捜神三国志・燭龍本紀

第三十一話 虎と姫君、そして赤頭巾は、今

第一の門は栄耀飯店の地下に。
第二の門は酸の沼。
第三の門は神政門の石の地下。
第四の門は孔明が荊州兵に使用させている。
第五の門は馬超らが使用する。

「第四の門とおっしゃるそれは、武坦山のそばにある、ふるい塚の地下となる。そこの棺の下に、入り口がかくされているのだ」
と、趙雲は言った。
その前には、董和が書き綴った、成都の地図のうえに九門古城の入り口を書き入れたものがひろげられている。
「となると、所在はわからぬが、まちがいなく存在するものは、第五の門、ということになるな」
「しっかし、古城というのは、おそろしく広いものでございますねぇ。成都の街くらいの大きさがあるのじゃありませんか」
と、覗き込んでぼやくのは、趙雲がおかしな真似をしないか、警戒しつつも、董和との話し合いに入っている、商店街の親父である。

「貴殿は古城に入られたことはあるか」
と、董和がたずねると、趙雲は、あいまいに相槌を打った。
「入ったともいえぬな。最初、軍師に古城のことを教えられたときには、とてもではないが信じられなかった。まして、そんなふうに、よくわからぬ場所へ、大事な部下たちを送るわけにもいかぬ。
それゆえ、軍師の命令で、俺が最初に地下に入った。だが、進んだのはほんのすこしだけだ。
武坦山の入り口は、迷路にもなっていない地下の通路で、栄耀飯店の地下のように、見事な石畳や装飾がほどこされている壁などはない。
思うに、天然の洞穴を利用して掘ったものではなかろうか」
趙雲のことばに、董和はうなずきながら、地図の空いている箇所に、筆を走らせた。
「古城全体が方状に広がっているわけではなく、蜘蛛の体のようになっているのかもしれないな」
筆が、まず楕円を描き、つづいて、そこに、董和は自分で述べたように、手足のようなものを九つ書き入れた。
「外部から侵入する通路が九つあり、そのたどりつく先に、栄耀飯店の地下にあるような、壮麗な空間が存在しているのだ。
軍師将軍は、九門古城は、かつては町として使用され、そのあと、墓場となったと述べていた」
「お偉い方は、お墓を、生前とおなじようにこしらえると言うじゃありませんか。
壁に市場を描いたり、土でできた食器や調度品などを置いたりする。
それと同じように、むかしの王様が、自分の宮殿そっくりの建物を地下につくったとは考えられませんか」
と、晴嬰が、なかなか鋭いところをついてきた。

晴嬰のいうとおりで、始皇帝の墓の伝説を持ち出すまでもなく、富豪や、高級官僚などは、死後でも生前とおなじ生活ができるようにと、墓所をそのまま、家そっくりにつくることがある。
家だけでは生活が成り立たないので、壁面に市場の様子や、家畜小屋、宴の様子などを描きいれることで、死者は生前とおなじ暮らしをできると信じられていた。
墓には、そのための調度品や食器などもおさめられ、遺族たちは、定期的に墓をおとずれて、その霊魂をなぐさめると同時に、墓が不埒な泥棒たちに荒らされていないかをたしかめる。
副葬品は、富豪であればあるほどに、豪華なものになるから、これを目当てにした者たちがあとをたたない。
そのため、常時、墓守りを置いている家もあるほどだ。
それでも墓泥棒はあとを絶たない。
始皇帝の墓には、泥棒たちを撃退するための、数々の仕掛け(侵入者に対して、自動的に矢を射ることができる弓など)があった。

