捜神三国志・燭龍本紀

第二十九話 祝融、押しかける

成都の東に位置する、いちばんの繁華街である長星橋。
ここを拠点にする博徒や侠徒は多い。
こうしたかれらの御用達の店のなかに、一軒の、崩れかけたような小屋がある。
この中からは、昼夜問わず、とんてんかんと槌の音が絶えたことがない。
黒社会に出入りするやくざ者たちは、この鍛冶屋で、愛用の得物を鍛えなおしてもらうのである。
鍛冶屋はほかにもたくさんあったが、とくにこの鍛冶屋が好まれるのは、仕事が早いことと、得物の刃こぼれの理由を、鍛冶職人の親父がうるさく知りたがらないところに理由があった。
しかし、ひとつだけ、欠点がある。
ここの親父は、たいそうなケチであった。
ところが、今朝は、その店の軒先に、たどたどしい字で、こんな看板が掲げられていた。
『日頃のご愛顧に感謝して、三日間、特別謝恩祭。いま一本お買い上げの方に、もう一本、ご進呈』

「謝恩祭、ってなんだ。あの親父に、なにがおこったか?」
「なにが起ころうと、オレたちに得なことなら、いつでも大歓迎だ」
というのが、その看板を見た者たち(といっても、鍛冶屋に出入りする者たちのほとんどが、文字を読むことができなかったが)の大方の意見であった。
看板の示すところの『一本』とは、剣のことである。

剣は消耗品である。
よほど腕のよい、そして質のよい鉄からつくられたものではないかぎり、その刃は容易にこぼれ、欠ける。
腕のよい鍛冶屋の剣がタダで一本、おまけで手に入るという話に、荒くれ者たちは飛びついた。
が、かれらは、看板の文字の下部に、ちいさくいびつに付け加えられた文字を読み逃していたのである。
曰く、
『ただし、うちの用心棒を倒した方に』
そして、得な思いをしようといして、鍛冶屋の扉をくぐった者は、すぐに鍛冶屋の扉から、強ばった顔をして出てくる。
鍛冶屋のなかには、いつもの親父のほかに、ひとり、やたらと目つきのするどい男が、不機嫌そうに、不貞腐れた顔をして、腕を組み、瞑目していたのである。
そして、その男は、だれかが入ってくるたびに、目をひらいて、そのつりあがった鋭い目で、なにか用かといわんばかりに、客を睨みつける。
その目線に気圧されて、みなあわてて引き返してしまうのだ。

