孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

狂ったようにうるさい蝉の声で目が覚めた。
蝉の命はたったの数日。
自分が生きて、たしかに大地にいたことを誰かに知らせたいがために、あんなふうに鳴きつづけているのだと教えてもらったことがある。
誰であったか忘れてしまったが、数日しか命がないというのなら、自分はどうするかなと考えたことは覚えている。
だれにでも天寿はあるが、それがもし決められていたら、人はもっと真摯に生きるだろうか。
それとももっと残酷になって、短い間に、おのれの欲望を満たそうと躍起になるだろうか。

体じゅうが重くて、どこが痛むのかがわからない。
耳鳴りのつづく耳朶のむこうから、姉の声が聞こえた。よかった、聾唖にならずに済んだらしい。
姉はかなり怒っているようだ。それをばあやが宥めているのが会話でわかった。

今回は特に殴られたからな。

いままでは、どこか子犬のじゃれあいにも似た喧嘩であった。
中には興奮して、限度を知らずに殴ってくる者もいたけれど、今日のは、はっきりとちがった。だれの目にも、あきらかな殺意があった。
やつらは人を卑きょう者、と言った。
一人に対し、いつまでも大人数で仕掛けてくるのは卑怯といわないのか、と言い返したのが、火に油だったらしい。
四方八方から手だの足だのが出てきて、いま、生きているのが不思議なくらいだ。途中で何度か気絶したから、さすがにこれは危険だと思ったのだろうか。

均がそっと部屋に入ってきて、わたしの顔を覗いていく。
泣きそうな顔をしているが、これはいつものことで、姉が怒っているときは、この弟はいつもこういう顔をする。均は、水差しでわたしの口に水を含ませてくれて、ちらりと姉のほうを気にしながら、言った。
「兄上、気づかれましたか」
「うん。記憶にないのだが、わたしはどうやって家に帰って来たのだろう」
「私塾のお友だちが、担いできてくださったのですよ。崔州平とかいう…」

崔州平の顔には見覚えがあった。
いくらか年上の、四角い顔をした男だ。いかにも品のよいお坊ちゃまといった感じで、どこか取っ付きが悪かった。特定のだれかと仲良くすることもなく、勉学にさほど気合を入れているふうでもない。
どこか付き合いでその場にいるような雰囲気のある、不思議な男だった。

友だちだといえるほど、言葉を交わしてない。
そうだ、殴られてそのまま放置されていたときに、だれかに助けを求めたのだっけ。あれは崔州平だった…気がする。どうやら想像していたより、ずっといい男らしい。

身じろぎすると、痛みはするものの、起き上がれないほどではなかった。
幸い、というべきか。足は折られていないようだ。呼吸するたびに胸が痛むので、肋骨あたりは折られたかもしれないが。
「動いてはなりませぬ。診た手では、あばら骨にひびが入っているそうです。それにあちこち痣だらけです。死人のように見えますよ」
「おまえは、さりげなくきついな。しかし、姉上は、なにをそう怒っておられるのだ?」
「喧嘩は二度としないと約束したのに、それを破った兄上を、この際だから勘当してしまおうと仰っておいでです」
「勘当か。それは困るな」
行くあてがない。
友達がいない、ということは、こういうときに困る。
「なんだか呑気にしてらっしゃいますが、聞きましたよ、いじめっ子の先輩方の借金の債権を、ぜんぶ買い取って、取立人の真似事をなさったとか。
ああいうことは、やくざ者のすることです。兄上のような青瓢箪にできることではありません」
「悪かった、心の底から反省しているとも。ところで、青瓢箪の弟で、やっぱり青瓢箪、あいつらは追ってくる気配はないか」

