捜神三国志・燭龍本紀
第二十八話 噂に踊る・Ⅱ
眠っていて噂を知らないでいた人物のなかで、起きていても噂を気にかけない人間がいた。
彭恙である。
彭恙は、明け方まえに、ふたたび拷問部屋の奥にある門から地上にもどり、そして薄暮のなかを堂々と、血のにおいをぷんぷんとさせながら、街へ戻ってきた。そうして、店じまいをはじめている妓楼の主が嫌がるのも構わずに、金でもってかれらをだまらせて、妓女を買うと、そこでしばらく休んで、それから昼ごろに自邸へもどってきた。
噂のことは、妓楼のなかで聞いたが、それを耳にしても、彭恙が別段におどろくことはなかった。
戦になるならば、なればよい、と考えていたのである。
自邸で遅い食事を摂っていると、使いをやって呼び寄せていた馬孟起が、疲れ切った顔をしてやってきた。
彭恙が馬超を呼び寄せたのは、これは、彭恙なりの心遣いからである。
馬超が、董和を逮捕して以来、元気がないことは知っていた。
おのれの武勇譚を聞けば、馬超も心が晴れるだろうと思ってのことだった。
彭恙からして見れば、馬超もまた、自分と同じ種類の人間なのだから、他者の武勇譚に奮起するだろうと思っているのである。
「最近は、屋敷のなかで籠もってばかりだと聞いていたが、らしくなかろう。
それ、酒でも飲め。楽師でも呼ぶか? それとも女がよいかな」
と、彭恙がからかって言っても、この誇り高い、野生の駿馬を思わせる男は、答えず、むっつりと黙っている。
馬超が落ち込みを見せ始めたのは、董和を逮捕した日からである。
彭恙からすれば、あんなじじいを捕まえて、民からちょっと文句をいわれたくらいで、いったい、なにを落ち込んでいるのだ、と思う。
彭恙は、身近な人間から向けられる目線には敏感であったが、視野は狭い。
そのことが、彭恙にさまざまな災いを招いている原因でもあるのだが、ともかく、そのために、成都の人々から、馬超がいま、どれだけ冷たい目で見られているか、知らないでいた。
勧められた酒も肴も、ほとんど口にしない馬超に、しかし上機嫌の彭恙は、昨晩の九門古城でのおのれの活躍を、とうとうと語って聞かせた。
馬超は、相槌をほとんどつかずに、ただ黙っている。
最初は、彭恙なりのまごころから、馬超を励まそうとして呼び寄せた彭恙であったが、話をしていくうちに、夢中になってきた。
そうなると、彭恙は、だれかを相手にしゃべっている、という状況にいれば、それだけでよくなってしまうのだ。
たとえ聞き手が、話をさえぎろうとしても、彭恙には、なにも聞こえなくなる。相槌すらも、彭恙は無視してしまう。
こういった癖もまた、彭恙の奇行とあいまって、正気をうたがわれる原因でもあった。
それに、彭恙は、話をするのが好きであったが、その話の内容は、さして面白いものではない。
彭恙自身も、中身のある話をしようともしていない。彭恙の話は冗漫で、ひたすら、自分がひとりで、どれだけの人数を倒したか、それだけを述べるものであった。
「たぶん、荊州兵どもは、一部隊が、全滅したのではないかな」
と、彭恙は、満足そうに言った。
「それでな、おまえもこれを聞けば、俺とともに潜ればよかったと思うだろう。
昨夜は運が良かったぞ、尚書令も、九門古城に潜っておったのだ。
栄耀飯店の張大人も一緒でな。尚書令も、俺の強さというものを、まざまざと思い知ることになっただろう。
なにせ、あの御仁の部曲の一隊を、やっぱり全滅させてやったのだからな」
それを聞いて、それまでうわの空であった馬超の顔色が変わり、顔を上げると、まじまじと彭恙を見た。
彭恙は、馬超が顔色を変えたのは、彭恙の強さに驚嘆したものだと単純に考えた。
