孤月的陣
第五章 タイヨウ 太陽
②
ばかな、ばかな!
蔡瑁は、身体に埋め込まれた刃の痛みに耐えかねて、絶叫した。
しかしそれは、明確な言葉にはならず、ほふられる獣が上げる、断末魔にしかならなかった。
視界には、腹を刺されて横たわる、蔡夫人の身体が見える。まだ絶命はしていない。刺された腹を抱えたまま、痛みに耐えかね、うごめいている。
「琮!」
「気安く呼ぶな、下種め」
華奢な少年に握られた剣は、母たる蔡夫人の血、そしておのれの血がこびりついている。
ぽたぽたと床に落ちる血潮をながめつつ、手にした剣に、あまりにブレがないことに、蔡瑁はうろたえた。劉琮には、実の父母を殺すのに、なんのためらいもないのだ。
なぜだ?
言葉にならないので、目で訴える。
その表情も、傍からみれば、滑稽なほどに、不様なものだろう。天下にその名を知られた樊城の智将・蔡瑁。それが、まだ幼さを湛えた少年に、縋るような顔を向けているのだから。
それでも蔡瑁は、なんらかの手段でもって、問わずにはいられなかった。
なぜ、おまえが父を殺そうとするのか?
劉州牧のためか?
そんな汚らしい肉塊のため?
「わからぬか」
蔡瑁の無言の問いに、ぞっとするほど冷徹な声で、劉琮は答えた。
蔡瑁は、劉琮に悪鬼が取りついているのではないか、とさえ考えた。
そうでなければ説明が付かない。
従順な息子、劉表とおのれを繋ぐ、たしかな線。ただ利用しただけではない。樊城を我が物にしたら、それは同時に、おまえにここを譲る、ということであったのに! そうして、いま天下から滅びようとしている劉氏に代わり、蔡氏が中華を握るのだ。
それなのに、なぜなのだ。
復讐? おまえを劉表に与えたからか?
それとも、劉表を父だと信じているのか?
おまえに、娘に与えるような恥辱を与えた男のことを?
それとて、一時の我慢ではないか。
おまえは若さを理由に、あの男を繋ぎとめ、利用する役目、そしてこの父は、樊城の実権をおまえに集中させる手筈をととのえる…
どちらも泥を被る嫌な仕事だ。
だがそれは、お互い納得づくのことではなかったか?
そうしておまえが、この仕事を少しずつ楽しんでいたことを、儂は知っている、というのに。
「こんなちっぽけな城など、曹操にくれてやればよい」
と、劉琮は言った。
それは蔡瑁がいままで見たことのない、酷薄な息子の表情であった。
「わたしは劉氏の末裔、輝かしき高祖の血を引く、正当な漢王朝の末裔ぞ! このような小さな城に、未練などあるはずがない!」
「莫迦な、おまえには」
劉氏の血など、一滴たりとも入ってはいない。
刃が振り下ろされる。
蔡瑁は、渾身のちからを籠めて、叫んだ。
「だれか、出あえ、出あえ!」
しかし、つねに己に忠実に従っていた兵士たちの気配が、まったく感じられない。なぜだ。
「だれか!」
もう一度叫ぶ。腹の傷が痛んだが、助けを呼ぶほうが大事だ。
すると頭上で、劉琮の嘲笑が聞こえた。
「おまえのような、でしゃばりの家臣には、もう付いていくことができぬとさ」
「だ、だれのためだと」
狼狽する蔡瑁を、劉琮は鼻で笑う。
その冷たい顔は、うんざりするほど、蔡夫人にそっくりであった。
「叔父上、あなたの部下は、もういません。わたしが頂戴しましたので」
「な」
「おさらば」
蔡瑁は、もっと早くに気づくべきであった。
性病に侵され、狂った欲望を、息子に平然と向けてくる父に仕えなければならない少年。
助けてくれない母親、もしかしたらおのれの実父かもしれない、傲慢な伯父。
