捜神三国志・燭龍本紀
第三十四話 白い部屋の黒イの長
闇のなか、ゾトアオは、薄い氷の張った水のうえに足をのせるときのように、こわごわと、慎重に、そのつま先を、まず触れさせた。
熊のような大男であるゾトアオが、こわごわと階段に足をのせるさまは、はたから見れば、さぞかし滑稽な見ものであっただろう。
ゾトアオの背後には、ぴったりとくっついている僚人の寧寧がいる。
つま先の感触からすれば、階段の感触は固く、周囲の壁とおなじく、石で組んであるらしい。
ゾトアオが慎重に足を進めているのは、真っ暗闇のなかで、さらに地下へとつづくその階段が、脆く壊れやすいものでないかを確かめるためであった。
この古城は得たいがしれない。
あちこちに奇妙な仕掛けがありすぎる。
地下に九つの階層がある、という噂であるが、その最奥へ向かうための道だとしても、素直にこれまでどおりの階段だと思うのは甘いと、ゾトアオは考えていた。
ちらりと、寧寧を振り返り、さらに、寧寧の背後にある水路の走る空間を見る。
まったく陽のささない空間には、いったいどこからもたらされているのか、ぼんやりと、した光のようなものが漂っていた。
長くそのなかにいると、目が疲れてくるほどであるが、晴れた満月の夜よりも、だいぶましなほど明るいのは不思議である。
口を利く銅の人形や、漕ぎ手のないのにかってに動き出す筏のことを考えれば、こうした不思議な光も、古城の魔法のひとつなのかもしれない。
水路のある空間から一転、地下にのびる階段は、漆黒の闇につつまれていて、階段の段差がどれほどあるのかわからないこともあり、どうしても歩みがのろくなる。
階段の幅は、ゾトアオが軽く腕を伸ばせば、すぐに両端に手が届くほどの狭さである。
慎重に、慎重にと足を進めるゾトアオの、そのうしろから、やはりそろそろと、寧寧がついてくる。
寧寧は、ゾトアオの衣の背中をしっかり掴んでいて、けっしてはぐれてなるものかという必死の表情を浮かべていた。
馴染んだ故郷から、騙しされて成都に連れてこられ、すぐに不気味な古城の一室に閉じ込められていたのだから、必死になるのも仕方がない。
ゾトアオは、医者の息子として、陽の差さない、清潔とはいいがたい空間に長くいたために、やせ細り、肌がひどくあれている寧寧を見て、はやく地上に返してやりたいと思った。
そして、早く故郷へ返してやりたい。
それは、おなじ蛮族同士のための同情からくるものではなく、ゾトアオの優しさからくる気持ちである。
ゾトアオは、鼻孔をひくひくと動かしながら、階段を降りて行った。
というのも、さきほどから、階段を一段降りるごとに、植物独特の、青臭いかおりがつよくなってきているのである。
地上にある洞窟にも、食べることができる苔がある。
似たような植物が、この先の地下にあるのかもしれない。
そうであってくれればと、足を進めるたびに、祈るような気持ちにすらなってきた。
寧寧のことがなくても、ゾトアオもまた、腹が減って仕方がなかったのである。
水は、たんまりとある。溺れそうなほどにある。
しかも清い水なのだから、そこは恵まれている。
が、水だけでは力がでない。
この広大すぎる妖しい古城から地上に出るためには、腹を満たしてくれる食物は必須であった。
そうして、おっかなびっくりと足を進めていくうちに、段がつきた。
と、同時に、平面に降り立ったゾトアオは、四方八方から押し寄せるようにして漂ってくる、強烈な甘い匂いに、思わずむせた。
むせながら、寧寧がちゃんとついてきているかを確かめつつ、闇の中を手探りしながら、すり足で動いてく。
そうしてすすむうちに、手が、がつんと木の幹のようなものに当たった。
これまでゾトアオが目にしてきたものの大半は、石か金属でできているものばかりであったから、手に触れた木の感触は、新鮮なものに感じられた。
とはいえ、行き止まりというのは困るな、と思いながら、この木の感触をつたえてくるものはなんだろうと、そろそろと両手を動かして、撫でさするようにしてその表面を動かしてみる。
やがて、ちょうど自分の腰あたりの位置に、金属の輪のようなものをみつけた。
取っ手である。
これは、扉なのか?
