けていられる余裕のあるやつぁ、このなかには誰もいないのだ」
糜芳はまだなにか言おうとしたが、劉備は機制を先して、くるりと背を向けると、糜竺にたずねた。
「で、儂たちはどこへ行けばよい?」

こちらへ、と糜竺が指し示す先は、調練場のもうひとつの邪魔者、中央にどんと鎮座する楠木であった。
早朝の調練がおわり、木陰で休んでいただろう兵士の忘れ物の手ぬぐいが、木の枝に下げられたままになっていて、それがひらひらと風に舞い、まるでおいでおいでをされているような錯覚をおぼえる。
陳到は、糜竺が、自分の養子たちに、東の蔵と同様に、この木にも近づくな、と申し付けていたことを思い出した。
「この樹は、わたくしを笑っていることでしょう」
と、糜竺は見事な枝振りを見せる楠木を見上げ、嘆息する。
「おぼえてらっしゃるか、みなさま方。この樹は、かつてはほんの小さな若木に過ぎなかった。わたくしが、この蛮行を忘れぬよう、そして眠れる者たちのせめてもの慰めになるようにと、植えたものでございました」
「この下に、わたくしの同胞(はらから)の、ほんとうの親兄弟が眠っているのです」
深い悲しみを湛えた目を、嫦娥は楠木の根元に向ける。
皮肉なことに、楠木は春から夏にかけて、太陽の光をさんさんと浴びてさらに成長し、根元には、新芽がみずみずしい姿をみせていた。
劉備は、じっとそれを見つめていたが、号令を待っている孫乾と、あつめられた人夫たちに言った。
「やってくれ」

合図とともに、人夫たちはいっせいに楠木の根元を掘り返した。調練が中止となり、兵舎にあつまっていた兵卒たちが、なにごとがあったのかと集ってくるのを、陳到と関羽で押し留め、それぞれの兵卒長に命じて、兵舎で下知があるまで大人しくしているよう告げた。
「主公、おぼえておられるか」
ざっ、ざっ、と土の掘り返される活気のある音をよそに、糜竺は遠い目をして、つぶやくように言った。
「わたくしがあなたさまに付いていく決意をしたのは、陶謙のやりように、どうしても我慢がならなかったのがきっかけでした。あの男は臆病で、保身のことばかりを考えていた。そうして、時局をわきまえず、あろうことか、曹操の父親を誤って死なせてしまい、多くの無辜な領民を虐殺させる事態を招いた」
「覚えているとも。あんときのことは、忘れたくっても、忘れられるものじゃねぇ。陶謙の悲鳴に行ってみりゃア、徐州は、ひでぇ光景だったな。そこいらじゅう、見回すかぎり死体だらけ、食べ物はぜんぶ腐っちまって、水も汚臭がして飲めたものじゃない。死体に群がる蠅の羽音だけが、ぶんぶんと耳にまとわりついていやがるのだ」
「わたくしは、徐州の民に責任のある身でありながら、彼らを守ってやることができませんでした。そのことを悔いるばかりで、気持ちが晴れたことがございませぬ」
ああ、と劉備は沈痛な面持ちでうなずいた。劉備にも、徐州に関連して、なにかつらい思い出があるのだろう。
「ですが、勝手なものでございますな、軍師が、徐州の琅邪のご出自で、あの惨禍にみまわれた一人と知り、それでもあのように立派に成人されているのを目にしましたとき、それこそまるで生き別れた親族が、ひょっこり元気に顔をだし、なにも大事はなかったのだと言ってくれたような気がしたのでございます」
「それはわかるなぁ、儂だって、もしあれが徐州の出じゃあなかったら、これほどまで入れ込んだか、わからねぇもの」
「あの方を見ていると、まるでわたくしの罪は許されたような気がいたしました。しかしそれは、やはり錯覚であったのです。あの方は、わたくしの罪を、二重にも代わりに背負っていた」

土を掘る音がぴたりと止まり、人夫のひとりが、悲鳴にも似た声をあげた。
穴から逃げようとする人夫と入れ替わりに、陳到が掘りたての穴を覗くと、そこには、はっきりとそれとわかる、白い骨の一部であった。陳到は、人夫が置いていった工具を取って、骨の周囲の土を除いていく。
そうして、徐々に骨の全体が明らかになるにつれ、それが一体やニ体ではないことがわかってきた。真上にあるものは、まだ頭髪に毛のはっきりと残る新しいものであった。だが、どんどん下に向かうにつれ、積み重ね方も雑多になり、古いものと新しいものが交互にあらわれてくる。
