捜神三国志・燭龍本紀
第十三話 董幼宰、二匹目と出会う
自分の声が、耳のどこか遠くから聞こえ、汗が額から滝のように流れ出しても、董和は、槍を振るう手を止めることができなかった。
付け焼刃なのはわかっている。
しかし、そうしなければ落ち着いていられない。
九門古城というのは、その存在だけで、まるで阿片のように、人を誘う性質をもっているらしい。
白々と夜の明け始めたころに、ようやく屋敷にもどってきた。
そうして、どうやらウトウトしつつも、その帰りを待っていたらしい一人息子の休昭が、充血した目をぎらぎらさせて、父上は毎晩、どちらへいらしているのですか、とたずねて来るのをかわし、床についた。
それから、父上がグレた、という嘆きの声を子守唄に、董和は夢を見ることもなく、昼過ぎまで眠っていた。
目覚めたてのとき、薄雲の向こうにあるぼんやりとした太陽が、すでに中天を過ぎて西の空に向かって移動している姿を見て、董和は、どこか恥じ入るような気持ちをおぼえたが、九門古城に潜り続けるためには、この昼夜逆転の生活にも慣れなければならないと、おのれにいい聞かせた。
張嶷などは若いだけあり、董和よりも先に目を覚ますと、さっさと外にでて、神政門の第三の門の様子を探りに行ったようである。
昨夜はいろいろありすぎて、伯岐に、けして古城にひとりで潜るな、と釘を刺すのをわすれたな、と董和は思った。
とはいえ、張嶷は、血気盛んなだけの若者とちがい、まず頭で計算をしてからことに及ぶ。
聡明な男であるし、義理堅いから、董和や胡偉度をさしおいて、ひとりで古城に潜ることはないだろう。
だが、馬超の件がある。
帰ってきたなら、すぐに話をしておかねば。
殺された羌族、というのは、晴嬰たちが捕らえた男と同一なのであろうか。
だとしたら、なぜ指を切り取られる形で放置されていたのだろう。
いったい、あの指は、だれにたいする、何のための警告なのか。
冗談ではなく、晴嬰を屋敷に引き取るべきかもしれない。
張大人を刺激することはわかっているが、しかし、また妻のときと同じように、むざむざと目の前にいる女人を…あれほどに慕い、尽くしてくれる娘を、なんの手立ても打てずに失くすのだけは、避けたかった。
それにしても、昨夜の晴嬰にはおどろいた。
さすがに酒家をひとりで切り盛りしているだけのことはある。
あれほどまで逞しい女人に成長していたのは、喜ぶべきか、それとももう少しおとなしくてもよいと残念に思うべきか。
祝融、とかいう黒イの姫はどうしただろう。第三の門を探して、神政門を徘徊しているのだろうか。
昨夜会った、趙子龍のことばによれば、羌族の男を殺した下手人とやらが、神政門に逃げた、ということだが、捕まったのだろうか。
そうでなければ、いまも荊州兵たちは、下手人を探して、警備をきびしくしているはずである。
目立つ女であったから、捕まらねばよいが、と董和は心配する。
いくら精鋭と謳っていたところで、所詮は、異民族への対応に慣れていないよそ者なのである。
南方系の異民族のなかでも、現在最大の勢力をほこるイ族に手を出したら、天下どころか、この天賦の国ひとつ、平定することができないことを、彼らは知らない。
いや、知識としてはわかっているだろうが、それを肉体に刻み込まれた感覚として理解していない。
益州は、つねに四方をぐるりと異民族に囲まれている土地だ。
険阻な土地でありながら、つねに異文化交流の途絶えることのない、不可思議な土地でもある。
中原とくらべれば、洗練されてはいないだろうが、その内包する文物の豊かさは、おそらく中華のどの土地にも勝っている。
天下を取るための足がかりとしには、うってつけの土地だ。
だが、いままでの『よそ者』のように、荊州の人間が、この地の利点を誤解して、どんな搾取にも耐えうる土地だとかんちがいしているようでは、困る。
異民族たちを理解し、彼らと共存する智恵をおぼえれば、この自分とおなじように、自分たちの住まうところを中華(世界の中心)である、などと称する思い上がりこそ、じつは、ひどく田舎じみたものなのだ、ということがわかるだろう。
そこまで考えて、董和は、免官になった身のことを歯がゆく思った。
『よそ者』にたいする警戒がないわけではない。
