捜神三国志・燭龍本紀
第二十六話 狂士、単騎行
法正と張大人は、みなして、図讖(らしきもの)の部屋の中で、夢中になにやら話をしている。
もはや、ゾトアオは、彼らの話に耳を傾けてはいなかった。
扉の外には、じつに冷ややかに、はしゃぐ法正を見つめる私兵の男たち。
かれらの向かいには、手足に枷をつけられたまま、自分はどうなってしまうのだろうと、不安そうな顔をした寧寧がいる。
ゾトアオは、かれらに気づかれぬように、ふたたび水路に身を投じた。
絶えず流れる水路のせせらぎが、ゾトアオの慎重な泳ぎから出る物音も消してくれる。
ゾトアオは、そのままゆっくりと、手持ち無沙汰にしている兵卒たちの背後にまで泳ぐと、一気に行動を開始した。
俊敏に水から這い上がると、物音におどろいた兵卒たちが振りかえるひまも与えず、背後から、一気にその首を羽交い絞めにする。
一方の首の骨を折り、もう一方の、おどろく男を、素早く切り伏せると、図讖の部屋の扉を、力まかせに閉めた。
法正と張大人を、図讖の部屋に閉じ込めてしまおうというのである。
しかし、ゾトアオが焦ったことには、図讖の部屋は、完全に閉まってはくれなかった。
大きな扉は、最後の最後で、腕が一本とおるくらいのすき間をのこし、まるで見えないなにかが、つかえているかのように、動かなくなってしまったのである。
これに関わっている暇はない。
突然に閉まった扉におどろいて、法正と張大人が、部屋の中で騒いでいるのがわかった。
どちらもゾトアオからしてみれば、武器をもたぬ青瓢箪であるが、なるべくならば、ここでもたもたしていたくない。
ここにいる兵卒のほかにも、まだ部曲の兵が待機していることを、ゾトアオはすでに確認していた。
かれらが出てくると、面倒である。
ゾトアオは、扉をけんめいに押さえつつ、寧寧に言った。
「おい、あんたを助けてやる! あんたの枷を外す鍵は、どっちが持っているんだ? ともかく、そいつで枷を外せ!」
寧寧は、しばらくぶるぶると、仔ウサギのように震えていたが、ゾトアオが、
「早くしろ!」
と一喝すると、ようやく動き出して、死んだ兵卒の体から、自分の枷の鍵を取り出して、足から順に外していった。
「動けるな?」
どんどんと、内側から法正と張大人が扉を叩く振動に耐えながら、ゾトアオがたずねると、女はこくりとうなずいた。
「ようし、一気に逃げるぜ、走るぞ!」
ゾトアオは、ぱっと扉を押さえるのを止めて、寧寧の手を引くと、走り出した。とたん、なんとしても外へと、扉を叩いたり、押したりしていた法正と張大人たちが、もんどりうって、外へ飛び出してきた。
と、同時に、それまでまったく沈黙していた青銅の人形が、またもや喋った。
「マタノゴ利用ヲドウゾ」
「ふざけた精霊だよ!」
悪態をつきながら、ゾトアオは、石畳の薄暗い通路の上を走った。
背後では、法正が、金切り声をあげて叫んでいる。
「だれぞ、であえ! 侵入者だ! であえ!」
その声に反応して、ちょうどゾトアオの向かっている通路の奥のほうから、どたどたと、おおぜいの人間の足音が聞こえてくる。
法正の部曲(私兵)である。
あんまり女の前で殺しはしたくないのだが、とゾトアオは思ったが、しかしためらっている場合ではなかった。
たちまち、前方の通路は部曲たちによってふさがれたが、そこでひるむゾトアオではない。
片手で引いている女の手を、ぐっとおのれに引き寄せると、そのまま脇にかかえて、巨体でつつむようにして、手に持った剣を大きく振りかざし、まるで猪のように兵卒たちの壁に突っ込んでいった。
兵卒たちを殺すのが目的ではない。
ともかく、兵卒たちをなぎ倒し、通路を突破することがゾトアオの目的であった。
その通路の向こう側にあるものは、ゾトアオが乗ってきた、あの奇妙な筏である。
あれが精霊のものならば、また動く可能性が高い。
あれに乗ってしまえば、法正の部曲を振り切ることができるだろう。
ゾトアオが足を止めるだろうと思っていたのか、思った以上に、兵卒たちの壁は、あっさりと、ゾトアオの巨体の勢いに押されて、弾き飛ばされた。
