椒聊よ、遠き条よ

十六話 選択・一

休昭は、しばらくことばを発することができなかった。
横たわる趙雲は、すこし眠っていたようである。
休昭がやってくると、どこかぼんやりしたまなざしながらも、片手で脇腹をおさえつつ、もう片手でかかえた剣を、いつでも抜けるようにかまえていた。
休昭の顔を見て、趙雲はひと息ついた。
「おまえか」
「どうなされたのです」
寝台に駆け寄ると、ついてきた珪麗が、趙雲の様子におどろいて、息を呑んだ。珪麗の姿に、趙雲は大いに眉をひそめる。
「なぜ連れてきた」
「申し訳ございませぬ。宋家の者が珪麗さんを長星橋で見かけたという話を聞きつけて、人を雇って、探し回っていたのです。
ですから、ゆうべからずっとあちこちを逃げてさまよっておりました」
それを聞くと、趙雲としては怒る元気もないのか、言った。
「そうか、災難であったな」
とはいえ、あまり同情しているような口調ではない。

「将軍はどうなされたのですか。いったい、だれに」
休昭の問いに、趙雲は唇のはしを歪ませて、陰惨に笑った。
「まったく油断したものだ。命があるだけでも儲けものかもしれぬ」
「手当てをいたしましょう」
珪麗が、おどろきから覚めて、趙雲の怪我の手当てに入ろうとすると、趙雲は言った。
「そう慌てるな。血はたしかに出ているが、急所は外れているし、深くもない。ひと晩寝たら、治るだろうと、ここでじっとしていたのだ」
趙雲の淡々とした口調に、百戦錬磨の武人がいうことだし、もしかしたらそうなのかなと信じかけた休昭であるが、珪麗のほうは、ぴしゃりと言った。
「そんなわけがありますか! 傷口はきちんと清めたのでしょうね」
「血は止まっている。動いたところで、すこし痛むだけだ」
「だからといって、放っておいてよいことではありませんよ。井戸はつかえますの? いま水を持ってきます。休昭さまは、清潔な布を探して、傷をおさえるための布を作ってくださいな」
言いながら、珪麗は足早に庭のほうに向かっていく。

そのうしろ姿を寝台の上で見送りながら、趙雲は揶揄するように言った。
「ほんとうに、おまえはいまから尻に敷かれておるな。布ならば、以前に持ち込んだものが、たしか部屋の隅に積んだ箱のなかにあったはずだ」
「どうしてご自分で手当てをなさらなかったのです」
「寝ていれば治る」
「ご冗談を。珪麗さんの言うとおりですよ。小さな傷が原因で、急に熱を発して死んだ者を知っております。将軍らしくもない」
「これで死ぬならば、俺の運もそれまでだ。ちょっとした運試しだ。たまにやる」
「命を粗末にしすぎですぞ。ご先祖に申し訳ないと思わないのですか」
休昭が抗議の声をあげると、趙雲はなにがおかしかったのか、わらいながら、答えた。
「そうだな、おまえのいうとおりだ」
「まったくです。もう二度と、そんな運試しはなさってはいけませんよ。おそろしい。将軍は、たまにめちゃくちゃです」
休昭は、ぶちぶち言いながら、箱をさがした。

趙雲のいうとおり、部屋の片隅には、さまざまな雑貨を無造作にいれた箱があり、そのなかに、清潔な布が入っていた。
もちろん、布は高価なものであるから、雑貨と一口にいっても、その内容からすれば、やはり趙雲は、財政的にも余裕のある、高位にある人間なのである。
そして、物に対する執着心のとぼしさも、そうしたものがあることが、あたりまえの環境で生まれ育ったからだろう。だから、がつがつする必要がないのだ。
それを士大夫特有の鼻持ちならない鷹揚さというべきか、それとも純粋に無欲さを評価すべきか。
趙雲のような男もいる一方で、李巌のように、なにもかも手に入れなければ気の済まない人間がいることも事実なのだ。

