捜神三国志・燭龍本紀
第二十五話 きつねの宝
「おおおお!」
ぶ厚い石の扉がゆっくり開いていくのに合わせて、法正が興奮して、感極まった声をあげた。
どうやら、噂どおりに感情に走りやすい男らしい。
扉はどんどんと、だれも手を加えていないというのに、勝手に動いて開くのだから、遠くから見ているゾトアオも、その篝火の揺れる明かりに映し出される光景に、ぞくりと身をふるわせた。
やはり、この古城は、精霊が住んでいるにちがいない。さっきのしゃべる人形だって、もしかしたら、精霊の一種なのかも(殴ってしまったが)。
「おおおお…」
扉はめいっぱい開かれていく。
おどろいているのは法正だけで、ほかの同行している兵卒は、見慣れているのか、可愛くないほどしらけているし、張大人などはいわずもがな。あくびしかねない勢いである。
「お?」
扉が開ききって、その部屋の中を見た法正の口から、間抜けな声が漏れた。
しかし、それは法正のせいではない。
ゾトアオも、遠目からそれを見て、おなじく「なんだ、ありゃ」とつぶやいた。
部屋の中は、空っぽだったのである。
「どういうことだ! どこに宝が、図讖がある!」
甲高い声でキイキイわめく法正に、張大人は、退屈そうな顔を、一気に畏まった顔に変えて、粛々と進み出て、答えた。
「なにをおっしゃいますやら、目のまえにございますぞ」
「嘘をつくでない! なにもないではないか! たばかったな、張! 貴様、どういうつもりだ!」
と、法正は、張大人と、同行している兵卒たちに、敵意をあらわにして怒鳴る。どうやら、これが罠で、自分になにか危害をくわえようとする魂胆が、かれらにあるのではと身構えたようであった。
しかし、張大人は、まさに罠に追いつめられたキツネのようにわめく法正を前にしても、まったく動じることなく、声をたてて、ほがらかに笑った。
「なにがおかしい!」
「いえいえ、これは失礼をいたしました。尚書令さまは、わたくしが図讖を地上に持ち出すことができない、と言ったことを、お忘れでございますかな」
「どういう意味だ」
「どういう意味もなにも、まさにここに理由がございます。これ、明かりを持て」
と、張大人は、尊大に兵卒に命令する。
兵卒のほうは、これは官兵ではないにもかかわらず、じつにてきぱきと張大人の命令に従う。
『あいつらにとって、張のやつは、よほど恐ろしい親分なのだな』
と、経験から、ゾトアオは推測した。
張大人は、みずから篝火からとった松明を手にすると、壁をにそれを近づけてみせる。
すると、壁には、扉と同じように、見たことのない奇妙な絵文字がぎっしりと刻まれているのだった。
装飾というには、統一性のないその文字の羅列は、意味がつかめないながらも、見る者に、なにかを必死に伝えようとしているのが、すぐにわかる。
文字と文字の間隔すら、行によってはちがうその文字は、ふしぎなことに、奥に行くと、ぷつりと途切れていた。
「なんだ、これは。もしや、これが?」
唖然として問いかけてくる法正に、張大人は、そのとおり、というふうにうなずいた。
「左様。この文字こそが、図讖なのでございます」
「これが文字? われらの使う文字とは、まったくちがうではないか!」
狼狽とも抗議ともとれることばを叫ぶ法正に、張大人は、やはり余裕たっぷりの態度で答える。
「それはそうでございます。そも、この古城は、漢族が造ったものではございません。ですので、こうして壁に浮き上がる文字にしても、われら漢族の文字であるはずがございません」
「いま、なんと申した。壁に浮き上がる文字、とな?」
法正のことばに応じて、張大人は、みずから率先して、部屋の中にはいる。
最初、法正が狼狽したのも道理で、たしかに部屋には、壁のほかは、なにもないのである。
ちょうど十尺ほどの高さの天井と、奥行きのある部屋の深部に明かりが入ると、奇妙な文字は、三面の石壁ばかりではなく、天井にまで綴られているのがわかった。
張大人は、その一番奥の、ぷつりと文字が途切れている場所へと、法正をさそう。
そして、さらにその部分に、松明を近づけた。
「ようくご覧くださいませ。一見すると、ここで文字は途切れているように見えますが、じっくり目をこらしますと、うっすらと、ほかと同じように文字が綴られているのがわかりましょう」
「それがどうした」
「この文字は、月の動きと連動して、徐々に壁の内側から浮かび上がってくるのでございます。どうぞ壁に触れてみてくだされ」
張大人にうながされて、法正は、怪訝そうにしながらも、その指先を壁に当てるのであるが、しばらくすると、顔を大きくひきつらせて、うしろに跳び退った。
「なんだ、これは? なぜ生暖かい? 松明の熱のせいか?」
「いいえ。ほかの壁にも触れていただければわかるはず。この壁は、人の皮膚とおなじ温かさを持つ壁なのです」
「人? いや、そんな莫迦なことがあるものか! これはいったい、なんなのだ。
まさか、山海経に描かれた化け者の胎内というわけではあるまいな!」
「さあて、それがわかりませぬ」
と、張大人は、じつにあっさりと、そして余裕のある態度を崩さずに、答えた。
「月が満ちれば、文字がひとつ浮き上がり、月が欠けてなくなると、やがてまたつぎの空白部分に、おなじように文字が浮き上がる」
「なぜ。どうなっている?」
「それもわかりませぬ。わかるのは、この文字が、未来を告げる図讖である、ということだけ」
「待て、そこはおかしかろう。図讖だというのならば、この文字は、すべての未来を語っているものなのか?
