捜神三国志・燭龍本紀

第十七話 赤頭巾の暗躍

「軍師」
宮城の廊下を衣擦れの音をさせて、優雅に足を運んでいく孔明を、待っていたものらしく、趙雲が呼びかけた。
孔明は、もったいぶるようなそぶりで、ゆっくりと顔を向ける。

孔明は、自分の存在が、趙雲にどれだけの影響を与えているか、それをよく知っていた。
朱色に塗られた、ふとい柱の陰から顔をだした趙雲の顔には、勇壮の士らしからぬことに、戸惑いと、怯えが浮かんでいる。
孔明は、表では微笑しつつも、内心では眉をひそめていた。
劉備とおなじく、この付き合いの長い武人も、孔明が巧みにこさえている表情の下の本音を、瞬時に見抜く。
孔明の機嫌がひじょうにわるいことに、すぐに気づいたようだ。

「例の指輪の連中のことだが」
趙雲が切りだしたのを、孔明は、つまらない話をきくかのように、ああ、と言った。
「なにかわかったか」
「羌族のあつまる宿場などにも当たったが、反応はわるい。どうやらみなで庇いあっている様子だ」
「で」
「つまり、なにも進展はない」
すると、孔明は、微笑を浮かべたまま、趙雲に、あくまでも機嫌良さそうに答えた。
「それはどうもご苦労さまでございますな。わざわざ成果のないことを、こうして将軍自らお出ましになって報告してくださったとは」

孔明の辛辣なことばに、趙雲が、ぐっとことばに詰まったのを見て、孔明は、すばやく趙雲の眼前に歩み寄ると、その指先を、趙雲の胸板に押し込むようにして、突きつけた。
それこそ息がとどくほどの距離に、孔明が近づいてきたので、趙雲は動揺して、ますます言葉をなくしている。

孔明はそれこそ寸鉄も帯びていないのであるが、趙雲にとってはおそろしいのである。
劉備が益州攻略をしていたとき、人質でもあった孫夫人を取り逃がすという失策をして、一時期、要職から外されそうにさえなっていた趙雲に、救いの手を差し伸べたのは、孔明だ。
孔明としては、九門古城のことは、入蜀したあと、しばらくたってから知ったので、そのつもりで趙雲をかばっておのれの側に置くようにしたわけではないのだが、どうやら趙雲のほうは拾われた、という意識がつよいらしく、孔明に恩義を感じているらしい。

劉備とて、趙雲を捨てたつもりもない。
むしろ、入蜀のさいの勲功で、汚名返上はなったと思っている。
だが、この責任感のつよい武将は、おのれや、おのれにしたがう将兵のことよりも、軍全体の統率のことをかんがえる。
だからこそ、大失策をしたおのれを、劉備が罰もあたえずにいることは、軍の規律が守られないことになるとして、あえて劉備から距離を置いているのだ。
そんな趙雲からしてみれば、孔明にさえも見捨てられたら、もう終わりなのである。
だから、孔明の無茶な命令も、さからわずに黙って従うのであるが、あまりに大人しすぎることが、逆に孔明の、普段は人に見せない負の部分を刺激してくるのだった。

「趙子龍、わたしが貴殿に、九門古城のことを打ち明けたのは、うちあけ話をする相手がほしかったからではないぞ。
わたしが貴殿に求めるものは、成果。そのひとつだ。指輪の連中の正体をつきとめよと、わたしは言わなかったか?
そして、指輪の連中を殺してまわっている連中もさぐれ、と」
「そうだ」

孔明は目をほそめて、目のまえの、困りきった顔をしている武将を見た。
趙雲は若作りというわけではないのだが、腰が低いためか、年長であると意識させないところがある。
だからこそ、ますます孔明も遠慮がなくなってくるのであるが。