この状況に、いちばん困っているのは、鍛冶屋の親父であった。
謝恩祭などという、よくわからない祭りを行うのは初めてだし、なにより、そのおかげで客が今日はよく来るなあと思っていると、「用心棒」と目が合うと、片っ端から、みんな逃げていく。
そのため、謝恩祭などという怪しげなもののためではなく、ふつうに鍛冶屋に用がある者まで帰ってしまうのだ。
「こいつは失敗じゃないのかね、伯岐さんよ」
と、首によごれた手ぬぐいをかけ、片手で年季の入った鎚をぶらぶらさせて、親父は言った。
すると、張嶷は、さらに不機嫌そうに、親父にたずねた。
「なぜ」
「なぜって、だって、表の看板と、あんたがここにいる目的ってのは、強いやつを募集するためってなものだろう。
それなのに、いままでの連中は、あんたと目が合っただけで逃げていっちまう。これじゃあ、腕試しが出来ないだろう」
しかし、張嶷は、親父のことばにうなずくこともせず、むしろくだらないことを言うな、というふうに目を細めた。
「俺と目が合っただけで逃げてしまうやつなど、どうせろくな腕も持ってない、半端な遊侠の徒にすぎぬ。そんな連中を信頼できるか」
「そりゃそうかもしれないが、もう日が暮れるってのに、いまんところ、帰らずにあんたと戦ったやつは、たったの二名。
なのに、あんたときたら、その二名にも手加減しないで、ぼろぼろにしちまった」
「あたりまえだ。手加減をしたら、相手の力量が読み取れまい」
しれっと答える張嶷に、親父のほうは、ため息をつきつつ、空いている手で、おのれの頭を、ぽりぽりと掻いた。
「なんというかね、あんた、ちょっと生真面目にすぎるところがあるね」
「どこがだ」
「あんたは自分と同じか、でなくちゃ、それ以上の腕のやつらを探しているのだろう? けれど、急いでもいるわけだ。で、どっちかというと、あんたは、自分と同じくらい強いやつを探すより、ともかく一緒に戦ってくれる仲間を急いで集めなくっちゃいけないはずだ。だろ? 
幼宰さまの策が大当たりしたおかげで、すぐに幼宰さまが見つけられる心配はなくなった。だが、この噂だって、何日もつづくものじゃない。あんたは短いあいだに、仲間を見つけなくちゃいけないはずなんだ」
「だから、なにが言いたい」
「つまりはだ、自分と同じか、それ以上に強いやつ、なんて贅沢言ってないで、そこそこの腕があって、義理堅いやつだったら、仲間に誘ったらどうだい、ってことだよ。
いくらつよくても、人をすぐ裏切るようなやつじゃ駄目だ。強くて義理堅いやつなんてのが、いまどき、この市井をうろうろしていると思うかい?」
張嶷が、ぎろりと、つよく睨みつけてきたので、鍛冶屋はあわてて付け加えた。
「いや、あんたは例外だ。強くて義理堅いとも」
「世辞はいい」
「むずかしい人だね」
言いつつ、鍛冶屋は、また頭を掻いた。

張嶷は、しばし、腕を組んだままむっつりとしていたが、やがて目をひらいた。
「たしかに、急がねばならぬのは事実だ。噂はじきに消える。そうなったあと、左将軍府がどう動くかだ。
噂の陰に幼宰どのがいることがわかれば、いままで以上に左将軍府の追及がきつくなる可能性のほうが高い」
「そうだよ、そうなるまでの時間稼ぎのための、この噂だろ。ともかく義理堅いのを集めておけばいいのじゃないかい。こんな商売やっているから、血の気の多いやつらとも付き合いがあるが、黒社会でも生き残っているやつらの顔ぶれってのは、たしかに腕のよしあしも関係しているが、もっと大きなところでいうと、やっぱり運だぜ」
「運」
鸚鵡返しにした張嶷に、親父はうなずいた。
「黒社会の人間だけじゃなく、武将ってのも、やたらと運をかつぐだろう。やっぱり、大なり小なり戦場ってのは、運に左右されるところがあるからな。弱弱しい新兵が、なんかのはずみで大将を倒しちまうことだって、運次第では、ある。
ま、これは、あんたからすれば、なぐさめ以外のなににも聞こえないかもしれないが、腕っ節のつよさは二の次にして、多少根性がなくても、義理堅いやつを中心に集めてみるってのも手だぜ」
「根性なしに、なにができる」
「追いつめられた人間ってのは、たいそうな力を発揮するもんだ。弱いところは、あんたが補ってやりゃあいい。あんたのために、特別に鋭い剣を作ってやるからさ」

