孤月的陣
第五章 タイヨウ 太陽
⑦
「子龍、出立ぞ」
その声が聞こえた途端、反射的に、孔明は怒りで体が熱くなった。
その姿を見ることすらいとわしい、播天流であった。格子に手をかけ、得意そうに笑っているが、一見しただけでは、やはり狂人であることは見抜けない。孔明や趙雲からすれば、播天流から発せられる悪意は、受け止めかねる行き違いの固まりなのであるが、播天流は、自分が狂っていると思っていないために、両者は永遠に平行線をたどりつづけるのである。
「どこへ向かう」
趙雲がうめくように、暗い瞳をして言った。こんな目をした子龍はいやだな、と孔明は思いつつ、あいかわらず趙雲の体に頭をもたれさせた形で、播天流の返事を待つ。
播天流の体は、戦いのためにあちこち血に汚れていた。日に焼けた肌をして、目だけがらんらんと歓喜に輝いている。そうして厚めの唇から白い歯がのぞくのであるが、並びのよい歯の白さが奇妙に印象に残った。
「義陽だ。そこでわれらの子供たちが待っている」
「義陽…そこが壷中の村か」
孔明が口を挟むと、播天流は声をたてて笑った。
「軍師、せっかくなので教えてさしあげよう。壷中の村というのは、そもそも一箇所ではないのだよ」
「なんだと?」
「隠れ里は荊州に何箇所かある。しかし事態が急転したからね、これから全員を義陽へ集める。義陽は特別な場所でな、そこにいる、花安英の実家が里を管理しているのだ」
「……どういうことだ? 花安英は、生母を捜すために、自ら壷中へ入ったのだろう?」
「そう信じているだけの話だ。豪族たちは、劉表への忠誠の証しとして、一族の子弟をひとり、かならず壷中へ差し出すことになっている。例外は諸葛家と、なにも知らない新野の劉予州の家臣たちだけだ。胡家も同じ要求を受けたのだ。だが、胡家の夫人は、自分の腹を痛めた子を差し出すことをいやがり、そこでなさぬ仲の長男を騙して、壷中へ追いやったのだ。妻と子の両方を差し出した胡家は、それまで没落寸前であったのだが、このことで家門をふたたび盛り上げた」
「蔡瑁が、蔡夫人を奪ったという話も、あれは仕組まれたことだったのか?」
「いかな相手が将軍とはいえ、ふつう妻を奪われた男が、黙っていると思うかね。しかも貴門の胡家の主なのだぞ。胡家は妻子を売ったのだ。どうしたのだね、よくある話ではないか」
孔明は、返事をすることができなかった。怒りのあまり、体が震え、涙が出てきた。自分の血を分けた子供、そして娶った妻を、守るどころか家門を盛り立てるための人身御供にしたというのか。
「国のために姫を蛮族に嫁がせる王族と、どうちがうというのだね。貴殿はどうも世の中に夢を見ているようだな」
「……だまれ」
涙まじりの震えた孔明の声に、播天流は満足したように、鼻で笑った。
「まあ、よろしい。それより軍師、臭わないかね」
「臭う?」
「花安英だよ。そろそろ腐ってくるのではないか。生きながら腐っていた子供であったからな、死ねばなお、腐るのが早かろう。花安英を籠絡させるとは天晴れであったが、死んでしまっては意味がない」
「生きている。死なせはせぬぞ。花安英も、子龍もだ」
「斯様に獣のように鎖につながれた状態で、いったいどうされると言うのか。義陽についたなら、さっそくその美しいお顔より、耳障りな言葉ばかり吐く舌を引き抜いてさしあげるゆえ、いまのうちに子龍と別れの言葉を交わしておくがよいぞ」
「そのようなことにはならぬ」
孔明の言葉に、播天流は大きく鼻を鳴らすと、周囲のものたちに、出立を命令した。その立ち去る姿をはげしく睨みつけながら、孔明は胸の中で身動きひとつしない花安英の体を、母親が赤子にするように、胸に包んだ。
嫌でも江東の兄のことが思い浮かぶ。決して売られたわけではなかったが、兄と義母をめぐる、世間にはとても公表できない忌まわしい事実と、そのために見捨てられ、姉と弟と家人たちとで、必死になって南を目指した避難行のことが思い出された。
