捜神三国志・燭龍本紀
第二十七話 噂に踊る
孔明の家に代々伝わっていた、九門古城の地図の写しを手に、孔明の管理する入り口から古城へ出入りしていた部隊が、行方不明となった。
単に道に迷って遭難しているのか、それとも、なんらかの『敵』に遭遇してしまったのか。
趙雲が部下に尋ねたところによれば、部隊は十分な食糧を手に古城に潜っていたという。
日数から計算しても、遭難とは思われない。
となると、もうひとつの可能性を考えなければならない。
「俺が受けた報告では、いままでは、入り口がちがうからか、栄耀飯店に出入りしている盗賊たちとは出くわすこともなく、古城の探索に集中できていたということだった。
だが、今回は、敵のいる領域に入ってしまった、ということだろうか」
趙雲が、、ほとんど独り言のように、憶測まじりに伝令にたずねると、伝令は、趙雲から目を逸らした。
趙雲としては、なにか深い意味があったわけではなく、思いついたことを口にしただけである。
それなのに、伝令は目を逸らし、あきらかにそわそわと落ち着きがない。
細作の類いとはちがって、正直な男であるらしく、そわそわしたその様子は、なんと言いぬけすればよいのだろうと、だれかに尋ねたがっているように見えた。
趙雲は、嫌な予感をおぼえて、たずねた。
「どうした。まだ俺に報告をしていないことがあるのか」
いつもよりも口調をきつくして尋ねると、温厚で知られる趙雲の変わりぶりに、伝令は、はっとなって、あらためて頭を下げた。
「恐れながら申し上げます。将軍には、いままで申し上げていなかったことがございました」
「いままで?」
鸚鵡返しにすると、伝令は、頭を下げたまま、ちいさくうなずいた。
「じつは、軍師将軍より口止めされていたのですが、われらは以前から、古城の内部で、盗賊たちと遭遇し、これと戦うことがたびたびございました」
趙雲は、咄嗟に言葉が出なかった。
兵卒たちが、趙雲に隠れて、盗賊と戦って、その戦利品を私のものにしていた、というのなら、まだわかる。
が、盗賊と遭遇していたことを、孔明が口止めしていた、という、その理由がわからない。
どういうことなのか。
「理由は」
理由もなく、命令を下す孔明ではない。
理由がもしあったとしても、孔明の慎重な性格からして、正直にかれらに打ち明けていないだろう。
わかっていても、趙雲はたずねた。
そうせずにはいられなかった。
「わかりませぬ。ただ、趙将軍には、盗賊と戦い、これを殲滅せしめたことは、口外してはならぬと、軍師将軍はきつくおっしゃいました」
「殲滅? 皆殺しにしたのか!」
「盗賊に遭ったならば、そうするようにと、みな、軍師将軍から、命令を受けておりました」
あの莫迦。
とっさに浮かんだのは、そのひと言である。
これまでの孔明とて、たしかに聖人君子というわけではなかった。
虫も殺さぬ、というふうでもなかった。
局面に応じては、非情な命令も下すことのできる軍師であった。
けれど、それでも、相手が盗賊だからと、その命の重さを侮って、殲滅してしまえ、などと、軽く命令する人物でもなかった。
いま、俺の気持ちが塞いでいるのは、なぜなのだ、と趙雲は考える。
孔明に完全に信用されていないとわかったからか。
それとも、孔明に対する失望が深まったからか。
盗賊だからと、これを殲滅して、屍の山を築く。
乱暴すぎる考え方だ。
古城に関わった者はすべて殺すと言い切っていた、あの言葉は、本音だというのか。
「みな、動揺しております。盗賊たちがこちらの動きに気づき、報復のために待ち伏せをしていたのかもしれない、と。
それに、なにやら怪しき輩が、われらの兵舎を見張っているらしく、そのことが、余計に仲間を怯えさせております」
「兵舎への見張りを強化する」
そも、民の安全をまもるための軍隊というものだ。
ところが、その軍隊を守るため、さらに見張りを置かねばならぬ、この状況。
苦りつつも趙雲が答えると、伝令は、ここまで口にしたのだから、というふうに、一気に言った。
「それに、九門古城に潜った者たちは、みなこう話しております。
もし、これで古城へ向かった者たちが命を落としたのだとしたら、勲功もなにもなく死んだことにもならぬか、と」