しかし現実として、荊州人士と共に国づくりをしていかねばならないのだ。
法正だって、残酷な男であるが、高邁な政治理念をもっているはずである。
しかし、狭量にすぎる。
あくまで益州だの、荊州だのにこだわりつづけるならば、どうなるか。
上層部がそのようであれば、やがてそれが下々にもおよび、軋轢を生む。
果ては、ふたたびこの地が戦乱に巻き込まれる結果を生まないか。
たとえどんなちいさな官位でもいい。
すこしでも権限さえあれば、 両者の軋轢を和らげることができる。
はじめは、どんなちいさなことでもいい。
人は人を呼ぶ。いつでもそうだった。
本当に高い志をもって事に向かえば、おなじ心を持つものが、かならず共感してくれる。
そうして、どんどん輪をひろげてゆけばよい。
それが董和のやり方であり、そうして築いた名声であった。
無位無官の身で、わたしにできることは、宝探しだけなのか…
張嶷のこと、晴嬰のこと、黒イの姫のこと、羌族より絶大な支持を受ける馬超のこと。
さまざまな物事が董和の頭をかけめぐる。
そうして、なにひとつ先の見えない状況に苛立ち、なおも槍を振るわせる。
免官になる前は、どこかに、何があってもどうにかなるだろうと、根拠のない自信があった。
しかし、その自信も、結局は、官というものの力を借りたものであったのだということ、いまさら思い知る。
まったくの後ろ盾をなくした寒門出の董幼宰は、無力でしかない。
汗をぬぐうために、手を止めて、首にまいた手ぬぐいで顔を拭こうとした董和であるが、ふと庭木の陰から、がさごそと音がする。
とうぜん、古城のことがあるので、刺客ではなかろうかと身構える。
まさか、野犬の仔というわけでもあるまい。
董和は槍を持ち直し、揺れる枝葉を注視していたが、それがぴた、と止まったかと思うと、そこから、子どもが顔を出した。
十歳くらいの、ちいさな男の子であった。
ソラマメのような顔に、つぶらな目と鼻と口がある。それ意外に、表現の仕様がないほどに素朴な顔であった。
子どもは、片肌を脱ぎ、槍を手にした董和を見て、ぽかんとしている。
「どこの子だね?」
董和が声をかけると、子どもは我に返り、無言のまま、這うようにして茂みをくぐると、トコトコと董和の前にやってきた。
そうして、観察するように、じっと董和を見あげた。
子どもの視線からすれば、なぜここに董和がいるのかわからない、とでも言いたそうであった。
地味な色合いの服を着ているが、素材はかなり上等なものでしつらえられている。
ふつう、貴門の子には伴がつくものであるが、しばらく待っても、だれかほかに人のいる気配はない。
しかし、年端の行かぬ少年がひとりで遊んでいる、というのは奇妙だ。
「どこから来たのかな?」
子どもは、口を閉ざしたまま、隣家を指した。
隣家はながらく空き家になっていた。
「隣のおうちは、いま、だれも住んでいないのだよ。そなたはどこから隣のおうちに来たのかね?」
すると、子どもは、じっと董和の顔をみつめていたが、しばらく無表情のままでいると、おもむろに、片腕で指さした。東の方角だ。
「長星橋のほうか。そなたは長星橋の、どこの家の子なのだ」
問うと、それまで木彫りの人形のように表情を動かさなかった子どもは、眉をしかめて、隣の家を指した。
「しかし隣の家は空き家なのだがね」
子どもはますます困った顔をして、首をひねっていたが、またまた東のほうを指した。
堂々めぐりである。
「わかった、それはあとで聞こう。では、そなたは一人だったのかね」
子どもは首を横に振ったあと、すぐに思いなおして、首を縦に振った。
董和は、この少年が、さきほどから言葉をひとことも発しないので、もしかしたら、口が利けないのかもしれないと不憫に思った。
しかし、耳はちゃんと聞こえているようである。
さて、この物言わぬ子どもの言わんとすることは、どちらだ。
董和は、一人息子がこれくらいの年であったときのことを思い出しつつ、頭をひねってみた。
「ふむ、つまり最初はだれかと一緒にいたのだが、途中からひとりになったのだね」
子どもは、素朴な顔をぱっと輝かせ、大きくうなずいた。
「なんだかよくわからないのだがね、そなたはでは、どこの子なのかね」