自分には姉がいて、父に忠誠を誓った家人たちがいて、待っていてくれる叔父がいた。
しかし、誰もいなかったら、花安英や、程子聞とおなじ運命を辿っていただろう。
荊州についてから叔父の死まで、そしてその後に起こった、兄との家督をめぐる諍いなどは、花安英の陥った運命や、受けた苦しみを思えば、実に小さなことであった。
花安英を見るのが嫌だった。なぜかは分からないが、勘に触った。自分のいちばん触れられたくない部分を、わざわざ形にして見せられているような感覚があった。
どこかで、花安英のもつ暗さと、その背後にあるものに、自分と似たものを感じ取っていたのかもしれない。花安英の引きずる底知れない闇を覗き込むのが恐ろしかったのかもしれない。
叔父は、花安英のような子供たちを作る一端をになった責任をとって、あれは、自刃したのだ。みずから刺客の前に体を晒して、死んだ。
叔父から遺されたものは、財貨ばかりではなかった。
「大事無いか」
ふたたび額に指の触れる感触があり、孔明は目を閉じた。子供のころに、病床の父のところへ遊びに行くと、やはりこのようにして、よく頭を撫ぜてもらったものだと思い出しながら。
がたり、と馬車が揺れて、全体が揺れだす。不安定な体をなんとか落ち着かせつつ、孔明は、あいかわらず眉ひとつ動かさないでいる宦官のほうに言った。
「悲しくはないか」
心がないはずはないのだ。封じ込めているだけだ。涙を流すことすら許されている自分は、まだまだ恵まれている。
「私はとっくに死んでいる」
不意に、それまで沈黙を守っていた宦官が口を開いた。馬車のごとごとと揺れる音にまぎれて、耳を側立たせないと聞こえなくなるほどの声であった。
「子供には子供の仕事があると言われて、親から引き離され、ほかの兄弟たちと共に、家畜のように馬車に乗せられた。そのときに、私は死んだのだ。幽鬼は、どんなことをされても何も感じることはない」
「死んではおらぬ。偽りは捨てよ。生きるがいい」
「生きてどうする。私はもはや、男でも女でもない身に変えられてしまった。あんたの言葉は、子供たちには耳心地がよく響くかもしれないが、私には安全な高みから他人事のように呼びかけてくる虚しいこだまにしか聞こえない」
孔明は沈黙し、宦官も口を閉ざした。彼らの抱える壮絶なまでの悲しみ、苦しみは、想像を絶するものであり、たやすく言葉で埋められる類いのものではない。でも、それでも、ほかに手段がないのならば、千でも万でも、自分は言葉を叫び続けるだろう。『こうならねばならぬ』ではない。そのような押しつけではなく、『こうあろう』という呼びかけを。
もっと広い心と、どんな苦しみ、悲しみをも受け止めることのできる、大きな器がほしい。それを手に入れることができるなら、どんな試練も乗り越えよう。
闇には流されない。絶対に。
やがてしばらくすると、馬車に明るい太陽の陽射しが入り込んできた。そうして、水音が近くなってくる。
その段になり、はじめて孔明は、とっくに夜が明けていたことと、自分たちがいままで、地中の間道にいたことを知った。水音をかき分ける船の櫓の音が聞こえる。どうやら川を利用して運ばれる様子だ。
ますます新野から遠くなる。焦りはあったものの、ここから脱け出せる手立てはなかった。
趙雲はすっかり諦めてしまったのか、思いつめた双眸で、霞んで見えない世界の中にひとりでいるし、胸に抱えている花安英の熱は上がってくる一方だ。応急処置をしたときに、化膿止めの薬を飲ませていたので、傷が膿んだことは考えられないが、風狗より受けた傷が、思いのほか深かったのかもしれない。
樊城から逃げ出した子供たちはどうしただろうか。首尾よく逃げられたならよいが。後から行く、などと言っておきながら、約束を守れなかった。彼らが無事であるといいのだが…
