捜神三国志・燭龍本紀

第二十一話 敵と味方

死から逃れられたという安堵もあってか、刑場で感じていたときよりも鞭の傷が痛んでいる。
しかし、荊州兵が追ってこないか、法正の部曲が追ってこないかと、けんめいに警戒しながら董和を守る者たちに、これ以上の迷惑をかけたくないと、董和は、ぐっと歯を食いしばり、痛みに耐えた。

長星橋商店街の面々に、かばわれるようにして処刑場をあとにした董和は、やがて一行に連れられて、商店街から離れたところにある、鬱蒼と庭木の伸び放題になっている荒れた屋敷にやってきた。
「ひでえところですが、勘弁してください。中は片付けてあります」
竹細工屋の親父が董和を馬から下ろして屋敷に運び込む。
屋敷は、かつては士大夫か、それなりに裕福な商人が別邸として利用していたらしいのであるが、火事を起こして、それっきりケチがついてしまい、だれも住まなくなったものである。

晴嬰に支えられ、力自慢の肉屋の親父に背負われながら、ぼうぼうと生えている雑草を踏み分けて、中に入ると、まず黴のにおいが鼻をついた。
しかし、董和を迎えるために掃除をしていたらしく、廃墟ならではの薄暗さはあるものの、片付きはよく、董和のための寝台も用意されてあった。
「男がひとり、ずっと寝ていても怪しまれない場所で、人の出入りのおおいところと入ったら、妓楼がいちばんかと思ったんでございますがね、このあたりの妓楼は、みんな張大人のやつとつながりがありますんで、この屋敷に決めたんです。
もちろん、晴嬰さんがいやがるだろうな、ってことも考えたんですぜ」
と、竹細工屋の親父がいうと、ちがいない、とほかの面々も笑った。
董和もそれに合わせて微笑してみせるが、しかし、笑うかれらの、一見すると屈託のない表情のなかにも、疲れと不安が確実に存在していることに気が付いていた。
それはそうである。
かれらはいま、法正や孔明、つまりは巴蜀を支配する二つの勢力を敵に回してしまったのだ。
法正の苛烈な報復の手段を、みな目の当たりにしているし、孔明にしても侵略者。
成都の地に縁故を持たないがゆえに、どれほど思い切った行動にでるか、見当もつかないのだ。

ゆっくり休んでいる暇はない。
すぐに行動に移らねば、ここにいる全員が、あっという間に逮捕され、法正側に捕らえられたら、その面子を汚したという理由をたてに、孔明側に捕らえられたら、九門古城のことを知っているということを理由に、末路はおなじく、処刑されてしまうだろう。
どうすればよいか。

董和は、この屋敷に運び込まれがてら、何度も気絶しそうになりながら、考えていた。
九門古城、すべてがここに起因する。
法正は『得ればかならず天下を取れる宝』、これを目指しているし、孔明は逆に、これを葬ることを目的にしている。
ただし、古城の規模は、この二人をもってしても手に負えないほど巨大で、どちらも、古城について、正確なところをつかんでいない。
おそらく、先祖伝来の地図を持っているという孔明さえも、知っているのはごく一部だけなのだ。
そこに、勝機がある。
孔明は、こちらがじきに死ぬ、あるいは己の配下になるだろうとタカをくくっていたため、しゃべりすぎたのだ。
あの言動から察するに、慣れ親しんだわが家のどこかに、古城に関するなにかが眠っている。
おそらくは、九つの入り口のひとつが。

董和を横にしようとする晴嬰の手を、董和はやんわりと止めた。
横になると、かえって、傷が痛むのだ。
そこで、寝台を壁際に寄せてもらって、そのうえに座ると、壁に背中をあずけた姿勢になった。
「みな、すまぬ。わたしのために、そなたたちはあまりに大きな危険を冒した。この恩、この董幼宰、決して忘れぬ」
そう言って、動かせるかぎりの範囲で董和が頭を下げると、その場にいた親父たちや晴嬰は、おどろいて、口々に言った。
「なにをおっしゃっているんですかい、旦那がいままで俺たちにしてくれたことを考えれば、これっぽっちの手助け、ちっともたいしたことじゃありませんよ。恩だなんて、おっしゃらないでください」
「そうでさ。これでもし、幼宰様を俺たちが見捨てていたら、きっと俺たちは、世にも稀な恩知らずと、成都中の人間の笑いものになっていたでしょうよ。
これは、俺たちの面子のためにしたことでもあるんです」
そうして、董和に気遣いをさせまいとする親父たちのことばに、董和はますます感じ入った。
これほどまでに配慮してもらえるなど、ほんとうにありがたいことだと、董和はしみじみ思う。