ふしぎに思いながら、扉を開けようとするが、これが重い。
すこしだけ隙間が開くのだが、なかなか手前に動かない。
扉の隙間からは、わずかに光が射している。
光のある空間が、この先に広がっているようだ。
重い扉に悪戦苦闘するゾトアオを見て、それまで背後で大人しく見守っていた寧寧も、ゾトアオといっしょに並んで、扉を押し始めた。
その甲斐あってか、扉はゆっくりと前進をはじめた。
ざわざわと、扉がまえに進むにつれ、奇妙な音が聞こえる。
なんだろうとゾトアオが扉の隙間を見れば、蔦である。
この扉は、かなりの長期間、使われずに放置されており、この先の空間に生えている植物によって、塞がれてしまっているようだった。
ゾトアオは、扉が閉まらないように肩で押さえつけながら、剣を抜くと、その切っ先で、蔦を切っていった。
ぶちぶちと音を立てながら、蔦は扉を開放していく。
同時に扉も前進をしていくのであるが、漏れてくる甘い匂いもまた、強烈なものになっていった。
果実の匂いより、さらにきつく、嗅覚をくるわせ、吐き気さえ催させるにおいである。
「くそっ」
ゾトアオは悪態をつきながら、懐から二枚の布を取り出すと、一枚を寧寧に渡し、そして、もう一枚でおのれの鼻と口を覆い、後頭部で布の両端をそれぞれ結び合わせた。
ゾトアオが覆面をしたのを見て、寧寧もまた、それに合わせる。
頑固に絡んでいた蔦を刈り取ってしまえば、扉は、あとは素直に開いた。
それでも慎重に身をすべらせ、安全を確認してから、寧寧も扉をくぐらせる。
扉は手を離すと、惰性でまた元の位置に戻ったのであるが、完全に閉じられてしまってから、寧寧が、悲鳴にも似た声をあげた。
「この扉、こっち側に取っ手がないわ!」
たしかにそのとおりで、扉には、取っ手どころか、手をかけるための凹みすら存在せず、その周囲の壁と動揺に、まったくの平面であった。
しかも厄介なことに、壁と扉の隙間は、辛うじて刃の一枚は通せるほどの部分しかなく、部屋の内側に入ってしまえば、外には出られないように仕掛けがしてあったのだ。
「閉じこめられた、か?」
自分で口にして、事態の重さに、ゾトアオはぞっとした。
水のある空間に閉じ込められたほうが、まだなんとか生きて還れる可能性があった。
すくなくとも、上階は、確実に地上に出られる通路とつながっていた。
だからこそ、彭恙だの法正だの、張大人だのがいたのだ。
だが、ここが、どこにもつながっていない空間だったら、どうだ。ここが二人にとっての、巨大な棺桶になる可能性はないか。
ゾトアオは寧寧の手前、恐怖に負けまいと、必死に心のなかで、おのれをはげましながら、部屋を見回した。
上階とおなじく、まったく陽の差さない地下でありながら、どこからか明かりが漏れており、それが全体をぼんやりと照らしている。
壁もまた、上階とおなじく石造りになっていて、組まれた石の大きさは完璧といっていいほどに均等で、石と石の組みあがり方は、針をも通すまいとしているようにぴったりとくっついていた。
壁面に凸凹したところもなく、鏡面のようになめらかである。
ただ、上階とちがっていたことは、そこに水路がない、ということだけではなく、そのそこかしこに、植物が生えていることであった。
ゾトアオは医者の息子として育てられたから、山野に行っては、両親とともに薬草を摘むのが日課であった。