「行方不明だ。道に迷ったのかもしれぬ。死んだと決まったわけではなかろう」
動揺して訴えてくる伝令に、叱るように趙雲は言ったが、しかし、おそらく古城に潜った者たちは、帰ってこないだろうと予感していた。
とくに選んだ優秀な兵卒たちである。
しかも地図があるのだ。
いくら地下に広がる不気味な暗闇のなかとはいえ、そう簡単に遭難するはずがない。
「救出のための部隊を増員しよう。俺の部隊から人員を出す。軍師将軍にもそう伝えてくれ」
判り申した、と伝令は拱手するが、不満そうである。
伝令からすれば、罰を受けることを覚悟して、趙雲になにもかも打ち明けたのだから、もうすこし趙雲に動きがあるのではと期待していたのだろう。
趙雲も、その気持ちはよくわかるので、思わずこぼした。
「俺ももちろん口外せぬが、おまえも、いま俺にした話を、うかつによそに漏らすなよ」
「もちろんでございます」
「とくに軍師に、俺に漏らしたと気づかれぬようにせよ」
もしそれがばれたら、消されかねない。
味方だと思っていた人物を、なにより警戒せねばならない。
なぜこうなった。
九門古城などという、わけのわからないものが絡んできてから、すべてが狂ってしまった。
「古城のことは、秘密になどせず、公にしたほうがよいのだ。
秘密にしなければならないから、おまえたちも動揺するばかりであるし、くだらぬ噂が市井を席捲するような状況になる!」
苛立ちまぎれに言う趙雲に、伝令が、不安そうな目を向けてくる。
「恐れながら、われら兵卒のあいだにも不安が広がっております。古城へ向かった兵卒たちがだれも戻ってこないことが、噂に拍車をかけてしまっている様子でございます。
古城のことを知らぬ者は、噂のとおり、われらの仲間が巴に派遣されているのではと疑っておりまして、われらもいろいろ尋ねられますが、言いぬけするのも苦しくなってまいりました」
そうだろうなと、趙雲は、末端の兵卒たちに同情する。
古城に派遣された者たちは、口の堅さと勇猛さを認められて選ばれた者たちだ。いわば、あまたいる兵卒たちのなかでも選り抜きの者なのである。
それが、まともな戦地ではないところへ送られて、帰ってこない。
仲間の事情を知る一部は、これに不安をおぼえるし、一方で、なにもしられていない仲間たちは、噂を気にして、巴に派遣されたのではと疑う。
『このままでは、軍が割れる』
と、趙雲は思った。
それは、長いあいだ、軍籍に身を置いているからこそ、感覚でわかるものだった。
立ち去ろうとする伝令を、趙雲は呼び止めた。
「軍師将軍のもとへは、俺が直接に行く。おまえは、すまぬが、兵舎にもどって、古城のことは決して漏らしてはならぬと、みなに、あらためて言い含めてくれ。
ほかの、古城のことを知らぬものには、趙子龍が、安心せよと申していたと伝えてほしい。
混乱している時というのは、裏づけの取れない話も、さも事実のように吹聴されていくものだ。それを信じて、軍師に対して、刃を向けようとする不届き者が出ないとも限らぬ」
趙雲が、直接、孔明のもとへいく、と聞き、伝令は、ほっとしたように顔をゆるませた。
が、すぐにそれに気づき、隠すように、あわてて頭を下げた。
その様子を見て、趙雲は、ますます暗澹とする。
『入蜀するまでは、兵卒どもの軍師に寄せる信頼というものは、絶大なものだった。それがいまは、一気に失せつつある。
兵卒どもは、軍師を恐れ、嫌いはじめている。軍の中心が求心力をなくせば、兵というものは、訓練を受けている分、暴徒よりも厄介だ。
軍師は、それもわかって行動をしているのだろうか』
わかっていようとわかっていまいと、俺が、兵卒たちの代弁者となって、軍師に、態度を変えるようにと説得しなければならないのだと、趙雲はそう覚悟しながら、簡単に身支度をすませて、孔明のいる左将軍府へと足を向けた。
『魏と呉が手を結び、巴の民に、離反するようにと呼びかけているらしい。
巴の民はこれを拒んでいるが、呼びかけは執拗で、止まることがない。
あたらしいお殿様は、巴の民になにもしてくださらない…』
董和の思惑以上に、噂は成都の街のなかを、疾風のような勢いで駆け抜けていた。
董和の処刑がとりやめになって以降も、成都の街を覆う不穏な空気が晴れていないところへ、この噂である。
