捜神三国志・燭龍本紀

第二十話 軍師将軍の叛乱

矢を射掛けていた兵士たちも、法正も、刑場を逃げ惑っていた観衆も、呼子の声につられるようにして、そちらを見た。
牛たちがなだれこんできたあとから、法正の私兵とはちがう装束の兵士たちが現れたのであった。
その冠飾りに、白い羽根がついている。荊州兵である。
「みなのもの、鎮まるがよい! この場は、軍師将軍諸葛孔明の預かりとする!」
雷鳴にも似た重くひびく声が、大混乱であった刑場にとどろきわたった。
声はまるで、夏場に吹きすさぶ強風のような威力でもって、その場にいた全員を圧倒し、やがて、嘘のような静けさを運んできた。
そうして、しんと静まり返った場に、荊州兵の中から、立派な馬具に飾られた馬に乗った諸葛孔明そのひとが、ゆっくりと前に進み出た。

その姿を見て、董和はぞくりと背筋をふるわせた。
朝陽を背に騎乗のひととなっている孔明の表情は、まるで悟りきった顔をしており、口許には柔和な笑みさえ浮かんでいる。
しかし、その目は、おそろしく表情というものがない。
澄明な、と表現すればうつくしいが、むしろ、底なしの沼の水面を思わせる。
その奥底に、なにか得たいの知れないものを隠しているのに、それをまったく読み取らせない。
そんな目なのだ。

とたん、赤頭巾が、董和の傍らで、「ヤバイ、やばすぎる!」といいながら、馬を下りて、兵士たちに矢をかけられて地に倒れていた水牛の体の陰に隠れた。
赤頭巾の動きにあわせるようにして、それまで八面六臂の活躍をみせていた白頭巾も、軍師将軍の目線からのがれるように、さっと物陰にかくれた。

董和は、孔明から目を離すことができない。
おそらくほかの者も同じなのであろう。
ぎゅっと衣を引かれて、見ると、晴嬰が、孔明から目を離さないまま、怯えたように、董和に身を寄せているのである。
晴嬰の背後には、おなじく董和を助けるためにやってきた、長星橋商店街の親父たちもそろっていた。
竹細工屋の親父も、肉屋の親父も、みな息をひそめて、孔明だけを見ていた。

周囲の視線を一身にあつめながら、孔明は刑場のありさまをゆっくりと見回す。
そうして、ふと董和と目線を合わせてきた。
だが、董和には、その、一見するとおだやかな表情の内側に、どんな思惑が秘められているのか、それを類推することはできなかった。
自分は、たしかにこの男の救いの手を拒んだはずである。
それでもなお、助けにきた、などとは信じられない。
屋敷を売る、という交渉は、決裂したのである。
なぜなのか? 

孔明は、しばらく董和を見つめていたが、ふい、と首をそらし、刑場の上座でたちあがり、孔明の登場にうろたえる法正を見やった。
「尚書令どの、この騒ぎは、いったい何事でございますかな」
孔明の口調は、それまでの混乱から対比すれば、奇異におもわれるほど淡々としたものである。
その乗っている馬の足元には、傷ついた者、死んだ牛の体が転がっているというのに、その存在に気づいていないかのような振る舞いだ。
実際に、この青年には、自分に必要なものしか目に映らないのではとさえ、董和は想像した。
それほどに、孔明の醸し出す雰囲気というものは、およそ人らしくないものである。
九門古城のひみつを知るすべてを葬ると、はっきりと口にしていた。
その決意がほんものだとすれば、法正、董和、赤頭巾から長星橋の住人まで、すべてが孔明の敵ということになる。
連れてきた荊州兵の数は、そう多くはないが、かれらはきびしい鍛錬を受けた兵卒たちである。
武器らしい武器ももっていない晴嬰たちを制圧するのはもちろん、おなじく武装している法正の兵卒とも互角、あるいはそれ以上に戦えるだろう。
ただしその場合、法正、つまり益州人士をすべて敵に回す覚悟でかかるはずだ。
孔明という人物、いままでの経歴から判断するに、そう無茶をするような人物ではない。
とすると、ますますわからない。
いったい、なんのために現われたのか?

