捜神三国志・燭龍本紀

第四十二話 湧天剣 ①

いまひとつ、その真意を信じてよいものかどうかわからない趙雲。
わがままで、身勝手な行動に走りやすい祝融。
おとなしい張嶷。
焦る董和。

この、なんとも落ち着かない組み合わせの四人は、言葉少なに、井戸より地下の道を下り、そして九門古城の奥深くへと入っていった。
先頭を、もっとも戦闘経験の長い趙雲、二番目に祝融、三番目に董和、殿(しんがり)を張嶷、という順番である。
単独で突拍子もない行動をしがちな祝融を、趙雲と董和が見張っている。
そして、董和はまだ怪我が完全に癒えていないため、もっとも神経をつかう殿を、若い張嶷が務めている。
董和には、張嶷の、いかにも若武者と表現するのがぴったりな、精悍な出で立ちと、颯爽とした雰囲気がうらやましい。
張嶷は、怪我の癒えきっていない董和を気遣い、道々、なんども大丈夫かと声をかけてきた。
董和としては、ひねったり跳ねたり、といった動きをすると、鞭打ちの傷に痛みがはしるくらいで、ただ歩くぶんにはさほどではないと思っていたから、それほど、ふらふらしているように見えるのかと思う。
二回りほど年下の張嶷には、董和の動きは、のろのろしたものに見えてしまうのか。
自分では、三十代のころと、ほとんど変わっていないと思っているのだが、と董和は、自嘲もこめて苦笑する。
しかし張嶷が心配するのも道理で、早くも鎖帷子の重みが、肩から董和をいじめはじめていた。肩が重苦しく、肉が痛むのである。
だが、弱音を吐いてはいられない。
相変わらず、古城の闇に慣れることはできなかった。

董和たちがたどり着いた道は、坑道のようにせまい道で、人の気配はなかったが、人がここを何度か通過している痕跡は見ることができた。
地面には水溜りができており、すべりそうになって手を突くと、壁面も濡れており、コケのぬるりとした感触で、今度は指がすべる。
暗いために、明かりを趙雲が手にして進むのであるが、その趙雲にしても、闇のすぐ先になにがあるのかわからずに、歩みが遅く、たまに二番手である祝融が追いついてしまい趙雲のかかとにつまずいてしまうため、早く進めと文句をつけることもあった。
董和たちが潜ってきた井戸のほか、どこかから新鮮な空気が入り込んでいるのか、雨が上がった直後のような湿度はあるものの、息苦しさがないのは救いである。

仲間は三人いるのだが、それでも心細さは解消されず、思わず耳をすませして、どこからか聞こえる、ごうごうという風の音に紛れて、人の悲鳴が聞こえないか、剣戟の音が聞こえないかと探ってしまう。
そうすることで、逆に判断力が狂うことをおそれて、董和はおのれを叱った。
気を強くもたねばなるまい。
今日は、試しで潜っているのだ。試しの段階で、これほど怯えていたならば、本格的に潜るときには、どうなる。

前方に見える、趙雲と祝融の背中は、動きこそ遅いものの、動揺もなく、慣れた獣道を行く虎のように悠然としている。
若かったころであったなら、かれらと同じように動けたはずだ。これではいかんな、と思いつつ、董和はかれらのあとに従った。

しばらく坑道のように狭苦しい、細く長い道がつづいていたのだが、やがて、巨大なぽっかりとした空間に突然、行き当たった。薄暗いために、一瞬、外に出てしまったのかとさえ思う。
外界とちがうことは、空がないことだ。
見上げると、そこには、夜空のかわりに、いまにも垂れ下がってきそうなつらら石が、何本も生えている。
空気はひんやりと冷たく、どこからかはわからないが、明かりがこぼれてきて、周囲をぼんやりと照らしてくれているで、視界が完全に闇に包まれる、ということはない。
あたりには、ちょうど董和と同じくらいの背丈の柱が何本も、まるでだれかがきれいに整頓したかのように等間隔で並んでいる。

