椒聊よ、遠き条よ

十五話 昨日の影・三

とにもかくにも目ざとい上に口うるさい男である。
さて、衣を雅やかなものにかえて相手を圧倒してしまうか、それとも、地味にして相手の気に入るようにするか、しばし悩み、孔明は後者をえらんだ。
法正が自分を見るときの目というのは、単に気に食わない者を見る目というだけではない。
嫉妬ともちがう、苛立ちと怒りが含まれていることに、孔明は気づいていた。

もともと年長者からは、生意気だという理由から、あまり受けのよろしくないことはじゅうぶんに自覚していたから、いまさら、剣呑な眼差しにさらされることを厭うことはなかったけれど、法正が自分に向けてくるものは、いままでそうであったように、異質な者を認めたくないという排他的な理由からきているだけではなさそうだ。
人間としてウマが合わないから露骨に嫌っているというのもちがう。
法正は、自分をまえにすると、なにやら腹が立って仕方ない、という様子なのだ。

さて、いったいなにに腹を立てているのやら。
困るのは、その理由がわからないから、対処のしようがないということなのだが。

部下があえてそうしてくれていたものか、客間の扉の隙間は、すこしだけ開いており、孔明はその前で足をとめて、中の様子をそっとうかがった。
法正は座についてはおらず、立ち上がり、なにやら部屋を見まわしている。
なにをしているのだろうと観察していると、法正は窓の桟に手を伸ばし、その指先で、さっと桟のわずかなでっぱりをなぞると、指先の皮膚についた埃の量を観察した。
孔明も細かいところはあるが、それは慎重さからくるものであって、法正のように、他者を信用していないからこそ、あえてその失敗を見つけて優位に立とうという心情からくる嫌味な細かさとは、質がちがう。
この方はわたしが苦手なようだが、だからわたしも苦手なのだと、孔明は扉の隙間から中をのぞいたことを後悔しつつ思った。
これは、無作法をしたことへの、天罰なのかもしれない。
ただでさえ対応のむずかしい相手に対して、こんな光景を目にしてしまって、さて、にこやかに対応できるものだろうか。
ともかく、内密の話とはいったいなんなのか。心してのぞまねばなるまい。

孔明は、深呼吸しておのれの気持ちをととのえると、扉をひらいて、尚書令のまえに姿をあらわした。
「お待たせいたしました。わざわざ足をお運びいただき、恭悦にございます」
「用がなければ、斯様な殺風景な場所に足を運ぶこともなかったのであるが、わたしは無礼者ではないからな。茶はいらぬ。用を伝えたなら、すぐに帰るゆえ」
なぜふつうに『左様か』、と流さないのだろうか。
どうしてもひとこと付け加えないと気が済まないらしいなとあきれつつ、もともと挑戦されたら応えずにはいられない気の強さをもつ孔明は、あきれながらも表に出さないで、にっこりと笑みをうかべて答えた。
「尚書令どのの執務室に比べれば、わが左将軍府などは地味でありましょう。なにせわたしには骨董を愛でる趣味などございませぬゆえ。
聞けば、かつてわが主公が入蜀した際、その混乱のさなか、家宝をなくした者たちは、まず骨董を商う店にはむかわずに、陳情にかこつけて尚書令どののもとを訪れるのを第一にしておりますとか。
さすればふしぎと、なくしたものが見つかるという話でございます。民の金庫代わりの役目を果たしておられるとは、さすが尚書令どの。お心がひろい」
見れば見るほどキツネ顔の法正は、孔明の強烈な嫌味に、目をほそめた。
「下賤の民の流す噂なぞ、いつの世も、根も葉もないでたらめである。それをまともに受け止めるとは、軍師将軍も、まだまだお若い」
「火のないところに煙は立たぬと申しますぞ」