高座にいた法正は、突然の孔明の登場に、うろたえつつも、かろうじて矜持をたもち、とがった顎をつんとそらせて、孔明の問いに答える。
「これはこれは、まさか貴殿がじきじきにあらわれるとは、めずらしい。
しかし、わざわざすまぬが、たいしたことではないぞ。罪人の処刑に、闖入者があり、場が混乱したのだ」
「罪人はいずれに」
「さきごろ、免官となった董幼宰と、その仲間で胡偉度とかいう若者だ。
董幼宰めは民をたぶらかすのに長けており、これの処罰に反対した民があばれたのを、わたしの兵が抑えていたという次第なのだ」
「罪状は、たしか蝋燭の買占めとか。たかが買占め程度で、処刑とは厳しくはございませぬか。
そも、蝋燭などという品は、市井の者にはほとんど縁がないはず。紙燭さえあれば、夜はしのげるのですから」
「異なことを。公平で厳正と評価の高い貴殿の口から、そのようなことばが聞かれようとは。
買占めのおかげで蝋燭の値段は異常につりあがっておる。これは見過ごせまい」
「鞭打ちだけで充分では」
「貴殿は、わざわざこの者たちの助命のためにやってきたのか? 
処断についての権限は、成都の太守たる吾にあり。貴殿の口出しは無用であるぞ!」
「なるほど」
みじかく答える孔明であるが、しかし、言葉どおりに納得しているわけではない。
周囲をもったいぶるように、ゆっくりと、ひとつひとつ見回す。
民は、そんな孔明の様子を固唾をのんで見守っている。
孔明の存在感は大きい。
民は、この見慣れぬ重々しい空気をまとった青年に、すっかり気圧されている。
孔明の存在ひとつが、場の空気を一変させてしまった。

これは只者ではないのだということを、董和はあらためて感じる。
そして考える。
いまのやりとりからすれば、孔明が理由はわからないが、助けにきたとみてよいらしい。
恩を着せて屋敷を売らせようというのか。
こうまでして屋敷にこだわる。
つまりは、屋敷に九門古城についての何かがあるのだ。
家は董和自身がこつこつと建てたものなので、古城にはまったく関係がないということがわかっている。
だが、董和は、いま住む家を建てるとき、先住者の屋敷を取り壊して、そのうえに自身の屋敷を建てていた。
その屋敷になにかある、あるいは、その土地になにかがある?

『入り口? そうだ、軍師将軍は、自分の手に先祖伝来の古地図があるといっていた。
わたしの家の敷地内のどこかに、もしや九門古城の第四の門があるのでは? 
そうか、だからこそ、執拗に家を売れというのだ。
だが、待て、わたしの死ぬのを待っていればよいものを、なぜにわざわざ尚書令に真っ向からぶつかる危険をおかしてまで、この場にやってきた?』
なぜだ、と問いかけの目線を送ってみるものの、孔明の反応はまったく冷たいもので、目があったものの、孔明のほうは董和に用がないようすである。

孔明は、ふたたび目を法正にもどす。
そして、騎乗したまま、ゆっくりと法正のまえに寄っていく。
地位でいえば、法正は孔明よりも上位にあたる。
しかも年長なのは、法正のほうだ。
常識はずれのその行動にも、だれも異義をはさまない。
いや、はさめないのだ。
しんと静まりかえるなか、張りつめた緊張が周囲を覆っていた。
もはや、だれもひと言も口をきかない。
孔明の乗る馬が、砂利を蹴る音だけが、妙に耳につく。

法正はというと、孔明の勢いに呑まれていた。
ふだんの法正ならば、孔明のこの無礼な態度に怒り、これをしかりつけるであろうに、そうもできうず、大衆とおなじく、孔明の挙搓をみつめている。
時が凍りついたように思われた。

「尚書令どのには、申し上げなければなりませぬ」
と、孔明は、その無礼な態度とはうらはらに、すまなさそうな口調で、法正に言った。
「蝋燭を買い占めよと命じたのは、ほかならぬ、このわたしなのでございます」
「な」
突然の申し出に、上座にいる法正は、ことばをなくす。

