捜神三国志・燭龍本紀
第四十話 もうひとつの邂逅
文偉は壁が横に消えるか、あるいは轟音とともに崩れるか、くらいの仕掛けを考えていた。
だが、まさか壁が天井に吸い込まれるとは思ってもいなかった。
壁が消えた空間から向こうには、やはり同じように長屋ふうの石造りの建物が並んでいる。
文偉と休昭のふたりは、しばらく呆然として、天井を見上げていた。
ぱらぱらと、土ぼこりをあたりに残しつつ、壁は天井に吸い込まれ、そのまま戻ってくる気配はない。
「これを作った人間は」
恐怖とおどろきで声をかすれさせつつ、文偉は言った。
「たしかにとんでもない知恵者だな。というより、どういう仕掛けなのだ、これは」
「壁は消えてしまったけれど、落っこちてこないよね?」
休昭の言葉に、文偉はまた冷静さを取り戻した。
そうだ、ぼんやりとしてはおられない。壁が天井に遊びに行っているあいだに、先へ進まねば。
「よし、休昭、壁が消えたいまのうちに、先へ進むぞ。なんだかよい予感がしてきた。
わたしのこういうときの勘は良くあたる。賭場で証明済みだ!」
意気揚々と文偉は言うと、まだためらって立ち尽くしている休昭の手を引っ張るようにして、ずんずんと前に進んだ。
蝋燭の明かりは壁の内部にはわずかしか届いておらず、逆にこの内部には、人が入り込んでいない、ということがわかる。
「賭場での勘なんて、信用できるの?」
真面目な休昭が、ぐずる子牛のようにためらいつつ足を進めながら、嫌味をこめてたずねてくるので、文偉は笑いながら答えた。
「当たるとも。まあ、見ていろよ。すぐに階段が見つかるぞ。これで首尾よく第一階層、つづいて地上へ出られたあかつきには、休昭、まっさきに、旨いものを食いに行こうな!」
「文偉、まさかとは思うけれど、わたしたちは脱獄したのだということ、忘れてないよね?」
じつを言うと、文偉は忘れていた。
ごまかすために、意味もなく、明るく声をたてて笑ってみせる。
さて、先へ進みつづけていくと、当然、蝋燭の明かりは背後に遠いものとなり、かれらの視界は真っ暗になる、はずであったのだが、やはり満月の晩の夜道を歩いているように、どこかしら視界が保たれている。
「なんだか変な気分だね。どこから明かりが漏れているのだろう。地上からであればいいのだけれど」
そうだな、と応じつつ、文偉は、ふと、前方から、はっきりと人の気配をおぼえて、足を止めた。
「いかん、だれかいる」
言いつつ、文偉は足を止めて、前方から人が来ないことを確かめてから、地図を開いた。
だが、薄ぼんやりとした明かりだけでは、地図は、はっきりと読めない。
文偉は、記憶を呼び戻し、行く手に何があるか描かれていたかを思い出した。
長屋は絶え、井戸らしき丸が描かれていなかったか。
井戸であるなら僥倖だ。水を調達することができる。
だが、水のあるところには、人が集まる。
壁の仕掛けを知っている人間が、ほかにも侵入してきていて、そこで憩っているのかもしれない。
危険である。
しかし、そこに可能性があるのも事実だ。
その侵入者の出方の次第によっては、うまく出口を探ることができるかもしれない。
かれらとて、どこからか、この古城へ潜ったのに違いないのだから。
文偉は、声を立てないようにと休昭に手振りで示し、そして、抜き足差し足で、そおっと前進をはじめた。
前方から聞こえてくる物音は、一人や二人の立てるものではなく、どうやら何十人もの人間がひしめいていて、それぞれがばらばらに集って、歓談しているようである。
複数の、交じり合う会話にまじって、金属のこすれあう音も聞こえてくる。武装している集団のようだ。
うまく形天から逃げられた陳勝の一行か。
それとも、別の大盗賊団に出くわしてしまったのか。
あるいは、脱獄に気づいた官吏が、まさかとは思うが追いかけてきたのか。