「所詮は部曲よ、すねに傷を持つ流れ者の集りなど、ちっとも怖くない。さすがに荊州兵のほうは手ごわかったが、なあに、士卒長を倒してしまえば、あとはこっちのものだ。
狭い暗闇の中を逃げ惑うばかりで、さいごはちっとも手ごたえがなくなって、つまらなかったな」
と、彭恙は、昨夜の古城での様子を思い出し、杯を傾けながら、陰惨に笑った。
「尚書令は、なにも言わなかったのか」
馬超の問いに、彭恙は、肩を揺すりつつ、答える。
「言っておったな。けれど、覚えておらぬ」
「おまえ、それで無事に済むと思うのか」
馬超のことばに、彭恙は目を丸くした。
意味がわからなかったのである。
「なにを心配しておるのだ」
「当たりまえではないか。たとえ寛大な男とて、おのれが食わせてやっている者たちを目の前で殺されたら、腹を立てるであろう。
まして尚書令だぞ。これでただで済むとは思えぬ」
「おかしなやつだな。何を心配しておるのだ。俺は、劉玄徳の入蜀を成功させた功臣であるぞ。
俺は、本来ならば、尚書令になってもおかしくない人間ではないか。囚人であったからこそ、そうならかったが、もっと手柄を立てれば、また変わってくるだろう」
そういう彭恙は、未来を予想してか、ひとり、楽しそうに笑った。
彭恙の屋敷は、豪族の屋敷を接収してつかっているものである。
豪奢な作りには、入蜀を果たしたさいに、金持ちの家を襲って掠奪した品々を並べてある。
調度品と、屋敷の雰囲気は、まるで合っておらず、ともかく目立つ、高価そうなものを、ただ並べてあるだけであった。
もともとの屋敷のしつらえが、洗練されたものであるだけに、無頓着な部屋の様子は、まさにいまの屋敷の主である彭恙が、『侵略者』以外の何者でもないことを、逆に示しているようであった。
「ところで噂を聞いたか。巴のほうで、戦が起こるかもしれぬということだ。ありがたいことよ。今度こそは、また俺が、蜀を制したときのように、一軍を預けられて戦うことになるのだろうな。
いや、俺を使わずにはおられまいよ。尚書令は、俺のつよさを目の当たりにしておるのだからな。今度あずけられる兵の数は、何十万となるであろう。
そうなれば、俺も実力を存分に発揮できるというものだ。今度こそ、おまえに勝る武勲を得て見せよう」
もうその功績をたてたあとのような調子で、声を立てて愉快そうに笑う彭恙に対し、馬超が、らしくもなく、歯切れ悪く言う。
「ほんとうに、そうだと信じておるのか」
「信じるもなにも、そうであろう。武人にもっと必要とされるもの、それは強さだ。あいにくと、先の戦では、その強さを、俺はよく発揮することができなかった。
それにいまの蜀では、俺の実力をみなに見せる機会がなさすぎる。
九門古城はよい場所だとおもっていたが、戦が起こるというのなら、ずっと好都合だな」
「そこだ、おかしいと思わないのか」
馬超に尋ねられ、彭恙は、杯を手にしたまま、器用に片方の眉だけを吊り上げてみせる。
「巴に魏や呉が入り込んでいるという噂、あまりに唐突ではないか。
俺がいままで耳にしてきたなかでも、巴に関するものは、いままでなかった。
そも、なぜ魏も呉も、巴に目をつける。これが漢中や荊州だというのならわかるが、なぜ、さらに山深い巴なのだ。どうも突飛な気がする」
馬超は、いまや蜀軍の随一のつよさを誇る騎兵団である、部下である羌兵たちのために、日夜、ありとあらゆる噂を収集していた。
馬超にとっては、蜀は、決して安寧の土地ではない。頭の隅に、どこかで、北ヘ、涼州へかえるのだ、という思いがある。
あくまで、部下の羌兵も含めて、『馬超』は、客将なのだ。
