捜神三国志・燭龍本紀
第三十二話 地下へ潜る悪党ども
がちゃり、と牢の前で、甲冑のこすれあう音が、止まる。
牢の大部屋のなかでタヌキ寝入りをしている盗賊たちは、赤頭巾の突然の行動に、すっかりおどろいて、息を殺している。
ぎゅっと目をつむって、ひたすら成り行きの結果が出るのを待つ者もいれば、逆に頭からすっぽりかぶった筵のなかで目をまん丸にひらいて、赤頭巾と彭恙のやりとりを凝視している者もいる。
拝んでいる者すらいて、これは休昭だ。
文偉はというと、彭恙が、噂どおり怒り狂って、赤頭巾を外に引きずり出すような真似をしたら、いつでも飛び出せるようにと、ゆっくりとうつぶせになって、薄目を開けて、様子を見る。
彭恙は、昨日とおなじ甲冑を身に纏い、格子に取りすがる格好でいる赤頭巾のところまで、ゆっくりと戻ってきた。
朝方には血まみれであったその姿は、獣の油で磨きこまれて、ぴかぴかになっていた。
燭のあかりに浮かび上がる甲冑の、そのところどころに刻まれている刀傷が、彭恙の荒々しい来歴を、しずかに物語っている。
曹操や孫権のもとに仕え、しかしどれも長続きせず、結局故郷に帰ってきた。
本人は、英雄という評判を聞いて仕えてみたが、結局、器がちいさいことがわかったので、がっかりして故郷に帰ってきたと嘯いているが、ほんとうのところはそうではない。
曹操や孫権のところは、人材が揃っている。
彭恙のように、たとえ武人としての才能は十分にあったとしても、奇行と呼んでもいいほどに傍若無人で問題ばかり起こす人物が、出世できるはずがないのだ。
まだ政権が出来上がって間もない劉備のもとであるから、重用されているのである。
彭恙のよくない噂は、書生部屋にも聞こえていた。
仕える宮女を手篭めにしようとしただとか、気に入らない家人の鼻をそごうとしただとか、どれも尋常ではないものばかりだ。
龐士元と仲がよく、その名残で重用されたという噂であるが、本人はその地位に不満で、文官として働いたこともないのに、尚書令の地位を狙っているとか。
野蛮な奇人。それが文偉の知っている、彭恙という男である。
「貴様、いま、なんと言った」
低く、唸るような声で、彭恙が口にする。
手にした矛のその先端は、やはり綺麗に磨きぬかれて、ぎらぎらと兇悪に光っている。
しかし、赤頭巾は、まるで動じるふうでもなく、さきほどとまったく同じ、陽気に言った。
「大将のこれから潜られる、『九』のつくところへ連れて行ってくださいと申し上げているんですよ。
もっとずばり申し上げますか。九のつくところ、すなわち九門古城でございますよ。ねえ、如何です」
「貴様、なぜその名を知る」
すこし掠れた声で脅しながら、矛の柄の側を、ぐっと赤頭巾のほうに向けてくる。
赤頭巾は、それでもまったくおびえる様子はない。
いや、赤頭巾の下の表情がどうなっているかは不明だが、ともかく外から見る分には、堂々としたものである。
「なぜもなにも、この大部屋にいる連中は、みな、かの大盗賊、初代高勝の子分なんでさ。栄耀飯店の張のやつにだまされて、こんなところに閉じ込められてしまいましたがね。
大将はご存知ありませんかい、高勝は、劉璋が降伏したときのどさくさにまぎれて、宮城の奥深くまで入り込み、そこで、代々伝わっていた九門古城の地図を見つけたんです。
で、入り口のひとつが栄耀飯店の真下にあるってことに気がついた。そこで、張のやつに内緒で、せっせと入り口を掘っていたのだが、あとちょっと、というところで張に見つかっちまいまして、それで地図ごと命まで取り上げられちまった。
そこで最初の話に戻るんですが、儂たちはそいつが悔しくてならんのですよ。
で、九門古城のほかの入り口をずっと探していたのですが、裏の社会もなかなか狭いものでね、夜な夜な、大将が九門古城にあらわれるという噂を聞いた。
さあて、いったいどこから潜っているのだろうと思っていたら、どうです、世間というのは狭いものだ。牢の廊下を、あんたが毎晩のように、てくてく歩いていくじゃありませんか。
そして朝まで、あのだれもいない拷問部屋に入っていく。つまりね、そこに九門古城の入り口があるってことじゃありませんかい」
「よくしゃべる親父だな。その赤い頭巾は、なぜつけている」