李巌のことを思い出し、休昭は布を裂く手を止めた。
「どうした」
趙雲の問いに、休昭は、うなだれて、答えた。
「わたしは、どうしたらよいでしょう」
「なにがだ」
「李将軍が、春逢さんの実家を、賊の一味と誤解して、兵を向けたのでございます」
そのことは、趙雲にしても衝撃であったらしく、それまでどこかのんびりと、投げやりですらあった趙雲は、剣を持っていたほうの手の肘を利用して、起き上がった。
「なぜ。あの女はなにも関係がなかろう。李正方はなにを考えている」
「いえ、ですから、おそらく、芝蘭さんと春逢さんを一緒にして考えているのでしょう。
あのとき、屋敷はだいぶ混乱していたようですから、芝蘭さんが逃げてしまったのもあったし、しかもわたしと一緒に逃げたので、なにもしらない部曲の男たちの話を聞いて、春逢さんが賊で、仲間と逃げたのだと勘違いしたのかもしれません」
「莫迦な。読み違えもいいところだ。しかもいきなり兵を差し向けただと。それでは私刑をおこなうのと変わらぬではないか」
趙雲にしてみれば、李巌のそうした態度は、おなじく武人として、許しがたいものがあるらしい。
顔を大いにしかめ、口をゆがめている。

「李将軍の誤解をとかねばなりません。ですから、珪麗さんをここに匿って、それから李将軍の屋敷へ行こうと思っていたのですが」
趙雲がまさかいるとは思ってもいなかった。
これで、趙雲が五体満足というのなら、だいぶ明るい材料になるのだが、残念ながら怪我を負っている。
しかし、なにかよい知恵をかしてくれるかもと、期待してことばを待っていると、趙雲は、無言のまま起き上がり、うめくように言った。
「おまえはいますぐ珪麗どのを手伝って、井戸の水を持ってきてくれ。傷をきよめる。
それから、この傷の補強をするので、布を巻くのを手伝え」
「それはもう。しかし、どうなさるのです」
たずねたのは、剣を手にしたままの趙雲の、その柄を握った指が、血の気をうしなって白くなっていたからである。
趙雲ははげしい怒りにとらわれているようであった。
休昭はぞくりとした。
だから、この人は恐ろしいのだ。

「李正方は、すでにわが敵にあらず」
「は?」
趙雲のことばの意味がわからず、休昭はたずねかえした。
「わからぬか。もしも李正方が、きちんと官をとおして春逢の家のことを上奏したというのならわかる。
しかし、そうではなく、頭に血をのぼらせて、みずから兵に号令をかけ、これを襲おうというのだから、これは、官、すなわち主公を無視する不遜な行為と見なされよう」
趙雲のことばに、休昭は納得して、ああ、とうなずいた。
同時に、ぱっと目のまえが開けたようにおもわれた。
たしかにそのとおりである。
「だが、それも李正方を制止することができたらの話だ。いま、この成都で、春逢が賊の一味ではなかったと知るのは、俺と、おまえと、珪麗どの、そして芝蘭たちだけだ」
「それは、つまり」
趙雲は、こくりとうなずいた。
「もし李正方が春逢の家を襲い、怒りにまかせてこれをすべて斬り伏せてしまったなら、かれらが賊ではなかったと証明することはむずかしくなる。
賊ではないのだから、その証拠も挙がらぬだろうが、まさに死人に口なし、逆の証拠を挙げるのもむずかしい。
どころか、李正方のことだ、もしもおのれが誤まっていたと気づいたら、それを知られないようにするために、偽の証拠をでっちあげることとてしかねない」

