捜神三国志・燭龍本紀

第三十七話 九門古城の深淵にて

闇というものを、はじめてありがたく思った。
闇のおかげで、おそらくそこかしこに転がっているであろう死体を見なくてすむ。
死体ばかりではない。見たくないものを、闇は隠してくれる。
見なければ、まだ勇気を保っていられるのだ。

文偉は、腕を絡ませるようにしてぴったりくっついてくる休昭を、自分もやはり腕で抱えるようにしながら、暗やみのなかを、ゆっくりと進んだ。
ふつうに離れて進んだほうが、ずっと早く進めることはわかっていたが、恐かったのである。
地上の光の差さぬ地下の古城、狂った殺人鬼、盗賊たちと、そして、あの得体の知れない首のない化物。

「あれ、形天というのだよ」
と、小刻みに震えながら、体をぴったりと寄せてくる、寒がりの子犬のような休昭は言った。
「山海経にあったもの。胸に顔があって、首のない化物を形天というのだ」
休昭のことばに、緊張しきっていた文偉は、いささか気が抜けて、間近にいるであろう休昭のほうに、すこしだけ顔を向けた。
「おまえ、山海経なんぞ読んでいるのか。あんな書物、でたらめもよいところだ。市場にあつまっている南蛮の商人どもに、山海経の書いてあることが本当かどうか聞いてみろ、どいつもこいつも、きっと鼻で笑うぞ」
「商人たちは笑うかもしれないけれど、でも形天はいたじゃないか。
ねえ、文偉、この古城は、なんなのだろう。もしかして、まだほかにも、あんな化物がそこかしこに潜んでいるのじゃないだろうか」
おびえる休昭のことばに釣られるようにして、文偉はすばやく周囲に目を走らせ、そして耳をすませた。
運の悪いことに、ちょうど、遠くのほうから、だれかの断末魔が聞こえてきた。
抱えた腕のなかで、休昭が、びくりと身を震わせたのがわかった。
「化物、おおいに結構だ」
文偉は、わざといまの断末魔が聞こえなかったふりをして、つとめてほがらかに言った。
「もし化物がいるのなら、わたしは連中の長に言って」
「長なんているだろうか」
「いるだろう。猿にだって狼にだって長はいるのだもの。まあ、ともかくそいつらの長か、でなくちゃ連中を一ヶ所に集めてだな、国家がいま、どれだけの危機に瀕しているかを懇々と説く。それはもう、連中が泣いて『どうぞお仲間に加えてください』と申し出るまでな。
で、連中だけの分隊をつくって、戦場で暴れまわって、勲功を打ち建ててだな、三公とまではいわんが、ともかく出世して、伯父上を楽にしてさしあげるのだ」
きっとすごいぞ、と想像してみて、その想像があまりに愉快であったので、思わず文偉が笑うと、休昭は、すっかり感心して、言った。
「すごいよ、文偉。ほんとうに、文偉のそういう前向きなところ、尊敬する」

馬鹿にしているのではなく、本気でそう言っている。
気弱なのが玉に瑕だが、口下手であろうと嘘をつくことがないのが、休昭のよいところだ。
文偉はこの親友の誠実さと、父親そっくりの頑固さの両方を、とても気に入っていた。
そうして、二人して、幼い兄弟のようにぴったりと身を寄せあって、しばらく進みつづけた。

二人のゆく道のその両隣には、あきらかに市場の痕だったかのような、石作りの小屋がある。
石の壁や床に掘られた浅彫りの細密な彫刻画からしても、かつてこの古城に多くの人が出入りし、そして実際に暮らし、生活をたてていたことがうかがえる。
こんな太陽の光の差さないところに、どうして暮らす気になったのか、文偉にはわからない。
成都の太陽があんまりのぼらないので、自棄になって,
みずから太陽を見捨てて、地下に篭もった、ある意味、たいへん潔い連中がいたのだろうか。