「たしかに墓としての、地下の宮殿と言えなくもない。勝手に開閉してしまう、あの数々の奇妙な扉なども、もしかしたら侵入者を阻むためのものなのかもしれぬ。
が、墓ならば、なぜ九つも門があるのだろう。ここは単純に、出入り口がある、ということは、出入りする必要のある空間だった、と考えるのが正しかろう。
しかし、時代が下って、放置された。そして忘れ去られ、入り口も閉ざされた」
董和のことばにうなずきつつ、趙雲も言う。
「軍師は、古城について、こう言っていた。
史書から抹殺され、神話として封じ込められた国があり、その国は北方から侵入してきた者たちに滅ぼされた。
王は捕らえられ、八つ裂きにされたが、滅ぼされた国の者たちは、散り散りになった。王の一族は、ある者は王の亡骸を守って故国にとどまり、ある者は抵抗をつづけながら、南西へと逃げた。
抵抗ははげしく、侵入者たちは、かれらを駆逐するために、おそろしい武器をつかった。
亡国の民は地下へ逃れたが、やがて一人のこらず死んだ。侵入者たちは土地を平らげたあと、この武器の処分に困り、亡国の民が籠もった地下に、それを封じ込めた」
「それが『得れば必ず天下をとれる宝』か」
「左様。しかし、軍師は、こうも言っていた。『たしかに、宝を得れば、天下を取ることは叶う。だが、その後、天下を治められるかどうかは疑わしい。それほどに危険なものなのだ』と。
だから、軍師は、宝が、だれかの手に渡るようなことがあってはならないのだとも言っていた」
「その宝がどんなものなのかわかりませんけれど、いま将軍さまがおっしゃった伝説は、どこかで聞いたことがありますね」
晴嬰がうなずくと、商店街の親父たちも、たがいに顔をみあわせて、うなずいた。
「そうだ、どっかで聞いたことがある。でも、なんだったかな」

「軍師将軍は、わたしに、その八つ裂きにされた王の子孫こそが自分なのだと言っていたが、貴殿もそれを聞いておられたか」
董和がたずねると、趙雲は真摯な顔をして応じた。
「貴殿らはおそらくご存知ないであろうが、軍師は、おのれの才智がたいはんの世人を上回ると信じておる。
それゆえ、いまさらおのれの出自を底上げして、人々の気を引こうとするような真似はせぬ。
いま、このような状況では信じがたいかもしれないが、軍師は、まずめったなことでは政治に私情をからませようとしないのだ。
おそらく幼宰どのは、軍師がおのれの出自を高いものにして、人の歓心を得ようとしているのではないかと思っておられるのであろうが、それはない」
趙雲は、言葉をかさねて、まるで孔明を庇うようにして、董和の考えを否定してみせた。
董和は、そんな趙雲の内面で、さまざまな葛藤が起こっていることを看過した。
「軍師は、入蜀したあと、変わられた」
と、無念そうに、生真面目な性格が、そのまま顔にあらわれている武人は言う。
「軍師がはじめてわれらのまえに現れたのは、主公が劉州牧の食客となって新野に留まっておられたころだ。
われらはそれまで、文より武を重んじ、思いつくまま、ただ目の前のことだけをこなして日々を費やしていた。
目標は漢王朝の復興ではあったが、いまこなしている仕事が、果たして目標にとどいているのか、疑問に思いながら過ごしていたのだ。
そこに筋を通したのが軍師だ。われらの、おぼろげにすぎた夢や理想に、血を通わせてくれたのだ。
軍師がいなかったなら、われらはいまごろ、きっと曹操に追われ、呉と同盟を組むこともできず、南の果て、交州の片田舎でくすぶって、天下が呉と魏によってどんどん併呑されていくのを、ただ指をくわえてながめていただけになっていたかもしれぬ。
とはいえ、最初からすべてが順調であったわけではない。軍師の采配に、不平不満をもつやからは多かった。
いま思い返せば、呆れるほど児戯めいたいやがらせを仕掛けていた者もおる。主公のほかは、軍師を認めようとしていなかった。
こうしたなかで、軍師はひたすらおのれの仕事をこなしていた。そうすることで、だれもがおのれを認めざるをえなくなると信じていたのだと思う。
俺たちは単純だからな、もし、あのとき、軍師がおのれの出自を、遠いむかしの王の子孫であると口にしていたら、もっと早く心服していたかもしれない。だが、軍師はそうしなかった。
入蜀のあと、世人のだれもがおのれを認めてから、はじめて俺だけにそう打ち明けたのだから、逆にそれは、信じてやってよいのだと思う」