公子、公子と崇められながら、実態は娼婦とほとんど変わらぬ屈辱的な扱いを受け、周囲を見回しても、似たような境遇に苦しむ少年ばかり。しかも彼らは、自分よりずっと身分の低い子供たちなのだ。
なぜ自分が。公子であるはずの自分が。
その怒りが、どこに向けられるか。
そして、名ばかりで、実はだれからも必要とされていない自分を肯定するために、なにを信じるようになるか。
劉氏の血を引く人間だと言う誇り。
それだけが、唯一の少年のよすがになっていったとしたら。
だとしたら、実父のように振る舞う、格下の伯父など必要ないし、その伯父と、男女の関係をつづける母親も目障りなだけ。
かといって、多くの少年たちを、その毒牙にかけることしか頭にない劉表に、尊敬を向けられようはずがない。
そんなとき、劉琮は、許都で、本当に崇めるべき、真の君主と出会った。
その者は言った。
何者を犠牲にしても、朕を助けよ、と。世にあまたいる群狼から、朕を救い出せ、と。
同族として、それがおまえに課せられた使命なのだ、と。
「おやめなさい、琮!」
いつの間にか、腹の傷を庇いながら、それでも必死になって床を張ってきた蔡夫人が、劉琮の足首を掴んだ。
劉琮は、それを無感動に見下ろすと、無情にも、母の手を蹴り飛ばして、払う。
蔡瑁は、これ幸いとばかりに、身体をずらして、なんとか部屋の外へ逃げようとした。
部屋に充満する、痺れ薬のせいで、動きが緩慢になる。
苛立ちながらも、必死に動いた。
蔡夫人は、息子に蹴られながらも、それでもまだ、縋るようにして手を伸ばしてくる。
それが目障りなのか、冷酷そのものであった劉琮の顔に、徐々に苛立ちが見え始めていた。
「おやめなさい、やめて…その人は、あなたの父上なのですよ」
「ちがう!」
とうとう劉琮は声を荒げた。そんなことは絶対にない!
「いいえ、あなたの父は、劉州牧ではない。その方です!」
「だまれ!」
劉琮は、大音声で叫ぶや、大きく剣を蔡夫人に打ち下ろした。
断末魔はなかった。
蔡瑁は、長年、さんざん利用しつくしてきた愛人の姿を、一度も振り向くことなく、体中からぽたぽたと脂汗をたらしつつ、床を這い、片手でなんとか扉を開けて、廊下に出た。
とたん、熱風が、脂汗だらけの相貌に吹き付けてくる。
そうして、あちこちで剣戟の音、弓の飛び交う音、炎さえ起こっている様子なのに、愕然とする。
兵士たちが、規定の位置にいない。部将たちすら、逃げ出した。あちこちで上がる悲鳴、火の手。殺戮と掠奪の凶悪な風が吹き荒れている。
あれほど優美な姿を湛えていた樊城が、内部から崩れようとしていた。
蔡瑁は、背後の劉琮を気にしつつ、それでも必死に、芋虫のようにのたうちまわりながら、廊下に出た。
おまえ如きに。
まるで嫉妬にも似た、強烈な憤りがこみ上げてくる。蔡瑁は、根の底のほうまで、己しか信用しない男であり、だれであろうと、己に並び立つ者をゆるせない気質の男であった。
おまえ如きに、いままでの儂の積み上げてきた物を、崩されてたまるか。
そうして、なんとか欄干にまで手を伸ばし、渾身の力を込めて起き上がると、叫んだ。
「だれかあれ! 儂を助けよ!」
「聞こえたか」
「ああ、聞こえた」
孔明は肯き、赤く染まる廊下の向こうを見遣った。
樊城の秩序は完全に崩壊していた。
東の門を護っていた部将が、黄忠に寝返ったのをきっかけにして、兵士たちの統制がとれなくなった。