「あるわけないでしょう、この大たわけ者!」

姉が、足音もあらあらしく部屋に入ってきた。
ばあやが寝台に横たわるわたしと、姉を交互に見ながら、あとにしましょう、あとにしましょうと必死になっている。
姉や弟がどんなに怒っても、いつものことだと思っていられたが、ばあやが悲しそうな顔をしているのには、さすがにこたえた。
腹違いの姉は、弟の自分の目から見ても、美しい方だと思う。怒った顔がいちばん美しいと思うのだが、だからといって怒らせているのではない。
「おまえは、本当にたわけです! 自分の身に降りかかった火の粉は、自分で払いなさいと、姉は口を酸っぱくしてそう言ったのに、どうして守らなかったのですか!」
「払ったつもりだったのですが」
「お黙りなさい! 火の粉は払われるどころか、他の方に飛び火したのですよ! お友だちにまでご迷惑をおかけするなんて、恥を知りなさい、恥を! 莫迦!」
「莫迦です」
「開き直るでない!」
「姉上、飛び火というのは、どういうことでございますか」
わたしが尋ねると、姉はまあ、と驚いて、寝台の傍らに座ると、耳をぎゅっ、と引っ張って言った。
「よくお聞きなさい、たわけ者。おまえのしでかした不始末を、お友だちが引き受けてくださったのですよ。
借金の期日はいままでどおりということで、おまえをこんなふうにした方たちに話をつけに行ってくださっているのです」
おかしいな。そんな親切な友達に記憶がないのだが。その前に、友達がいない。わたしをここまで担いでくれたという崔州平が、物のついでにそこまでしてくれたのだろうか。
「わたしの友達の名は、崔州平ですか?」
「ますます呆れたこと!」
と、言って、姉上は、さらにわたしの耳朶をつよく引っ張った。
「よくお聞き。その方の名は徐元直殿です! まったく、ほうぼうにご迷惑をかけて、よく反省なさい!」
「徐元直?」
たしかこの間、やっぱり殴られて小川で顔を冷しているときに、布巾を絞るのを手伝ってくれた男だ。
着ているものはボロだけれど、洒落た着こなしをした男で、たしか以前に剣客で、故郷で仇討ちを手伝ったがために、おたずねものになっているという変わり者だ。
背が高いうえに吊り気味の目に力があり、粋がっていてもどこか田舎くささの抜けないほかの門弟たちとは、あきらかに毛色がちがう…そう、本物の雰囲気があった。
顔を冷してくれたときに、名前のことを誉めてくれた。
そうだ、こんなことも言っていなかったか。
「いかに優れた素質をもっていようと、それを生かすことができるかは、おのれの修練によるものだろう。連中とおなじ枠におさまって、いちいち相手にしているのは利巧なやり方かな。
おまえ、いまのままでは、おのれでおのれを駄目にしてしまうぞ」
言葉の通りになりかけたわけだ。
そういえば、崔州平に担がれたあと、おぼろげにだが、徐庶がなにか言っていなかったか。あとは任せろとかなんとか…

おたずねものが、ここで面倒を起こしたら、どうなるか。

わたしは体の痛みをこらえて立ち上がると、均とばあやが止めるのも聞かず、家を出た。姉上は止めずに、黙ってわたしに杖を貸してくれた。
みっともないが、そこでごねている場合ではない。
馬の中でも、いちばんに穏やかに走ることの出来る馬を引き出して、わたしは塾へと戻った。
短慮だった。あまりに短慮だった。
金で人を支配するという意図で行ったことではない。
度重なる暴力が、日に日にひどくなるのに耐えられなかっただけなのだ。
解決策で金を使うことを思い立った。だれも傷つけなくて済む方法だと思っていた。
なのに、このざまはどうだ。
もしも、自分の為にだれかが傷つくようなことがあるのなら、そのときは死んだほうがましだ。

塾へ行くと、黒衣に襷掛け、といった風体の徐庶が、連中相手に一人で対峙しているところであった。
さきほどとちがうことは、箒のかわりに一振りの剣を持っている、ということか。
その剣があるために、連中はあきらかに怯えていた。徐庶の前身を知らぬものはなかったし、本人もそれを隠していなかったから、余計にもしかしたら、と思うのだろう。
「どうだ。だれも来ないのか」
と、徐庶は、鞘におさまったままの剣を、見せびらかすようにして言った。
「ならば、俺の話は通った、ということでよいな。借金の期日はいままでどおり。だが、二度とあいつに手を出すな。大事な債権者だぞ。もしあいつになにかあったら、俺はおまえたちを役人に突き出す」
「よそものの若造が、金に物を言わせておれたちの債権を買い取ったあげくに、おまえのようなならず者を雇って、取立てをする、というわけか」
おおいに侮蔑を含んだその言葉に、徐庶は顔色を変えず、鞘に入ったままの剣で、とんとんと肩を叩きながら、答えた。
「おまえらのような低脳には、おそらく何をいっても伝わらぬであろうから、あえてわかりやすーく言ってやろう。
おれはあいつに雇われちゃいない。あいつが気に入ったからこうしているのさ。
あいつは。おまえら暇なお坊ちゃまのおもちゃじゃないんだ。おもちゃで遊ぶ前に、借金を返すために智恵を絞れよ」
「おまえら二人とも、よそ者じゃないか。あいつとおまえと、両方消しちまう、っていう手もあるのだぜ。俺たちの親を、だれだと思っている?」
「おまえの顔を見るに、おまえの親もたいした男じゃなさそうだな。やるならやれよ。その前に、おまえが墓場に行ってるぜ」
挑発された男が、頭に血を上らせて、徐庶に向かっていった。
あいつは、連中の中でも、すぐに興奮しやすくて、しかも急所ばかり狙ってくる嫌な男だ。
だが徐庶は、その男の動きが読めていたかのように、拳を突き出す男の頭を、鞘に入った剣で思いっきりぶん殴り、目を回した隙に、さらに拳を叩きつけ、つぎに膝で腹を殴り、蹲ったところを後頭部めがけて肘を打ち下ろした。