その柱には、董和はよく見覚えがあった。
塩の柱である。
薄闇のなか、何も知らないで最初に足を踏み入れたなら、あやまって人が立っているのではと間違えてもおかしくないほど、人にそっくりな造形をしている。
董和と張嶷は、これと同じ光景に行き当たるのは二度目であったから、またか、とだけ思ったのであるが、はじめてこの奇景を見た趙雲と祝融は、ぎょっとして足を止めた。
「ただの柱ぞ。なんの仕掛けもない、安心するがよい」
董和が声をかけると、祝融は、そんなことは言われなくても判っていた、というふうに鼻を鳴らして、つんと顔をそらし、趙雲のほうはというと、素直に感心して、柱の側面を手で触れた。
「諸国を回って、さまざまなものを見てきたが、これほど奇妙な洞穴に入り込んだのは初めてだな」
そう言いながら趙雲が感心する横で、張嶷は董和にたずねてきた。
「幼宰どの、このあたりは、先だってわれらが行き当たった、第二の門のあたりではなかろうか」
「おそらくは、そうであろう。最初に潜ったときは、いまわれらがやってきた横穴には気づかなかったな。
ここから荊州兵が往来していたとなると、あのときは、まことに、かれらと鉢合わせをしなくてすんで、幸いであった」
「まったくだ。このあたりが第二の門でまちがいがないのなら、盗賊はこないはず。すこし休むというのはどうであろう。久しぶりに古城の闇に当てられて、俺は疲れてしてしまった」
張嶷は息も乱さず、汗ひとつかいていない。
休もうと言い出したのは、張嶷とは対照的に、すでに汗だくになっている董和のためであることは、すぐに察せられた。
董和は、その気遣いに感謝して、言った。
「そうだな、すこし休むとしようか」
そうして、腰をかけるのにちょうどいい石を見つけると、座って、身にぴったりと張り付いている鎖帷子を緩めて、汗を拭く。
張嶷もそれに倣って、水筒の水を飲み、趙雲もまた、無言ではあるが休憩に賛同したらしく、さきほどとはちがって力を抜いた姿勢でもって、柱のあいだをうろうろとして、その造形のひとつひとつを、興味深そうに覗きこんでいる。
だが、祝融は、動きを止めることなく、ひたすらどんどんと先へ進もうとする。

水筒から口を離した張嶷は、炎のように鮮やかな、赤い装束に身を包んでいる祝融の背中に声をかけた。
「おい、姐さん、一人にならないほうが身のためだぜ」
張嶷の軽い呼びかけに、祝融はむっとして振り返った。
「あたしを安っぽく呼びつけるのは止めてもらおうか。それと、休みなのだろう。あたしがなにをしようと、勝手じゃないか」
「そうはいかない。危険な場所だからな。どこへ行くつもりだい」
「竹筒に水がなくなったから、水を汲みにいくのだよ」
「だったら、姐さん、あんたが向かっている先は見当ちがいだぜ。あんたがいま立っている位置から、もしかしたら小さな湖が見えているかもしれないが、そいつにうっかり足を踏み入れると溶けちまう。わざわざ火傷したいなら、止めぬがね」
「溶ける湖だって? おまえ、寝言もほどほどにするがいいよ」
誇り高い性格がそのまま表情にあらわれている祝融は、その秀麗な顔を、思い切り軽蔑にゆがめて、鼻を鳴らす。
しかし、張嶷は、まったくかまうことなく、やれやれ、とちいさくつぶやくと、立ち上がり、祝融のところまで向かった。
祝融のほうはというと、張嶷が怒り出し、力ずくでなにかを仕掛けてくるのではと思ったらしい。
剣の柄に手をかけるが、張嶷は、それが見えているだろうにまったく無視して、そのとなりに立った。
そして、張嶷は、懐から銅銭を取り出し、祝融に見えるようにかかげると、ちょうど前方に見える湖面に放り投げる。

その湖は、董和たちが、はじめて古城に潜ったときに見つけた、酸の湖である。
この洞穴湖は外界とつながっているのだが、すこしでも水に触れると溶けてしまうため、湖を渡って外に出ることはできない。
もちろん、逆も然り、である。
張嶷が投げた銅銭は、ぽちゃりと音をたてて、水面に円を描きながら沈んだが、ほどなく、沈んだ場所から、白い煙が、じゅうじゅうという、湖には似つかわしくない音をたてつつ立ち上った。
銅銭が溶けてしまったのであった。