それはともかく、ここが墳墓ではなく、何者かの生活の場だったとするのなら、第一階層にあがるための階段は、一ヶ所ではないはずだ。
ともかく広すぎる空間だ。
ここに人が大勢いたとして、上にのぼるための階段がひとつきりだったら、あまりに効率も悪いし、不便極まりなかったことだろう。
階段は、すくなくとも東西南北のそれぞれに、四つはあると見てよいのではないか。

ともかく、第一階層に行くことが、文偉の当面の目標であった。
第一階層に行けば、九門古城の名のとおり、九つの出入口があることは確実だ。
つまり外へ脱出できる可能性も、九つになる、ということである。
地上に出たあとのことは、いまは考えまい。
ともかく、いまは第一階層へのぼらねば。

「陳勝親分は無事だったろうか。あと、赤頭巾どのと」
休昭がぽつりと言うのにあわせて、文偉もうなずいた。
「そうだな、二人とも、無事であるといい。恩人なのだから。あんなわけのわからぬ化物に倒されてないと」
いいな、と答えかけて、文偉は、ぎくりと足を止めた。
前方の闇のなかに、なにかがいる。
文偉が足を止めたので、寄り掛かるようにして歩いていた休昭も足を止めたが、おどろいてたずねてきた。
「どうしたの?」
とたん、休昭の声に反応するようにして、闇に佇むその影が、ぴくりと体を震わせたのが見えた。
妙になだらかな輪郭を持つその背中。
そして、頭のあるべきところに頭はない。
さきほどの化物の仲間が、そこにぽつんといるのであった。

「どうしよう、武器は!」
あわてて、逆にしがみついてくる休昭に、文偉はめずらしく年長者らしく、厳しく叱り付けた。
「落ち着け、あわてるな! 武器はなにもないが、先程はやりすごせた。今度だって、大丈夫かもしれぬ」
休昭に言い聞かせるかたちをとってはいたが、そのことばは、おのれに向けたものでもあった。

文偉は、形天が最初に襲ってきたときに、どうして自分たちを無視して行ってしまったのか、その理由を考えていた。
見境なく殺しているわけではないのか?

形天は、どうやら夜目もきくようで、振り返ると、うー、うー、と、熱に浮かされたような声をあげながら、ゆっくりとこちらへ、その長い手を振り回して近づいてくる。
文偉は、とっさに、あたりに武器がないかと調べてみたが、無駄であった。かれらの周囲には、なにもない。
と、あせる文偉の横で、休昭が、こんなことを言った。
「笛だ」
「なんだ、休昭、この期におよんで笛などと」
この大人しい少年の唯一ともいっていい、他人に自慢できる特技が笛なのである。
「ちがうよ。さっきもちらっと聞こえたのだけれど、風の音かと思っていた。よく耳をすませてみてよ。聞こえてくるから」
まさか、錯乱したのじゃあるまいな。
徐々に距離を詰めてくる形天を気にしつつ、文偉はいわれるまま、耳をすませて、笛の音をさぐった。
すると、おどろいたことに、空耳ではなくはっきりと、ぴいい、ぴいい、と笛の音が聞こえてきたのである。
「だれかが呼んでいるのだろうか。盗賊の合図で集まれとか」
「いや、もしそんな合図があるのであれば、陳勝さんのことだから、わたしたちにも教えてくれただろう」
「すると?」
「ねえ、さっき、こいつ、わたしたちを襲わずに知らぬ顔をして行ってしまったじゃないか。あれってなぜだろうと、ずっと考えていたのだけれど」

休昭は、怯えつつも、どこかで冷静だ。
休昭は、世間知らずなだけで、ほんとうは、かなり大胆なやつなのではないか、と文偉は思うときがある。
休昭は、土壇場まで追い詰められると、かえって父親そっくりの冷静沈着ぶりを見せるのだ。
いまがそうだった。