まるで無駄のない、そして容赦のない一連の行動に、連中がぴたりと水を打ったように静かになった。
こいつは、喧嘩慣れしているなんてものじゃない。もっときわどい生死のやりとりを経験して、それに慣れている男だ。
徐庶はうめき声をあげて地面にうずくまる男の首筋に、やはり鞘に入ったままの剣を突きたてると、動揺しているほかの仲間たちに言った。
「俺はまだ、鞘から剣を抜いていない」
ぴたぴたと、蹲る男の首筋に鞘を当てる。
「こいつを抜いていたら、首を刎ねていたな」
そうして、柄に手を伸ばし、薄気味悪く笑ってみせる。
「どうする? いまからでも、抜いてやってよいのだが?」
連中は、すっかり怖気づき、地面に伏した男もそのままに、いっせいに逃げていった。
地面に伏した男は、泣いているようであった。
仲間に置いていかれ、這うようにして起き上がると、気の毒なほどふらふらとした足取りで、仲間のあとを追った。

わたしは、逃げていった連中のうしろ姿を、魔法でもみたような気分で見つめていた。
人をさんざんに殴って、気が済まないかぎり立ち去らなかった連中が、あっさりと怯えて逃げていく。
「さあて、少年。これで苛められる心配は、すこしはなくなっただろう」
「孔明だ」
いつのまに気づいていたのだろうと思いつつ、わたしは徐庶のところへと行った。徐庶はにっ、と親しげに笑い、わたしに言った。
「わかっているとは思うが、水鏡先生には言うなよ。いくら剣は抜かなかったとはいえ、喧嘩は喧嘩だからな」
「わかっている。どうもありがとう」
「どういたしましてだ。さあ、結果を見届けたのなら、家に帰って、ゆっくり休め。あいつらが仕返しに来ることはない。来るとしたら、俺のところかな」
「それでは困る。私のために、だれかが傷つくのは嫌いだ」
「そうか。なら、おまえの財力と名前で、俺を守ってくれよ、諸葛家の家長殿」
冗談めかして徐庶は言った。あきらかに、なにも期待していない様子だ。
だが、わたしは彼の目をまっすぐ見返して言った。
「そのつもりだ。恩はかならず返す。困ったことがあったら、なんでも言ってくれ」
すると徐庶は、声をたてて、愉快そうに笑った。
「真面目だな」
「真面目だとも。聞いていいだろうか。なぜだ?」
「なぜ? 俺がおまえを助けたか?」
そうだ、とわたしが肯くと、徐庶は埒もない、というふうに肩をすくめてみせた。
「おまえ、俺が教室を掃除しておくと、かならず礼を言ってくれたじゃないか」
「ありがたいと思ったからさ。当然のことだろう? きれいな場所で勉学に励むのは気持ちがいい」
「その当然のことができたのは、おまえ一人だからだよ。ほかの連中は、おれが人殺しだから、贖罪のためにそうしているのだと思って、ろくに挨拶すらしない」
「それだけ?」
「それだけ、とは、たいしたやつだ。そういう単純なことが、ふつうに出来るやつが、本当はいちばん偉いんだよ」
そう言って、徐庶は手を伸ばし、わたしの頭を軽く撫ぜた。
それだけのことなのに、なぜか涙が出そうになった。
あわてて、わたしは目についたことを口に出してみる。
「その剣は、君の?」
「これか? 見てくれはいいだろう? いかにも何人も切ってそうだよな」
ほら、と言って、徐庶は剣をわたしに差し出した。
たしかに立派で、どこか禍禍しい雰囲気のする長剣であった。
剣は好きではない。どうしても、叔父が殺されたときのことを思い出してしまう。
抜かないで鞘だけを見ていると、奇妙なことに気が付いた。
柄と鞘のところに紐で細工がしてあって、簡単に剣が抜けないようになっているのだ。
「ここにいるあいだは、絶対にこの剣は振るわないと決めた」
「ここにいるあいだだけ?」
「そうだ。ここは平和だ。中原のありさまが嘘のようだ。だが、よその土地はちがうのだ。俺はここでおさめた学問を活かして、役人ではなく、軍師になりたい」
「軍師か…いいね、きっと似合うよ」
「馬上で剣を振るい、敵を多く打ち倒すことで平和がくるわけではない。智と武の二つでもって、いかに敵の心をくじくか、ということが問題なのだ。
孔明、おれはせっかくこの世に生まれたのだから、人に感謝される人間になりたい。おれは母を始めとして、おおくの人に助けられて生きながらえた。みなに恩返しをしたいのだ。
この剣は、おれの志そのものだ。いつかこれを持って、俺は戦場へ行く。敵を多く殺すためじゃない。敵を多く救うためにだ」