その隙をついて、ゾトアオはさらに足を早めて走ろうとする。
懐では、寧寧が、ひたすら悲鳴を挙げていた。
悲鳴を挙げることで、なんとか心を正気に保たせようとしているらしい。
祝融は、こんなときでも、悲鳴のひとつも挙げないだろうな、などと、頭のどこかで黒イの姫君のことを想いながら、ゾトアオは筏を目指した。
背後からは、ゾトアオの勢いに跳ね飛ばされたものの、我にかえった兵卒たちが、法正の金切り声に叱咤されるようにして、追いかけてきている。
そうしてひたすら走っていたゾトアオであるが、ふと、前方に、闇に溶け込むようにして、なにかが道を塞いでいるのに気がついた。
なんであろうと目を凝らして、ゾトアオは、ぞくりと身を震わせた。
気絶して水路に落ちるまえに、九門古城の第一階層にて対峙した、錦馬超の相棒をつとめていた、彭恙である。
その幽鬼のような異様な風体を闇に浮かばせている不気味さはもちろんのこと、ゾトアオが震えたのは、祝融のことがあったからである。
祝融はどうなったのか。
この男が無事だということは、祝融の身に、恐ろしい事が降りかかったからではないのか。
そう想像すると、激しい怒りがこみ上げてきた。
腕に抱えるようにしていた寧寧のことさえ、頭のなかから消えうせた。
「貴様!」
ゾトアオが呼びかけると、彭恙は、怪訝そうに首をひねり、それから、得心がいった、というふうに、うなずいた。
「おや、どこかで見たことのある熊だと思っていたら、おまえか。ずいぶんなところへ迷い込んできたものだな」
彭恙は、咽喉を鳴らして、ぞっとするような低い声で言う。
その細く、陰惨な光しか宿していない瞳が、ゾトアオを睨み、それから、ゾトアオの抱えている女を見た。
「貴様はいつも女と一緒だな。ちょうどよい、今度こそ、女を置いていけ。貴様には女など必要なかろう。俺が可愛がってやる」
彭恙は、片方の手のひらで、手にした槍をとんとんと打ちながら、楽しそうに言った。
みな装飾も色もちがう、ちぐはぐな指輪や耳輪を、頭巾や衣に身につけて、首には幾重にも、首飾りを巻いているその姿は、彭恙のすさんだ内面をそのまま表わしている。
男の身につけている装飾品のほとんどは、女物のようだ。
本来のもち主は、いったいどうなってしまったのか。
そして、無意識のうちに、ゾトアオは、そうした陳列品と化している装飾品のなかに、祝融のものがないかと探した。
「耳がないのか。女を置いていけ、と言ったのだ。置いていったなら、おまえの命は助けてやろう」
ゾトアオが拒否のことばを口にするまえに、寧寧が、しがみつくようにして、訴えてきた。
「いやよ、こんなやつに渡さないで!」
ゾトアオは、その声に大きくうなずき、方法を大きな丸い目で、思い切り睨みつけると、言った。
「当たりまえだ! こんな狂人に、だれを渡すこともできん! イ族の誇りを舐めるな、漢族め!」
「忌々しいやつ」
ぼそりとつぶやくと、彭恙は、顔をぐっと上げて、武器をあらためて構えた。
ゾトアオは、女をどこか無事なところへ、と考えるが、おり悪く、そこへ、法正の部曲たちが追いついてきてしまった。
その数、ざっと十四名。まさに前門の虎、後門の狼である。
ええい、ままよ、暴れられるだけ、暴れてやる。
イ族の誇りを見せてやろうと、あらためて剣をかまえなおし、ゾトアオは、寧寧を、水のなかに突き飛ばすようにすると、そのまま、彭恙にむかって突撃をした。
彭恙もまた、槍をかまえて、獣じみた咆哮をあげて、前進してくる。
天井の高さも、空間の広さも、槍をふるうのに、なんの障害も与えない。
槍に、剣でまともにぶつかっていくのは愚か者である。
それでも、ゾトアオは精霊の加護を心のなかで祈りながら、彭恙に向かって行った。
ぶん、と風を切る音が、重く耳元で響く。
カナブンが耳元で暴れているようだな、と思いながら、ゾトアオは衝撃に備えたが、しかし、槍はゾトアオを襲うことはなく、どころか、その視界の端で、彭恙が、自分とすれ違っていくのが見えた。
ゾトアオの剣先は、むなしく空を切る。