「そうだ、という言葉は、『わかっている』という意味で使うものではなかったかな。常山真定ではちがうのだろうか」
「それは」
「いや、言いわけはいらぬ。九門古城に眠る宝がどれほど恐ろしいものか、わたしは貴殿には伝えたぞ。
しかし貴殿は、わたしの話を、与太話と思っておられるのかな?」
「そんなことはない」
「ならば、捜索をつづけよ。つぎに貴殿が柱の陰から顔を出したときには、よい話が聞けるものと信じておる」
「そうする。それともうひとつ」
「なんでございましょう」
と、孔明は、半歩ほどうしろに引いて、またにっこりと、愛想よく笑った。
それというのも、劉備の朝餉の膳を下げるための女官たちが、廊下をとおったからである。
「古城に入れた兵より、四階層目にはいったという報告があった。先に進ませるか?」
「四、か。あとのこりは五」

孔明は、笑みをひっこめ、気むずかしい顔をして、柱と柱のあいだの光景を見つめた。
見つめたといっても、実際には、なにも目に映っていない。

「五階層目までの道を確認したなら、一旦、退けと伝えよ。わが家に伝わる古地図は、五階層目の、それも一部しか伝えていなかった。
あとは未知の領域となる。それなりの準備が必要となろう。兵の無駄死は好まぬ。
とくに、戦場ではないところで、兵卒をうしなうのはいやだ」
趙雲が、すこしだけ笑みを見せたので、孔明はすばやくそれを目で牽制した。
とたん、普段はだれにでも無表情で通している武将は、困惑の表情のうえに、さらに悲しそうにもしてみせた。

ややこしいやつよ、と孔明は思う。
なぜだかこの武将は、孔明にはひどく寛大なのだ。
孔明からしてみれば、自分のなにがそれほどに、趙雲の寛大さを引き出しているのかがわからない。

「かねてからの計画どおり、地上に戻った部隊は、半分ずつ新兵と入れ替えよ。人選は貴殿に任せる。とくに口の堅いものを選べ」
「わかっておる。わが軍の者は、みな軍師に厚い忠誠を誓っておるゆえ、裏切る心配はない」
「どうかな。『得れば天下を取れる宝』だぞ。実際に古城に潜れば、邪心にとりつかれてもおかしくはない。あそこは古代からの怨念の溜まり場ゆえな」
「潜ったことがあるのか」
「ない。だが、わたしが潜れば、きっと呪い殺されることであろうよ。わが一族を代々縛りつづけてきたものは、わたしの代で終わらせねばならぬ。
祖霊はただ、祀るものだけでよい」
「そうなる」
「気休めはやめていただこうか。まともな士大夫の家に生まれた貴殿に、わが家のことなどわかるものか」
「すまぬ」
趙雲が謝るのを、孔明は無視して、歩き出した。

九門古城。巨大な祖先の墓場。
内側からひっきりなしに聞こえる声を鎮めるためには、完全に古城を封印するしかない。
どんな犠牲をはらっても。



謝罪を受け入れられず、困惑の表情のまま、追うべきか、それとも心を切り換え、いわれたとおりのことをして、結果を出すべきか、さてどうしたものかと孔明のうしろ姿を見送る趙雲であるが、その背後に、なにやら赤いものをかぶった男が、ひょこっと顔をだしたのには気づかなかった。
隠れるつもりがまったくない様子なので、振り返れば、すぐに気づくだろうが。



世界の空気が一変した。
巫術師の話ではないが、もし、だれかがおのれに対し呪いをかけたとして、それが空気でわかるとしたら、こんなふうではあるまいか。
纏いつくどろどろとした敵意。
空耳とまちがえるほどにさやかに聞こえてくる、絶えることのない中傷誹謗の声。
剣や槍、あるいは炎で払うことができるものではないだけに、始末がわるい。
 
馬超はだれに対してでもなく、舌打ちした。
家人が、法正や、その取り巻き連中から贈り物が届いていると告げた。
「突っ返せ」
と、馬超は指示をした。
馬超はその日、兵卒の調練に参加することも、早駆に行くこともなく、ひたすら屋敷で過ごしていた。
蜀に入ってから、こんなふうに気が塞ぐ日がきたのは、はじめてであった。
外に出たくないのである。
そんな馬超の機嫌をますます悪くさせるのは、法正たちからの『褒美』の到着であった。
馬超とて愚かではないから、かれらが贈り物を届けてくるのは、これから当方をよろしく、という気持ちだけではないことを知っている。
その褒美が贈り主のことばをしゃべることができるとしたら、こう言っただろう。
「よくぞわが方についた。これはおまえにたいする褒美である。ありがたく受けとるがよいぞ」
その意図がみえみえであるだけに、馬超が喜べるはずがない。
贈り物がとどいていると告げた家人に罪はないが、おびえの表情をはっきりと浮かべているその顔を、ぶちのめしたい気分になり、馬超は辛うじておのれを抑えて、ぐっとこぶしを握り、外へ出た。