趙雲が、樊城の要であった衛兵を、ほとんど倒してしまったために、指揮系統が分断されてしまったことも大きい。
樊城の衛兵と、壷中は繋がっておらず、播天流が、趙雲が真正面からやってくると信じきって、壷中のほとんどを城門に集め、城内に配置させるのが遅かったのも、混乱の原因であった。
さらに、孔明が壷中の子供たちに働きかけ、内部分裂を促進させたこともある。あちこちで小競り合いや掠奪が生じ、大将級の武将たちが、樊城の混乱を避け、我先にと逃げてしまったのも、いちだんと混乱をあおっていた。
否が応でも、徐州での大虐殺を思わせる光景である。
それまでは平凡で、純朴であった兵士たちの、奥底に眠っていた欲が噴出し、あたりに凶悪な風を巻き起こす。
彼らとて、こんな場面に出くわさなければ、兵役を終えたら、よき夫、よき息子の顔で、ごくごく平凡な男として生涯を過ごすにちがいないのだ。
とすれば、どちらが彼らの…人間の素顔なのであろう。
知性や理性というものは、懸命に人間にかぶせた、簡単に脱ぎ着のできる衣のようなものに過ぎないのか。ひとたび衣を脱ぎ捨てた者が、完全に以前の生活に戻ることは可能だろうか。
もはや全土に戦火は飛び火している。ひとたび力で制圧する快感をおぼえてしまった者が、抑圧される一方の生活に我慢できるものだろうか。
いま、世に必要とされている者は、単に平静を民に与える者ではないのではないか。
平和の本質とはなんだ。単に為政者が穏やかで正しければ、すべてが満たされる、というわけではない。
彼らを上回るほど狡猾に、そして彼らよりもっと貪欲になれる者でなければ、乱世を終わらせることはできないのではないか…
ふと、耳障りなほど、甲高い女の悲鳴がひびいた。
見ると、自分たちのいる欄干から、対になっている楼閣の欄干で、必死で女官が逃げ惑っている。
その女官を追いかけて、襲おうとしている兵士が、ちょうど女の領巾を引っつかむ浅ましい姿が見えた。
孔明のとなりにいた趙雲は、はげしく顔をゆがめると、舌打ちし、弓を引き絞って、兵士の咽喉を射抜いた。
あやういところを救われた女官であるが、まさか対角にある楼閣から、救いの手が飛んできたとは思わないらしく、孔明たちを見ることもなく、這うようにして、逃げていった。
趙雲が、だんだん別人に見えてきた。
ここまでたどり着くまでに、多くの敵兵と遭遇した。
しかし、趙雲は、まったくあわてず騒がず、その時々に応じて、もっとも的確な方法で、簡単に敵を打ち倒す。敵は、かすり傷ひとつ趙雲に負わせられないまま、冷たい死を迎えるのだ。
神がかり的な強さである。
憤るでもなし、狂乱のうちに攻撃するのでもなし、淡々と、無感情に仕事をこなしていく。
この混乱を目の当たりにしても、すこしもうろたえることがない。
自分は、この男のことを、実はなにも理解していなかったのかもしれない。
孔明は、こいつは度量が広い、どんなわがままも、怒りはするけれど、後に引きずらず、なんでも許容してくれる男だと、趙雲を認識していた。簡単に言うならば、すっかり甘えていたのであるが、この度量の広さは、いま目の前に展開する多くの死を、たんたんと積み重ねることができるほどの強さに拠るものなのか。
趙雲に激しい嫉妬をしつづけた、播天流の気持ちのほんとうのところが、ようやく理解できたような気がした。
苛立つことが馬鹿馬鹿しくなるほど、趙雲は凄すぎる。
いや、待て。主公は、趙雲もすごいが、関羽と張飛はもっとだぞ、と言っていなかったか。