政情次第では、動き方を変えなければならない。
劉備の政権は、蜀において、いまだ磐石とはいえないものなのである。
曹操や張魯の追撃をのがれて、ともに生き延びてきた部下たちのために、軍団長として、馬超は気を抜いてはおられないのだ。
「突飛であろうと、なんであろうと、戦が起こることが重要なのだ。平和な世に、俺の居場所はない」
それまで上機嫌で飲んでいた彭恙であるが、その双眸が、流石の馬超もたじろぐほどに、深く陰鬱な表情に変わった。
「曹操も孫権も、そして劉璋も、けっして俺を用いようとしなかった。いや、人としてすら扱おうとしなかった。俺はどこでも嫌われた。俺の話を聞こうとする者は、だれもいなかった。
俺は言葉がうまくない。それにこの顔だ。みな、俺と目が合っただけで、不快そうに顔を背ける。子供のころからそうであった。
だが、戦になればちがう。俺の真価は強さにのみある。戦場で多くの敵を倒せば、みなが俺を認めて賞賛する。この顔とて、むしろ敵を脅かすよい道具になる。
俺は、戦場であれば嫌われない。俺がまともに人としてあるためには、だれかと戦っていなければならないのだ」
「武器を手に、人を殺めるばかりが戦いであろうかな」
馬超が言うと、独語を吐いていた彭恙の顔つきが、またきついものに転じた。
「ほかに、どんな戦い方がある。俺は頭もわるい、口も下手だ。文官の仕事は向いておらぬ」
「だからといって、朝から女を買い、酒を煽っているのか。おまえ、治中従事の位を拝領してから、まともに働いておらぬのではないか」
馬超が言うと、彭恙は、顔を険しくして、しばらく馬超の顔を真正面からにらみつけていたが、ふっと力を抜くと、笑った。
「おまえは優しい奴だな。いままで、俺にあれこれと口を出してくる者はたくさんいたが、みな、俺が嫌いでたまらぬ者ばかりであった。
が、おまえは俺を芯から心配してくれる。
どうだ、孟起、また九門古城に一緒に潜らんか。あそこはよい。いろんな連中が出入りしていて、戦い甲斐がある」
「戦場が、俺たちの生きる場所か」
そうつぶやく馬超の表情には、どこか寂しげな表情が浮かんでいる。
「どうした、元気のない。前のおまえなら、それはよいと、喜んでくれただろうに」
「俺とおまえは、似ているが、すこしちがう。俺は、部下たちを守ってやらねばならぬからな。
知っているだろう、董幼宰を逮捕して以来、成都の民は、俺たちに冷たいのだ。いま、軍師将軍や尚書令が噂のせいで攻撃されておるようだが、俺はほっとしておるよ。
これで、すこしは、民は俺たちを忘れてくれるだろう」
「ふん、難しいことを考えるな。くさくさするときは、戦うのが一番だ」
「おまえの単純さがうらやましいが」
馬超は言うと、すこし笑って、それから首を横に振った。
「あいにくの誘いだが、俺はしばらく大人しくしているよ」
すると、彭恙は、子供のように拗ねた顔になった。
「なんだ、つまらぬ。すると、俺はまた一人か。
なあ、いま、この巴蜀のなかで、俺とおまえ以外につよい奴が、どこにいる? 張益徳どのくらいではないかな。しかし、あの御仁も年だ。
趙子龍は、あれは技巧にはすぐれているが、いささか神経が細かいし、黄漢升どのは年寄りすぎる。
のう、こんど戦が起これば、いちばん強いものがだれか、はっきりするであろうよ。そうしたら、だれも俺に逆らう真似はできなくなろう。
俺はじきに、大将軍にさえなれるかもしれぬ」
彭恙は、たしかに優れた武人ではある。
が、あまりに極端な武人でもあった。
武芸の面では申し分がないのに、世の中を見る大きな視点というものに、決定的に欠けているのだ。