それはそうである。
法正は、董和と偉度にかけた嫌疑が嘘のものであると、栄耀飯店の張大人から聞き知っている。
なのに、まったく思いもかけなかった方向から、『自白』が飛び出してきたのだ。

唖然とする法正に、孔明は、淡々と、ひとことひとこと明瞭に言った。
「じつは、わたしの屋敷で盛大に宴をもよおす予定がございまして、庭にそれこそ蛍のように蝋燭を灯して、みなさまに楽しんでいただこうと。
そこで、わたしの主簿に、買えるだけの蝋燭を買ってくるようにと命じたのでございます」
「なにを」
なにを言い出すか、と言いかけた法正であるが、はっとなって、たずねかえした。
「待て。主簿だと? だれのことを言っている」
「そこにおります、胡偉度にございます。わたしも未熟者でございますゆえ、偉度もまた年若く、世知にうといということを、失念し、蝋燭の件を依頼してしまったのです。
偉度は愚直な性質の若者でございますから、深く考えることもせず、わたしの命令を忠実に守って、蝋燭を買い占めてしまったのでしょう」
と、孔明は、馬上より、偉度を指す。

董和が孔明の指のうごきにつられるかたちで偉度のほうをみると、さきほどまで意識もなく、砂利のうえでぐったりとしていた青年は、いまはきちんと正座をして、孔明のことばを裏打ちするかのように、別人のようにしゃんと背を伸ばしている。
いや、まるで別人であった。
血と泥でよごれたその表情は、董和が知る、人のよい親孝行な青年のそれではない。
主簿というのも似合わない。
おのが使命のためならば命を賭してもかまわない、一途な細作の顔、それである。

董和は混乱した。
偉度が、孔明の主簿だった?
つまりは偉度をつうじて、栄耀飯店と、孔明はつながっていたのか?
昨夜、張大人とのつながりを、嫌悪感もあらわに否定した、あれは演技だったのか。
うろたえつつ、董和が法正のほうを見れば、法正のほうは法正のほうで、混乱のなかにもはっきりと怒りが見える。
董和は、自分がさきほど言った、
『軍師将軍が宝を得ている』
といった嘘でまかせが、いまになって絶大な効果をあらわしていることに気がついた。
法正は、董和のことばを思い出し、張大人が法正と孔明をたくみに天秤にかけ、法正は騙し、孔明を取った、と想像しているのだ。
いや、想像だろうか。
事実ではないのか。

そして董和は理解した。
自分を助けに来たのではない。
軍師将軍は、偉度を助けにきたのだ。

怒りを顔に出しながらも、それを多くの民が見ている前ではあらわにしないようにと、けんめいに我慢している法正に、孔明はさらに追い討ちをかけるように言った。
「たしかに成都における事件の裁きは、尚書令どのがおこなう。
しかしそうなれば、偉度に蝋燭を買うようにと命令したのは、このわたしなのですから、わたしも裁いていただかねば、筋がとおらなくなります」
「莫迦な」

憎い政敵を失脚させる機会がころがってきたと単純によろこぶほど、法正は莫迦ではない。
もともといた益州人士と、移住してきた荊州人士、この両勢力の力は、法正と孔明、それぞれの実力者を旗頭にしているからこそ、なんとか力の均衡を保っているのである。
この均衡がくずれれば、たちまち巴蜀の政局は混乱し、虎視眈々と機会をうかがっている魏や呉につけ入られてしまう。
そうなれば終わりだ。
だから、法正は、いま、孔明を失脚させることはできない。
法正は、自身に求心力があまりなく、龐統亡きあと、荊州人士に人脈がほとんどないこともよくわかっている。
孔明がいなくなった場合、これをまとめることは不可能だ。
つまり、孔明を失脚させたくてもできない、というのが現状なのだ。

そして、孔明は、そんな政情をも利用して、おのれの主簿を救うべく、堂々と乗り込んできた。
なんという図々しさ、なんという大胆不敵と、董和は感心する。
その度胸のよさは、文官には惜しいものである。
机上にて論理をふりかざし、策を練る者たちとは、この青年は性質がちがう。
だが、その美質は、よい目的には発揮されていないようだ。