「それは聞かないでおくんなさい。よくある事情というやつで、顔がすっかり病み崩れてしまいまして、とても人様に出せる顔じゃなくなってしまったのです」
赤頭巾のことばに、彭恙は、鼻を大きく鳴らした。
「哀れなやつ。頭も病に侵されたか」
「さあて、頭はしっかりしておりますよ。儂の話は当たっちゃいませんかい」
「俺がどこへ行こうと貴様の知ったことではない」
「そうですかねぇ。大将、あんたはなんだって九門古城に潜るんですかい。
儂が聞いたところによれば、古城には、なんとびっくり、『得ればかならず天下を取れる宝』なんてものがあると聞きました。そいつを見つけようと思ってらっしゃるのではありませんか」
「くだらぬわ」
言うと、彭恙は、芯からつまらなさそうにして顔を背けると、いきなり、赤頭巾のいる格子を、がん、と蹴りつけた。
「頭の弱そうなやつゆえ、そこから引きずり出すのは堪忍してやろう。しかし、俺があとでもどってきたなら、刑吏に言って、おまえを鞭打ちにしてやるから、楽しみに待っておれ!」
格子をはげしく蹴りつけられ、さすがに赤頭巾も、すこしだけ怯んだ様子を見せたが、まさに起き上がりこぼしの如く、ふたたび懲りずに格子に近づくと、食い下がった。
「ほほう、すると大将の狙いは、『得ればかならず天下を取れる宝』ではない。それじゃあなんです。ねえ、教えてくださいよ。
そうでないと、気になって眠れなくなってしまいますもの」
「貴様は九門古城に潜ったことがあるのか」
「すこしだけ」
「ふん、ならばわかるだろう。いま、古城には、巴蜀のありとあらゆるところから、いろんなうしろぐらい人間が集ってきておる。
これを狩るのが、オレの楽しみなのだ」
「狩る、ということは、捕虜にする、ということじゃあなさそうですね。大将は、いつもひとりで帰っておいでだ」
「捕虜なんぞいらぬ。どれだけ多くの人間を倒すか、それがオレの娯楽、趣味なのだ。多く倒せば倒すほど、オレの強さは証明される。
いまは乱世ぞ。どれだけ多く支配し、殺すことができるかで、人の優劣は決まるのだ」
彭恙のその論理に、文偉はぞくりと背筋を冷たくふるわせた。
狂っている。
そんな道理が通じてしまうならば、犯罪のほとんどは『乱世だから』という理由で許されてしまうではないか。
こんなめちゃくちゃな考えを本気で信じている人間が、宮城の要職である治中従事を務めているという。
その人事をおこなった劉備という人物の見識も、どうやら疑わねばならないようだ。
怒りに似た感情を押し殺している文偉をよそに、赤頭巾と彭恙のやりとりはつづく。
「だから殺して回っているんですかい。殺せば殺すほど、出世の道が開けるという寸法ですか。けれど、九門古城ってのは、ひらたく言えば、秘密の穴倉でしょう。
その穴倉で、どんなにがんばったところで、皆殺しにしちまうのであれば、見てくれるものといったら壁のカビぐらいなものですぜ。それじゃあ、栄達にほど遠いのじゃありませんかい」
「古城に潜っているのは、黒社会の人間ばかりではない」
すると、赤頭巾は、それまでの調子のよい口調をあらためて、すこし声を低くして、感心してみせた。
「ほお、ってことは、かなりお偉い方も古城に潜ってらっしゃる。だからいいところを見せようと、大将はがんばっていなさるのですね。
そいつは御見それいたしやした。お偉いとなると、尚書令様や軍師将軍様になりましょうかねえ。
儂のような下々は、お名前ばかり耳にするばかりで、お見上げしたこともない方々でありますが」
「そうだ、下々の貴様が、くわしく知る必要はない」
彭恙のことばは、逆に赤頭巾のことばを肯定したようなものであった。
尚書令。そして軍師将軍も古城に関わっている。
文偉は薄目をあけたまま、九門古城とはなんなのか、そして宝とは、なんなのだろうかと考えた。
「けれどねぇ、九門古城に儂らはまだ未練があるのですよ。さきほども申し上げましたが、儂らの親分は、栄耀飯店の張に殺されちまいまして、儂らも不甲斐なく罠にかかって、ねずみみたいにこんなところに押し込められちまった。
けれど、どうしても仇討ちをあきらめられねぇんですよ。ところが、まさに天の配剤。大将が儂らのまえにあらわれた」
「なにが言いたい」