陳到を中心に、あまりの光景に、かえって気力をふるいたたせた人夫や、関羽までもが参加して、楠木のしたのうずもれた人骨を掘り返しつづけた。
当初は、おそろしい光景に肝をつぶし、生娘のように騒いでいた兵卒や人夫も、調練場に掘り出された骨が並べられ、その列がどんどん増えてくるにつれ、やがてぴたりとなにもいわなくなり、晴れ上がった空の下、大勢の人があつまりうごめているというのに、だれもひと言も言わない、という奇妙な状況がつづいた。

初夏の風が、汗の流れ落ちる体をいたわるように駆けていく。
寒気を催したのは、意外につめたい風のせいだけではあるまい。
戦場で、多くの屍を見た。なかには、おのれの殺めたものの屍もあった。
陳到は、それでも、これほどに恐ろしい、おぞましいとは思わなかった。
七年の間に積み重ねられてきた屍には、死に至る必然性がまったくなかった。正統性もなければ、義もなかった。彼らは犠牲者ですらなかった。
この屍を産んだ者たちは、人を人として扱っていない。
ずらりと並べられた骸骨を前にして、糜竺は顔を両手で覆うようにして、うつむいている。
糜竺を人格者だと思い、尊敬する仲間のひとりと思っていた陳到でさえ、その場では、糜竺をはっきりと軽蔑した。糜竺が殺し、埋めさせたというわけではないことは、本人や嫦娥の話からわかっている。
だが、新野に眠るこの屍の存在を、七年も沈黙し、隠してきたのは理解ができない。糜竺は孔明とちがって、関羽すら驚嘆するほどの見事な弓名人であり、財力も家名もある、いわば、戦える立場にいる人間だった。

「仕方なかったのだ」
だれに責められたわけでもない。だが、重くつづく沈黙に耐えかねたのか、糜竺が弱弱しく口を開いた。
「劉表が、主公に新野をまかす条件がこれであった。わたしを壷中に入れ、子供たちを人質に差し出さなくてよい代わりに、荊州からあつめられてくる子供たちの親兄弟の屍を始末すること。最初は、斐仁ひとりで行っていた。樊城にあつめられた難民をいっせいに虐殺し、その屍を焼いて、東の蔵の真下に埋めた。屍を埋めた位置に、斐仁が見張るのがたやすいよう、ムリに蔵を建てたので、あんな奇妙な配置になっている」
「東の蔵からこの楠木に屍を移動させたのか」
「そうだ。わたしも斐仁も沈黙を守り続けた。それなのに、幽鬼が懸命に無念を訴えているとでもいうのか、東の蔵を中心に、怪談話があとを絶たなかった。兵卒のなかには、肝試しをするのだといって、夜中に蔵に入り込もうとする者もいた。このままでは、屍のことが公になってしまう。そこで、斐仁と相談をし、壷中のものを呼んで、主公が城外に出られており、城内が手薄な夜のうちに、何日もかけて移動させたのだ」
「七年前のものとは思えぬほど、新しいものもあるようだが」
「壷中の人狩りは、七年の間、ずっと絶えることはなかった」
と、糜竺と同じく、物言わぬ骸骨の列をじっと眺めていた嫦娥が、ぽっかり開いた眼窩をまっすぐ見据えたまま、言った。
「最初は、難民対策のために、子供だけを残して、あとは殺していた。だが、次第に子供を狩るために難民を襲うようになった。黄巾賊の残党だといいがかりをつけて、まともな武器すらもたない難民たちを襲うのだ。だが、世情が落ち着いてくると、難民の数も減る。それに比して、壷中での厳しい暮らしに耐え切れなくなった子供たちは、どんどん数が減っていった」
「なぜだ。子供を刺客に育てるということに、なぜそこまで劉表は力を入れたのだ?」
子供好きの関羽は、話を聞いているだけで、怒りで震えてくるようである。顔を赤くしつつ、嫦娥に、怒りを押し殺した声で尋ねる。
「村の子どものうち、刺客になれる才能のある者は、ごくわずか。才能のない者は、村では死んだことにされているけれど、そうではない。売っていたのです」
「売った? どこへ?」
「どこへでも。それなりに芸もでき、閨房術も仕込まれている子供です。子供というところに価値があった。腐った世の中にふさわしく腐った連中に、彼らは品物のように高値で買われていきました。それが劉表の懐に入り」
