捜神三国志・燭龍本紀

第二十ニ話 赤頭巾、書生とあばれる

費文偉はむっつりと、自分の席に座っていた。
同僚や先輩たちが、すでにせっせと刀筆でもって、竹簡に、文書を写す作業にとりかかっているというのに、文偉は刀筆すらもたずに、正座したまま、じっと周囲をうかがっている。

費文偉は、益州を代表する名家の跡継ぎである。
荊州の江夏にて生まれ育ったのであるが、幼少のころに父母がなくなったことと、曹操の南下によって、荊州の平和があやしくなってきたのを見越し、伯父の費伯仁とともに益州に引っ越してきたのだ。
益州の太守である劉璋は、文偉の大伯母を生母にもつ。
益州では費家といえば、権勢もすばらしく、だれもが知る名家であったのである。
荊州からはるばるやってきた文偉少年と、伯父の伯仁は、たいそう歓迎された。
さらに幸運なことには、費家には女の子ばかりが生まれて男の子がいなかったこと、しかも伯仁は糟糠の妻を亡くしたばかりで、再婚はしない、とはっきり宣言したことから、跡継ぎとして、文偉に白羽の矢が立った。
文偉の前途は、洋々たるものだったのである。

ところが、その前途は、急に暗いものに転じてしまう。
費家の零落はあっという間であった。

きっかけは、劉備の益州侵攻(費家から見れば、侵攻の何物でもない)である。
劉備は劉璋を殺さず、また、劉璋の一族も手厚く保護し、これを荊州に移住させるだけに留めた。
だが、やはり掠奪や接収はおこなわれ、劉璋の財産のほとんどは、成都陥落のどさくさのうちに兵卒たちによって奪われてしまい、費家の財産も、おなじ憂き目にあった。

一族のうち、命を落とした者もいるが、文偉と伯仁が無事であったのは、董和の心配りによる。
董和は、やはり費伯仁とおなじく荊州の出身であったが、祖父の代に費家より恩義を受けており、そのことは、董和をはじめ、董家の者は忘れていなかった。
掠奪が起こったさい、そして法正による政敵の粛清がもっともはげしく行われたさいも、みなで協力して、費家を守りきったのである。
劉備があたらしい益州の支配者となって以降は、持っていた荘園のほとんどを接収されてしまい、残ったのは、掠奪をつくされた屋敷ばかりというありさまであったが、文偉も伯仁も、命があるだけありがたいと思っている。
もちろん、劉備に対して、いささか思うところがないといったら嘘になる。
だが、命があるだけでもありがたいと思う気持ちのほうが強い。
生まれ故郷の江夏を出てからこのかた、落ち着いた日々を得たのはほんのわずかであったから、平穏な朝をむかえられることの幸せというのを、文偉はよくわかっていた。

そして、思う。
こんにち、命があるのは董家の人々のおかげである。
その董家が、いまたいへんな苦難に直面している。
一族の出世頭であった董和は、蝋燭の買占めをした、という根拠のあやしい理由から捕らえられ、処刑されるところを何者かによって救われ、それきり行方不明であるし、息子の休昭は、連座の罪にとわれて捕らえられたが、幼宰が行方知れずになったあとも、その沙汰は宙ぶらりんで、いまだに牢の中にいる。
助けなければ。
しかし、どうやって?

そうして、あえて仕事を無視して、じっと周囲を凝視していると、上役が見かねて、文偉のところへやってきた。
「具合でも悪いのか」
文偉はそれには答えず、仕切りのない大部屋にずらりと並べられた机と、それに向かって、せっせと作業する同輩、先輩たちを見まわす。

文偉は、休昭を助けるために、おなじ職場の仲間に声をかけてみたのであるが、だれもかれも、その提案には乗ることはなく、どころか、
「莫迦な話を俺にするな、讒訴するぞ」
と脅してくる者すらいた。
董和が蝋燭の買占めなどという、せせこましい悪事をするような人物ではないことを、成都の人間であればすぐにわかるはずである。
免官になったことといい、法正からにらまれていたことはたしかで、今回のことも、おそらくは、なんらかの陰謀に巻き込まれたのだ。
みな、それを知っている。
知っていながら、黙って顔を伏せる。
とばっちりを食いたくないからだ。
不甲斐ない連中め、と悪態をつきながら、文偉は、ふと、部屋の隅にある、いかにも古びた風情をかもしだしている壷に目を止めた。
その壷には、老子のことばが彫り込まれており、代々の書生たちに大事にされてきたものだ。
感情をおさえ、抵抗せずに、河の流れのごとく世情に流されたほうが、平穏な人生を歩いていけると老子は言う。目立つな、と。
しかし、若者たるもの、ときには感情を爆発させて、おのれの思うままに動くべきではなかろうか。老子の哲学を実践するのは、もうちょっと錆びてきてからでよい。

