捜神三国志・燭龍本紀

第十四話 南充国の勇者、煩悶す。


夜は神秘的なものだ。
世界のすべての事物を闇に閉ざし、星明りと月光が、その輪郭だけを浮かび上がらせる。
世界がひどく単純な輪郭だけとなるのだ。
 
第三の門のあった林をおとずれた張嶷は、夜とはまったくちがう、林の周辺の様相に、おどろいた。
夜には、第三の門の壮大な仕掛けに肝をぬかれ、その周囲が闇に閉ざされていたこともあり、林があり、門を守るように、護符の貼られた奇岩がならび、雑草だらけの野原のなかに、ぽつりと小屋がある、というふうに見えていた。
しかし、門の周囲は、昼間はまったくちがう顔を見せていた。
 
闇に聳えていた杉の木は、やはり天をつくほどの大きさで、神政門の周囲にある家々との壁の役目を果たしている。
野原には、どこにでもある雑草がびっしり生えており、そのなかに、岩同士でひそひそ話をしているような形で、奇岩がある。
そこがまさか、地下にひろがる大迷路の入り口だとは、だれも思うまい。

と、いうのも、門は近所の子供たちの、格好の遊び場になっていたからだった。
あの門の仕掛けを知っている張嶷は、無邪気に戦ごっこをして遊ぶ子供たちから、目が離せない。
子供たちは、劉備と劉璋に分かれて戦っている。
見たところ、劉備が「良いもの」で、劉璋が「悪いもの」となっているらしい。子供の世界においても、成都を制圧してから間もない劉備のほうに心が傾けられていることに、張嶷は苦笑した。
劉璋という男、ここまで人望がなかったのか。

赤頭巾は、とぼとぼと馬に乗っているうちに、仕掛けの作動した門から落ちて、九門古城に入り込んだのだ。
調べてみないとわからないが、門には、門を開くための仕掛けがある。
それは偶然にだれかが踏んでしまったら、簡単に開いてしまうような単純なものなのだ。
子供たちが、なにかのはずみでそれを踏んでしまわないとは限らない。
注意すべきか、否か。
はらはらしていると、近在の民家の女将らしい女が子供たちに寄って行く。

「これ! ここで遊んではならんと、何度注意すればわかるのです!」
女の怒鳴り声に、子供たちはきゃあきゃあと歓声をあげながら、岩から降りる。
「この岩は、神さまが置いた、大切なものなのです。そんな土足で、上がってはなりません!」
鼻をたらした子供のひとりが、無邪気に女に尋ねた。
「おばさん、神さまって、どこの神さま?」
女将は、腰に手を当てた不動の姿勢で、気まずさを笑って誤魔化している子供たちに、厳しい顔を見せる。
「その名前を口にしてはいけない、古い神さまです」
「名無しの神さんかあ」
と、子供が生意気な口をきくと、女将の拳が子供の頭に落ちた。
ごん、という鈍い音が、張嶷のいる場所からも聞こえた。
「無礼な口をきくでない! この神さまは、巴蜀をお守りくださる、大切な神さまなのです! ほかの土地では、大きな戦乱が起こっているのに、この成都が焼けたことがないのは、神さまがお守りくださっているからなのですよ。
さあ、神さまに謝りなさい!」
女将に言われ、子供たちは、半信半疑といった顔ながら、岩にむかって、ごめんなさい、と頭を下げた。
「よろしい。さあ、よそへ行って遊びなさい。ここは神聖な場所なのです。玄女さまのお住まいでもあるのですからね」
と、女将は小屋のほうを向いた。
子供たちも、合わせて小屋を見る。
杉の木の幹の横にたたずむ張嶷も、その声につられるようにして、小屋のほうを見た。
  
「おっかない婆さんの小屋だ」
と、子供がつぶやくと、女将がふたたび、厳しいまなざしを子供たちに向けた。
とたん、子供は姿勢を正し、恐縮する。
「近頃の子供はどういう育ち方をしているのだろう。巫女さまに、そんな口を利くなんて」
「だって、あの婆さんの顔、見たことある? 疣蛙みたいな顔だったよ」
「あんたたちは子供だからわからないでしょうけれど、巫女さまがあのようなお姿になられたのは、神さまのご託宣を受けるためなのですよ。
まったくバチあたりな。さあ、わかったなら、もうここで遊んじゃなりません。よいですね?」
「でもおばさん、いつもおれたちが遊んでいる広場に、おっかない兵士たちがあつまっていて、遊ぶところがないんだよ」
「まあ。荊州の兵士たちのことね。人殺しとやらは、まだ捕まってないのかしら。おそろしい」
 