「儂らを牢から出してください。そうしたら、ここにいる全員が、大将の家来になりますぜ。大将は、古城に入り込んでいるやつらをたくさん倒して、偉い方々に誉めてもらいたい。
儂らは、栄耀飯店の入り口を見つけ出し、そこから地上にもどって、張のやつをぎゃふんと言わせたい。
儂らの手柄は、ぜんぶ大将にさしあげます。楽ができて手柄をたてられるうえに、儂らも仇が討てて、いいところばかりじゃありませんか。
大将のお力からすれば、わしらが全員、ここからいなくなっても、どんなふうにでも、もみ消しができるのでしょう?」
赤頭巾のおだてに気をよくして、彭恙が鼻を蠢かせて、笑った。
その唇には、金の環がいくつも嵌められている。
両耳にも、耳たぶすべてを覆い隠すためではないかというほどに、まったく趣味も形もちがう耳飾りが、所狭しと嵌められている。
首も同様で、これは、囚人として使役されていたときに首枷をはめさせられていたときの名残を隠すためらしい。
咽喉元から胸元まで、ぎっしりと首飾りがかかっている。
そして、そのどれもが、まったく統一性のないもので、見た目に、とてもではないが美しいとは言い難いものである。
その無秩序ぶりが、彭恙の心の混乱を、そのままあらわしているように見えた。
「たしかに、俺ならば、貴様たちが何人いなくなろうと、役人たちを黙らせることができるな」
すると、赤頭巾は調子よく、手をぱん、と鳴らした。
「さすが大将だ。ほかのお偉い方じゃ、こんなふうに話を聞いてももらえません。どうです、大将、儂らは、あんたが特別に器の大きい方だと見込んで、お願いしているんでさ。
儂らをここから出して、九門古城へつれて行ってくれやしませんかねぇ。いい仕事しますよ!」
赤頭巾の巧みな弁舌に、彭恙は気持ちを動かされたのか、しばらく手にした矛の柄を手のひらでぽんぽんと打ちながら、思案していたが、やがて、拷問部屋のほうをじっと見たまま、ひくくつぶやいた。
「下がっておれ」
「はい?」
とたん、彭恙は、矛を、ぶん、と大きく振り回すと、格子に向けてぶつけてくる。
文偉は、とっさに筵から飛び出すと、ぽかんとしている赤頭巾のその背中を、牢の中へと引きずった。
がこん、どかん、と、つづけて、銅鑼の音よりも腹にひびく大きな音がして、牢の全体を揺らす。
さすがに、一閃で格子のすべてが折れることはなかったが、彭恙が矛を打ちつけたおかげで、牢の扉は、すっかり蝶番も外れて、無惨にだらりと垂れ下がっていた。
文偉によって牢のなかに避難していた赤頭巾は、騒然としている盗賊たちのなかでも、やはり一番に冷静になって、彭恙のまえに、腰を低くして這い出し、うやうやしく拱手してみせた。
「ありがとうございます、お連れくださるってことですね!」
「仲間の盗賊連中に、さっさと支度しろと伝えろ。俺は、またされるのが大きらいだ」
「そいつは奇遇だ。儂もきらいです! さあ、みんな、いまのが聞こえただろ、牢から出るぜ。準備しな! 大将をお待たせしちゃならねぇ!」
と、場を仕切りながらも、赤頭巾は、彭恙がこちらに背を向けているのを確認すると、呆然としている文偉や休昭、そして陳勝に向かって、やったぜ、といわんばかりにこぶしをぐっと握って見せた。
おそらく、赤頭巾の下は、満面の笑みを浮かべているにちがいない。
赤頭巾は、もう一方の大部屋も開けると、みなを整列させて、彭恙につづくように指示をする。
もちろん、この騒ぎであるから、廊下つづきの小部屋のほうからも、オレもここから出してくれ、という悲しげな声も聞こえるし、牢番もあわてて飛んでくる。
しかし、彭恙はかれらを見ると、不敵ににやりと笑って、言った。
「おい、牢番、俺はいつも貴様には世話になっているので、今夜はおまえの仕事を手伝ってやることにした。
この盗賊の手下どもは、俺が借りていくぞ。異義はなかろうな」
牢番は、彭恙のおそろしさを、身に沁みて知っているらしく、恭順の意を示すためか、手にしていた棒を、脇にかかえて、ぺこりと頭を下げてみせる。
勝手な考えかもしれないが、文偉はそれを見て、なんとも頼りのない役人どもだと腹を立てた。
そんな文偉に、休昭がぴたりと寄ってきて、小声でささやく。