緊張しつつ進んでいくと、ふたたび視界が明るくなってきた。
前方にいる集団が、かがり火を焚いているのだった。
建物の物陰から、そおっと、かがり火のある場所を覗いた文偉と休昭の目の前に、円形の広場がひらけた。
その円形の広大な広場は、みごとな円を描いてそこにあった。
中央には、同じく円の泉があり、青々と清らかな水を湛えている。その水には、いかなる仕掛けか、天井よりひっきりなしに白い飛沫をあげて、滝が流れ込んでいる。
泉を中心に、石畳が敷き詰められており、しかも構造の美しさを際立たせるように、色を変えた石が四方に向かって放射線状に等間隔で並べられている。
その線の延長に、文偉と休昭がいままで歩いてきた長屋がある。
第二階層に静かに広がる商店街のような長屋は、この円形の広場を中心に、石畳とおなじく、放射線状に東西南北へ広がっていたのだ。
そしてその泉のまわりに、何十人かわからないが、ともかくたくさんの兵卒たちが、めいめいに憩って、休んでいる。
甲冑を脱いで地べたに座り込み、汗を拭くもの、仲間と歓談するもの、干し肉を口にするもの、泉の水を汲むもの、さまざまだ。
かれらの武装、とくに甲冑にある白い羽根を見て、文偉も休昭も、かれらが何者か、すぐに判断をつけた。
荊州兵である。
それも、軍師将軍である孔明の、直属の精鋭たちだ。
「なぜ軍師将軍の兵卒がこんなところに?」
思わず口にしつつ、文偉はマズイ、と思った。
董和が処刑場から救われた経緯は、多くの者から聞いていた。
そのなかで、孔明の兵が処刑場に乱入したという話も聞いていた。
世間の話では、孔明の兵が処刑場に乱入したのは、逃げようとする董和を捕まえようと、法正に加勢するつもりだったのだろう、ということであった。
文偉は、もちろん、孔明と董和のあいだにあったやりとりなど、夢にも知らないから、目の前にがやがやと憩っている兵卒たちを見て、混乱すると同時に、恐怖した。
あの尚書令と軍師将軍が組んで、古城の宝を狙っているのか?
こいつらに見つかったらどうなる。
軍師将軍の前に突き出され、運がよければ、宮城の牢獄へ戻され、運が悪ければ、そのままバッサリ。
冗談ではない。
ここまで逃げてきて、死ぬわけには行かないぞ。
文偉は休昭を促し、いったん、引き返すことにした。
水のある場所はわかった。壁を取り払う仕掛けもわかった。
兵卒たちだって、ずっとここにいるわけではあるまい。
かれらが移動した頃合を見計らって、またここに戻ってこればよいのだ。
そうして、踵を返そうとした途端、文偉の背後にぴったりとくっついていた休昭が、息が詰まったような声を出した。
どうした、と声をかけようと振り返った瞬間、目の前に、銀の刃が咽喉元に突きつけられていた。
休昭と同じく息をつまらせ、体を固くした文偉であるが、刃はそのままぴたりと止まり、向かってくる気配はない。
文偉はごくりと生唾を飲みつつ、そおっと目を動かして、刃のその先を見た。
年季の入った柄をにぎる、ごつごつとした、しかし真っ白な指。
そして、その先を見ていくと、立派な甲冑に身を包んだ、一人の青年が立っていた。
二十歳くらいだろうか、まだ若い。
文偉がおどろいたのは、その兜の下の青年の面差しであった。
びっくりするほど華やかな容姿をした若者である。
無骨な鎧が、かえって青年の華々しさを引き立てている。
白い肌につんと尖った唇、すこし目じりの上がった、きつそうな大きな目。
そして、妙に艶っぽい。
本来、甲冑そのものが、人の精力を猛々しく表現した色気のあるものであるが、青年の場合は、本人が多分に色気を放つ人物であるらしい。
風貌は役者のようであるが、しかし、目つきは蛇のように鋭い。
なんだか怖いやつだな、といよりも、実際に怖い。
なにせ刃を突きつけられているのだから。