見よ、あたらしく文字が浮き上がっている部分は、すでに壁の隅ではないか。
この先はどうなる? この世は滅びてしまうのか?」
顔を蒼くする法正に、張大人は、ふたたび部屋の一番奥の角のところへ松明をもっていくと、法正の視線を誘導した。
「これをご覧くださいませ。壁が、角に向かっていくにつれ、色が変わっているのがおわかりになりますかな」
法正は、眉根をよせて、おそるおそる部屋の角を覗き込む。
すっかり及び腰なのは、人肌とかわらない温かさを持つという、気味の悪い壁に囲まれた部屋に、いつまでもいたくないからであるらしい。
「ほんとうだ、角に近づけば近づくほどに、なにやら壁の石があたらしくなっているような?」
「ような、ではございません。事実、移動をしているのです」
「なんだと?」
「最初はわたくしも、文字が費えるところでこの世の終わりがくるのかと恐れていたのですが、何日も文字をずうっとながめておりましたら、どうも奇妙なことに気がついたのです。
最後の文字であったはずの文字のあとに、また文字が増えている気がいたしました。
なにせ読めないうえに、わたくしも無学の徒でございますゆえ、何日かまえに見た最後に見た文字が、どんな形であったか、よくおぼえていない。
でも、ちがう気がして仕方がございませんでした。
で、壁に、すこし印をつけてみたのです」
と、張大人は、自分がつけた壁の印を見せた。
そこには、小刀で彫り付けたものか、×印がついている。
「よく出来たな、恐ろしくはなかったのか」
感心する法正に、張大人はけらけらと笑って見せた。
「なにを恐れることがございましょう。こんな傷をつけたといっても、壁から悲鳴が上がるでもなければ、部屋に閉じ込められてしまうこともなし。
それはともかく、この傷は、たいしかに部屋の角につけたものでしたのに、また日を空けて確かめてみましたらば」
「角そのものが移動していた」
「おっしゃるとおり。おそらく、この壁は、文字に合わせて形を変えることができるのです。
仕組みはさっぱりわかりませぬ。古城そのものの仕組みがわからないのですから、そこは考えてもしかたがございますまい。
問題なのは、これが図讖なのだ、ということでございます」
「いや、そこであるぞ。こんな読めない文字で、なぜに図讖とわかったのだ」
実にもっともな疑問であるが、張大人は、これまた予想していた質問だったのか、胡散臭く感じられるほどの笑みをたたえて、答えた。
「わたくしも、九門古城の入り口のひとつを管理している身。しかもこれに多くの者を通しているのですから、何も知らないまま、というのも無責任というもの。
そこで、あれやこれやと調べてみましたら、面白いことがひとつ、わかったのです。たしかに、この古城の伝説は、この地に古くから住まう蛮族たちのなかにも、はっきりとした伝説が残っておりません。
ご存知のとおり、漢族がこの蜀巴の地に移住してきた時代は浅い。だから漢族の古謡や伝説のなかにも、手がかりがまったく残されておりません」
「それは、わかっておる。わたしとて、伊達に古物が好きなのではない。
いろいろと調べてみたのだが、どんなに古い書物にも、九門古城に触れているのではと思わせる記述さえ見つけることができなかった」
「これは失礼いたしました。では、話を進めましょう。
われらの知る範囲での古城の由来は、どこにもない。となると、考えられるのは、ふたつ。この古城が、おそろしいことに、殷周の時代よりも古く、そのためになにも残されていないのではないか。
もうひとつは、この古城をつくった民族は、すでにその使用していた文字ごと滅んでしまったのではないか」
「莫迦な、ありえぬ。たとえ激しい戦があったとしても、戦というものは、やはりどんな形であれ交流を生むものなのだ。
そも、戦は労働力の奪い合いでもある。民族としては消滅しても、すべての人間が消えてしまうなどということは、まずなかろう。
なにかしらの形で、文字は残るはずではないか」
「なるほど、おさすが。深い洞察力でございますな」
