捜神三国志・燭龍本紀
第三十八話 中年英雄・再び古城へ
そのころ、うっそうと雑草の生い茂る民家の一角では、ものものしい一団が、闇に隠れてあつまっていた。
蛍のようにちいさなか細い光をたよりに、集まった人間のなかで、どこか葬式に参列している客のような表情になっているのが、晴嬰、長星橋商店街の面々。
それに対して、ほどよい緊張感と興奮とを表情に浮かべて、せっせと出立の準備をしているのが、趙雲、張嶷、祝融の三人。
そしてもう一人、董和だ。
趙雲が古城の入り口ではないかと指摘した、武坦山から程近いところにある廃屋の古井戸に、みなで集まっているのである。
すでに趙雲の話の真偽をたしかめるため、昼間に、長星橋商店街の人間が、派遣されていたが、その者によれば、たしかに話のとおり、この涸れた古井戸の底が、ずいぶん深いということがわかった。
準備は万端。あとは夜陰に乗じて、古城に乗り込むばかりである。
いかなる危険が待ち受けるかわからぬ死地への潜入である。
見送る人間がほがらかであるはずがないのだが、かれらを見送る一行の顔色が冴えないのは、もうひとつ理由がある。
古城に潜る面々そのものに、不安があるのだ。
董和以外の三人の目的は、みごとにばらばらだ。
趙雲の目的は、荊州兵の仇を討つためと、孔明を正気に戻すために古城の謎を探ること。
張嶷の目的は、強くなるため。
祝融の目的は、置き去りになってしまっている仲間を助けるため。
てんでばらばら、三者三様の目的なのである。
行き先が一緒だから、とりあえず同行する、というふうで、もし古城のなかで、かれらが危機に陥ったとき、果たして一致団結してことに当たれるかとなると、あやしいと、晴嬰ほか、長星橋商店街のだれもが思っていた。
さらには、もうひとつ。
かれらからすれば、こうした寄せ集めの三人に、怪我が癒えていない董和が参加することが心配なのである。
董和は、あえて怪我にさわらぬように、鎖帷子といった重装備はせずに、まるで冬場に近所へ出かけるような軽装のうえに、護身用の剣、という姿である。
自分を見つめる晴嬰をはじめ、商店街の面々の顔に、いまにも泣いてしまいそうな表情が浮かんでいるのに気づき、董和は、かれらを励ます意味で、にっこりと微笑みかけたのであるが、かえって逆効果であったようで、商店街の涙もろい一部のおかみさんたちが、悪いことなど、なにひとつなさっていないお方が、おいたわしい、と嘆きはじめた。
「これこれ、涙を拭かぬか。泣き女に見送られるなど、まるで死者のようではないか」
董和としては、場を明るくさせるため、がんばって気の利いた冗談を口にしたつもりだったのだが、そのことばに、ますます一同は顔を崩して、同情たっぷりのまなざしで董和を見つめる。
やれやれ、そんな顔をされると、ほんとうに死出の旅に赴くようではないか。
そも、董和は古城へ潜る予定ではなかったのだが……
おのれの姿をあらためて確認し、不備がないことをたしかめてから、董和は、商店街の面々にはいっこうに気にかけず、もくもくと自分の準備をすすめている、三人の仲間にたずねた。
「万が一のための水、食料、それから蝋燭と火打ち石、それから古城の地図の省略図は持ったな」
「問題ない」
と、これは、人里離れた山野に住まう孤虎を思わせる趙雲が答えた。
古城の地図の省略図は、実際に古城に入った董和と張嶷、そして祝融の記憶をたよりに、おぼえている部分だけを地図にしたものである。
とはいえ、董和も張嶷も、そして祝融も、かなり精神的に混乱していたので、正確さに欠ける、怪しいシロモノだ。
「
持って行くもなにも、動くのに邪魔になるじゃないか。あまり荷物はいらないよ」
ふん、と鼻を鳴らしながら答える祝融に、虫の音の止まぬ闇の草むらのうえで、董和の支度を手伝っていた晴嬰は、負けじと声を尖らせて、答えた。