そのときに、あらかたの薬草の知識は得ている。
神農がかつてそうしたと伝説にあるように、ゾトアオもまた、目についた植物のほとんどは、みずから口にして、舌でそれを覚えていた。
だが、壁面を中心に生えている蔦や苔、そして床の隙間から突き抜けて映えている羊歯のような植物のどれを見ても、いままで見たことのないものばかりであった。
ともかく、葉の大きさにしても蔦の太さにしても、花らしいもの(色が緑色であるが、花弁そっくりの形をしていた)の形状にしても、大きすぎる。
花らしいものの中央にあるおしべなどは、ゾトアオの腕ほどの大きさと太さを持っていた。
そして、それには綿のような胞子とぬらぬらと気味の悪いねばりを見せる液体がびっしりとついていて、甘い香りの正体は、そこであった。
植物があるのなら、水もあるはずだ。
飢えと、閉じこめられたことへの恐怖がこれ以上、自分のなかで大きくならないように気をつけながら、ゾトアオは自分を納得させるように言いきかせた。
部屋の大きさは一軒の家ほどあり、その空間の先には、扉のない出入り口がある。
足を進めると、さらにその先に、同じような部屋が続いており、やはり扉のない出入り口があって、またさらには、似たような空間があった。
閉鎖された場所ではないらしい。
出入り口は、ときに、植物がその行く手を阻んでいる。
それを刈り取りながら、ゾトアオは寧寧を従えて、前に進んだ。
次第に歩みが大胆になっていったのは、植物の茂り方から、この空間に人間が入っていないことがわかったからである。
襲われる心配がないとわかった以上、まったくの暗闇にいるわけではないのだから、そうおびえて歩くこともないわけだ。
「なにか、食べられるものがあるといいわね」
と言いながら、寧寧は、ときどき、大きすぎるうえに、甘ったるい異臭をはなつ植物を、大胆に手で掴んで、折ったり、もいで匂いをかいだりした。
ゾトアオは、植物の持つ毒のおそろしさも知っている。
だから、寧寧が食欲に負けておこなう、そうした冒険をやめさせるのだが、寧寧は、もともとがいたずら好きであるらしく、追っ手がやって来ようのない空間でくつろいだのか、子供のように笑いながら、なかなか言うことを聞かなかった。
呑気な女である。とはいえ、どこか憎めない。
けして美人というわけではないが、愛嬌があるのだ。
そうして歩き続けていくうちに、ゾトアオは、水音を聞いた。
雫が垂れるような音ではなく、上階で聞いたのとおなじ、せせらぎの音である。
ここにも水路があるのなら、餓死する可能性は、ぐっと減る。
期待して水音を目標に足を進めていくと、やがて、部屋と部屋の連鎖は途切れて、おどろいたことに、上階から水が流れ落ちる、井戸のような水路に行き当たった。
泉でも井戸でもない。水を溜めておくためのものではなく、上階の水路の一部が、さらに地下へとつづいているのだ。
天井から水の降り注ぐ、滝のようなものである。
白いしぶきをあげて、絶え間なく落ちる水をまえに、ゾトアオはしばし、言葉を失った。
あらためて、この空間を含めた九門古城の、その存在の意味が、わからなくなってきたのである。
いったい、ここは、なんなのか。
ほんとうに、宝を隠すためだけの場所か?
むかしの王の墳墓か?