そんなやりとりをしているあいだに、玄関のほうで見張りについていた卵売りがやってきて、なんともうれしい顔を連れてきてくれた。
董家のじいやは、董和の無事な姿を見ると、顔をくしゃくしゃにして、泣きながら駆け寄ってきた。
「旦那様、旦那様、ご無事でようございました。旦那様が、あのいまいましい馬賊めの縄にかかったときは、わたくしは悔しくて悔しくてなりませんでした。
けれど旦那様のことですから、きっとかならず帰ってきてくださると信じておりました」
言いながら、袖で涙を拭くじいやは、晴嬰がていねいに巻いた包帯を見て、悔しそうに呻いた。
「なんと、ひどい目に遭われたのでございますね。この老いぼれが代われたなら、どんなによかったことか」

じいやの背後には、張嶷の姿もあった。
息をはずませ、背中には、持ち出せるだけ持ち出したものとおぼしき、家財道具をまとめた籠を背負っている。
その姿を見て、董和はぴんときた。
「伯岐、もしや、屋敷に兵が来たのか」
張嶷は、なぜわかったのだろうとふしぎそうな顔をしたが、そうだ、とうなずいた。
「商店街の者が、先に知らせてくれたので助かった。
俺とじいやさんが屋敷から抜け出せたのは、兵卒どもが屋敷に入り込んだのとほぼ同時。まさに間一髪だったのだ」
「どちらの兵だ。荊州兵ではなかったか」
「ああ。冠に白い羽根飾りをつけていた。荊州兵にちがいない。
士卒長らしい男が、『逃亡者の屋敷を接収する』と言っていたから、幼宰殿が無事だとわかったのだが、しかし解せぬ。なぜ屯所の兵ではなく、荊州兵が来たのだろう」

董和は、おのれの推論に、ますます自信を深めた。
孔明は、先祖伝来の古地図によって、九門古城の入り口の所在を知っている。
そして、あの聡明な青年は、こちらが古城の入り口の存在に気づくことすら読みこしていたのではないか。
荊州兵をすばやく動かしたのは、その入り口の存在が、よそに漏れないようにするためだ。
こちらが戻ってきて、その入り口を探すことも狙って、兵を配置したのにちがいない。

第一の門は栄耀飯店にある。
第二の門は溶ける湖に阻まれて入ることができない。
第三の門は神政門のそばにあるが、開ける仕組みがわからない。
第四の門、これが董家にあるらしい。
第五の門として、所在は不明だが、孔明が存在を把握し、荊州兵をそこから中に潜入させている門。
第六の門として、おなじく所在は不明であるが、馬超と彭恙が使用している門がある。

「みな、聞いてくれ。はっきりいうが、われらは法尚書令と、軍師将軍、このふたつを敵に回した。
この両者の権力をもってすれば、われらの命など、まさに風前のともし火。いますぐにでも、兵が長星橋に大挙して、われらを摘発せぬともかぎらない。
われらは、すぐに行動をとらねばならぬ」
「行動というと、どういうことだ」
張嶷の真っすぐな問いに、董和は答えた。
「両者に先んじるのだ。すなわち、九門古城の宝をかれらより先に得る。
それしか生き延びる方法がない」
「圧倒的に不利だ。俺は、みなにはすまないが、ほとぼりが冷めるまで、この地を捨てて、逃げるのが一番だと思う」
張嶷が言うと、商店街の親父たちは、口を尖らせて、抗議した。
「俺たちが悪いことをしたっていうんならともかく、なんにも悪いことしていねぇのに、なんで出ていかなくちゃならねぇんですかい」