「これでも水を汲むというのなら止めない。あんたのその綺麗な手や顔が、火傷だらけになるのは残念だと思うがな」
口が重い男に見えたが、なかなか言うなと、董和が感心していると、祝融のほうは、みるみる顔を赤くして、ついで、派手に、目の前の張嶷の頬を張った。
ぱん、と大きな音がしたが、張嶷のほうは頓着せず、ひとことも発することもなければ、祝融を睨むでも見つめるでもなし、まるで何事もなかったかのようにくるりと背を向けると、やはり平然と、董和のとなりへ戻ってきた。
そして、先ほどとおなじように、水筒の水を飲みつづける。
が、しかし、引っ叩かれた張嶷の頬は、みるみるうちに、ぷっくりと、赤く腫れてきた。祝融は、容赦なく、力いっぱい頬をぶったようだ。

それなのに、まったく頬を手当てしようとしない張嶷にあきれて、董和は言った。
「ずいぶん大きな音がしたぞ。痛まぬのか。軟膏を貸してやろうか」
「たいしたことはない。じきに痛みも引いて、冷えてくる」
「それほど腫れてしまっては、耳が聞こえづらくなろう。気持ちはわかるが、やせ我慢をしてよい時ではないぞ」
「幼宰どの」
水をひととおり飲み終わると、張嶷はあらたまって、董和に顔を向けた。
「なんだ」
「勘違いされておる。俺は、あの姫を口説いたわけではない」
「いや、さすがにそこまで勘ぐってはおらぬが、軽口を容易にきいてよい相手ではないぞ」
「すこしでも緊張をほぐせるかと思ったのだが、俺はやはり女の扱いは得意でない。まったく、女というものは、なにを考えているかわからぬ」
そのつぶやきに、生真面目そうに見える張嶷が、意外にも、これまで女で苦労しているのだ、ということがうかがえた。
好奇心を刺激され、董和はたずねる。
「あの姫ほどとは言わぬが、むつかしい女に苦労したことがあるのか」
すると、張嶷は、ちいさくため息をつきながらも、目線は祝融のほうに向けたままで、うなずいた。
「契りを交わしてもいない女から、やたら言い寄られて、困ったことがある」
「贅沢な悩みではないか。よい女であったか」
「年増であったが、まだまだ容色の褪せぬ、そうだな、よい女であったかもしれぬ。ただし、何を考えているのかはわからなんだ。いま思い出しても、さっぱりわからぬ」
そこで張嶷は、若々しい風貌に似つかわしくない、重いため息をついて、つづけた。
「俺は義父とはうまくやれなかったので、母の家には帰りづらい。帰る場所がないも同然なのだ。だからこそ、嫌ではあったが、亡父の伝手で、張大人を頼って成都に来たのだ。
だから、帰る場所のある人間の気持ちが、いまひとつぴんと来ない。
その女は帰る場所がありながら、なぜだかそれを捨ててまで、俺について来ようとした。
無情に聞こえるかもしれぬが、俺はその女にさして興味がなかったので、なかば逃げるようにして成都へ来たのだ」
「ふむ、その女とは、もしや、人妻か」
勘のよいところで董和がたずねると、張嶷は、それまで重ねてきた苦労を思い出したのか、苦笑した。
「そうだ。県令の妻であった」
「なんと」

董和がおどろいたのは無理がない。
張嶷の名が成都でも知られるようになったのは、県令の留守に襲ってきた賊が県庁を占拠したので、張嶷が単独で県庁に潜入し、取り残されていた県令夫人を救ったからによる。
この美談の裏に、面倒が発生していたわけである。