それにしては、複雑すぎる構造で、生きるために必要なものの最低限が揃っているのは、どういうことか。
『だれかが住んでいた』
そう考えるのが自然のように思われる。
とはいえ、この空間を見る限り、生活の気配は残されていない。
もしかしたら、賊がじつは、この階層にまで降りてきていて、本来ならそこにあった数々の生活必需品を略奪しつくしていた、というのならわかるが。
『それはないだろうな。人の足が入ったにしては、植物が我がもの顔をしすぎている。
ここは、大勢の人間が、最近に入ったことのない場所だ。それに、もしだれかが住んでいたとしたら、寝台だの机だのが残されていてもおかしくないが、なにもない』
第一階層もやはり、このように部屋があり、廊下があって、そこには、寝台や机を思わせる石造りの四角い『なにか』があった。
が、ここには、家具の類いは、なにもない。
『細かく仕切られているこの空間が、部屋とは限らんか。倉庫であったのかもしれない。
もし地上から追われた集団がいて、地下に逃げこんだとき、ふつうはどこに住もうとする。やはり、いちばん地上に近いところに住もうとするのではないか。
この九門古城は、第一階層から地下に潜るたびに、だんだんと狭くなっているということだった。第一階層に人が住み、この空間は、倉庫だったのかもしれないな』
そんな想像を働かせながら、ふと、ゾトアオの脳裏に浮かんだのは、幼少のころより、村の語り部から聞かされていた、自分たち民族の、はじまりのものがたりである。
かつて、地上には国があった。
とても立派な文化をもつ、富んだ国であったという。
ところが、堕落し、争いあい、やがてはその傲慢さと醜悪さが創造神の怒りをかって、地上を焼き払われてしまう。
炎につつまれた大地に残されたのは、たった一組の姉弟であった(語り部によっては、兄妹であったとも伝えられる)。
『炎から逃れるために地下に逃げたというのなら、なるほど、伝説のとおりなわけだが』
それにしては、たった二人のために、この空間は広すぎるし、壮麗すぎる。
『それに近いなにかが大昔にあったと考えるのは、おかしなことではないな。
地上から逃れて、宝を地下深くに隠した、となれば、伝説とも合致する。問題は、その宝が、いったいなんなのか、というところだがな』
推理を働かせているゾトアオをよそに、となりで、寧寧は言った。
「ここのそばにいると、なぜかしら、落ち着くわね。よそより、変な葉っぱのにおいが、きつくないせいかしら」
たしかにそのとおりで、流れ落ちる水のその飛沫が、わずかに、この空間の全体にひろがる甘ったるい臭気をやわらげてくれているのである。
地下につくられた、人工の滝を眺めながら、すくなくとも、これでしばらくは飢えなくてすむのだなと、ゾトアオはほっとした。
あとは、食糧が手に入れば、いうことはない。
べつに実験台にしたわけではないが、寧寧の様子を見るに、いままで舐めたり口に運んだりしたなかで、毒を持っているものはない様子だ。
そのなかで、腹を満たしてくれるものを探すのがいいだろう。
水音がいささか気になるが、匂いにむせなくてすむのは、ありがたい。
ゾトアオは、ここで、寧寧がこれまでに口に含んだ植物が、どれとどれであるかを聞き出そうとした。
そして、口を開こうとしたそのとき、ゾトアオは、水音にまぎれて、かさかさと、植物を踏みしめて移動する、なにかの物音を耳にした。
水音を越えてとどく、複数の物音である。
どうやらそれは、人工の滝のある部屋の、さらに奥から聞こえてくる。
人工の滝の部屋の隅には、また扉があって、物音は、その奥から聞こえてくるのだった。
ゾトアオは寧寧と顔を見合わせた。
扉の向こうに、動くなにかがいる。
人間だろうか。
もし人間であるならば、それは、いいことではなかろうか。
すくなくとも、かれらは地上からここまで降りてきたはずだから、つまりは、上に登る階段が、この先にある、ということでもある。
ゾトアオは、よいか、というふうに、こくりと寧寧にうなずいてみせると、寧寧も、表情を引締めて、わかった、とうなずいた。