たしかにそうだ。休昭は、いままでの李巌の行いを思い返し、趙雲のことばが当たっていることに同意した。
「それでは、どうなさるのです」
「どうもこうもあるまい。誤解なんぞ糺してやったところで、あの男のこと、すでに兵を差し向けてしまったのであるし、よけいなことを言うなといって、おまえを消しにかかるだろう。
となれば、為すべきことはひとつ。力づくでも李正方を止めるのだ」
止めると聞いて、休昭はすぐにはその意味をつかめなかった。
どうやら、趙雲のいう止めるとは、ふつうに李巌のまえに立って、かくかくしかじかで、貴殿はまちがっているので、兵を引かれよと勧告するものではないらしい。
柄を握りしめる趙雲の指を、不気味な生き物を見るような目で見ながら、休昭は、あらためておのれの巻き込まれた事件の、闇の濃さを知ったように思った。



珪麗は趙雲の怪我はたしかに深くはないものの、動き回ったら傷がひらくといって、これから李巌の屋敷に向かうというと、大反対をした。
それは当然のことであったけれど、しかし休昭は、趙雲という男は、これと決めたら、おのれをどれだけ犠牲にしようとやりとおす男だと知っていたので、中立の立場という意味で、沈黙をまもった。
しかし、珪麗にとっては、休昭の沈黙は裏切りであるように受け止められてしまったらしく、じろりときつくにらまれてしまった。
珪麗は、ひとりで隠れ家にいるのも不満らしく、結局、休昭が趙雲とともに屋敷を出るまで、ろくに口をきいてもらえなかった。
それでも、最後に振り返ったとき、珪麗がすまなさそうな顔をして見送っていたのを見て、休昭はほっとした。
しかし、休昭が振り返ったことがわかると、珪麗の顔はふたたび険しいものにもどって、休昭をがっかりさせた。

ついていない、どうして沈黙をしたのかの理由も言うことができなかったと、思わずため息をつくと、となりの早足の趙雲が言った。
「おまえは足手まといだ。帰ってよし」
珪麗のみならず趙雲にまできらわれたら、立つ瀬がない。
休昭はあわてて弁解した。
「いまのため息はちがいます。そのう、あのう、珪麗さんがわたしを頼りなく思っているようで、それが憂鬱でため息をついたのです」
趙雲としては、それは気を殺ぐ理由であったらしく、ますます不機嫌そうに、休昭のほうに目線だけ向けると、言った。
「この期におよんで、のん気なものだ。おまえが俺の部下であったなら、ぶん殴っているところだ」
「す、すみません」
「俺たちがこれからどこへ行くのか、ちゃんとわかっているのだろうな」
「春逢さんの屋敷にむかった李興業将軍を止めに行くのです」
「斬り合いになるぞ」
ずばりと容赦なく趙雲は言い、休昭は絶句する。

休昭にしてみれば、李巌はおなじ蜀の将であるから、多少の小競り合いはあっても、剣を交えることはないだろうと、楽観的に考えていた。
が、それは思い違いもいいところなのである。
李巌にしてみれば、趙雲は、側近を殺しまわっている、宿敵ともいうべき男なのである。
それが、たった一人、休昭だけをつれ、しかも、屋敷に忍び込んだ女は別な女だと教えにあらわれたら、どうなるか。
李巌は、女のことも趙雲が裏で手を引いていたのかと、怒り心頭になるにちがいない。