馬車が止まり、格子が開かれた。壷中の兵卒たちがやってきて、表に出るようにと促した。まずは趙雲が引き出され、つづいて孔明が引きずられるようにして引っ張り出された。花安英はというと、そのまま馬車に置き去りである。
振り返ると、さきほどまで監視役として同乗していた宦官が、ゆらりと起き上がると、懐から取り出した短剣でもって、花安英にとどめを刺そうとしているのが見えた。
「やめよ!」
孔明は、両腕を兵卒たちに掴まれていたが、それを振り払い、手枷足枷で思うようにならない体をそれでも懸命に動かしながら、叫んだ。
「その者は、おまえたちの仲間ではないか! なぜ助けてやろうとは思わぬのだ!」
「仲間だからこそ、だ」
と、宦官は、はじめて感情らしいものを、その白皙の顔に浮かばせていった。そこにあるのは孔明に対する苛立ちと憎悪であった。
「もうこの者の命はわずか。このまま生きながらえたとしても、裏切り者として厳しい処罰が待っている。なればこそ、ここでとどめを刺してやることが、この者への救済なのだ」
「どうして最初から諦める! 未来は誰にも分からぬもの。おまえたちの未来を決めるのは、おまえたち自身なのだ。おまえに、花安英の未来を断ち切る権利などない!」
宦官は、きつく眉をしかめ、孔明をきびしくにらみつけた。孔明は、その視線を真正面から受け止める。綺麗事のように聞こえてもかまわない。なにもしないで、あきらめてしまうよりはずっといい。
そのとき、銅鑼の音が響き渡った。
「敵襲! 敵襲!」
じゃん、じゃんと銅鑼を叩く音が響き、兵士たちの慌てた声がさらに聞こえてきた。
見ると、渡し場の向こう側から、何船もの軍船に、鎧をまとった兵士たちを乗せて、こちらに向かってくるのだ。銅鑼の音はそこから聞こえてくるのである。船の舳先には軍旗が掲げられており、そこには『劉琦』とあった。
播天流が突如あらわれた船団に、うろたえているのが分かる。
「劉公子? 莫迦な…劉公子にそれほどの手勢が?」
「将軍たちが、手勢をそろえて戻ってきたのでございましょう。いま戦うは得策ではございませぬ。出立すべきかと。お早く!」
播天流は、忌々しそうに船団を睨みつけながら、壷中の部下たちに叫んだ。
「早く船に乗り込め! 出立ぞ!」
その声に呼応して、護送車の前で動かないでいた孔明も、さらに引きずられるように船のほうに連れて行かれる。もともと足枷をされているために歩みが遅くなるが、それも構わず、両側から腕を掴まれ、ずるずると船のほうへ運ばれていく。さぞかし往生際が悪く見えるだろうが、と思いつつも、孔明は叫ぶことをやめなかった。
「花安英! 起きよ! 目を覚ますのだ!」
どんどん遠くなる護送車の中では、宦官が花安英をめがけて刃を振り下ろすのが見えた。
一方、船の上では騒ぎがおこっていた。劉琦の船から、つぎつぎと矢が射掛けられていたのである。船で待ち伏せをされているなどと予想していなかった播天流たちは、体勢を整えることができずに、押されている状態なのだ。
出立を急かす播天流の、甲高い叫びが聞こえてくる。孔明はなおも花安英のほうを気にしていたが、不意に、その頬に掠めるものがある。
正面から矢が降ってきた。
ちょうど船に乗せられる途中の艀で、矢の飛んできた方向を見ると、茂みによって隠されていた間道のちょうど上にあたる岩山より、黒装束の何者かが矢を射掛けているのである。ちょうど前後より弓攻撃をされた形となり、壷中の船は完全に混乱に陥っていた。
黒装束の者たちが何者かはわからないが、この状況ではありがたい。
さらに、船員たちが、話がちがうといって持ち場を離れ、播天流に詰め寄っているのが見えた。どうやら仲間割れが始まった様子だ。播天流が、船員たちを突き飛ばし、いきり立った船員たちが一斉に武器を抜き放つ。それに応じて、播天流の部下たちも、船員を攻撃しはじめた。