ひとりごちる女将に、子供たちは不満そうな顔を向ける。
そうして、女将は仕方ない、といったふうにため息をついた。
「それじゃあ、あたしの家においで。ここよりは狭いけれど、やんちゃをしないと約束できるなら、ちょっと遊ぶくらいの広さはあるから」
子供たちは、わあい、と歓声をあげると、女将と一緒に立ち去って行った。


張嶷は、ほっとして、女将と子供たちが立ち去るのを見送った。
そして、小屋のほうを見る。
この土地の景色で、なにより夜とちがうのは、巫女がいる、という小屋に、定期的に出入りする人々の姿である。
樵夫の小屋ではなかった。
朝から観察していたのだが、小屋には、老若男女関係なく、手にそれぞれ野菜だの肉だの、あるいはなんらかの貢物を手にした人々あらわれては、帰っていく。

女将の話からすれば、この小屋に住む巫女は『玄女』という、容姿の醜悪な女らしい。
神の置いたという伝説の残る奇岩…第三の門。そして巫女。
成都の民からは忘れ去られていた九門古城の痕跡が、門の周囲には、わずかに残っていた、ということか。

第三の門の入り口に、だれかを待つように刺さっていた蒼い宝剣。
その入り口のそばに小屋を建てている巫女。
あの蒼い剣を手に取ることができたら、九門古城が、だれによって、なんのために建造されたのか、その謎がいくらか解けるかもしれない。

それにしても…
張嶷は、絶えることのないない、小屋に出入りする男女に眉をしかめていた。
成都だけではなく、巴蜀の人間は迷信深い。
なにかと巫女だの占い師だのにご託宣をうかがいに行く。
もっとも、なにやら理解不能な、不可思議な力に恵まれている人間も多いのも事実である。
険阻な山々に囲まれ、太陽のろくに顔を見せない土地柄もあるのだろうか。
たしかに霧の多い日などは、白い帳の中から、なにが現われてもおかしくないような雰囲気がある。
小屋の中にいるのも、成都にあまたいる、近在の者たちの、ちいさな信仰をあつめている巫女のひとりなのかもしれない。
すくなくとも、世間はそう見做しているようだ。

だが、それは偽装なのではあるまいか。

小屋に出入りする男女を観察しつづけていた張嶷は、かれらの風俗は、たしかに漢族のもので、本人たちも、つとめてそうであると振る舞っているようではあるが、じっさいはちがう。
女は被り物をして顔を隠し、男は笠や冠をかぶってごまかしてはいるが、かれらのほとんどは羌族のようだ。
羌族と聞けば、思い出されるのは馬超のことであり、一方で、黄色い輝石の指輪をしている一党のことも思い出される。
やはり両者はつながっており、第三の門より九門古城へ出入りしているのだろうか。

虎穴にいらずんば虎児をえず。
張嶷は心をきめると、子供たちがいなくなって静寂のもどった林のなかを、雑草を踏み分けて小屋のほうへと向かった。
張嶷の出で立ちは、きわめて地味にはしているが、栄耀飯店で染み付いてしまったのか、堅気には見えないものである。
そうして、たまたま近くを通りがかった、というふうに、あたりをきょろきょろと見まわしながら、小屋の扉に手をかけてみる。
すると、ちょうど中にいた男が出てくるのと行きあった。
思わずおどろいて身を引くと、相手の顔色もさっと変わる。
と、同時に、油断なく、張嶷の姿を、上から下まで、舐めるように見るのであった。
男の肩越しには、子供ほどの小さな人間が、囲炉裏端の粗末な茣蓙のうえに座っているのであるが、奇怪なことに、体中に、色とりどりの布を巻きつけているのである。