ごくり、と董和は生唾を飲み込んだ。
偉度は、孔明の思惑どおりに助かるであろう。
しかし、自分はどうなるか。
孔明の目的は自分の屋敷であり、自分が売らないと拒んでいる以上、孔明からすれば、董幼宰というのは、処刑されてしまったほうが、都合のいい人材だ。
なにより民に慕われているというのなら、これを処刑した法正への怨嗟がつよまり、おのれが巴蜀の地の地盤を固めたあとに、法正に敵対するおのれには有利になることだろう。
そんなことを考えているあいだにも、法正が衝撃から立ち直れないでいるあいだ、孔明がすばやく荊州兵に命じて、偉度を回収していくのが視界に入ってくる。

昨夜の言は撤回すると、泣きつけば助かるだろう。
だが、こいつに命乞いをするなど、まっぴらだ。
そう思った董和であるが、自分の腕をさっきからずっとつかんでいる、晴嬰の手の温かさに気がついた。
そうだ、この娘を残して死ぬわけにはいかない。
長星橋の者たちのためにもそうだし、息子のためにも、そうだ。

そこで、ぐっとこらえて、孔明に声をかけようとした董和であるが、ゆらりと、視界のなかで動くものがあった。
さきほど、赤頭巾によって気絶させられた処刑人が起き上がったのだ。
とうぜん、いままで意識がなかったのだから、軍師将軍が自ら乗り出して、場の収拾にあらわれた、などということは知らない。
ぼんやりした頭を何度も振りつつ、ふらふらと処刑人は立ち上がると、ふと、孔明を見つけた。
孔明のほうは、赤頭巾のほうに気をとられていて、処刑人のことに気づかないでいる。
そしてなにを思ったか、雄叫びをあげるや、青竜刀を孔明めがけて振りかざしたのである。

あぶない、と董和が叫ぶ間もなく、光を受けた刃をふりかざし、処刑人は馬上の孔明に斬りかかっていく。
さすがの孔明も、この突然の攻撃におどろきの表情を浮かべたが、それを孔明のかたわらにいた荊州兵が、すぐさま飛び出して、武器を手に手に、処刑人もろとも、刃をはじき飛ばした。
処刑人はあおむけに地面に倒れこんだのであるが、まだ武器をしっかりと握っている。
そうして身じろぎをした処刑人を、またも攻撃するものと勘ちがいしたか、荊州兵が、あらたためて武器をかまえて、とどめをさそうとした。

すると、それまで物陰に隠れていた白頭巾が、ぱっとむささびのように身をおどらせて現われ、いままさに処刑人の巨体に刃を突きたてんとしていた荊州兵を、手にしていた槍でもって、逆に打ち倒した。
その見事な手際に、孔明にあつまっていた人々の視線は、いっせいに白頭巾に向かった。
どころか、民のあいだからは、のん気にも、感嘆の声すらあがっている。

身の丈八尺はある、体格のよい白い頭巾の男を見ると、馬上の孔明の表情が、はっきりと変わった。
一見すると、表情に変化はないのだが、そのまとう雰囲気が、がらりと変わったのが、側にいるものにはわかる。
それまでの、どこか余裕すらあった孔明の雰囲気が、はっきりと苛立ちを含んだものに変化したのだ。

打ち倒された荊州兵は、それでもなお、起き上がって白頭巾と戦おうとし、ほかの荊州兵も、仲間のために刃を白頭巾に向けるのであるが、その一部の動きが、どうもおかしい。
かれらからは猛々しい空気が感じられず、武器をかまえながらも、白頭巾と孔明を、交互に見ているのだ。
どちらに従えばよいのか、といったふうで、あきらかに当惑の表情を浮かべている者もいる。

