捜神三国志・燭龍本紀

第三十三話 龍ときつね

法正は、椅子とほぼ同位置に立ち、そこから見える光景をはじめて目にして、なるほど、こういうふうに見えるのだなと感心をし、同時に、思わぬ役得に、きつねそっくりの、その尖った顔をほころばせた。
が、すぐさま表情を引き締めると、椅子から慎重に離れて、歩数をかぞえる。
いつも自分がいる位置がこのあたり、軍師将軍が立っている位置がこのあたり、などと勘定しながら。

劉備のかたわらにある侍従たちには、失踪については、いい含めてある。近衛の者にも、口外せぬようにと、きつくお達しをだしておいた。
こういうときに、『法尚書令は、気に入らない者は皆殺しにする、残酷なお方』という評判は、いい材料になってくれた。
法正が命令を出せば、みなが震え上がって、素直に、はい、わかりましたと口にする。
とはいえ、恐れられてこそ、人の上に立てるものだと自分で言いきかせながらも、法正としては、すこしばかりさびしさもある。

思うに、劉備は恐れられてはいない。
怒ると怖いという話ではあるが、法正は、劉備のまえでは優等生をとおしてきたので、感情もあらわにきつく叱られたこともない。
恐れられずとも人を惹きつけ、そしてそれぞれに、自分のために、最大限の力を発揮させることができる劉備という人物と、恐れられて、避けられる自分の差は、なんなのか。
やはり、顔か。
法正は思わず、尖った顎を手でさすってみる。
逆三角形の顔のなかには、目と鼻と口とが規定の位置にある。
が、問題はそのとんがりまなこで、これは幼少のころから、ふつうにしていても、怒っているだの、睨んでいるだの、笑っても目が笑ってない、などといわれてきた。
劉備も美男とはいえない。
顔だけでいえば、どこにでもいる、世情につうじた物のわかっている中年男、といったふうだ。
それを特異に見せているのは、とぼけてすら見える顔に見合わぬ長い手足と、まるで飾りのように顔の両端にある福耳であろう。
印象のつよいそれぞれの部分が、柔和な顔立ちにうまく合致して、全体を成している。
一方で、強烈すぎる尖ったあごと、きつすぎる双眸が、わるく合致して悪印象を与えてしまうのが法正だ。

ときおり、この目尻がもうすこし下にあり、顎が、これほど尖っていなかったら、人生は変わっていただろうかと考える。
獣に似た風貌だからと、まえの益州の州牧であった劉璋にきらわれ、それがゆえに恨みを昂じさせて反逆し、いまがある。
獣に似ていない風貌であったなら、高潔で名を知られた祖父の影響下、もっと安穏とした人生を歩くことができていただろうか。
ぎゃくによい風に考えれば、いま尚書令という高い地位にあり、益州の文官の頂点にあるわけだから、まさに人間万事塞翁が馬、きつねそっくりの風貌が悪いばかりとも言えなくなってくる。

人の世は、おもしろくできているものよ、などと、負け惜しみ半分の気持ちで思っていると、ふと、視線を感じる。
見れば、劉備の椅子に座っている男が、必死でこちらに何事かを訴えかけているのだった。
男は、許されなければ口を開いてはいけないと思っているらしい。
風貌は、劉備そっくりに仕立ててあるにもかかわらず、どうにも衣裳ばかりが浮いて見える男の様子に、法正は舌打ちをして、忌々しそうに振り返った。
「そのように震えてなんとする。われらが主公は、人を、猛禽を見る子うさぎのような目で見たり、屠殺場をまえにした豚のように、ぶるぶる震えたりはせぬ。
山のように、堂々とあれ。そうでなくては、群臣を騙しとおすことなどできぬぞ」
「どうぞお許しを、無理でございます」
と、いまにも椅子から転げ落ちて、平伏しかねない男は、涙声で訴えた。
「あっしは、ただの樵でございますよ。お殿様の変わりなど、とうてい務まりません。
口を開いたら、ほれ、このとおりひどい訛りでございますし、厳めしさなんて、これっぽっちもありやしません。
もしお偉い方々と顔を合わせたら、すぐにわかってしまいます」
樵はぶるぶると震えながら言う。
だがぴっちり揃えられた両足は、釘で打たれたかのように動かない。
それほどに強ばり、緊張をしているわけだ。
しかし法正は、樵に向かって、一歩、吼える犬を叱る要領で、どん、と大きく足で床を踏み鳴らし、言った。
「だまれ! しがない樵のおのれが、かような大役をあたえられたことを喜ぶがよいぞ! しかも高い報酬が約束されていることを忘れたか! 
これが終われば、貴様の子どもたちの未来も約束しよう。口を開くことはない! ただ座っているだけでよいのだ!」
「でも、それでも話しかけられたりしましたら?」