「だれだね」
と、最初に声を発したのは、布の塊のような者であった。
そのしわがれた声から、張嶷は、それが年老いた女だと判断した。
動かない布の塊のあいだから、唯一、手だけがのぞいている。
それがなければ、張嶷は目のまえの者が人間であるかどうかさえ疑っただろう。
「ここは巫女の小屋と聞いたが、まことか」
ここぞというときほど、肝が据わるのが張嶷である。
平静そのものの声色で、むしろ小屋の内部を、興味深そうに見回し、自分を凝視する男を、じろりと睨んで威嚇さえしてみせる。
張嶷は、おのれの風体が、ふつうの町人らにどういう印象を与えるか、知り抜いていた。
だからこそ、いかにも似つかわしい態度を、わざと取ってみたのである。
小屋にいるのは、出て行こうとしていた男がひとり、巫女とおぼしき老婆がひとり、漢族の装束をまとってはいるが、羌族とおもわれる、中年女がふたり。
予想どおり、その場の者たちは、不意にあらわれた場違いな若者を胡散臭そうに見ているが、それ以上ではない。

「兄さん、それをどこから聞きなすった」
男がたくみに訛りを隠したことばでたずねてきた。
小屋のなかにちらりと目線を走らせつつ、張嶷は応える。
「じつは失せものをして、困っているのだ。こちらにたいそう力のある巫女さまがいらっしゃると聞いてな。ちがうのか」
憮然と答えると、男はますます迷惑そうに顔をゆがめた。
「だれから聞いた」
「この近在の女だ。名は知らぬ」
小屋の内部には薬草の、独特のにおいがたちこめており、ひと呼吸で胸が苦くなりそうである。
壁や床には、暖をとるためなのか赤色を中心とした布が敷かれたり、あるいは掛けられたりしている。
目をひくのは、老婆の背後にある絵図で、赤い色にあふれている小屋のなかで、それだけが藍色をしていた。
どこの部族の文字なのかわからない、みみずのくねったような記号がつらねられた壁掛けである。

壁掛けに注意をひかれていた張嶷に、男が、一歩、まえにずいっ、と近づいてきて、ひげ面をしかめて、言った。
「あいにくと、巫女さまはお疲れだ。出直してこい」
張嶷は、目のまえの男がどれほど強いだろうかと考えた。
剣こそ帯びていないが、がっしりした手足や、板についた居丈高な態度からして、おのれの実力に自信があることにはちがいない。
こいつをぶん殴って黙らせれば、あとは女ばかりとなる。うまくすれば、あっさりと九門古城のことについて、なにか聞き出すことができるかもしれない。
男の指にも、ほかの女たちの指にも黄色い輝石の指輪ははめられていなかったが、この者たちがなにかを隠していることはまちがいないのだ。

「おまえの失せものを、どうしてわたしにたずねようとするのだい」
ふたたび巫女が口を開いたので、張嶷は目線を移したのであるが、それまで布に埋もれていた巫女の双眸が、まっすぐこちらを向いているのと目があった。
その目の色を見て、張嶷は、はっとする。
巫女の瞳のいろは、蛇のように金色をしていたのである。
「おまえは、失せものがどこにあるのか、見当をつけているはずだ。それなのに、なぜわたしに聞こうとする」
「なんだと」
「それよりも、ほかに聞きたいことがあって、ここに来たのだろう。わたしも年だ。あまり長くしゃべるのは疲れてしまう。
簡単に言おう、もうあきらめておしまい。おまえたちがのぞいた闇は、まだまだ一部にすぎないのだよ。
あの闇は、善も悪も関係なく、すべてを絶望のなかに呑みこむ。巨大な虚無という名の蛇の体内なのさ。
おまえは前途がある若者だ。いまならば、まだまだ脱け出すことができる。残りの者たちにも伝えるがいい」

張嶷は、しばし絶句し、まじまじと、巫女の金色の瞳を見つめた。
感情のない目だと、張嶷は思った。
敵意もなければ慈愛もない。虚ろにすら見える。
それこそ、巫女がいま言った、虚無という名の蛇そのものに見えた。
「俺たちのことを知っているのか」
巫女は、すこしだけうなずいたようである。
身体が揺れたのを、横にいた女たちが、気遣わしげに手をさしのべて、支えた。
体が弱いのであろうかと、張嶷は考えた。
「知っているさ。すべてね。じき、蒼い剣の主もあらわれようが、そのとき、どれだけの血が流されるだろうかね。
おまえはそうなるまえに、この土地を離れるがいい。闇は、人の手には負えないものなのだ」