「なるほど、将軍さまは、ずいぶんと軍師さまに惚れてらっしゃるんですねぇ。なのに、あたしたちのところへ来て、大丈夫なのですか。
あとで未練たまらず、元に戻ります、なんてされちゃあ、あたしたちだって困りますよ」
と、長星橋商店街の代表でもある晴嬰は、疑いのまなこで趙雲を見る。
すると、趙雲は困ったような表情を浮かべながらも、自嘲めいた笑みを口はしに浮かべて、言った。
「いますぐに信じてくれとはいわぬ。それは貴殿らにとってもムリな話であろう。
うまく説明することはできないのだが、軍師はほんとうに変わった。まるで、なにか悪いものが取り憑いているようだ。
手塩にかけて育てた兵卒を、情け容赦なく地下へ潜らせ、そこで人死にが出ても、嘆くことすらしない。あんなふうではなかった。
地位や名誉によって心が狂い、いやらしい性根が出てきたとは思えない。あまりにこれまでと逆に過ぎるのだ。
もしかしたら甘い考えかもしれないが、軍師をもとに戻す方法があるとすれば、それは九門古城の宝を破壊することだと思う」
「へえ、軍師を元に戻すため、ってのが、『得れば必ず天下を取れる宝』をぶっ壊す理由、っていうのがすごいね。
天下を取れるかもしれない宝を壊して、一人の人間をとりますか。いや、誉めていますが」
と、親父たちが感心して趙雲に言う。

董和としては、趙雲の心情がわからないでもない。
どこか気ままであることが許される、商店街の親父たちとは、趙雲の身の置いている場所の厳しさはちがう。
組織というもののなかにあって、その方針を大きくぐらつかせるほどの失敗をしてしまったときの、その落胆と、身の置き所のなさ。
そうしたなかで、差し伸べられる手のありがたさ。
公的な人質であった孫夫人を、みすみす取り逃がしたことで、要職から外された。
そのあと、孔明によってふたたび拾われ、入蜀に貢献し、恥をそそぐことができた。
趙雲が孔明に対して感じている恩義は、想像しているよりも、はるかに深く、大きいものなのかもしれない。

『が、そうであればあるほど、危ういな』
と、董和は思う。
趙雲が助力を申し出てくれたことは、素直にありがたいと思う。
が、趙雲もそれなりの覚悟を決めてはきただろうが、もし、孔明と直接に対決しなくてはならなくなったとき、本気で戦うことはできるのだろうか。

「ところで、軍師将軍のご先祖の話がほんとうだとして、どうしていまさら九門古城の話が出てきたのでしょうね」
晴嬰のことばに、これまた趙雲が答えた。
「軍師も、最初は九門古城のことなど、信じていなかったそうだ。
ところが、一子相伝で受け継がれてきた九門古城の地図のとおり、古い塚の地下を調べてみたら、たしかにそのとおりの空間が見つかった。
それだけだったならば、軍師もそう騒ぎはしなかっただろう。地図を捨て、入り口を塞いでしまえばよい。
ところが、軍師が入り口を見つけたのとおなじころ、成都の宮殿の奥深くにしまわれていた地図が盗賊によって盗み出され、べつの入り口があきらかになり、多くの者が、地下に潜って争いをはじめた。
黒社会を中心に、噂は抑えようもなく広がり、しかも、尚書令までもが古城のことを知るに至った。こうなれば、もう見過ごせぬと思ったのだ。
地図をもとに、古城の宝をまず先に奪取しようとしたのだが、古城は想像以上に広すぎた。それゆえ、軍師もどんどん焦っていったのだ」
「地図があるんだったら、まっすぐお宝の場所へ行けそうなものじゃありませんか」
「地図は途中までしかない。四階層目までで、のこりの五階層がどうなっているのかはわからないのだ」
趙雲のことばに、董和をはじめ、商店街の親父、晴嬰も顔を見合わせた。
「おかしな話だな。だれかが途中を千切ったとか、そういう話ではないのか」
「先祖の遺言とかで、地図は軍師しか見ることができないので、これも憶測だが」
「ケチなご先祖だね」
趙雲は、話の腰を折った親父を、ちろりと横目でにらんだ。
親父のほうは、その目線に、首をすくめる。
「軍師の先祖の話からすると、その一族は東と西とに真っ二つに分かれた。距離ができてしまったため、連絡も思うようにいかなかった。
九門古城はともかく広い。あれを作るのには、相当な時間が必要であったろう。そこから考えれば、古城をつくった先祖たちは、東にとどまった一族に古城のことを報せたが、しかし、『建設途中の古城』のことしか伝えられなかったのではあるまいか。
軍師は、俺たちに地図の写しを与えてくれたが、四階層目までの地図は、きわめて正確だった。昨日までは、怪我人が出ても、死者が出るようなことはなかったのだ」
そう言って、趙雲は悔しそうな顔をする。