さらに、その醜怪な容貌ゆえに、幼い頃から世間と外れてきたことが、彭恙のなかの一部を、まるで成長させないできてしまった。
それは社会性であったり、他者への配慮だったりする。
人から嫌われ続けていた彭恙が、はじめて人から賞賛された場が戦場であったこと、そしてそこで初めて大きな勲功を得て、周囲に好意的な態度で迎えられたことが、かえって、彭恙の大きな勘ちがいを引き起こしていた。
そして、それを糺してくれるような、ほんとうの友が、彭恙にはいないことが、かれの悲劇をさらに大きくしている。
馬超は、彭恙の友である前に、生き残った従弟や、部下たちのために存在している人間なのだ。
単純さでは馬超も劣らないところがあったが、彭恙とちがうところは、大きな悲しみに何度もさらされて、慎重になっていたことである。
静かな笑みのその下で、馬超が、すこしづつ彭恙と距離をとろうとし始めていることに、彭恙はまだ、気づいていない。
噂を聞いて、自分の知らない九門古城の動静を想像する者もいた。
祝融である。
ゾトアオと別れて、ひとり、おなじイ族の者たちにまぎれて、漢族のフリをしながら成都の町に祝融は潜伏していた。ゾトアオは、いまだ九門古城のなかに閉じ込められたままだ。
黒イの英雄を見捨てたとあっては、祝融の名がすたる。
とはいえ、九門古城に潜るための門が閉ざされている状況では、なにもできない。
巫女だという老婆の管理する第三の門のほうは、たまに様子を見に行けば、やはり、巫女の小屋には羌族が出入りしていて、近づくこともむずかしい。
栄耀飯店のほうは、入り口を、ずっと閉ざしたままである。
そんななかで聞こえてきた噂に、祝融は、もしや、と想像を働かせた。
尚書令の法正、軍師将軍の諸葛孔明。
この二人も、九門古城に潜入している(ただし、部下を使ってだが)ということは、祝融も把握している。
その二人が、特に槍玉に挙げられている。しかも、この時期に。
偶然であろうか?
『董幼宰の死刑をのぞんでいたのは、尚書令の法正だ。
その法正と裏で手を組んで、董幼宰を捕らえたのが、馬孟起。半分は羌族の血を引いているくせして、馬孟起め、漢族に自分を売ったのだ。なんて見下げ果てた男だろう。錦馬超の名が泣くね。
ともかく、馬超と尚書令はつながっていると見ていい』
祝融の強みは、異民族の姫である、というところだ。
成都のなかには、同族同士の集りが存在していて、なにか問題が起こると、商人や旅人は、同族を頼るようになっている。
それはイ族も同じだが、巴の異民族も同じである。
イ族は、巴に住まう異民族とは、友好的な関係を築いており、かれらの持つ情報は、容易に得ることができた。
噂をうけて、祝融は、かれらに噂の真偽をたずねた。
すると、かえってきた答えは、祝融の予想通りのものであった。
噂のような、魏や呉の動きは、巴ではまったく見られない。
もしそんな状況であるのなら、いまごろ成都に商いに来ている者たちは、戦にそなえて、あわてて故郷にとって返しているだろう、巴は平和そのものである、と。
『ずいぶんとあっさり足のつく噂だ。これはすぐに収まっちまうだろうね。
それにしても、この嘘の噂を流したのは、だれだろう。
諸葛亮とかいう左将軍府事になっている荊州の人間じゃなさそうだ。自分で、自分のわるい噂を、こんなに広めても意味はない。
尚書令だって同じだ。まして、魏だの呉だのではないし、あたしたちでもない。
だれが、なんのために噂を流しているのだろう。尚書令と左将軍府事の、どちら側でもない人間』
そこまで考えて、祝融は、ひとつ、思い浮かんだことがあった。
『なんで噂を流す必要があったのか、ってことを考えたほうが早いのじゃないか?