「何者だ」
と、青年は、濁りのない澄んだ声で尋ねてくる。
その傲岸不遜な問い方には、一方で、こうした質問に慣れている雰囲気も感じさせた。
ここで唐突に、文偉の名家としての矜持が頭をもたげてきた。
普段は、どれだけ人に小ばかにされようと、よほど命にかかわることではないかぎり、へらへらしていられるのが文偉であるが、ここぞというときには、父母より受け継いだ誇りが、俄然、目を覚ますのである。
文偉は、刃なんぞ、怖くはないぞ、というところを見せるために、顎をぐっと上げて、咽喉をそらすようにすると、青年をまっすぐ見返した。
「人の名前を聞きたければ、まず自分が名乗れ」
文偉が言うと、青年は、柳眉をぎゅっときつくしかめた。
青年はしばらく文偉と視線を戦わせ、次いで、休昭をにらんでいたが、やがて、飽きたのか、それとも焦れたのか、短気な性格であるらしく、文偉のほうを向くと、早口で、答えた。
「わが名は胡偉度。軍師将軍諸葛孔明の主簿である。そら、名乗ったぞ。おまえたちは何者だ」
主簿といえば、秘書である。
秘書が完全に武装して、いま目の前にいる。
まさに戦乱の世、それにしたって、派手な奴だな、などと、どこかのんきに思いつつ、文偉は突きつけられた刃を気にしながら、答えた。
「わたしの名は費文偉。書生だ」
文偉が名乗ったのを聞いて、となりで文偉の衣をしっかり握りつつ、休昭も名乗った。
「あの、その、わたしは董休昭、ええと」
「休昭は、わたしの同僚なのだ」
文偉が口を添えてやると、休昭は、そのとおり、というふうにつよく頷いてみせた。
胡偉度と名乗った青年は、まず文偉のほうを気にして、軽く眉をひそめた。
「文偉。費、文偉。ふむ、費家の人間か」
「そう、そのとおりだ!」
政権交代で零落したとはいえ、やはり劉璋の生母の実家である費家の名はつよい。
そうか、と青年は一人合点して、つづいて、怯えている休昭のほうを向いた。
「で、こっちは董、休昭と言ったか。なるほど、費家の当主と董幼宰は親交があったはず。
すると、おまえは、あの董幼宰の息子」
「う。えと、そ、そうだ」
どもりながらも休昭が答えると、偉度は剣をつきつけてきたまま、つづけてたずねてきた。
偉度は柳眉をしかめたまま、薄闇のなかで、文偉の影に隠れている休昭の顔を、覗き込むようにして、見る。
「父親には似ておらぬ。あの方は剛毅な風貌をしておられたが、おまえはちがうな。似ているところが、まるでない」
「父上をご存知か。ええと、わたしは母親似だと親戚からよく言われる。
いえ、えと、言われる、じゃなくて、言われます。はい」
休昭が途中で言い直したのは、目上の者には、立場の如何にかかわらず、かならず敬語を使うように、という父の教えを思い出したからである。
しどろもどろに答える休昭に、偉度は、なんだこいつは、と戸惑いの表情をすこしだけ見せた。
「董幼宰の子は、宮城の牢に繋がれているはず。それが、なぜ九門古城にいる」
もっともな疑問だ。
文偉と休昭は顔を見合わせた。ここが正念場であることはまちがいない。
脱獄したのだと正直に答えたら、どうなるか?
偉度の背後には、いつの間に集まってきたのか、偉度の命令を待っている、屈強そうな甲冑姿の男たちが、横一列になって立っている。
偉度の一声で、すぐさま襲い掛かってきそうな空気がある。
文偉はすばやく頭をはたらかせた。
孔明が董和を追っていることは、わかっている。
こちらの素性はもうわかっただろうから、このまま連行され、消えた董和を呼び戻すえさにされる可能性のほうが高い。
それはそれで最悪だ。
なんとか逃げる方法を考えねば。
でも、どうやって?
「武器はないようだな」
と、偉度は、自分で目視し、たしかめたことを、あらためて確認するようにして、言った。
いかん、捕らえられるか?