とたん、孔明と法正のあいだの空間に、はげしい火花が散ったわけであるが、それは一瞬だけのことで、次の瞬間には、ふたりともすぐによそよそしい笑顔に転じた。
そこは、それ、おたがいに海千山千なのである。
そして、おたがいに座につくようにと決まりいっぺんのゆずり合いの動作をして、それからようやく腰を落ち着かせた。

さて、内密の話とはなんなのか。
この時点で、すでに孔明の気持ちは、だいぶ落ち着いていた。
打ち解けない相手であるとはいえ、法正の人となりを理解していないわけではない。
もともと感情に走りやすい男であるが、今日はとくにその傾向がつよいようだ。
だれより誇り高いこの男は、自分が有利なときには遺憾なく押しつけがましさを発揮するのであるが、その逆のときは、低姿勢にはならずに、こうして苛立ちをあらわにするのである。
つまり、内密の話とは、法正にとって不利、こちらにとって有利なことと判断できるのだ。
李巌の絡みであろうか。
とはいえ、まだ孔明自身は、情報収集の段階におり、自発的には動いていない。
こちらがなにか仕掛けた成果が出たというわけではない。
とすれば、法正と李巌のあいだに何事かあり、ゆえに、こちらを巻き込もうと尚書令が考えたのか。
楽観的にすぎる推測かなと思いつつ、孔明は法正が口をひらくのを待った。
法正は法正で、用件を切り出すのを渋っている。
こういう点では、わかりやすい男だと思う。

しばしの気まずい沈黙のあと、法正は、いかにも、ほんとうは喋りたくないのだが、という態度を崩さずに、口をひらいた。
「まずは貴殿の主簿の胡偉度どのに礼をと思ったのであるが、あいにく留守とのことで、名付け親という貴殿のもとに参ったのだ。すでに聞き及びかと思うが、わが娘が川に落ちたのを助けてくれた礼を申し上げる」
しぶしぶではあるが、そういうと、法正は深々と孔明に頭を下げた。
そういえば、偉度が娘を助けて、陳家の銀輪に預けているとか言っていたが、さて、尚書令の娘であったかと、孔明は表には出さずに内心でおどろいていた。
そうして、孟万徳のことや趙雲のことにばかり気をとられて、重要な話をあっさり聞き逃していたおのれを反省する。
法正には子どもがふたりしかいない。娘のほうといえば、それはつまり、李巌に嫁する予定の娘ということではないか。
法正が子煩悩だということも、孔明は知っていたから、なるほど、それで礼を言いにきたのかと孔明は合点した。

と、同時に、嫌いな人物に頭を下げに来た法正を、すこしばかり見直した。
偉度にだけ礼をすればよいのに、どこで知ったものやら、こちらが偉度の名付け親だということを聞いて、わざわざ出向いてきたらしい。
この男の誇りの高さからすれば、頭を下げなければならないということ自体が苦痛であろうに。

「偉度は、人としての道を守っただけのことにすぎませぬ」
なかば謙遜して孔明が言うと、法正はゆるゆると頭をあげて、うぬ、とちいさく返事をした。
そうして、顔を上げきらず、眼を合わせないまま、言う。
「娘の玲瓏は、そそっかしいので、川岸でせせらぎに気をとられているうちに、うっかり足をすべらせて落ちてしまったのだ」
ずいぶんなうっかりぶりだな、と思いつつ、孔明は、法正がなにを言い出したのだろうとふしぎに思った。
「それを、たまたま通りがかった胡偉度が助けあげてくれたのだ。で、さらに預けられた先の陳叔至の家で、令嬢の銀輪とやらと仲良くなり、気に入って居ついている。それだけのことである」
「はあ」
「あの娘は、いささかわたしに似て、奇矯な振る舞いをすることがあるのだ。嫁すれば、自由に振る舞うこともできなくなろう。
であるから、いまのうちに独り身の自由を楽しんでいるのだ」
「左様か」
「左様。玲瓏に落ち度があったわけではない。世人が噂しているのは嘘だ。独り身を楽しんでいる。それだけのことであるぞ!」