「音に反応しているのじゃないかな」
「音?」
「そうだよ。さっきは、わたしが倒れてしまったので、二人して声も上げられずに震えるばかりだったが、かえってそれがよかったのだ。音が消えてしまったので、だからこいつは目標がなくなったと思い込み、行ってしまったのだ」
言いつつ、休昭は、文偉からすこしだけ身を離すと、近くにあった石を持って、わざと音が鳴るように、石の壁にぶつけてみた。
すると、その音のほうへ、形天は振り返り、やはりうーうーとうなりながら、そちらへ向かっていく。
やはり、と思ったのもつかの間、形天は、しばらくすると、また向きをかえて、文偉たちのほうへ向かってきた。

「音ではないのではないか。偶然だろう!」
文偉が言うと、しかし休昭はきっぱりと答えた。
「いや、音だよ。あの笛だ! さっきより近くで聞こえる。きっとわたしたちのことが見えていて、こいつを笛で操っているのじゃないか。曲芸師みたいにさ」
言われてみればたしかに、かつて市場で、そんな大道芸を見せてくれた芸人がいたことを、文偉は思い出してた。
しかし操っていた動物は、猿だったが。
「笛を吹いているやつを見つけるのだ、こっちだよ!」
こうなると、文偉よりもずっと耳のよい休昭のほうが頼りになる。
いままでは、文偉が休昭をひっぱっていたが、いまは休昭が文偉をひっぱっていた。

足音を殺しながら、休昭と文偉は、形天らを気にしつつ、闇を移動した。
たったひとつのよすがは、笛の音である。
不気味に静まり返った古城のなかで、もともと楽才のある耳のよい休昭には、かすかな風の音にまぎれる笛の音を聞き分けることなど、なんの造作もなかった。
ふたりはたがいに離れ離れにならぬように気をつけながら、笛の音の出所へむかった。

形天を何者かがあやつっているというのなら、自分たちの姿をどこかで見ている者も、すぐそばにいるはずである。
遠くないであろうと思っていた文偉であるが、ふと、休昭が足を止めた。
どうしたのだ、と尋ねようとして、休昭は、苔生した壁を背後にして、振り向くと、声をださぬようにと仕草で伝えてきた。
薄闇のなか、文偉がうなずくと、休昭は、そおっと頭上を指さす。
九門古城の構造がどうなっているのか、文偉にはわからない。
どれほど地上から離れているのかも不明だ。
しかし、古城はふしぎなことに、近くに篝火が灯されているわけでもなく、月のように闇に光をもたらすものもないのに、真の闇につつまれる、ということがなかった。
どこからか光がもたらされているのか、かすかに明るく、視界を保ちやすいのである。
文偉も休昭も、照明にかわるものは、なにひとつ持っていない。
しかし、闇のなか、目を懲らせば、休昭が指をさす先に、はっきりと、なにものかが、石作りの長屋ふうの建築物の屋上に、屈んでいるのが見えた。

笛の音が途切れた理由に、文偉は気づいた。
おそらく、この笛の奏者は、屋上から地上を見下ろして、形天を操作していたのである。
ところが、休昭と文偉が死角に入ってしまったのだ。
だからこそ、笛を止めた。
見ていると、やがて、屋上にいた何者かは、目標を探すためか、あるいは操っている形天を見るためか、立ち上がった。
文偉には、異形の化物をあやつる者が、いったいどんな姿をしている何者なのか、まったく想像がつけないでいた。
おなじような化物であるのか。
立ち上がった影は、子供のように低い。
きょろきょろと、下の様子をうかがっているようだ。

さて、こいつから笛を奪わねばならない。どうやって屋上にのぼったものか。
思案していると、また休昭が、自分にむかって、なにやら手で訴えているのに気が付いた。屋上と、そして自分の肩を交互に指さしている。
どうやら、自分の肩を踏み台にして、屋上にのぼれと言っているようである。
文偉は、屋上の高さを測った。
さほど高くない。
文偉は太っていなかったから、どちらかというと小柄でやせっぽちの休昭を踏み台にしても、さして休昭の負担にもならないだろうし、うまく屋上に登れそうだと思った。
貧乏もいいものである。
おかげで痩せている。おかげで屋上にのぼれる!