身を固くした文偉であるが、つぎに偉度が口にしたことばは、意外なものだった。
「どうやってこんなところまで潜り込んだかは知らぬが、わたしはおまえたちには用がない。
費家のあととりを殺して費家との関係をまずくするつもりはないし、主簿としてではなく、胡偉度は、董幼宰と、ことを構えるつもりはない。
いまは見逃してやるゆえ、どこへなりと、すきなところへ行って、二度と古城にかかわるな」
言うと、偉度は刃をひっこめて、剣を鞘にしまう。
と、同時に、背後で命令を待っていた男たちも、ほっと力を抜いたのがわかった。
その様子で、文偉は知った。
かれらに、こちらに対する敵意はないのだ。
助かった?
事態が飲み込めぬまま、文偉も休昭も、無防備にこちらに背を向ける青年を見つめていた。
そこへ、暗闇の奥底より、たいまつを片手に掲げて走ってくる兵卒が近づいてきた。
兵卒は、偉度の足元で跪くと、古城にわんわんと残響を与えながら、言った。
「偉度どの、お姿を確認いたしました」
すると、偉度の背中がぴくりとちいさく痙攣した。
みるみる、そのしなやかそうな身体の全体に、緊張が走っていくのが、うしろから見ている文偉にも伝わってくる。
「して、お一人か」
「はい、まちがいございません。お一人で、第一階層にいらっしゃいます」
とたん、偉度を含めた、泉の周囲で憩っていた兵卒たちからも、どよめきが起こった。
かれらにとっても、その兵卒の報告は、思いかけないことであったらしい。
お姿? お一人? だれのことだ?
どうやら、かれらは、だれかを探しに古城へ潜っているらしい。
報告を受けた偉度は、しばらく、手を顎にそえて考え込んでいた。
偉度が口を開くのを、ほかの兵卒たちは、息を呑んで見守っている。
やがて、偉度は顎から手を離すと、ゆっくりと、一言一言を、周囲に染みこませるように、よくとおる声で言った。
「すれ違いがあったようだ。これよりわれらは第一階層へと戻り、あのお方をお探しする!
すでにみな知ってのとおり、あの方は、理由はよくわからぬが、われらを避けておられる節がある。しかも地図をもっておられるゆえ、われらより古城の地理にくわしい。しかもこの闇のため、われらがあの方を追うには不利である。
だが、それでも、われらはあの方を追わねばならぬ。あの方を失えば、この国は瓦解する。われらの命運は、あの方とともにあることを忘れるな!」
「なぜ、われらを避けておられるのでしょうか」
緊張した面持ちで、士卒長らしき男がたずねてくる。
偉度は、その男をちろりと見遣ると、くだらないことを聞くな、というふうに鼻を鳴らして、答えた。
「それがわかれば苦労はない。わかることは、お一人で行動しようとなさっている、ということだけだ」
「もしや、お一人で宝を得ようとなさっているのではありませぬか」
別の男が尋ねてくると、今度は、偉度は、はっきりと怒気をあらわにして、その秀麗な顔をゆがめて、怒鳴るようにして答えた。
「あの方が宝なんぞに惑わされるものか! なにか、よんどころのない事情があるに決まっておる! われらを避けてお一人で古城へ入ったのも、おそらくは、特別な理由があってこそのこと!