すると、子どもは、不意に、愛らしい笑顔を引っ込めてしまうと、愛でている花の上に、気味の悪い芋虫をみつけたような顔で、董和の背後を指さした。
そうして、董和は、はじめておのれの背後に人がいることに気がついた。
いつの間にいたのであろうか。
足音も気配もなく、それはそこにいた。
「こんにちは」
と、それは言った。
口はしに、悠然と笑みを浮かべている。
笑っているのであるが、どこにも隙がない。
たった一人、武器も携帯していない。
それなのに、董和は、反射的に全身を強ばらせた。
背の高い、年齢のつかめない風貌の男であった。
淡い色合いの布地に、銀糸のこまかい刺繍が袖口にほどこされた、一見地味であるが、よく見ると上品で手の込んだ衣裳を身に纏っている。
頭髪をまとめる頭巾も、衣裳とおなじ色合いに刺繍のほどこされたものだ。沓もまた、しかり、である。
全体の雰囲気からすれば、世慣れたふうの貴公子であるが、特異なのはその双眸。
顔立ちが尋常でなく美麗なのもおどろきであるが、なによりその眼であった。
恐怖すらおぼえるほどの冴えた眼をしている。
まるでこの世のすべてを見知っているような…有り得ないことであるが…邪気のない、鋭気にあふれる美しい目であった。
その眼の持つ、つよい力に、射すくめられたような錯覚をおぼえる。
やましいことがあるわけでもないのに目を逸らした董和は、男の指に、黄色い輝石のはまった指輪があるのを見た。
それを見た瞬間に、董和は、子どもをおのれの背後に庇い、手にした槍を男に突きたてた。
刺す。
つもりであった。
しかし、おどろいたことに、男は董和の顔を凝視したまま、ぴくりとも動かない。
じっとまっすぐ董和を見据えたまま、敢然たる表情を崩さないでいる。
一方の董和といえば、全身から汗を吹き出しながら、槍の切っ先を、男の鼻ぎりぎりで止めるのが精一杯であった。
男は、槍を眼前に突き立てられつつも、またにっこりと、華のある笑顔を見せた。
目の前に槍ではなく、花でも捧げられたかのような笑みである。
「貴殿に取次ぎを願おうとしたのですが、家人がだれもいない様子でありましたので、勝手にあがらせていただきました」
「おまえは何者だ?」
「このたび、隣家に越してくることになった者です」
と、槍をつきつけられたまま、男は平然と答える。
指輪を隠さず、むしろ見せ付けるように輝かせながら。
「今日は、あたらしいわがやの補修が、どれだけかかりそうかという下見と、ご近所への挨拶にまいりました次第」
まるで、目の前にあるものが眼に入っていないような態度である。
実際、男はすこしも怯えていなかった。
董和のほうに、すでに殺気がうせているのに気付いているのだろう。
これは、完全に負けである。
晴嬰の酒家に投げ込まれた、切り取られた指。
それと共に入れられていた指輪。
黄色い輝石の嵌った指輪は、成都の町に夜な夜な出没し、市井の者に『九門古城』の噂を流している一派がある。
指輪はその象徴である。
董和は、ひどく嫌な予感にとらわれた。
この男、どこかで見たことがあるのだ。
いまはくだけた格好をしているが、たしか、宮城で、満座を前に、位だけでいえば上位にいるはずの法正や糜竺らを押しのけるようにして、劉備の脇に控えていた男。
遠目であったし、顔をまじまじと観察できるような場ではなかった。
ちらりとその背格好を認めただけであった。
董和は、ゆっくりと槍を収めると、男にたずねた。
「貴殿の名は?」
「荊州より参りました、諸葛孔明と申します。以後、お見知りおきを、董幼宰どの」
まるで何事もなかったように、軍師将軍・諸葛孔明は、董和にむけて拱手をした。
董和は、背後から着物を引っ張られ、我にかえった。
背後にいた子どもが、董和の着物の裾を引っ張ったのであった。
それはちいさな感覚であったが、董和を我に返すのに役に立った。
振り返ると、子どもは、つぶらな目を曇らせて、縮こまるようにしている。
あぶない。
最初に浮かんだのは、それであった。
これが、諸葛孔明なのか。
あらためて冷静になって、董和は相手を観察した。
男にしては優美な線と、秀麗な顔立ちをしているが、単なる洒落好きの優男ではない。
一見しただけであれば、外見の煌びやかさに惑わされ、その印象は軽いものに傾くだろう。
