捜神三国志・燭龍本紀

第三十九話 きつねと石、そして壁

法正が馬超の屋敷に到着すると、すでに家人は起き出していて、門の前をほうきで掃き清めていた。
4頭立ての馬車からひょこりと顔をだし、主はいるかと尋ねようとした法正であるが、気がついた。
ふつう、玄関、門の周辺を掃き清めるさいには、落ち葉や砂埃の類が集まるものである。
が、どうしたわけか、馬超の門の周囲には石ころが多いようだ。
それも、ちょうど握り締めて放り投げるにぴったりな大きさの石ばかり。

馬超が在宅かどうかをたずねるのは、法正に従う下男の役目であったが、興味をおぼえた法正は、掃除をしている男にたずねた。
「朝からご苦労なことであるな」
法正が声をかけると、あきらかに漢人ではないとわかる、その浅黒い肌をした男は、迷惑そうに顔を上げた。
自分の集中を妨げられるのが嫌いな男であるようだ。
法正の、見るからに高位とわかる(馬車を引く馬の数でも見当がつくわけだが)冠や衣装の色を見ても、男はまるで表情を変えず、ごにょごにょと、訛りのきつい調子でおはようございます、というようなことを言った。

普段であったら、法正は、だれの召し使っているものであろうと、礼儀がなってない、としかりつけたところであるが、ぐっとこらえた。
ここは馬超の屋敷、そしてこの下男は馬超の雇っている下男だ。これから馬超に切り出す話の内容を考えれば、あまり騒ぎを起こしておかないほうがいい。
わたしも器が大きくなったものよと、自分で自分に感心しつつ、法正はたずねた。
「ふたつほど尋ねたいのであるが、おまえの主人は在宅か」
「はい、将軍様は遅くに戻られましたが、いまはすでに起きられまして、朝餉を摂っておられます」
「ふむ」

馬超のよいところ。
それは、前日にどれだけ浮かれ騒ぎ、羽目をはずそうと、翌日にはけろりと普段どおりになって、かならず夜明け前には、いつもの調子を取り戻せることである。
それはつまり、有事の際にも、ほぼ同じ調子を保っていられる、ということである。
もともとの体質もあったかもしれないが、こうした習慣は、いつなんどき、暗殺されてもおかしくない人生を歩んできた結果、身についたものともいえる。
酒好きでだらしのない面をたびたび叱られても、なお矯正することができないでいる張飛との差が、ここにある。
こうした意外にきっちりとした部分が、多くの将兵から馬超が尊敬されている理由でもあるのだ。

法正が馬超の家をおとずれる前に、おのれの家人から聞いたところによれば、馬超はこのところ、毎日のように深酒をして、遅くに帰宅するとのことであった。
気前よく妓楼をひとつまるまる借り切って、ドンちゃん騒ぎをする日もあるらしい。
遊び方が派手なのは、混じっている羌族の血(法正の偏見である)のゆえか、それとも、単になにもかも派手にしなくては気がすまない性格ゆえか、法正にはわからない。両方かもしれない。
馬超がすでに起きていると聞き、法正は、それならば時間を無駄にしなくてすむとほっとした。
なにしろ、このところ、頭を痛くする問題が多すぎる。

失踪した劉備の行方は杳として知れず、身代わりになった樵夫はいまもって宮城の生活に慣れず、どんなに贅沢な馳走を前にならべ、美しい宮女に世話をさせようと、故郷の山恋しさに、がたがた震えながら、泣いてばかりいるという。
いまのところ、あの生意気きわまりない軍師将軍と共同戦線を張って、劉備は感冒にかかっていて、公に出ることができない、と誤魔化しているが、それとて、いつまでもつやら。
劉備の失踪が外に漏れるか、軍師将軍との共同戦線が破れるか、どちらが先になるか、これは法正にも予想がつけられなかった。