よいか、第一階層には、われらのほか、多くの有象無象があつまり、宝を求めて徘徊しておる。戦いになるかもしれぬが、なるべくやりすごし、挑発には乗らぬようにせよ。
これより、隊列を乱す者には厳罰を与える。第一階層は、とてつもなく広い。仲間とはぐれぬように注意せよ。それでは準備をととのえ、すぐに、出立するぞ!」
偉度のことばに応じるようにして、訓練が行き届いている荊州兵たちは、すぐさま移動の準備にとりかかった。
置いてきぼりをくらっているかたちとなった文偉と休昭は、しばらくたがいに寄り添いつつ、呆然と、偉度と荊州兵が出立する準備をながめていた。
兵卒たちのだれ一人として、文偉と休昭を気にしようとしない。
ふたりは、灯されたかがり火よりも、かれらにとってどうでもいい存在なのである。
「あの方って、だれのことだろうね?」
兵卒たちに聞こえないように、こっそりと休昭が尋ねてきたので、文偉は思いついたことを答えてみた。
「荊州兵が探す『あの方』だぞ。荊州から移住してきた、お偉方のひとりに決まっている」
「お偉方なんて、いっぱいいるじゃないか。だれのことだろう」
「すくなくとも、将軍職以上の人間のことだろうな。しかし連中がわれらを無視してくれるのは助かるな。水が飲めるぞ」
「さすが文偉だなあ。どうしてそんなふうに楽天的になれるのさ」
「伯父上がおっしゃっていた。自分の苦境を認めることはだれにでもすぐできるが、どういうわけか、どんな苦境の中にでも必ずある、自分の幸せを探すことができる人間は、稀だそうだ。
さらに伯父上がおっしゃるに、長生きすることができるのは、苦境を見つける天才よりも、幸せを見つける天才のほうだそうだ」
「伯仁どののおっしゃりそうなことだね」
「そうさ。わたしは幼くして父母を亡くし、兄弟もおらぬ。費家の未来はわたしにかかっているといってよい。つまり、長生きをしなくてはならぬ」
「うん」
「というわけで、この状況も乗り切らねばならぬ。まずは水。水が飲めるということは、つまりそれだけ死が遠ざかる、ということだ。素敵なことだと思わぬか」
「文偉がいうと、なんだかなんでも素敵に聞こえてくるよ」
休昭の言葉に、文偉はほがらかに笑ってみせた。
「そうだろうとも。そして、もっと素敵なことがある。出会った相手がよかったぞ。この連中に付いていけば、第一階層に行ける!」
目を輝かせて言う文偉に、休昭は、呆れ顔をして、抗議を含めて言う。
「本気なの? いまは見逃してくれたけれど、付いていったら、どうなるかわからないよ!」
「そこがそれ、ついていくにしたって、目立つようにちょろちょろとついていく莫迦もおるまい。そおっとついていくのだ」
「心から呆れたよ、文偉!」
「何とでも言え。生き延びて、もう一度、太陽を拝めたら、おまえはわたしに感謝するにちがいない」
「そうかなあ」
「そうとも」
自信満々にうなずく文偉を、休昭は不安そうに見遣る。
荊州兵は、ゆるめていた自分たちの装束を固め、そして荷物を背負って、隊列をつくる。
偉度はそれらをまとめながら、殿(しんがり)をつとめて、最後尾についた。
そう年も変わらないはずなのに、年長者ばかり、しかもかなり鍛えこんだ男たちを何十人と、きっちり束ねている。
たいしたやつだな、と文偉は感心していた。
諸葛孔明の主簿、と名乗った。
胡偉度。
おぼえておこう。
「水を飲んだら、かれらに続くぞ」
文偉のことばに、休昭は、まだ気が進まない、という顔をしてはいたが、頷いて、泉で咽喉を十分にうるおすと、闇に溶け込みはじめていた荊州兵の一行のあとを、小走りに追いかけて行った。
一方、古城の某所。
赤い頭が、地面から顔を出したばかりの茸のように、にょきりと、とある穴から覗いていた。
血にまみれた不吉な頭、ではない。
赤頭巾である。
赤頭巾は、きょろきょろと、鶏のように周囲を見回し、そしてだれもいないことを確かめてから、やれやれ、と独り言を言いながら、ぐっと両腕に力をこめて、穴から這い上がってきた。
そうして、洒落者らしく、まずは身だしなみを整えて、頭巾がずれていないかを確かめる。