三人揃ったら、どんなことになってしまうのだ。
「大丈夫か。遅れているが」
声を震わせるでもなし、息を弾ませるでもなし、いつもどおりに趙雲が、気遣って尋ねてくる。
「すまないな。なんとか合わせているのだが」
すでに築かれた死体の山を踏み越えつつ、孔明は答えた。こちらは息が弾んでいるし、声も震えている。
掠奪の果てに起こった仲間割れで、兵士たちが殺し合いを始めた。その結果、劉表の部屋に通じる廊下には、死屍累々が転がるばかりで、衛兵がだれもいなくなっている。
額から流れる汗をぬぐう孔明に、趙雲が、まるで遠乗りの途中かのような、何気ない口調で言った。
「すこし、そこで休んでから来るがいい。武器は持っているな?」
「冗談だろう。この死体の山を眺めて、一人でいろというのか」
「死体はもう攻撃してこないぞ」
そういう考え方もあるか、と新鮮に思いつつ、孔明は頭を振った。
「行こう。さっきの声は、まちがいなく蔡瑁のものだ」
「無理するなよ」
すっかりいつもと立場が逆転しているが、孔明は不快には思わなかった。
戦場では、趙雲のほうがよほど経験を積んでいる。郷に入りては郷に従え。ここは従者のように忠実に従うべきだろう。
「俺は失敗しているか?」
と、前に進みながら、趙雲は尋ねてくる。
もしかしたら、趙雲は、もっと早く進めるのではないか、自分に合わせて、この速度なのではないか、と思いつつ、孔明は尋ねた。
「失敗? なにが?」
「おまえを、あの子供たちと一緒に、間道から逃がすべきだったかもしれぬ」
「なにをいまさら。殴られて命令されたとしても、わたしはあなたに付いてきたぞ」
「そうだろうなと思ってここまで来たが、試しに殴ってみるべきだったかもしれぬ」
「冗談だろう」
「軍師、これから先、どうなるかわからぬから言っておく。この混乱のあと、残るのは、おそらく壷中のなかでも精鋭の者と、風狗や花安英のような手練ればかりだ。そういった連中と対峙した場合、俺はもう、俺のことしか考えられなくなるだろう」
「そうだろうな」
「つまり、俺はおまえの主騎としての務めを果たせなくなる、ということだ。命の危険を感じたら、俺を呼ぶな。自分でなんとかしてくれ」
「そのつもりだよ」
意外そうに趙雲が振り返った。
「素直だな。なにを考えている?」
「その速さで移動しているくせに、なんだってそんなに、長々と、平然としゃべれるのだろうと、思っているよ」
と、これは、とぎれとぎれに、孔明は答えた。
「子龍、冗談はともかく、わたしのことは心配するな。わたしは、それなりの覚悟でもって、ここに残ったのだからな」
「ああ」
と、趙雲は足を止め、背後にいる孔明を庇うように、手を広げた。
「どうした」
「足音を殺せ。剣戟が聞こえる。近いぞ」
蔡瑁は、最初にあらわれた者を見たときに、深い失望を味わった。
それは自分の育てた、精鋭の兵士ではなかったからだ。
播天流の可愛がっていた、花安英だ。
蔡夫人の目があるので、手を出したことはなかったが、奔放な少年で、あちこちの士人を誘惑しては、諍いを起こさせて喜んでいるような性悪だ。
壷中に属しているならば、それなりの腕はあるはずだが…
「おまえか。味方はどこへ」
蔡瑁の掠れた問いかけに、花安英は答えず、逆に尋ねてきた。
「風狗はここにいるのか」
居丈高な物言いに、むっとしたが、言い争っている場合ではない。
しかし、蔡瑁は戸惑った。風狗とは、播天流が使っていた刺客のことではなかったのか?