嫦娥はそこで言葉を切り、怒りをこめた視線を向ける関羽を、まっすぐに見た。
「あなたがた食客を養うための費用になっていたのだ。荊州を守るために!」
「莫迦な! そのようなこと、天は許さぬ!」
関羽のことばに、嫦娥は、屯所で劉備にみせたような、皮肉げな笑みをうかべた。
「天? 天ですって? 壷中という組織が生まれ、たった一人の防波堤であった諸葛玄が殺されてから、いったい何年経っていると思うのです? そのあいだ、だれもわたしたちを助けてはくれなかった。そして卑怯にも、貴方がたに北方の最前線を防衛させておきながら、居候をさせてやっているのだと言って、子仲さまに、攫ってきた子供の親兄弟の屍の始末を強要していた。嫌がれば、新野へ軍を動かすと、ずっと脅し続けてね。
劉表が、この城の秘密をどうしても守りたかったのは、自分の非道な所業があきらかになれば、諸侯は、格好の理由を得て、荊州に侵攻してくる懸念があったからです。いや…それもちがうか」
嫦娥は、一人合点して、陰惨な笑みを浮かべた。その横顔には、この女の抱える、めまいがするほどの深い孤独が垣間見え、傍で見ていた陳到はぞっとした。
「劉表は、表向きの『儒学を愛する理想的な君子』の顔を、崩したくなかった。ほんとうは、ただそれだけなのだ。
諸葛玄という、諸葛孔明の叔父は、あまりに聡明で、遠慮がなさすぎた。あれは劉表に鏡を突きつけた。突きつけられた鏡に映る、おのれの醜い姿を真正面から見ることに我慢がならなかったので、劉表は諸葛玄を殺した。甥の孔明に目をつけていたから、どうしても欲しかったけれど、諸葛玄は、孔明を守るための策を残していた。それを利用して、諸葛家の人間は、なんとか劉表の手から孔明は守った。
だが、諸葛玄の印象というのは、壷中にとっては強烈だった。いつか、成長した孔明が、叔父の死の真実を知って、自分たちに刃向かってくるかもしれない。根拠もなく、それを恐れたのだ。彼らは、ずっと孔明を見張ることにした」
「見張りをつけたことで、壷中は安心したのです」
と、嫦娥のことばを、糜竺が継いだ。
「まさか、諸葛孔明が、劉予州の軍師になるとは思っていなかった。劉予州は荊州を最前線で守る将。壷中も、なりたちはゆがみきっているが、荊州を守っているという共通の目的を持っている。いわば、軍師が主公の軍師になった時点で、壷中は軍師を敵対視する理由がなくなった。
軍師に何事かがあれば、主公、貴方様が動かれる。それは壷中にとっては好ましくない事柄だった。主公と壷中…つまり劉表が争えば、得をするのは曹操なのですから。荊州は危機に見舞われる」
糜竺のことばに、劉備は腕を組み、首をひねった。
「儂を怒らせたくないというのなら、なぜ子龍の部下の斐仁は、劉公子の学友を殺したのだ。壷中ってのは、播天流が組織しているのじゃねぇのかい」
劉備の問いに、こんどは嫦娥が答える。
「播天流は、劉表の意を受けて、ちょうど七年前から壷中を取り仕切るようになった男です。この男は、ひそかに劉表を裏切り、自分たちの部下を組織して、叛逆を企てたのでしょう。だから、荊州中にある壷中の村から、仲間たちを義陽に呼び寄せているのです。播天流が趙将軍を狙うのは、おそらく私怨を晴らすためでしょう。曹操南下の気配が濃厚となり、このままでは復讐の機会を失してしまう。そう焦ったのかもしれません」
劉備はぼりぼりと頭を掻いて、うなる。
「ややこしい話だな。つまり壷中ってのは、最初劉表だけのものだったが、播天流がよこからひっさらって、二つに分かれている。乱暴に分けると、孔明の仇は劉表で、子龍の敵は播天流。コレでいいかい、嫦娥さん」
嫦娥は肯くと、不意に劉備の前にぱっと跪き、拱手した。
「わたくしは壷中に身をおく立場なれど、子仲さまと同じく、ずっと壷中をつぶす機会を狙っておりました。まさにいまがこの時。義陽に至る間道を知っております。劉予州、諸葛孔明と趙将軍を助けるためにも、わたくしに兵をお貸し下さい」