市井の民の、もともとくすぶっていた、荊州の人間への反発も、噂の速さに拍車をかけているらしい。
口から口へと、噂がひろがっていくにつれ、その内容も変質していく。
『巴の民が困っているのに、あたらしいお殿様がなにもなさらないのは、法尚書令が、ご自分の仇を血祭に挙げるのに邪魔をされたくないから、わざとお耳に入れていないのだ』
『軍師将軍が、巴に向けて軍をうごかしているらしい。
けれど、それはお殿様には内緒のようだ。軍師将軍の諸葛孔明さまというのは、兄君が呉に仕えており、事と次第によっては、呉に寝返るつもりなのかもしれない』
『軍師将軍の部隊のいくつかが、どこかに派遣されているのは、まちがいないらしい。
けれど、誰一人として、任地から帰ってこないそうだ。やはり、巴か、呉に派遣されたのではないだろうか』
街の端々に行き渡るころには、噂の内容には、かならず孔明の名も含まれるようになっていた。
もともと、特異な姓名である。
目立ちやすいのに加えて、若くして劉備の片腕であるという立場への興味も、そうした噂に借り出される原因であるらしい。
民は、いまだ孔明の人となりをしらない。
だから、孔明が裏切り者のように囁かれるのは、単に、成都の民の、荊州の人間に対する印象が、そこに集約されて表現されているにすぎない。
法正のほうは、深刻である。
成都の民にとっては、あたらしいお殿様の補佐といえば、孔明よりも、やはりまず、法正である。
そして、民にとっての法正は、憎い政敵を、ささいな罪に問うて、何人も、九族皆殺しにした、おそろしい人物、である。
さて、その法正であるが、おのれを侮辱した内容の噂が、市井でさも事実のように語られていることに、まるで気づいていなかった。
というのも、九門古城に長時間もぐっていたために、極度の緊張と披露に悩まされていたからである。
地上にもどると、法正は、張大人の、宴へのさそいを断わって、まっすぐ自邸に帰った。
そして病み上がりのようにやつれた顔をしながらも、すぐに風呂を所望して、家人たちをびっくりさせた。
法正が、食事より何より先に風呂に入りたがった理由は、血のにおいのためである。
九門古城の五階層目より、張大人の案内にしたがって、地上にもどってくるそのあいだ、法正は、まるで戦地の真っ只中を歩いているような気分を味あわなくてはならなかった。
というのも、張大人が予言したとおり、彭恙によって、通路という通路は、おびただしい数の兵卒の死体によって埋め尽くされていたからである。
これが陽光の照る地上の光景だというのなら、まだ法正は耐えられたかもしれない。
しかし、九門古城のなかは薄暗く、道案内の係の兵卒がかかげる、篝火のおぼろげな明かりのなかで見る死の数々は、はっきり見えないだけに、よけいに法正の想像力を刺激した。
薄暗く湿った空間のなかで、耐えることなくつづく血の臭いに、法正は歯を食いしばって耐えた。
通路に倒れたり、見事な石壁にもたれたりして、息絶えている兵卒たちのほとんどが、その兜の白い羽飾りでわかるとおり、孔明の部隊の兵卒であるようだ。
孔明の部隊が、いったいどこから九門古城に入ってきているのか、法正は知らなかった。
死体の道をたどっていけば、かれらの使っている門を特定できるかもしれない。
が、自分も、雇っていた部曲を、彭恙によって壊滅状態に追い込まれたため、そこを探る余裕を持つことはできなかった。
そも、彭恙が、どこへ消えたのかもわからない。
どこから来て、どこへ消えたのか。
そして、益州も荊州も関係なく、おのれの道を阻むものを、片っ端から殺してまわる、この無頓着さ。
『あやつは、いったい、なにをしたいのだ。殺せば殺すほどに、宝が近くなるとでも思い込んでいるのではあるまいな』
彭恙の行動のなかに、なんの信条も読み取ることができず、法正は戸惑うしかない。
彭恙は、法正からすれば、ともに劉璋に冷遇され、その後、やはりともに劉備のもとへ駆けつけ、その入蜀に貢献した仲間である。
その仲間が、残酷な奇行に走っているのを、なんとか止めたいという思いも、法正にはあった。