門には、すでに気の利いた馬丁が、馬超が出かけると察して馬を用意してくれていた。
家にいてもイライラするだけならば、外に出たほうがマシだと思ったのだ。
故郷のからりとした高原とはちがい、めったに晴れることもなく、じめじめした日の多い成都の夜空は、ぼんやりと雲の向こうに月を君臨させるばかりで、馬超が好きな満天の星を、なかなか見せてくれることがない。
めずらしく夜風がさわやかで心地よかったが、その心地よさに目を細めていられるのもわずかなあいだのことで、やがて、目に見えない、重苦しい空気に圧倒される。

目をひらき、薄闇のなかにしずみつつある街の往来をいく者たちを見る。
するとかれらは、馬超がこちらを見たと気づくと、さっと目線をはずすのであるが、馬超がまた顔をそらすと、ふたたび軽蔑の目をむけてくる。
それに気づいて、また馬超がひとびとを睥睨すると、街の者たちは、たがいに示しあわせたように、そ知らぬふりをして、行ってしまう。

町中が敵になったようだと、馬超はぞっとした。
万の軍勢を相手にしてもなお、怖じるということを知らなかった男が、戦慄したのである。
成都の民の、自分を見る目がちがう。
いままでは、馬超が道を行けば、ほら、あれが錦馬超だ、といって、怯えたように道を空けるのがかれらであった。
しかしこれまで、その目には、恐怖だけではなく、どこか羨望にも似たものが宿っていたのである。
それは、巨大な敵にたった一人で挑んだ男に対する、神話の英雄をそこに見るような畏怖の眼差しであった。
憎まれてはいなかった。
ところが、いまはどうであろう。
人々の目には、いまは、あきらかに侮蔑がある。

馬超の自由闊達な颯爽とした姿は、愛されこそしないが、憧憬の対象にはなっていた。
馬超の向こうに、桟道の北にひろがる広大な大地を見ていた成都の民は、法正と手を組んだという、あまりにも世俗的な馬超の行為に、すっかり失望してしまったのだ。

まえの殿様の劉璋は、たしかにろくでもなかった。
そこで、いまの殿様になったので、すこしはよくなるかと思っていたら、今度は法正が、昔お世話に「ならなかった」人間を狩り出して、夜な夜な盗賊まがいに屋敷を襲撃し、ちいさな罪で陥れては処刑をし、朝になるとその遺体を無残に晒して得意になっている。
荊州からやってきたあたらしいお殿様の部下たちというのは、遠慮しているのだかおとなしいのだかお上品なのだか、法正を止める気配がない。
前の殿様と、その取り巻きや豪族たちに好き勝手されていて、腹を据えかねていた成都の民は、最初は、法正の粛清に、拍手喝さいであった。
これはなにも、成都の人間が酷薄なのだというわけではなく、それほどに、劉璋という男に人望がなかったのである。

ところが、日を重ねるにつれ、人々はしらけてきた。
結局、かれらが殺されていなくなったところで、事態はなにも変わらなかったからである。
得をしているのは法正だけで、遺体の始末は民がする。
殺された者の中に、知った顔があれば、同情の涙もこぼす。
知らない顔でも、冷たい骸のなかに、いとけない子供の姿があれば、憤りもする。
法正という人は、血も涙もない、ひどいやつだ、という認識が、民の中に生じる。
とはいえ、それを大声で訴えることができる人間はいない。

だから民は、知らず、偶像を求めた。
巨大な力に、一人でも抗える英雄を。
そこにぴったりはまっていたのが、馬超であった。
羌族の血を引いている、という事実が、さらにその神秘性を高めていた。
容姿もきらびやかで、本人も派手好み。
偶像として、夢を託すにはぴったりの人間であった。
この重苦しい空気を、馬超ならばなぎ払ってくれるのではないか。