仲間のことばに、ほかの親父たちも、そうだそうだ、とうなずいている。
なんてこといいやがる、この腰抜け、といわんばかりの目を向ける者もいる。
だが、張嶷は臆することなく、きっぱりと言った。
「気持ちはわかるが、実際に、俺たちは法正や諸葛亮の兵卒と戦えるか? 
このなかで、戦場にまともに出たことのあるやつは、一人としておるまい。相手は、百戦錬磨の玄人の集団だぞ。
まして、幼宰殿の話によれば、諸葛亮は九門古城の地図を持ち、実際に部下の荊州兵を古城にもぐらせているという。
法正のほうは、張のやつにたぶらかされているようだが、諸葛亮の動きを知れば、これに乗じて、みずからも部曲を動かし、古城の制圧にとりかかるだろう」
「そこだ」
と、張嶷の話に割り込むかたちで、董和は口にした。
「法尚書令は、張大人によって、自分が宝を得ることができたと思い込んでいたが、そうではなかったと知って、いまは混乱しているはずだ。
大金を動かしたようなので、怒りの矛先は、当面は張大人のほうに向かっているだろう。
だが、張大人のほうばかり気にしてもおられぬ。軍師将軍の兵卒が、古城にもぐっていることを知ったからだ。
本当の宝を軍師将軍が奪ってしまわぬものかと、気が気ではないにちがいない」

「図讖っていうのは、未来を知ることができる予言書なのでしょう? それよりもすごいお宝って、いったいなんなのでしょうね?」
ふしぎそうに言う晴嬰に、その場の皆が、さて、なんだろうと首をひねった。
「わからぬが、軍師将軍が、あれほど躍起になって存在を葬ろうとしているものだ。
あの青年は、法尚書令とはまたちがった苛烈さを持っているが、もっと厄介なことに、おそろしく冷静だ。目的のためには、いかなる障害も、冷徹に取り除くことができる。
そういう者をして、翻弄されてしまうものが、宝といわれているものだ。きっと、われらの想像もつかぬ、恐ろしいものにちがいない」
「だが、その諸葛亮のほうが、いまは有利だ。
入り口の存在も知っているうえに、胡偉度をとおして、われらの事情にもくわしくなっている」
張嶷のことばに、長星橋商店街の親父たちは、いまさらながらに思い出して、顔を赤くして、言った。
「そうだ、そのとおりだ。あの野郎、とぼけたフリをして、俺たちを探ってやがった、イヌだったのだ!」
「偉度をとおして、軍師将軍は、第三の門の存在も知ったと見てよいだろう。
ところで、軍師将軍の動かせる手勢がどれほどか、おまえたち、わかるかね」

董和の問いに、商店街の親父や晴嬰、じいや、張嶷も、みな、考えて、それぞれが思いつく数字を口にしたのであるが、それはどれも、実際とはかけ離れたものであった。
「軍師将軍は成都を守るという理由から、その右腕と目されている趙子龍に五千の兵を預けて、その任務にあたらせているという」
「ええ、それじゃあ、あたしたちは五千人と戦わなくちゃいけないんですか」
悲鳴にも似た晴嬰の声に、董和は静かに微笑して、首を振った。
「いいや。実際に古城のために軍師将軍が動かせる兵は、五千のうちの五百にも満たない兵であろう。
軍師将軍は、はっきりとわたしに、古城のことを知る者は、すべて口を塞ぐと言った。
軍師将軍にしても、あまり多くの兵に古城のことを教えたくないはずだ」
「待ってくださいよ、その理屈でいやあ、古城のことを知っちまった荊州兵は、どうなっちまうんです」
人情に厚い肉屋の親父の問いに、董和は、申し訳ない気持ちになりながら、答えた。
「あのことばに嘘がなければ、おそらくは口を塞がれるだろうな」
「なんて野郎だ」