それを合図にして、ゾトアオは、扉を、慎重に開いていった。
白い。
真冬の高山が、まさにこんなふうに、あたりを真っ白く覆っていた。
そのときの、神秘的ではあるがおそろしくもある光景を思い出し、ゾトアオは、扉に手をかけたまま、絶句した。
唐突に、自分がいままで歩いてきたその道から、扉を開けた瞬間に、なにもない場所に放り投げられたような錯覚をおぼえる。
その空間をまえにしたときの衝撃は、混乱や恐怖よりも、頭をがんと思い切りなぐられたときの衝撃に似ていた。
あまりに唐突すぎる、無色の世界の登場に、ゾトアオは、この白いものが、いったいなんなのか、想像することすらできずに、立ち尽くすしかなかった。
だが、じきに、答えは、向こうからやってきた。
というのも、しばらく唖然としていたゾトアオの視界に、ゆっくりと、なにか動きの定かでないものが、揺れるようにして移動しているのが入ってきた。
視界を覆う白いものの濃さは、まるで山羊の乳のように白い。
そのために、動く物の輪郭しか見ることができないが、ゾトアオが目をこらし凝視していると、それはどうやら人間であるらしいことがわかった。
追っ手か。
ぎくりとするゾトアオであるが、しかし、その人らしき者は、酔っているかのように左右前後にゆらめきながら動いており、まともに歩いているふうではない。
しかもその人影は、一人や二人ではなく、ゾトアオが見ていると、あとからあとから、無言のまま、足音もたてずに、ひたひたと、何十人とがひとつの群れとなって移動していくのだ。
鎖帷子の、あの独特の、金属と金属がこすれあうときの音もしなければ、武器を手にしている様子もない。
もし追っ手ならば、おなじく、この視界の悪さは恐怖であろうし、敵がいつ襲ってくるかもわからない状況で、武器を手にしていなければおかしい。
ゾトアオは、物音を立てないように気をつけながら、扉を押さえていないほうの手で、目の前にある白いものを掴んだ。
霧でも靄でもない。
真っ白い粉のようなものが、大量に空中を飛んでいた。
これはなんであろうと、あたりを見れば、その白い空間のあちこちには、湿地に生えているような苔や羊歯に形のよく似た、しかし、ひとつひとつが子牛ほどある巨大な植物がぎっしり生えていて、子供の頭くらいある大きな実から、絶えず、その白い粉が噴出されているのである。
『なんだ、これは。あいつらは、なんなのだ』
まえに進むべきか、それとも後退すべきか。
迷っていると、かたわらで、同じく呆然としていた寧寧が、不意に袖をつよく引っ張ってきた。
そして、声にならぬ声をあげる。
姿のわからぬ人の群れは、無言のまま、白い靄の向こうへと消えて行った。
が、ひとりだけ、身動きをせずに、じっとこちらを見つめているものがある。
去って行った者たちの特徴として、大柄な者がほとんどであったのに対し、いま、ゾトアオたちの目のまえにいる者は、人間のようではあるが、背丈が小さかった。
ゾトアオの腰辺りまでしか、身長がない。
顔かたちなどのくわしいところは見えないまでも、ゾトアオはうっすらと漂う靄の向こうから、そいつが、じっとこちらを見つめているのに気づいた。
むかし、竹林で、うっかり虎と遭遇してしまったことがある。
そのときの睨みあいに似ているなと思いながら、ゾトアオは自分もまた、黙って、相手の目線を受け止めた。
張大人の使者、と聞いていた法正は、おのれの執務室に戻った際に、待っていたのが、ほかならぬ本人であったことにおどろいた。
丁寧に拱手をしながら、鷹揚な笑みを浮かべている張大人は、一見すると腰の低い人物に見えるのであるが、しかし法正には、そこに巧みなウソが隠されているような気がしてならない。
具体的な理由がある、というのではなく、直感である。
どこか信用がならない。あの軍師将軍といっしょだ。
けれど、図讖を完全に手にするためには、九門古城の入り口を管理する、黒社会の頭領と手を組んでいなければならない。
厄介なことである。
「娘は、礼姫は見つかったのか」