「おまえに誉められても、うれしくともなんともないわい」
言いながらも、法正は、すこしうれしそうである。
誉め言葉に弱いのだ。根は単純な男なのである。
「じつは、わたくしもいろいろと考えたすえに、同じ結論に達しまして」
「ぬ?」
「古城のことから調べるよりも、むしろ『消滅した民族』の伝説のほうから調べるべきなのではないかと思い立ったのでございます。
そうしたらば、これがまあ、大当たり」
と、張大人は、芝居がかった仕草で、おのれの手のひらを、ぽん、と叩いた。
「僚人はご存知でしょう。ここから南東のほうに住む、龍の鱗を積み重ねたような木造建築を造るのが得意な輩でございます。橋を架けるのもうまいとか」
「うむ、橋が流されてしまうと、僚人から職人を捕らえてきて、架けさせたものだ。
といっても、劉璋の時代から、あの張り切り男の董幼宰が、拉致してきて重労働をさせるとはけしからん、とか横槍をいれおって、たしか、たっぷり褒美をやって橋を架けさせてから、故郷に返すようにしたのだった。
いつもならば、職人どもは、橋が完成したあとの人柱にするのだが、これまた董幼宰が、そのような蛮行は許さん、とかなんとか横槍を入れてきて、わざわざ伴までつけてやって、故郷に返してやったことがあったはず」
「格好つけた、いやなやつでございますな」
「まったくぞ。あやつの正義漢気取りは、どうにも気に入らぬ。いや、それはよいのだ。で、その僚人がどうした」
「はい、僚人の伝説に、まさに『消滅した民族』の伝説があったのでございます。
かつて、大いなる川のほとりに、豊かな王国が栄えていた。が、あるとき北からやってきた野蛮な王が攻めてきて、王国は滅んでしまった。
王国の民は、この野蛮な民族から逃れるため、北と南にわかれた。
南に逃げてきた者たちは、山奥に王国を築いたが、やはりまた攻められ、国はほろび、民はみな、奴隷となった。
しかしその後、その地を治めた王国もまた、王位をめぐって争い、国は真っ二つに割れた。
このとき、かつて奴隷になっていた人々は、追っ手のかからぬ南に逃げた。
そして、かれらを助けてくれた民と一緒にちいさな国をつくり、かれらは感謝のしるしとして、自分たちの橋を架ける技術を教えた。
そしてさらには、自分たちの予言を伝えたのであるが、かれらはその内容は、地下の部屋に隠したと告げたが、くわしくは語ろうとしなかった」
「なんと」
「古城をつくる技術があるのなら、橋を架けることもたやすいことであったでしょう。ならば、僚人のなかに、古城を作った者の末裔がいるのではないかと探したところ、まさにそのとおりの者がいたのでございます。
それが、いまそこにございます、礼姫なのでございます」
と、張大人は、姫と呼ぶには、あまりにも薄汚れて、しかも痛々しい風貌をした女を指した。
それまで感心しきっていた法正の顔が、礼姫を見たとたん、またも失望の色を浮かべたのは、いうまでもない。
「姫と呼ぶからには、もうすこし労わってやれ。すっかりやつれておるではないか。それに、この異臭」
と、法正は、おのれの袖で、鼻と口をかくす。
礼姫、こと寧寧は、急に話が自分のほうに向かってきたので、生きた心地もしないのか、ぶるぶると怯えて震えている。
「尚書令さまは、おやさしい。なにぶん、わたくしどもでは行き届きませんで」
「行き届く云々の問題ではなかろう。わたしは、自分の娘と同じ年頃の娘がいたぶられているのを見るのが、なによりも大嫌いなのだ!」
「それは気づきませんで」
「まったくだ。ともかく、この娘の処遇は、早急にあらためよ」
「そうさせていただきます」
張大人は、畏まって拱手するのであるが、やはりどこか胡散臭い。
隠れて、ずっと様子を見ていたゾトアオであるが、話が寧寧のほうに向かってきたので、いよいよ、これは腹をくくって、飛び出さなくちゃいけないな、と思い始めていた。
いまの張大人の話で、錯乱状態に陥っていた娘の話に、筋が通る。
娘は、都会見たさ、金ほしさで、古城をつくった民族の子孫だと嘘をついたがために、ここに閉じ込められた。