「具合が悪いのです」
と、だいぶ間を空けてから、文偉は答えた。

長い沈黙を無礼だと叱られなかったのは、文偉の家の名前が、やはり益州の人間にはつよい印象を与えるからである。
上役が荊州の人間であったら、こうはいかなかっただろうと文偉は思う。
世知辛いことではあるけれど、世の中、わかりやすいものが好まれる。たとえば、肩書きや家名などが。
そして自分は、そういったものを甘受できる身の上だ。このうえに胡坐をかくこともできるのだが、どうやら性格がそれを許さぬらしい。やれやれ。

「どこが悪い」
上役のことばに、文偉は、壷を視界のなかにおさめながら、答えた。
「はい。気分が悪うございます」
そうか、と言いかけて、上役は怪訝そうに眉をしかめた。
「待て。気持ちがわるい、ではなく、気分がわるい、と申すか」
「左様でございます。宮城に出仕して、まだ一月にもなりませぬが、わたしと同じく机を並べていらっしゃる方々の不甲斐なさに、気分が悪くなり申した」
「いきなり、なにをぬかす。謝罪せよ」
と、上役は、袖を振って、自分と周囲に謝れとうながすのであるが、文偉はぷい、と顔をそむけてみせた。
「謝る理由がどこにございましょう。無実の董休昭の身を案じる者がないということは、事実ではありませぬか」
「貴様、逆賊の息子を庇いだてするつもりか! 費家の者であろうと、いまの発言は聞き逃すことができぬぞ!」
怒鳴る上役に、文偉は勝気なところを見せて、その顔をぐっとねめつけると、言った。
「その罪というものが、そもそも怪しいと申し上げております。もしも、まことに董幼宰に咎があると尚書令どのが見ておられるなら、息子の休昭に対しても、すぐに処罰が下るはず。
ところがなにも沙汰はなく、ほかに董家の者には追及の手も伸びておりませぬ。むしろ、なにゆえか軍師将軍の兵卒が、消えた董幼宰を追っているとか。
そして董幼宰が消えてこの方、ぷっつりと、だれも蝋燭のことなど口にしない。
これはおかしい、もとより蝋燭の買占めというのは、建前だったのではと思うのが、常人の感覚というものでございましょう。
ここにいる皆様は、そうしたことにも気づかれぬボンクラなのか。
これだけの人数が揃っているというのに、これでは、巴蜀の未来も暗いというものですな」
「だまれ、文偉! 貴様、まこと気が違ったか!」

文偉のことばに、仕事をしていた者たちも、なにごとかと手をとめて視線をあつめてくる。
しかし文偉はへっちゃらで、かれらの視線もものともせず、答えた。
あとのとばっちりを恐れて、なにもできない連中ができることなど、たかがしれている。

「董休昭の逮捕は、あきらかに不当なもの。その父の董幼宰が巴蜀の民のためにどれだけ尽力していたか、知らぬものはありますまい。
かれは巴蜀の不正を糺すため、おのれの身の危険をかえりみずに、戦ってきたのでございます。いわば、ここにいるみなの恩人のようなもの。
文字のひとつもまともに読めぬ無学な民のほうが董幼宰を慕い、これを処刑場から奪い返したというのに、ここにいる方々は、さまざまに教養もあれば後ろ盾もあろうに、なにを恐れてか沈黙を守り、まったくそ知らぬ顔をしてばかり。
ですから、わたくしは、その不甲斐なさに気分が悪くなったのでございます。
かような不甲斐のない者たちに、果たして大事が為せましょうや」
「口が過ぎるぞ、費文偉!」
上役はまなじりをつよくして怒鳴り、先輩書生たちも、なにを言うか、生意気な、と席を立ち、文偉のところへあつまってくる。