張嶷は、納得してうなずきかけたが、ふと、うなずくのを止めて、眉をひそめた。
「親切はありがたいが、親切にすぎないか」
すると、鍛冶屋の親父は、傷つけられたらしく、おおいに顔をゆがめて、顔を赤くした。
「あんた、腕の立つ武人というわりには、考えが暗いな。人の親切は素直に受け取っておけよ。俺は、あんたのために動いているのじゃない。幼宰さまのために動いているんだ。そうでなくっちゃ、張大人の縁故だっていう、あんたなんかに敷居を跨がせやしなかったさ」
「張大人と、なにかあったのか」
張嶷がたずねると、ふてくされた鍛冶屋は、ぷい、と顔をそむけて、背中を向け、仕事のつづきをはじめた。
「俺は数年前までは、こんなふうに日の当たる場所で商売のできる人間じゃなかった。張大人に飼われて、専属の鍛冶屋をしていたのさ。
あんたの族父ってのは、化け者だ。あんなに冷酷なやつは、めったにいないだろう。
俺が当時作っていたのは、ただの武器じゃない。ほとんどが、暗器、でなくちゃ拷問のためのおどろおどろしい器具だった。俺自身も荒んでいたからな、生きるためには仕方がないと、そう思っていたさ。
思い出したくもねぇ話だが、あるとき、俺は張大人に、無茶な数の剣を注文された。とてもじゃないが、期日までは納めきれない数だった。無理だろうがなんだろうが、必死でなんとかしろ、そうでなくっちゃ、おまえの母親を殺してやると、あいつはそう言ったよ。
俺は必死で剣を鍛えた。だが、やっぱり注文をこなせなかったのだ」
鍛冶屋は、そこで言葉を切り、沈黙した。
熱気のこもる鍛冶屋の工房のなか、張嶷は、慎重にことばを選んで、たずねる。
「張は、おまえの母親を殺したのか」
「まさかやるとは思ってなかった。俺が納めた剣の試し切りだといって、自分で俺のおふくろをやりやがった。
注文の数に、いくつ足りなかったと思う。一本。たったの一本だぞ!」
涙目になって振り返る鍛冶屋に、さすがの張嶷も、目をそらし、うつむいた。
「すまぬ」
「あんたに謝ってもらったところでどうしようもねぇ。俺はおふくろを殺されたあと、すぐに仇を討つつもりで準備をはじめた。そのときに、俺の噂をどこから聞いたのか、幼宰さまがあらわれて、敵討ちなどやめるようにと言ったのだ。そんなことをしても、殺されたおふくろは、ちっとも喜びやしないと。
けど、そんな簡単に納得なんざできねぇ。俺は荒れまくって、この近在の者たちにも迷惑をかけつづけた。それでも幼宰さまだけは、俺を決して見捨てず、立ち直るまで、辛抱強く助けてくださったのだ。
それに、幼宰さまは、俺に言った。張大人は、かならず破滅する。引導を渡すことになるのは、このわたしになるだろう、だから、それを信じて力を貸してほしいと。
幼宰さまは信用できる。だから俺は、幼宰さまの手助けをすることにしたのだ。俺のこの腕を使ってもらい、俺の代わりに仇討ちをしてもらう」

鍛冶屋のことばに、しかし張嶷は、それは董和の、鍛冶屋を思いやるあまりの方便だったのではなかろうかと思った。
それが表情に出たのか、鍛冶屋は、作業の手を止めて、言う。
「幼宰さまは、今度は本気だ。いままであの方は、官職についておられたから、どこか思い切ることができなかったのだろう。
あの方は、俺にはっきり言ったぜ。今度こそ、九門古城もろとも、張を成都の闇に閉じ込める、と。
だから、俺も、全身全霊をこめて、幼宰さまのお手伝いをする。あんたが張大人の一族だろうと、幼宰さまが味方だと言うのなら、信じて力を貸す」
振り返った鍛冶屋の、憎しみのこもった視線を浴びつつ、張嶷は答えた。
「わかった。つらいことを思い出させてすまなかったな」
張嶷の素直なことばに、鍛冶屋の表情が、すこし戸惑いの混じったものに変わった。
「あんたも張大人を嫌っていると、幼宰さまが言った。だからここまでしゃべったのだぜ」
「安心しろ、それは事実だ。張大人を八つ裂きにしたいなら、してくれ。むしろ手伝う」
鍛冶屋は、もともと単純な性格らしく、こんどは怪訝そうに顔をしかめて、張嶷のほうを向きなおった。
「へえ? 血縁だろう? あんたの郷里のやつらがいまのことばを聞いたら、あんたの命のほうが危ないのじゃないのかい」
「俺と張大人は、血のつながりはないのだ。俺の母は再婚したが、その再婚相手が、張の一族だった。といっても、義父は堅気の男だ。俺よりも、自分が成都の黒社会を仕切っているやつの血縁だということを知らなかったくらいだ。知ったのは、つい最近なのだ。
張のやつが、古城のことを調べるため、あちこちに人を配した。主に親戚などを使っての仕事になったのだが、そのときになって、義父は、張大人の存在と名前をしったのだ。
義父は曲がったことの大嫌いな男だから、ずいぶん落ち込んでいたな」
「ふうん? 口ぶりからすれば、あんたはその義理の親父さんと、なんかありそうだな」
「特別なことはない。義父には感謝している。俺をここまで育ててくれたのは父だ。
俺は実父の顔を知らぬ。俺が父といえば、それは義父のことだ」
「と、いうわりには、なんだか親しみが感じられないね」
鍛冶屋の軽口に、張嶷は、ぎろりと目をきつくして、牽制した。
「うるさい。俺のことをあれこれと詮索するな。おまえが自分のことを話したから、俺も話したのだ。わかっていると思うが、このことは、ほかのものには口外するなよ」
「なんでさ。人に知られてマズイ話ってわけでもないように聞こえるぜ」
「いいから、黙っていろ」
張嶷がむっつりと顔をそむけてしまったので、鍛冶屋も、また頭を掻きながらも、作業に戻るしかなかった。