嘘である以上は、あのへんてこりんな文字は読めないのである。
ばれたら、いまは庇ってやっている法正だって、どんなふうに態度を変えるか、わかったものではない。
「して、この娘が古城をつくった者たちの子孫というのなら、もちろん、図讖を読めるにちがいない。どうだ、いますぐ、この漢の未来を読んでくれ!」
法正は意気込んで娘に言うのであるが、娘は怯えたまま、法正の肩越しに見える張大人のほうを気にする。
すると、張大人が言った。
「お読みすることはできます。いえ、すでに読んでおります」
「なんと?」
「礼姫を牢から連れ出しましたのは、この図讖の仕組みを、よりくわしく尚書令さまにお伝えするためでございました。
じつは、こうなることを予想して、先に礼姫に、漢の未来を読ませております」
「では、そなたは、ここに降りてくるまえに、その内容を知っていた、ということか!」
法正の顔色が、怒りに変わる。当然のことであるが、張大人は、まったく動じることがない。
「尚書令さまが、図讖がほんとうにあるのか、そしてわたくしが軍師将軍と通じているのではと疑っていらしたので、ここにお連れしたまでのこと」
「それは、そうであるが」
「図讖の内容を申し上げなくてよいのでございますか」
「いや、よいわけはない。申せ!」
法正がうながすと、張大人は、こほん、と咳払いをひとつして、もったいぶって、言う。
「図讖には、こうあったそうでございます。
『天下はふたたび劉氏のもとへ戻る。太公望の知恵をもつ人物があらわれて、これの補佐となり、国は栄える。その人物は、巴蜀から出るであろう。趣味は骨董』」
「まことか! それは、まさにわたしのことではないのか?」
張大人は、神妙にうなずいた。
「はい。わたくしも、この内容を礼姫から聞いたときは、鳥肌が立ったものでございます。
尚書令さまは、じき、この国の偉大な宰相となられることでございましょう。おめでとうございます」
得体の知れない古城のなかにいる、という緊張感もあるのだろう。法正は、疑うこともなく、怪しげな予言の内容を信じてしまっているようだ。
しかし、それを聞いていたゾトアオは、すぐに、おかしいな、と思った。
もちろん、法正の趣味が骨董だということは知らなかった。
それに触れているところが、いかにも怪しい、ということもそうだが、もっとおかしいと思うのは、『太公望の知恵をもつ』というくだりである。
すでに滅亡した民族の文字で綴られている図讖だというのに、比喩が漢族の歴史に登場するものだというのは奇妙だ(太公望は羌族であるが)。
もし、イ族のピモ(巫女)があたらしい王のおとずれを予言したとしても、『高祖のように偉大な王』とはいわない。
それに、かたわらで法正と張大人の様子を見ている寧寧は、あきらかに安堵しているような、それでいて身の置き所のないような、複雑な表情を浮かべている。
『嘘なのか。張のやつ、適当に、図讖の内容をでっちあげて、尚書令を喜ばせてだまして、大金をふんだくろう、っていう魂胆なのじゃなかろうな』
ゾトアオは、張大人の抜け目のなさと狡さを目の当たりにして、なんとも腹が立ってきた。
『いっそ、尚書令に、騙されるなと言ってやろうか。いやしかし、漢族を助けてやることはなんにもない。
尚書令というやつは、気に入らないやつを、家族ごと皆殺しにするような、慈悲の心のないやつだというし。
それより、寧寧だ。張のやつ、図讖のほんとうの内容を独り占めして、自分ばっかりうまく立ち回ろうと考えているのじゃなかろうな。
だとしたら、寧寧がほんとうは文字を読めないということがいずれはわかって、あの娘はかわいそうに、きっと殺されちまうだろう。やはり、ここは助けてやらねばならん』
ふと、脳裏に、祝融のことが浮かんだが、ゾトアオは、それを打ち消した。
寧寧のほうが大切だ、というわけではない。
もし立場が逆で、祝融がこの場にいたら、やはりおなじように、寧寧をまず助けるだろうと思ったのだ。