「5百の兵を古城に回し、ほかを、通常の成都の守護に回す。そして今回、幼宰殿を追うためにさらに手勢を割いた」
張嶷はどうやら、董和が言わんとすることがわかったらしい。
満足してうなずいてみせて、董和は先をつづけた。
「軍師将軍は、たしかにわれらより先んじているが、一方で法尚書令よりも権限がそう多くない。
動かせる兵には限りがあり、それ以上動かすには、尚書令の許可がいる。
軍師将軍の動きを牽制するためには、軍師将軍が身動きできない状態にするしかない」
「どうするんです」
「外部を動かす」
董和のことばに、その場のだれもが息を呑んだ。
「外部ってのは、魏や呉のことですかい? どうやって。
まさか、古城のことを、魏や呉の連中に教えるつもりですかい」
「それはなりません、旦那様。そうなれば、魏や呉が大挙して成都に押し寄せてまいります。
ふたたびこの地が、戦乱に巻き込まれてしまいます」
沈黙していたじいやさえもが口を開くが、董和は答えた。
「外部といっても、魏や呉をほんとうに動かすのではない。成都に、できるだけ多く噂を流すのだ。
『魏と呉の細作が手を組んで、巴の異民族たちを味方につけて、蜀を包囲しようとしている。巴の者たちは、これにたいへん迷惑しているのだが、あたらしい主公様はまったく手を打ってくれない』とな」

そのことばに、一同は、おお、と感嘆の声をあげた。
「なるほど、それならいいや。悪いのは、なんにもしない主公様。
巴蜀の人間は義理堅いから、簡単に裏切らない、ってところもしっかり伝わるし、面白そうだ」
「けれど、それでうまく軍師将軍が動いてくれるでしょうか」
晴嬰が聡明なところをみせて、不安そうに言うと、董和は大事ない、とこれまたうなずいた。
「まったくの噂だけであったら、軍師将軍の細作が、すぐに噂に根拠がないことを見破るだろう。
噂に信憑性を持たせるための工作をすればよい。
市井には、わたしがさっき言った噂を流し、一方で、栄耀飯店に出入りしている盗賊たちに、こう流すのだ。
『呉の細作が宝の存在を聞きつけて、成都に入り込んできている。
どうやら入り口は栄耀飯店のほかにもあり、かれらは荊州兵に化けて出入りしている。
これは呉とつながりのある軍師将軍の策略で、世間では『巴の異民族が魏や呉に流れないように見張っている』という目的で兵卒を動かしているが、じつはそれは建前で、軍師将軍は、呉の細作らとともに、古城の宝を探っているのだ』」

張嶷が、董和の作戦を見抜いて、感心して大きくうなずいた。
「なるほど、その噂を聞いた賊は、単純に『軍師将軍の兵卒にくっついていれば、宝にありつけるだろう』と考える。
一方で軍師将軍の兵卒たちは、賊が自分たちにぴったり張り付いていることに不安をおぼえる。
しかも、噂が少しずつずれているからこそ、じつは噂が噂などではなく、本当ではないか、自分たちは軍師将軍に利用されているのではないか、味方の中に盗賊、あるいは呉の細作がいるのではとすら考えるようになるかもしれない。
そうなれば、軍師将軍の兵の統率は乱れ、その行動は鈍る。
栄耀飯店のほうも、盗賊たちが去ってしまったら、上前を跳ねることができなくなり、困窮し、尚書令に泣きつく。
泣きつかれた尚書令のほうは、政治上の思惑もあり、呉と軍師将軍がつながっているという噂を、利用しようと考えるだろう。
みな、宝どころではなくなるな」

「そこまでうまくいくかはわからぬが、それなりの効果はあるように思える。
そうして、軍師将軍と尚書令が対立している隙に、われらが漁夫の利を得る、というわけだ。
宝を得られなかったとしても、時間を稼げるわけだから、逃げるにしてもなににしても、いまよりマシな状況になっているはずだ。
そこで、まずはみなに手分けして、動いてもらわねばならぬことがある」