かつてはその位置を劉備が占めていたこともあったのだが、劉備は偉くなりすぎた。
ほかの、名前だけは知っている荊州の人間に対しては、成都の民は、いまひとつ警戒心を解け切れていない。
だから、馬超なのである。

ところが、この馬超が、よりにもよって、法正なんかとつるんだ。
さらに加えて、「おれっちの味方」であった董幼宰を捕縛した。
しかも、見ていれば、馬超の屋敷に、法正たちからの貢物が運び込まれている。
なんだ、あの蛮族の英雄さまは、結局、金がほしいのか。
地位が、名誉がほしいのか。
おれたちの味方じゃなかったのか。
そういうわけで、民は、馬超を憧憬の対象から、憎しみの対象に変換させた。

馬超は、いつもそうであった。
なにもこれは、本人が悪いというのではない。
馬超は、名望の高さ、人物の大きさからすれば、劉備の配下に収まって足りる男ではない。
しかし、世に対する訴えの言葉がすくなかった。
諸葛孔明のような、弁舌の冴えた人間が側近にいれば、あるいはその運命はちがっていたかもしれない。
本人は、多くを語ることをよしとしない性格のくせに、なぜだか周囲をあおるような言動を得意とする矛盾を抱えていたし、基本的にお人よしなため、過去をあっさり忘れて、目の前の困窮する者に手を貸してしまう。
よくいえば、男気があるための行動なのであるが、その純粋さが誤解をされ、いつのまにか祀り上げられていたと思えば、あっさりと引きずりおろされ、追われる立場になっている。
 
馬超がふたたび天下を狙うためには、必要なのは、九門古城に眠るという『得れば必ず天下を取れる宝』ではなく、馬超を補佐する有能な軍師である。
そのことに気付き、かつて劉備がそうであったように、馬超も賢人を招き入れることができたなら、運命は大きく変わるはずである。
 
 

長星橋の歓楽街というのは、ほかの街とちがって、さまざまな蛮族たちが往来していて、自由な気風にあふれている。
この雑多な解放感が、馬超には心地がよい。
ここにくると、不思議と落ち着く。
なので、馬超は成都にやってきてから、ちょくちょく長星橋に顔を出していた。
 
いつもの馴染みの店に入ったが、店主の明るい声はなかった。
それまで、にぎやかにざわめいていた店内が、馬超の登場で、ぴたりと静まる。
そうして、一気に店の中が凍りついたようになる。
客という客の目線が、いっせいに馬超に向けられる。
視線がもし形を取れるものならば、それは鋭い刃のようであっただろう。
 
普段の馬超ならば、ここで、雰囲気をいくらか和らげることのできる軽口を叩くところであるが、それすらできない。
かれらの冷たい沈黙のなか、いまさら店を出ることもできず、馬超が空いた席にすわると、いつもは愛想のよかったおやじが、無言で、いつもの酒を、乱暴にどん、と置いた。
敵の兵卒からの憎悪のまなざしなどは、すこしも恐ろしくない。
けれど、いま向けられている憎悪のまなざしに、馬超はうろたえていた。
武器すらもたない民が、この自分にあからさまに敵意を向けてきている。
それまで、自分は民草から、恐れられながらも愛されているのだ、だから英雄のひとりなのだという気負いが、馬超はひと一倍つよかった。
つよかったからこそ、たった一日での民の変貌にうろたえていた。

民の求める英雄がおのれであり、すなわち、おのれの行く道こそは、民の望むものそのものであると、馬超は信じていたのだが、どうやらそうではないらしい。
自分が大きく道をまちがえているらしいと、そのときになって、馬超は気づきはじめていた。

 


晴嬰は、意気地なく、しゅん、としている男たちを睨めまわし、煮えたぎる腹のうちを、なんとか収めるのに苦労していた。
どいつもこいつも、意気地なし!
そう啖呵をきってやりたかったが、それは情け知らずというものだろう。
 