しかし、この男の本質は、強い光をたたえる双眸にある。
目の合った瞬間に、思わず呑まれてしまう。
おそろしいほど澄明な双眸は、泉のように深く、油断をするとつい引き込まれてしまうのだ。
張大人をはじめとする悪党どもや、豪族、武将、文官、さまざまな階層の人間と渡り合ってきた董和でなければ、まるで仙術にでもかかったように、意のままになっていたにちがいない。
董和は辛うじて踏みとどまった。
つぎに董和の感じたものは、反発であった。
年齢のつかめない男であるが、聞いた話だと今年で三十四になるという。
ひとまわり年齢がちがうわけだが、ふてぶてしささえ感じられる落ち着きは、どうだ。
それになんという目で人を見るのだろう。
目の前にいる男は、人を使役する側に生まれついた人間だ。
そうして、この男もそれをわかっている。
この男にとって、自分のために周囲が動くのは、あたりまえであり、そこに疑問を抱いたこともないだろう。
当の孔明は、ふてぶてしい笑みを浮かべつつ、後れ毛を長細い指でもてあそんでいる。
髪をもてあそぶ孔明の指には、黄色い輝石の指輪が、陽光を受けて、きらきらと輝いていた。
冷静にならなくてはいけない。
董和は息をつくと、まっすぐ、目の前の男を見据えた。
さきほどから、これみよがしに黄色い輝石の嵌った指輪を見せ付けているが、単純に考えれば、この男、つまりは荊州の人間が、九門古城の噂を成都にひろめている一派、ということになる。
張嶷の話によれば、孔明は張大人をこっぴどく突っぱねており、栄耀飯店の門を、荊州方が使っているとは思えない。
とすると、昨日、董和たちが見つけた第三の門から出入りしている、と考えるのが妥当かもしれない。
しかし、その理由はなんなのだ?
荊州の人間が、なんらかの方法で、九門古城の存在を知った、と仮定する。
もし董和が荊州方であれば、おそらく大量に兵士を投入し、『得れば天下を取れる宝』を探索させ、見つからなくても、古城のあちこちに眠る宝を回収し、軍資金に換えるだろう。
成都の人間に、九門古城の噂をひろめ、騙すようにして誘い込む、その理由がわからない。
そもそも、黄色い輝石の指輪の一派の目的は、晴嬰たちも張大人も掴めていないのだ。
九門古城の宝の話を知った人間は、誘われるまま、どこかへ消え…おそらく九門古城への第四の門があるのだ…戻ってこない、という。
消えた人間はどうなってしまうのか。
盗賊たちに遭遇して、死んでしまったのか?
盗賊たちだけではない。
あそこには、宝を求めて、馬超や彭恙のような人間も徘徊しているのである。
いままで、どれくらいの人間が失踪していったのだろう。
危険な場所だと知ったので、あえて無作為に成都の民を選び出し、斥候の役目をさせている、というのも考えにくい。
訓練されていない、しかも被征服民である者が、よそ者である荊州の人間のことを、そう大人しく聞くとは思えないのだ。
ほかに考えられるのは、荊州も益州も関係なく、諸葛孔明という男だけが、九門古城の存在を知り、動いている可能性。
とはいえ、成都の民に、わざわざ不穏当な噂を吹き込む利点が、どこにあるのか。
おなじ疑問がつきまとう。
馬超と彭恙、それに孔明が組んでいる、という可能性も捨てきれない。
馬超は劉備を『玄徳』と呼び捨てにし、『得れば必ず天下を取れる宝』を得るために、古城に潜っている、と言っていた。
そうなれば、軍師将軍が影で糸を引き、劉備への反乱を企てている、という話になる。
なぜ、この男は、わたしの前に現われたのだろう。
隣家に越すことになった、というのはほんとうだろうか。
これほどの身分のものが、宮城から遠い場所に屋敷を構えるのは不自然だ。
「喬」
と、孔明はさきほど、董和から槍を突きつけられた余韻を微塵も残さず、深みのある声で、呼びかけた。
董和の背後にかばわれていた子どもは、さらに董和の衣の裾を引っ張る。
おどろいて董和が振り向くと、子どもは、ちいさな眉間に皺をよせ、悲しそうなまなざしを董和に送った。
「喬、いつまで幼宰殿のうしろにいるつもりだね。ご迷惑になるだろう、父のところへおいで」
孔明はいいざま、両手を差し出すのであるが、喬は、おびえるようにして、ますます董和の背後に隠れてしまう。