「その女は、つまり例の武勇譚の、おまえが救った県令夫人であろう。救われたことで、おまえに惚れてしまったのだな。無理はない気がするが」
冗談交じりに言って笑うと、張嶷は憮然と言った。
「無理だらけではないか。人妻なのに、なぜ夫以外の男に言い寄れる! おかげでこちらは県庁に居づらくなって、それで仕方なく、成都にやってきたのだぞ! 
ほとんど夜逃げ同然であったから、懐にはなにもない。そのために、張大人なぞに頼らねばならなかったのだ」
憤慨して、声を荒げたので、その声が、洞穴に反響し、おどろいた祝融がこちらを振り返った。
「おまえたちは余裕だね。ずいぶんと艶めいた話をしているじゃないか。おまえに惚れるなんて、その女の夫は、よっぽどつまらない男だったのだろうよ」
せせら笑いながらいう祝融であるが、張嶷のほうは、すこしも怒らず、むしろうなずいた。
「そういうことなのだろうな。でなければ、出自の怪しい俺になんぞ惚れるわけがない。気の毒な女だ」
「おいおい、それは、あまりにおのれを落としておらぬか。おまえの出自は怪しくなんぞなかろう」
董和がいなすと、祝融が言った。
「その男は、おのれが純粋に漢族ではないことを恥ずかしく思っているのさ。祖先を恥じる男なんて、最低だよ。それほど漢族がいいのかい」
「最低だな、わかっている」
これまた、張嶷が素直に認める。

張嶷は、もともと従順な男であったが、祝融のことばには、とくに素直になるようである。
惚れている、というわけではなさそうだ。
張嶷の祝融を見る目は、恋をしている者特有の熱っぽさはまるでなく、むしろ兄が奔放な妹を見張っているかのようなものである。
董和にしてみれば、よくわからない感情だ。

「おまえはあの姫には弱いな」
董和が祝融に聞こえないように言うと、張嶷は、これまた顔色ひとつ変えずに、答えた。
「女には逆らうな、男より女のほうが賢い、漢族はそれをわかっていて、女が怖いから、男のほうがえらい、などと決め付けているが、本当は逆だということをみんな知っている、と母が言った。
しかし力では女が弱いので、男は女を尊敬して、守ってやらねばならぬ、ともな。
たしかにそうであろうと思う。なにせ女は男にはできないことがたくさんできる。料理はできる、掃除はできる、金勘定もうまい、それに、なにより子供を生める。男はどうがんばったところで、子供を生むことができない。
女は計り知れぬところがあるが、わからない、ということは、やはり俺の頭が悪い、つまり女のほうが賢いのではあるまいか」
「うむ? そうか?」
思わず董和は首をひねった。
こういうとき、とりあえず、相手の言葉に反駁せず、じっくり頭で考えるのが、董和である。
張嶷の母親のことばには、うなずくところもあるけれど、張嶷の解釈そのものには、董和は首をひねらざるをえない。
祝融はというと、朴訥な張嶷の、素直な態度にうろたえているのが、目に見えてわかる。
張嶷はまったくそのつもりではないようだが、祝融のほうは、落ち着かなく、気まずそうだ。
いや、ふつうはそうだ。男からじっと見つめられたなら、きっとなぜだろうと思うであろうし、そのうえ、張嶷は自分で自分を過小評価しているが、男ぶりのよいほうである。
もしかしたなら、と思い始めてから、それが恋情にまで発展するのは、あっという間のことだろう。
思うに、県令夫人とやらのいきさつも、こうした張嶷の態度が原因だったのではなかろうか。

そんなやりとりを三人がしているなか、ふと、塩の柱を見回っていた趙雲の様子がおかしい。
それまで悠然としていた男が、とつぜんに身をこわばらせ、後退し、柱の影に、おのれの身を隠したのである。
「どうなされた」
董和がたずねると、趙雲は、身を落としつつ、前方を気にしながら、答えた。
「前方より人が来る。一人だ」
「一人?」
街中で一人というのなら、すこしも不思議に思わないが、古城のなかで一人というのは奇妙である。
仲間とはぐれた盗賊のたぐいだろうかと、趙雲の隣に並んで、前方からこちらへ、足音も軽く近づいてくる者を見る。
そして、それがだれだかわかると、董和は思わず、あっ、とおどろいた。
軍師将軍 諸葛孔明である。
もしや、その背後に荊州兵が控えているのではないかと構えた董和であるが、徐々にこちらへ近づいてくる孔明の周囲には、誰一人として追従するものはない。