どこに向かっているのかよくわからない怒気を吐きつつ言う法正に、孔明は気づいた。
玲瓏という娘、李巌との婚儀を嫌がり、どころか実家に帰ることも渋っている。
このことは、いくら隠そうとしても、他人には面白い話であるから、やがては話に尾ひれをつけて、市井に広まっていくだろう。
つまり、噂が広がるがままにしていたら、娘の将来に暗い影を落すことになってしまう。
そうした予想をしたうえで、噂をつぶすべく、玲瓏が家に帰らない理由を、先に作ってしまえと法正は考えているらしい。

この男らしくない稚拙なやり方だ。
さて世人は、独り身を楽しみたいから娘が実家に戻らない、などという、いかにも作り話めいた話を信じるだろうか。
とはいえ、娘というのはあつかいにむずかしいのも事実である。
そこは同情して、孔明は答えた。

「偉度にはわたしから伝えて、ご息女の件に関しては口を閉ざしているようにと命じましょう。あれの口の堅いところは折り紙つきでありますから、どうぞご安心くださいますよう」
孔明が言うと、気まずくなったのか、法正は口をゆがめて、またちいさく、うぬ、と返事をした。
いつもの傲岸不遜、怖いものなしといった法正の態度からすれば、ずいぶんとしおれて、気の毒な様子であった。
さきほどからの口上にしても、家のことや自分の立場には一言も触れず、娘のことばかり口にしている。
妙な噂が流れて自分の名誉が傷つくことを苦りきっているのではなくて、娘の名誉が傷つくことをおそれている。
よほど娘が可愛いのだろう。

それほどに子どもの身を案じているというのに、その嫁ぎ先が李正方というのは皮肉なものだと孔明は思った。
法正は、李正方という人物を読みたがえているのではないか。
名付け子である偉度が、法正の娘を助けたというのなら、これも縁。
主公は李正方の婚姻を早くするようにとおっしゃったが、李巌の人となり、本性を、こちらはよく知っているのだし、ここはあえて憎まれ役を買って、それを止めるべきではなかろうか。
家同士はどうなるかはわからないが、相手を嫌って死のうとした娘が、無理を押して嫁いだところで、嫁ぎ先で幸せになれるとは、とても思えない。
とはいえ、なにから語るべきか。
李正方がこちらに刺客を向けてきたという話は、証拠がないうえに刺激的にすぎるし、趙雲のことがあるから、いまの騒動について、不用意に触れるのは危うい。

孔明が思案していると、ふと、法正が上目遣いにこちらを見ているのと目があった。
なにか言いたげである。なんなのだろう。
孔明がふしぎそうに軽く眉をしかめると、法正は、しまった、というふうに顔をゆがめて、目を逸らした。
まだほかに話があるようだ。
どうも落ち着きがないのが気になる。

法正は、孔明の目を合わせないように、しかし前を向いて、顎の当たりに目線を送りつつ(孔明は顎がかゆくなったが、じっと我慢した)、もごもごと牛のように口を動かした。
「ところで、話は変わるのであるが、貴殿はたしか、徐州の出身であられたな」
「徐州は琅邪の出自でございます。法尚書令は扶風郡のお生まれとお伺いしましたが」
行ったことのない土地だな、などと考えつつ、あたりさわりのないことを答えると、とうとつに、法正は言った。
「一族の家長というものには、血を残さねばならぬという役目があるはず」
いきなりなんなのだ。
「一般論でありますな」
「左様。しかし民の模範となるべき者が、家長の務めを果たしておらぬというのは問題ではなかろうかとわたしは思うのだが、どうだろう」
ついでのような『どうだろう』であったが、意見を求められているからには、答えなければならない。
この手の問答は苦手なのだがと思いつつ、孔明は、また、適当に返した。
「模範にならねばならぬことは理解いたしておりますが、民が高官に望むものは、その地位にふさわしい生活をしているか否かではなく、まずは自分たちの暮らしを守ってくれる能力を持っているのかどうかというところではないでしょうか。
いかに家庭においてはよき夫、よき父であろうと、一歩外に出れば、民に苛烈な圧政者というのでは、人心はやすまらず、治世に悪影響をおよぼすのではなかろうかと思います」
嫌味だったかな、とおのれの言葉を吟味しつつ法正を見れば、法正はやはり口をミミズのようにゆがめている。
「たしかにそれも正論であるが、わたしが言いたいのは、つまり、軍師将軍」
「はい」
孔明が返事をすると、それに応じるかのように、法正はぱっと顔を上げた。
「貴殿、あらたに夫人を持つつもりはないか」
「ありません」