文偉は、休昭に、わかった、というふうにうなずくと、すぐさま了承して、身をかがめた休昭に、肩車をしてもらう格好になった。
休昭はよく踏張り、中腰になると、壁に手をついて、土台になる。
文偉は休昭の肩で慎重に立ち上がり、壁のその果て、屋上を手さぐりで探した。
やがてその手が屋上にかかると、文偉は、心のなかで、もうすぐだからと休昭をはげましながら、屋上にかけた両手にぐっと力をこめた。
そして、勢いをつけて、腕の力だけで屋上に這い上ると、音を立てないように気をつけながら、いまだ下を覗き込んでいる笛の奏者の背後に、ゆっくりと近付く。
笛の奏者は、近付いてみれば、文偉の胸のあたりくらいまでしか背丈がなかった。
女だったら傷つけたくないな、などと考えたが、さらによく近付いて、じっとその体付きを見て、安心した。
すぐそばで、自分に背を向けているこの人物は、どうやら男である。
がっしりとした体付きで、子供でもない。
背が低いということをのぞけば、体が出来上がっており、柔らかさがない。

ならば、遠慮はいらない。
文偉は、気合いの篭もった一声をあげると、男の背を、おもいきり両手でどん、と押した。
男は、ちいさい悲鳴をあげると、どすん、と重い音をたてて地上へ落ちた。
文偉は足元を探ったが、そこになにもないとわかると、地上で待つ休昭に、すぐに指示を送った。
「休昭、落ちたぞ、笛もそっちだ!」
休昭が、指示どおりに、すぐに男が落ちたほうに回ったのが、足音でわかった。
が、屋上で見ていた文偉は、すぐに凍り付いた。
投げた石に気をとられてさまよっていた形天が、男が落ちた音で、こちらに向かってきたのである。
「休昭、逃げろ、さっきのやつが来たぞ!」
地上にいた休昭も、男のすぐそばに屈んでいたが、形天が、ゆらり、ゆらりと身を揺らしながらこちらに向かっているのを見たようである。
しかし、休昭は動かなかった。
足がすくんでしまったのか、と思った文偉であるが、そうではない。
思いもかけなかったことに、休昭は、闇のなか、倒れてぴくりともしない男の体を手探りでまさぐり、笛を見つけようとしているのだ。
「早く!」
しかし休昭は混乱のなかにあるのか、男の体から離れようとしない。
文偉は、屋上にいるまま、形天と、休昭の、その両方を見比べながら、どうするか迷った。
もう一度、形天の気をそらすしかない。
しかし、もう手元には、石つぶてはない。

足が折れませんように!
亡くなった父母や、祖霊、名前の知っている神々、そのほかもろもろの名を一気に思い浮かべながら、文偉は地上へと飛び立った。
足の裏に石畳の感触をおぼえるのと同時に、痛みと痺れが襲ってくる。
ひやりとしたが、すぐに足が動くことがわかり、ほっとした。
とりあえずは、折れていないようである。
形天は、文偉のたてた、あたらしい物音に気づいて、ゆっくりと向きを変えてくる。
首のない、顔が胸にのめり込んでいる、気の毒なほど不気味な姿をした化物だ。
近くで見れば、頭頂から生えているかのような腕の不恰好な長さも、胴体の平ぺったい大きさにくらべて、足が短く見えるのも、よくわかった。
しかし、人間と同じように、急所は、間に合せのように、ぼろ布で隠されている。
こいつ、耳はよさそうだけれど、頭のほうはだめだな、と文偉は思った。
にらみつけてみたが、形天は、自分のほうが力が強いことがわかっているのか、それとも見えていないのか、まったくひるまない。
どちらにしろ、いまの自分がしなければならないことは、休昭を、なるべくこの化物から引き離すことだ。
どうしているかと気にして見れば、休昭は、呆れた根気づよさを見せて、まだ笛を探しているようだ。