「し、しかしですね、もし李興業将軍が趙将軍に斬りかかったりしたら、それこそ一大事。
ええと、ええと、たしか武将同士の私闘は、禁じられているのではなかったでしょうか」
「そうだな。蜀科にある。蜀科をつくった面々のなかに李正方はいた。おぼえているだろう」
「それならば、なおのこと、まさかこんな白昼に、趙将軍に斬りかかるような真似はしないでしょう。それこそ、乱心した罪人として裁かれてしまいます」
ほっとして休昭は言うのであるが、しかし趙雲は容赦ない。
「甘い。白昼であろうと、李正方は俺を消す機会を得たなら、かならずかかってくる。
ましてや自分が武装し、さらに兵を率いている状況では、なおさらであろうな」
「ならば、やはりここは、趙将軍も部下の方々を連れて行かれるべきでは」
と、いいかけて、休昭は、そんなことになったらどうなるか、すぐに想像がついて、首を振った。
「いえ、だめです。撤回いたします」
「当たりまえだ。それこそ収集がつかなくなって、内乱状態になるだろう。おまえは成都が火の海に叩き込まれるところを見たいのか。
言っておくが、李正方も俺も、この土地の出身ではないから、町を壊すことにはためらいがないぞ」
「怖いことをおっしゃる」
「武人の感覚は、おまえたち文官の感覚とちがう。もしもこの成都が混乱状態に陥ったなら、おそらくいまの状態では、将兵のほとんどの統率がとれなくなり、掠奪に走るだろう。
それを鎮めるために兵が動き、さらに混乱がひろがる」
「まさか、将兵のほとんどということはないでしょう」
休昭が言うと、趙雲は、足の速度を変えることなく、答えた。
「いいや。おそらくこの読みは当たっているはずだ。文官にはその流れが如実にあらわれているが、やはり軍の中にも荊州と益州との派閥ができている。
残念だが張益徳の力では、これらの軍をひとまとめにすることができないのだ。あの男は、そういう仕事には向いていないからな。
そのための補佐的役割としての軍師がいるのだが、これは左将軍府事と兼任であるし、なにより文官のほうもまとめなくてはならないから、細かいところまでは行き届かない。
この地は表面は安定しているように見えるが、実際は辛うじて軍師と尚書令との力関係が均衡であるから、大きな揉め事が起こりづらいだけの話だ。
ここへ来て、李正方がその力関係を崩しにかかっているのは、おまえも承知のとおりだ。
あやつの目のつけどころはいい。もしも俺が李正方の立場であったなら、軍師が軍事にあまり明るくないところをついて、軍内に味方をつくって、足元を揺さぶる。李正方が魏文長の一族と婚姻をしたのも、その一環だ」
「なるほど、そうなれば、やはり趙将軍は邪魔なのでございますね」
と、休昭は、趙雲の部下たちを、李巌が引き抜いたことを思い出していた。

軍内の孔明側の人間である趙雲は、劉備の信任もあつく、経歴も長いため、古参の将兵らからの信頼も高い。
しかも、多少なりと趙雲が賄賂でうごく人間であったなら、いまの事態はなかったかもしれないが、趙雲は孔明と同様に、賄賂でうごかず、縁故を贔屓にするような人間でもない。
李巌にとっては面倒でめざわりな人間なのだ。
だから、趙雲本人を篭絡することをやめて、部下たちを引き抜いて力を殺ぎ、本人にたいしては、さまざまな形で攻撃することを決めたのだろう。

「せめてもうすこし地位が高ければ、こうも李正方の思う壺にはまらなかったのだろうが、これは嘆いても仕方あるまい。
こうなることを予期していたわけではないが、俺も護軍の地位を頭にいれて、あれこれとほかの武将らと親交を結ぼうとした。
だが、やはり慣れないことをしても、すぐには結果が出せないらしいな」
休昭は、それを聞いておどろいた。
休昭は、趙雲を、びっくりするほどの純粋さをもつ無私無欲な人間のように思っていたので、そうではなくて、趙雲は趙雲なりに野心があったということがおどろきであったのだ。

護軍とは、首都防衛の任務にあたる職であり、将校の任免権ももつことから、軍内の発言力や影響力が、高くなるのである。
首都の命運をにぎる重要な役職であるから、当然、そこには主君にたいしての忠心があつく、公益性についての意識が高く、事務的なことにも高い能力を示すことができる人物がつくのがのぞましい。