しばし、小屋のなかに、鍛冶屋の槌の音と、炉に燃え盛る炎の音だけがつづく。
汗だくになりながら、鍛冶屋が剣を鍛えていると、ちょうどそこへ、買い物を言いつけられていた小僧が帰ってきた。
「親方、表に人がいるよ。この看板はどういう意味だって聞いている」
小僧のことばに、短気な鍛冶屋は、鼻を鳴らして、叱りつけた。
「どうもこうもあるか、書いてあるまんまだと言ってやれ。挑戦したいってんなら、中に入れな! 伯岐さん、あんたの出番だぜ」
しかし小僧は、表のほうをちらりと見て、それから鍛冶屋と、張嶷を交互に見て、なおも逡巡している。
「どうした、じれったいやつだな。まさかおまえ、買い物ついでに、一杯引っ掛けてきて、酔っているのを誤魔化そうとしているんじゃねぇだろうな」
鍛冶屋がいうと、前科のあるらしいその小僧は、顔を真っ赤に染めながらも、首を振った。
「ちがうよ、そうじゃないよ。でもさ」
「でも、なんだってんだ。ええい、ハッキリしないやつだな。どけ!」

鍛冶屋は鍛えていた剣を乱暴に水桶のなかに放り込んで、扉のあたりで立ち尽くしている小僧を突き飛ばすようにして外に出た。
張嶷がそれを見守っていると、ほどなく、鍛冶屋は帰ってきた。
しかし、どうしたわけか、背中から小屋に入ってきた。
ちらりと見える横顔は、笑顔を浮かべつつも引きつっている。
鍛冶屋が入ってくると、次いで、女が入ってきた。
地味な色合いの、仕女の着るような衣裳を身に纏っている、背の高い女だ。
だが、その華のある美貌を目にしたとたん、張嶷は腕を組むのをやめ、帯びていた剣を抜き放った。
黒イ族の姫、祝融である。
鍛冶屋が引きつっている理由は、その咽喉元に、剣を突きつけられているからだった。