「また威張っているわ。どういう態度でしょう。あんた、黒イのなかじゃお姫様でしょうけど、ここじゃ、あんたは、きいきいとわがままばっかりわめく、ただの無作法な女よ。
わかっているでしょうね、今日はあくまで『ならし』よ。古城に慣れる、四人に慣れる。そのためには、欲張って奥へ入り込まない。あくまで第一階層でやめておく!」
「蛇みたいにしつこい女だね、何回、くりかえせば気がすむのだい、わかっているよ!」
噛み付くように答える祝融に、晴嬰が言い返そうとしたので、董和は、その肩をやんわりとつかんで、口論になるのを止めさせた。
出発前に、喧嘩は避けたい。
ただでさえ、昼間に派手にやり合っているため、空気が悪いのだから。
ここに来るまでに、すでに何度も衝突があった。
趙雲の目的は明確で、しかも訓練された武人であるから、引き際も心得ており、これはまかせておいて問題ないだろうという安心感がある。
張嶷の目的は、あってないようなもので、ともかくおのれの心身を鍛えるために古城に入れればよいのだから、うるさい要求はまったくないので、これも問題はない。
問題は祝融である。
董和も趙雲も、慎重である、という点では共通していた。
であるから、はじめから、古城の最深部は目指さない、とりあえず、最初に古城に潜るのは、あくまで古城の内部の偵察をすることに留めておき、深入りはしないようにしよう、慣れてきたなら、徐々に最下層へ向かおう、と方針をきめた。
が、それで承服しなかったのが、黒イの姫君・祝融である。
「そんな悠長なことをやっていられるかい。仲間のゾトアオとはぐれてから、すでに何日も経過しているのだよ。
餓えに耐えながら、けんめいにあたしの助けを待っているかもしれないし、運悪く盗賊と出会ってしまい、たった一人で戦っているかもしれない」
「もしそうだったとしたら、残念だけれど、死んでいると思うわ」
と、無情なことをさらりと言ってのけるのは晴嬰である。
義理人情を重んじる晴嬰は、祝融が人質を取る、などという卑怯な手を使ってまでして、古城の入り口を探ろうとしていたことを、まだ許していないのだ。
しかし祝融のほうも負けていない。
その炎のように燃える目でもって、ぎろりと晴嬰をにらみつけると、きっぱりと言った。
「あんたになにがわかるというのだい! ゾトアオは、そう簡単にくたばるような男じゃない。あの男は、すこし単純なところもあるけれど、まちがいなく黒イを背負って立つ男だよ。天があいつを見捨てるはずないのだ!
ともかく、一刻も早く助けに行かねばならない。最初は偵察だけだ、などと、生ぬるいことを言っていられないのだよ!」
祝融の気持ちからすれば、そう主張するのはもっともだとは思ったが、董和はあえてそれに反対した。
「古城には貴女の出会った男たちのほか、盗賊も潜伏しておるし、法尚書令の部曲、荊州兵も入り込んでいる。貴女の境遇には同情するが、われらは方針を崩すつもりはない。
急がば回れということばもあるとおり、あそこは一筋縄ではゆかぬ場所ゆえ、慎重に慎重を期して、古城に潜るのは、段階を踏んだほうがよいと思う。
もし、その方針に従えないというのであれば、貴女はべつの仲間を探されるがよい」
最初に入り口を教えろと武力で迫ってきたときと同じように、祝融はかんしゃくを起こして、また立ち去ってしまうかと思っていた董和であったが、そうではなかった。
祝融は、くやしそうに、そのあざやかに紅い唇を噛みしめつつも、董和の目をまっすぐと見て、言った。
「ひとりでなんとか出来る自信があるなら、わざわざあんたたちの隠れ家に足を運ぶと思うかい? ひとりじゃ無理だと思うからこそ、あんたたちと手を組もうと思ったのじゃないか。
けれど、最初は偵察だというが、そのあとに、作戦だなんだと理由をこじつけて、なにもしないようだったら、あたしはあんたたちのことを、諸葛孔明とやらに密告してやるからね」