「逃げろって言っているだろう!」
怒鳴ると、その声に反応したのか、形天が大きく手を振り上げてきた。
しまった!
形天のおそるべき腕力は、さきほど、嫌というほど見せ付けられていた。
一撃で人間の頭を容易に潰せるのである。
しかもうす闇なので、相手の拳がどの位置にあり、どれくらいの速さで落ちてくるのか、測りづらい。
ええい、どうであれ、逃げてやる!
文偉は決意し、懸命に後ずさった、つもりであったが、しかし恐怖心は、文偉の心をうらぎって、体を縛り付けていた。
自分で自分の体が信じられなくなるくらいに、遅い。
だめだ、やられる。

覚悟したそのとき、笛の音が聞こえてきた。
すこしかすれた音であったが、その音により、拳を途中まで振り上げていた形天は、見事なまでに、ぴたりと動作を止めた。
そして、なぜなのかと、問うかのように、笛の奏者のほうを見る。
文偉はほっとした。
休昭が笛を探りあてたのだ。
が、問題は次だ。
笛の使い方がわからない。
攻撃を命令する吹き方か、攻撃を止めさせる吹き方、操るかぎりは、いろいろとあるはずであるが、それがわからないのである。
休昭は、乾飯に食らい付くようにして、その奇妙な土笛を手にしていたが、やがて口を離して、言った。
「どうしよう」
こういうところは、休昭だ。
「どうもこうもあるか。こいつをこのままにして、逃げよう。
というか、余分に吹くなよ、休昭。下手をすると、攻撃を命令する吹き方になってしまうかもしれぬからな」
自分で言って、文偉はぞっとした。
たしかに運がよかった。
休昭が闇の中で笛を見つけられたこともそうだし、たまたま吹いたその吹き方が、攻撃を止めさせるものだったことも幸運だったのだ。

「あっちにいけ、とか、帰れ、とか、そういう吹き方はできないかな?」
休昭は困り顔で言うが、文偉も困っていた。
困っているのは形天も同じで、撲殺しようとしていた文偉と、笛の奏者である休昭を、交互に見比べている。
そういう仕草は、妙に人間らしくて、かえって不気味だ。
「研究している暇はない! というか、逃げるぞ、休昭。さっきはどう吹いた」
「どうもこうも、ひと吹きしただけだよ」
と、もう一度吹こうとするのを、あわてて文偉は止めた。
「待て、やめておけ、危ないからな。ともかく、こいつは笛を吹く相手には何もしないはずだ。そいつを手放すな」
「どうして何もしない、なんてわかるの」
「猛獣使いはそういうものだからだ。ともかく、こいつにはここに残ってもらおう。逃げるぞ。けど」
「けど?」
「そいつ、ほかになにか持っていないか? 食物か、水か」
「ああ、そうだね、うん、待っていて、探してみる」

休昭はこくりとうなずくと、ふたたび気絶している男の体をさぐる。
文偉は、形天のほうを気にしながら、休昭のほうへと寄っていった。
男はすっかりのびてしまい、起き上がる気配もない。
死んだのかな、とすこしいやな気持ちになったが、のび切った男の脈を測ってみて、ただ気絶しているだけだとわかって、ほっとした。
男の顔を覗き込み、文偉は、漢族ではないことに、すぐに気づいた。
ずんぐりとした丸い目鼻立ちをした男である。
気絶しているから余計にそう思うのか、形天のような化物を操っている凶悪な人間には見えない。
形天はというと、ふりかえると、一度、合図があったきり、なにも合図がないので、飽きてしまったのか、不満そうにうー、うー、とうなり声をあげながら、ゆっくりと文偉たちから離れていく。