もしかして、両方を、牽制したかったのだろうか。けれど、なんのためだ?』
九門古城から距離を置きながらも、噂の背景を探るまで頭を働かせることのできる祝融であったが、いくら聡明であっても、そこから先を考えるには、材料が不足しすぎていた。
『噂は、まるででたらめというわけじゃない。荊州兵がどこかへいなくなっている、というのは、ほんとうらしい。
荊州兵といえば、このあいだ、あたしが董和たちを捕まえて、別の門を聞き出そうとした夜に騒いでいた連中だ。
あいつらも九門古城に潜っているとなると、おそらく派遣されているのは、巴ではなく、九門古城だね。
軍師将軍も、九門古城を狙っているのかもしれない。噂を流しているやつは、尚書令、馬孟起、軍師将軍たちに、宝を取らせたくないやつだ。
噂で動きを牽制しようというのが、その狙いだったら、どうだろう』
憶測の多い推理であるが、方向性はまちがっていないように、祝融には感じられた。
だれが、というところを考えて、突き詰めていくと、そんなことを考えそうな人間に、ひとりだけ、心当たりがある。
『ひとり、いるじゃないか。あのしぶとい漢人が。処刑場から助けられて、そのあと、どこへ逃げたかわからない、だなんて言われてはいるが、そうじゃあるまい。
長星橋。噂の出所も、たぶんあの当たりだろうさ』
祝融は、思い立ったら、迷わず、すぐに行動する女である。
董和がなにをしようとしているのかわからないが、九門古城が絡んでいる以上は、ゾトアオを助けるために、動いてみたっていい。
目立たないように注意しながら、祝融はひそやかに、街の東へと足を向けた。
長星橋へ。
時間が経てば経つほどに、どんどんと噂が具体的になっていくことに、趙雲は焦れていた。
火のないところに煙は立たぬ、というものだが、たしかに、この噂はでたらめではあるが、まったくのでたらめではなく、随所随所に真実が含まれている、というところが問題である。
もちろん、孔明が、呉の諸葛瑾と繋がっていることはない。
いくら、荊州時代にくらべれば、人が変わってしまったように見えるといっても、いまさら呉に寝返る算段をするほど、孔明は愚かではない。
もし呉に鞍替えしたとして、その地位こそ約束されるだろうが、重用されることは少ないだろう。
孫権は、猜疑心のつよい男であるから、なおさらだ。
それに、孔明は、あくまでおのれの哲学のために動く人間であって、私利私欲のためには動かない。
呉や魏が、高い報酬でもって孔明を釣ろうとしても、うまくいくまい。
欲には動かされない。
そこだけは、ぶれることはないのである。
孔明のところへ向かった趙雲は、すぐに面会をゆるされたが、いつもはしんとして落ち着いている左将軍府の、あわただしい空気が気になった。
人々の動きや言動から察するに、どうやら趙雲があらわれるまえに、べつな場所から使者がやってきたらしい。
その使者が、なにかよくない報せを持ってきたことは、左将軍府の主だった官吏たちの、すぐれぬ顔色を見れば、すぐに判断できることであった。
だが、そんななかで、あらわれた孔明の、意外なほどの冷静さは、かえって趙雲に、つよい違和感をおぼえさせた。
この青年は、すっかり感情というものが麻痺してしまったのでは、とさえ思う。
趙雲は、ここに来る直前まで、最近の孔明のことから想像し、きっと市井のいいかげんな噂に、怒り狂っているだろうと思っていた。
「あいにくと忙しい。用件ならば、早めに願おう」
と、孔明は涼しい顔をして、さらりと言う。
そのあたりには、もうすっかり慣れていたから、趙雲は怒ることはしなかった。
行方不明になった部下たちのことを思えば、張り倒してやるところであるが、趙雲は、かなりの精神力でもって、そうしたい気持ちを抑えていた。