こうなると、競争である。どちらが先に九門古城に眠るという『得れば必ず天下をとれる宝』を見つけることができるか。
孔明がいったいどこから古城のことを知ったのか、法正にはわからなかったが、邪魔者だ、ということだけは、はっきりしている。
だが、いまのところ、先を行っているのはこちらだ。
第八階層へたどり着いたという張大人をこちらは味方に引き入れている。
あともうすこしで図讖を完全に手に入れられる。
あともう少しだ。

そのためには、この屋敷に眠る荒馬の助けが必要だ。
進むことだけを考え、退くことを知らない男、そして、名誉にはこだわるが、蓄財にはさっぱり興味を示さぬ男。
第八階層で先を進むことを邪魔している、謎の九人の鋼鉄の戦士たちを、馬超と戦わせる。
政治的に考えても、ほかに適任者はいない。
馬超と同等の強さを持つ男といったなら、もう成都には張飛か趙雲くらいなものだが、張飛は劉備の義弟だからこれは除外。
これは劉備と張飛の交わした、死ぬときは同じ日、同じとき、とかいう面倒な約束のためだ。
張飛になにがあったら、劉備があとを追いかねない。
趙雲は孔明に近すぎる。
となると馬超しかいない。
しかも馬超がたとえ死んだところで、法正は痛くもかゆくもない。
むしろ、馬超が一緒に率いてきた蜀軍の最強騎兵軍団・青羌兵をまるまる手に入れられる。
馬超の後釜に据えることになる従弟の馬岱は、馬超ほどに癖のある男ではないから、御しやすい。
どこをどうとっても、これ以上の適任はいない。
馬を焚きつけ前進させ、自分はあとからひょいとやってきてうまうまと甘い汁を吸う。
たいへん自分らしい。

法正は頭のなかで、馬超にどうやって話を切り出すかをまとめつつ、ふたたび門の前を掃き清めている下男にたずねた。
「さて、二番目の質問をしてよいか。みたところ、この門の前にはずいぶんと石ころが落ちているものだな。将軍は、庭の改造でもなさったか」
庭に砂利道でもつくったのであれば、そのときに持ち込んだ石が門の前に散らばっていてもおかしくない。
だが、下男はキツネ顔の訪問客をじろりと迷惑そうに見て、それから、やはり訛りのきつい早口で、言った。
「このところ毎日、石の雨が降りますので」
石の雨とはなんぞや、と法正が首をかしげると、下男は説明するのが面倒であるらしく、門を指差した。
見て、法正は納得した。馬超の屋敷は、劉備が特別に命じてあたらしく作らせた屋敷である。もちろん門も真新しいはずなのであるが、しかしその扉や柱には、無残にも無数の凹みや傷がついていた。
泣く子も黙る錦馬超の屋敷に、堂々と石の雨を降らせる人間が存在するらしい。それも複数。
「なんという不届きな。門衛はなにをしておる」
「おりましたが、昨日、とうとう頭ほどある石をまともに食らいまして、頭が割れたので寝込んでおります」
「なぜ将軍は、そのような暴徒を放置しておられるのだ」
「最初は追っ払っておりましたが、連中はいつ何時あらわれるかわかりませぬ。ただの通りすがりかと思うと、突然に袖から石を取り出して、われらに投げつけます。
追いかけても、雑踏に逃げ込んでしまい、見つけられません。通りがかりの者に、行方を聞いても、知らない、見てないとそればかり。毎日その繰り返しなのでございます」
馬超への攻撃。もしや、荊州に追われた劉璋の残党ではなかろうかと、法正はすぐに想像したのであるが、下男は、あまり訪問客とおしゃべりをしたくないようで、掃除を終えると、さっさと通用門をくぐってしまおうとする。
これだから蛮族はいかん、礼儀も知らなければ、愛想もない、と腹を立てつつ、法正は背中を向けた下男を追うかたちで尋ねた。
「待て、話は終わっておらぬぞ。石を投げられる理由の見当はついておるのか」
「だいたいは。董幼宰どのを将軍が捕らえてから始まりました」
「む」
法正が口をつぐんだ一瞬の隙をついて、下男は通用門の中へと入ってしまった。