その表情を読んだのか、花安英は、秀麗なその顔に、はっきりと嘲りの表情を浮かべてみせる。
「知らぬは父ばかりなり、か。あんたも長くなさそうだから、冥土の土産に教えてやるよ。あんたの息子は、だいぶ前から、播天流と行動を共にしていた。あんたと劉州牧の両方をそそのかして、自分たちは許都へ行っていたのさ」
「きょ、と?」
「何のためかは、自分で考えるといい。おまえは、本当は誰よりも、息子を庇ってやらなくちゃいけなかったのだ! 劉州牧が病で色情狂になっていることを知りながら、なぜ宦官の役目をあの子に押し付けたのだ! あの子が狂ったのは、おまえのせいだ!」
いいざま、花安英は、腹の傷をかばう蔡瑁の手を、思い切り蹴り飛ばした。
身体を貫く痛みに、蔡瑁は、はげしくのた打ち回る。
それを横目に、花安英は、劉州牧の寝室へと入っていった。
「殺したのか」
乾いた声に、劉琮がゆっくりと振り返る。
あのときと同じだ、と花安英は思った。
程子聞が死んだとき、やはりこうして、義理の弟と対峙した。
あのときは、風狗…劉琮は、まったく悪びれず、こう答えたものだ。
「裏切り者だよ。仕方ないじゃないか」
花安英は、暗然と、床に倒れた、かつて母であった者の身体を見下ろした。
大量の血が、あちこちを汚している。凄惨な光景であった。
実の息子に裏切られた、悲しみと驚き、そして勝気な女らしく、悔しさが表情にあらわれている。
母の死体を前にしても、ふしぎと、脳髄も心の臓も冷え切っている。
本気で殺してやろうと思っていた女であった。
しかし、屍を目の当たりにすると、憐れさだけがこみ上げてくる。
結局、なにひとつ自分の意思のとおりにならなかった、男の欲に翻弄されつづけた女。そこから逃れようとして取った手段は、愚かにも、男の手段を、そのままそっくり真似ることであった。
最後まで、この女は自分というものを取り戻すことが、できなかったのかもしれない。
花安英は、そうして嘆息する。
あの軍師が言ったとおり、自分は母の苦しみを理解できていたのか。
「兄上」
この弟は、劉琦に対してさえ、そんなふうに呼びかけないであろう。
それを知っている花安英は、甘えたような、震えた声に、顔を上げる。
「おまえは、悪くない」
自然と、そんな言葉が口をついた。
悪いのは、大人だ。誰一人として、自分たちを護ってくれなかった、大人たちなのだ。
劉琮は、幼子のように涙を流していた。
ああ、はじめて会ったときの弟の姿だ、と花安英は、ほっとした。
はじめて会ったとき、劉琮はまだ幼く、執拗なまでに己にこだわり、片時も離そうとしない父…劉表に、本気で怯えていた。
逃がそうと思えば、容易だったはず。
しかしそうしなかったのは、劉表の歓心を、いつまでも目の前の自分たちに繋ぎとめておくための、蔡瑁と、蔡夫人…母の計算だったのだ。
「兄上、わたしは母上を」
言いながら、劉琮は、血に濡れた、か細い腕を伸ばしてきた。
汚らわしいとは思わなかった。もし劉琮がためらうならば、自分がそうしていただろう。
君は本懐を遂げたとしても、泥屑のように死ぬだろう。
そうだったかもしれない。でも軍師、あんたがそんなことを言えるのは、結局、あんたはなにもわかっちゃいないからだ。
あんたは守られた子供だった。幸福なところにずっといる。いまもそうだ。
どん、と鈍い衝撃が、腹を刺し貫いた。
「琮」
己に渾身の力をこめてもたれかかる、弟の細い肩を、さらに掴む。
どこかで予感をしていた。
この子は狂っていると、実の父親に教えてやったばかりじゃないか。
「おまえは、わたしの兄などではない」
「ちがう」
「いいや、わたしは劉氏の血を引く者だ。おまえと同じであるはずがない!」
生暖かい血が、熱を帯びて衝撃を受けた腹のあたりを中心に、抜けていく感覚がある。
痛みはまだ押し寄せてこない。視界が霞んでくる。
せめて最後に自分が『生きた』と満足できるように死ぬのだ。
最悪だ。ぜんぜん満足できない。
「蔡瑁殿!」
次にやってきたのは、どう判断したらよいのか、分かりかねる二人組みであった。