孔明は、毅然と顎をあげて、野原を歩くかのように自然な足取りで、なにに煩わされることもなく、かなりの速度でこちらに近づいてくる。
「なにをしておるのだ、あの御仁は」
もしや、いままで董和が降りてきた井戸の道から、地上へ戻るつもりなのか。
構えてつぶやく董和であるが、その思いは趙雲も同じであるらしい。
董和の横で、塩の柱の陰に隠れるようにして、じっと、こちらへやってくる孔明を見つめている。

孔明の足取りは異常に早い。
董和の足元もそうであるが、孔明の歩くその道も、天然の洞穴を利用して道にしているだけなので、足元に石が転がっており、注意しなければ、かんたんに躓いてしまう。
しかし、孔明は、足元をまるで気にすることなく、よく整備された成都の大路を歩くように、歩を進めているのである。
董和たちのいる、塩の柱のほうには見向きもしない。
どうやら、目指す方角は、井戸の入り口ではない様子だ。

それにしても、おかしいのは孔明そのものである。
近づいてみてわかる、その表情。もともと、喜怒哀楽を表に浮かべない青年ではあったが、よりいっそう表情らしきものが失せており、その白い面貌は、まるで仮面をつけて歩いているかのようである。
孔明を、このまま地上に移して、同じ距離からながめたなら、さして奇異には思わなかったかもしれないが、場所が場所であるうえ、やはり無表情のまま、緊張もなにもなく、平然としている様子は、異常としかいいようがない。

「だれも付いておらぬのか」
うめくように、趙雲がいう。
趙雲がうろたえているのは、このような危険ななかで、軍師将軍ともあろう者が、たったひとりで動いている、ということであるようだ。

董和は、趙雲が、孔明の主騎であったという履歴を思い出していた。
ある程度は気心が知れており、主騎としての務めについても内容がわかっているだけに、なぜ孔明がひとりなのか、その理由がわからず、うろたえているのであろう。
孔明がどこへ向かっているのかと、董和はぐんぐんと進む孔明の足取りの、その先を予想してみた。
どうやら、董和が以前に迷い込んだ、第三の門のあたりに向かっているようである。
第三の門も、孔明たちが接収し、使っていた? 
これから地上に戻るところなのだろうか?

「この先には、羌族が出入りしているとおぼしき門があるのだ。神政門のそばの雑木林の中なのであるが、軍師将軍は、羌族と通じているのだろうか」
たしか青羌兵率いる神威将軍馬超に対して、降伏を説得したのは、孔明だったはず、と思い出しながら董和がたずねると、趙雲は、孔明のほうに目線を向けたまま、首を振った。
「いいや。それはない」
「あの方は、以前から単独で動くことを好まれたか」
この質問にも、趙雲は首を振った。

趙雲は、董和よりわずかに年下であるが、一回りは年下のように見える。かといって、青臭い雰囲気が抜けていないというわけではなく、肌つやがよいのと、顔立ちのよさが、若く見える原因である。
その趙雲が、こわばった表情で孔明を追いかけつつ、答えた。
「むしろ逆だ。単独で動くときも、わざわざ自分で、まわりに声をかけて、許しを得てから動くほどに慎重で、外敵を警戒していた。それを見て、臆病だなどと揶揄する者さえいたほどだ。
こんな危ない場所に、一人で足を運ぶなど、考えられぬ。それに」
「それに?」
先を促しても、趙雲はためらって、すぐには答えなかったが、董和がじっと待っていると、小さく息を吐いて、答えた。
「もともと、容易に他者には表情を見せぬところがあったが、いまの貌はおかしい。まるで目を開けたまま、眠っているようではないか」
「目を開けたまま眠っている、か。なるほど、いい表現だ」

たしかに趙雲の指摘しているとおりで、孔明はたしかに目をはっきり開けているのだが、場違いな動きのよさが、見ているものを不安にさせるほど違和感をかもし出しており、どこか生きた人形を目の前にしているようですらある。
「このまま軍師将軍が門から外へ出るようならば、このまま捨て置くべきだと思うが、それでよいか」
董和が確認すると、孔明がちょうど自分たちの前を行き過ぎてしまったので、塩の柱から、そっと身を出して、孔明の背中を追いつつ、趙雲が答えた。
「かまわぬ。ただ外に出るのなら、それは安全な場所へ行くということだろう。だったら、文句はない。貴殿に従おう」
言いつつも、孔明が気になって仕方がないのか、董和を見ることなく答える趙雲に、いろいろと冷たくあしらわれてきたようであるのに、この男は、諸葛孔明という人間を見限ることができないでいるのだな、と董和は思った。