董和。またしても董和。
法正は、なぜに董和がこれほどまで成都の民の人気を攫っているのか、その理由がいまひとつわからない。
董和はたしかに豪族の暴走を抑えようとし、奢侈に偏る一方の風紀を引き締めようと孤軍奮闘をした。
だが、実際には、具体的な功績を残せていない。
もっというならば、董和は、豪族たちの強硬な反対を打ち破ることができず、結果を出すことはできなかったのだ。
だが民は、董和の戦った姿を覚えており、そしていまだに董和を自分たちの味方だと思っている。
実際は、だ。
血と名にこだわり、益州の前進を阻んでいたのは、この自分がやってのけたのだ、と法正は苛立ちを抱きつつ思う。
しかもたった数日。
邪魔な連中は九族皆殺し。
そして誰もいなくなった。
見事なあざやかさ。

なのに誰も褒めてくれないどころか、残酷な執政者としての印象が、世間にすっかり染み付いてしまった。
旧体制にしがみついていた豪族たちが一掃されたからこそ、いまの成都の急速な進歩があるのだ。
それを劉備のほかは、だれも理解しない。
いや、軍師将軍は、大ばか者ではないから、すこしは理解しているようだが、あの若造はずるいので、それを態度や言葉に出さない。
もちろん、益州を救うために奔走し、挙句に兄弟に裏切られて死んだ、親友の張松の復讐のため、という私的な意味も含まれた行動だったのは認めるが。

民は、なーんにも知らない、そして、なーんにもしない癖して、人を批判することばかりは長けている。
そして、こういう陰湿な真似をしてのけるのだ。
衆愚どもめが。
門に石を投げたところで、なんにも変わらぬ。傷ついた門は、直せばいいだけの話だ。こちらにはおまえたちにはない、潤沢な資産というものがあるのだからして。
ふむ、こうした密やかな憤りを共有することで、あの気難しい野生馬を陥落させられるかもしれぬな。
法正は、突破口を見つけられたことに気分をよくして、従者に、尚書令が朝からわざわざ自らやってきたと伝えよと命じた。




羊皮をなめしたものの裏側に描かれた地図らしきものを手にして、九門古城の第二階層をさまよう董和の息子・休昭と、その親友の文偉であるが、いま、完全に迷っていた。
古城はやはり広すぎる。
そして、地図がいい加減すぎる。
ふたりは何度目か突き当たった行き止まりに、苛立ちの声とため息を同時にもらした。
苛立ちの声をあげたのは、意外にもふだんは大人しい休昭のほうで、落胆のため息をもらしたのは、文偉のほうである。
「また行き止まりだね、その地図、やはりおかしいのだよ!」
と、自分が莫迦にされたときでさえ、めったに声を荒げず、しょげるだけの休昭は、人が変わったように、苛立ちを、となりにいる親友にぶつける。
逆にその勢いに押されるようにして、文偉は、地図(らしきもの)を手に、壁と描かれた解読不能な文字の両方を見比べて、気をまぎらせるために髪をくしゃくしゃとかきむしってみせるのだ。

地図かもしれないと思ったときは、これで地上に出られると思ったものだが、どうやらそれほど甘いものではないらしい。
長丁場になりそうだ。
文偉は髪をかきむしる手を止めて、ちらりと、憤る、となりの休昭を見た。
こいつ、意外に短気だったのだな。
休昭はどうやら父親に似て、追い詰められれば追い詰められるほどに、かえって威勢がよくなる傾向であるらしい。
一方、文偉がなぜ元気をなくしているかというと、この地図をもとに古城を脱出しよう、すぐに地上へ出られるぞ、などと楽観的なことを言い出したのが、自分であるからだ。
そして、休昭より年上だから、あれやこれや、責任を負わねば、という気負いがある。