「なんて言い草なの。また脅しをするつもりなのね。押しかけてきて、仲間に入れてほしいという人のことばではないわ!」
晴嬰が抗議すると、つり上がった切れ長の目を、さらに尖らせて、祝融は言う。
「おだまり、漢族の女が口をだすな!」
「あなたが誰で、わたしが誰だろうと、礼儀の話に問題はないはずでしょう!」
と、のっけからこんな調子で、晴嬰と祝融は火花を散らしあった。
晴嬰は、普段はあまり口うるさい女でもないし、粘着質な女でもないのだが、この場合は仕方がない。
初対面の印象が、あまりに悪すぎた。
理不尽な暴力によって、たった一人の肉親だった兄を殺されたという過去をもつ晴嬰からしてみれば、祝融のように、ひとつのことにかかるとそれきりになり、目的を果たすためには暴力も辞さないような人間は、もっとも苦手な類の人間なのである。
二人の女の口論は、長くなるので端折るとして、協議した結果、とりあえずは最初の方針どおり、偵察として、趙雲と張嶷と祝融、この三人がまず潜ってみることで、いったん話はまとまった。
古城の中に入ってしまうと、天体のいっさいが見えなくなり、時間の感覚もなくなってしまう。
かれらが深入りしすぎることを懸念し、董和は、とりあえず古井戸から潜って、第二階層への道を見つけたら、地上に戻ってくるようにと指示をした。
趙雲は董和とほぼ変わらぬ年齢であったが、この場の長は董和であると認めたのか、その指示に素直にうなずき、張嶷もおなじく、従うと言った。
しぶしぶと承諾したのは祝融であった。
だが、不意になにかを思いついたらしく、そのうりざね顔に笑みが浮かんだのであるが、董和はそれを見逃さなかった。
祝融は、もともと隠し事のできない性格であるらしい。
浮かんだ笑みを隠すため、顔を袖で隠したのだが、董和はその様子に、不安をおぼえた。
このわがままな姫君は、古城に入ったなら、仲間である二人を説得し、一緒に奥へ入り込もうと誘わないだろうか。
もし姫君がそう懇願してきたとしても、趙子龍のほうはきっぱり断りそうだから、大丈夫だろう。
が、問題は張嶷のほうである。
この若者は気持ちのよい気性の持ち主であるが、正義感がつよく、しかもまだ世間ずれしていないうえに、いかにも女のあしらいに慣れていないふうである。
祝融のほうが、上手だ。
祝融にうまく丸め込まれてしまわないだろうか。
三人のうち二人が、まだ古城に潜ると言い出したなら、さすがに趙子龍も、かれらを放っておけなくなるだろう。
結果として、偵察が、長い冒険に変わってしまうかもしれない。
いや、そもそも趙子龍を、これほど高く評価していて、ほんとうに大丈夫か、という点もある。
かれらが約束どおりに偵察だけで戻ってくるようにするには、どうしたらよいか。
董和は考えた。
かれらにとって、どうしても短時間で地上に戻ってこなくてはならない理由をつくるのだ。
そこで思いついたことが、董和も三人に同行する、ということだった。
もちろん、猛反対を受けた。
鞭の傷はまだ癒えていない。
室内は自由に動けるようになったけれど、傷は塞がったばかりで、戦うことなどできはしない。
「であればこそ、わたしは貴殿らの重石となりうるのだ」
思いとどまれ、無茶だ、と説得してくる一同を見回し、短く言うと、察しのいいところを見せて、趙雲も張嶷も黙り込んだ。
「戦えないわたしを置いて、おのが心の赴くままに振舞える貴殿らではあるまい。わたしは監察役として同行する」
それに、といったん口を閉ざして、それから董和は、息をととのえると、言った。
「ここでこうして、頭を使っているだけだと、気が狂いそうになるのだ。古城にひそむ『得れば必ず天下を取れる宝』。これをだれより早く奪取すると決めたのも、わたしなのであるし、ここで休んでばかりいるわけにもいくまい。