孔明は無理やり船に上げられながらも、両腕を掴む男たちが矢を避けるためにひるんだ隙に、振り切って、ふたたび地上に戻ろうとした。しかし、それを止める者がある。
それは大柄な水夫で、華奢で見栄えのよい者ばかりの壷中の者とは思えぬ巨漢であった。おそらく、移動のために雇われた水賊の類いであろう。何を思ったか、そいつがいきなり手にした斧を振り上げてきた。
戦いを知らない孔明は、思わず両腕でもって、自分の頭を庇ったが、ちょうど斧は、手枷の真ん中をぱっくり割って、孔明の額をぎりぎり掠めて行った。
「いい腕だ!」
思わず誉めて、自由になった腕を確かめると、さらに攻撃を仕掛けてくる男から逃げようとしたが、男はなおも追いかけてくる。孔明の身なりがよいのと、壷中の者のなかでは年嵩なので、上長にみえたのだろう。
男の腕を、背後から掴む者があり、しばらく力比べとなったが、手首を掴んでいる男の方が勝った。巨漢の男が振り向くのと同時に拳が飛んで、男は鼻から血を噴出しながら、その場に崩れ落ちた。
「無事…だな?」
「ありがとう、目は?」
趙雲は、いつもと様子の違う薄い笑いを浮かべて、わずかに頭を振って見た。
「まだぼやけている。頭痛がひどいが、戦えないほどではないな」
「男は斧を持っている。得物を奪って逃げよう」
孔明の指示通りに手探りで屈み、斧を掴んだ趙雲であるが、そこへ、燕のような早さで鋲が飛んできて、趙雲は反射的にそれを素早く斧で交わす。視界が利かないというのにたいしたものだ、と感心する間もなく、播天流があらわれた。
「どこへ行く、子龍。賊はあらかた片づけた。せっかく出立できるというのに、お前は逃げるのか」
趙雲は手探りで周囲をさぐりつつも、孔明を庇うように前に立った。そうして、顔を動かさずに小声で尋ねてくる。
「川はどっちだ?」
「わたしのちょうど後ろだ。あまり下がるな、後がない」
事実、孔明の沓は船の舳先のぎりぎりにあり、気を抜けば、たやすく落ちてしまう位置に立っている。趙雲のことだから、間抜けな真似はすまい、と信じつつ、孔明はちらりと、水上の人間の諍いも知らぬ顔の、朝陽をうけて輝く水面を見下ろした。
「泳げたよな?」
「うん?」
なんのことだ、と尋ね返すまでもなく、趙雲がこちらを振り向いたかと思うと、どんと強い力で押し飛ばされた。ふわりと、心もとない感覚が全身を包み、ほどなく、一斉に水が襲ってきた。
あの莫迦!
思わずそういいかけて、水が口腔に入ってくる。水の帳の向こうにぼやけた光が輪になって輝いている。太陽だ。孔明は仰向けになった状態で、太陽に向かって手をばたつかせたが、突然ある事実を思い出し、絶望に陥った。
そうだ、子龍は視界が回復していない。だから、手枷が取れたのはなんとなくわかったかもしれないが、足枷がそのままなのが分からなかったのだ。
手足をさらにばたつかせ、もがいてみるものの、もともと体力も乏しく、一昼夜休みなく動いていたために、水の力に対抗することができない。身にまとわり付く衣が、水母のように漂って、さらに体を縛る。
息が苦しくなってきた。冗談じゃない、こんなところで死ぬのか。
徐々に沈み行く体をひっしで励ましつつ、なおも手であがいていると、太陽の輪を打ち破るようにして、救いの手が差し伸べられた。孔明は、必死になって手を伸ばし、助け手を掴んだ。
岸に上げられ、地面に転がる砂利を掴みそして息をしたとき、孔明は、空気という者がこれほどにありがたいものだということを、初めて知った。大地で繰り広げられる惨劇をよそに、天空からそそぎこむ光は温かく、水のつめたさに震える孔明の体を包むかのようであった。
はげしく咳き込みながら、助け手を見ると、それは、自分の正面で、おなじように咳き込み、荒い息を繰り返しているじいやなのであった。