燃え盛る炎のようにはげしい祝融の目が、張嶷と合う。
「会ったことがあるね」
祝融は短く言った。
「あるな」
張嶷も、短く答えた。
「なるほど、おまえがここにいるとなると、やはり董幼宰はここにいるのだね。どこだい。祝融が来たと教えておやり」
鍛冶屋の様子を見て、すっかりおびえた小僧が、表に飛び出そうとするのが、張嶷の視界に見えた。張嶷は、するどくそれを制する。
「待て!」
小僧は、張嶷の声にびくりと身をすくませて、足を止める。
それを見て、祝融は目を細めた。
「どういうつもりだい」
「それはこちらの台詞だな。いきなり人の咽喉元に刃を突きつけ、脅しつけるのが黒イの流儀か。その男を放せ」
祝融は、しばらく刃を鍛冶屋に突きつけたまま、張嶷と視線を戦わせていたが、やがてあきらめて、刃をおさめた。
「おまえは、名前はなんと言ったか」
「張伯岐だ。南充国の張伯岐」
「では伯岐、あたしは董幼宰に会いたいのだ。おまえ、案内しな」
「なんだい、えらく威張った女だな」
解放された鍛冶屋が茶々を入れると、祝融は、するどくそのつり上がり気味の目で、鍛冶屋をにらみつけた。鍛冶屋は、まさに蛇ににらまれた蛙のようになって、身をすくませる。
「あいにくと、漢族の流儀なんてものは知らない。あんたたちは、人には作法作法とうるさく言うくせに、自分たちは決してそれを守らないじゃないか」
「そこまで嫌う漢族に、なぜ会いたがる」

張嶷は、祝融があらわれた理由が、九門古城のことにちがいないと、すぐに見当をつけた。
いつかの夜に乱入してきた際、仲間が古城に取り残されているから、第三の門のありかを教えろと言ってきたのも記憶にあたらしい。
冷静なところを見せて、張嶷は、祝融は余裕な素振りを見せているが、董和に会いたがるのは、まだ仲間と再会できていないからだろうと考えた。
「市井に流れている噂。軍師将軍が呉とつながっていて、部隊を巴に派遣しているだの、巴が魏と呉から独立を唆されているだの、あのでたらめな噂を流しているのは、董幼宰だろう」
「なぜでたらめと分かる」
張嶷がたずねると、祝融は、赤い紅がきれいに乗った唇を、凄艶に笑わせた。
「巴の商人に確かめればわかることさ。巴は平和そのもの。巴へむかう街道には、荊州兵の影も形もない。つまり、噂は嘘だ。
けれど、荊州兵は、どこかへ消えているのは事実。けれど、成都を出た様子はない。となれば、向かう先はひとつ」
「九門古城」
「そのとおり。董幼宰を捕らえたのは錦馬超、これは法尚書令と繋がっている。そして尚書令は張大人と繋がっている。
ところが、いま、董幼宰を追っている人間の顔ぶれは、尚書令側の人間ではなくて、荊州側の人間だ。
荊州側、つまりは軍師将軍諸葛孔明。なぜ諸葛孔明が董幼宰を追っているのかは、あたしは知らない。けれど、わかっていることは、董幼宰は、いま孤立しているということだ。
無位無官の人間のくせに、成都のありとあらゆる権力を敵にまわしている。そうだろう」
「そうだ」
張嶷が答えると、祝融は、読みどおりだったのか、にやりと笑うと、ことばを続けた。
「だから、董幼宰に会いに来たのだ。このあたしが、力を貸してやろうといいに来たのだよ」
「おまえが?」
思わずたずねると、祝融は、誇らしげに、笑った。
「そうだよ、あたしが力を貸す。だから、董幼宰のところへ案内しておくれ」



宮城においては、じつに奇妙な対面がなされていた。
法正と孔明、この両者による対面である。
もっとも、蜀のなかでも最重要職についている二人である。顔を合わせるのは毎度のことで、顔を合わせないでおられることが、まず、ない。
が、この対面に関して、なぜ奇妙であったかといえば、そこに劉備がいないからであった。
それまで両者が顔を合わせるときは、かならず劉備がそこにいた。
つまりは、完全に荊州代表と益州代表として、政治家としての顔合わせだったのである。