かれらとて、好きで意気地なしをしているわけではない。
独り身で、守るべきものは、おのれの身ひとつの晴嬰と、家族もあり、財産もそこそこにある長星橋商店街の男たちとは、立場がちがう。
さらに、晴嬰がこれほどまでに腹を立てているのは、過去に、獄吏によって、実の兄を私刑によって惨殺された過去を持っているからであり、董和を慕っているからでもあった。
 
長星橋商店街の面々は、例の空き家にこっそりあつまって、これからのことを話し合っていた。
雰囲気は重く、お互いに目をほとんど合わせないまま、ぼそりぼそり、と口をひらく。
自分たちの身も危ないのではないか、というおそろしさもあるし、大恩のある董和を、とんでもない話に引き込んでしまった、という後悔もあった。
晴嬰にかぎらず、長星橋の人間は、董和によっていろいろ世話になっていた。
小役人に賄賂を渡さなかったので、商売の取り止めを言い渡されたのだが董和によって救われたとか、好色な豪族の子弟に、娘や嫁を目につけられてしまい、泣く泣く差し出すところであったのを、董和によって阻止してもらえたとか…

「いまになって、法正のキツネ男、いったいなにが目的なのだろう」
こころを精一杯しずめ、晴嬰はつぶやく。
すると、申し訳なさそうに、ねずみ顔の竹細工屋の親父さんが、口をひらいた。
「九門古城の宝のことが、いよいよお上に知れた、ということではなかろうかね?」
「だったら、ちゃんと公の場で、こういう遺跡があります、宝があるようです、これを掘り出す予定ですので、兵士以外は潜らないように、ってお達しをすればいいだけの話じゃないか。
なんだって、蝋燭の値段が云々と、くだらぬ言いがかりをつけて、幼宰さまたちを捕らえる必要があるっていうのだろう?」
「おれたちにゃわからねぇ裏事情があるのじゃないかね。
法尚書令というのは、気に入らない奴を、似たような手で、つぎつぎと捕らえては、殺している様子だし」
「若様も連座で罪に問われるなんて、お気の毒に」
悲しげにため息をつく晴嬰に、肉屋が言った。
「宮城の小役人に賄賂をつかませて聞き出したのだが、どうやら若様は、宮城の牢屋に押し込められているらしい。お気の毒にさ。
費家が、せめて若様だけでも助けようと運動しているらしいが、しかし、あの尾家も、いまじゃ零落して、力はない。昔だったなら、だいぶちがうのだがなあ」
「まったく忌々しいことだよ。伯岐さんはどうしただろう?」
 
すると、董家に出入りしている八百屋の親父が口を挟んだ。
「じいやさんと一緒にいるよ。法正の私兵が、じいやさんまで逮捕するかもしれないと、幼宰様のお屋敷で、じいやさんを守っていなさるようだ」
「気の利く御方だね。そこまでは気が回らなかった」
感心する晴嬰に、玉子売りの親父が口を挟んだ。
「おれは栄耀飯店のほうへ行ってきたのだが、偉度さんのほうが先に捕まったようだ。なんでもこのあいだの羌族の死体のことで役人が入り込んだらしい。
ところが、大量の蝋燭が見つかった。それで、おまえが買い占めたのか、という話になって、胡偉度さんだけが捕まって、連れて行かれたそうだ」
「おかしいじゃないか。栄耀飯店は張大人のもので、そこから蝋燭が見つかったら、それは張大人のものだと、お役人は思わなかったのだろうか」
「だから、そいつは、罠ってやつじゃねぇのかな」
「罠だなんて、そうすると、張大人と法正と馬超が組んだっていうことだね。でも、どうしていまになって、幼宰さまたちが、捕らえられてしまったのだろう」
「さっきも話していたのだがね、じつは幼宰さまたちは、もうお宝を見つけたのじゃないかね?」
「まさか! だったら、まっ先にあたしたちに教えてくれるさ。
幼宰さまはそういう隠し事のできるお方じゃない。それは、あなたたちもよく知っているじゃないの」
 