理想を語る者は多いが、わたしは、徐庶がいつかかならず、ことばどおりの者になるだろうと予感した。
予感はあたり、短いあいだだが、彼の夢は叶ったのである。
だが、平和は取り戻せていない。ますます戦火は広がっていく。
いまこそわたしは、徐庶に言うべきなのだ。
わたしに何かできることはないだろうか、わたしは君に恩を返したいのだ、と。 

                          ※ ※ ※

ふと額に指の触れる感触があり、孔明は意識を取り戻した。
自分のほつれた髪に指を絡めるような、そして額から自分の熱を確かめているような、ゆっくりと肌をなぞる、温かく、やさしい感触がある。
だからあんな夢を見たのかもしれない。二度と戻ることのない、なつかしい、襄陽の夢だ。

孔明のぼやけた視界の前に、粗末な板が並べられている。
板は格子の塀で終わっており、格子の前には宦官が一人、ぴんと背筋を張って、人形のようなつめたい表情で、身じろぎもせず、孔明を見ていた。
喜怒哀楽のすべてぬぐわれた、陶器の仮面のようななめらかさを持つ白皙の顔を見て、孔明は美しいが、哀れだな、と思った。劉表の部屋で見た子供たちが成長したら、こんなふうになってしまうのだろうか。
ご丁寧に枕が敷いてある様子なので、首が痛むことはない。
ぼんやりした頭で、ここは牢だろうか、と孔明は考えた。
たしか劉表の部屋へ行き、播天流にふたたび捕まって、殴られたのだ。
殴られたことを思い出したとたんに、左の頬が痛み出した。
幸い、顎は砕けていなかったが、鈍い痛みが左頬にだけあり、その違和感に慣れない。