なに、貴殿らの足手まといにはならぬ。戦いになるようなことがあれば、すぐに安全な場所へ逃げることにする。それでどうであろう」
董和の一人息子・休昭は、法正の手によって宮城の牢につながれたままで、その後の消息が知れないでいる。
董和は休昭のことを思うと、実際に気が狂いそうになった。
いますぐにでも立ち上がり、宮城へ押しかけ、牢という牢をまわって息子を探し出したい衝動にかられる。
だが、それはできない。
ここを不用意に動き、法正や孔明に見つかったら、今度こそ、その場で首を取られる。
そして、自分を匿ってくれた長星橋の者たちも、連座の罪に問われてしまうだろう。
そればかりではない。古城の宝をめぐり、さらに争いは激化し、犠牲者が増える。
ここで黙って人を待つより、多少の怪我を押してでも、動いていたほうが、はるかにましなのだ。
そうした董和の心情を察し、趙雲も張嶷も、そして祝融や晴嬰も、もう反対をしなかった。
もちろん、董和とて、かれらの良心に甘えているわけではない。
いざとなったら、命を張る覚悟で古城にのぞむのだ。それくらい、大きく、かけがえのないものを賭けなければ、たくさんの命を吸い込みつづける古城には、太刀打ちできない気がするのだ。
古井戸には、長星橋商店街の面々が、昼間に用意してくれていた縄梯子がある。
燭のあかりで照らしてみるが、底は深く、まったくの闇のようだ。
井戸の底は、たしかにどこか空洞につながっているようで、地の奥底から、不気味なうなり声にも似た、風の音が吹き上がってくる。
董和には、それが古城の呼びかけに聞こえた。
さあ来い、命をとってやる。
そんなふうに悪意に満ちた笑みを浮かべて、古城が誘っているように感じる。
最初に古城に入ったときも、闇の濃さにおびえたが、いまも同じであった。
井戸のへりにかけた両手が震える。が、ここで負けてはならない。
自分から言い出したことなのだ。
勇気をふるって、董和は、縄梯子を慎重に、一段、一段と降りていった。
董和のあとを、趙雲、張嶷、祝融らがつづいた。
早朝から押しかけるのも無作法かと思った法正であるが(対面は気にするのである)、家人のひとりが教えてくれた話にしたがって、かまわず出かけることにした。
向かう先は、馬超の屋敷である。
平西将軍、都亭侯の位を持つ馬超であるが、実際は位がたかいばかりで、ほとんど国政には加わっていない。
馬超が高位を得ているのは、馬超のもつ西涼の騎馬軍団ゆえである。
かれらに敬意を表して、劉備はこの地位を贈ったのだ。
馬超をおそれて遷都すら考えたという、曹操への牽制もあった。
位に見合うだけの禄もあり、しかも負う責任は、同じ位の人間に比べれば、冗談のように軽い。
そして、それを声高に責めるような人間もいない。
泣く子も黙る錦馬超。その名はいまも健在なのだ。
気楽な身分なものだ、と法正は口をひん曲げて、本人が目の前にいることを想像して、思い切り、鼻を鳴らしてみせた。
容姿も性格も男っぷりも、まるで恵まれず、不器用で実直であるがゆえに、何度も挫折を味わいながらも、家柄と才覚と勤勉さ、加えて根性とで文官の頂点に立った法正にとって、容姿も男っぷりも性格も(悪くはない)家柄も才覚も恵まれた馬超は、あまり好きな類の人間ではない。
法正のように、感じが悪いだとか、目つきが悪いだとか、しゃべり方が悪いだとか、声が甲高いとか、キツネだとかというふうに、理不尽な理由で、まったく関係ない、その場に居合わせた、というだけの人間からすら嫌われる、という経験を何度も重ねている者にとっては、馬超は楽をしているように見えるのだ。
運よく、『感じよく』生まれついた男。
たいした苦労もせず、担ぎ上げられて天下に名を広め、大いに大地を席捲したあとは、運よく生きながらえ、いまはうらやましくも遊び暮らしている男。