董和は白頭巾の正体を知らなかったが、どうやら、孔明や荊州兵のほうは、その白頭巾の男をよく知っているようだ。
かたわらで沈黙をつづけている晴嬰に、董和はたずねた。
「晴嬰、あの白い頭巾の男は、何者なのだ」
「それが、あたしたちにもわからないんです。お調子者の赤頭巾の仲間のようなんですけど、ここに来るまでにひとことも喋らない人で、それとなくカマもかけてみたんですけれど、ぜんぜん引っかからないんです」
でも、と晴嬰は、董和の身体に身を寄せたまま、にらみ合いをつづける孔明と白頭巾のほうを怪訝そうに見た。
「軍師将軍とも知り合いみたいですね。ほんとうに、うさんくさい赤頭巾といい、何者なんでしょう」
「まあ、あいつは儂の仲間というか、息子に近いというか」
と、晴嬰と董和のあいだに、ぬっ、と入ってきたのは、ほかならぬ赤頭巾であった。
孔明が白頭巾のほうに気をとられているのを見て、こっそりと水牛の身体から這い出してくると、董和のところにやってきたのである。
「あいつは心配ないよ。それより、幼宰さん、あんたは自分の心配をしなくちゃならないな」
と、董和に向かって、赤頭巾はあいかわらずの調子のよさで言うのであるが、その声色は、すこしこわばっている。
恐怖のためだろうかと頭巾の窓にある双眸を見るのであるが、董和がみたところ、赤頭巾はおびえてはいなかった。
むしろ、怒っているように見える。

「あのたわけもん、どうやら本気であんたを見捨てるつもりらしい。助けるのは胡偉度だけ。
でもって、助けるついでに、九門古城について、尚書令に圧力をかけるためにやってきたってわけだ。
ったく、なんだってそんなに古城なんてものにこだわりやがる。
『得れば天下を取れる宝』でも見つけて、楽したいっていうのかよ」
と、赤頭巾は、頭巾の上から自分の頭をかきむしる。
その口調から、董和は、赤頭巾が孔明とも顔見知りだということを知った。
ますます怪しい。
それは晴嬰も同じように思ったらしく、ふたりは無言のまま、顔をあわせた。
しかし、赤頭巾のほうは、董和たちに頓着することなく、孔明と白頭巾のほうをきびしくにらみつけている。

孔明は、馬上より、身じろぎひとつせず、まるで処刑人の前に守るように立っている白頭巾を見下ろしていたが、やがて、なにかことばをかけようと口をひらいた。
が、それよりも先に、衝撃から立ち直った法正のほうが、叫んだ。
「軍師将軍、その白い頭巾の男は、貴殿の手の者か! その男は、成都太守たるわが兵を打ち倒した者である! 
もしや貴殿は、おのれの主簿を助けるために、暴動に見せかけ、わたしを襲おうとしたのではあるまいな!」

法正は、いまやすっかり感情的になっていた。
孔明とことを構えて、得することなどなにもないというのに、それでも怒りを抑え切れない様子である。
董和のことばの後押しもあったため、すっかり自分は裏切られ、孔明に出し抜かれたと思い込んでいたところへ、孔明の突然の『自白』。
さらには、部下をさんざんな目に遭わせた白頭巾が、孔明の手の者かもしれないというのだから、感情的になるのもムリはない

しかし孔明は、うるさそうに柳眉をしかめると、法正のほうに顔を向けた。
「貴殿は、この男の動きをご覧になっていなかったのですか」
「見ていたとも。貴殿を助けた!」
「いいえ、わたしの部下を打ち倒したのでございます。わたしは、このように人様のまえに顔をあらわすことのできぬ男なぞ、知りませぬ」
きっぱり言ってのけた孔明に、法正はいじわるそうに顔をしかめた。
「ほう、では、その男、こちらで処罰してもかまわぬか」
孔明は、間髪おかずに答えた。
「ご随意に。この男のことなど、わたしが知る意味もなし。貴殿で好きにされるがよかろう」
「ようし、よくぞ言った!」
法正は、顔を怒りと屈辱で真っ赤にしたまま、叫んだ。
「みなのもの、その男を捕らえよ! いや、その男ばかりではない。暴徒をすべて捕縛せよ! 世をさわがす謀反人である! ひとりも逃がすな!」

法正の声に、それまで動きを止めていた兵卒たちが、いっせいに動き出した。
それまで不動であった白頭巾も、襲ってくる兵卒たちに、うろたえて、どうしたらよいのか迷っているようである。
そして、兵卒たちは、白頭巾ばかりではなく、赤頭巾や牛とともに暴れていた民衆たちにも襲い掛かってきた。