その場のだれに命じられたわけでもないが、張嶷は、はじかれるようにして、小屋から黙って出た。
巫女の目に当てられたと、すぐに思った。
知らないあいだに、心のうちをすべて読まれたような、なんともいえない薄気味悪い感覚がしている。吐き気もしてきた。
足取りもよわく雑草を踏み分けながら、やがて、小屋から離れた林の、木の幹のひとつに背をもたれかけ、大きく息をつく。
悪い夢を見たあとのように汗をかいていることに気づき、懐から手ぬぐいをとりだして、額や脇などの乱暴に拭く。
そうすることで、すこし気分が持ちなおしてきた。

落ち着いて考えれば、そう怖じることもないような気がする。
巫女は、さも、なにもかもお見通しであるかのような口ぶりで語っていたが、ほんとうにそうか。
第三の門から出てきたとき、ふしぎな仕掛けは轟音をともなって作動していた。
ゆうべは、小屋の窓からなかをのぞいたとき、だれもいないと思っていたが、じつはそうではなく、あの巫女は内部にひそんでいたのではないか。
あんなふうに布で全身をくるんでいては、気づかなかったかもしれない。
とすると、九門古城のことを知っていて、あの門から出てきた四人を見ていた可能性は高い。
さきほどの脅し文句とて、よくよく検討してみれば、具体的なことばは、なにひとつないではないか。

おれたちを古城から追い出すための罠か。

そうして、林の中から、張嶷は小屋のほうを見た。
さきほどの男が、張嶷がもう去ったかどうかを確かめながら、出てくるのが見えた。
張嶷が身を隠すと、男は安心したらしく、足取りもすばやく、小屋から去っていく。

そうしているあいだにも、林の木立のあいだからは、山野へ散策に向かう士大夫の馬や、山で暮らす民が、行商の荷を背負って、家に帰る姿なども見える。
さきほどの子どもたちといい、まったく人目がないわけではないのだ。
林にそってつづく道は、ちいさな道ではあるが、山へ向かう近道ということもあり、往来は絶えないようである。
赤頭巾も、この道をとおってやってきて、この門にうっかり落ちてしまったのだ。

さて、恩知らずの赤頭巾め、まさか今日はやってこないだろうなと道を見つめていると、張嶷は、視界に、それとはべつの、厄介な者の姿を見つけた。
さすがに鎧と目立つ黒イの外套は脱いだようであるが、背のたかい美貌の姫君の姿は、どれほど地味な衣裳をまとおうと、人目をひかずにおられない。
このあたりが世間知らずなところだと呆れつつ、張嶷は声をかけた。

「おれを尾行していたのか」
「おまえたちのうちのだれかが、かならず門の様子を見にいくだろうと思ってね」
祝融は、読みが当たった、とにやりと笑ってみせる。
その赤い唇のあざやかさに、張嶷はぞくっとした。
色気を感じたのではなく、なにやら蛇が、長い舌を出し入れしているさまを思い出したからだ。
今日はやたらと蛇を連想すると思っていると、祝融は、林と、そして不自然に積まれている環状の巨石を見て、目をほそめる。
「あれが門か」
「さてな」
「しらばっくれるのはおよし。漢族というのは莫迦かい。
あんなにあからさまに怪しい物を、こんな往来のあるところに、ぽつんと置いておくのだからね」
鼻を鳴らして言う祝融が、すぐに取り出せる武器をもっていないことを確認してから、張嶷は答えた。
「この門には管理人がいる。昼間は追い返されるぞ」
「おや、認めるのかい」
「認めようと認めまいと、おまえは門から古城へもぐるつもりだろう」
「あきらめのいい男だね」
そうでもないさ、と張嶷は心のなかで答えた。
巫女のことばがあてずっぽうなものにしろ、古城にもぐることをあきらめるつもりはまったくなかった。
金色の目をもつ巫女と羌族のつながり。
このことを董和や偉度たちに教えなければ。