それから、衣のあちこちについた埃を、ぱんぱんと手のひらで払った。
一連の作業が終わったあと、赤頭巾は、ふうっ、と肩から力を抜いて息を吐くと、周囲を見回した。
なにもない、がらんとした石造りの回廊の、ど真ん中であった。
均一に塗りこめられた白い壁が一直線につづき、その先は、闇に溶け込んで見えない。
壁には、扉のない入り口が複数あり、内部を覗くと、石造りの卓らしきもの、椅子らしきものが見える。
部屋のようである。
最近、ついたばかりと思しき、複数の足跡が床にあるのだが、部屋が荒らされた形跡はない。
どうやら、盗賊たちはこの部屋に入り込んだのだが、このあたりの空間には、もともとなにもなかったので、単にあたりを見回すだけで、すぐに回廊に戻って行ったらしい。
しかし赤頭巾は、覗き込んだ部屋の中央にまで入り込み、そして、その頑健な造りに感嘆した。
どのような用途で使われていたのかはわからない。
わからないが、はるか昔に、この部屋のそれぞれに人がいて、なんらかの生活をしていたのだ。
それらの気配をいまだに残している、卓や椅子の存在が、なにやら不気味ではある。
物言わぬそれらの遺物が、物の怪となって人の言葉を語りだす幻想にとらわれて、赤頭巾は、頭を振って、それを脳裏から追い出した。
この古城を誰が作り、そしてなんのために使用したのか、赤頭巾にはさっぱり見当もつかない。
漢族の様式とは思われない、見慣れない文様が、柱や天井、そして壁のあちこちに施されている。
その凝りようからして、赤頭巾には理解できない。
なにが理解できないかというと、こんな太陽もろくに差さない場所で、何十、下手をすると何百という工夫が、よくも働けたものだ、ということだ。
太陽のありがたさを、蜀という、曇天の多い土地に入ってから、あらためて思い知った。
だからこそ余計に、暗がりで緻密な作業をしたであろう、過去の工夫たち、職人たちの忍耐力が想像できないのだ。
儂だったら、きっと一日で音を上げちまうだろうなあ、と赤頭巾は思う。
なんだかんだと、人間は太陽が大好きなのだからして。
しかし逆に言えば、何十、あるいは何百という人間を、ふつうの重労働よりも、さらに過酷な条件での作業に従事させることができた、強い権力を持つ人間が存在していた、という証しでもある。
そいつの名前はわからない。
なんのためにそんな作業をさせたのかも不明だ。
だが、これだけ広大な空間に、これだけ精密な建造物を残せたのだ。
よほど影響力を持った人間だったのか。
どうやって人をそんなふうに意のままに動かせたのだろう。
赤頭巾は、天井に、隙間なくびっしりと描きこまれた文様を眺めつつ、考える。
この空間には、権力者が一方的に押し付けた労働に対する卑屈さが感じられない。
漂う闇の濃さは、たしかに尋常なものではない。
だが、建物そのものには、禍々しさを覚えないのだ。
もしかしたら、あるいは、動かされる側の人間にも、こういう建物を作らなければならない理由があったのではないか。
その理由とは、なんだ?
「わかんねえな」
思わずつぶやきつつ、赤頭巾は、先を進む。
「こいつは、第一階層とやらかもな」
独り言を言いつつ、それはそうだ、と赤頭巾は、自分が登ってきた穴を振り返った。
第二階層を、陳勝や文偉らとはぐれた赤頭巾が、その穴を見つけたのは偶然であった。
赤頭巾は、首を持たない、顔が胸にめり込んだ、気の毒なほどみにくい化け物から逃げて、しばらく第二階層のなかをひとりで彷徨っていた。
陳勝でもだれでもいいから、仲間と再会できないだろうかと思っていたのだが、しかしだれにも会えず、そのまま徘徊をつづけていると、行き止まりにやってきてしまった。
だが、ただの行き止まりではなかった。
どうやら、そこは、先に古城に入り込んでいた盗賊たちが、行き止まりに腹を立てて、無理やり天井に穴を開けて、そこから第一階層へ戻った場所であったらしい。
床から天井までは、どこからか運ばれてきた石柱が斜めに立てかけてあり、さらにその柱の先には、親切にも、天井から縄がぶら下がっていた。