「もしかしてそれ、地図ではないのかもしれないね」
と、ふたりの行く手を阻む壁に悪態をついたあと、すこし気が鎮まったらしい休昭が言った。
二階層には、赤頭巾ほか陳勝らの宮城から脱走してきた囚人たちのほか、まちがいなく、別の何者かが入ってきているらしい。
その証拠に、広大な空間は真っ暗闇ではなく、ところどころに燭が灯されていたからだ。
溶けた蝋の厚さから測るに、別の何者かが古城に潜ってから、そう時間は経ってないようである。
あの首のない、肩に頭のめりこんだような哀れな形天とおぼしき生き物と、それを使役する羌族の人間がそれを置いたのか、それとも、宝をもとめて、日夜、古城に入り込んでいるという悪党たちがそれを置いたのか、判断がつかない。
いまのところ、この蝋燭を置いていった人物(あるいは一行)とは、遭遇していない。
この古城はあまりに広いから、ほかに同じ階層に侵入者がいたとしても、互いに顔を合わせる機会がないのかもしえない。
武器をもたない、そのうえ、戦った経験すらほとんどない、文偉と休昭には、そのほうがありがたかったけれど。

古の奇書・山海経にしるされた形天らしき怪物と、それを使役する男たちもまた、いまのところ、ふたたび二人の前に現れていない。
かれらの仲間から地図を奪い、そのとおりに進むことは、逆にかれらと接触する危険も高めたが、地図のおかげか、それとも形天が暴れた成果なのか、やはり二人はだれにも会わなかった。
どころか、あたりはしんとしていいて、居心地がわるくなるほど静かである。
物音ひとつ立てるのにも神経をつかう。
まして声を出すとなると、ねずみのようにびくびくする始末であったが、しかしそれは文偉だけの話で、休昭はどんどん大胆になっていき、ふだん以上の大声で、古城にわんわんと声を響かせながら、言う。
「思うのだけど、言っていいだろうか」
休昭にたずねられ、あたりの気配を気にしつつ、文偉は答えた。
「声を落とせ。なるべく手短にな」
しかし文偉の意思を汲み取ることなく、空気の読めない十七歳は、あいかわらず声をたかくして、言った。
「それ、地図ではないかもしれないよ」
「なにをおまえ、いまさら」
「だって、その地図はおかしい。ふつう、地図といったら、道が記されているものだろう。けれどこの地図ときたら、わけのわからない四角と、そのなかに、読めない文字が綴られているだけじゃないか。
この地図のいうとおりに進んで、壁に突き当たるのは、これで何度目だっけ?」
「三度目だ」
「いや、今回のを含めて、四度目だよ」
「回数はどっちでもいい。問題は、これが地図かどうか、だろう。たしかにお前の言うとおり、わけのわからぬいびつな四角のなかに、文字だか絵だかがあって、それが並んで、ちょっと地図っぽく見えるものだ、というものは認める。地図ではないかもしれぬ」
「そうだよ。地図ではないかもしれない」
「だが、地図かもしれない。いや、わたしは地図だと思っているよ」
「どうして断言できるのさ。だって、さっきから、迷ってばかりじゃないか」
休昭が口を尖らせると、親友と口論していくなかで、どんどんと冷静さを取り戻してきた文偉は、答えた。
「四角は、おそらくこの階層のあちこちにある石造りの建物を示しているのだ。中に描いてある絵のようなものは、かつて、この石造りの建物がなんの店であったかを教えているのだと思う。
ためしに休昭、おまえ、すぐそこにある建物に入ってみろ」

休昭は、なんなの、といぶかしみながらも、文偉の言葉に従って、石造りの建物を覗き込んだ。
第二階層のあちこちには、ほぼ四角形の石造りの建物が、長屋風にあちこちに並んでいる。
入り口があり、中に入ると、かならず壁には浅彫りの壁画が残されている。
ときには、なかに家具らしいものまで、そのまま残っている建物もあった。