ふたたび、場が怒号と悲鳴につつまれる。
砂埃をあげながら、民は逃げまどい、それを兵卒たちが、容赦なく捕縛するため追いかける。

「幼宰さんよ、あんたは、このどさくさのうちに逃げな」
と、赤頭巾は言うと、すっくと立ち上がり、混乱する民のあいだを縫って、騒動を冷めた目で見やり、そのまま偉度を回収して、なに食わぬ顔をして場を立ち去ろうとする孔明のほうへと向かっていく。
「いかん、なにをするつもりだ!」
赤頭巾を止めようとする董和の肩を、すがるようにして晴嬰が掴んだ。
「幼宰さま、赤頭巾の言うとおりです! みんな、幼宰さまをお助けするために、危険を承知でやってきたんですよ! 早く逃げましょう!」
「しかし」
反駁しながら、董和は赤頭巾の背中を見る。
馬上の孔明は、もう引き上げようとしていたところであったのだが、赤頭巾に気づき、身体を止めた。
法正の兵卒は、目立つ赤頭巾にも刃を向けるのであるが、すると、それまで動きのにぶかった白頭巾が、がぜん力を発揮して、これを見事な槍さばきで追い散らした。
「幼宰さま、晴嬰さんの言うとおりです。幼宰さまをお助けできなけりゃ、俺たちは、なんのためにここに来たのだか、わかりませんや!」
と、長星橋の男たちが、董和につめ寄ってくる。
「俺たちは、これで尚書令を敵にまわしたんです。なのに幼宰さまもお助けできなかったとなったら、いったい、なんのために危ない橋を渡ったんだか、ってことになっちまいます! おねがいです、逃げてください!」
頭を下げる長星橋の男たちの心意気に応じ、董和も、心をおさめるしかない。
赤頭巾のいうとおり、混乱した場を利用して、逃げるのだ。
「逃げるといっても、わが屋敷は危なかろう」
「はい、長星橋の裏路地に、空き家になっているボロ屋がございます。まずはそちらにお逃げくだせえ。俺たちがお守りいたします」
竹細工の親父が、みなを代表して頭を下げる。
一方で、肉屋の親父が、卵売りといっしょに、どこぞの兵卒をなぐって奪ってきた馬をつれて、もどってきた。
「馬も用意しましたぜ。さあ、お早く!」

馬に乗ると、背中に受けた鞭の傷がじんじょうではない痛みを訴えたが、そこは、自分のため、危険をおかしてくれた者たちのためにこらえて、董和は、混乱した場をあとに、長星橋へと向かった。
法正も、法正の兵卒も、赤頭巾を守るために戦っている白頭巾のほうに集中しており、董和のほうには注意をはらっていない。
かれらに借りができたなと、董和は思った。
同時に、処刑場に生じた混乱をみて、強く決意した。

九門古城、そして『得れば天下を取れる宝』。
正体のわからぬ宝。
それがなにかわからないうちから、これほどの争いが生じている。
やはり、宝は災いしか生まないのだ。
古城にふたたび潜ろう。
そして、成都の平和のため、宝を見つけ出し、これを永遠に葬るのだ。



「儂がわかるな」
と、赤頭巾は、董和たちがうまく処刑場から脱け出したのをはっきりと確認してから、馬上の孔明に声をかけた。
いま、孔明の脳裏には、さまざまな思いが駆け巡っているようである。
じっと押し黙っているものの、その表情は、めずらしくも苦々しさにあふれていた。
まるで人がちがったようだな、と赤頭巾は思う。
こいつは、ちょっとばかり四角四面なやつだけれど、こうまで人をあっさりと切り捨てることができるほど冷酷じゃなかった。
かといって、冷静なのとはちがうのだ。
赤頭巾は、孔明のことをじつによく理解していた。
理解していたからこそ、孔明が、表面はそれこそ凪いだ海のように静かに見えるけれど、内面では、やむにやまれぬ衝動に突き動かされ、ひたすら焦っているのを感じ取っていた。