盗賊たちは、自分たちがふたたび戻ってくることを考えて、縄をそのままにしていたのだろう。
赤頭巾は、そんなかれらの気遣いに感謝しつつ(自分に対してのものではないことは承知していたが)、ありがたく縄を使わせてもらうことにした。
そうして、運よく、第一階層へたどり着いた、というわけである。
「やけに明るいね。だれかいるのかな」
第一階層のあちこちには、第二階層と同じく、ところどころにかがり火、あるいは蝋燭が灯されていた。
これまた、ありがたいことである。
と、同時に、赤頭巾は、董和の逮捕の理由が、蝋燭の買占めだったことも思い出していた。
「しかし、これだけの量の蝋燭をここだけで使っていたなら、そりゃあ、蝋燭の値段もつりあがるだろうよ。それとわかっていて、幼宰さんに罪をおっかぶせたんだなあ」
ひどいやつらだ、と苦々しく思う。
赤頭巾は、古城がどんなものか、じつはよくわかっていない。
『得れば必ず天下を取れる宝』には興味がない。
興味を封じているのは、本能が感じ取る、この古城に漂う、まがまがしい、粘りつくような闇のためである。
この古城に漂う闇は、ただの闇ではない。
闇にいやな粘りがある。
一度、これにまとわりつかれると、骨にまで闇が染みこんでしまうような気配すらある。
危険な場所だからこそ、大いなる宝を隠すのには最適なのだと言えるかもしれないが、赤頭巾の本能が、こんなところにあるものが、いいものであるはずがないと判断を下していた。
もし本当にいいものであったなら、隠す意味はない。
よい帝王ほど、惜しむことをしない。
子孫のためにも、隠さず、それを受け継がせようとするはずだ。
ところが隠した。
伝説すら残さぬほど、徹底的に隠した。
つまりは、子々孫々に累が及んだらまずいと思うほど、よくないもの。
それが『宝』なのではないか。
正体の知れない宝のために、有能なふたりの家臣が心を狂わせてしまっている。
かれらの狂気は、周囲にどんどん悪影響を及ぼしている。このまま放っておくわけにはいかない。
かといって、あれやこれやと具体的に口を出すことを、赤頭巾は好まなかった。
自分より、かれらのほうが優秀だと思っていたからだ。
よっぽどの間違いをしないかぎりは、細かく口を出して、かれらを押さえつけたくはない。
ぎりぎりまでは、黙って見守って、みずから間違いから立ち返るようにしたい。
それが、赤頭巾の望むことである。
「さあて、みんなとはぐれちまったわけだが、坊ちゃん方は、うまく逃げられたかね」
独り言をつぶやきつつ、だれかに会わないかなと思いつつ、赤頭巾は古城を進んでいった。
第二階層の、とんでもなく高かった天井に比べると、第一階層の天井は低い。
天然の洞穴を利用した箇所もあり、赤頭巾が手を伸ばすと、天井に触れることができる場所もあった。
そうして、ひとり、てくてくと、はぐれてしまった仲間たちとの再会を思いつつ、歩いていた赤頭巾であるが、ふと、うす暗がりの向こうから、ひゅう、と一陣の風が吹きつけてきたのを感じた。
風が吹き込んでいる。
証拠に、赤頭巾の周囲にある蝋燭が、いっせいに、風に揺さぶられ、その炎を稲穂のように倒した。
ちかくに、地上への入り口があるのか?
風の吹いてきた方角に体を向けた赤頭巾であるが、足を進めようとして、ぴたりと止まった。
かすかであるが、風の吹いてきた方角から、足音が聞こえてきたのである。
入り口が近くにあって、そこから人が出入りしているのか。
出入りしている連中にもよるが、もしそいつらが、話の通じるやつらだったら、地上への出方を教えてもらおう。
そして、その話を土産に、もう一度、第二階層へ戻って、困っているだろう気の良い盗賊たち、そして董家と費家の息子たちを連れ出してやらねばならん。
そうして、風の吹いてくる方角へと向かった赤頭巾であるが、しばらく行って、自分のいる方に、だれかが向かってくる気配をおぼえて、思わず身を隠した。
味方になれそうなやつだったらいいが、彭雍のようなやつだったら、目も当てられない。
そうして、やってくる人間の顔を、そおっと窺い見た赤頭巾は、目に入ってきた意外な顔に、ぎょっとした。