一方で、親父や晴嬰は、趙雲のことばに、なるほどと納得していた。
「伝説がそのとおりだとして、敵から身を隠すために、地下に町を作った。町だから、地上をつなぐ九つの門がある、と」
「ほんとうに九つかどうかは、怪しいだろうな」
董和がいうと、趙雲もまたうなずいて、同意した。
「俺もそう思う。九つという数字はめでたい数字であるから、入り口がたとえば七つしかなくても、『九』という文字を当てた可能性がある」
「それをいうなら、『十』あるものを『九』としたかもしれないですぜ」
親父のことばに、董和が添えた。
「そうだ。七つかもしれないし、十かもしれないし、九つかもしれない。
ともかく問題は、門のそれぞれを、われらが利用できない、というところにある。こうなると、残りの門を探さねばならない」
「心当たりが、ひとつある」

趙雲のことばに、董和は、おのれの屋敷を買収することにこだわっていた孔明のことを思い出していた。
いまも、董家は、孔明の息のかかった荊州兵によって固められているという。
だが、趙雲が口にしたのは、董和の屋敷のことではなかった。

「武坦山の入り口が、天然の洞窟を利用したものだというのは、さきほど言ったとおりだが、その通路の一部に、じつは横道がある。
どこへ通じているものかと調べさせたところ、途中で水が湧いていて、先を見たら、どこかの井戸に通じていた。
井戸から遡らせて地上に戻ってみたら、そこは廃屋の枯れ井戸だった。
その屋敷というのも、かなり古い血筋をほこる旧家の持ち物であったのだが、家人がすべて流行病で死んでからは、放置されているのだとか」
「そこが、門のひとつ?」
「かもしれぬ。そこを使って地下に降りていくことは十分可能だ。だが、途中でオレの兵の使っている道に合流するので、そこは注意しなければならぬ」
「いや、それなら、将軍様が使っている塚の地下でしたっけ、そいつを軍師将軍に見つからないように、こっそり使っちまう、というのはどうです」
親父のことばに、趙雲は首を振った。
「塚には見張りがついていて、こいつらは、たとえ俺が命令しても、軍師の同意がなければ聞かない。
それに、もし俺が、おまえたちの仲間とともに塚の地下へ入ろうとしたら、すぐさま軍師に報告をするだろう」
「そうなると、横道からこっそり、というわけですかい。けど、その井戸のことだって、見張りがついているかもしれませんぜ」
「それはない。俺は最初にその井戸を見つけたとき、井戸を兵卒たちに命じて、だれも入ることができないように、埋めさせたのだ」
「それじゃあ、俺たちだって入れませんよ」
「その心配も無用だ。井戸はたしかに埋めた。だが、すべてを土砂で封じることはできないので、それはあきらめて、井戸の口に板を打ちつけることにしたのだ。
あれをはがしてしまえば、問題なく潜れる」

