捜神三国志・燭龍本紀
第四十二話 湧天剣 ②
「剣を戻させるのだ、早く!」
孔明にもっとも近い場所にいるのは董和であった。
そのつぎが趙雲であるが、ふたりが振り返ると、そこには、さまざまな布で全身をぐるぐると巻いて身を隠している、子供くらいの大きさしかない女と、熊のような大男、みすぼらしいなりをした疲れた顔をした若い娘、そして、忘れもしない赤頭巾が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。
熊のような大男のほうは、おぼえている。
祝融が探している、黒イの長・ゾトアオである。
小人の女の声をよそに、ゾトアオを見た董和は、これで祝融の願いはかなえられた、あとはふたりが、もうここに戻ることがないようにしなければな、などと考えた。
剣を戻せという、小人の女の指示が頭に入らなかったのは、董和のなかで、その言葉が『ばかばかしい』ものに聞こえてしまったからである。
ようやく出会った。本来の持ち主のところへ戻った。
それを、どうしてまた引き離すことがある?
董和がぼんやりしているように見えたのか、小人の女は、まだ金切り声をあげて、
「早く剣を元に戻させるのだ! 早く!」
と叫んでいたが、董和は動かなかった。
いや、動く必要がない、とさえ思っていた。
心が、体から離れて、遠くに浮いているような、奇妙な感覚があった。
人の話を聞き流し、無視をする、などという行動は、じつに董和らしからぬものであった。
だが、そのときの董和には、そうするのが当たり前のように感じられて、無視することに対する罪悪感もなかった。
むしろ、女に対して、侮蔑の念さえ浮かんだ。
孔明が剣を抜く。
いたってふつうのこと、あたりまえのことではないか。
それを止めろ、などと、この女こそ正気であろうか。
理由はわからないが、そんな思いが胸に浮かんだ。
だからこそ、女の声をまるで無視して、一寸たりとも動こうとしなかった。
「幼宰どの、いったい、どうなされた? 怪我が痛むのか? なぜ止めない!」
張嶷が追いついてきて、ぴくりとも動かない董和の肩をゆすってくる。
そのときになって、董和は、すこしだけ正気にもどった。
「おお、伯岐か」
董和が答えると、そののん気な声の調子にあきれた張嶷が、苛立って言った。
「伯岐か、ではないぞ。なぜ止めないのだ!」
「止める必要があるか。あれはあれでよいのだ。湧天剣が、本来の持ち主のもとへ帰ったのだぞ。それを止める必要などないではないか」
董和の、当たり前のことを子供に言い聞かせるようなことばに、張嶷は、おおいに顔をゆがめた。
「なに? なに剣だと? いったい、どうなされたのだ、幼宰どの、あれを見よ!」
見よ、と言われて董和は孔明と蒼い剣・湧天剣を振り返る。
そして、目の前の異常な光景に、そのときになって、はじめて愕然とした。
董和が触れただけで、その身を吹き飛ばした蒼い宝剣は、いま、孔明が触れた瞬間に、素直に地面から抜き放たれ、ひさしぶりにその全身を見せた。
ぞっとするほど美しい剣である。鏡面のように磨きこまれたその刃にかかったなら、たとえ岩であろうと、容易に真っ二つにされてしまいそうだ。
孔明は、その剣をおのれの頭部まで引き上げて横たえ、そしてまじまじと眺めていた。
だが、それだけではない。
剣は、まるで孔明の動きに反応したかのように、異常にぎらぎらと刀身を光らせはじめたのだ。
「なんだ、あれは、夜が明けたのか?」
うろたえ、石舞台の頭上にある入り口から、朝陽が漏れているのではと見上げる董和であるが、地上からは一筋の光もこぼれてはいない。
張嶷はというと、董和の肩をつかんだまま、呻くように言った。
「朝陽などではないぞ。剣が、剣そのものが、光っているのだ」
「そんな莫迦な、そんな剣がこの世にあるものか」
否定しつつも、董和は、心のどこかで、そうかもしれない、などと考えていた。
孔明が明かりを持っていて、その光が反射しているのでは、と探ってみるも、孔明がもっているのは剣だけで、明かりのたぐいは、その周囲にはない。
そのあいだも、剣の光は、おさまるどころか、どんどん、どんどん強くなる。
董和は、力を増す剣の光を見て、ぞっと身を震わせた。
なにか異常な事態が、目の前で起こりつつあるのだ。
孔明は、光を増す剣を前にしても、やはり表情一つ変えることなく、黙ってそれを見つめている。
孔明の手におさまっている剣はというと、孔明の視線に答えるようにして、さらに光を増し、どころか、刀身から、まるで雷にも似た、龍の如き光を放ちはじめた。
とたん、耳をつんざくような、金属の響きあうような、悲鳴にも似た音が、洞穴のなかに響き渡る。
その場のだれもが耳を塞ぎ、そして、龍のように闇を飛び回る光から身を守るため、その場にかがんだ。
同じく耳を塞ぎながら、董和は叫んだ。
「孔明どの、その剣を放すのだ! それは尋常なシロモノではないぞ!」
だが、孔明の応答はない。
このままでは、とんでもないことになる。
その思いだけが、董和の足を動かした。
「孔明どの、剣を放せ!」
董和は呼びかけながら、孔明のいる石舞台に駆け上がった。
だが、孔明の返答はいっさいない。
どころか、董和が自分のそばに近づくことにも頓着していない。
剣の来歴や、光の仕掛けなどは、なにもわからないが、ともかく止めねばなるまい。
とんでもないことになる、と、董和の本能が告げていた。
いますぐ止めねば!