食い下がる樵に、風貌はともかくとして、どうもめそめそした男だから、実際に満座のまえに立たせた場合、相当に注意せねばボロが出るなと思いながら、法正は答えた。
「大事ない。わたしか、ほれ、そこにいる軍師将軍が、貴様のかわりに返答をする」
樵が、救い主を求めるかのように孔明のほうに目を走らせる。
しかし樵は、部屋の隅にて、腕を組んで、気むずかしい顔をしている孔明を見ると、がっかりと失望の色をうかべて、うつむいた。

孔明は世間一般の常識から見ても、容貌に相当に恵まれている。
しかし恵まれすぎる、というのも問題のようで、あまりに整いすぎて垢抜けた容貌が、山育ちの樵には、冷淡この上なく映った様子だ。
だからこそ、樵はうつむいてしまったのである。

とはいえ、法正の目からしても、ここ数日、孔明がなにを考えているのかはわからないでいた。
隙がまったくなくなっているのだ。
劉備が失踪したという報を受けたとき、さすがにおどろいているようではあったが、しかし、対応は、法正がたじろぐほどに冷静で、あわてる、ということがなかった。
いま両者は、九門古城を挟んでも対立しているわけだが、こうして、じかに顔を合わせているうちは、古城については、たいがに話題にすら知らない。
お互いに、そんなものなど、見たことも聞いたこともない、という素振りをつづけている。
とはいえ、もし自分が軍師将軍の立場でも、冷静にならざるをえまいな、と法正は考える。
八方手を尽くして探させたのだが、劉備の行方は杳として知れない。
奥向きに仕えている何人かは、劉備がお忍びで出かけた、ということを知っていたが、きつく問い詰めてみても、どこへ行ったかまではわからない、と答えた。
おそらく、だれかに問い詰められることを想定し、劉備はだれにも行き先を告げずに消えたようであった。
そして、本人が見つからなかったかわりに、本人にそっくりな樵が見つかった、というわけである。

山でとれた柴や炭を、豪族の屋敷におさめている男である。
本人は、なんだかわけのわからぬうちに、とんでもないところへ引っ張りだされてしまったので、これからどうなるのかと、おびえているのだ。
「よいか、主公はいま、病を得られて床に就いておる。山育ちの貴様でもわかるであろうが、このように、いまだ世情の安定していないなか、主公がご不在とわかれば、不埒な輩がなにをしでかすかわからぬ」
その不埒な輩は、じつは、同じ部屋のすみっこにいるのだが、と法正は心のなかで付け加えた。
孔明は腕を組んだ姿勢のまま、おとなしく法正を見守っている。
「それゆえ、主公に似たそなたに、代理を申し付ける。はじめに言ったとおり、そなたはただその椅子に座っているだけでよい。
だれに問われても、返事をするな。どうしても返事をしなくてはならないようであったなら、うなずくか、首を振るかせよ。
みなには、主公が悪感にかかり、咽喉が腫れて声が出ないと伝えておく」
震えているのも、悪感のせいにしておくか、と法正は、説明しながら考えた。
樵が劉備に似ているところは、背格好や顔立ちもそうだが、その長い腕と耳が、もっともよく似ていた。
足のほうは残念ながら人並みであるが、これは上げ底靴でも履かせればよろしい。
遠くから見れば、『なんとなく劉備』だということはわかるはずだ。

問題は、義弟である張飛や、糜竺、簡雍といった古参の家臣たちが不意にやってきた場合である。
かれらへは、孔明がうまく理由をつけて、しばらく宮城へはこないようにと手紙を書いたと言っていたが、果たして効果はあるのだろうか。
「あとは、奥向きに引っ込んでおれ。病人らしく、地味に、大人しくな。
褒美のかわりに、おまえの所望するものは、なんでも揃えよう。なにが望みか、言ってみよ」
すると樵は、恨めしそうに法正を上目遣いにして、答えた。
「家に帰ることでございます」
「それはならぬ。いま思いつかぬようであれば、ゆっくり考えるがいい。
わたしから言うことは以上だ。失敗は許さぬぞ。もし失敗したなら、おまえだけではなく、おまえと、その家族にも累が及ぶことを覚悟するがいい」
とたん、樵は、気の毒なほど、がくがくと震え上がった。
「軍師将軍、貴殿から言うことはないか」
たずねると、孔明は、その身を置いていた場所の、影のすべてを動かすかのような黒い錦の衣裳を重々しく動かしながら(法正には、もったいぶって動かしているように見えた)進み出ると、言った。
「なにも。尚書令どのより、すべて伝えていただきましたので、わたしが口を挟むことはなにもございません」