彭恙もまた、法正とおなじく、容貌がひとに不快を与えるほどのものだという理由から、その内面をまったく評価されず、獣のように嫌われて、とうとう主君を裏切ることになった人物である。
たしかに、世間からいじめられたことが、鬱屈した思いに繋がっているのかもしれないが、それにしても、この無差別な殺戮が、果たして正気でできるものなのか、法正は疑わしく思う。
法正の目下の政敵は孔明であるが、その部下にあたる者たちとはいえ、荊州兵のなかでも、とくに若者たちの、子供のような死に顔を見るのは、つらかった。
そうして、あまり血のにおいを吸い込まないように袖で口と鼻をおさえながら、通路をふさぐ死体を跨ぎ、血の海をつま先でうまく避けていく。
頭をくらくらさせながら、法正は考えた。
『地上に戻ったら、すぐに宮城に向かわねばならぬ。彭永年が正気ではないとするならば、治中従事の位に留めておくのは危険だ。
しかし、なぜだ。入蜀の時点では、あやつは立派に将としての勤めを果たしていた。平和になったとたん、狂気に陥ったか』
そこまで考えて、法正は思った。
『いや、戦そのものが、すでに異常な状況なのだ。
戦は、だれもが狂気に陥らねば、乗り越えることなどできぬもの。そうであったからこそ、彭永年の狂気が、目立たなかっただけのことではないのか』
だとしたら。
法正は、その容姿の醜さゆえに、尊い理想と志を持っていたのに評価されず、死んでいった張松のことを思った。
法正は、ただの残酷一辺倒の男ではなかった。
法正が残酷になるには、かならず理由がある。
法正からすれば、政敵をささいな罪に問うて滅ぼしたのは、大親友であった張松を死に追いやった者への報復であった。
張松は、法正とおなじく、もとは劉璋の家臣であったが、虐げられつづけ、とうとう我慢ができなくなって、主君を裏切ることにした。
結果は、ことが露見し、連座の罪を蒙ることを恐れた身内に売られて処刑されるという、悲惨なものだった。
龐統も戦死したいま、法正には、おなじ境遇におかれた知己は、彭恙しかいない。
なにかほかに理由があればよいと思いながら、法正は、ひたすら地上を目指した。
九門古城のなかにいるあいだは、怒りと混乱のなかにいたから、疲れもさほど感じなかった法正であったが、地上のおだやかな空気を吸ってしまうと、とたんに気力が落ちた。
すぐに宮城に行って、劉備に彭恙の異変について進言しなければ、あとあと問題が起こると頭ではわかっているのだが、体がついてこない。
法正は、もともと丈夫なほうではないのである。
これではいかんと、まずは血のにおいを消すために、風呂に入ることにした。
ところが、それが裏目にでた。
ぽかぽかと温まったあと、法正はすっかり草臥れてしまって、風呂から上がると、そのまま、ばたりと倒れこむようにして、ぐうぐうと寝入ってしまった。
夕刻ごろまで法正は眠りつづけた。
屋敷に出入りする行商人から、市井に勢いよく出回っている噂を耳にした法正の妻が、あわてて起こしにやってくるまで、外の様子を、まるで知らないまま過ごしていた。
妻から、噂の話をきいて、おどろいて法正は飛び起きた。
空が茜色に染まっていることが、ますます法正を焦らせた。
ほんのちょっと眠るつもりだったのである。
ところが、眠りすぎてしまったのだ。
あわてて着替えると、すぐさま宮城へ向かった。
宮城にも、噂が飛び交っていた。
孔明が独断で荊州兵を動かしているのは、事実である。
そして、九門古城の存在を知る者は、法正と孔明、それから彭恙と馬超くらいしか知らないので、官吏たちすら、孔明が巴に派兵したのではと疑っている様子であった。
法正は、噂を打ち消すため、巴へ、噂が事実なのかを確かめるための早馬を手配した。
それから、部下たちに命じて、民が騒ぎ出さぬように、噂には根拠がないのだとひろめるように命じた。
孔明が民や官吏たちから疑われていることは、法正にとっては、よい傾向であったが、ここで喜ぶほど、法正は愚かではない。
『いま、民は、たまたま軍師将軍を槍玉に挙げているのだ。噂をひろめながら、民は、巴の民に同情している素振りを見せてはいるが、ほんとうに口にしたいのは、いまの政道への不平不満であろう。
九門古城にかまけすぎていたか。
そも、この噂の出所は、いったいどこだ?