孔明は安堵した。播天流め、みんな死んだといったのは、あれはやはり、こちらをおびき寄せるための嘘だったのか…
「軍師!」
水上から声がして、見上げると、船団から、勇ましい鎧姿に身を包んだ劉琦と、その後ろで伊籍がしきりに手を振っている。海苔のように肌にまといつく髪を掻き分けつつ、孔明は応じて手を振った。その背後で、すさまじい速さで、どんどん遠ざかる播天流たちの船が見える。
伊籍は、ほかの船に、追いかけよ、と命令をし、自分たちは岸辺に船を寄せた。
孔明は、なおも咳き込み続ける黄忠の側に行き、その背をさすった。
「ありがとう、よかった、生きていてくれて。貴方にはなんと礼を述べたらよいかわからぬ」
「勿体無き仰せにございます。この爺は、生きる価値などなきものを、またも生き残ってしまいました」
「そのようなことを言わないでおくれ。貴方がもし死んでしまったら、姉と弟になんと言い訳をすればよいのだ。特に姉上はわたしを許すまい」
それを聞いて、黄忠はずぶぬれの顔を、くしゃりとさせて、笑った。
「たしかに、姉君ならば、きっと亮様を折檻なさったでしょうな。あいかわらずご健勝で、龐家をみごとに切り盛りされているとお伺いしましたが」
「そうだよ。姉上にも会ってほしい。きっと喜ぶだろう。ほんとうに生きていてくれてよかった」
孔明がその手を取ると、黄忠は痛みに顔をしかめて、蹲ってしまう。怪我をしたのか、と尋ねるより先に、声が降ってきた。
「たいした御仁だ。おまえを助けるために、たったひとりで城門の敵と戦いつづけたのだ。そして肩がはずれているというのに、おまえを助けるために水に飛びこんだ。その御仁、大切にしろよ、孔明」
その声に、孔明は顔を上げた。襄陽時代には、ほとんど毎日、飽きるほどに顔をあわせていた親友、崔州平の四角い顔がそこにあった。らしくもなく刀を手にし、背後には黒装束の武装した男たちを従えている。
なつかしい友の姿でもあり、初めて見る友の姿でもあった。孔明は立ち上がって、友に言う。
「州平、いいところに来た! わたしに人と馬と武器を貸してくれ! あの船を追うのだ!」
とたん、崔州平は呆れ顔で孔明を見た。
「人の話も聞かずに、いきなりそれか。変わらぬな、おまえは」
言いながら、崔州平は、ひらりと着物の袖をなびかせて、身軽に孔明のいる岸辺へと下りてくる。
「俺が何者かは、もう気づいているのではないか。それでも頭を下げるのか?」
「君の弟に会ったよ。すまなかった、崔州平」
「なにを謝る」
「長い間、わたしは君のそばにいたのに、君のことをなにひとつわかっちゃいなかった。時にずいぶん嫌な思いもさせたのではないか。それなのに、友でいてくれて、ありがとう」
すると、崔州平は皮肉げに唇をゆがめて、肩をすくめて見せた。傍から見ると、冷たく突き放したようにさえ見える仕草だが、照れ屋の崔州平が、強がるときにする仕草だということを、孔明は知っている。
「おまえのそういう、妙に素直で気恥ずかしい言葉を聞くのが嫌だから、俺は黙っていたのだ。弟に会ったのならば、知っているだろう。俺は曹公に忠誠を誓った。おまえの主の不倶戴天の敵の配下となったのだ」
「うん、知っている」
「助けてやってもよい。だが、条件がひとつある。俺と共に、曹操のところへ行こう。徐庶もおまえを待っている。三人で手を組めば、天下統一も夢ではなかろう」
「なりませぬ、なりませぬぞ!」
と、割って入ってきたのは、鎧をまとったことで気が大きくなっているのか、興奮した様子の劉琦であった。青白い顔に、ほほだけが朱色に染まっている。
「軍師は劉予州の軍師でなくてはなりませぬ! 曹操へ寝返るなど、とんでもない!」
軍靴で岸辺の砂利を踏みしだきながら、劉琦は崔州平から孔明をかばうようにして立った。最初は激しく睨みつけていた劉琦であるが、崔州平の顔を見て、おや、という顔をする。
「貴方は、たしか崔家の?」
「左様、お久しゅうございます、劉公子」