さて、どうするか。
熊のような大男ではあるが、やさしい心と知恵を持つ黒イの英雄は、寧寧を助ける算段を、けんめいに頭のなかで組み立てはじめた。
一方、消灯をおえた牢の大部屋の罪人たちは、寝息もまったく立たず、どころか、異様な緊迫感につつまれたまま、全員がおとなしく横になっていた。
休昭の敷いてくれた、ぼろぼろの筵にくるまって、まわりにあわせて息を殺していた文偉であるが、これだけの人数の悪党たちが、いったいなにを恐れているのかと待っていると、やがて、かつかつと整然とした足音をたてて、ちょうど牢の入り口のほうから、蝋燭を持っただれかがやってくるのがわかった。
なんだ、見回りか、と思ったのだが、それにしては、足音がずいぶん重々しい。沓音といっしょに、金属のぶつかり合う音が聞こえる。
いや、これは甲冑の音ではないだろうか。
そっと目を開き、なるべく動きを気取られないように身体をほんのすこしだけ床から離して、牢の外を見る。
すると、ちょうど格子の外で、蝋燭を片手に移動する男の姿が目に入った。
文偉は、悪党たちが、こうも恐れる理由を瞬時に理解した。
蝋燭を持った甲冑の武人。
そこまではよい。
しかしその男の風体は、あまりにふつうの武人とちがっていた。
髪は罪人のように短く切られ、数がまったく揃っていない宝飾品を、耳や首や指に、それぞれでたらめにつけている。
甲冑にしても、ろくに手入れがされていないのか、書生の目から見ても、ほころびや汚れがすぐ判るものだった。
しかし、なにより特異なのは、その人相である。
この世にあれほど恐ろしい顔があるだろうか。
浮かばれない亡者の霊が厭魅と呼ばれて、この世をさすらうことがあるそうだが、もしそれの顔を見ることがあったなら、あんな顔をしているかもしれない。
おそろしい形相で、じっと正面を見据えて、まばたきひとつせずに歩いていく。
いったい、牢に何の用があるのだろう。
武人は、真正面をずっと、親の仇でも見るようなまなざしで見つめていたので、亀のように首を伸ばしていた文偉に気づかなかったようである。
どこへ行くのか、戻ってくるのかと、耳をすませていた文偉であるが、しかし、足音は一方通行で、やがて、どこかの扉が開く音がしたかと思うと、そのまま、なにも聞こえなくなってしまった。
休昭をはじめ、陳勝にしても、おそろしいのか、寝たふりをつづけている。
なかには豪胆な者もあり、ほんとうに鼾をかいている者もいた。
文偉は首を伸ばす体勢がくるしくなったので、ふつうに起き上がると、足音を殺して、格子に近づいて、男の消えたほうを見た。
そこには、小部屋につづく扉があるのだが、そこからは、男の存在をしめす音もなにも聞こえてこない。
「彭永年」
と、いつのまにか起き上がって、ぴったり文偉のうしろにくっついていた赤頭巾がつぶやいた。
文偉は興味を引かれて、たずねる。
「ご存知なのですか」
「ご存知もなにも。さあて、おかしな真似をするものだ。あいつはてっきり、牢なんて、もうこりごりだと思っているとばかり。
親分さん、お尋ねしたいのですが」
大胆にも、寝たフリをつづけている陳勝に赤頭巾がたずねると、陳勝のほうも面食らったように起き上がった。
「おい、戻ってきたら面倒になる。あのお方を知っているのか。
前に、あのお方がここを通るときに、起きていたやつがいたんだが、そいつがどうなったと思う。
いきなり牢から外に引きずられて、問答無用でタコ殴りにされたんだ。かわいそうに、そいつは、ずっとびっこを引くことになっちまってさ」
「そいつはひでぇな。まったく、てめぇがひどい目にあったら、その分、いろいろ考えて、ひとにやさしくなるのがほんとうだと思うのだが、そうじゃないやつもいるのだな」
「そいつぁ、お人よしの言葉だね。ひどい目にあったら、畜生、数倍にして世の中に返してやらあ、と思うのが、当世のならい、ってもんだろ」
「彭永年とおっしゃいますと、たしか治中従事に命じられたお方のはず」
と、ほかのみなが起き出したので、こわくない、と思ったのが、休昭もこの話に参加した。