よしよし、いまのところは計画どおり。
と、泰然とした態度をくずさず、周囲の様子を見回した文偉であるが、ぐるりと視界を一周して、それから、ん? と思い、視線を元に戻した。
というのも、ざっと見回した視界の中に、とびきりおかしなものを見つけたからである。
文偉を責めるために立ち上がった先輩書生たちの背後に、なんだかおかしな男がいる。
目にも鮮やかな真っ赤な頭巾をかぶった背の高い男が、ほかの様子を見ている書生たちの呆気にとられている視線をものともせず、文偉のほうを見つめているのである。
わたしは目がおかしくなったのかな、とぱちくりしていると、その赤頭巾は、不意に、カカカ、とほがからかに声をたてて笑いながら、文偉にむかって、ぱちぱちと手を叩き始めた。
剣呑な空気につつまれつつあった大部屋に、これまた突然ひびいた笑い声と拍手。
文偉に集中していた人々の目は、一瞬にして、そちらのほうに向かって行った。
しかし赤頭巾のほうは、視線をあつめることに慣れているのか、それともおかしな男だから、おかしい状況をおかしいと思わないのか、ひるむことなく、うんうん、とちいさくうなずきながら、手を叩くのをやめて言った。

「いやあ、いいこと言うじゃねぇか、兄さん。儂は特に、あんたの『董幼宰は、ここにいるみんなの恩人のようなもの』ということばに、ぐっときたね。
儂はよそ者で、董幼宰がどれだけの働きをしてきたのか、目の当たりにしていないが、処刑場での民の様子から察するに、あんたのことばが正しかったのだなと思うよ」
「やや、何奴ぞ!」
と、叫んだのは文偉の上役である。
大部屋は、湿気のおおい成都の気候のことや、空気が籠もると竹簡の扱いがむずかしくなることもあって、廊下に面する扉のすべてが開け放たれていたのだが、赤頭巾は、そのなかのどこからか、ふらりと入ってきて、堂々と姿をさらしているわけである。
「名乗れ! 何が目的だ!」
と、身構える上役に、目だけを頭巾の窓からのぞかせている赤頭巾は、頭巾の上から、頭をぼりぼりとかきながら、答えた。
「儂のことは、赤頭巾と呼んでくれ」
とたん、周囲の書生たちから、ひそひそと、そのままだ、という声が挙がった。

「目的は、幼宰さんの息子がどんなことになっているかなと心配になってきて見たら、なんだい、父親のとばっちりを食って逮捕されたまま、それっきりになっていると聞いてね、さて、あんたらその仲間のはずだが、どういうふうに過ごしているかしらん、不安そうかな、それとも怒っているかなと興味津々だったのだが、なんだい、まるでどいつもこいつも知らぬ顔して、なにもなかったみたいな態度をとっていやがる。
けれど、そこの兄さんだけが、こいつはおかしいぜと異義を唱えた。儂はその勇気を讃えたいね」

赤頭巾の正体が何者なのか、文偉には見当もつかなかったが、そのことばを聞いて、ぱあっと胸が晴れたような気がした。
覆面にしても、夕陽のように真っ赤な頭巾を選んでいる、という点で、とんでもない変わり者かもしれないが、ことばの内容は明瞭で、頭巾の覗き窓から見える双眸は、いたって冷静。
味方であるようだ。
もしかしたら、幼宰さまを助けにあらわれた男たちの一人なのかな、とも文偉は想像する。
たとえば身分の高い豪族か、士大夫のひとりで、董幼宰に恩義があるのだが、尚書令の報復が恐ろしくて、顔を隠さねばならない男なのかもしれない。
だとしたら、いくら覆面であるとはいえ、衛士があちこちに配されている宮城に、簡単に忍び込めるはずがないのだ。
素顔は、ふつうに宮城に入ることを許されている身分の男だと見るのが妥当だろう。

赤頭巾は、呆気にとられている一同に、よくひびく声で言う。
「だがよ、もかしたら、この中にだって、ちゃんと董幼宰の息子を心配している奴だっているかもしれない。
家の事情で、おおっぴらに口にできないだけかもしれない。
そうであると信じたいが、ともかく、儂の言いたいことは、だ、このままじゃいけねぇ、ということだな。そうだろ、兄さん」
「はい、そのとおり。赤頭巾どの、よいことをおっしゃる。しかも、未熟で至らぬわたしの心も、代弁してくださった」

うなずきながら、文偉は勢いよく立ち上がった。
そうして、まだなにが起こっているかわかっていない先輩書生や同輩たちを尻目に、つかつかと、大きな壷の置いてあるところまで行くと、それを持ち上げ、思い切り床に叩きつけた。
がちゃん、という派手な音に、それまで呆気にとられていた上役も、ハッと我にかえる。
床には、こなごなになった壷の破片が散らばっている。