とりあえず、殺意は感じられなかったので、まだマシだったかもしれない。
この期に及んで、場違いなほど煌びやかな孔明の姿が、まず目に映る。
死んだのではなかったか…悪運の強いやつめ。
そうして、趙子龍。こちらは血に濡れた獣。本来の姿を取り戻した、というべきであろうか。
戻ってきていたのか、忌々しい若造めが。
しかし蔡瑁は、誇り高く、俺のことはほうっておけ、などという言葉を吐ける男ではなかった。
助けてくれ。
もう咽喉がひりついて、声を出すことができないでいた。
掠れたうめき声だけがこみ上げてくる。
しかし無礼な新野の若者二人は、苦悶の呻きをあげる蔡瑁を、まったく無視した。
趙雲と孔明は、力なく、廊下に横たわる蔡瑁を尻目に、たがいに顔を見合わせた。
「だれが…兵士たちか?」
「兵士たちが逆上して、大将を殺そうとしたのなら、もっと無残なことになっているぞ。そう、殺しかねたのだろうな」
いいざま、趙雲は器用に片手で孔明の手を引いて、屈ませると、もう片方の手に握った剣でもって、部屋から飛び出してきた劉琮の剣を跳ね除けた。
「甘い!」
趙雲は、一撃、二撃、すばやく身をひるがえし、ふたたび突進してくる刃を、踊るようにして、余裕でかわしていく。
孔明は、趙雲から距離を取りながら、ふと劉表の寝室の中を見て、顔を強ばらせた。
「花安英!」
花安英が、床に崩れ落ちている。まだ息があるらしく、苦しいのか、身じろぎしているのが、部屋に灯された紙燭に浮かんで見えた。
ああ、あの少年も死んだか、と孔明の声を聞いて、蔡瑁はぼんやりと思った。
体が寒くなってきた。
「子龍、風狗を任せる!」
そう言うと、孔明は部屋の中へと飛び込んでいった。
すれ違うようにして、劉琮が宙返りをしつつ、趙雲の攻撃をかわして、飛び出してきた。
そうして、蝶のように身軽に、欄干の上に立つ。
趙雲は、欄干の上に立った劉琮に、呼びかけた。もはや品よく賢い少年の顔ではない。これは、自分と同等の、血をもとめる獣の顔だ。
「劉公子ともあろうお方が、残酷な悪戯が過ぎますな」
「雑魚に用はない。そこをどくがいい」
「いいえ」
趙雲はにやり、と不気味なまでに凄艶な笑みを浮かべた。
「公子には、ここで臣に討たれていただきます」
手ごわい得物を見つけて喜悦の表情を浮かべる趙雲は、まるで虎のようである。
事実、趙雲の血は沸き立っていた。優れた武人でありながらも、その根本を支えているのは、正義感ではなく、やはり強烈な闘争本能である。手ごたえのある相手を得たことに、全身が喜んでいる。己の極限まで使ってくれと、鍛え続けた体が訴えてくる。
もはや頭の中には、敵を討ち果たすことしかない。
勝つための理由など、勝ったあとにつければいい。
劉琮は、上衣を脱ぐと、欄干から地上へと投げ捨てた。
同時に、欄干に足を乗せたままの状態で、上背のある趙雲に対し、上から剣戟を仕掛けていく。
趙雲は、優雅とも表現できる動きで、一撃一撃を、素早く流していく。
剣戟の音からして、よくできた音楽のようだ。
剣先を弄ぶような打ち合いのあと、焦れた劉琮が、己の身を飾る帯を解き、それを趙雲の腕に投げつけた。
それは風に乗って腕に絡まり、一瞬だが、趙雲の動きが崩れた。
間髪おかず、劉琮は、渾身の力でもって、趙雲に向かっていく。
趙雲は、舌打ちをすると、くるりと身をかわして、なんとかそれを凌いだ。
しかし、腕にからまる布は解けない。
劉琮は、布の先端を引いて、さらに趙雲を転ばせようとした。
趙雲は、思惑通り、身を崩す。
そこへ、さらに剣を浴びせかけるも、趙雲は腕に巻かれた布もそのままに、剣を捨てると、後方へと身を転がし、宙に跳ね飛ばした二本の足で、器用に劉琮の手から剣を奪うと、そのまま剣を高く跳ね飛ばした。
うろたえる劉琮に、起き上がった趙雲の拳が炸裂する。
横面を殴られた少年がふらついた隙を逃さず、趙雲は、短剣を取り出すと、布を引き裂いた。