とりあえずの危機は去った。
だが、形天は、一体だけではない。
そして、かれらを操る笛の奏者も、いま気絶している男ひとりとはかぎらないだろう。
「水もなにもないね」
と、落胆して、休昭が言う。
文偉もがっかりしたが、しかし、すぐに別の可能性に思い当り、気持ちを明るくした。
水も食料も持たないまま、補給できる場所がない(ように思われる)ところへ単独で入ってくる。
つまり逆に考えれば、補給できる場所から、思ったよりも早く移動できる、ということではないのか。
そうでなければ、この古城のなかに、食料か、あるいは水がある、ということである。

よし、移動しよう、と声をかけようとしたそのとき、休昭が、声を裏返しにして、言った。
「文偉、暗くて読めないけれど、もしかして、これ、地図じゃないかな?」
「ほんとうか?」
休昭が探りあてたそれは、羊の皮をなめして紙の代わりにしたものであった。
暗すぎて詳細は読み取れないが、たしかにそこには、なにかの絵か記号が綴られている。
地上へ戻るための地図ではないのか。

興奮を押さえつつ、文偉は親友に言った。
「行こう、明かりのある場所に行くのだ。陳勝さんが言ってただろう、このあたりまでだったら、盗賊たちは入り込んでいる。
つまり、蝋燭を持って入っているはずなのだ。どこかに、使いかけの蝋燭が残っているかもしれない。それでこれを読む」
「そうしたら、地上に戻れるね」
そう応じる休昭の顔もまた、暗がりではっきり見えなかったが、喜びに満ちているように感じられた。




文偉と休昭たちがいる闇よりも、なお濃く深い闇のなかに、うごめく人影がある。
まとわりつくような闇のなか、武装した男たちが、足音を殺して、前へと進む。
彼らの表情からは、思い詰めたような真剣さが読み取れる。
数は多くはない。
かれらが足を運んでいる、その場所も狭かった。
もしもその場に陽光があたることがあったなら、その柱、床、階段、天井に至るまで、びっしりと描きこまれた文様や壁画の数々に圧倒されたことだろう。
まるで空白を恐れたかのように、あるいは、人の手が入らないことを忌避したかのように、ありとあらゆる場所に、なんらかの装飾がほどこされている。
見ていて、息苦しくなるほどに。

闇のなか、ひたひたと続いていた足音が止まる。
目的地にたどりついたのだった。
先頭にいた男の前には、この装飾にあふれた空間のなかでも、とくに目を引く華やかな意匠に取り囲まれた扉がある。
浅彫りの見事な文様に沈むようにしてあるその扉のまえで、男たちは、たがいに声を発することなく、つぎの合図を待った。

かれらは部曲ではない。流れ者でもない。
この地に辿り着くまでに、ともに艱難辛苦をともにした、古い絆で結ばれた戦士たちである。
かれらは待っていた。
合図が下されるのを。
やがて、後方から、ゆっくりと近付いてきた、背のひょろりとした男が、扉の前にいる男に静かに命令をする。
「ゆけ」
男の命令を聞き慣れていた男たちも、男の声が、いつになく緊張していたことに気付いたことだろう。
それほど、この扉を開けることは、かれらにとって重要だった。
それも当然で、この扉の前に立つまで、どれほどの時間と命を犠牲にしたことか。
闇雲に突進するだけではなにもできない。策略が必要だ。
そうしてかれらは地上のありふれた生活のなかに潜伏し、夜陰にまぎれて集まり、一歩でも前へと進もうとした。