董和がかしこまって言うと、一同は、あらためて董和に向きなおり、その表情を引締めた。
「まず、軍師将軍が第三の門に対し、どういう対応を取るかを見たい。
伯岐の話では、第三の門は、羌族が管理しているようだというのだな」
「晴嬰殿たちが追っていた、黄色い輝石の指輪の連中かどうかはわからぬが、関連はあるだろう。
こやつらは、軍師将軍とつながりがないはずだ」
「うむ。つぎに、噂を流す者たち。これはなるべくなら、噂を流すことに不自然ではない者がよい」
「だったら、街のあちこちへ移動する俺たちが適任でしょう」
と、卵売りが進み出た。
「仕入れの者やお客に、うまく話す技術も必要でしょう。だったら、俺もその役目を引き受けます」
とは竹細工屋である。
「で、これが肝心であるが、古城に潜る者たちだ。
潜るといっても、いまのところ、われらの知っている門のほとんどは、だれかに抑えられている。
だから、このうちのどれかを利用するのではなく、まだわれらの知らない門を見つけた上で、古城に潜らねばなるまい。
さきほど伯岐が言っていたことは正論で、今度は、盗賊ばかりではなく、百戦錬磨の荊州兵が相手となる。
度胸がよく、腕に覚えのある者が望ましい」
「では、俺は行く」
と、まっ先に張嶷が進み出た。
それに呼応して、肉屋が言った。
「俺は鍛冶屋のヤツに、腕のある、それでいて口の固そうなヤツに心当たりはないか、聞いてみますよ。
あいつのところなら、半端者からほんものの将兵まで、いろんなやつらが来ますからね」

「ぼっちゃまはどうなるのですか、旦那様」
と、ふたたび泣きそうな声をあげたのは、じいやであった。
「尚書令は、休昭は殺さぬと言った」
董和のことばに、じいやは、ぶんぶんと首を振った。
「信用できませぬぞ。旦那様が逃げたということになっている以上、捕らわれておりますぼっちゃまが、人質のような扱いになるのではありませぬか」
「じいや、そうはいっても、われらに休昭を助ける余裕はない。
あれは宮城にいるのだ。その牢を、どうやって破るという」
「では、見殺しになさるというのですか。実のご子息だというのに!」

じいやの抗議のことばに、董和は唇を噛む。
しかし、ことばは出てこない。
休昭を助けたいと、董和は心から思う。
が、どうすれば助けることができるのか、まったく知恵が浮かんでこないのだ。
こういうときに、地位が、そして家門が高ければと思う。
さらに金があれば、いくらでもツテをたどって、役人に賄賂を握らせ、休昭を助け出す、あるいはそれはできなくても、牢内での待遇をよくすることができるはずだ。
地位も金ももっていない。
こんな大事なときに、なにをしてやることもできない。
だが、父が死地から抜け出せたのだ、おまえも自らの力で、なんとかそこから抜け出せ。
いや、抜け出してほしいと、董和は心の中で願ったが、その苦渋の表情は、その場のだれにも見せなかった。



趙雲が左将軍府に帰り着いたのは、その日も遅くで、孔明の所在をたずねてみれば、今日は戻ったあとに、すぐに帰宅してしまったという。
偉度の具合がそれほどに悪いのかと心配し、孔明の屋敷にまわってみた趙雲であるが、こじんまりとした感じのよい屋敷の門から、ちょうど顔見知りの医師が出てくるところであった。
これを捕まえ、偉度の具合を聞けば、たしかにひどい怪我を負っているが、命にかかわるほどではないという。
ほっとして、医師とすれ違いになるかたちで屋敷に入り、孔明への取次ぎを申し出れば、家令は、孔明が伏せっていると伝えてきた。

それはあるまいと思った趙雲は、家令を押しのけるかたちで、無理に孔明の居室まで入っていった。
家令は、形だけ、趙雲のあとについてきた。
家人たちのだれの表情を見ても、一様に不安に強ばっているのは、偉度のことばかりではあるまい。

かつての孔明の屋敷というのは、もうすこし過ごしやすい場所だった。
いまはまるで、猛獣の檻のなかにいるようだ。
もちろん、この場合の猛獣は孔明だが、さて、そうなると、俺は餌かな、とも趙雲は思う。
自分の顔を見た孔明が、どんな表情を浮かべるか、その見当はだいたいついていた。
おそらくは、あからさまな嫌悪の情を浮かべ、ありったけの軽蔑の念をこちらにぶつけてくるにちがいない。
いやなことにはちがいないが、ほかの連中から莫迦にされるよりは、なぜだか気が楽だ。

趙雲は、自分がとくべつに忍耐強いとも思っていないし、寛大だともうぬぼれていない。
ふつうに莫迦にされれば腹を立てるし、場合によってはこぶしに訴えることもする。
けれど、どうしてか、孔明にどれほどきつい態度をとられても、腹を立てる気にはなれないのだ。
年下だからか? それとも完全に敵わぬ者と見做しているからか?