「入ったよ。変なところだな。卓がいくつか並んでいて、それと、瓶やお皿があちこちに転がっている。だれか最近、ここに入って、中のものを動かしたのだね、皿の位置が変わっているよ。埃のあとがくっきり残っているもの」
なかなかの観察力を見せる休昭に満足しつつ、文偉は言った。
「おそらく盗賊の類が、この建物に宝がないか調べたはずみに、皿を動かしたのだろう。ところで休昭、その建物の壁にある絵は、酒店ではないか」
言われて、休昭は顔をあげ、壁にある浅彫りの壁画を見る。
そこかしこに灯された蝋燭の明かりだけが視界の助けである。
「うん、そのようだね。人が卓に座って、料理を食べたり、酒を飲んだりしている。給仕まで描いているや、細かいなあ」
と、感心していた休昭であるが、ふと思いついたらしく、その建物の入り口の横にある、四角い窓からひょいと顔を覗かせて、言った。
「ねえ、どうしてわかったの」
「地図にあるからだ」
文偉は自分の手にした地図を休昭に見せた。
いくつもある四角のなかで、とくに文偉が示すその四角には、中に、酒を意味するものか、瓶と杯が描かれている。
しかしそれを見ても、休昭は納得せず、眉をひそめた。
「偶然ではないの。だいたい、どうしてその四角が、ここを示すものだとわかるのさ」
「たしかに、これまで行き止まりに邪魔をされて右往左往としたけれど、この地図の四角の意味は、実際にある建物の内容とまちがっていない。
となりも見てみろ。きっと、仕立て職人の浅彫りの壁画が見つかるぞ。この地図にも、四角のなかに針と布が描かれている。
おそらく、この建物の群れは、すべて商店だったのだ。
そしてこの地図は、どこにどんな店、あるいは職人がいるかを示すものなのだ」
「ここに人が住んで、生活していたっていうの?」
困惑して尋ねる休昭に、文偉は力強くうなずいた。
「そうとしか考えられぬ」
「墳墓かもしれない。ほら、貴人の墓ほど、あの世でも生前と同じ暮らしができますようにと、墓を住んでいた屋敷とそっくりに作ったり、生活用品をそっくりそのまま入れたり、家人の代用になるように、壁画を描いたり人形を納めたりするじゃないか」
「規模が大きすぎる」
「えらい王様の墓かもしれない。始皇帝とか」
「ここが始皇帝の墳墓宮だとでも? そうではない。いくら始皇帝の力がすさまじいものだったとしても、これほど大掛かりで複雑なものをつくる理由はあるか? 
仮にそうだとしても、宮殿ならともかく、商店をそっくりそのまま再現する意味はあるか」
「ううんと、あの世で生活するときに、不自由しないように、という理由ではないのかな。店があれば、買い物にいけるもの」
「それならば、それこそ壁画だけで済ませればいい話だ。これほど精緻に再現する意味はなんだ。これは巨大な等身大の副葬品などではなく、本物の街だと考えるほうが自然だろう。
それにおまえの理屈でいうならば、酒造さえあれば、飲み屋なんぞ不要なはずだぞ。酒を飲む場所は、あの世にだっていくらでもあるはずだ」
「そうか」
「理由もわからないし、だれかもわからないけれど、ここは人の住む場所だった。そのための商店、そして商店を教えるための地図がこれだ」
「でも行き止まりばっかりの、意地悪な地図だね。なんだか、こんな文様の壁掛けが晴嬰さんのお店にもあった気がするよ」
「晴嬰さんというと、幼宰どのが懇意にしている酒場の女主人か」

文偉が指摘すると、休昭はむっとして、顔をしかめた。
「懇意にしている、だなんてやめてくれ。父上は晴嬰さんによこしまな気持ちは持っていないよ」
文偉はそうかなあ、と思ったが、休昭が父を慕う気持ちは、崇拝と呼んでもいいくらい強烈なものだったことを思い出し、反論するのをやめておいた。
「それがもし地図だったとしても、こんなものを現実に成都の民に渡したら、その日のうちに暴動が起こると思うよ」
言う休昭に、おまえみたいに短気なやつが多いからな、と心の中でつぶやきつつ、文偉は答えた。
「この行き止まりの壁は、あとから作られたものではないのか」
「どういうこと?」
興味をおぼえたのか、さきほどまで柔和な顔に苛立ちを浮かべていた休昭は、建物から出てくると、文偉のとなりに並んで、自分たちの行く手を阻む壁をながめた。
「何度かぶつかる壁だが、この地図には壁の存在が描かれていない。おそらくは、壁はもともとあったものではなくて、あとから作られたものなのだろう。侵入者避けだよ」
「それじゃあ、この地図も、侵入者を惑わせるためのもの?」
「そうではなくて、壁が作られる前に作成されたものの写しなのではないか。さっきからずっと気になっていたのだが、この建物は煉瓦の上に漆喰を塗ったものだ。とても丁寧に作られている。けれど、その壁はちがう。ほら」