それを見て、今度は孔明のほうが、柳眉をしかめた。
「やれやれ、子どもにすら嫌われるとは、軍師将軍なんぞ拝命するのではなかったな。
幼宰殿、うちの子が、ご迷惑をおかけしませんでしたでしょうか」
「貴殿のご子息でありましたか」
似てないな、と心のうちで董和はつぶやいた。
それが聞こえたわけでもないだろうが、孔明は苦笑しつつ言う。
「江東におりますわが兄から貰い受けた子でして、気立てのやさしい子なのですが、男の子にしては大人しすぎて、人見知りをするのです。
お恥ずかしい話ですが、わたくしもしばらくこの子を荊州に置いたままこちらにおりましたので、親子という実感がいまだに掴めないでおります。
家人としか顔をあわせてない生活では、ろくに友だちもできますまい。
そこで、江東につづくこのにぎやかな界隈でのびのび暮らせば、いくらかこの子も元気になるのでは、と考えた次第でして」
「左様でしたか。たしかに、長星橋あたりは、江東の商人たちも往来しておりますし、いくらかなぐさめになりましょうからな」
董和は、後ろで訴えるような眼差しを送ってくる少年の、ちいさな頭を撫ぜた。孔明から身の上を聞いたからかもしれないが、喬は、親からはぐれた小鹿を思わせた。
養父が身の丈八尺の大男なのにくらべて、董和の背後の少年は、ずいぶん痩せて、ちいさい。
あまりよい待遇ではないのかな、と想像し、あわてておのれをたしなめる。
無為な空想で相手を評価してはならない。
「喬殿と申されるか、よい名ですな」
「字は柏松と名づけました」
ほう、と相槌をうちつつ、董和は困惑する。
諸葛孔明という男は、実務家としての腕も評判が高いが、その一方で、赤壁の戦いでは風をおこした、などと神秘的な噂が流れるほど、どこか神仙めいた雰囲気を持っている。
生まれは泰山のふもと、琅邪であるし、しかも、養子の名に、列仙伝で名高い『松喬』(赤松子・王子喬)を想起させる字を当てるとは、風雅を通り過ぎて、酔狂である。
「さあ、喬、こちらへ来るのだ。あまりご迷惑をおかけするものじゃない」
さきほどより、すこし硬い口調で諭され、喬は、しぶしぶ、というふうに董和の背後から、養父のもとへ行った。
「すこし目を離したら、これだからな。いまは物騒なのだし、おまえも自覚を持って、気をつけねばならないよ。
わたしは、いつもおまえのそばにいられるとはかぎらないのだから」
やさしい口調で話しかけるのであるが、しかし子どものほうは、傍から見ていて気の毒なほどにしょげている。
叱られるのでは、とびくびくしているのだ。
事情を知らなければ、とても親子とは思えない。
董和は孔明の家庭の事情をくわしく知らないが、見るに、どうも孔明自身も、子どものあつかいに慣れていないようである。
あくまで表面では穏やかに接しているのであるが、どこか緊張感がにじみ出ている。
それが子どもに、しっかり伝わっているのだ。
子どもを安心させるのは、にっこりと笑いかけてやるだけでいいのだ、と董和は思ったが、さすがに差し出がましい口はきけない。
初対面なのである。
「ところで、こちらのお屋敷も、なかなかよい風情ですな」
唐突に、孔明が話を切り替えた。
董和は戸惑いつつ、首をひねる。
「わたくしは風流とほどとおい男でして、この庭も老爺が世話をしているだけですし、男三人ばかりの所帯ですので、あまり手入れが行き届いておりませぬ」
さようでございますかな。わたくしは気に入りました。
如何です、幼宰殿。こちらの屋敷を、わたくしに売ってはいただけませぬか」
「売る?」
あまりに意外な申し出に、思わず董和の声もひっくり返る。
「なにをいきなり仰いますやら。軍師将軍、このボロ屋はわたくしが成都に居を構えて以来、長らくすんでいた愛着のある屋敷でして、ほかには替えられないものでございます。
しかしその価値も、ここに住み、思い出を持っているわたくしだからこそある、というもの。
貴殿には、この屋敷でなくとも、もっとよい物件がございましょう。
それに、このあたりも、最近は治安が悪い。昨夜も羌族の男の死体が見つかったとか」
孔明の表情から、潮が引いたように、ほんの一瞬だけ、笑みが消えた。