そんなことを考えながら、孔明の居室にそっと声をかけてみれば、まったく応答がない。
わずかにすき間が空いていたので、そこから覗いても、孔明の姿はなかった。
どこにいるのやらと目を転じれば、ちょうど庭の東屋に、孔明はひとりで、すこしだけ趙雲のほうに横顔を見せるかたちで佇んでいた。

初対面から八年が過ぎた。
初めて会ったときは、山深い田舎から出てきた青年と周囲から揶揄されていたわりに、なかなか垢抜けたやつだな、と思ったものである。
伏目がちで大人しい、内気な白皙の青年。
それが最初の印象であったのだが、付き合っていくうちに、単にその印象は、場になれていなかったというだけの話で、本性は、もっと元気なやつだったとわかってきた。

元気なのはいいが、やんちゃにすぎるだろ、というのは、劉備のことばである。
処刑場から脱出したあと、劉備と話し合い、ともかく、成都に入ってから、今日までの孔明はおかしい、というところで意見が一致した。
さて、ではどうするかというと、なにせ正体の掴みづらい九門古城なるものが中核にあって、孔明がなにゆえに、躍起になって宝を葬り去ろうとしているのか、その理由も理解しがたいために、うまく対策が浮かばない。
で、結論は、『出たとこまかせ』という、いかにも劉備らしいものだった。

「儂は儂で動いて、古城をめぐって、だれがなにをしたいのか、もうちょっと調べてみらあ。
おまえの話や、ほかのやつの話からすれば、いまのところ一歩先を行っているのは孔明だろ。
ま、それだけ暴走しているというわけだろうが、なんだってあいつが、古城なんてものにこだわっているのか、おまえはおまえで調べるのだ」
軍師を騙すのですか、との趙雲の問いに、劉備は、なんでだよ、と顔をしかめる。
「孔明には、はっきり言っておけ。俺はおまえの部下じゃない、俺は俺で、古城のことは考えて行動する、とな。
でなくちゃ、おまえ、孔明のためにならねぇだろうが。
あいつの、仕切り屋の癖して、頼りたがる性格、わかっているだろ。
びしっと、そこは線引きしとかねぇと、あいつはおまえに頼りっぱなしになって、どんどん悪いほうへ暴走していくぜ」

ああ、そうか、と納得した趙雲であるが、いま思い出しても、ああ、そうか、と思う。
劉備のことばは、的確だ。
そうだな、だれからも見捨てられたと焦っていたときに、軍師に頼られたのがうれしかったから、俺はこうして、冷静でいられるのかもしれないな。

「軍師」
声をかけると、孔明は、すこしだけびくりと肩を震わせた。
物思いにふけっていたのかと思って待っていると、振り返ったその表情は、予想を裏切ることに、驚きだけが浮かんでいた。
孔明は、趙雲が二度と目のまえにあらわれないものと思っていたのだ。

そういえば、こいつ、俺のほかに使えるやつはいるのかな、と、同情心に押されるようにして、趙雲は考えた。
徐元直がいなくなってから、孔明の周囲には、さまざまな人物が侍った。
が、表面上はともかく、もっと深いところで、孔明としっかりした絆を結んだ者はいないのではないか。

しんみりしかけた趙雲であるが、しかし、目のまえの孔明の表情が見る見る険しくなるのを目の当たりにして、感傷も、心のなかから消えていった。
孔明は、その端正すぎる顔をゆがませて、趙雲をきびしくしかりつけた。
「この、裏切り者! 主公にわたしを売ったのであろう! あらためてそれを告げに来たか! この恥知らず! さっさとわが屋敷より去るがよい!」