なにを焦っている?
九門古城の宝ってのが、どうしてもほしいのか?
ええい、こいつがこんな莫迦をするとわかっていたのなら、子龍や幼宰さんから、もっと古城について、聞いておくべきだったな。
孝直だけならまだしも、孔明までが狂ったようになる。
異常だぜ。
なにかあるにちがいない。

「おまえは賢いやつだ。だが、この行動は誉めてやれねぇな。孔明、こりゃ叛乱だぜ」
赤頭巾のことばに、孔明の顔色が、さっと変わった。
蒼ざめ、馬から落ちるのではないか、というくらいに震えている。
だが、赤頭巾が意外に思ったことには、震えていたのもほんのわずかなあいだで、孔明の表情は、ふたたび、ふてぶてしいほど平静なものにもどっていった。
揺さぶりをかけるため、あえて『叛乱』などという強いことばを使ってみたのだが、どうやら効果はあまりなかったようである。

赤頭巾は、ちらりと白頭巾のほうを見た。
白頭巾は、たった一人、猛然と蟻のようにむらがってくる兵卒たち、それから遠慮がちに、というよりも、むしろ形ばかり、というふうに襲ってくる荊州兵を相手にしている。

いけねぇな。全力で戦えないから、逆にいつもより早く息が上がっているようだ。
これ以上、この場に留まって、正体がばれたら、こいつ、今度こそ、もう駄目だ。

「おい、白頭巾、そろそろ逃げるぞ、準備しとけ!」
そう叫んでから、赤頭巾は、ふたたび孔明のほうに顔を戻した。

「おまえは見た目よりも、頑固なやつだ。こうと決めたら、ゆずらない。九門古城とやらが、おまえにとって、ゆずれないものだということは、ようくわかった。
だが、おまえのいまやっていることは、まったくおまえらしくねぇじゃねぇか。
儂を無視し、孝直に真正面から喧嘩を売って、成都の混乱をますますひどいものにしやがった。
孔明、この土地は、おまえのものじゃねぇ。おまえがこれ以上、好き勝手をするというのなら、今度は、本気でおまえが儂に叛乱を起こそうとしていると判断する」
赤頭巾は、孔明の双眸をまっすぐと見据えた。
はじめて会ったとき、なんと力強い輝きをはなつ双眸だろうと感心したものだが、いまは、感心しないことに、孔明の目にはぎらぎらとしたものが浮かんでいる。
それは志の高さを反映したものではない。
欲望に執着ししている目だ。

「いいか、これは宣戦布告ってヤツだ。でもって、儂は、九門古城の宝ってものに俄然興味がわいてきた。
おまえがなんのために古城ってもんにこだわっているかはしらねぇが、儂は、おまえより先に宝を見つけてみせらあ」
すると、それまで沈黙をつづけていた孔明が、はじめて口をひらいた。
「九門古城に潜る者は、すべてわが敵、殲滅せねばなりませぬ」

殲滅か。
こいつ、ほんとうにめちゃくちゃだな。
幼宰さんは手始めで、もしかしてほかの連中も、みんな殺しちまうつもりじゃねぇのか。
こいつは、ほんとうはこんなやつじゃねぇ。
ぜったいにおかしい。
止めなくちゃならん。

「なら、儂はそれを止めるまでだぜ」
「本気でございますぞ」
「儂も本気だ」
赤頭巾は、敢然と孔明と視線をたたかわせた。

やがて、馬の嘶きが聞こえ、見れば、自分を包囲する兵卒たちをうまく突破し、首尾よく馬を奪った白頭巾がこちらに向かってくる。

ほんと、おまえは役に立つヤツだよ。
だけれど、役に立ちすぎるから、面倒に巻き込まれちまうんだよな。

なんだか気の毒になりながらも、赤頭巾は、自分に向かって、すこし速度を落とした馬に手を伸ばす。

白頭巾はその手をがっしりとつかんで、白頭巾を馬上に引き揚げる。
二人の男を乗せた馬は、そのまま、処刑場をあとにして、走り去った。

二十一話へつづく…
燭龍本紀のもくじへ
MAPへもどる
更新履歴へ戻る