「文偉、牢の外に出られたはいいけれど、大丈夫だろうか。彭永年という方を、わたしははじめて見たけれど、噂よりずっと恐ろしげな人だ。
赤頭巾どのはうまくやってくれたとは思うが、古城とやらに潜ったあと、無事でいられるとは思えないよ」
「おまえの勘は正しかろう。油断するなよ。なるべく俺か、陳勝どののそばにいて、彭永年がおかしな素振りを見せないか、それを見張っていてくれ」
休昭は、ごくりと生唾を飲んで、文偉を見る。
「それって、もしかしたなら、襲ってくるかもしれない、ということかい?」
「もしかしなくても、襲ってくる可能性はだいぶあるぜ」
と、囚人たちを兵卒のように上手に並ばせながら、赤頭巾が、小声で顔を寄せてきた。
「いいかい、儂がこんなことをしているのは、あんたたち二人を助けるためなんだ。もし、あの大将がおかしな真似をはじめたなら、あんたたちは、俺やほかの連中のことはかまわずに逃げな」
「けど、この方々は、わたしを守ってくださった方々なのです。見捨てるわけには参りません」
と、休昭が、父譲りの義理堅さを見せると、赤頭巾は、首をつよく振った。
「冷たく聞こえるかも知れねぇが、どうあれ、こいつらは盗賊、悪党なんだよ。本来なら、あんた方が関わっていい世界の人間じゃねぇんだ。感謝するのも同情するのもあんたの自由だが、そこは間違っちゃならねぇ。
こいつらが好きなことをやっている裏で、真面目に生きているだれかが泣いているってことを忘れるな」
「けれど、いい方々です」
休昭がなおも食い下がると、赤頭巾は答えた。
「坊ちゃん、儂はあんたより、たぶんたくさんの人間を見てきている。陳勝のような境遇にいた人間は、この天下に山ほどいたよ。そいつらが、途中で道を間違えたところも、何度も見た。
けど、世の中が安定してくれば、良心のあるやつなら、たいがいは正道に戻ろうとするものだ。だが、こいつらはそうじゃない。まだ徒党を組んで、盗賊なんて生業に励んでいる連中だ。
こいつらは、いまは、あんたにとって『いい人間』かもしれないが、根っこのところは悪人なのだ。そのあたりの線引きは、きっちりしとかなくちゃいけないぜ」
赤頭巾のことばに戸惑って、休昭は文偉に、助けを求めるような目線を送ってくる。
「あくまで仮定の話です。われらも子どもではございませぬゆえ、そのときになりましたら、自分たちで判断させていただきます」
文偉が答えると、赤頭巾は何も言わず、その肩を、親しげに叩いて、それから、後尾にいる囚人たちの指揮をとるため、移動していった。
やがて、彭恙を先頭にした、囚人ばかりの奇妙な即席の軍隊は、拷問部屋に向かって行軍をはじめた。
拷問部屋の扉をひらくと、当然のことながら、そこにはだれもいない。
使用方法を想像するだけでぞっとするような、あまり見たくない器具が、あちこちに並んでいるなか、彭恙は、その床の一角の前で、屈みこむ。
床には、真新しい取っ手がついており、そこをぐっと押し上げると、地下から、冷たい風が吹きあがってきた。
ぼう、ぼう、と、まるで風が人を招いているような、不気味な音が聞こえてくる。
床の下は階段になっており、その先がどうなっているのかは、真っ暗で見ることができない。
「転ばぬように注意せよ。明かりを持つ係を決めて、はぐれぬようにな。
古城はおそろしく広い。迷ったなら、ここからは容易に抜け出せぬぞ。よほど運がよいのでなければな」
彭恙はそう言うと、先頭を切って、階段を降りていった。
つづいて、明かりを持つ係となった休昭、文偉や赤頭巾がそれにつづく。
殿(しんがり)は陳勝がつとめて、隊列が乱れないようにと注意を払っている。
陳勝は、仲間たちが全員、きちんと古城のなかに入ったかをたしかめると、慎重に、自分も階段を降りてきた。
そうして、かれらのまえに、九門古城があらわれた。
階段を降りきると、そこは、大きな広間になっていた。
天井は天然の洞窟になっており、ごつごつした岩肌が、篝火に映し出されて、一行を見下ろしている。
見事な装飾のほどこされた床の前には、巨大な箱のような、正面に扉を持つ部屋がある。
蔦か木を文様化したものらしいその装飾のあちこちには、鳥が描かれていて、装飾と装飾を、自由に行き来しているようである。
文偉も休昭も、唐突に目の前にあらわれた、神秘的で壮麗な空間に、唖然とするしかない。