ぎりぎりと、鼓膜をいじめる音に悩まされながら、董和は石舞台に上がった。
しかし、石舞台に上がったはいいものの、孔明の持つ剣の放つ光の、そのあまりのまばゆさと、闇を切り裂いて、自在に飛びまわる光の龍の不気味さに怖じて、それ以上、足が進まなくなってしまった。
光の龍は、刀身からつぎつぎと生まれて、あたりを自由気ままに飛び回っている。
そして、古城の壁にぶつかると、光の龍もはじけて消えてしまう。
すると、またあらたに刀身から光が生まれて、あたりをまぶしく照らし、目にも止まらぬ速さで、疾風のように、あるいは、はじめて水に放たれた稚魚のように、力強く動き回る。
龍を生み出す剣。
これはまさに、神の剣ではあるまいか。
手足がガタガタと震えて止まらない。
だが、いま、孔明のもっともそばに近づけたのは、董和であった。
心の奥底で、どうしてわたしが、と愚痴る声がちいさく聞こえてきたが、あえて無視をした。
無位無官の身ではある。
しかし、これまで、民を守ることこそが、士大夫として生まれた自分の、一番の使命と信じて生きてきた。
だれにも認められていなかろうと、民に降りかかる災いを、最低限におさえるのが、わたしの役目なのだ。
董和の脳裏に、長星橋の住人たちや、晴嬰、じいや、息子の休昭、旧友の費伯仁の顔が浮かんだ。
かれらのためにも、ここは引いてはならない。
やせ我慢ではある。だが、董和はぐっと拳をにぎって、地面に踏ん張った。
そして、目を光からかばいながら、孔明のほうを見た。
これほど美しくも恐ろしい剣を前にしても、孔明はまったく動じていない。
背筋をしゃんと伸ばして、刀身をじっと眺めている。
まるで、それが本物かどうかを、じっくりと確かめているようであった。
と、光の龍は、それまでただ、周囲を遊泳しているばかりであったが、突如として、まっすぐと小人の女へ向かっていく。
そして、突如として、龍は、その口をがばりと大きくあけて、小人の女を飲み込もうとした。
「いかん!」
董和は叫びながら、孔明の背後から、剣を押さえようとするのであるが、とたんに、びりりと両腕に痺れが走った。
思わず苦痛のうめき声をあげつつ、董和はその場にしりもちをつく。
尻に、ごつごつとした岩肌が刺さったが、気にしている場合ではない。
ぎゅっとつぶった目をひらき、そして両手をおそるおそる見ると、指が、いまだにびりびりと痺れて震えていた。
「なんだ、これは」
思わずつぶやくと、その声に反応したのか、孔明が振り返った。
董和は、いまだ、と、孔明に声をかけようとした。
なんであれ、尋常ではないこの場の主導権を握っているのは、剣をもつ孔明である。
孔明さえ説得できれば、と思ってのことであったが、口を開いたまま、言葉を出すことができなくなった。
孔明の表情は、まったくもって、うつろであった。
董和は、そのあまりの表情の無さに圧倒されて、つぎの言葉をつむぐことができなくなった。
目の前にいるこの人間は、諸葛孔明ではない。肉体はそれであるが、心は、何者かに追いやられてしまっている。
憑依されているのだ。
では、ここにいるのは、いったい、だれだ?