法正にとっては、それだけ揃えば十分のように思える。
なにに対して十分なのか、といえば、人身御供になることに対してだ。
法正は、昨夜の遅くに、張大人の訪問を受けた。
いつもは傲岸不遜このうえない、年齢不詳の成都の黒社会の支配者は、その夜はどういうわけか低姿勢で、まるで迷子になった子供のように気落ちしてあらわれた。
そして、法正にこう言ったのである。
「尚書令さまは、古城に潜る盗賊どもが、その通行料として、古城で拾った価値のありそうなものを、いくばくか収めてくることはご存知でしょう。
そのなかに、どうやら図讖のことをあらわしているらしい絵図がございまして、解読しましたところ、図讖を解読するための、もうひとつの手段が古城に隠されているようなのでございます」
「まことか!」
法正は目を輝かせた。
図讖(未来予言)の部屋にいっぱいに綴られた、自然と壁から浮き上がってくるふしぎな文字は、漢族のものでもなければ、ほかの民族の文字でもない、だれにも読めないものであった。
そのため、せっかく図讖の部屋を手に入れても、法正は、図讖の恩恵に、一度もあずかっていなかった。
図讖を読めるはずの巫女は、クマのようにでっかい蛮人に攫われてしまい、行方知れず。
法正の未来を磐石のものにしてくれるはずの図讖は、いまの時点では、法正にはさっぱり意味のわからない文字を、いかにも意味ありげに浮き上がらせてくる、ふしぎな部屋にすぎない。
「その手段とやらは、なんなのだ? 張よ、わたしにそれを言うということは、それが隠されている場所はわかっているが、しかしそこまでたどり着くのが苦労だと、そう言いたいのではないか?」
法正が言うと、張大人は、卑屈に上目遣いをしながら、媚びるように、にやりと笑って、
「さすが、お見通しでいらっしゃる」
と、言った。
法正としてみれば、これほど愉快なことはない。
つい最近まで、やくざ者のくせに尚書令たるこの自分に対等であるつもりで振舞っていた男が、いまは自分に頭を下げてくる。
そして気分が海(見たことすらなかったが)のように大きくなって、言った。
「よろしい、兵でも金でも貸してくれよう。首尾よく図讖が読みこなせるようになり、わたしがこの国の宰相となったなら、張よ、そなたにも、なにがしかの役職を与えるつもりだ」
「ありがたきしあわせ」
張はそう言って、深々と頭を下げた。
法正は、ますます気分がよくなる。
「しかし尚書令さま、図讖を得るための手段が隠されているのは、古城の第八階層にございまして」
「八?」
その数字にぎょっとした。
八が末広がりでめでたい数字だから、という理由ではなくて、張が、いつの間にか、古城の最深部の手前にまで到着していたという事実に、である。
法正は、基盤は善良で平凡に出来ている。
これまでの人生のなかで、あまりに裏切りと挫折を多く味わってしまったために、そのときに身に付いた泥が取れないまま、全身を覆ってしまっているのだ。
飛びぬけて残酷になるときもあるが、それは裏切りを受けたときのみに現れる。
基本的には人を純粋に信じているので、裏切られたときの絶望と怒りは、だれよりも深い。
その怒りが癒されないままつづくと、やがては目もくらむほどのつよい熱をともなった憎悪に燃え上がり、憎い相手を焼き殺してしまう。
怒りの原因となるものが消えれば、法正は、あっさりと元に戻る。
怒りの原因のたいがいは、世人も忌み嫌うものであるから、かれはぎりぎりのところで、世間に嫌われてはいるけれど、指弾される立場になることからは免れていた。
法正は、凡人には理解しがたいゆがんだ心をもつ、特殊な人間、というわけではない。
もしそうであったなら、かれは多くを殺していたにちがいないが、怒りが去れば、かれは普段に戻り、そして常識的に人生をつづけていく。