親父さんたちは、晴嬰に厳しく決め付けられて、そうだよなぁ、といいながらも沈黙する。
晴嬰は、親父さんたちの気持ちがよくわかる。
親父さんたちは、ここでこうして、話し合いをしている気分ではないのだ。
董和が捕らえられたことで、自分たちにも累が及ぶのではないかと、そのことを気にしている。
それぞれ家に帰って、法正の私兵に備えたい。
そして晴嬰は、そのことを責める気にはなれない。
 
「逆に晴嬰さん、あんたのほうに、あれから張大人から話はないのかい?」
「あるわけないよ。あったとしたら、あいつ、ただではおかないのだから!」
と、晴嬰は牙をむいた狼のような剣幕で言い捨てた。
その様子に、親父さんたちはたじろぐ。
「ほら、あんたがそんなふうに危なっかしいから、おれたちも家に帰れないのだ。
いま、あんたまでお上に捕まったら、だれが幼宰さまをお助けするのだね」
「お助けするにしても、手立てがない。いっそ九門古城へ行って、『得れば必ず天下を取れる宝』とやらを見つけてきて、それと幼宰さまを交換してもらおうか」
「それこそ、雲を掴むような話だ。なにかほかに手立てがあるかもしれない」
「そうかもしれないけれど…」
 
親父さんの言った言葉は、それこそ気休めにすぎなかった。
なにかほかに手立てが、そういい続けて、かれらは似たような話をぐるぐると続けていたのである。
 
そこへ、仲間の一人が駆け込んできた。兵士たちを相手に、酒を売り歩いている男である。
「たいへんだ! えらいことになったぜ!」
「どうしたの?」
晴嬰がたずねると、男は、ぜいぜいと息を切らせつつ、よろよろと空き家に入ってきた。
よほどあわてて駆けてきたのだろう。
晴嬰がその汗のにじんだ男の背中をさすってやると、男は、自分の背中をなぜる晴嬰の手首を掴んだ。
「気を鎮めて聞いてくれ、晴嬰さん。幼宰さまが、明朝に処刑されることが決まった」
「なんだと!」
と、叫んだのは親父さんたちである。
晴嬰は、男の言葉が理解できず、ぼう然とした。
「尚書令のとこの兵卒に、こっそり探りを入れてみたのさ。そうしたらおどろきよ。
尚書令のキツネ野郎、まだ公にしてないが、朝が明けるのを待って、幼宰さまを処刑するらしい」
「若様は?」
「費家のほうが嘆願をくりかえしているので、こっちはまだお沙汰がないらしい。
その兵卒が言うには、尚書令としちゃあ、幼宰さまを逮捕したというのも公にしていないが、これで公にしたら、成都中の人間が大騒ぎをはじめる。
奪還しようと暴徒化する連中も出てくるかもしれない。だから、さっさと先に殺してしまおうという腹積もりらしいぜ」
 
「暴徒! 結構じゃないか!」
晴嬰の決然とした声に、周囲の男たちはぎょっとする。
「幼宰さまにお世話になったのは、あたしたちだけじゃない。それに、尚書令のやり口に耐えかねている人間だって、たくさんいるはずなんだ。
あたしたちが立ち上がれば、そういう仲間たちも、いいえ、荊州の人たちだって味方にできるかもしれない!」
「でもよぉ…」
親父さんたちは、晴嬰を、むしろ、怯えた目で見る。
しかし晴嬰の心は決まっていた。
まだ長星橋には、人の往来がある。
かれらに訴えるのだ。
みんな、なかなか落ち着かない近頃の成都に、不満を抱いている。
法正が、見せしめのためにと、馬超に董和を引き回させたことも、裏目に出ている。
そうしてみなで法正のところへ押しかけて、朝方までに董和を救うのだ。
 
「そいつはうまくねぇ話だなぁ」
と、どこかノンビリした、北の訛りのある中年男の声がする。聞いたことのない声だ。
「だれだい!」
晴嬰が鋭く誰何すると、戸口のところから、ひょっこりと背の高い男があらわれた。
その姿に、一同は唖然とする。
 
男は、じつに派手な赤い頭巾をかぶっていた。
長星橋は、成都でもいちばんの歓楽街なので、目立つために奇抜な格好をしている人間も多い。
しかし、これほどまでに目立つ頭巾を、すっぽりと被っている男も珍しい。
顔を隠しているのだから、正体を知れたくないのであろうが、頭巾が赤いために、夜目にさえ、いやでもその格好は目につく。
 