「その言やよし、といいたいところだがな、どうもあんたは引っかかる。いや、あんただけじゃねぇ。子仲さんもだ。劉表の腹の中が、毒虫よりも真っ黒だっていうのはよくわかった。播天流が子龍を狙っているのもわかったよ。だが、あんたたちの動きがわからねぇ。子仲さん、子仲さんが樊城に行ったのは、劉表の病状を見るためだけかい?」
とたん、糜竺の顔は真っ青になり、倒れんばかりとなった。
「お許しを、主公」
「儂は、なにを許せばよいのだ」
「すべては、わたくしの独断でございます。わたくしが樊城へ参りましたのは、劉表を暗殺するためでございました。ですが、すでに劉表は梅毒に侵されており、もはや昔日の面影もない哀れな有様でございました。ひと思いに殺すより、行きながら屍をさらす惨めないまのほうが、よほど劉表にとっては恥であろうと判断し、暗殺をやめて新野へ戻ってきたのです」
陳到も関羽も、温和な印象がつよい糜竺の意外なことばに、思わず顔を見合わせる。だが、劉備は、だいたいの予想をつけていたようで、顔にあらわさず、さらに尋ねた。
「それだけじゃねぇな。あんたは、なんだって孔明に意味ありげに壷中の名だけを教えたのだ。もし自分が失敗して、帰らないようなことがあったら、壷中という言葉を手繰って、孔明に壷中を潰してもらおうっていう魂胆があったのじゃないかい。
糜竺は、悲痛な面持ちでうつむき、搾り出すように言った。
「慧眼でございます」
さらに劉備が口を開こうとするのを、横からするどく嫦娥が割って入ってきた。
「ご無礼をお許しください、主公。ただ、この計画は、子仲さまだけが練ったものではございませぬ。わたくしと、襄陽の崔州平と、ほかの壷中に恨みのある者たちが集ってはじめたことなのです。結局は、諸葛亮にすべてを背負わせる形となってしまいましたが、壷中はかの者にとっても仇。これは必然だったのでございます」
「必然、か。好きな言葉じゃねぇな。だが、あんたたちの立てた計画は、播天流が妙な動きをしたせいで、ぜんぜんおかしな方向に行っちまった。で、これで孔明や子龍が帰ってこなかったら、俺にとっての仇は、あんただったり、子仲さんだったりしちまうわけか」
「覚悟はしております。ただ、最後にせめて壷中を潰すお手伝いをさせてくださいませ!」
食い下がる嫦娥と劉備は、しばらく無言で視線を戦わせていたが、やがて、劉備はうなずいた。
「よし。そこまでいうなら、あんたを信じよう」
「兄者! よいのか。この女こそが壷中の罠かも知れぬぞ」
関羽が抗議をあげるが、劉備はいつになく厳しい顔をして、義弟に言った。
「だから、兵を分けるのよ。壷中ってのも二つに分かれているのだろう? まず、俺は張飛をつれて樊城に向かう。劉表の様子をこの目で確かめるためだ。おまえと陳到は、嫦娥さんと一緒に義陽へ向かえ。ただし、なるべく身軽にして、一日でも早く義陽へ行けるように、人数も最低限に抑えるのだ。人選は任せる。義陽で壷中ってのを見つけたら、それもおまえの判断に任せるぜ。ただ、子供はあんまり殺すなよ」
「わかった。すぐに手はずを整える」
言葉どおり、関羽はくるりとせを向けて、のしのしと兵舎のほうへと向かっていく。その背中を頼もしそうに見ていた劉備であったが、ふたたび顔を戻して、糜竺を見た。
「子仲さんは、新野で留守番だ」
「蟄居では軽いという者もおりましょう」
「なに言ってやがる。孔明もあんたもいない状況で、新野の文官は全員、青色吐息だ。仕事は山のようにあるぜ。眠れないほどにな。そいつをひとりで片づけてくれって話さ。ある意味、どんな罰より重いと思うが」
「ありがとうございまする」
深々と糜竺が頭を下げると、後ろで養父をささえるように佇んでいた養子兄弟も、同じように深々と劉備に拝跪した。
「まだなにも終わっちゃいねぇよ。全部終わってから、またちゃんと話そうや。そうだな、孔明が樊城からもどってきてからな」
はい、と返事をする糜竺の声は、感激の涙で震えていた。その声を背に、さて、いそがしくなるぜ、とつぶやきつつ、劉備は出立の支度をするため城内へ向かい、陳到は、関羽を追いかけて、自分もまた、出立の準備に入るのであった。

次回、『太陽』 11につづきますm(__)m
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