言いつつ、文偉は、自分の指の関節で、とびらをこん、と叩いてみた。
とたん、かん、と鐘を鳴らしたような音がひびく。

「なに、この音。土の音ではないよ」
おどろく休昭に、文偉はうなずいた。
「そうだ。この扉は土で出来たものではない。もうひとつ、気になるのは、壁の位置だ。
建物と建物のあいだに、区切りとしてあるのではなく、ひとつの建物を真ん中から真っ二つに割るようにして唐突にある」
「ほんとうだ。あとから壁を作ったのだとしても、なんだか半端な作り方をしたものだね」
「そうかな。筆がないので、地図に壁の位置を書き込めないのが残念だが、壁のある場所には規則があるようだ。
最初の壁、二番目の壁、三番目の壁、そして、この四番目の壁。暗い中でぐるぐる迂回していたから気づかなかったが、みな東西南北にほぼ等間隔であるのだ」
「そうなの?」
「そう。で、壁のある位置をつなぐと、ひとつの円になる。逆に考えると、壁はなにかを隠しているものなのだ」
「もしかして、宝?」

現金に、きらきらと目を輝かせはじめた休昭に、しかし現実主義の文偉は、冷静に頭を振った。
「陳勝さんの話によれば、ここは第二階層で、多くの盗賊が入り込んでいる場所だろう。おまえが隠す人間だったとして、九層もある古城のなかで、わざわざ浅いところに大事な宝を隠すか?」
「裏をかいたのかもしれないよ」
「それはないね。この古城を作ったやつは、われわれの想像もつかないような技術を持った人間だったのだ。
わたしでさえ、この壁の不自然な配置に気づいた。そんなばかばかしい隠し方をするとは思えない」
「そういうものかな。なら、この壁の向こうには、なにがあるのだと思う?」
「階段ではないのか。上にもどるものか、それとも下に潜るものなのかはわからぬが、おそらく秘密の階段があるにちがいない」
「地上に出られるかもしれない、ということ? でも、壁が邪魔だね!」
「ああ、腹が立つほど邪魔だ。だが、この地図にはちゃんとその対策も描いてある。壁の脇の、建物の壁を撫ぜてみろ」

文偉に言われて、休昭は前に進み出ると、自分たちを邪魔する壁の前に立ち、そしてその壁の脇に立つ建物の壁を撫ぜてみた。しばらく撫ぜていた休昭であるが、ふと、手をとめて、文偉を振り返った。
「ここの壁の手触りが変だよ。なんだか、押すと動くみたいだ」
「やっぱりな! ほら、この地図の四角の横に、不自然な手の絵があるのだよ。壁があった場所には、みな同じく奇妙な手の絵がある。よし、恐れるな休昭、そのまま、ぐっ、とやれ!」
「ぐっ、とやったら、そのまま手を食いちぎられてしまう、なんてことはないよね?」
「ないない」
と、軽く答える文偉だが、根拠はなにもない。思いつきで答えているだけである。
休昭が手を強く押し込んでいくと、ちょうど手のひらほどの壁の一部は、小さな摩擦音を立てつつ、静かに建物の内側に吸い込まれていく。
と、同時に、それまで高慢ちきな門衛のように、冷たく二人の前に立ちはだかっていた壁が、音をたてて、なんと天井に吸い込まれていった。

四十話へつづく…
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