孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

一人、二人、三人……
最初の一人目からずっと、黄忠は倒した敵の数を黙々と数えていた。
趙子龍はうまくやったらしく、城壁からの弓の攻撃はほとんど気にしなくてよかった。もっとも、通常ならば、これだけの乱戦となれば、味方が傷つくことをおそれて弓を射掛けないところだが、相手は壷中。平気で射かけてくる。
つぎつぎと襲ってくる若者たちの表情は、篝火に照らされてもなお視認することはできなかったが、黄忠には、十年前の亡霊たちが、自分に復讐をしにあらわれたように感じていた。
今日のこの日のために、自分は生きながらえてきた。

諸葛玄は立派な男だった。もしも生きていたなら、樊城でもおおいに出世したであろう。
徐州の実家を出て、各地を流浪しているあいだに食客たちとも交わり、みずから進んで見聞を広めていた。そのため度量も広く、前向きで、誰に対しても笑顔を絶やさないでいた。
とくに子供が大好きで、徐州から逃げてきた子供たちを、実子のように可愛がっていた。
乱世によって結びついた親族の仲のよさは、将兵の立場から見ても、微笑ましいものであった。
諸葛玄とその子供たちの暮らしぶりは、日々、悲惨な光景を目の当たりにしなければならない黄忠たちにとっては、明るい光のようにさえ思えていた。世の中には暗い話ばかりが転がっているが、まだ希望はある。そんな心持にさせてくれるのだ。
流民の問題が深刻になっていくにつれ、悲惨な事件が各地で起こり、そのたびに黄忠も現場に向かったが、日を追うごとに、流民と、土着の農民たちとの確執は深まっていくのが肌でわかった。
劉表とて、無為無策であったわけではない。劉表は、浅ましい病に冒されるまでは、優秀な君主であったのだ。
そう、荊州の土着の民からすれば、歓迎すべきよき君主だったのはまちがいない。
頻発する流民による諍いの数々に頭を悩ませた劉表は、ことを一気に解決する方策を打ち出した。

まずは、それは壷中だった。
最初は、美しい理念のもと、親を亡くした子をあつめ、儒教の教えを叩き込み、衰退する国を支えるべく、優秀な官吏を作るための、きわめて崇高な目的をもった組織だった。
ところが、これには時間がかかる、という欠点があった。あつめられた子供たちが、本当にモノになるかどうか、それは時を待たなければわからない。
そんな先のわからないものに、金も時間もかけられない、と思ったのかどうか。
やがて壷中は内容を変貌させていった。子どもたちに教えるのは、儒教の教えなどではなく、刺客としての心得であり、閨秀術を駆使していかに相手を籠絡するかに変わっていった。
もとより身寄りのない子どもたちに拒否することなどできず、どれだけの子供たちが、荊州を守るためというお題目の下、犠牲になっていったのかわからない。
そうして一気に変貌した壷中が、きわめてまずいことに、それなりの成果を上げてしまった。
味をしめた劉表は、壷中による荊州の治安の強化、情報の徴収、そして、もっとも頭を悩ませる流民の処遇をも決めてしまう。
劉表のおそろしい企てに反対したのは諸葛玄だけであった。