こやつ、もしや、この影武者についてのすべての責任を、わたしに押し付けるつもりなのではあるまいな、と法正は怪しむ。
すると、それを読んだのか、無表情であった孔明は、一瞬、目を伏せると、それから、いささか、きつめのまなざしを法正に向けた。
「主公の失踪、そしてこの影武者のことにつきましては、わたしと尚書令どの、双方の共同責任、ということでよろしいか」
あらためて念を押されて、法正は、むっとしながらも、答える。
「よろしい、是非に」
「では、あとで、念書でも取り交わすことにいたしましょう。
それにしても、ここまでよく主公に似ている者がいたとは、おどろきでございます。主公は風貌に特長のあるお方なので、影武者を見つけるのはむずかしいと思っておりました」
めずらしく誉められているのかな、と思いながら、慎重に法正は答えた。
「たまたまだ。これで足さえ長ければ、完璧であったのだが」
「左様。あまり人を近づけないのが正解でございましょう。
いまは衣裳と化粧とでそれなりになっておりますが、よくよく見れば、まったくの別人だとわかってしまいます。なるべく日陰に置いて、人を近づけないようにせねば」
「それも心得ておるわ」
法正のことばに、よろしい、というふうに、孔明は、もったいぶってうなずいた。

法正がきらいなのは、孔明の、こうした上から人を見ているような言動である。
ことばのうえでは、こちらを立てているかのようであるが、実際の目の動き、態度、声の調子は、人を見下しているのが、ありありとわかる。
むしゃくしゃする気持ちを、法正はぐっとこらえた。
ともかく、いまは非常事態なのだ。
劉備の失踪という秘密を共有して、これを守る。仲間なのだから、喧嘩をしている場合ではない。

「ところで、主公にあてて到着した信(手紙)についてでございますが、尚書令どのがすべて監査するとおっしゃっておりましたが、まことでございましょうか」
劉備あての手紙は、すなわち、荊州を守る関羽らの手紙だけではなく、魏や呉、ほかに、さまざまな権力者、あるいはその側近の手紙も含まれる。
つまり、劉備あての手紙には、劉備の私生活そのものに触れる秘密もあれば、劉備があえて自分たちには伝えないでいる機密なども、記されている可能性がある。
尚書という部署は、事務方の書類のすべてを決裁する場所である。
法正は、そこの長だ。
それを統括するわけであるから、劉備が行方不明であり、しかもいつ帰ってくるかわからない状況では、外から怪しまれぬように、だれかが手紙の代返をする必要があった。
この場合、常日頃から文書をつかさどっている尚書が、になうべきことであろう。
だから、その役目は自分たちで、というのが、尚書の頂点たる法正の主張である。

これほど筋のとおった主張はなかろうと法正は思うのであるが、孔明は言う。
「あえて申し上げますが、尚書令どのは、主公の家臣になられてから日も浅く、古参の臣のことにあまり詳しくない。
代返はけっこうでございますが、しかし、方々の癖を知らぬ貴殿の信では、みなさま鋭敏な方々ばかりでございますから、なかには、これはまことに主公の信かと、怪しまれる方もいるかもしれませぬ」
「なにが言いたい」
「抜け目のない尚書令どののことですから、おそらく偽書をつくるに巧みな者にこの役目を任せるでしょう」
誉めているようで、なんだか誉めていない。
「となれば、他国の者なら欺けましょう。けれど、主公と何度となく信のやりとりをしたことがあり、しかもよく見知った者は欺けませぬ。
ずばり申し上げますが、信の監査の役目は、この孔明にお任せいただきたい」
法正は、一瞬、頭に血がのぼり、尚書の権限を持ち出して、孔明の申し出を蹴ろうと思った。
が、しかし、こらえた。
というのも、孔明の主張にも、また、筋がとおっていたからだ。
事実、法正は、荊州に残っている者たちの顔すら知らない。
人づてに聞いた来歴ばかりで、細かい癖や、一族のことを含めた世間話になると、たしかにわからぬがゆえに、ボロが出る可能性があった。