なにがあるのかは、わかっている。
どうしても手に入れなければならない。
犠牲にしてきたもののことを考えれば、かれらはあとには引けないのだ。

扉がゆっくりと開かれる。
鍵はかかっていなかった。かける必要がないのだ。
「盾を」
男が、最前列の男に注意を促す。
扉の隙間から、中へと足を踏み入れようとしていた男は、その声に気付いて、盾を前方にかざしたが、まさにその瞬間、がん、とすさまじい轟音とともに、盾をめがけて斧が打ち込まれた。
いきなりまともに攻撃を食らうと思っていなかったことで、最前列の男はひるみ、後退しようとしたが、斧は青銅の盾から刃を離すと、ふたたび容赦なく、ガン、と攻撃を叩きつけてくる。
たったの二撃で、青銅の盾はすでに盾としての役目を果たせなくなっていた。
「だめだ、いったん」
退け、と最前列の男が、後方の仲間に告げようとした、まさにそのとき、半端に開いていた扉の端を、鋼鉄におおわれた指先がつかんだ。

かれらではない。
かれらが前に進もうとしている、その部屋の向こう側にいる何者かが、開かれた扉に手をかけているのだ。
こんな地下の最奥ともいうべき場所に、自分たちのほかに人がいる?
恐怖とおどろきで凍り付くかれらの目線を一身にあつめて、扉は、内側から開かれる。
最初に冷静さを取り戻したのは、最後尾にいる男であった。
扉が開き切らないうちに、叫ぶ。
「退け! 後退だ!」
男の命令を聞き慣れていた男たちであるが、それでもやはり、すぐには動きだせなかった。
むしろ、男の鋭いその声に反応するようにして、中にいたそれが、かれらに目掛けて飛び出してきた。
いや、あふれた、といったほうが、表現としては正しかったかもしれない。

思いもかけないモノが、部屋の内部より飛び出してきた。
全身を、鋼鉄の鎧にに覆われた兵士である。
なにより、その鋼鉄の、傷ひとつないうつくしくなめらかな鎧にも驚きであったが、もっと驚きであったのは、その鋼鉄の鎧の兵士たちの、見た目を裏切る猿のような素早さであった。

扉の内部からあふれ出したかれらは、雄叫びをあげることなく、じつに整然と、その部屋にいた男たちを、つぎつぎと屠っていった。
男たちは、歴戦の勇である。
最初、彼らは地元の県令の軍と戦い、つづいて州の軍と戦い、つぎには討伐軍と戦った。
地上のほとんどの軍が、かれらの敵であった。
孤立無援の状態になっても、彼らはひるむことなく戦い抜けてきた。

だが、いま目の前にしている敵は、これまで刃を交えてきたなかでも、異質である。
動きがまるで読めない。
獣のように俊敏だが、人間の形をしている。
けれど獣と同じように狡猾で、動きに無駄がなにもない。
目についたものを片っ端から殺していく。
殺す方法にも、まるでこだわりがない。
すでに息絶えた人間の体にさえ、まだ斬り付けている者もいる。
そうしたところが、人間の形をしているが、人間らしくない。

「退け! 退け!」
男たちに命令しながら、男は歯軋りをした。
羌族が頑張って退こうとしなかった、第六階層。
それをようやく、連中をうまくいいくるめて空にすることができた。
難なく第六階層を進み、つづいて、第七階層も切り抜けた。
のこりは二つ。
まだ先に、こんな罠があるとは。

襲ってくる、鋼鉄の兵士たちが何者で、そしてどんな古城の呪いでもって、ここで戦っているのか、そこに男は興味をおぼえない。
男がほしいものは、かれらの守ろうとしているもの、そのものである。
どちらにしろ、いまは退かねば駄目だ。
あまりに準備が足りなかった。

鋼鉄の兵の数は、どういう意味をもたせているのか、これも九体であった。
かつて栄え、そして滅んだ王朝は、九という数字になにかしら深い関わりをもっていたのかもしれないが、それすらもどうでもいいことだ。
協力者が必要だ。
自分たちの目的や動機を深くさぐらない、単純な、しかし戦うことそのものに純粋な喜びを見いだせる者。

その血肉を鋼鉄の兵士たちに捧げ、先へ進むのだ。
第八層へ。

三十八話へつづく…
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