「貴方までも曹操の…」
相手が顔見知りとしって、毒気が抜かれた様子の劉琦であるが、孔明は、劉琦の姿を見て、はっとなった。
「そうだ、花安英は?」
水を含んで重たくなっている着物の裾を邪魔に思いつつ、孔明は花安英の姿を求めて、護送車へと向かった。護送車の中には、弓を受けて針ねずみのようになっている、あわれな宦官が倒れており、そこから這い出したような形で、花安英が倒れているのが見えた。
「花安英、大丈夫か?」
助け起こしながら、孔明は、その体にまだぬくもりがあるのを感じて、ほっとした。抱き起こされつつも花安英は、孔明の声に応えるようにうめく。
「気づいたか。おまえも生きていてくれたのだな」
花安英は、傷が痛むのか、顔をしかめつつ、血の気の失せた唇を震わせて、言った。
「あんたが、あんまり、起きろ、起きろと、きゃんきゃん喚くものだから、目が覚めてしまった」
「おお、花安英! なんという姿に」
と、これまた劉琦が後ろからやってきて、花安英に駆け寄っていく。その後ろを、伊籍がやってくるのが見えた。
「軍師、ご無事でなによりでございました! 申し訳ございませぬ、もうすこし早く到着するつもりでありましたが、思いついた仕掛けに夢中になりすぎまして、気づいたら朝になっておったのです。お恥ずかしい」
と、伊籍が指さす方向を見ると、船の目立つところに、甲冑姿の兵士がずらりと並んでいるが、よくよく見れば、それはみな藁人形なのであった。遠目からあの人形を、本物と誤認して、敵が大挙してやってきたものと勘違いし、壷中の船で、一部が混乱して反旗を翻したのである。
「素晴らしき思いつきでございましたな。お陰で命を救われ申した。この礼は、いずれ必ず」
「いえいえ、我らは軍師の策によって、活路を見い出すことができたのでございます。先ほどの戦いでも、こちらの死者はおらず、負傷者が数名いるばかり。これならば、江夏へも、自信を持って向かうことができまする」
と、伊籍は人の良さそうな顔に、明るい笑みを浮かべるのだが、ふっと笑みを凍らせて、崔州平のほうを見た。
「軍師、わたくしも劉公子と同じでございます。あなたさまは、劉予州の軍師でなくてはなりませぬ」
「それは、孔明がいなくなったなら、劉備がガッカリする、という程度の話ではありませんか?」
冷たく崔州平が口を挟むと、花安英を、細腕で抱き起こした劉琦が反駁した。
「そうではありませぬ。わたくしは、樊城にて生き残るために、必死で人を見る目を磨いてまいりました。腕にも学にも自信はありませぬが、人を見る目だけは、誰にも負けませぬ。孔明殿のように大人しそうに見えて、実は激しい気性をお持ちの方は、苛烈な曹操とは相容れませぬ。寛容な劉予州とのほうが、相性がよい。たとえ曹操の元に仕官したとしても、やがて曹操と反目しあい、互いに互いを潰しあう結果になりましょう」
「ほう、公子も孔明に関しては、一家言ある口ですな。しかしこうもいえるのではありませぬか。曹公の作った地盤、孔明ならば、それをそのまま引き継ぐことすらできるかも、と」
「それは順序正しいことを好まれる孔明殿の性格からして、出来ることではないでしょう。曹操の下には士人が多すぎる。孔明殿がそこに食い込まれるには時間がかかりすぎます。孔明殿の才を、何年も凡人の下でくすぶらせておくなど、それこそ罰が当たりましょう」
それを聞くと、崔州平は、声をたてて笑った。愚弄したのではなく、天晴れな意見を聞いたときに、崔州平はよくそうやって笑うのである。
「おまえの周囲には、どうしてこう、よき信奉者が集るのだろうね? どうだろう、孔明、おまえ自身はどう思っている」
「なぜわざわざ聞くのだ。分かっているだろう」
「お前自身の言葉で納得したい」
孔明は、花安英を抱きかかえる劉琦と、その傍らに立つ伊籍を見、それからいまは豆粒ほどの大きさになってしまった播天流の船を見た。