そんなかれらを鼻で笑いながら、先頭にいる彭恙が言った。
「さあて、この扉の向こうが戦場だ。おまえたちには得物がなにひとつない。俺も用意してやるつもりはまったくない。
生き延びたければ、敵から奪ってモノにするのだな。何人生き残れるか、楽しみにしているぞ」
そのことばに、ぎょっとしている一行の顔を眺めて、彭恙は楽しげに笑いながら、扉をゆっくりと開いた。
帆がなくても、こぎ手がなくても勝手に動いてくれる魔法の筏に乗って、水路のうえをひたすら逃げていたゾトアオと寧寧であるが、やがて、魔法の筏は、ぴたりと止まって、動かなくなった。
船頭の役目をしている(ようにはとても見えなかったが)人形が、またもや突然に動き出して、くるりとゾトアオのほうに顔を向けると、告げた。
『到着。オ降リクダサイ、オツカレサマ』
「ああ、疲れたよ」
思わず返事をしてみるが、人形は、なにも答えない。
無愛想なやつである。
筏は、見事にすき間なく組まれた石壁の、水路の脇に添ってつづいている道の端でぴたりと停まった。
真っ暗でなにも見えないが、ここで停まるからには、なにか意味があるのだろうと、ゾトアオは根拠なく思う。
いや、意味があってもらわなくては、困る。
ようやく、地上に戻れそうな入り口を見つけたというのに、筏のせいでだいぶ離れてしまった。
とはいえ、戻ったなら、あの不気味な漢人がまだいるかもしれない。
悪霊に取り付かれたような目をした男だった。
最初は錦馬超と一緒だったが、つぎは一人だった。
そしてよくわからないことに、味方であるはずの漢族を打ちのめしていた。
もしかしたら、ほんとうに悪霊に憑かれているのかもしれない。
でなくちゃ仲間割れか?
「ねえ、どれくらい経ったのかしら。お腹がすいたわね」
と、寧寧が言った。
この娘は極限の状況に自分がいることを、いまひとつわかっていない節がある。とはいえ、腹が減っているのは事実だ。
ゾトアオは、無駄だろうと思いながらもおのれの懐を探ってみるが、出てくるものといえば、ゴミばかりだ。
水だけはたっぷりあるから、いますぐ飢える心配だけはない。
「これからどうするのよ?」
「すこしこのあたりを探ってみようぜ。とにもかくにも、地上に戻らなくちゃな」
そうね、と言って、寧寧は近づいてくると、ゾトアオの手をぎゅっと握ってきた。
暗闇のなか、人のぬくもりを間近で感じていないと、おそろしくてならないのだろう。
ゾトアオはもともと医者であるから、患者を励ますときに、手を握ることもしょっちゅうだった。
似たようなものだな、と思いつつ、自分も寧寧の手を握り返す。
「壁伝いに歩いていけば、なにかあると思うのだ。でなくちゃ、あの筏が急に止まるはずがない」
「おかしな筏ね。風もないのに勝手に動いて。最初は怖かったけど、うまくあいつらから逃げられたから、いまはそんなに怖くないわ」
「もし、この先に何にもないようだったら、もう一度、あの筏に乗って、あんたがいたところまで戻るしかない。
あれだけ、大立ち回りがあったあとだ。漢族がいるだろうが、地上への出口もまちがいなくある。突破すれば、なんとかなるかもしれん」
「お腹がすいているのに、戦えやしないわ。この先に、なにかあるといいわね」
歩いていくと、壁が途中で途切れた。
と、同時に、暗闇の向こうから、はっきりと、青臭い香りがただよってくる。
植物のにおいである。
まさか、と思いつつ、闇のなか、先を急ぐと、そこにあらわれたのは、さらに地下へとつづく階段であった。
ゾトアオが探しているのは、地上へ向かう階段だ。
しかし、見つかったのは、地下へつづく階段である。
がっかりするゾトアオに、寧寧が言った。
「ねえ、もしかしたら、地下に草が生えているんじゃないの? もしかしたら、食べられるものかもしれないわよ。
地上に戻るにしたって、お腹がすいていたら、途中で飢え死にしてしまうわ。一旦、地下に降りて、腹ごしらえして、それからまたここに戻ってくればいいじゃない」
寧寧のいうのももっともだと、ゾトアオは思った。
下に降りたら、二度と上に戻れない、というものではないのである。
そして、ゾトアオは、僚人の娘とともに、地下へと潜っていった。
九門古城の第六階層である。