「起きたようだな」
掠れた声が降ってきた。そうしてはっきり目を開き、顔を上げ、右耳を中心に感じていた感触が枕ではなかったことを知り、はじめて孔明は自分が趙雲の膝にもたれかかるようにして眠っていたことに気づいた。
動こうとして、じゃり、と重い鎖の音に仰天する。
そうして自分を見下ろすと、手枷に足枷にくわえて、逃げ出さないように、象を戒めるためのような重く大きな鎖が填められていた。身動きするのにも一苦労だ。
屈辱的なあつかいに、激しい怒りがはらわたからこみ上げてきたが、次いで、自分の額に触れている指が趙雲のものであることと、趙雲の手足には、自分のような戒めがないことに気づき、孔明は顔だけを動かして、おのれの主騎を見上げた。
「子龍?」
声をかけると、趙雲の指が離れた。
「不快だったか。すまぬ。生きているかどうか、確かめたかったからな」
「生きているとも。見ればわかるだろう?」
と、見あげる趙雲の目は、焦点が定まらず、どこか身の置き所のなさそうな雰囲気である。
ひどく殴られたらしく、あちこち腫れあがり、口や鼻の周囲の血は、拭かれもせず、黒く乾いたままになっていた。
孔明は、さきほど感じた怒りよりも、さらに根が深く粘度のある怒りをおぼえた。怒りのあまりに、手足の血が震える。
「なんとひどい。痛むであろう?」
「それほどひどいか?」
孔明の声を探るように、一瞬、視線をさまよわせる趙雲の表情を見て、孔明の背筋にぞくりと戦慄が走った。
「子龍、目をどうした?」
「見えない」
起き上がろうとしたものの、手枷と足枷があるために、自由にならない。なんとか苦労して、亀のように首を伸ばす。
「見えないって、なぜだ? まさか」
潰されたのではあるまいな、と顔をじっくり見て、両の目の眼球は、無事であることを確認して、孔明はほっとする。
「見えないといっても、まるで見えないというわけじゃない。薬を飲まされたのだ。物がダブって見えるし、どこになにがあるのか、感覚がまるで掴めない」
「痛みや熱は?」
「ない」
「そうか。おそらく一時的なものだろう。気分が悪いだろうが、しばらく安静にしていれば、薬も抜けてくる」
自分で口にしておいて、この状況で安静もなにもないと、孔明は苦りきった。
趙雲は何も言わず、そうか、と言った。気絶しているあいだ、どんなことがあったのかはわからないが、いつもの覇気がないのが気にかかる。

孔明は、あえて趙雲の体に自分の頭をもたれさせたまま、姿勢を落ち着かせた。
「花安英は?」
「お前が親鳥みたいに抱えて離さぬと、連中が苦りきっていたが、そこにいないか」
言われて、孔明は、手枷をされてもなお、しっかりと花安英を体に抱えていることに気づいた。
花安英の呼吸は弱く、さきほどより熱が上がってきている。
どうやら孔明を理由にしたわけでもないだろうが、彼らは傷を負った花安英を、介抱することもなく放置したままでいるらしい。
「仲間だろう。助けてやろうと思わんのか」
孔明は、ちょうど自分の目の前にいる宦官に怒りをぶつけたが、予想通り、返答はなにもない。
なにも感じていないことはなかろうが、花安英がそうだったように、仲間の死は当たりまえのことなので、いまさらいちいち騒ぎ立てないだけなのかもしれない。
孔明は暗い気持ちを追い払うために息をつき、右頬に衣ごしに感じる趙雲の体温をたしかめた。
さきほど趙雲が自分の額に触れていた理由がわかる気がする。
百戦錬磨のこの戦士すら、恐ろしいのだ。虜になった自分たちがどうなるのか、予想が付かないうえに、周囲は人とも思えぬ狂った者たちばかりだ。
気の弱いものなら、いまごろ泣き叫んで、だれとはなしに許しを請うているだろう。

ぱちぱちと火の粉の舞う音がして、ちょうど格子の向こうに、篝火が焚かれている。
そろそろ夜明けが近いはずだ。
馬の鼻息が聞こえ、鎧をまとった兵卒たちの足音、兵卒長の掛け声などが聞こえてくる。
馬の生臭い匂いを運んで、湿った風が吹きつけてくる。
馬がため息のように息を吐くごとに、床にわずかな振動が伝わってくる。
どうやらここは、護送車の中らしい。罪人のように檻に入れて、どこぞへ連れて行こうというのか。

播天流は、自分たちをどうするつもりなのだろうか。
趙雲の状態からして、すぐに殺そうとは考えていない。だが、期待はこれっぽっちも持てない。
播天流の目的は、趙雲の命ではなく、趙雲をとことんまで苦しめることなのだ。手足を自由にさせて、目の自由のみを奪う、という方法は、なかなかに残酷だ。趙雲ひとりならば、なんとか逃げることも可能な状況で、孔明が動けないのだから、これは逃げようにも逃げられない。
播天流は趙雲の性格を知り尽くしている。
子供が虫を捕らえてなぶり殺すのと同様で、ありとあらゆる苦しみ、苛立ちを味あわせてやろうと貪欲に考えているのかもしれない。
播天流はたしかに狂っているが、狂っているなりの思考のすじみちはある。そこから、先手を打つことはできないだろうか。