何が起こったのかわからないまま振り返ると、彭恙が、いままさに兵卒たちにむかって、その槍を振り下ろしているところが見えた。
すさまじい重さ、そして速さである。
彭恙は、飢えた虎のような唸り声をあげながら、何が起こったのかわからずにいる兵卒たちを、次から次へと、容赦なく叩きのめしていく。
槍で胸を突かれるもの、大きく弾き飛ばされ、壁に身を打ちつけるもの、逃げようとして、脳天を割られるもの。
応戦できる者はひとりとしていない。無惨な殺戮であった。
『何が起こっていやがるのだ? 同じ漢族だろう? 同じ劉備の家臣ではないのか。どうして殺しあう必要があるのだ?』
しばし唖然としていたゾトアオであるが、水に放り投げられ、けんめいに通路まで泳ぎ着いてきた寧寧の声で、我に返った。
「あんた、あたしを殺す気なの!」
女は涙と水とで全身がぐしゃぐしゃになりながら、両の拳でぽかぽかとゾトアオを殴りながら、詰め寄ってくる。
状況をまるでわかっていない女の様子に、ゾトアオは我に返った。
そうだ、この女を助けるのだ。
彭恙は、どういうわけだか法正の部曲のほうへ向かって行った。こちらには見向きもしない。
「いまだ、逃げるぞ!」
ゾトアオは、ふたたび女の手を引いて、筏のところまで向かった。
さいわいにも、精霊の筏は、おとなしく、水の上にぷかりと浮かんでいた。
これはありがたい、殴ったことを、精霊は怒っていなかったと、ゾトアオは、女とともに筏に乗り込んだ。
二人が筏に移動すると、ふたたび、船頭の真似をしている、胡散臭い笑みをたたえた人形が、くるりと振り返り、
『出発』
と告げた。
二度目であったから、ゾトアオはもうおどろかなかったが、寧寧のほうは、動き出した筏に肝をつぶして、ふたたび、ぎゃあぎゃあと、絞め殺される直前の鶏のように騒ぎ出している。
筏の上で、ゾトアオは、その心地よい水音に耳をかたむけ、つよい風に身をさらしながら、さて、この道の向こうに、出口のひとつがあるといいなと思っていた。
たとえ助かっても、食糧もないいまの状況で、果たして、二人で地上に戻れるのか、その当ては、なにもない。
一方、法正はというと、図讖の部屋にあやうく閉じ込められそうになったものの、なんとか難を逃れ、表に飛び出してきた。
閉じこめられてしまうのではないかという恐怖が強すぎたあまり、動悸がはげしくつづき、吐き気さえこみあげてきた。
一刻も早く、この九門古城より出たい、新鮮な空気を吸いたい、なにより太陽を見たい、と法正は思ったが、かたわらにいる張大人は、じつに飄然としていて、汗ひとつかいていない。
こやつ、ただの飯店の主ではないな、と法正が思っていると、張大人と目が合った。
張大人は、千里を駆け抜けてきた馬のように、ぜいぜいと呼吸を荒くしている法正に対し、口許に嫌味な笑みを浮かべて、いう。
「図讖の部屋は、じつによく出来ておりまして、部屋の中に人がいると、どういう仕組みになっているのか、絶対に扉は閉まらず、途中で開いたまま、停まってしまうのです」
「なぜ知っている」
「部下に試させましたので。こんな不気味な古城のなかで、窒息して死ぬなど、たまったものではありませんからな」
まさしくその危険に備えるべきではあるが、だからといって、部下をこの部屋に閉じ込めて様子を見ようとしたのだろうか。
すぐに助けてやるつもりだったのか、それともほかに目的があったのか。
わからないが、法正は、だんだんと、この成都の黒社会の主を、ただの便利屋ではなく、不気味な存在として思うようになっていた。
懐にしのばせていた布で汗をぬぐっていると、張大人は、袖から取り出したちいさな折りたたみ式の扇でもって、そよそよとおのれの首筋をそよぎながら、激しい剣戟のくりかえされている前方を指して、言った。
「それよりも、尚書令さま、たった一人のために、あなたの兵が全滅しかけておりますぞ」
「なんだと!」
見ればまさしくそのとおりで、法正の視界の先には、一箇所に向かって、蟻のように群がる兵卒たちと、それを台風のようになぎ飛ばしている男の姿が見えた。