「劉公子の言葉がすべてだ。わたしは曹操の元で、何年も下積みで我慢ができるような人間じゃないんだ。それに、劉予州に命を賭けている男がいてね、その男が、本来ならば主公のために捨てねばならぬ命を、わたしを守るために費えさせようとしているのだ。わたしは命を守られたものとして、その心意気に答えねばならない」
「お言葉でございますが」
と、伊籍がいつになく険しい顔をして口を挟む。
「あえて言わせていただきましょう、軍師、趙将軍も武人なれば、斯様な覚悟も常日頃からつけておられたはず。むしろ、主人より守れと命じられた方を守りきったのでございますから、きっと満足されていることでしょう。ここはひとまず、新野にお戻りなさいませ。そうして、劉予州のご判断を仰ぐのです」
「そうかもしれない。いや、おそらく貴方の判断が正しいでしょう。ですが、わたくしはあえて、子龍を助けに参ります。曹操や、ほかの人間の軍師であれば、伊籍殿のような身の処し方をするのでしょうが、わたくしは劉玄徳の軍師。友を見捨て、おめおめと一人、城に帰るわけにはまいりませぬ」
伊籍は、ふうっ、と大きなため息をついて、嘆かわしい、というふうに首を振って見せるが、その口端には、温かい笑みが浮かんでいた。
孔明は、崔州平に向き直ると、言った。
「そういうわけだ。逆に言いたいのだが、州平、きみこそ、こちらへ来ないか。主公はきっと君を歓迎するよ」
「あいにくと、俺もニ君に仕える男じゃない。残念だ」
「…そうだな。わたしが、もっと早くに壷中の存在に気づいていたら、事情は変わっていただろうか」
崔州平は、薄く目をつぶり、孔明の言葉に頭を振って答えた。
「いいや。そもそも、この一連の騒ぎも、俺たちの、最後の復讐の烽火のようなものなのだ。逆に、おまえを巻き込んですまなかったと思っている。まさか、播天流が、趙子龍をこれほどまでに憎んでいるとは計算外だった」
「壷中の分裂は、君たちが企んだことだったと?」
「これ以上は俺の口からは言えぬ。さて、これから俺は義陽へ向かう。仕事の最後の仕上げをせねばならぬからな。おまえはどうする」
「むろん、同行させてもらおう」
「だと思った。だが、これだけは約束してくれ。俺が曹公に命じられたことは、これからの仕事のほうが重要なのだ。おまえは俺の邪魔をしない。俺もおまえが趙子龍を救うのを邪魔しない。俺たちは同行するだけ。いいな?」
「わかった」
孔明が肯くと、崔州平は、手にしている長剣とは別の、腰に差した剣を取り外し、孔明に差し出した。
「得物がなにもないヤツを連れてはいけない。これを」
ありがとう、といって孔明は剣を受けとったが、その手触り、装飾、大きさ、ひどく懐かしく、見覚えのある剣である。まさか、と思い柄を見ると、そこにはたしかに、昔施されていた仕掛けの痕が、はっきり残っていた。
「これは、徐庶の?」
「餞別だとさ」
「会ったのか? いつ?」
「ゆっくり話してやりたいが、あまり時間がない。馬を用意する。さて、公子、たいへん図々しいお願いをしなければなりませぬが、そこのぬれねずみのために、衣裳を用意してやってはいただけないでしょうか。それと、そこの老将はもう戦えませぬ。介抱してさしあげていただきたい」
「お安い御用だ。食糧と水も分けて進ぜよう。ほかに、できることはないか」
敵の細作の長にかけるべき言葉ではないが、人柄のよい劉琦は、そのことをすっかり忘れて、孔明の友として崔州平に接している。崔州平の方が苦笑いを浮かべ、つづけて言った。
「それと、ここからさらに言った先に、城から逃げ出した子供たちが集まっております。みな、孔明を慕って、新野に向かうことを望んでおります。どうぞ、願いをかなえてやっていただきたい」
「それも相判った。子供達は任せてくだされ。ところで、琮もそこにいるのでしょうか?」