それはほんとうに瞬く間であったが、そのわずかな間に、董和は、この男の、ほんとうの表情を見た。
それはとてつもなく冷たく厳しく、他を寄せ付けない類いのものであった。
この若さで、これほどまで孤絶な表情を持つことが出来るのか。
この男は、たとえ身内でも、おのれに叶わぬと見れば、あっさり切り捨てることのできる人間だ。
世情の論理が通用しない。
思わず、董和は身を震わせる。
自分もたいがい厳しい人間だと思っているが、この男は、もっと上回っている。
そうして、諸葛孔明が、この屋敷にやってきた理由を察した。
引越しのあいさつなどではない。
この男は、長星橋商店街と董和の結びつきを知っている。
そのために、みずから出向いて、董和を取り調べるためにやってきたのだ。
表だって役人を動かさないでいるのは、この男も、後ろ暗いところで、九門古城と繋がっているからなのだ。
緊張感あふれる沈黙がつづいたあと、不意に、孔明が笑った。
それは、いままでの愛想笑いとはまったく種類のちがう、なにやらどきり、とさせられる、婉然とした笑みであった。
うろたえる董和に、孔明は朗らかに言う。
「さすがに耳がお早い。昨夜の羌族の男は、それはむごい状態でございまして」
華やかな笑みを浮かべつつ、口にする言葉は血なまぐさい。
そこに違和感のないあたり、この男が修羅場に慣れていることが知れる。
「人に聞きました。ひどい拷問を受けた痕があったとか」
ほう、と孔明は笑みを崩さぬまま、器用に目だけを細める。
仕草のひとつひとつに、威圧感がある。
ひとまわりも年の違う男に、董和は圧倒されていた。
下手をすると、完全に呑まれかねない。
相手の意図がわからぬまま、おのれの手の内だけをさらけ出すようなぶざまな結果になることだけは避けたかった。
「幼宰殿、その話、いったい何者から聞いたのでございますか。その話、わが私兵と、趙将軍しか知りませぬ」
董和は内心、舌打ちをした。
喋りすぎた。誤魔化さねば。
そう思って口を開きかけた董和であるが、孔明に先を越された。
「まあ、貴方様は、以前は成都の令として、民望を一身にあつめた御方。わが兵は、荊州の者だけではなく、益州の者も組み入れております。
そのなかに、貴方様を慕うあまり、大切な情報を漏らしたものがいるのかもしれませぬなあ」
「いや、それは」
「ご安心なさい、咎め立てはいたしませぬ。あえて無礼を申し上げますが、貴方様はいま、無冠の身。
それに人品骨柄も正しく、むやみやたらと噂を流して、民の不安を煽るような方ではないと存じております。
それにわたくしも、案内を請わず、お屋敷に勝手に上がらせていただ後ろめたさもございますし、このことを問題にするのは止めましょう」
「かたじけない」
「よろしいのですよ。これでお互いに貸し借りはなくなった、ということになりますな」
と、孔明は声を立てて笑うのであるが、これで貸し借りがなくなったどころか、董和は、首根っこを掴まれて、押さえつけられたような錯覚をおぼえた。
「蜀という土地は、わたしのように、戦火から逃げるようにして流浪をつづけておりました身からすれば、おなじ中華とはおもえないほどに平和なところだと思っておりましたが、そうではないようですな。
栄耀飯店の周囲では、このところ、素性のわからぬ男の死体がいくつも上がっております」
「いくつも?」
思わず、董和は鸚鵡返しをしていた。
そんな話は初耳である。
すると、孔明のほうが、意外そうに眉をしかめた。
「おや、ご存じない? おっといけない、口がすべったか。
まあ、よろしいでしょう、成都の令であった貴方様の意見も伺いたい。
じつは、栄耀飯店を中心に、このところ、いくつも死体が出ているのです。それも、どれもあきらかに拷問を受けた痕がある」
「栄耀飯店の、そばで?」
「左様。年恰好はすべてちがっておりますが、気の毒に、どれも相当に痛めつけられた痕がある。
みな男で、成都の人間ではない。つまりよそ者です。
頻発しておなじ場所から、似たような死体があがる。面妖なこともあるとは思いませぬか」
「たしかに」
「気の毒な男たちは、ふしぎなことに、羌族であったり、漢族であったり、民族もばらばらなのです。
それに、一見すると物取りのようですが、時に彼らは高価な金子をそのまま持っていることもある。これもまた面妖」