孔明が、こちらの無知にかこつけて、なんらかの秘密を握ろうとしているのでは、と法正は疑ったが、その表情からは、隠している思惑などは、読み取ることができなかった。
そして、自分が、こうもこの申し出に不快感をおぼえるのは、新参者は引っ込んでおれ、と言われたように感じたからなのかもしれないと、気をとりなおす。
冷静にならねばならない。
先に取り乱したほうが負けだ。
このすまし顔の軍師将軍は、とんでもない食わせ物なのだから。

「よろしい、ではこうせぬか。信の一切は、われらが開封する。そのなかで、特に慎重を要するものと、そうではないものを、われらが振り分け、貴殿にその一部を送る、というのは」
すると、孔明は、頭の悪い生徒に、こんこんといいきかす教師のように、感じのわるいため息をつくと、つづけた。
「その振り分けを出来る者が、尚書令さまのご家来にいるのか、それが心配なのです。
よろしい、では、わたしの配下のなかで、主公の身辺にくわしい者を、貴殿のもとへ派遣しましょう。それならば、安心できます」
つまり、堂々と細作を送り込んでくる、ということか。
尚書の役目は秘密厳守であるから、と断わることも考えたが、法正は、そこをさらに堪えて、うなずいた。
「では、そのように手配しよう。くわしくは、わたしの主簿を派遣するゆえ、段取りは相談してほしい。わたしは、いろいろと忙しい身ゆえな」
精一杯の矜持を保って法正がいうと、孔明は、気のないような素振りで、みじかく、
「左様か」
とだけ答えた。

法正は、むかむかしながらも、劉備の侍従に命じて、椅子の上でガタガタと震えていた樵を、宮城の奥に連れて行くように命令した。
法正が孔明の要求を呑んだのは、なにも孔明がおそろしかったためでも、ご機嫌取りでもない。
九門古城の図讖。
これを手に入れた自分が、孔明ごときにいちいちイライラしていては、この先、天下人の補佐など務まるまいと思ったからである。
法正の夢は、九門古城の図讖を駆使し、劉備に漢王朝の復興を成してもらうことである。
図讖によれば、自分は天下人の補佐になれるというではないか。
ならば、いまからその器にふさわしい人間として振る舞っていなければならぬ。
気になるのは、図讖を読める娘が、熊のような男に攫われてしまったことであるが。
以降の連絡を、栄耀飯店の張大人が、まったくしてこない、ということも気になる。
未来は明るいはずなのに、はてな、どうも八方塞りの状況に嵌まっているような、と法正が首をかしげているちょうどそのとき、ほかならぬ張大人からの使者があらわれたと、主簿が告げにきた。
法正は、孔明に気取られぬように注意しながら、自分もまた、執務室へと去っていった。



法正が、宮城のおのれの執務室へ戻っていく背中を見送ったあと、ひとり残された孔明は、低くつぶやいた。
「偉度はおるか」
孔明のことばに、音もなく、玉座のそばに垂れ下がった帳の奥から、畏まって偉度があらわれた。
鞭打ちを受けた際の傷は、まだ癒えていないために、いつもは俊敏でしなやかな身のこなしをしてみせるのだが、いまは、どこかぎこちない。
「話は聞いたな。人選はそなたに任せる。信の内容をくまなく記憶し、すべてわたしに報告できる者を特に選んで、尚書令のもとへ送れ」
「お任せください。適者が何名かおります」
「よろしい。しかし偉度よ、主公が失踪なさったと聞いたときは、ひやりと胆が冷えたが」
言いながら、孔明は、口許に楽しげな笑みを浮かべつつ、劉備のすわる椅子の背後に回りこんだ。
「人間万事、塞翁が馬とはよく言った。主公がいないあいだ、堂々とその秘密を探ることができる。
上に立つ者に必要なのは、多くの兵でも財貨でもない。情報だ。多くの情報を手にしてこそ、人を制することができるのだよ」
「主公に秘密があるとお思いですか」
「秘密のない人間など、いるはずもない」
「軍師が知る必要のない秘密かもしれませぬ」
「偉度」
とたん、孔明は、それまでの楽しげな笑みを引っ込めて、厳しいまなざしを偉度に向けた。
「わたしが知る必要があるか、どうかは、すべてわたしが決めることだ。おまえが判断すべきことではない」
「口が過ぎました」
偉度がすぐさま謝罪すると、孔明は、また笑みを唇にもどした。
「この椅子にわたしが座ることは、生涯あるまいと思っていたが、もしかしたら、そうではないかもしれないな」