趙雲ならぴったりだと思った休昭であるが、ふと横を見れば、趙雲の顔から血の気が引いている。
さては、怪我のせいかと、休昭はあわててたずねた。
「傷が痛むのですのか。珪麗さんがくださった痛み止めがあります。どこかで飲まれたほうがよろしいのでは」
休昭が言うと、しかし趙雲は、首を振って否定する。
「心配は無用だ。話をしていたほうが、気がまぎれる」
ということは、やはり怪我が痛むのではないかと、休昭はどきりとしたが、そこを追及したところで、趙雲は、春逢の実家であった屋敷にむかおうとするだろう。
こうなれば、自分が趙雲を補佐するしかない。

できるだろうか。
李巌と斬りあいになるかもしれないと趙雲に断じられたことで、休昭は、いつもは固い地面が、綿のように柔らかいものであるかのように感じた。
一晩中、歩きまわっていたというのに、その疲れもいまはわからなくなり、綿の上を歩いているような心地がする。

「薬は、おまえのお守りとしてとっておけ」
「は、はひ」
気の抜けた返事をして、休昭はぎこちなく、ほとんど小走りで趙雲のあとを追う。
隠れ家の周辺にある人気のない路地をだんだんと抜けてくると、人の姿が目につくようになった。
人々の表情に、不安そうな翳りがあるように見えるのは、なにもかもをすべて自分に繋げて考えてしまっているからだろうかと休昭は考えた。
しっかりしなくては。
お守りという意味で珪麗がくれたわけではないが、休昭は、珪麗の手製の薬の入った袋を、しらないあいだに懐からとりだして、握りしめていた。
そして、気をまぎらせるために、趙雲にたずねる。

「将軍には、お守りはあるのですか」
すると、意外にも趙雲は答えた。
「ある。かつて兄が持っていたものだが、俺が譲り受けた」

いいつつ、趙雲は、からころと、耳に心地よい音を立てて揺れる、帯飾りを取り出して見せた。
趙雲は、あまり洒落っ気の多い男ではない。
だから、帯飾りにしても、たいがいいつも同じものをしており、休昭も、それを何度か見かけたことがある。
水しぶきのなか、二匹の魚が向かい合っているという意匠が円のなかに細かく彫り込まれた、高価そうな帯飾りであった。
そういえば、このあいだと紐がちがうなと、休昭は気がついた。
大切にしているものらしく、趙雲は何度も帯飾りの紐を変えているらしい。

「これを持って戦地に出ると、生きて帰れるような気がするのだ」
「兄君、と申されますと、一番上の兄上でございますか」
「いいや、二番目の兄だ。俺が生まれたころに家を出て、ずっと帰ってこなかったのだが、あるときふらりと帰ってきて、これを残していった。
唯一、まことに血のつながりを感じることができる兄だったな」
「どうなされたのです」
「わからぬ。帰ってきたときと同じく、ふらりと消えてしまった。それきり会っていない。
おそらくは、もう生きてはいないだろう」
縁のうすい人だなと、素直に休昭は趙雲に同情した。
「思えば、俺は子どものころから、人というものが苦手であった。だが、それを自覚するのが遅すぎた。
俺くらいの年になってから、おのれを変えようとするのは、かなりの努力がいる。おまえくらいのときに、もっといろいろ考えていればよかったと思うな」
「そういものでしょうか」
「そうだ」
と、うなずいてから、趙雲は唇のはしをゆがめて、笑った。
「俺は、さきほどから愚痴ばかり口にしていないか。さぞ聞き苦しかろうな」
「いいえ、聞き苦しいなどということはございませぬ」

むしろ、休昭は、趙雲の語る本音に聞き入っていた。
自分も、趙雲とおなじように、人にたいして恐怖感にも似た苦手意識があるので、共感する部分も大きい。
文偉のように、人懐っこい人間になりたいと思うし、公琰のように、なにが起ころうと、誰にたいしてであろうと、泰然としていたいと思う。
しかし、悲しいかな、自分は董休昭であって、文偉でも公琰でもないのだ。
春逢の実家に行ったら、そこはすでに修羅場になっているかもしれない。
今度こそ、命を落とす危険だってある。
春逢にたいして責任を感じているにもかかわらず、どこまでもおのれの命を惜しむ気持ちしかあらわれないおのれを、休昭は悲しく思った。
なんて情けない。
なんて意気地のない。
わたしは、このまま生きながらえたところで、だめな人間としてしか生きられないのではないだろうか。