さて。
文偉はひそかに気合を入れなおすと、壷の置き場所であった木の棚を両手で持ち上げ、それから、めちゃくちゃにそれを振りまわすと、周囲の扉や壁を、めった打ちにしはじめた。
「狂ったか!」
うろたえる上役の声を無視し、文偉がひたすら暴れていると、それを見た赤頭巾が、奇声を発して、うれしそうに言う。
「お、楽しそうじゃねぇか! 儂も参加する!」
「やめよ!」

上役たちの制止もあっさり振り切って、赤頭巾は文偉と同じように、おのれの周囲にある机を蹴飛ばしたり、あるいは漆のたっぷりはいった壷を持って、
「漆をかけてしまうぞー!」
と、からかって追い回したりと、好き放題をはじめた。

たちまち大部屋は大混乱となり、この騒ぎを聞きつけたほかの部屋の官吏たちもあつまってきたのであるが、あまりの騒ぎに、みな、どこからどう手をつけてよいのかわからずに、呆気に取られている。
しかも官吏たちが大量にあつまってきたところを見はからってか、赤頭巾が手にしていた漆の壷を、かれらにむかって、ざあっと振りかけてみせたものだから、たまらない。
漆にかぶれてはたまらぬと、みなが袖で身を覆って逃げ惑い、さらには逃げた足に、赤頭巾が蹴飛ばして四方八方に散っている机につまずいて倒れ、その倒れた身体に、別のものがつまずいて、また倒れる、といった具合。

そうこうして夢中で汗をかきながら、大部屋をしっちゃかめっちゃかにかきまわしていると、廊下をバタバタと足音も荒く、
「こちらでございます! こちらでございます!」
と駆けてくる者たちがいる。
ようし、これまた思惑どおり、と文偉は、汗をかきながら、思わず、にっと笑みを浮かべる。
すると、それをちゃんと見ていたらしく、赤頭巾も声を立てて笑って、言った。
「兄さん、あんたいい度胸しているぜ。ちゃんと後先を考えているのかわからんが、この大胆さは気に入った。儂はあんたと一緒に行くよ」
文偉は素直におどろいた。
赤頭巾は、むやみやたらと騒いでいるわけではなく、こちらの意図をちゃんと掴んで、暴れていたのだ。
頭巾で顔を隠しているが、年齢は、伯父の伯仁よりも上であろう。
ことばの訛り方からして、北方の出身者であることはまちがいない。
もしかして、只者ではないかもしれないな。

そんなことを考えていると、廊下から、逃げ惑う人々をかきわけて、先輩書生の先導で、衛士たちがやってきた。
「書生の費文偉と、不埒にも、赤い頭巾をかぶった侵入者が、部屋をめちゃくちゃに!」
先輩書生のことばに、衛士は、手にしていた槍を、ぐっと文偉と赤頭巾に向けてくる。
まったく抵抗するつもりのない文偉は、あっさりと、手にしていた棚を床に落としてみせた。
赤頭巾も同様で、漆入りの壷を、こぼれないように机の上に置く。
文偉と赤頭巾に抵抗する気配がないことを見た衛士たちであるが、その突きつけている槍の数は、赤頭巾に対するもののほうが、数が多い。
「貴様、何者だ! そのふざけた頭巾をとれ!」
しかし赤頭巾は、頭巾をとる気配をさっぱり見せず、どころか、またもほがらかに笑いながら、衛士たちに言った。
「まあまあ、そういきり立つなよ。で、儂はどこへ行けばいいんだい。できれば牢屋が良いのだが。そうだろう、兄さん」
ああ、やっぱりわかっていて付き合ってくれたのか。初対面だろうが、奇特な方だ、と感心しながら、文偉はうなずいた。
「ええ、ぜひ牢屋に」
「というわけで、みんなで牢屋へ行こう。ほいほい、お騒がせしたな、ほい、ごめんよ、ちょっとどいてよ、失礼するよ」
と、赤頭巾は、突きつけられている槍をまったく恐れることなく、唖然としている一同をかき分けて、みずから率先して牢へ向かおうとする。
足にまったく迷いがなかったので、広い宮城の施設にくわしい者だということが、そのことからもわかる。