それはともかく、法正は、もともとおだてに弱いのだが(褒められることの少ない人生を歩いてきたからだ)とっさのときには、突然、魔法が解けたかのように、もともとの平凡な部分が表にあらわれて、まともな判断を下す。
このときも、そうであった。
「張よ、おまえはいつの間に、それほど奥に潜っておったのだ。そして、それを、どうしてわたしに報告しなかった」
法正がたずねると、張は、ふだんは笑い顔の仮面をかぶっているかのように、胡散臭い笑み以外の表情を見せない人物にしてはめずらしく、いたずらを見つかった子供のように、笑った。
「申し訳ございませぬ。尚書令さまには、めぼしい収穫を得ましてから、ご報告差し上げようと思っておりました。
尚書令さまは、古城のことのほか、いまはいろいろとお忙しいようでございますから」
「む」
張は、成都のありとあらゆる階層、場所に人脈を持っている。
法正は、いま、劉備が失踪していることを、張が知っているのではと警戒した。
だが、張のほうは、法正の疑惑の目を無視して、言う。
「わたくしの判断で動いておりましたが、限度が来てしまいました。あらためて、尚書令さまのお力の偉大さを思い知った次第でございます。ここは、ぜひ、尚書令さまにご助力をいただきたいと思いまして」
「話による」
今度はおだてには乗らず、法正は警戒したまま、張の話のつづきを待った。
「第八階層には、部屋はひとつしかございませぬ。この部屋には門番がおりまして、これが恐ろしく腕が立つものでして、こやつらに阻まれ、先へ進むことができませぬ」
意味のわからぬ話に、法正は、草むらの向こうにひそむ罠を警戒し、草木の合間からそおっと覗き見するきつねのような顔をして、たずねた。
「待て、話がおかしい。第八階層には人がいるのか? われらの先に古城に潜った者がいるということか?」
「いいえ、人ではございますまい。人の形をしてはおります。見たことも無い頑丈な甲冑を身に纏い、全身を覆っておりますが、そのような姿であるにもかかわらず、まるでむささびのように素早く動きます」
「甲冑で全身を覆っているのなら、人ではないと、どうしてわかる、甲冑を纏っていようが、身軽に振舞える者はおるぞ」
「いいえ、わかります。わたくしの雇いました部曲のひとりが、そやつの兜を抜き取りましたところ、中はがらんどうでございましたから」
「がらんどう?」
「左様でございます。甲冑のなかは、空でございました。しかし、それでも甲冑は動きます。これは人ではございませぬ」
法正は、中身のない甲冑が、ひとりでに動き出して戦いを繰り広げているさまを想像し、ぞっとした。
まだ正体がわかっているなら、たとえそれがどんなに常識はずれなものでも、無理に『そんなものだ』と納得することはできるが、正体がわからないのであれば、どう考えてよいのか、わからない。
「九体の、この甲冑の兵は、とてもではありませぬが、並みの人間では相手にすることができませぬ。
ここはぜひ、尚書令さまのお力を拝借し、成都におります、天下無双の士をお貸しいただけないかと思いまして」
「天下無双の士か」
と、法正の脳裏にまっさきに浮かぶのは張飛であるが、これは劉備の失踪のこともあるので、できれば、いまはあまり関わりたくない。
「馬平西将軍にご助力を願ってはいかがでしょうか」
法正がその存在を思い出すまえに、張が言い出した。
そうか、馬孟起がいたなと、法正は納得した。
馬超は董和がらみで、最近、おのれの派閥の一端に加えた人物で、しかも古城に入ったことがある。
古城の最奥に程近いところにいる、人間ではない何者かと戦えそうな将。
この条件がぴったり揃うとなると、馬超のほかはない。
法正は、張にそのあと、雨あられのようにおだて文句を浴びせられ、すっかりその気になって、馬超を古城へ潜入させることを約束した。
そしていま、馬家へ向かっているのである。