「入り口も確保できたとなると、あとは、人ですね」
と、晴嬰は、董和のひろげた地図を見下ろし、おのれの唇を無意識に指先で叩きつつ、つぶやいた。
「趙将軍と、伯岐さんと、二人だけというのも心もとないですから、商店街のなかから、若いのを何人か連れて行ってもらうとしても、それだけで足りますでしょうか。
幼宰さま、そんなお体で、一緒に行くというのは、なしですよ」
晴嬰に釘をさされて、苦笑しながらも、董和は答えた。
「場所が場所だけに、大勢で潜ればよいというものでもない。
古城が危険なのは、そこにある仕掛けが得たいの知れぬものばかりということもあるが、そこに同じく潜っている連中が、人殺しをなんとも思わぬ無頼者であるというところにある。
目下の危険は、軍師将軍の荊州兵と、盗賊どもであろうか」
董和が言うと、趙雲はきっぱりとそれを否定した。
「いや、馬孟起、そして彭永年の二人だ。あの二人は、宝が欲しくて地下に潜るのではなく、ただ人を殺したいから地下に潜っているのだ。遭遇すれば、まちがいなく戦いになろう」
「人を殺したいから地下に潜るだなんて、狂っておりますね」
嫌悪感もあらわに晴嬰が言うと、趙雲も、そのとおりだというふうにうなずいた。
「馬孟起のほうは、心ならずも、われらに下るかたちで入蜀に協力せざるをえなくなり、客将あつかいとはいえ、事実上、主公に家臣の礼をとったもおなじ。鬱積したものがあるのだろう。
だが、彭永年のほうは、まさしく狂っているとしか言いようがない。
昨夜も、地下で遭遇した荊州兵の一部隊を全滅させた」
「ぜんめつ!」
それがどれほどの修羅場であったか、想像もつかないものの、酸鼻きわまる光景であったろうことはわかり、趙雲以外の全員が、おそろしさに、ぞっと震えた。
「もし彭永年があらわれたら、これの相手は俺がする。地上ではだめだ。
彭永年を討たねばならぬ理由を表に出すということは、古城のことも出さねばならなくなるからな」

趙雲の双眸に、暗いものが宿る。
それは怒りと憎悪であった。
趙雲が古城に潜ろうとする理由は、宝の破壊というよりも、死んだ部下たちの報復と、そして孔明を正気にさせるため、ということらしい。

「勝手な言い草だね、復讐したい、惚れた相手を正気にさせたい、だから宝を壊すっていうのかい。
そんなことはさせないよ。壊すくらいならば、宝はあたしに寄越すがいい。
漢族が使いこなせなかったその宝を、あたしが使いこなしてやろうじゃないか」

突然に、割って入ってきた甲高い声に、仰天して一同が振り向くと、部屋の入り口に、いつか見た、炎のようにはげしい眼差しをした黒イの姫君が立っていた。
そうして、そのうしろには、決まり悪そうな顔をした張嶷が、顔をゆがめて立っていた。



「♪はーやーく こーいこーい♪」
と、呑気に唄を歌う赤頭巾のほか、宮城の牢の大部屋には、ぴりぴりとした緊張が走っていた。
盗賊の頭である小男の陳勝はもちろん、文偉も休昭も、だれかが牢に近づいてくるたびに、はっと身構えてしまう。
たいがいが、やってくるのは牢番で、今日は、いつにもまして大部屋が静かなので、ふしぎがって様子を見にきているのである。

大部屋が、いつもよりも静かであるのには、理由があった。
牢の奥にある拷問部屋に、夜な夜なあらわれる彭恙は、朝が明ける頃、囚人たちがまだ寝ぼけ眼でいるころに、ふたたび拷問部屋から外へと出て行った。
そのあいだ、囚人たちは、だれも筵から顔を出すことがゆるされなかった。
文偉がぞっとしたのは、朝方あらわれた彭恙のその全身から、間違えようもないほど強烈に、血の臭いがしたことである。
まちがいなく、だれかを殺してきたのだ。
顔を上げることができなかったので、その姿もはっきりとは見えなかったが、薄目で見た限りでは、彭恙の姿は、ひと晩でずいぶん汚れていたようだ。