感情的になるものに、孔明はおそろしく冷たいところを見せる。それは、荊州時代からの性質である。
余裕の笑みさえ浮かべているものの、周囲の様子からすれば、孔明に、あまり時間がないのは事実であるようだ。
趙雲は、手短に、自分の部隊の一部を、失踪した部隊の救出に当たらせるむねの了承をほしいと告げた。
「ならぬ」
と、孔明は、きっぱりと、ためらう様子もなく、言った。
無理をして、冷静さを取り繕っている様子はない。
荊州兵は、孔明にとっても大事な部下だ。
その部下が失われてしまったかもしれないというのに、孔明からは、悔悟の気持ちや、悲しみも、まったく感じ取ることができなかった。
「救出に向かうことは許さぬ。貴殿の部隊は、まだ温存しておいたほうがよい。
それよりも、いま休ませている者たちをまとめ、あらたに古城へ潜らせてほしい」
「また潜るのか。なんのために」
その質問は、孔明には愚問であったらしい。
はじめて、その表情に、苦いものが走った。
「何度と同じ説明をさせるつもりかな。わたしは時間がないと先に言ったはずだが」
「わかっている。九門古城の宝を得るためだろう。だが、状況を見てほしいと言っているのだ。
兵卒たちが、動揺している。こんな状況でまた古城へ潜らせてみろ。よい結果は得られぬぞ」
「ほう、みなが逃亡するかもと、そう懸念しておるのか」
目を細めて揶揄する孔明に、趙雲は、ぐっとおのれを抑えながら、答えた。
「そうではない。みな、逃げることはなかろう。むしろ、立ち向かってくる。
この意味は、おわかりいただけるかと思うが」
「わたしに刃向かうというのか」
孔明は、せせら笑うようにして言う。
以前の孔明は、軍師という職にありながら、武装している兵卒たちを怖がるところさえあった。
ところが、いまは来るなら来い、といわんばかりである。
これは、ほんとうに別人だ。
孔明の変わりように唖然としながらも、趙雲は、さらにつづけた。
「潜るのをやめよとは言わぬ。せめて、すこし時期を置くべきだ。噂が静まるのを待ってからでも、遅くはあるまい」
「いいや、遅い! こうしているあいだにも、古城には、多くの不埒な輩が、『得れば天下を取れる宝』を目指しておるのだ。なんとしても阻止せねばならぬ。
そのためには、だれより早く、古城の宝を見つけなくてはならないのだ。できないとは言わせぬぞ」
しかし趙雲が精一杯の反抗心をみせて、できない、と言おうとすると、とたん、孔明の眼光が鋭くなって、趙雲を真正面から射抜いた。
抜き身の刀を突きつけられたような、鋭い目線に、思わず言葉を飲み込む趙雲であるが、ここで引っ込んではダメだと、おのれを叱咤した。
部下たちのためだけではない。目の前にいる、孔明のためでもある。
孔明の砦ともいえる荊州兵たちが、ほかならぬ、その孔明を疑ってかかっている。
このままでは、孔明は完全に孤立してしまうだろう。
「単に兵卒が動揺している、というだけではない。はっきり言うぞ。軍のなかで、あんたが求心力を失っていることが問題なのだ。
みなが、あんたを恐れ、疑いはじめている。同じ釜の飯を食い、何度と修羅場をくぐりぬけてきた兵卒が、だぞ。
こいつらが、あんたに叛いたとき、これを抑えきれる自信は、俺にはない。
このまま古城へ潜ることをつづけさせていたら、まちがいなく、軍が割れ、収集がつかなくなる。あんただって、失脚するかもしれないぞ」
とたん、孔明の目が細められ、趙雲をにらみつけた。
「くだらぬ。泣き言は聞かぬぞ、趙子龍。収集をつけるのが、貴殿の仕事ではないのか。たかが噂であるぞ、民は飽きやすいものだ。じきに収まろう。なにを恐れることがある。