「何者だい! 張大人のところのごろつきかい! それとも、法正の犬かい!」
「どっちでもないよ。わしのことは、赤頭巾とでも呼んでくれ」
見たままじゃねぇか、と親父のひとりがぼそりとつぶやいた。
「この空き家にいると、よそからいろんなやつが入ってくるなぁ」
とは、昨日も空き家にいて、祝融の侵入の経緯をしっている竹細工屋の親父のつぶやきである。
 
赤頭巾、と聞いて、晴嬰は、董和の話を思い出した。
第三の門からあやまって九門古城に落ちてしまい、迷っているところを董和たちに救われた男である。
しかし、忘恩はなはだしく、地上に出たとたん、白馬にまたがり逃げてしまったらしいが…
 
「姐さん、あんたが、ここにいる旦那衆の頭目ってわけだね? 
董幼宰さんから聞いているかも知れねぇが、わしは昨夜、幼宰さんたちに助けてもらった男だ」
「聞いているよ。どうしてここに?」
晴嬰たちからの剣呑な視線を、すこしでもやわらげるためか、赤頭巾は長い手をひらひらと、魚のひれのように動かしつつ、言った。
「恩返しをしに来たのさ。ひでぇことになったじゃねぇか。蝋燭の値段を吊り上げたのが幼宰さんだっていう、証拠もなんにもありゃしねぇのに、明日の朝には死刑だと。
しかも一緒に捕まえた胡偉度さんだって、拷問にかけられても、一言も幼宰さんのことを口にしなかったっていうのによ」
 
胡偉度の遭難について、一同は顔を見合わせ、悲痛な面持ちになった。
気の弱い男だとばかり思っていた胡偉度が、拷問にかけられても屈せず、董和の名を口にしなかったことに、感動すらしていた。
が、同時に不信感を赤頭巾に抱いた。
くわしすぎる。
 
「赤頭巾さんよ、あんたは、なんだってそんなに詳しいんだい?」
と、面々のなかではいちばん若く、腕に覚えもある酒売りが、身構えつつ、赤頭巾にたずねた。
すると、赤頭巾は肩をすくめる。
「おれの耳は地獄耳でね。商売柄、宮城に知り合いが何人もいて、いろいろと情報が入ってくるのさ。
それにしたって、姐さん、勇敢なのは見上げたものだが、有象無象の衆を煽動して、幼宰さんを救おうなんて考えには賛成できねぇな。
荊州の人間も、これに呼応してくれるんじゃないか、って言っていたが、そりゃあないぜ。
荊州人士の頭になっている諸葛亮ってのは、どうも益州に入ってからは、まるで人が変わっちまった。思いつめちまってよ、なにを考えているやら、だ。
ま、そんなわけで、むかしのあいつならわからんが、いまのあいつじゃあ、あんたらが暴動を起こしたって、まずはなんにもしないで見ているだけだろうよ。
で、あんたらがうまく行ったら、今度は成都を煽動した罪であんたらを弾圧する。法正は暴徒に退治されていなくなっているし、暴徒を鎮圧して自分たちの名声も高まり、一石二鳥ってわけだ。
逆に、あんたらがうまくいかなくても、民に暴動を起こさせた、という件で、法正を追い詰める。
法正は追放され、民の求心力も自分にあつまり、これまた一石二鳥。
自分がなにをするでもなく、自然の流れに任せておいて、あとでちょいと手を加える、とまあ、そんなふうに考えるだろうよ。
どちらにしろ、あんたらは死に損ってことだよ」
「それじゃあ、あんたにはいい考えがあるっていうのかい?」
「ないこともないぜ。だから、あんたたちに相談に来たのだ。
どうだい、あんたら、勇気をふるって、幼宰さんを奪還するってのは」
「それについて、話をしていたんじゃないか」
「だから、気心の知れない人間が数百人あつまったところで、てんで駄目ってことさ。
下手すりゃ、幼宰さまを救うために集めた連中が、図に乗って掠奪をはじめる可能性だってあるじゃねぇか。
ちゃんとしたお題目を唱えていた連中が、次第に興奮して、ほんものの暴徒となるってさまを、わしは北でいやというほど見てきたぜ。
おなじ失敗を、あんたらにさせたくねぇんだ。
だから、幼宰さんの奪還は、ここにいる面子だけでやる。人数が少ないほうが、かえってまとめやすいし、命令も行き届くってもんだ」
「どうやって?」
「馬商人に知り合いがいてね、馬は用意してある。
さあて、この中で馬を乗りこなせる奴はいるかい?」