即答してから、孔明はしまったと思ったが、あとのまつりであった。
法正は、孔明の、見当するまでもないといった早すぎる返事の仕方に、屈辱ゆえか、顔を赤くしている。
もしも、法正がやってくるまえに、許靖たちとあらたな結婚について会話をしていなかったなら、孔明とてこれほど素早く返答することはできなかっただろう。
法正の怒りと羞恥にゆがんだその表情を見て、孔明は勘のよいところを見せて、理解し、同時に冷や汗をかいた。

法正は李巌と仲違いをはじめている。
そこはじつに喜ぶべきことだ。たいへんよろしい。
娘が死を選ぼうとするほどに李巌を嫌っていることも、この男の心を変えさせるきっかけになったのかもしれない。

さて、問題はここからだ。
とはいえ、娘は、いずれはどこかへ嫁がねばならない。
李巌との縁談のことはみな知っているから、これがだめになったとなると、つぎを探すのはむずかしくなる。
さらには嫁ぐことがいやで自害しようとしたという噂が広がる前に、あたらしい婿を探したいと考えるのは、当然のことだろう。
とはいえ、李巌より格下の男に嫁がせるのは、法正の誇りがゆるさない。
そこで、位だけみれば、高位についている孔明に、日ごろの反感やらなにやらをぐっとこらえて、白羽の矢を立ててみた、ということのようだ。

孔明は、まず、素直に、しまったな、と思った。
いまのこの不利な状況をひっくりかえすのに最適な条件を、わざわざ向こうから折れて申し出てくれたというのに、あっさりと一蹴してしまったことへの後悔である。
受けるつもりはないにしろ、自分ではなく、もっとほかの相手(たとえば許靖の息子たちのだれか)を紹介して顔を立てるという手段もあったのだ。
いまの断りの仕方では、法正が怒って当然だ。
これには、こちらに非がある。

これは謝らねばなるまいよと覚悟して、孔明は言った。
「わたくしにはすでに妻がおりまして、これがたいそう気の強い女でございましてな」
ここまでは事実である。
「いまはおそらく荊州にいるかと思うのですが」
「おそらく?」
怪訝そうにする法正に、孔明はかるく咳払いをすると、いい直した。
「荊州におりますが、成都の治安が安定するまでは荊州を動かぬと申しておりまして、このことからもお分かりいただけるやもしれませぬが、たいそう強情なのでございます。
そこへ、もしも年若い妻があらたに加わりましたら、いったいどうなることやら。もとより情の深い女ではございませぬが、誇りの高さはひと一倍。いかに相手が尚書令のご息女であろうと、かまうものかというわけで、わたしの目の届かぬところで折檻くらいはしかねない女なのでございます」
むしろ、折檻されるのは、わたしのほうであろうと考えながら、孔明は言葉をつむいだ。
ちらりと法正のほうをうかがえば、これは、脳裏にいかなる女人の姿を描いているものか、ぽかんとしてことばを失っている。
「というわけでございまして、せっかくのお話ではありますが、わたくしにはお受けすることが出来かねる次第」