「むかし、李正方に会ったことがある」
と、唐突に趙雲は語りだした。
李巌は南陽の出身で、趙雲らは新野にいた。
人づてに聞いた話によれば、趙雲は劉備に随行し、劉表のいる樊城に何度も足を運んだということだから、そこで顔をあわせてもおかしくはないと、休昭は考えた。
過去のふたりがどうであったのか、興味をひかれて、休昭はたずねた。
「お話はされたのですか」
「ああ。李正方というのは、おまえは知らぬかもしれぬが、荊州にいた時分から、若いのに名前の知れた男でな、文武両道の才覚をみとめられ、劉州牧の肝いりで、あちこちの郡の県長をつとめていた。その意味がわかるか」
「意味?」
訝しげに首をかしげると、趙雲は、ようやく柔らかい笑みを見せた。
「かつて劉表が荊州の州牧となる以前は、荊州もまた、汚職と賄賂にまみれた官吏が役所にわんさといた。劉州牧は、もともと清流派だ。こうした腐敗を憎み、特に有能なものを選抜して、あちこちの役所の風紀を糺させていたのだ。
李正方は、そのなかでも、もっとも働きのよかった男でな、もともと華のある男だったことも幸いして、たいそう人気が高かった」
「李将軍が、父のような仕事をしていたのですか?」
休昭が呆れまじりの驚嘆の声をあげると、どうやらそういう反応がほしかったらしく、趙雲は機嫌よくうなずいた。
「いまの李正方からは想像もつくまい。だからこその名声であった。樊城で顔をあわせたときな」
「はい」
「向こうからわざわざ近づいてきて、挨拶をしてくるほどに、腰の低い男だった。傲慢さの欠片もなかったな。主公も、あれは本物の快男子だと誉めていたほどだ。俺もそう思った。
だが、人間は変わるらしい」
「変わりすぎです。そのままであればよかったのに」
「そうだな。もし劉州牧がもっと長生きをして、曹操が南下をしてこなければ、李正方は、おそらくは人々の尊敬をあつめる男でいられただろう」
「曹操、でございますか」

休昭にとって、その巨人の名は、伝説のなかに登場する人物のように響く。
曹操に対する評価は毀誉褒貶がいりまじったもので、劉璋、劉備と、劉氏による支配がつづいている益州での評判は、当然のことながら低い。
しかし、敵を知るためにと、曹操の事蹟を追っていくと、なかなか感心するところが多いのも事実なのである。
そして同じく、曹操という男によって、多くの人々の運命が大きく変えられているのも事実だ。
それだけすさまじい影響力を持っているということだろう。
あまりのその大きさに、休昭はどんな人物なのか、想像すらできないでいる。
きっと巨漢で、おそろしげな風貌をした男なのだろうと想像しているのだが、噂によれば、巨漢どころか小男だと言うことで、ますますわからなくなっている。
そういう曹操によって、李巌もまた、運命を変えられたというのか。