「待て、貴様、ふざけるな!」
と、衛士のなかでも、纏う鎧の色がひとりだけちがう、年かさの男が、怒気を浮かべてあらわれた。
どうやら衛士の長であるようだ。
「なにが牢屋がよいのだが、だ! 貴様、この場で詮議してくれる! まずは頭巾を取って見せろ!」
すると、赤頭巾は、面倒くさそうに人ごみのなかで振り返った。
「いやだよ。職務熱心だね、あんた。いいことだが」
「貴様に誉められる筋合いはない!」
と、赤頭巾は身体の向きを衛士の長のほうに代えると、おやおや? と言いながら、近づいて、衛士の長の顔を、じいっと見入った。
「ああ、やっぱりそうだ。あんた、張益徳の部隊にいたやつだろう。へぇ、こっちきて、身を固めたクチかい。
たしか士卒長だったはずだが、こっちのほうが地位も禄もいい。出世したのだな」
「なぜ貴様が、それを知る!」

奇妙な会話である。
一方で、手の空いている衛士に拘束されながら、文偉は赤頭巾と衛士の長のやりとりを見ていると、赤頭巾は、周囲のを見回してから、ちょいちょい、と衛士の長を手招きして、人の輪の外に出た。
衛士の長はすっかりおかんむりであったが、赤頭巾のしぐさにつられるようにして、人々の輪から少し外れたところに足を運んだ。
文偉からは、赤頭巾と衛士の長のやりとりは、よく見えなかった。
ふたりは、その場の全員に背を向ける格好で、なにやらぼそぼそと話をしていたのであるが、途中で、ちらりと、赤頭巾がこちらのほうを気にするようにして、振り向いたようである。
衛士の長は、いったいどのような話が行われているのやら、すこしだけうかがえる横顔からは、怒りの表情は消えており、どころか『とんでもないことになった』と、戸惑っている様子が見て取れる。
赤頭巾は、ほんのすこしだけ、頭巾をずらしたようだ。
それだけで、衛士の長の表情が、完全に驚愕に転じた。
あわてて平伏すらしかねないところを、赤頭巾が、よしよしと取り成している。
やはり、相当な身分の者なのか? 

どんな顔なのだろうと、縄でしばられながらも、人ごみの向こうの赤頭巾を見ようと思った文偉であるが、先輩書生や上役たちの頭や背中のすき間から、つぎに赤頭巾をみたときには、もうすっかりもとの頭巾になっていた。
そうして、文偉のほうに、赤頭巾は、申し訳程度に縛っただけ、とはっきりわかるほど、ゆるく縄をしばられて、それから文偉のほうにやってきた。
縄をもつのは衛士の長であるが、衛士の長が赤頭巾を引き回している、というのではなく、赤頭巾が衛士の長を引き回しているようにも見える。
衛士の長の兜の下の顔は、あきらかに挙動不審で、落ち着きがなかった。

「さあて、準備もすっかり整ったようだし、牢屋へみんなで行こうじゃねぇか。
儂、いままでいろんなところへ行ったけれど、牢屋に行くのって、はじめて!」
「ふざけるな! 物見遊山に行くのではないのだぞ!」
と、衛士の長が沈黙している代わりに、その部下が、赤頭巾をしかりつける。
それを見て、あわてて衛士の長が、よいから、よいから、と取り成した。
不服そうな顔をして、上役を見る衛士たち。
しかし赤頭巾は、まるで頓着することもなく、まるで遊びにいく、子供のようなうきうきとした足取りで、牢へと向かう。
それを、大部屋の書生たちは、呆気にとられて見送ったのであった。



法正は怒り狂っていた。
いや、この状況で、平常心でいられる人間がいるだろうか。
よほど忍耐づよい者だとて、怒らずにはおられまい。
いま、法正の目のまえには、年齢のつかめぬ、つるりとした相貌に、余裕のあり笑みを口許に浮かべつづけている、栄耀飯店の主がいる。
完全に舐められておるな、と法正は、ますます怒りをふくらませる。

思えば、この張大人は、二十年ほどまえにふらりと成都にあらわれてから、またたく間に裏社会を中心に勢力をのばし、文字通り『栄耀』をほしいままにしたのだった。
そんな男からすれば、わたしは『成り上がりのひよっ子』に見えるのかもしれないなと、法正は忌々しく思う。
自分と張大人とでは、若作りではあるが、張大人のほうが年上らしいなと、最近わかってきた。

その前身がどんなふうで、生まれはどこで、どのような身分のもとに育ったのか、張大人については、なにひとつ正しいところがわからない。
わかっていることは、この男が、恐ろしいほど抜け目がなく、そして、頭の回転が早い、ということだ。
先の先を読みこされている、いつでもその手の内のなかで遊ばされている。
押さえつけられているような、利用されているような、落ち着かない気分が、どうしてもぬぐえない。