そして、ふと、張嶷は気づいた。
この姫は世間知らずであるが、愚かではない。
おなじ尾行するにしても、三人のうち、どうしていちばん腕におぼえがある自分をえらんだのだろう。
昨日は人質にするにしても、いちばん弱そうな偉度を的確に狙っていた。
となれば、今日も、偉度を尾行しようと判断しそうなものではないか。

「姫、どうして俺を尾行した」
単刀直入に張嶷がたずねると、勘のよいところをみせて、質問の意味をつかんだ祝融は、これまた鼻を鳴らして、答えた。
「おまえしか残らなかったからさ」
「どういう意味だ」
「おまえは知らないだろうが、胡偉度とかいう男は、夜明けごろに、尚書令の兵につれていかれたよ。いまごろ董幼宰も、引っ張られているかもしれないね」

祝融のことばに、張嶷は返事もせずに、走り出した。
なぜ尚書令が偉度を逮捕したのか、その理由はわからない。
だが、董和まで、となると、だれが動いたか、その理由はつくではないか。
相手は官吏。昼間は動けなかろうと侮っていた。

張嶷は、おのれの読みの甘さを呪いつつ、董和の屋敷へ走っていった。

 


諸葛孔明が去ったあと、董和は吹き抜けた風に、ぞくりと身を震わせた。
あの男と対決しなければならないのか。
わずかにも、あの男の心の内を読むことができなかった。
いったい、何を考え、なんのために屋敷を訪れたのか。

気味の悪いほどに美麗な容姿、自身に満ちあふれた物腰、そしてなにより、あの双眸の異様なまでの輝き。
孔明。はなはだ明るい、という名前をそのまま体現している男だ。
民草の上に立ち、動かすためだけに生まれてきた男である。
屋敷を売って欲しいなどと、とても本気とは思われない。
 
董和は、住み慣れたわが家を見つめた。
董和と、息子の休昭と、じいやの三人で、つましく暮らしてきたちいさな家である。
立地もよいとはいえず、こざっぱりとはしているが、なにも大金を積んでまで、ほしがるほどのものではない。
この家は、董和の妻が、長星橋の解放的な空気が気に入ったといって、住まいにえらんだ場所である。
董和も、激務のあいまに、休みのときなどは雨漏りを直したり、壁を塗りなおしたり、あるいは庭の手入れをしたりと、もうひとりの子供のように思って世話をしてきた。
それに、この家には妻の思い出が詰まっている。
成都の令を辞して、僻地においやられていた間でも、この家を手放すのが忍びがたかったので、人をやとって管理させていたほどである。
そうそうたやすく手放せる類いのものではないのだ。
 
ふと、感傷にふける董和のもとへ、じいやが、あたふたと駆け寄ってきた。
「旦那さま! 旦那さま!」
古くから、董和の家に仕えてくれた老爺である。
さまざまな経験を重ねているため、めったなことでは動じないのであるが、それが、必死の形相になって、なにかを訴えてくる。
伝えたいことがあるのだが、驚愕と焦りで主人に呼びかけることしかできないようすだ。
そして、そんなおのれに焦れて、苛立っているのである。
「落ち着け。どうしたのだ」
董和が言うと、老爺は、董和に取りすがるようにして、腕をつかんだ。
「お早く! どうかお早くお逃げくださいませ!」
「逃げる?」
不穏な言葉に眉根をよせた董和の耳に、馬のいななきが届く。
来訪者があるらしい。それも多数。
「じいは、間違いと存じております。じいだけではございませぬ。成都の民は、みなあなたさまのお味方でございます。どうか、お早くお逃げくださいませ!」
「落ち着くのだ。いったい、何があったというのだ」
じいやは、目に涙を浮かべつつ、叫んだ。
「法尚書令が、旦那さまを、市場の蝋燭を買い占めている咎にて、捕縛する、と!」
「莫迦な!」

思わず叫んだ董和であったが、それが冗談でもなんでもないことに、すぐに気付いた。
案内も請わず、無礼にも屋敷を通り抜け、庭にあらわれた男。
その男の姿を見て、董和は、くらい面持ちで事態をさとった。
なんということか。呑気にすぎた。
 
平西将軍・馬超は、小憎らしいほどの悠然とした笑みを向けて、董和に笑った。
「昨夜は世話になったな。邪魔をするぞ」

十五話へつづく…
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