法正が問うと、いつも趣味のよい色合いの衣を纏っている、年齢不詳の若々しさをもつ張大人は、いかにも、申し訳なさそうに顔をしかめて、答えた。
「申し訳ございませぬ、まだ」
「なにをしておる。あの娘でないと、図讖を読めぬということではなかったか」
「重々承知しております。いま、われらの手の者が総力をあげて追跡しております。が」
「が?」
いやな予感がする。
ここで高圧的な態度に終始して、言いわけはいらぬ、結果をだせ、と怒鳴り散らして席を立つこともできるわけだが、ついつい相手の話をしまいまで聞いてしまうのが法正であった。
「問題がございます」
「なんだ、もしや、荊州兵の動きでもあったのか」
「いえ、もうお一方のほうでございます」
法正が知るかぎり、古城に入り込んでいるのは、この張大人が仕切る入り口から出入りしている悪党たちと、孔明たち荊州勢、そしてべつの入り口から侵入しているらしい彭恙だけである。
「もしや、また暴れておるのか。やつは、まこと狂士よのう。大人しくしておれば未来は約束されておるものを。
敵味方かまわず、数を多く倒せばおのれの評価が高まるなどと発想するところからして、終わっておる」
「処罰なされますか」
問いかけてくる張大人の唇に、嘲笑が浮かぶ。
法正は考えを見透かされたような気がして、むっとして答えた。
「どう処罰するのだ、公の場において乱暴狼藉した、というのであればどうとでもできるが、なにもしておらぬ」
「なにもしていないわけではございませぬ。市井におりますわたくしの耳にすら、あの御方のよろしくない評判は聞こえてまいりますが」
「その評判の真偽を、このわたしが確かめておらぬとでも思うたか。すでに草を放ち、やつの身辺を洗わせておる。噂のほとんどが、実際の行ないを大きく膨らませたものであったわ。
彭永年は、たしかに狂士ではあるが、入蜀に功績のあった勇士であることも忘れてはならぬ。こやつを処罰すれば、騒ぐ者がかならず出る。
とくに、同じように入蜀のさいに武勲をたて、出世を果たした者は、こやつを庇おうとするであろう。騒ぎが大きくなるだけぞ。もっと確実な証拠をつかまねばならぬ!」
法正がぴしゃりというと、張大人は、薄ら笑いのまま、軽く肩をすくめた。
その様子を見て、法正は、こやつは、なにをどんなふうにされたら、落ち込むことがあるのだろう、などと考えた。
「しかし、貴方様の大切な部曲を壊滅に追い込んだのは事実。まさか、このまま放置するつもりでございますか」
「まさか。この罪は、きっと償わせる」
「どうなさる」
「馬平西将軍は、やつではなく、わたしと組むことを決めたのであるから、この際、その忠心をたしかめるという意味もこめて、馬将軍を差し向けようと思うておる」
すると、張大人は、なげかわしい、というふうに顔をゆがめて、首を振った。
「いやいや、それはむずかしゅうございますぞ。馬将軍は誇り高い。いかに法尚書令のご命令とて、『おれを手先に使うつもりか』と激怒なさいましょう」
「む」
ずばり指摘されて、法正は黙った。
たしかに張大人のいうとおり、彭恙を秘密裏に討伐する先鋒に馬超をたてたとしても、そも、馬超が動くかどうかは微妙なところであった。
法正は、それほどに多くの恩を馬超に売っていない。
九門古城から馬超の手を引かせるために、蜀の国内において、馬一族(といっても馬超と従弟の馬岱だけであるが)と、涼州兵の地位の優遇を約束した。
が、それだけといったら、それだけなのだ。
馬超が法正に屈服したわけではない。
どちらかというと、法正のほうが貢物をして味方につけた感がある。
「尚書令さま、ご安心くだされ。このようなときのために、わたしはとっておきの刺客を持っております。すでにそやつらに、彭永年を追わせております。
彭永年は、きまって地上が夜になると古城にあらわれます。
それに合わせて、追っ手を放っておりますので、夜が明けましたなら、なにかしらの成果が聞こえて参りますでしょう」
「追っ手とは、奇妙な。そなたの子飼いの部曲かなにかか」
法正がたずねると、しかし、張大人は、うすきみわるく、にやりと笑うばかりであった。