今、この部屋には二人だけであるが、外には腕利きの部曲を配置してある。
合図すれば、いつでも部屋に飛び込んできて、張大人の首を跳ねるだろう。
その男たちから発せられる気に、気づいていないわけでもないだろうに、この余裕はなんなのだ。

九門古城の財宝についての話を、最初に張大人から聞かされたとき、法正はまったく取り合おうとしなかった。
長く巴蜀で暮らし、そして宮城に仕えていたが、まさにその地下に、それほどの規模をそなえた古城があるなどと、とても信用できなかったのである。
なんらかの伝説、伝承、あるいはおとぎ話が残っているというのならともかく、九門古城に関しては、なにも聞いたことがなかった。
ところが、張大人の部下たちは、法正に執拗にまとわりつき、古城で得たという、これまで見たこともないような貴重な品々の、しかも傷の少ない品物を、法正のもとに届けてきた。
奇妙な形状、龍と鳥と樹を抽象化した文様のほどこされた、洗練された精巧な品の数々。
まるで神仙の用いる道具のようではないか。
九門古城には、まだまだもっと素晴らしい宝がある。
それは『得れば必ず天下をとれる宝』だ。
はっきりとした正体はわからないが、もうすこしでこれを見つけられるようだ。

貴方は、この山ぶかい田舎の尚書令という地位で終わってよい人間ではない。
その才能を、都にて発揮してみたいとは思わないか。
その宝があれば、夢は夢ではない。

そんなことばに巧みにだまされて、法正は財貨を張大人に与えた。
天下を取れるなら、安いものだと思ったのだ。
そうして、よい報せを待ちつづけて、ようやく張大人から、おまちかねの宝の話を聞かされた。
おどろくべきことに、それは『図讖』であるという。
未来の予言のつづられた書で、見たものの話によれば、今日に至るまでの天下の様子は、ほぼこの図讖に綴られており、その詳細ぶりは、むしろ気味が悪くなるほどだとか。
未来を読みこせるというのであれば、政治をとりおこなう者には、これほど心強いものはない。
敵の罠や陰謀を見抜くこともできるし、いざというときの決断にも困らなくてすむのだから。

大喜びした法正であるが、それも、董和の処刑に立ち会ったあとからは、気分が一転する。
董和を取り逃がしたからではない。
董和が口にしたことが、法正の心を塞がせていたのだ。
孔明が、すでに先に宝を得ている。
もしこれが本当だとしたら、わたしは張大人に騙され、財貨を失ってしまったばかりではなく、宝を得た孔明に、頭が上がらなくなってしまうのではなかろうか。
そうした恐れも、いまは怒りに変わっている。


だまって、そのきつねによく似た尖った目で、張大人を睨みつけていると、張大人は、お手上げ、というふうに片方の手を挙げて見せた。
「おっしゃることは、よくわかり申した。わたしが尚書令さまを騙したとおもってらっしゃる。『得れば必ず天下をとれる宝』は軍師将軍の手に渡っている、と。
しかし、はっきり申し上げておきますが、なぜに殺される立場であった、董幼宰の言葉を、そうも信用なさるのです。
あれは融通がきかない男だが、愚直ではない。
おのれの命を助けるため、わざと貴方の気を逸らせるようなことを口にしたのかもしれませぬ」
「適当なことを言うな! それでは、古城について、軍師将軍も兵卒を動かして探らせているのは、いかなる理由からぞ!」
法正が決め付けても、張大人は、まったく動じることなく、椅子の上で姿勢をくずすと、言った。
「そこでございますよ、冷静におなりなさい。軍師将軍が宝を得たというのなら、いまだに兵卒を動かしているのはおかしいと思われませぬか。
貴方様は、董幼宰の口車に、うまく乗せられたのでございます」
「む」
指摘されてみれば、まったくそうだと思えるのだが、法正は、まだ気を許していなかった。
「では、なにゆえ、そなたは図讖を我がまえに差し出さぬ」
「もちろん、差し出すことができるのなら、とっくの昔に差し出しておりますよ。
図讖といいましても、それは、書物の類いではございません」
「なに?」
「説明をするのがむつかしい。お時間はございますかな、尚書令さま」
言いながら、張大人は、ゆっくりと椅子から立ち上がる。

うろたえて法正が黙っていると、主導権をにぎりつづけている男は、口許に笑みを浮かべ続けながら、言った。
「いまからご案内してさしあげましょう。『得れば必ず天下をとれる宝』、お目にかけてご覧に入れます」


二十三話へつづく…
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