が、いまはちがった。
法正は、あらわれた孔明の、腹が立つほどの冷静さに、不気味さすらおぼえていた。
見てくれを非常に気にする男だということは、前々から気づいていたが、おのれの主公が消えたという事態であっても、一糸も乱れぬ完璧な姿で装い、しかも、その表情には、焦りや不安など、まったく見られない。
『もしや、こやつは、主公の失踪について、何もかも知っているのではあるまいな』
法正は疑って孔明を見るのだが、孔明の仮面のように美麗な顔からは、喜怒哀楽のどれも読み取ることができなかった。
悠然とした笑みを浮かべているものの、それは表面上のことだけだという、それだけがわかる。
『日増しに、人間離れしてくるやつよ』
不気味に思いながら、今後のことについて話そうとしたとたん、孔明のほうが先に口をひらいた。
「特に信頼できる者以外には、このことは誰にも口外せぬようにいたしましょう。それから、特に張将軍と関将軍には気をつけねば。
あの二人が、主公がいなくなったと聞けば、すぐさま宮城に向かってくる。張将軍のほうはともかくとして、関将軍が荊州を離れるようなことがあってはなりませぬ」

そのとおりだ。
が、法正は釈然としない。

「特に信頼できる者というのが、それを決めるのは、だれだ」
法正がたずねると、孔明は、そんなこともわからないのか、というふうに、微笑ながらも目を細めて、答えた。
「この期に及んで、駆け引きをしている場合ではございませんぞ。信頼できる者といえば、信頼できる者。いちいち名を挙げずとも、それは尚書令どのがよくご存知のはず。
つまりは、いま生き残り、貴殿のそばにおられる方々のことです」
つまり、孔明は、暗に法正の政敵への虐殺を当てこすっているのである。
その意図に気づき、法正は侮辱に腹を立てたが、孔明のほうは知らぬ顔をして、淡々とつづける。
「主公のお側に仕える者たちのなかで、とくに信頼できる者に言い含め、主公がいらっしゃらないことは、一部の秘密とし、主公が見つかるまでは、いままでどおりに振る舞うようにと命令するしかありませぬ」
「なんと、主公が居るフリをせよと? しかし、群臣のうちのだれかが、主公に会いたがったら?」
「感冒にかかって寝込んでいるとでも、言いわけすればよろしい」
「誤魔化しきれるのか?」
「するしかございますまい。尚書令どのにやり遂げる自信がないというのならば、この孔明が場を仕切らせていただきましょう」

孔明の提案に、法正は、はっとした。
もしや、劉備の身に凶事が降りかかり、その糸を引いているのが孔明だという可能性はないか。
暗に宮城を乗っ取るための、孔明の提案だったとしたら。

「いや、わたしが仕切る。貴殿は、補佐を頼む。宮城にあまり多くいない者が、急にいりびたると、かえって不審を招こうぞ」
抵抗してくるかな、と思った法正であるが、孔明は、意外にあっさりと引いた。
「分かり申した。そこまでおっしゃるならば、お任せいたしましょう。では、細々とした打ち合わせをしなくては」
と、孔明は、別室に控えさせている、劉備の側仕えの者たちを呼び寄せようとする。
その合図を、法正は止めて、腰を浮かせて、思わず尋ねた。
「貴殿、主公がどこへ行かれたのか、もしや知っているのではあるまいな?」
すると、孔明は、ようやく表情らしいものを顔に浮かべて、法正をまっすぐ見据えて、答えた。
「いいえ、知りませぬ」
孔明のことばに気圧されるかたちで、法正は黙った。
いや、黙るしかなかった。
孔明がようやく見せた表情は、つよい嫌悪と、憎しみの混じった、それは恐ろしい形相であったからである。
『こやつ、なにを考えているのだ』
怖じながらも、それをけんめいに押し隠しながら、法正は、なにかよくないことが、知らないところで進行していることに気づいた。
そして、行方の知れない劉備の身を思った。
見つけ出さねばならない。
天下の主にふさわしい人物は、劉玄徳のほか、法正は考えられないのである。

三十話へつづく…
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