呼吸の浅い花安英の体を、手枷で自由にならない腕で、胸に抱き込むようにして守りつつ、孔明が考えていると、ふたたび声が下りてきた。
「すまない」
「なぜ謝る」
「俺が原因だからだ。俺が、薊で、あいつを助けなければ、こんなことにはならなかった」
これは相当にまいっているな、と孔明は思い、軽く息を整えると、腫れあがって、うまく動かない左頬を励ましつつ、趙雲に言った。
「あのときああしていれば、こうしていればと後悔してもはじまらないよ。子龍、あなたは人助けをしたのだ。そこで生きながらえたのも、播天流の天命だったのだ」
「そうだろうか」
「そうだ。それを言うなら、あなたが播天流という男に出会ったことが、そもそもの原因じゃないか。あなたが誤っているのではない。播天流は根本から狂っているのだ。
むかし、司馬徳操先生のところに通っていた男の話はしただろうか」
「いや」
「長くなるが、聞くがいい。
その男は、弁の立つ男で、見栄えもよい、貴門の出で、武芸の才もある。あなたのように、誰もが、ああなれたらいいなと憧れるような男だった。論客になることを目指していて、年も近かったし、わたしのほうがすこし先に入門したというので、わたしを兄弟子と呼んでずいぶん慕ってくれた。

最初のうちはよかった。わたしはあなたも知っているとおり、あまり整理整頓が上手ではないので、いろいろ世話を焼いてもらったし、助かった部分もあったのだ。
ところが、日がたつにつれ、そいつの言動が気にかかるようになってきた。
些細なことなのだがね、こういう言葉を使うのはおかしいのではないか、礼の取り方が悪いのではないか、弟を好きにさせ過ぎているのではないか、挙句の果ては、徐庶のような男と付き合っていては、家門が落ちるからいけない、とこうだ。どうやら相手に頼っているうちに、勘違いを起こしてしまったようなのだ。
しばらく距離をとることにしたのだが、それがさらに火に油だったようだ。
こんなに尽くしてやったのに、どうしていまさら無視するのか、利用するだけしたら、あとは用済みか、と言うのだよ。
傍から見れば、わたしたちがどんな状況にあって、どんな言葉を交わしたかなどはわからない。だから、わたしは、まるで遊び人が生娘を騙したように、そいつを利用するだけして、五月蠅くなったから見捨てたように思ったらしい。

わたしも一時期、自分が狭量だったのではないかと、頭を下げて、そいつと同じように友として付き合ったのだが、やはり同じことを繰り返してしまう。
ちょっとした動作をするにも、あいつが見ていて、いちいち注意をしてくるのではと、気が気でなくなってしまったのだ。要するに振り回されていたのだな。
そのうち、徐庶が見かねて、もうきっぱり付き合うのはやめろと言ってくれて、それで踏ん切りがついたのだが、相手はやはり、わたしが見捨てた、と受け止めたのだ。
今度はひどく恨むようになって、かならず殺してやるとまで言われたよ。周囲は、こんな些細なことで、簡単に殺してやるなどと言えるやつは、おかしいのだと言ってくれたが、それでも気が晴れなかった。
あとになって、そいつは曹操に仕官したが、結局そこでも揉め事の種になって、いまは行方が知れない、と聞いたよ。

いまになって思うのだが、やはりわたしは、わたしが間違っていたとは思えない。
もちろん、至らないことは山とあっただろうさ。しかし、だからなんだというのだ。思うに、そいつはわたしの失敗をあげつらって、ひたすら自分の主張をしていただけなのだと思う。
わたしを、そいつの好みの枠に収めようと必死になっていたのだ。

世の中にはいろんな人間がいるが、たまに、そいつや播天流のように、自分のわがままを、もっともらしく人に押し付けて、意のままにすることが得意な人間がいるのだ。
そいつの頭の中には、自分しかいない。
そういう人間は、自分の至らなさ、弱さを人の所為にして、いつでも攻撃することしかできないのだ。だから元の能力がどれだけあろうと、成長することがないので、世の中にひとりで立つこともできない。
だが頭の中では立派な自分がいて、それが本来の自分だと思っている。本来の自分になれないのは、時代の所為だったり、だれかの所為だったりする。
そいつは、どこへ行こうと同じことを繰り返すのだ。
人の失敗が楽しくて仕方がないのは、一瞬でも、相手より自分が優秀だと思い込む根拠ができるからさ。だから必死になって粗を捜して、得意になるのだよ。
ほんとうに大切なところを見ないでね。