孔明は、そこにいるのが、『ただの人間』である董和だとわかると、孔明は、ふたたび首を正面に向けて、董和に背を向ける。
これは、いかん。
董和は、恐怖を無理やりに押さえ込んで、叫んだ。
「孔明どの!」
董和が叫んで、どこかに消えてしまった孔明に呼びかけてみるものの、孔明の表情になんら変化はない。
むしろ、孔明の注意が董和に向かっているすきに、刀身から放たれた光の龍が、小人の女を呑みこもうとする。
だが、小人の女のほうもまた動かず、幾重にも巻かれた布の向こうで、なにやら呪文を唱えた。
とたん、小人の女の前面に、うすい光の膜のようなものが出来上がった。
すると、小人の女を呑み込もうとしていた光の龍は、その直前で弾き飛ばされた。
弾かれた龍は、そのまま、巨大な壁に直撃したかのように、弾かれ、ぎりぎりと耳ざわりな音をいっぱいに反響させて、光の粒をあたりに散らして、消えた。
小人の女は、ふう、と肩の力を抜くと、姿勢を正して、孔明に向かって、叫ぶ。
「聞こえるか、巫王の末裔、おまえはまだ、心を喰われていない。いまならまだ間に合う、その剣を放すのだよ!
その剣の持ち主をあたしたちが封じてから、すでに何千年と時が流れた。いまさら恨みを晴らしたところで、大地はおまえのものにはならないし、なにも変わることはないのだと、言い聞かせておやり!」
小人の女の呼びかけると、それまで無表情であった孔明の顔が、とたんに、それまで見せたことのないような、憤怒の表情に変わった。
その変化はすさまじく、人間の顔が、これほどまでにどす黒い感情をあらわにできるものかと、おそろしくなるほどのものである。
憎しみの情をかくさず、孔明の口がひらく。
「玄女の末裔よ、この者に呼びかけても無駄だ。すでに我は、この者の体を借りて、この世に戻ってきた」
そのことばに、小人の女が、くやしそうにうなった。
「遅かったか。その剣が入り口だったとはね。こうなるとわかっていたなら、さっさと剣を折ってしまうのだったよ」
小人の女の言葉を、孔明は、せせら笑って否定する。
「おまえにこの剣が折れるはずがない。いや、いまのこの世のだれにも折ることなどできはすまい。
この剣を錬成する技が失われたように、同じく、この剣を倒す技も失われて久しい。ちがうか。
われらの国に侵略し、暴虐の限りをつくし、無辜の民を殺戮し、犯し、そして滅ぼした、無慈悲な王に与した裏切り者。おまえが震えているのがわかるぞ。
いまになって我を恐れるか。五千年前の愚行の精算を、いま、果たすがよいぞ!」
言うや、孔明の言葉に応じて、剣がひときわ大きく光った。
そして、その刀身から、さきほどの光の龍とは比べ物にならないほどに巨大な、洞穴そのものを呑みこんでしまいそうな龍があらわれて、一気に小人の女を、その光の牙で引き裂こうとする。
小人の女は、さきほどと同じように自らを守ろうと、自分もまた、結界をつくるのであるが、光の龍の力はすさまじく、かろうじて牙にかかることは防げたものの、女と、そしてその周囲にいた赤頭巾やゾトアオ、そして若い娘ともども、はげしく吹き飛ばした。
あたりに、悲鳴と怒号が入り混じる。
まともに直撃を受けた小人の女は、塩の柱のところにまで吹き飛ばされ、後頭部をぶつけて呻いている。
張嶷が、すぐさまそこへ駆けつけて、女を助け起こす。
ゾトアオへは祝融が、オイテテテ、といいながら頭をさすっている赤頭巾には趙雲が助けに行き、若い娘は、頑丈にできているらしく、
「なんなのよ、もうやめてよ!」
と、泣きべそをかきながらも、かすり傷しか負わなかったらしく、自力で立ち上がった。
その様子を、石舞台の上から、冷たく見下ろし、孔明は、淡々とことばをつむぐ。
「この古城には、我らの怨念が渦巻いている。この剣は、我らの想いすべてを受けて錬成された最後の一本。血の薄まったおまえごときの力なぞが、対抗しうるものではないぞ」
董和をはじめ、趙雲、張嶷、祝融、ゾトアオと赤頭巾らも、息を詰めているのであるが、ひとり、小人の女だけはちがった。
張嶷の助けを駆りながらも、怪我を負ったらしくふらふらになりつつ、気丈に立ち上がる。
そして、幾重にも身に巻いた布の奥から、双眸を光らせて、孔明に言った。
「そうだとしても、あたしはここで引っ込むわけにはいかない。ここで引っ込んでしまったなら、代々、体が古城の毒に侵されようと、おまえと、おまえの遺したこの古城を見張ってきた意味がない」
「見張るのならば、瑯琊にのがれた、わが末裔をも見張るべきであったな。血は血を呼ぶ。帰ってきたのだ、この要塞に」