仰天する偉度を尻目に、孔明は、椅子に回り込むと、滑るようにして、腰かけた。
そこで悦に入るかと思いきや、孔明は椅子にふんぞり返ると、声を立てて、高らかに笑い出した。
「なにも変わらぬ、ただの椅子だ。すこし目線がちがうだけ。
この、ほんのわずかな差を得るために、人は命がけで戦うのか。虚しいものよ」
口ではそう言いながらも、孔明は椅子から立ち上がろうとはしない。
「九門古城の宝があれば、さらによい眺めを見ることができる、というわけか。
主公も宝に取り憑かれたのだな。ほんとうに、人の欲にはきりがない。際限なく、高みをめざして、どこまでも堕ちていく」
「まだ決まったわけではございませぬ」
「動機はどうでもよいのだよ。古城に淀む、あの闇は、人の心を蝕み、狂わせる。長く身を浸していれば、どのような高潔な人物も、徐々に本性をあらわにしてしまう。
だからこそ、滅ぼさねばならぬのだ。それが正義というものではないのか。
わたしが、宝に関わった者のすべてを抹殺しようとしているのは、宝を独占しようというのではなく、人の魂を、古城の闇から救うためなのだ」
歌うように言う孔明であるが、その言葉の調子は明るく楽しげで、とても本音とは思われない。
「お耳に入れたきことがございます」
「申してみよ」
「趙将軍が、われらを裏切り、董幼宰のもとへ行ったようでございます」
すると、それまで椅子に背をあずけて、子供のように笑っていた孔明の顔から、また笑みが消えた。
「左様か。やはり裏切ったか」
「如何なさいますか。いまならば、まだ説得の余地があるように思います」
しかし、孔明は、椅子に座ったまま、じっと天井を睨んでいたが、やがて答えた。
「荊州兵はどうだ」
「趙将軍は、単身で動かれております」
「一兵卒も動かしていないというのか。律儀だな」
「そういうお方でございますから、その点は心配ないかと」

偉度の報告に、孔明は、唇を歪めて、小さく笑った。
「あの男の悪いところは、なにもかも自分で背負って解決しようとするところだよ。孫夫人を逃がしたときも、いまにも自害しそうな顔をしていた。
小娘ひとりを逃がした責任を負わせて死なせるには、惜しい男だと思ったから生かしておいた。
どうだろうな、偉度、これは、飼い犬に手を噛まれたと思うべきか? いや、まだ噛んでもいないか」
「どうなさるおつもりですか」
「どうもこうも、放っておけ」
つまらなさそうに言うと、孔明は立ち上がった。
するり、と衣擦れの心地よい音が、しずかな部屋の中にひびく。
「古城の闇に取り込まれた人間が、また一人増えたというだけだ。
どちらにしろ、あの男も古城のことを知りすぎた。最後には始末するつもりであったのだから、問題はない。
荊州兵は、あの男がいなくても、十分に動く。そのように調練してきたからな」
「噂のほうは、どうなされますか」
「魏と呉が共同して攻めてくるかもしれない、という与太話か。しかしそれも、市井のあいだでは鎮まりつつあるそうな。これも放っておけ。
つぎに古城に入る荊州兵には、脱走する者が出ないように、賃金を倍にして払え。それで噂は消える」
「判り申した、さっそく手配いたします」
「おまえも忙しいな、偉度。わたしはこれから、左将軍府に帰る」

言って、孔明は数歩あるいて、それからぴたりと立ち止まると、振りかえった。
「ああ、そうだ、ひとつ、言い忘れていた。趙子龍のことであるが」
「はい」
「もしも、単独ではなく荊州兵を動かそうとする気配があったなら、かまわぬ、そなたたちで始末せよ」
「殺せと?」
狼狽する偉度の表情を見て、孔明は、不快そうに目を細めた。
「できぬと申すか。怖ろしいか?」
「いかに武勇で名を馳せた趙将軍とて、隙を突けばどうとでもなりましょう。
しかし、趙将軍が、芯から軍師を見限ったようには思えませぬ」
「趙子龍がわたしをどう思っていようと、裏切った事実に変わりはない。それに、もともと消す予定であったのだから、それがずれたところで、大きく騒ぐところか? 
それに、子龍がいなくなることで、わたしが孤立すると思っての発言ならば、これも言っておく。
偉度、わたしは生まれたときより一人であった。いまも一人だ。これからも、それは変わらぬ。
趙子龍のような男がひとり、わたしの前から消えたところで、わたしは、なにひとつ変わらぬよ」
そう言い放つと、孔明は、悠然と、偉度に背を向けて去って行った。

三十四話へつづく…
燭龍本紀のもくじへ
MAPへもどる
更新履歴へ戻る