「まちがいねぇな」
と、言いながら、彭恙が去ったあとに、いちばんに起き出した赤頭巾は言った。
訳知り顔の赤頭巾に、陳勝をはじめ、囚人たちが、どういうことだと詰め寄って、そして聞きだしたことは、おどろくべきことであった。
「あんたたちの先代が掘っていた『九門古城』の入り口が、おそらくあの拷問部屋のどこかにあるのだ。彭永年は、そこに毎晩もぐって、楽しく冒険しているのだろうよ」
どうしてわかる、との問いに、赤頭巾は、堂々と胸を張って、答えた。
「勘だ! けど、儂の勘はとてもすごい! まずアタリだろうぜ。こいつは、とんでもなく幸運だ。
どうだい、あんたたち、男なら、儂の計画に乗ってみないか」

大部屋の囚人たちは、赤頭巾のことばを胡散臭く思いながらも、耳だけは貸してやると、その話を聞くことにした。
だが、赤頭巾の話がどんどん進むにつれ、囚人たちの顔は、赤くなったり蒼くなったり、さまざまに変化することになった。

要するに、こうである。
「彭永年は、今晩か、さもなければ近いうちに、また牢へ降りてくる。そのときに、一緒に俺たちも古城へ連れて行ってくれというのさ。
あんたが儂たちを牢から出してくれるなら、宝を探すのを、儂たち全員が助けるとな。
あんたたち、盗みに関しちゃ玄人だろう。それに目利きだ。彭永年にそういえば、あいつもけっこう欲深だから、そいつも悪くないなと考えるにちがいねぇ」
「つまり、ここにいる全員で、脱獄しようってことか」
呆れて陳勝がたずねると、赤頭巾は、屈託なく、カカカ、と笑った。
「そのとおり。この場の全員でやるのだぜ。牢番に見つからないようにしないといけねぇな。
彭永年にどう話を持っていくかだが、これは儂が責任をもってやる。あんたたちは、いつものとおり、彭永年がやってきたら、タヌキ寝入りをしていてくれや。
儂があいつからうまく『是』の返事をもらえるまで、目を開けちゃならないよ。大丈夫、失敗することはない。儂にまかせておきな」

赤頭巾の言う計画は、ずいぶん大雑把である。
任せておいて大丈夫なのか、不安も残るところであったが、いちばん厄介な、彭恙との交渉を言いだしっぺである赤頭巾がする、ということで、陳勝も同意し、手下たちも、それに従うことになった。

「ほんとうに、大丈夫なのだろうか。九門古城なんていうものが、成都の地下にあるだなんていう話も、とても信じられないよ」
と、休昭は、文偉にこぼす。
脱獄したら、そのほうが罪は重くなる。
なにかとくよくよしがちな休昭は、あとのことを考えて、おびえているのであった。
そんな休昭を励ますべく、文偉はつとめて明るく言った。
「信じられないことばかり起こるのが昨今だ。いまさら地下になにがあろうと、わたしは驚かぬぞ。
それより、生き延びることができる機会がめぐってきたことをよろこべ。牢に留まっていては、いずれは消される。
安心しろ、おまえひとりではなく、わたしも一緒なのだからな。それに、あの赤頭巾も、おかしな男だが、妙に頼りになる。きっとなんとかなるだろう」

休昭に言いきかせるかたちではあるが、そのことばは、そのまま自分を励ますことばでもあった。
牢に留まっていては、いずれは消される。
尚書令が牢に閉じ込めている存在を思い出すか否かで、運命が変わる。
そんな状況に、いつまでも留まっていてはならない。
生き延びるためには、まずここから出なければならないのだ。

お互いにお互いを励ましながら日中をすごし、やがて、彭恙があらわれる夜がやってきた。
そのころには、みなも不安がることにかえって疲れて、逆に、こうなったらどうにでもなれという、自暴自棄な気持ちに変わっていた。
支給される飯を食べ終わったあと、しばらくして、待っていたものはやってきた。

赤頭巾の合図に従って、みなは、いつでも外に出られる格好のまま、筵の中に横たわる。
赤頭巾も最初はみなと同じように横になっていたが、やがて、牢のあいだを抜けて、蝋燭を片手に拷問部屋へと向かっていくのが、彭恙でまちがいないと見ると、がばりと起き上がって、叫んだ。
「よう、大将、どこへ行くのだい。儂もいっしょに連れて行っておくれでないかい、『九』のつくところへさ!」


三十ニ話へつづく…
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