劉備と董和のつながりを、孔明はまだ知らない。
劉備は、それを言うなと口止めしている。
板ばさみだな、とげんなりしながら、知恵をはたらかせて、趙雲は答えた。

「主公は主公で古城のことを知っていたのだ。それで、俺に声をかけてきた。
知ってのとおり、俺の地位は低く、目立たないから、使いやすい。
あんたが俺を拾ったのとおなじ理由だな」
怒りをあらわにして、両の拳をぎゅっと握っている孔明であるが、その小刻みに震える拳を見て、これに殴られても痛くなさそうだと、趙雲はそんなことを考えた。
殴りたい気持ちなら、殴られてもかまわないと思っていたからである。
「主公には、わたしのことは、なんと伝えている」
「よくわからない、と伝えてある」
「よくわからない?」
「ああ。ただ言われたとおりに動いているわけで、なんのために動いているのか、よくわからない、と答えておいた。
だから、主公は、俺があんたのために、自分の部下を古城に潜らせていることを知らん」
すらすらと口から出るでまかせに、自分でびっくりしながら、孔明の顔色をうかがうと、さきほどまで怒りのあまり白くなっていた顔に、徐々に赤みが戻ってきていた。
「主公は、しばらくは自分に協力しろ、ということを言ってきた。あんたに対する処罰は考えていないということだ。よかったな」

それを伝えると、孔明の表情に、ほんの一瞬、安堵が浮かんだ。
だが、ひじょうに人間らしいその表情も、すぐに強ばる。

「わたしを見てみぬフリをする、とおっしゃったのか」
「そうだ。あくまで表面上は、だ。これからはわからんぞ。主公は主公で、古城について調べるので、協力せよとおっしゃった。
これを断わるわけにはいかないのは、あんたにもわかるだろう」
「すると貴殿は、堂々と、わたしと主公を両天秤にかける、というわけだな。どこまで信用してよいのかな」
「あんた次第だ」
主公の指示とはすこしちがうが、結果としてはおなじだろう。
それに、孔明がまったくこちらを信用していなかったとして、尾行をつけたとしても、これをうまく巻ける自信が、趙雲にはあった。

孔明はしばし考えこむ。
考え込むときに、組んだ指先を口許に持っていくのが、この軍師の癖である。

「主公はわたしに、はっきりと、古城については先んじてみせると宣言なさった。あのことばに嘘はあるまい。
だが、貴殿が思っている以上にわたしに近い、ということをご存じないというのであれば、これは有利だな。
古城は主公までも惹きつけるか。だが、何人たりとも例外はない。あの古城に関わるものは、すべて滅するのがわが使命ぞ」

そうつぶやき、孔明は、暗い笑みを口許に浮かべる。だが、一方で、目の表情はまったくうつろであった。
疲れ果てているような、そんな目をしている。

こいつは大丈夫だろうかと、さすがに心配になった趙雲であるが、しかし孔明のほうは、笑みをひっこめると、趙雲にたずねた。
「主公は宝を得れば、天下を取れると思っておられるのだろうか」
「宝のことはなにも。ただ、この騒ぎをなんとかしたいとおっしゃっていた」
「らしいおことばだが、しかし宝を目にしたら、どうなるかな。将軍、貴殿には宝が何かを教えていなかったが」
「ああ」
宝の真の正体を知っているのは、いまのところ孔明のみ。
さっそく知ることができるのかと、身を乗り出した趙雲であるが、孔明は小さく息をつくと、首を振った。
「知らぬほうがよい。ただ、あれは悪なのだ。あれを地上に出すことは、天下万民のためにならぬ。あれに触れただけで、人は等しく悪に染まるのだ。
それを阻止しよう、封印しようというわたしを、悪というのなら、悪と呼べばよいのだ」

趙雲は、ことばを飲み込んだ。
言わなくてはならないことはたくさんあるが、いま、口にすることは適切ではないように思われた。

孔明は趙雲に向きなおると、あらためて、言う。
「よろしい、貴殿を信用し、いままでどおり、荊州兵を預ける。
ただし、主公には引き続き、わたしが地図を持っていること、そしてわが家に伝わっている古城の話などは、決して漏らすな」
「まかせておけ」

大きな嘘をいくつもつきながら、趙雲は、厳しい顔をして、ふたたび夕暮れの空を見つめている青年に、たずねた。
「ひとつ聞きたい。なぜ董幼宰を救おうとしなかった」
「救う理由がない。それに、あれが死ねば、堂々とその屋敷を手に入れられるではないか。今日は、惜しかった」
つり逃がした魚を惜しむように、残念そうに、しかしどこか軽い調子であっさり答えた孔明に、趙雲は、ひそかにある決意を固めていた。

今日も、日が暮れていく。




二十ニ話へつづく…
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