「曹操が南下してきたとき、三つの選択肢があった。曹操に降伏する、曹操と戦う、曹操から逃げる、だ。
主公や軍師は戦う道をえらび、劉曹掾は降伏する道をえらんだ。李正方は逃げる道をえらんだのだ。
そして益州へやってきたのだが、おそらくは、そのあいだに、なにかあったのだろう。俺が李正方と最後に会ってから七年のあいだに、李正方は別人になっていた」
「いまのようになっていたと?」
「そうだ。なにかおのれを根本から揺さぶるような出来事があったのだろう。かつての快男子は消えて、尊大な野心家になっていた」
「なにがあったのでしょうか」
「具体的なところはわからぬが、しかし、なんとなく想像はできる」
「ほんとうでございますか?」
驚いてたずねると、趙雲は答えた。
「これはおまえの父上には言うなよ。かつて、荊州にいたころ、軍師は龐士元なる、同門の男と、権勢を争ったことがある。
龐士元は、風貌こそ軍師に劣るが、その才能はあきらかに軍師より勝っていた」
「ああ、その名ならば、聞き覚えがございます。龐士元どのが尽力されたからこそ、主公が蜀に入ることができたのだと聞きました」
「そうだ。軍師は…………軍師などと、俺もつい口慣れているのでそう呼んでしまうが、あれは政の道に関しては長けているが、やはり軍略はうまくない。
しかし、当時、主公がもっとも必要としていたのは、軍略の才能をもつ者であった。
もちろん、主公にしてみれば、そんなつもりもなかったのだろうが、軍師はいっとき、主公から捨てられたような立場に置かれたことがあった」
「あの軍師が?」
「そうだ。もちろん、誇り高いやつだから、そんな素振りは見せなかったが、ほんとうはいろいろと苦しんでいた。
その時期に、もし、ちょっとした加減で、楽な方向に逃げる道を見つけてしまっていたら、おそらくは今日の諸葛孔明はなかっただろう」
「楽な方向、と申されますと、賄賂に手を染める、とか? 軍師がそのようなことをなさるとは思えません」
「そう思うか。俺からすれば、軍師が李正方のようになっていた可能性は。高いと思うぞ。軍師の場合は、若かったから考えが柔らかかったこともあるし、ほかにもいろいろとあって、孤独を恐れない心を得たことがよかったのだ」
「軍師は、生まれてからずっと、軍師のような気がしていました」
休昭が言うと、趙雲は笑った。
「そういうふうに振る舞っているからな。あいつは自分でわざわざ喧伝しているほどに天才ではない。
あえて言うなら、努力することにかけての天才、悩むことを無駄にしない天才だろうな」
「しかし、努力をすれば、みなが軍師のようになれるわけではありませぬ」
「当然だ」
と、趙雲はきっぱりと言った。

まるでおのれのことを語るように、誇らしげに言う趙雲の横顔を盗み見つつ、休昭は、孔明が孤立を恐れない心を得たことがあったということばに、感銘を受けていた。
たしかに、自分は、いつもびくびくおどおどして、人の顔色をうかがってばかりいた。
それはおのれの謙譲の念が強すぎるからだと、いいふうに解釈していたが、そうではなくて、人にきらわれたくないから、きらわれるより笑われるほうがましだと思って、卑屈になっていただけではないか。
孤独を恐れないようになれたなら、自分は変われるだろうか。

そして気づいた。
春逢の屋敷にむかう途上で、趙雲がこんな話をしたのは、かつての李巌のことを説明したかったのではなくて、落ち込んだ休昭をはげますためだったのだ。
親切ではないが、優しいひとだと、休昭はしみじみ感じた。


二人は歩きながら、やがて、ゆるやかな坂のある町に入っていた。
石畳を踏みしめながら、小走りで趙雲のあとを、休昭はついていく。
市が立っているというわけでもないのに、往来に人が多く出ているのは、やはり李巌の兵の動きにつられてのことらしい。
春逢の実家のある町に近づくにつれ、休昭はぴりぴりした嫌な空気を感じるようになっていた。

ゆるやかな坂をのぼっていくと、人家の屋根のつらなる向こう側に、白煙がひとすじ、立ち昇っているのが見えた。
ひとびとは、その白煙を指さし、なにやら不安げに語り合っている。
かれらの会話から、休昭は、あの白煙の下にあるものこそ、春逢の実家であることを知った。
煙が出ているということは、火事になっているということなのか。
「急がねばならんな」
となりで、趙雲が低くつぶやいた。

つづく
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