言いつつ、孔明は、いや、正しく言うならば、孔明に憑依した何者かは、満足そうに、雪のように白いおのれの腕を、満足そうに見下ろした。
蒼白い光に浮かび上がる姿は、脆弱さはなく、むしろ荘厳で、美しいがゆえに、不気味でもあった。
いま、目の前にいる人物は、いったい何者なのであろうか。
「最後の戦場で、ふたたび対峙することになるとは、これも宿命か。玄女の末裔よ、最後に聞いてやろう」
「なにをだい」
「遺言だ。我はけして無慈悲ではない。おまえたちとは違う。おまえがもし、我に降伏し、従うというのであれば、我はおまえを生かしてやろう。そうさな、この要塞の番人に命じてやらぬでもない」
「広い天下の一部をくれるといっても、これっぽっちも嬉しくないね。この無残な古戦地で、余生を過ごさなくちゃならないのかい。むしろ、牢屋に閉じ込められたほうが、はるかにマシというものさ」
痛みをこらえながらも言う女の言葉に、孔明は愉快そうに笑いながら、答えた。
「その姿は自業自得だと思うがな。おまえたちがこの要塞に封じたものが、おまえたちの身を蝕んだ。それだけのことであろう。
だが、玄女の末裔よ、我ならば、おまえのその身の毒を、消してやることができるぞ」
とたん、女が息を詰まらせた。意外な言葉だったのだろう。
孔明はというと、おのれの言葉の効果に満足し、笑みを浮かべながら、つづけた。
「意外であったろう、おどろいたであろう。だが、この世は、我が眠っているあいだに、猿並みに退化した。我は失われた技術と知恵の、すべてを継承している。おまえのその体を、常人と同じように直してやる術も知っているぞ。
要塞の地下に眠るモノから発せられる毒から、身を守る術も教えてやることができる」
「まさか」
「まさか、と思うか。この要塞に秘められた、数々の仕掛けを作った我らならば、そのようなことも容易にできる。どうだ、すべてはおまえの心次第だぞ」
沈黙があった。
孔明の手にしている湧天剣の光は、そのあいだ、しばし光を弱め、光の龍も、四方に舞い飛ぶことはなかった。
女が迷っていることが、孔明の背後にいる董和にも伝わってきた。
張嶷の助けを受けながらも、女は、孔明のことばを吟味し、そして、どう答えたものか、迷っている。
もちろん、董和には、両者の会話の内容のすべてはわからない。
わからないものの、董和は、おのれの推理していた、九門古城の作り主がだれかという、その答えが、ほぼ間違いないものだと確信した。
『玄女』と戦った湧天剣の持ち主。
そして、かれらの戦いの場の最後の決戦地と伝説でされているのは、ほかならぬ徐州。瑯琊のあたりである。そして孔明は、瑯琊の出自だ。
はるか東の地で敗れた者たちが、追われ追われて、蜀の地にたどり着き、そしてこの古城(孔明は要塞と呼んでいるが)を作った。
伝説は詳しくは伝えていないが、本当の決戦地は、この古城であったのか。
沈黙のあと、女が、そのぐるぐると、幾重にも布の巻かれた体を、小刻みに震わせはじめた。
恐怖のためか、屈辱のためであろうか。
怪訝に思っていると、突如として、女は高らかに笑い声をあげはじめた。
「それで、おまえは、あたしを買収できると思っているのかい。おまえがそれほど下手にでるということは、むしろおまえがあたしを恐れている証拠じゃないか」
とたん、それまで悠然としていた孔明の表情が、つよくこわばった。
「愚か者め、下手に出たのではない、慈悲と心得よ」
しかし女は、ぺっ、とつばを地面に吐きかけて、言った。
「慈悲かい。くだらないね、おまえはおまえの国の民の亡霊を背負っているだろうが、あたしは、あたしだけではない、何千年と、この古城に留まり、おまえと、おまえの遺したこの古城を見張ってきた先祖を背負っているのさ。ここでおまえのことばに屈したなら、先祖に申し訳ないからね、やはり、降伏なんぞはできないよ」
「ならば、死ぬか」
孔明の判断は早かった。
ふたたび、それまで大人しくしていた剣が、つよい光を放ちはじめる。
と、同時に、それまでぴたりと止んでいた、耳をつんざく金属音も、ふたたびあたりに響きはじめた。
光が、凶悪な龍を生み出そうと膨れ上がる。
背後でそれを見ていた董和は、とっさに足を動かすと、孔明の足元に滑り込むようにして、そのまえに立った。
「待て、いや、お待ちくだされ! 挑発に乗ってはなりませぬぞ、それが君主たるものの行いでございましょうか!」
女をかばうように、董和は、おのれの五体を大きく広げて、孔明の前に立ちふさがった。