劉表を止めるため、そして味方を得るために、諸葛玄は必死になったが、荊州の豪族たちの反応は悪かった。自分が動けば動くほどに、寿命を縮めていることを、諸葛玄はわかっていたはずである。
それでも、声を上げることをやめなかった。悲しいほどに愚直な生き様を、黄忠は立派だと思った。
あるとき、諸葛玄は将兵をあつめ、劉表に会いに行くことを告げた。
劉表は、ほかの豪族たちにもそう強要しているように、諸葛家にも壷中に人質を出すように要請していた。白羽の矢が立ったのは、諸葛玄としては最悪なことに跡取りの亮で、いつ見初めたのか、一族の誰にも似ていないことさら目立つ容貌が、劉表の気に入ったのだという。
劉表に一度、差し出してしまったが最後、どんな目に遭わされるかは明らかであった。
諸葛玄は必死で智恵を絞り、ある策を練った。もし自分が死ぬか、甥の亮が壷中に連れて行かれるようなことがあったら、各地に分散した親族に宛てた手紙が開封される。
そこには、劉表の悪辣な所業、壷中の実態が記載されている。手紙をねたに脅しをかけ、劉表に手出しをさせなくする。
もし自分が生きて帰ってくることができたなら、われらは共に江東へ逃げるつもりだと、諸葛玄は言った。危うい賭けであり、そもそも手紙自体が存在しなかったと知ったのは、諸葛玄が死んだあとであった。
だが、脅しの効き目はあった。
報復と見せしめのために諸葛玄は命を落としたが、亮は守られた。手紙の公表をおそれた劉表が、優柔不断なところをみせて、中庸策を取ったのが幸いしたのである。
黄忠は、諸葛玄の意を汲んで、なにがあろうと遺児たちを守り抜く決意でいた。
だが、劉表は執拗であった。仕官という名目でもって、何度も亮を召しだそうとした。
黄忠をはじめとする将兵たちは、みな諸葛家から離れるのを嫌がったが、これ以上大人数でいれば、かえって劉表を刺激すると判断し、泣く泣く離れることとなった。とはいえ、彼らを忘れたわけではない。むしろ、遠く離れることで、劉表の動きを見逃さず、魔の手が子供達に伸びないよう、注視することができた。
劉表は残酷で身勝手な男であったから、ひたすら抵抗をつづける黄忠たちが目障りであったにちがいない。
金にも地位にも目もくれない黄忠たちに、罠を仕掛けた。

新野城に召集された黄忠たちは、そこで、大量に集められた流民たちを目の当たりにする。
まともに食事も配給されず、ただ集められた彼らからは、なんともいえぬ異臭が漂っていた。
いまもって、その匂いを、疲れ切った彼らの顔という顔を、黄忠は夢に見ることがある。
まずは子供達に仕事を与えるので、集めて馬車に乗せよと命令されたとき、目の前にいる何百という人々を待ち受ける運命に、黄忠は気づいてしまった。
劉表は、子供たちだけを集めて壷中に送り、残る流民たちは、始末するつもりなのである。その思惑に気づいたとき、黄忠や部下たちは懸命に抵抗した。ときには、諸葛玄の手法を真似て、手紙の存在さえ匂わせてみた。
しかし、所詮はささやかな抵抗にすぎなかった。
とある用事を言いつけられ、新野城をすこし離れた隙に、蛮行は行われた。
帰って来たときに眼前にあったのは、兵士たちによって草を刈り取るようにして殺害された流民たちの、物言わぬ無数の体であった。
浅ましいことに、この蛮行を指揮した蔡瑁は、さらに流民たちを愚弄するかのように、その体から、金目のものを根こそぎ奪っていた。冥府の鬼とて、この光景を見たなら、涙を流したことであろう。
黄忠にできることは、まるで物を打ち壊すかのような暴虐さで殺されていった者たちのために涙を流すこと、そしてこの蛮行を行わせた将兵たちを呪うこと、そして殺されていった民の鬼魂に報復を訴えることだけであった。
絶望に打ちひしがれながら、無残な死体を片付け、火にくべたとき、蔡瑁が、
「これでおまえたちも共犯だ」
と言って笑った。
そのときになって、黄忠たちは、ここに居合わせたことが、自分たちの沈黙を買うための、罠だったのだと気が付いた。

もしも、この暴虐が天下に明らかになれば、非難の声は荊州に集中し、虎視眈々と機会を狙う周辺の勢力に、もっともよい口実を与えることになる。すなわち、暴虐淫靡な君主・劉表より、荊州の民を救うこと。
大義名分が立つだけに、荊州が、徐州のように大虐殺の舞台になる恐れがあった。もとより肥沃な大地を狙って、周辺諸国は目を光らせている。そのころは天下の状況はある程度落ち着きを取り戻していたので、ふたたび血の嵐を招くことを、黄忠たちは恐れた。
沈黙せざるをえない状況に追い込まれてしまったのである。