わたしの弟弟子の場合は、わたしが攻撃対象だった。播天流の場合は、あなただった。たまたま、周囲にいる一番目立つ人間が、わたしだったり、あなただったりしただけの話なのだ。
自分が悪かったかもしれないなどと、思う必要はない。
相手は、自分がいちばんまともだと思い込んでいる狂人なのだ。
連中は、ふとした隙をついて攻撃してくるのが得意だ。狂人の思考に巻き込まれてはならない。一緒になって狂ってしまうぞ」

「俺はおかしくないと言い切れるか? おまえは俺をどこまで知っている?」
「わたしが誰だか忘れたか? あなたの守る龍だ。龍はなんでもお見通しなのだ」
趙雲が、ちいさく笑ったのがわかった。
「妙な理屈だな」
「妙かもしれぬが、納得するがいい。わたしは自分の目に自信がある。
あなたは、多分わたしがいままで出会った中でも、かなりマトモな部類の人間だ。いまの乱れきった世の中には、あなたのように意志の強い人間が必要だ。狂乱に流されて、ともに落ちてしまえば楽にはなるだろう。
だが、そうであってはいけない。わたしも踏みとどまる。だから、あなたも一緒に踏みとどまって欲しい」
「俺の中にも狂気はある」
「それはわたしの中にもある。だれの中にもある。だが、そこから目を背けては駄目だ。一人では耐えられないかもしれない。だから、一緒に支えて欲しいのだ」
「それは、いつもの、あとで後悔しないよう、言いたいことは、言うべきときに言う、というやつか」
「そうだ」
そうか、と言った趙雲が、どこか遠いところで笑った気がしたのが、孔明の気にかかる。
なにかろくでもない決意を固めたなと、孔明は直感で思った。
叔父を奪われ、だれより慕った兄弟子を奪われ、孔明は別れの気配に敏感になっていた。


さて、なんといって引き戻そう。
武人というものは、どうしてこう、死にたがる傾向にあるのだろう。美しく立派に死ぬことが武人の喜びだというのなら、ぶざまであろうとしぶとく生き残り、最後には笑う軍師の意地を見せてやる。

しばしの沈黙のあと、趙雲はふたたび口を開いた。
「おまえは負けない男だな。俺はいままでおまえを誤解していたのかもしれない。たぶん、守られているのは俺のほうだったのだ」
「そんなの、持ちつ持たれつじゃないか。それに『だった』ではない。これからもそう『だ』」
「これから、か。なあ、俺もおまえの流儀に従って言っておく」
「遺言のつもりならば聞かない」
「聞いてくれ。こんなことを言うと、奇妙に思うかもしれぬが、おまえを通して、ようやく俺は世の中が見えた気がする。
俺はたぶん、主公よりも、お前の作ろうとする世界を楽しみにしていた。できれば、最後まで見届けたかったが」
「これからも楽しみにすることだ。わたしの頭の中を覗かせてやりたいよ。狂喜乱舞はまちがいないぞ。
子龍、だから絶対に短慮はするな。わたしに負い目なんぞもたなくていい。機会があれば、一人でもよいから、さっさと逃げろ。でなければ、わたしは叔父上にあわせる顔がなくなってしまう」
「それは俺とて同様だ。ここでお前を見捨てたら、兄に合わせる顔がない」
そういって、趙雲は笑うのであるが、膝にもたれるかたちで見上げるその横顔は、どきりとするほど透明で、突き抜けた感のあるものであった。
いやな笑みを浮かべるものだ。孔明は目を閉じ、刺客に刺された直後の叔父の、大丈夫だ、と微笑みかけたときの顔を思い出した。
あのときと同じ表情を、趙雲のなかに見つけてしまった。
「絶対に死ぬなよ。第一、死なせるものか」
孔明は言ったが、趙雲からの返事はなかった。
目を閉じ続け、感情に流されそうになるおのれを必死に叱り付けながら、孔明は、たしかにそこにいる友の体温を追いつづけていた。
衣越しに伝わるあたたかさは、生身のものであり、これが数刻後に失われてしまうかもしれないなどと、考えるだけで恐ろしかった。
あれから何年も経って、成長したのは図体だけではないはずだ。

考えろ、死ぬ気で考えるのだ。
突破口は必ずある。

次回、『太陽』 6につづきますm(__)m
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