劉琦の問いに、孔明は心の臓を突かれたような思いがした。劉琮は、風狗として、趙雲と戦い、そして兄である花安英に討たれて死んだのだ。なんと説明すべきかと迷っていると、意外なことばが崔州平から飛び出した。
「いいえ、あの中にはおりませんでした。おそらく、播天流と共に船に乗ったのでございましょう」
「船に? 待て、崔州平、劉琮どのは、中庭に倒れておられなかったか?」
「いいや。俺が見たのは、死にかけている蔡瑁が、兵卒に威張り散らして、劉州牧をどこかに運んでいく最中であったところだけさ」
と、劉琦に聞こえないように、声をひそめて孔明に言う。
「劉表は死んでいた。おそらくその死を隠すつもりであろう。だが、劉表の死は、曹公への早馬が飛んでおるので意味がない」
「曹操は、じきにやってくる、ということか…ありがとう」
「いちいち礼を言うな。隠したところですぐばれるから、先に言っておくだけの話だ。劉琮がどうした」
「それもあとで説明しよう。それより、義陽へ急ごう。道中、話す」
そうして出立の準備に入ろうとした孔明であるが、劉琦の腕の中にいた花安英が、傷を抑えつつ、起き上がった。
「お待ちなさい。義陽への道と仰るが、まともに街道を抜けて行くおつもりか」
「ほかに道はあるのか。あの里は、壷中の里のなかでも、いちばん新しい。抜け道の類いがあるという話は聞いておらぬが」
それを聞いて、花安英は、独特の皮肉げな笑みを浮かべた。崔州平といい、花安英といい、壷中の出身者は、どうも冷笑的な態度を取りたがる。
「播天流は慎重な男。だれにも知られぬよう、抜け道を用意してございます。その道は、わたしと弟、播天流と側近しか知りませぬ。人夫はみな、殺してしまいましたから」
「まことか!」
崔州平が身を乗り出すが、花安英は、脂汗のにじむ顔に、冷たい笑みを浮かばせたまま、つづけた。
「あんたに目的があるように、わたしにも目的がある。義陽への街道の道には、おそらく壷中のものが待ち伏せしているだろう。でも、抜け道はおそらく素通りできるはずだ。連中は、わたしがもう死んだものと決め付けているからね。道を教えてやってもいい。だが、条件が二つある。ひとつは、わたしは軍師にしかこれを教えない」
崔州平は、むっとした顔をしつつ、孔明をちらりと見た。
「好かれたな。おまえはこの手合いに、なぜだかやたら愛される」
「茶化すな。花安英、もうひとつの条件は?」
「義陽にわたしも連れて行くこと。おっと、駄目ですよ、反対なさっても。あなたが処方してくれた薬のお陰で、痛みも和らいできた。どうせ、劉公子の船に担ぎこまれたところで、痛みに耐えながら唸ってなくちゃいけないのは同じなんだ。だったら、義陽へ向かう馬車にでも乗せてもらって、そのなかで唸っているよ」
「莫迦者! おまえが追った怪我は、かすり傷や虫刺されの傷とはちがうのだぞ!」
「怒鳴ったところで無駄ですよ、軍師。わたしを連れて行かない限り、義陽への抜け道はわからない。そうして街道で足止めを食らっているうちに、あんたの主騎はきっとボロボロにされている」
「わかった、おまえの言うとおりにしよう。ただし、わたしにも条件があるぞ」
孔明は言うと、きょとんとしている花安英のところへ行って、その側に屈むと、ぎゅっとその頬を抓った。
「城で言ったはずだな、わたしはおまえを必ず更正させると。まずは手始めに、その口の利き方から更正させる! 今度、意味もなく人を不安にさせるような言葉を吐いたら、頬を抓るだけではすまさぬぞ」
「どうするのさ」
「怪我が治ったら、おまえを新野に連れ帰る。そこで一ヶ月、兵舎の厠の掃除をするのだ」
「……あんた、つくづく能天気だね。生きて帰れると思っているわけだ?」
「当然だ。そのために義陽へ行くのだからな。さて、厠の掃除がいやならば、すこし大人しくしているがいい。さあ、州平、出立の用意をしようか」