なにごとだと、近づいて見て、法正は、男がだれだかわかると、唖然とした。
彭恙。字を永年。
法正にとっては、とくに印象のつよい武将である。
法正も彭恙も、劉璋の時代には不遇の身で、そのどちらもまた、特異な容姿が原因で劉璋から遠ざけられていた。
法正は、祖父の代から名望の高い家の出自であったから、閑職にまわされる程度ですんでいたものの、彭恙の場合は悲惨で、能力に見合わない位に留められていただけではなく、不平不満を漏らすと、それを証拠として、謀反の罪をきせられて、労役囚に落とされてしまったのである。
そのとき切られた髪を、彭恙は伸ばすことなくそのままにしている。
そのうえで、首の枷が皮膚に刻んだ無惨なあとは、刺青のようにくっきり残っていて、彭恙の容姿に、いっそうの凄みを与えていた。
法正からしてみれば、彭恙は、いわば味方である。
法正たちの動きに乗じて、脱獄をし、単身、劉備の軍師をつとめていた龐統のもとにあらわれた。それが彭恙なのだ。
龐統と彭恙は、なかなか気が合った。
気取らぬざっくばらんな態度が、お互いの気に入ったのだろう。
軍事面での彭恙の知識が、劉備軍にとって、大きな武器となったのは、いうまでもない。
本来ならば、法正、馬超と並ぶほどの功労者なのである。
入蜀後に彭恙が手に入れた地位は、治中従事。すなわち劉備の政務補佐官であるが、脱獄囚が一気にこれだけ出世したのは、天下にも、なかなか例がない。
法正は、彭恙がこれだけ高位につくことができたのは、劉備の、龐統への手向けの意味もあったのだろうと思っている。
龐統と彭恙に共通するぶっきらぼうな態度が、故人を思わせるものだったことも原因だろう。
が、風の噂で、彭恙が、この地位にまるで満足していない、という内容のものが聞こえてきていた。
もともと、敵が多いために、つまらぬ軽口から罪に問われた男である。
出世したあとも、その態度を変えることがなかったので、人々の嫉妬と恨みは、彭恙に一身にあつまってしまったのだ。
法正としては、同情しなくもない。
しかし、法正とて、一方で嫌われながらも、尚書令という確固たる地位を築き上げたのは、かなりの努力をした結果なのだ。
努力もせずに、あの男はなにを不満に思っているのだろうと、ひそかに思っていた。
その不満を、どうしたわけか、彭恙は、思わぬ場所で爆発させているらしい。
法正は、突如としてあらわれた、戦場に放置された兵卒の霊魂が、恨みをいだいてこの場にやってきたかというほどに、不気味な立ち姿をした彭恙に、ひたすらぼう然とした。
彭恙の手足は長く、そのうえ、柳の枝のようにしやなかである。
見た目の恐ろしさに加えて、からだの異常な柔らかさが、どこか蛇を思わせ、そして、ますます嫌われてしまうのだ。
だが、嫌われ者であろうとなんであろうと、強いことにはまちがいない。
法正がぼう然としているあいだにも、部曲の兵卒たちは、あわれにも、つぎつぎと打ち倒されていく。
仲間の苦難を聞いて、地下四階の入り口付近に待機させいていた者たちが、つぎつぎと駆けつけてくるのだが、彭恙はこれを容赦なく叩き潰す。
水路に放り投げられるもの、壁に打ちつけられるもの、切っ先で引き裂かれるもの、足で思い切り踏みつけられるもの。
一方的な殺戮であった。
数では法正の部曲のほうが勝っているのに、だれも彭恙にかすり傷ひとつ、つけることができないのだ。
彭恙の手にした槍が、仲間を助けるために雄叫びをあげて突進してきた兵の脳天を砕こうと振り上げられたとき、法正は、やっと我にかえって、叫んだ。
「待てい、彭永年! わたしになんの恨みがあって部曲どもを殺す!」
すると、彭恙の手が、ぴたりと止まり、そして、なにか耳慣れない声を聞いたかのような顔をして、法正のほうを向いた。
その、彭恙の怪訝にゆがんだ顔を見たとき、はじめて、法正は、彭恙が、自分が戦っている兵卒たちが、どこの者なのか、知らないまま戦っていたことに気がついた。
「あんたか」