休昭の発言に、ほかの、起きていた罪人たちも目線をあつめてきた。
「広漢のご出自なのですが、お若い頃からあまり素行がよろしくなくて、諸国を渡り歩いたすえに、結局、どこでも長続きしないまま、故郷に戻られて、そこで仕官なさったのです。
けれど、そこでも問題を起こされて、さいごは髠鉗(こんけん)の刑に処されたのです」
「前の殿様は、利巧じゃなかったが、残酷でもなかった。
そこまで重い罪に落とされたのは、なにかよっぽど、ひどいことをしたからじゃないのかい」
赤頭巾がたずねると、休昭は、すこしおどおどしながらも、うなずいた。
「これは父から聞いた話なのですが、ともかく最低限の礼も守らず、人の顔をみれば、お上の悪口ばかりを吹聴していたそうです。
それに、もともとホラを吹く癖があるそうでして、御自分がいつかお上を蜀から追い出して、この地を治めてみせると、だれかれかまわず言っていたとか。
父が申しますに、ホラというのは、基本的に人をゆかいにさせなくてはならないのに、あの男の場合は、人を怒らせるばかりであった。
面相の悪さゆえ、観相で人を見る傾向のつよい主公に特に疎まれたのは、同情すべき点もあるが、このような事態まで招いたのは、半分は本人の責任である、とのことでございます」
赤頭巾は、なるほど、ごもっとも、と大きくうなずいた。
「なるほど。あんたのお父上は、よく人を見ていなさるね。彭永年は、たしかに苦労人なのだが、その苦労も、ほとんどは自分で招き寄せたものだというのは、なんとなく感じてはいたよ」
「赤頭巾どのは、彭永年どのをご存知なのですか?」
ふしぎそうに尋ねてくる休昭に、赤頭巾は、ははは、と笑って誤魔化した。
「いや、なあに、あの方は怖いぞという噂を聞いたものでね。
さて、ところで親分さん、あの奥の小さな小部屋はなんです。まさか、彭永年のねぐらってわけじゃないでしょう。
やっこさん、牢が居心地がよいので、ここに住み着いている、とかいう話じゃありませんよね」
「あの小部屋は、拷問部屋よ」
と、陳勝は、声をおとして、言った。
「あたらしい殿様になってからは、あんまり使われなくなったと聞くが、それでも俺たちには恐ろしい場所にはちがいねぇ。
噂じゃ、あのお方は、夜な夜な、気に入らないやつをあそこに閉じ込めて、さんざんになぶっているとかいう話だぜ」
「それにしては、悲鳴や物音が、さっぱり聞こえませんね」
と言ったのは、彭恙がいつ戻ってくるかもしれないので、その気配を探ろうと、格子にとりつくようにしていた文偉だった。
文偉のことばに、赤頭巾もうなずく。
「拷問の道具ってのは、金物だろう。けっこうがちゃがちゃ五月蠅いものだ。
それに、悲鳴は猿轡をかませりゃ、多少は消えるとしても、やっぱり人の声というものは、どんなに押し殺したとしても、特に耳に入ってくるものだよ。
ところで、親分さん、あの大将は、坊ちゃんが牢に放り込まれる前の日にも、ここにやってきませんでしたかね」
陳勝は、しばらく考え込んでいたが、やがて、記憶力のよいところを発揮して、答えた。
「ああ、そうだったかもしれねぇな。あのときは、連れがもうひとりいたようだな。
いや、最初は連れと一緒にいっつも来ていたんだが、最近はひとりだな」
「連れ、というのは、目立つ風貌をした、背の高い男じゃなかったですかい」
「さあて、そいつも、あんたみたいに顔を隠していたからな。たしかに背は高かったよ」
「派手な鎧を着けていなかったですか」
「かもしれないが、あのときも、今日のようにみんなしてぎゅっと目をつむってタヌキ寝入りをしていたから、詳しくはわからねぇな」
陳勝の答えに、しかし赤頭巾は、得心がいった、というふうに、細かくうなずきながら、言った。
「いやいや、いいんでさ。さすが親分さん、たいへん参考になりました。おかげで、いろいろとわかって来ましたよ。
なるほどね、こいつぁ、楽しくなってきた」
赤頭巾の表情はわからなかったが、頭巾の下は、楽しそうに笑っているように思えた。