さて、これで引くであろう。惜しいとは思うが、この話はしなかったことにするべきだと孔明は思ったのであるが、法正は意外なねばり強さをみせた。
「いやしかし、奥方が荊州から動かれない可能性もあるのではないか。そも、成都の治安はすでにじゅうぶん、安定しているというに、なおも荊州から動かないというのであれば、それはもう、離縁したものと見てよいのではないか」
「わたしのほうがそうはいいましても、向こうはそうは思いますまい。きっと、わたしの不実を責め、大騒ぎすることまちがいなし。となれば、ご息女にも、いらざるご心労をかけてしまうことになりましょう」
「む」

言ってから、孔明は、自分の最後の言葉が蛇足であったことに気づいた。
法正の娘に心労をかけさせてしまう云々は、なんだかんだと断りたいがための口上にしか聞こえない。
ええい、だから、わたしはこうした問答が苦手なのだと、内心、苦りきっていると、やはり、法正のほうは、顔を赤くして怒りをあらわにしている。
「軍師将軍、たしかに奥方についてはよくわかったが、しかし同じく断るにしても、責任を奥方にすべて押し付けるその言いようは、あまりに男らしくないのではなかろうか」
痛いところを突くきつねだと、孔明は思ったが、苛立ちが走るのも、この場合は法正のことばのほうが正しいからである。

とはいえ、なんと答えればいい。
正直に答えて理解のできる男ではなかろう。
もし自分があらたに妻を持ったとして、暗く冷たい怒りをあらわにするのは、この広い大地のどこかにいるであろう妻ではなく、法正もよく知るあの男である。
とはいえ、断袖のちぎりを交わしたわけではないから、やましいところはないと言い切りたいのであるが、心情的には夫婦のようなものなので、そのあたりは説明がたいへんむつかしい。

ええい、めんどうなと思いながら、孔明は話を切り上げることにした。
「ご息女のことに関しては、さきほども申し上げましたとおり、けっして口外いたしませぬゆえ、ご安心くだされ。
そして、さきほど尚書令よりおたずねのあった議に関しましては、孔明は聞かなかったことにいたします。ほかにご用件がなければ、どうぞお引取りいただきたい」
「なんと無礼な! こちらが下手に出れば、いい気になりおって! わたしとて、貴様に好きで頭を下げたわけではないぞ!」
「ですから、ご丁寧にありがとうございます。しかし、それはそれ、これはこれでございますれば、どうぞお引取りを」
「わが娘が自ら命を断とうとしたがために、話を蹴るのではあるまいな! 断りの、ほんとうの理由を言うがいい!」
うっすらと目に涙すらにじませている法正のことばに、孔明は、ますます苦りきった。

どうしてそうなるのだ。

とはいえ、こちらの事情を説明したところで、法正のようにまともな人間には理解できまい。
その点においては、嫌味ではなく、うらやましいと孔明は思う。
そこで、孔明は別の理由を述べることにした。
「ご息女に問題ありと見て断るのではありませぬぞ。孔明は、おのれの力に自信がございますゆえ、婚姻によって権勢を伸ばすのではなく、ただおのが力によってのみ、立身出世を果たしたいと願っているのでございます。
けっして貴殿やご息女を侮ってのことではございませぬ。そこは誤解なきように」
これも本音であることにはちがいない。
きつすぎたかなと法正を見れば、案の定、怒りのあまり、顔色は赤から青に転じて、ぶるぶると小刻みにふるえている。
「最初は奥方をこきおろし、つぎにはおのれの志を引き合いにだす。かえすがえすも、なんと無礼なことであろう!」
憤然という法正に、しかし、そうした反応に慣れている孔明は、軽く頭をさげてみせた。
こうするほかに、どうすることができようか。
「無礼と申されてましも、これが孔明の本音でございますれば、曲げることは出来申さぬ」
「孤立するぞ、軍師将軍」
さもあらん。
孔明は顔を上げると、きっぱりと告げた。
内心では、まったくわたしという人間は、狭量なうえに要領がわるいな、と苦りつつ。
「孤立をおそれて、大勢に迎合することこそ恥でございましょう。孤独に耐えるのも才のうち。お気遣いに感謝いたしますが、わたくしはわたくしを変えるつもりはございませぬ。どうぞご容赦いただきたい」
法正は唇をかみ締めている。
奥歯をかみ締める、がりごりという音が聞こえてきそうな勢いではないか。