わたしだけが槍玉に挙げられるというのならばわかるが、民の攻撃の矛先のほとんどは、むしろ諸葛亮に向いている。
となれば、これは左将軍府の差し金ではあるまい。
連中とて、成都の民を不安に追い込んで、利になるところは、なにもないはずだからな。
連中の方が、民にとってはよそ者。治安の安定していない現状では、民から疑われ、憎まれるようになるのは、自身の一族の危険にもつながると、わかっているはずだ。
噂を流したのは、わたしでもなく、諸葛亮でもない、となると、まさか、ほんとうに魏や呉が動いているのではあるまいな』
そんなことを考えながらも、法正は、孔明がどうしているかと、部下にたずねた。
部下からの報告によれば、左将軍府は、噂に動じるようすもなく、いつもどおりであるという。
「まったく騒いでおらぬというのか」
そんな莫迦な、と法正は思う。
法正は、九門古城での惨状を、この目で見てきた。
噂よりも、そちらのほうが孔明にとって一大事ではないか、とすら思う。
大事な兵卒を殺されてしまったことや、謎の派兵を裏切りと関連づけて疑われていることを思えば、孔明は慌てていなければ、かえっておかしいはずだ。
『動じないところを見せて、逆に疑いを晴らそうというつもりなのだろうか』
怪訝に思いつつも、法正は、彭恙のことを考えた。
もし、古城で出会った彭恙が、荊州兵だけを狙って襲っている、というのであれば、法正は、彭恙がなにかしらの情報を掴んでいて、孔明に敵対しているのかもしれない、とさえ推理しただろう。
しかし、あいにくと、古城での彭恙の様子は、とてもではないが、尋常ではなかった。
『ともかく、噂を鎮めるのは、部下に任せておくしかあるまい。
つぎに、彭永年が、まこと正気を保っているかどうかを調べ、主公に上訴せねば』
部下に、彭恙がいまどこにいるかをたずねると、答えはあっさり出てきた。
彭恙は、今日は出仕せずに、朝からずっと屋敷に籠もっている、とのことであった。
法正があきれたことに、彭恙は、九門古城での殺戮を、ほぼ一晩中おこなったあと、そのまま、ふたたび地上にもどって、いまは休んでいるらしい。
『出仕していないというのなら、かえって都合が良い。まずは、噂を消すことからしなくてはならぬ。この汚らわしい噂が、主公のお耳に入っていないか、確かめねば。
そして、わたしが、主公に都合のわるい話は、すべて伏せている、などという不届きな噂を、打ち消してくれよう』
そうして、法正は、早くも噂を耳にして、ひそひそと冷たいささやきを交し合う官吏たちの前を、いつになく堂々と歩いて、宮城の奥へと向かった。
しかし、法正が奥向きで聞いたのは、信じられない報告であった。
劉備が、昨日から行方が知れなくなっている、というのである。
すぐさま法正は、側仕えの者たちをあつめて、劉備の行方をたずねたが、みな一様に、知らない、わからないをくりかえすばかりである。
あまりに答えが揃いすぎていることから、法正は逆に思った。
『これは、口止めをされたな』
しかし、いくらなんでも側仕えの者たちを、拷問にかけるわけにもいかない。
そも、劉備が攫われたというのなら一大事だが、奥向きのだれもが平静でいるところからして、自発的にいなくなったものらしい。
そして法正は、劉備が、このところ、孔明からの執拗な再婚のすすめにうんざりして、元気がなく、孔明から逃げるために、一人で遠乗りに出かけることもある、ということを聞いた。
「お一人でか!」
暗殺の危険も十分にある。
劉璋の一族は荊州に追放されたとはいえ、そのことを恨みに思っている者は、まだ成都にいるのである。
いや、劉備の身の安全もそうだが、劉備に万が一のことがあった場合、この国はどうなる。
養子の劉封では、とてもではないが、現状を治めることはできまい。
劉備が先頭に立っているからこそ、この国は、辛うじて保っているのだ。
ふと、図讖の『宰相になれる』ということばを思い出したが、法正は、すぐさまそれを打ち消した。
『主公のもとで宰相になることが、わたしの望みぞ。もはやニ君に仕えぬと決めておる。
主公に忠節を尽くすことが、わたしのただ一度の裏切りが、正統なものであったと証明することでもあるのだ。
なんとしても、主公をお探しせねば』
劉備の周囲にいる者たちの、あまりの呑気な様子に呆れながら、法正は、いつもの甲高い声で、命じた。
「左将軍府に、至急、使者を出せ! 軍師将軍を、いますぐに宮城へ呼ぶのだ!」