呆れたことに、彭恙は、街中で顔をあわせたときのように、平然と法正をみとめて、口にした。
この男は狂っている。
法正としては、たとえ金で雇った者にしろ、部下は部下である。
かれらに食事を振る舞っていたのは自分だ。
それを目のまえで、訳もわからないで戦っていた男に倒された。
当然、怒りがこみ上げてくる。
「二度目だ。なぜ、わたしの部曲を殺す!」
法正が逆三角形の目をさらに吊り上げて、手足を強ばらせて、怒りのためにぶるぶる震えながらたずねると、彭恙は、武器をしまって、なにを怒っているのだ、というふうに首をかしげた。
「すまん、あんたの兵だとは思わなかった」
「どういうことだ。そも、なぜおまえが九門古城にいるのだ!」
「どういうもこういうも、ない。地位を手に入れるためだ」
地位、と聞いて、すぐさま法正の脳裏に浮かんだのは、『得れば天下を取れる宝』のことであった。
が、彭恙は、つづけて言う。
「敵を多く殺せば殺すほどに、俺は認められる人間なのだ。あんたもそうだったし、龐軍師もそうだったし、主公もそうだったろう。
劉璋は、俺がどんなに役に立つか、知らなかったから駄目だったのだ」
「なにを言っている? 『敵を』殺せばたしかに認められはするだろう。しかし、おまえがいま殺したのは、敵ではないぞ!」
「でも、俺の強さはわかっただろう」
完全に話が食い違っている。
法正は、彭恙の表情や挙搓のなかに、狂気のきざしを読み取ろうとしたが、うまくいかなかった。
彭恙にとっては、敵を多く叩きのめすことが、すなわち正義だという図式が、頭の中で成立しているらしい。
その『敵』の内容については、彭恙はなにも考えないのだ。
「あんたは俺を認めないのか」
彭恙に問われて、その意味に気づいたとき、法正はぞくりと背中に悪寒を走らせた。
おのれの状況に気が付いたのである。
もしここで認めないと答えたら、彭恙はこちらを斬るつもりではないのか。
部曲のほとんどは倒されてしまった。こちらは武器のひとつも持っていない。
しかも、ここは地上ではなく九門古城。このまま殺されてしまっても、だれも屍を見つけてはくれないだろう。
「法尚書令さまは、貴殿をかねてより評価なさっておられる」
と、法正を庇うようにしてその前に立ち、彭恙に告げたのは、張大人である。
張大人は、心持ち、顎を高くあげて、尊大さを隠そうともせずに、彭恙につづけた。
「まだこの古城には、貴殿の『敵』が多くいる。尚書令さまは、その敵を殲滅することを望んでらっしゃる」
何を言い出したのだ、と法正はおどろいたが、もっとおどろいたことには、張大人のことばに、彭恙がすなおにうなずいたことであった。
「そうか、ならば、俺は敵を探しにいかねばならんな」
「そのとおり。多くの敵を屠られよ。御身が多くの血で染まれば染まるほどに、その名は恐怖とともに天下に響く。かの錦馬超をもしのぐほどになりましょう。それが御身の望まれる道。
さあ、その階段を上へ行かれるがよい。御身の敵が待っている」
馬超より上だ、ということばは、彭恙の気に入ったようだ。
法正の部曲たちの死屍を足元にした血まみれの男は、にやり、とうれしそうに笑うと、法正と張大人に背中を向けて、ふたたび、闇の中へと去って行った。
「どこへ行ったのだ、あれは」
大声をあげたら、彭恙が戻ってくるような気がして、法正が小声でたずねると、張大人は、顔色も変えずに、答えた。
「さあて、われらの使った階段で、三階へ向かったようですぞ」
「なぜ三階。あそこは、だれもおらぬはず。張、おまえは、盗賊どもが入り込むと面倒なので、しばらく栄耀飯店の入り口は閉めておく、と言っていなかったか。
どうなっておるのだ! なぜ彭永年が古城に入り込んでいる!」
法正が、きいきいと声を高くして抗議すると、張大人は、うるさそうに、人差し指でおのれの耳の穴を掘りながら、答えた。
「何度も申し上げておりますとおり、古城に入り込んでいる人間は、わたくしどもが把握している者たちばかりではなく、複数の者たちが入り込んでいるのです。その一派のすべてを、わたしが把握しているとお思いか?