そうして、礼もそこそこに、法正は左将軍府から出て行った。
もしも、法正から同じ申し出があった場合、同じ立場に立たされたとして、ほかの男であれば、どうするのだろうと、法正の車を見送りつつ、孔明は考えた。
やはり法正の申し出を受けるのが、当然のことなのかもしれない。
でなければ、うまく言いぬけて、ほかの自分の息をかかったものを娘と娶せるとか、要領よくできたかもしれない。
ほんとうに、こうしたことに、わたしは疎い。
人をおそれ、避けていたために、こうした場合の対処の仕方がいまでも未熟だ。
かといって、慣れることはできまい。

だれにも気取られないように、ちいさくため息をついて、ふたたび建物のなかに入ろうとすると、ふと、視界に、見慣れた少女の姿が映った。
陳到の娘の銀輪であった。

孔明が最初に口にしたのは、挨拶でもなく、つぎのことばであった。
「偉度ならば、きょうはいないよ。用があるならば、わたしが言付けてあげよう」
銀輪は新野の時代から見知っている少女である。
趙雲も銀輪には特別な想いがあるというが、その心情は理解できる。
新野にいたころから成都に至るまでの、一日、一日が激流のなかにいるような日々は、とくべつにまばゆい日々であったように思う。
銀輪というのは、その日々を共有している娘なのだ。

この娘は、見るたびに大人びてくるなと孔明は思った。
人の子の成長は早いというが、まったくだ。
十三だというが、どう見ても十六、七の年頃に見える銀輪に近づいていくと、以前ならば屈託なくにこにこと笑って、近づいてくる娘は、どういうわけだか孔明を見ると、目線をおよがせて、困ったような顔をした。
偉度のことをずばり言われたから、照れているのだろうかと考えた孔明であるが、銀輪の顔には、もっと深刻そうな表情が浮かんでいる。
嘘のつけない娘なのである。

銀輪といえば、法正の娘を預かっているということもそうであるが、その屋敷には、かつての趙雲の部下で、もしかしたら趙雲と行動をともにしているかもしれない孟万徳がいるのである。
まわりくどさは、この娘には不要だ。
外れてもかまわぬと、孔明は率直にたずねた。
「何事かあったのかね。尚書令のご息女のことか。それとも孟万徳か」
法正の娘の名前が出たときは、銀輪の表情はうごかなかったが、孟万徳の名前がでると、はっきり強ばったので、孔明はおのれの勘にうなずいた。
そして、なるべく怯えさせないように気をつけながら(なにせ、姉をのぞき、この年頃の娘と会話をしたことがほとんどない)たずねた。
「孟万徳がなにかしたのか」
すると、銀輪は、着物を汚さないようにしているらしい前掛けを、両手でぎゅっと握って、孔明のほうをちらちらと見ながら、いいにくそうにしている。
どうやら、少女らしい区分によって、偉度は友だちだから気軽になんでも話せるが、相手が孔明になると、いささか勝手が違うために、話してよいものかどうか、困っているらしい。

自分としてはあまり差がないように感じているのだが、さて、偉くなるというのは、こういうところが厄介だと実感し、孔明は、左将軍府のなかに、子供たちのだれかが残っていただろうかと考えた。
偉度の兄弟たちも銀輪には顔なじみであるから、すこし話しやすいのではないかと考えたのである。