赤頭巾の問いに、一同は顔を見合わせる。
乗馬というのは、それなりの技術が必要だ。
一同は、驢馬や水牛なら扱ったことがあるが、馬となると別であった。
肉屋の親父にいたっては、触ったことはあるが、一部だけ、つまり肉の塊としてだけ、という有り様であった。
 
「ああ、やっぱりあんたら、商人だからなぁ。困ったな、わしの知り合いをいまから集めるにしても…」
と、赤頭巾は、ぼやきながら頭をかく。
すると、ドンドンと、だれかが扉を叩く。
「またか」
竹細工屋の親父さんはそういって、応対しようとするが、それを赤頭巾が止めた。
「待ちな。もしかしたら法正の草かもしれねぇだろ? わしが応対して、やばそうだったら、逃げろという。
この家に、裏口はあるかい? そうかい、そうしたら、わしが叫んだら、すぐに逃げるのだ」
 
そうして応対に出ようとする赤頭巾を、玉子売りが呼び止めた。
「赤頭巾さん、あんた、その頭巾のまんまで出て行ったら、かえってあやしまれるよ。それを取って行ったらどうだい?」
赤頭巾は、ああそうか、と頭巾に手をかけたが、途中でハッとなって、あわてて、言った。
「ダメダメ。これを外したら、ほんとうに大変なことになるんだからよ。あぶねぇ、あんた、策士だな」
「そういう腹積もりで言ったんじゃなかったんだが…まあいいや、よろしくたのむぜ」
ほいきた、と赤頭巾は、軽快に応じると、そおっと扉を開いた。
一同は息をつめて、その様子を見守る。

「あっ!」
と、赤頭巾は一声叫んだ。
一同は、てっきりそのあとに「逃げろ!」のひと言が来ると思い込み、身構えて待ち受けていたのだが、そうではなく、赤頭巾は、わずかに開いた扉の隙間から、身を滑り込ませるようにして、表へと出て行ってしまった。
 
晴嬰をはじめとする一同は、ぼう然と、扉を見守った。
扉の向こうでは、なにやら押し問答がはじまっている。
その調子は、店にやってきた借金取りを、懸命になだめすかして追い返そうとしている店主のさまに似ていた。
 
「あいつ、じつは夜逃げしたっていう、この空き家の、前の持ち主ってことないよな?」
と、酒売りがぽつりと言った。
逃げろといわれなかったので、法正が市井にもぐりこませている密偵と、やりとりをしているふうではないが…
 
そうしてしばらくして、赤頭巾がふたたび、戻ってきた。ふうっ、と疲れたようにため息をつくと、緊張した面持ちの一同に、頭巾のなかから、満面の笑みを向けた、ようである。
覗き窓から見える人なつっこい双眸は、たしかにいたずら小僧のように笑っていた。
「いやあ、人間万事塞翁が馬ってな、このことだぜ。喜んでおくれ、仲間が増えたぜ。これで百人力だ!」
赤頭巾は、扉の向こうで、なんだかぐずぐずしている男の袖を、ぐいっとひっぱり、空き家の中に引き入れた。
 
無理やり室内に入れられた男は、白い頭巾をかぶっていた。
照れているのか、心底気まずいのか、一同にちらちらと目線を送るが、どちらかといえば、うつむき加減である。
赤頭巾は、一同に言った。
「こいつのことは、白頭巾と呼んでやってくれ!」
「また頭巾かよ!」
と、一人が叫び、残りの人々もそのことばに大いにうなずいた。

十八話へつづく…
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