この古城はおそろしく広い。そして、あまりに暗く、入り組んでいる。しかし、ありがたいではありませぬか」
「なにが」
「御覧なさい。尚書令さまの部曲のほとんどが倒されて、生きている者もみな怪我をしている。わたしの部下とて似たような有様です。
この状態で、宝を探す一派と出くわしたなら、どうなります。図讖の部屋は奪われてしまいますぞ」
「だが、しかし、図讖を読める巫女も奪われたではないか!」
「それは、わたくしどもが追いましょう。尚書令さまはご心配なさらぬように。
それよりも、帰り道はお覚悟くださいよ。きっと、地上に戻るまで、あの狂士の築いた屍の山が、えんえんと続いていることでしょうからね」
歌うように言う張大人に、法正は黙るしかなかった。
巨大な迷路となっている九門古城のなかで、地上に戻る道を知っているのは、この場では張大人のほかは、いなかったのである。
主導権をにぎられていることを悔しく思いながら、法正は、地上に戻ったなら、まず彭恙のことを調べなければと思った。
狂っているか、あるいは狂い始めているのではないか。
だとしたら、政務の中心に置いてはおけない。
すぐに調べて、劉備に報告しなければならない。
法正にとって、あくまで『君主』は劉備であって、おのれではない。
おのれが君主の器ではないことを、法正はよく知っている。
そのあたりの冷静さが、法正を闇から守っていた。
地上では、働き蜂のような勢いで、奇妙な噂が市井を飛び交っていた。
曰く、
「東の土地で、魏と呉が手を組んで、蛮族どもをたきつけて、独立させようとしているらしい。
もちろん蛮族とて義理はある。いまさら魏だの呉だのに用はない。たいへん困っているのだが、ところが、いまのお殿様はぼんやりなさっていて、なんの対策もたててくださらない。
魏と呉には、早く立ち上がれと、しつこく催促されている有様だ。
このまま放置されていると、また蜀の地は戦となる。どうして殿様はなにもしてくださらないのか」
そして、さらには、荊州兵を中心に、こんな噂も飛び交いはじめていた。
曰く、
「どうも素性のしれない怪しい連中が、こちらを見張っているような動きを見せている。なぜだかこやつらは、こちらを呉の手先だと疑っているようだ。
なんだって呉の手先だなんて疑われなくちゃならないのか。
どうやら、民のあいだで流れている噂も、軍師将軍が流したでたらめで、嘘の情報をもとに、軍師将軍が主公を裏切って、謀反を起こそうとしているとでも思っているらしい。
やつらは、こちらが軍師将軍の手先だから、いっしょに蜀を裏切って、呉についているのだと思っているようだ。
だが、たしかに軍師将軍のこのところの命令は奇妙だ。俺たちの仲間を、どこかに派遣しているようだが、いったいどこへ派遣なさっているのか、教えてはくださらない。
もしや噂どおり、巴に派兵しているのか。
だとしたら、軍師将軍は、われわれを裏切っておられるのか?』
噂は思った以上に広まりが早く、事態の収拾にあたっていた趙雲は、まるで枯れ野に放たれた火のなかにいるような錯覚をおぼえた。
部下たちの不安をなだめるため、あれやこれやと指示をだしているところへ、密使が飛び込んできた。
九門古城に潜入させていた部隊が、行方不明になった、というのである。