そうして、自らも拳を振るって反撃をしてくる劉琮を、ふたたび華麗にかわしつつ、さきほど捨てた剣を足で跳ね飛ばし、つかみ取ると、劉琮に刃を向けた。
首を取る。
しかしその一瞬、劉琮が、怯えたような顔をして、ぎゅっと目を固く結んだ。
趙雲は、はっとして手の勢いを止めた。
子供だ。これは子供なのだ。殺してはならない。
だが、つぎの瞬間、大きく後悔する。
ぱっ、と劉琮の目が開き、邪悪に歪んだ。
そうして、小さな拳が頬に当たる。
たいした力ではない。
痛みや衝撃もさほどではなく、すぐに体勢を整えることができる…
が、趙雲は、膝からがくりと力が抜けていくのを感じた。視界が大きく揺らめく。
目の前の子供の顔が、二重にも三重にも見える。
その子供の拳には、指輪が輝いていた。
その先端に、針を仕込まれた指輪が。
「卑怯な…」
「子供だからね」
劉琮はそういって笑うと、趙雲の落とした剣を拾い、大きく振りかざした。
が、刃は宙で止められたまま、振り下ろされることはなかった。
ぐらり、と目の前の凶暴な子供の姿がゆらめく。
戸口から這い出してきた花安英が、自らの手刀を、劉琮の背中に投げつけていた。
劉琮は、信じられないものを見るかのように、振り返り、それから、ふらふらと、欄干のところまで歩いていく。
孔明が、戸口のあたりで力尽きた花安英を、助け起こすのが見えた。
「公子!」
花安英を抱き起こしつつ、孔明が声をかける。
しかし、劉琮はその声に応えるかのように、醜いひきつった笑みを浮かべ、叫んだ。
「触るな、だれも私に触るな! 汚らわしい黒頭どもめ!」
絶叫すると、劉琮は、そのまま背中から飛び込むようにして、欄干から落ちて行った。
どん、と鈍い音がして、趙雲が、薬の効果に苦しみつつも、欄干から覗き込むと、篝火の焚かれた花壇の中央に、あわれな子供が身を折って、倒れているのが見えた。
びり、と布を裂く音に、趙雲は振り返った。
孔明が、おのれの衣を裂いて、花安英の止血をしているのだ。
花安英は、まだ息をしている。幸い、傷は急所をはずれているようだ。
最後の最後で、風狗は、兄を殺すことをためらった、というのか。
「子龍、待っていろ、こっちが終わったら、そちらへ行く!」
言いつつ、孔明は手際よく花安英の傷を抑え、布を巻いていく。
同時に、懐から、錦の小袋をとりだして、柱にもたれるようにしてうずくまる趙雲に投げた。そうして、器用に手際よく手当てをしながら、趙雲に問いかける。
「症状は? 眩暈? 痺れ? 熱と吐き気は?」
「眩暈としびれ。熱はない。吐き気もない。腹具合もおかしくない」
「一時的なしびれ薬だな。その袋の中にある、葛を干したものを飲め。薬の効果を早く切らすことができるぞ」
しかし視界がダブって見える趙雲には、どれが葛を干したものかの区別がつかない。
さらに孔明のこんな声が聞こえた。
「下手に飲むなよ。虫下しが一緒に入っているからな」
「今度から分けておいてくれ」
剣を杖のようにして、崩れ落ちないように我慢しながら、袋の中身を床に広げて、葛の干したものらしいものを捜す。
しかし、指先の感覚すらおかしくなっているのか、どれがどれなのか、やはり区別することができなかった。
崩れ落ちそうになる意識を保たせるため、趙雲は孔明に尋ねた。
「軍師、花安英はどうだ」
「急所をはずれているし、出血もさほどではない。おそらく大丈夫だ」
「死なせるな。恩人だ」
「わかっている」
孔明は立ち上がると、趙雲がひろげた子袋の中身をひとつ掴み、趙雲に差し出した。
「ほら、これだ」
そうして、自分はべつの薬を掴むと、ふたたび花安英の元へ行き、その口に、薬を含ませた。
「痛み止めだ。気休めにしかならぬかもしれぬが、ここを脱出するまで耐えてもらわねばならぬ。大丈夫だな?」
白皙の顔が、血の気の失せた花安英の顔に近づいて尋ねると、花安英は、紫色に変色した唇をふるわせて、なにかを言った。
「軍師、なんだって?」
趙雲が問いかけると、孔明は、穏やかな笑みを向けて、言った。
「このお人よしども、だとさ」
次回、『太陽』 3につづきますm(__)m