それでもまだ噂がつづき、わたしが呉にいる兄と通じていると疑うものがあれば、疑っている者のなかでも、とくに目立つ者を選び、これをみなの前で鞭打たせよ。さすれば、みな恐れて、噂を口にしなくなるであろう」
趙雲は、言葉をうしなった。
かつて、これほど、孔明が、酷薄な命令を下したことはない。
権力を握って人が変わったというような、生易しい変わり方ではなかった。
孔明は、その端麗な外見とは裏腹に、情の厚いところがある。
それが魅力となって、いままで多くの将兵が、孔明に従っていたのだ。
孔明もまた、おのれを慕う将兵たちを大切に扱っていた。
無体な命令を出したことなど、これまでに一度もない。
日に日に、孔明は、まるでなにかに蝕まれているかのように、悪いものに変わっている。
趙雲の沈黙をどう見たか、孔明はひと息つくと、言った。
「行方不明になった部隊のことを気にしておるのか。だとしたら、お優しいことだな、割り切るがよい。
どうせ、古城に関わったものは、すべて始末せねばならなかったのだ。その時期が早まっただけのこと。嘆くことも恐れることもあるまい。
貴殿はそれを十分に承知していたはずだと思うていたが、動揺しているところを見ると、そうではないようだな」
趙雲のことを思いやりながらも、兵卒への思いやりの欠けるそのことばに、趙雲はさすがに声を荒げた。
「手塩にかけて育てた部下だぞ。家族の顔さえ知っている。それをすべて殺すために利用するというのか!
九門古城とは、なんなのだ? 俺たちには、まったく関わりがないものだろう!」
趙雲が反駁すると、孔明は、にやりと笑った。
それは、あまりに凄絶な、さすがの趙雲もぞっと背筋を震わせるような、不気味なものであった。
「まったく関わりがないとは、呑気なものだ。天下万民の命がかかっている。だからこそ、わたしは焦っているのだよ。
それに、いまさらどうわめこうと、もう遅い。貴殿はすでに、わたしの話を聞いたのだ。つまり、共犯ということではないか。
一人だけ、志を高くしていようなどと、虫の良いことは考えぬことだな。
それに、思い出すがいい。わたしから離れれば、貴殿は一介の部将と成り下がる。もはや、だれも貴殿を拾わぬぞ。
命令をなにひとつ守れぬ武人に、いったい、なんの価値があるというのだ。よく考えるのだな」
たしかに、孔明の言うとおりだと、趙雲は苦りきって思った。
趙雲は、劉備の命令を守れなかったという負い目に、いまだ苦しめられていた。
荊州にて、大切な人質を逃してしまったことで、劉備の運命を大きく狂わせてしまったと信じている。
おのれを責め、絶望の中にいた趙雲に、手を差し伸べてくれたのは、ただひとり、孔明だけであった。
だからこそ感謝し、いままでどんな無理も聞いてきた。
いや、感謝ばかりではない。
いま怒りに突き動かされるまま、孔明のもとを離れたら、おそらくすぐさま指揮権を剥奪されて、かえって部下たちを危険な目にあわせることになるだろう。
それは回避しなくてはならない。
そして、孔明は、そうせざるをえない趙雲のことを、見抜いているのである。
「わかった」
趙雲は、短く答えた。
孔明は、当然だ、というふうにうなずくと、忙しさを理由に、すぐにまた奥へと引っ込んでしまった。
わかった。
が、そのひと言に籠められた真意に、孔明は気づかなかったようである。
孔明にとって誤算であったのは、たしかに趙雲は、恩を忘れることのない律儀な男であったが、手足のように動かすには、賢すぎたところだろう。
趙雲は、みずからの頭で、冷静に考えることができる男である。
追いつめられれば追いつめられるほど、その知性は、遺憾なく力を発揮する。
趙雲の頭に、ひとつの計画が組みあがりつつあった。