黄忠は官を辞し、あの日に連れ去られた子供たちを助けるために奔走した。
真実を明らかにできない悔しさを、すべて壷中の村を捜すことに費やした。
しかし、村はたくみに隠されているらしく、とうとうどこにあるのかを明らかにすることができなかった。
その間に、諸葛家の子供たちも成長し、もっとも気がかりであった跡取りの亮は、名族黄家の娘を娶ることとなった。同時に、劉表からのしつこい招聘はぴたりと止んだという。
それを聞き、黄家が直に監視をすることになったことと、亮が育ちすぎて、好みではなくなってしまったことで、ようやく劉表はあきらめたのだと悟った。
黄忠の戦いは、ここでひとまず幕を下ろす。
数年間は穏やかな日々を過ごした。
その間に、一人息子を事故で失うという不幸にもめぐり合った。壷中の村を捜すことはやめなかったが、官を辞した老人に、有力な情報など入ってくるはずもなかった。
口を閉ざしてから七年の歳月が経った。

思いもかけない形で、口を開くときがやってきたのだ。そして、あの日の贖罪を果たす日がやってきた。
騙された形とはいえ、新野城に集められた流民を救うことができなかった。本当なら、あそこで民を守るために戦い、死んでいなければならなかったのだ。
襲い掛かってくる敵のうち、あの日に壷中に連れて行かれた子供たちが混ざっているかもしれない。これは戦いではない。解放なのだ。手足がもがれようと、目がつぶれ、口が利けなくなろうと、黄忠は最後の最後まで、戦う覚悟で槍をふるい続けた。

もう何人を斬ったかわからない。
劉表のもとに留まり、黄忠に協力をつづけてくれていた男、かつて同じく諸葛玄の部下だった男、そして樊城の東の門を趙雲のために空にしてくれた男が、混乱をついて、黄忠とともに参加して戦ってくれたが、多勢に無勢。
雲霞のごとく次から次へとあらわれる敵に、さすがに疲れを覚え始めていた。
最後は、おのれが敵というわけか。
戦え、死ぬまで戦うのだ。
そう励ましながら、もはやしびれて感覚のなくなってきた手足を、機械的に動かし続ける。
視界の隅に、懸命に戦ってきた男が、背後から襲ってきた刃によって、打ち倒されたのが見えた。
ああ、おまえは先に逝くのだな。
どうやら、いつも一人だけ、取り残されるのが、儂の天命らしい。
敵の数は、途中から少なくなったものの、それは、引き受けるべき敵が、城内にいる趙雲に向かったということであり、黄忠としては喜ばしい話ではなかった。
なにより亮のことが気になった。
捕らえられたあの方は、ご無事だろうか。もしもここで死んだなら、魂はすぐにお側に駆けつけて、あの方をお守りしよう。そう決めた。
城門から飛び出してきた兵士が、ほかの兵士とは様子がちがって、狂ったように喚き散らしながら、剣を掲げて向かってくるのが見えた。その憎しみに燃えた目は、単に味方の仇を討つために燃えているのではない。おそらく、黄忠が倒した中に、その男の親しい者がいたのだろう。
もはや手足は動かない。黄忠はいさぎよく死を覚悟した。
首を刎ねるであろう剣が、中空に振りかざされる。篝火に不気味に赤く刀身が光っている。
死が下りてくる。
ところが、刃は期待したどおりの動きをしなかった。どす、どす、と鈍い音と共に、男の体は、黄忠の背後より射掛けられた弓で持って、射抜かれていたのである。
断末魔の声を響かせて、男はその場に崩れ落ちた。