そうして左将軍府のほうに顔を向けた孔明であるが、銀輪はというと、孔明がそこで離れて行ってしまうと勘違いしたらしく、あわてて声をかけてきた。
「あの、あのう、おかしいのです」
「なにがだね」
「孟万徳さまが、ええと、ゆうべは徹夜をしてうちを見張ってくれていたそうなのですけれど、あの、そのまえに、軍師はうちに尚書令さまのお嬢さんが泊まっているのを知っていますか」
孔明はうなずいた。
「ああ、さきほど、尚書令どのから謝礼を受けたところだ」
「あ、さっきすれちがった立派なきんぴかの車、尚書令さまの車だったんだ」
いいつつ、銀輪は、なにやら安堵している。
孔明がいつもの癖で小首をかしげると、銀輪は、はっとして、つづけた。
「ごめんなさい、ええと、ええと、なんだったっけ」
「そう畏まらなくてよい。立ち話もなんであるし、中に入るかい。偉度の兄弟もだれか残っているだろうから、そのほうが君も話しやすかろう」
「いえ、あの、ええと、ゆっくりできないんです。でも、尚書令さまが軍師のところにお礼に来たということは、お姉さんを取り返しに、人を差し向けるなんてことは考えなくてよかったんだ、って思ったから、ちょっと安心しちゃった」
「それならば、尚書令はたしかに政(まつりごと)に関しては強引なこともするが、愛娘に強引な手段をつかう男ではないよ。
そのことを心配して相談にきたのなら、安心しなさい。それにしても銀輪や、おまえは、なぜにそんなに緊張しているのだね。わたしはそれほど怖いかい」
「怖くはないです。軍師だもん。でも、久しぶりに見ると、やっぱり軍師だな、って思うというか、あれ? うまく言えないけど、なんか迫力があって偉度さんとちがう、かなあ」
孔明は冠から出ている部分の頭をかきつつ、なにやらわびしくなって、言った。
「子どもに怖がられるのは、よいことだろうかね。気持ちのうえでは、おまえたちとさして変わらぬつもりなのだが」
「軍師は大人でしょ。ぜんぜんあたしたちとちがうよ」
「そうかい」
「うんと、そうではなくて、あの、孟万徳さまがゆうべはそれで徹夜をしたと言うのですけれど、嘘みたいなのです。
だれかと戦ったあとみたいに衣が汚れていて、朝靄で見えないとでも思ったのかなあ。袖とかも血で汚れていて、おかしいの」

血と聞いて、孔明が思い出したのは、偉度から聞いた、荊州での人殺しさわぎと、もしかしたら孟万徳が、趙雲と行動をともにしているかもしれないということであった。
安車に死体が押し込められていた事件以降、孔明は朝にかならず屯所に使いをやって、なにか事件が起こっていないかを確かめさせるのが癖になっていたが、昨日、李巌の屋敷に女賊が入りこんだ(芝蘭のことであろう)ということのほかは、今朝はなにもないという返事であった。

「だれかを斬ったようであったか」
単刀直入に孔明がたずねると、この度胸のいい娘は、怯えることなく首を横にふった。
「返り血というほどの量ではなかったのです。けれど、気になって、うちに偉度さんが寄越してくれている兄弟さんたちを呼んだんですけれど、だれも答えてくれないの」
「だれも?」
「はい。偉度さんは、万徳さまにばれたらいけないから、うかつに探しちゃだめだって言っていたし、もしかしたら兄弟さんたちも、それを聞いていて、わざと出てこないのかもしれないけど、なんだか気になって、それで偉度さんに会いに来たんです」
「偉度は」
あの子はどこにいるのだったかと考え、孔明は、偉度の昨日の報告では、調べものがあるから、宮城に行くと言っていたことを思い出した。
呼びもどす手間が惜しい。
そして、困りきって泣きそうな顔すらしている銀輪に言った。
「よろしい。それでは、わたしがおまえの屋敷に行こう。わたしの呼びかけにならば、あの子たちは姿をあらわすであろうからな」
無事ならば、と孔明は胸のうちで、ことばを付け加えた。

つづく
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