趙雲は、荊州にいるあいだ、劉備の妻であり、大事な人質でもあった呉の孫権の妹姫を、むざむざ奪い返されるという、大きな失敗をしている。
以降、経歴が華々しいために軽んじられることはなかったけれど、要職からは外されていた。
つまり干されていたわけであるが、その趙雲を拾い上げたのが孔明なのである。趙雲は、そのときの恩義を忘れずにいるのだ。

いや、それだけではあるまいな、と董和は、趙雲のなかに、心から孔明を案じている、心細げな表情を見つけて、思った。
荊州にいたころに、両者のあいだにどのような関係が築かれていたのかは、想像するしかできない。
だが、友人や兄弟などと呼んでもいいくらいに、親密な関係が築かれていたのであろう。
孔明を正道に立ち返らせるために裏切った、趙雲の複雑な立場が、ほかならぬ趙雲の表情から、窺うことができた。


さて、董和は孔明が、第三の門から出て行くのか、それを確かめねばなるまいと、足音を殺して、そのあとを追った。
孔明のように足元を気にせず歩くことはできなかったので、追いかけるのは、なかなか至難の業であった。
足元には煮立った水が、そのまま凝固したような、奇妙な形をした石がところどころにあって、足の邪魔をし、なかなか先に進めないのである。

そういえば、門のところには、石柱に守られた宝剣があったな、と董和は思い出していた。
いつごろからそこにあるのかは不明だが、岩に突き刺さったまま、石に囲まれ、錆びることなくたたずむ剣。
蒼い龍の見事な象嵌の柄と、濡れたような、見ただけでひやりとするような刀身をもつ、うつくしい剣であった。
その柄に触ろうとすると、不思議な力で吹き飛ばされてしまったのだ。
そうだ、吹き飛ばされた一瞬に、なにか幻を見たような気がしたが、あれはなんだったのであろう。

そんなことを考えながら、董和が孔明を見ていると、孔明は、ゆるやかな坂道をのぼり、石の舞台のようになっている、大きな一枚岩のうえに上った。
そこに、董和を吹き飛ばした蒼い宝剣が、石柱に守られて突き刺さっている。
孔明は、剣のまえに佇んで、やはり同じように、表情のない顔をして、それを見下ろしている。
すると、まるで剣が生き物のように、淡い蒼い光を、ぼおっと刀身に浮かび上がらせた。
光を受ける孔明の、その蒼白い貌の、身震いするほどの美しさ。

孔明と蒼い宝剣を目にして、ぞくりと、董和の全身が大きく震えた。
なぜだかわからない。だが、なにかが董和の心身を震わせる。
奇妙なことに、董和の胸に起こった感情は、恐怖や驚きのたぐいではなく、感動であった。
一度、あの剣に触れたからなのだろうか。
孔明と蒼い宝剣の両方が揃ったその姿に、董和は感動して震えていた。
ぱっと、閃光のように、脳裏にひらめいたものがあった。

『王は六つの腕に鉄の体。八十八の兄弟をもつ。
封じられた剣の名は湧天剣。
戦に負けた王は捕らえられ、その四肢はばらばらに大地に封印された。
二度と王が復活することがないように』

そうだ。

『王の末裔たちは、いつか自分たちの王が復活することを信じていた。そして、あの剣を残したのだ。
剣の名は湧天剣。その剣を持つ王といえば、一人しかおらぬ』

孔明は、しばらくじっと剣を見つめていたが、やがて、その手を、石柱に守られた剣の柄に伸ばした。
しかし、孔明が、その手を剣に触れる直前に、洞窟のなかに、悲鳴にもにた鋭い声が響いた。

「だめだ、その剣を抜かせてはならない! 怨霊を復活させてはならない!」

董和が声の切迫した調子にぎょっとして振り返ると同時に、孔明は剣の柄を握り、その刀身を岩から引き上げた。

四十三話へつづく…
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