「物取りでない、と?」
「人をひとり、殺めておきながら、肝心の金品を奪わぬ理由がわかりませぬ。
それに、死体はどれも、目についたところに置かれているのです。まるで見つけて欲しいといわんばかりにね。
ただの物取りであったなら、ふつうに警吏に任せるのですが、こうもつづくと、仮にも主公より成都の治安を預かる身ですゆえ、黙っておられませぬ。
しかし、ただでさえ政情の不安定ななかで、民を不安がらせる話を広めるのもどうか、ということで、このことは、伏せてあるのです。
おそらくこのことは、わたくしどもと、実際に死体を見つけている栄耀飯店の人間しか知らないことでしょう」
「栄耀飯店の者が、死体を見つけた、と?」
「そのとおり。あそこは、なにやらいろいろと楽しそうな噂の多い飯店ですな。
それはともかく、物取りではない、となると、どういう理由が考えられましょう?」
「脅しなのでは?」
「ほう? いったい誰の、だれに対する脅しなのです?」
それは、と言いかけて、董和は、ふたたび思いとどまる。
相手の口をゆるませる術に長けている男だ。
会話の呼吸がうまいのである。
それにしても、羌族の男の死体のほかにも、栄耀飯店の周囲で死体が見つかっている、とは初耳である。
張大人が、晴嬰たちが捕らえてきた男たちを拷問にかけ、しまいには仲間たちへの見せしめのために、死体を放置した、というのだろうか。
董和は、張大人という男をよく知っている。
たしかに残虐な男であるが、同時に慎重さもあわせ持っている。
たとえ見せしめのために死体を放置したにしても、わざわざおのれに疑いを向けられやすい、栄耀飯店のそばに置く、というのは、らしくない。
それより気になるのは、死体が昨夜のもののほかにも、いくつも発見されている、ということを、胡偉度はなぜ黙っていたのだろう。
「栄耀飯店は、この長星橋にあっても、もっとも儲かっている店。 商売敵が、嫌がらせを仕掛けてきたのでは?」
無難なところでまとめると、孔明は、むしろ興ざめしたように肩をすくめた。
「人命が紙よりも軽い当世ですが、もしそうだとしたら、ずいぶんと乱暴な連中ですな」
「裏社会の人間は、総じてそういうものではありませんか」
「なるほど、たしかに。しかし、このところ、盗賊どももめっきり減って、もしかしたらこれは法尚書令のお力ゆえかと感心しておりましたが、そこへこの事件ですからな。
枕を高くして眠れる日は、いつのことやらと思っておりますよ」
「まったく左様で」
「ただ気になるのは、盗賊どもが、いったいどこに行ってしまったか、ということです。
いくら法尚書令を恐れて大人しくしているとはいっても、盗賊どもの数があまりに少なすぎるとは思いませぬか。
一斉に盗賊どもが廃業したとも思われぬし」
「たしかに」
「そうではなく、彼らはどこかに集まっているのかもしれませぬ。
そう、たとえば地下とか」
董和は、はっと息を呑んだ。
孔明は、まさか九門古城のことまで把握している、というのか。
表情から探ろうとしたが、仮面のように笑顔で素顔を覆っており、本心がまったく読めない。
どうするか? はぐらかす? 正直に言う? さらに嘘を言うか?
「幼宰殿は、なにかご存知ありませんか」
「わたくしが、なにを?」
「いいえ、成都の令を勤められていた貴方様ならば、なにか思い当たることがあるのでは、と」
「残念ながら、思い当たりませぬ」
「それはまことに残念。幼宰殿、もしなにか思い出したら、わたくしに教えていただけませぬか。
わたくしと貴方様は、これから隣家同士ということで、助け合う間柄となるわけですし」
「わかり申した」
「それと、この屋敷の件も、なにとぞお忘れなきよう。気が変わられたなら、こちらもお知らせいただきたい」
と、孔明はそれまでの固い表情をころりと変えて、人懐っこい笑顔を向けてきた。
思わず、そうします、と返事をしそうになってしまうのだが、董和はおのれを叱って、踏みとどまる。
「残念ながら、その儀に関しては、朗報をお届けすることは不可能かと」
「さあて、人の心というのは変わるもの。いつでもお待ちしておりますよ」
孔明はそう言うと、養子の喬とともに、董和の前から去っていった。