振り返ると、そこに、黒装束の細作たちを従えた、その場に似合わぬ隠士風の男が立っていた。
その手には、長剣が握られているが、腰には、もう一振り剣がある。
「獅子奮迅の働き、まこと感嘆いたし申した。それゆえ微力ながらお助けいたしましたことをお許しねがいたい」
と、男は淡々と言った。聡明な黒い瞳をした、四角い顔の男である。年は亮より少し上だろう。黒装束の男たちは弓を射つづけ、黄忠が退避するのを援護しつづけてくれた。
城門から離れたところに来ると、城の狂乱が嘘のように静かであった。そろそろ夜明けが近いのが、闇の薄さで感じ取れる。
黄忠は男に尋ねた。
「貴殿の名は?」
「崔州平。黄漢升どのとお見受けいたしましたが、如何に?」
黄忠は、思いもかけない助っ人の、思いもかけない名前に驚いた。崔州平といえば、亮の学友ではないか。徐庶とかいう男がむかし剣客だったという話は聞いていたが、崔州平もそうであったのか? しかし崔家といえば、名の知れた家のはず。
と、そこまで考えて、勘のよいところで黄忠は気づいた。そうか、この青年もまた…
「亮様をお助け下さるのか」
端的に尋ねてきた黄忠に対し、崔州平は、どこか親しげな笑みを返してきた。
しかし、返事はなく、別な言葉が述べられる。
「肩がはずれてもなお、戦いを止められなかった。貴方様はここで死ぬ覚悟でございましょうが、それでは犬死となりましょう」
「どういうことか?」
「孔明は無事です。ただしふたたび播天流の虜となっております」
「なんじゃと?」
「趙子龍殿と合流し、壷中の者を助けるために、ふたたび城内に戻ったのです。しかし、そこを播天流に捕らわれた様子。樊城には、壷中のためにいくつもの抜け道がございます。播天流は、そのひとつをつかって、二人を連れ出すつもりでしょう。
やがて、ここには、ようやく重い腰をあげた将軍たちが、兵舎より兵卒を引き連れて押しかけてまいります」
「ずいぶんごゆっくりじゃな」
黄忠の皮肉に、崔州平も唇をゆがめてみせる。
「蔡瑁の人徳の結果でございましょうな。どうやら、かの御仁は、想像以上に恨みを買っているらしい。将軍たちはみな、城内の混乱が収まるのをまって、この責任を蔡瑁に押し付け、その地位から引き摺り下ろそうと考えておる様子」
「腐っておる」
「左様。貴方様の敵は、一般の兵卒たちではないはず。ここで死んではなりませぬ」
「ご助力かたじけなく存ずる。しかし、貴殿はなにゆえわしをお助けくださったのじゃ?」
「貴方様が、わたしたちをずっと捜していたことを知っていたからです。貴方様のような方がもっとたくさんいたなら、わたしたちも救われたかもしれない。
いままで姿を現さなかったのは、時が来ていなかったからです。わたしたちは、樊城が落ちるのを待っていた。曹公が来られる前に、樊城は壊滅したのです」
崔州平は、いささか狂気すら伺わせる、歓喜に満ちた笑顔を、燃える樊城に向けた。
黄忠はそれを不気味に思うより、なにより悲しく思った。この青年は生きつづけることを選択した。だが、受けた傷は一生癒えまい。
「貴殿は曹操の?」
「左様。樊城を混乱に落としいれ、曹公の南下を内側からお助けするのがわたくしの仕事でございました。貴方様と孔明のおかげで、務めは果たされた」
「曹操の狗だというのなら、わしは敵というわけじゃな」
「いいえ、貴方様と刃を交えるつもりはございません。それに、まだ重要な仕事が残っておりまする。
黄漢升殿、貴方様はもう戦うことはできない。わたしたちに恩を感じる必要はありませぬよ。わたしたちが貴方様をお助けしたのは、わたしたちのためなのですから。お逃げなされ。じきに兵卒どもに取り囲まれてしまいますぞ」
「貴殿らはどうするのじゃ」
「城外へ逃れる播天流を止めに参ります」
「待て。亮様が捕らわれているのならば、わしも共に参ろうぞ。わしは、単なる瓜売りの爺じゃ。劉表でも劉備でもない。それならば、曹操に詮議を受けることもなかろう」
黄忠が言うと、崔州平は予想をしていたのか、驚きもせず、困惑することもなく、ただ笑みを浮かべた。
「そのような、外れた肩でなにをなさるおつもりか」
「外れたのは片側だけじゃ。もう片方があれば、十分に戦えようぞ」
「よろしい、では共に参りましょう。ただし、これからはもうお助けしませぬよ。わたくしは曹公の配下。劉備の軍師である孔明を助けるために行くのではありませぬ。そこをお間違えなきよう」
黄忠が、承知、と肯くと、崔州平は、背後にいた配下に合図をして、音もたてずに薄闇のなかを走り出した。黄忠は、すでにバラバラになりそうな手足を、それでも必死に動かして、そのあとを付いていった。

次回、『太陽』 7につづきますm(__)m
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