捜神三国志・燭龍本紀

第九話 紅蓮の女神と下僕のものがたり

そも、ゾトアオが祝融を見初めたのは、ふとしたことがきっかけであった。

漢族が、ありったけの侮蔑をこめて、『南蛮』と呼び下す土地の、黒イの医者の息子として、ゾトアオは生まれた。
体格がよく、力持ちであったので、幼いころから近隣の子どもたちを率いて暴れまわっていた。
とはいえ、医者の息子として、時には父親を手伝って患者の手当てをしたり、あるいはそのあとの看病を手伝ったりしていた。
もともと、心根がやさしく、弱いもの、とくに年寄りや子ども、女(たまに男より強いものがいるので、それは除く)には、けして乱暴をはたらかなかった。

長じるにつれ、見た目はどんどん勇壮で恐ろしげなものになっていたが、虎のような髯と、毛虫のような眉の下に隠れた素顔は、とても愛嬌のある優しいものであった。
部族の者たちは、ゾトアオが見た目より、ずっと賢く、思いやりがあって、思慮深いということを知っていたので、自然と、ゾトアオを自分たちの中心に置くようになった。

黒イの中でも、部族同士の争いがあり、それは日々、繰り返されていた。
彼らはいつでも強い長を求めていたのである。
ゾトアオは、本当は争いが好きではなかった。
争いに巻き込まれて、ひどい目に合わされるのは、いつも無力な年寄りや子ども、女たちであったし、たとえ戦に勝ったとしても、負けた側から恨まれて、命を狙われるはめになる。
だから、なるべく頭を使って、人の血が流れないように努力した。
ゾトアオが、流血を好む恐ろしい男だ、という噂が黒イを中心に流れているが、それは自身が流したものだ。
相手の戦意をくじく戦略なのである。
 
ゾトアオの智恵と努力と、持ち前の怪力が物をいい、やがて、黒イの部族は争いをおさめて、ゾトアオを中心にまとまるようになった。

そして争いが終わる、というわけではない。
部族間をまとめたゾトアオが、つぎに立ち向かわなければならなくなったのは、今度は、漢族であった。
益州の太守として、劉璋がやってきてからは、民族間の争いは、どんどん深刻なものとなっていく。
なぜならば、劉璋を中心とした豪族たちときたら、彼ら異民族を総じて『蛮』と蔑んで、家畜以下の争いをしたからだ。
彼らは必要にかられれば、まるで柴を刈るようにして部族を襲撃し、奴隷にするために人を攫う。
そして、気分のままに虐げて、蟻を踏み潰すように、簡単に殺した。
埋葬すら満足にされず、その遺体はゴミのように河に投げ込まれた。
『蛮』は人ではない。漢族はそう思っていたから、たとえ殺された『蛮』に非がなかったとしても、罪にならなかった。
まだ漢という国がしっかりしているあいだは、ここまでひどい振る舞いをする者はいなかったのであるが、天下が乱れると、まさに人心も乱れ、思い上がった者たちは、欲望のおもむくままに、ゾトアオの国を荒らしまわったのである。

漢族は腐っている。
はげしい怒りとともにゾトアオは思った。
だから、復讐のため、郎党を率いて、漢族の村を襲撃した。
今度は容赦なく殺した。
心が冷え切っていた。
『蛮』と蔑み、一方的に殺戮を仕掛けてきたのは、彼らのほうである。
それに乗って、自分も殺すだけだ。
目に触れた漢族、すべてを。

いつしか、ゾトアオは冷たい人間になっていた。
もとが優しい男で、医者の息子として世に接し、尽くしてきただけに、現実に手ひどく裏切られたときの反動はすさまじかった。
自分で流した噂以上に、ゾトアオは恐ろしい男に変貌した。
容赦なく殺戮し、掠奪する。
漢族が軍を仕向けてこようと、上層部が腐敗しきっており、戦意のとぼしい軍など、すこしも恐ろしくなかった。
いくたびも返り討ちにし、かれらが『蛮』にそうしたように、漢族の遺体を河に流して捨てた。
水に膨れたその醜い死体は、下流の漢族の目に触れて、あたらしい『蛮』の長の名を、恐怖とともに巴蜀の地に広めた。

長老たちは、こぞって、昔はよかったのに、とぼやいた。
昔は、漢族にもよい男がいて、董幼宰というのだが、この男が成都の令であったあいだは、こんな流血惨事はめったになかった、というのである。
董幼宰は、漢族でありながら、どこかちがった。
まず、『蛮』を殺した漢族を、『人を殺めた』としてきちんと処罰した。
ほかの罪に対してもそうであった。
賄賂も圧力も、まるで通用しない、ろくでもない理想主義者、カタブツだといって、腐りはてた漢族の上流階級からはきらわれていたが、豪族の横暴に泣き寝入りしていた庶民や、『蛮』からは慕われた。
人を差別しない男だ、正義を愛し、不正をにくむ。
そしてとても公平な、信頼できる男である。
この人ならば、訴えを聞いてくれる、というので、『蛮』のなかでも、遠路はるばる成都の董幼宰のもとへ出かけ、相談を持ち込む者さえいた。

董幼宰は、『蛮』を『蛮』と呼ばない、非常にめずらしい漢族であった。
徹底した理想主義者というだけではなく、理想をかなえるために努力を惜しまない男であった。
そして、武のおそろしさをよく知っていた。
ここぞという場面でしか、兵士を使わなかった。

しかし、それも短いあいだであった。
董幼宰は、活躍をしすぎて、豪族の怨みを買いすぎたのだ。
賄賂や圧力ではどうにもならない、と計算した豪族どもは、董幼宰を劉璋に訴えて、巴東の僻地に左遷させるようにしたのだ。
それを聞いたひとびと…漢族の庶民や『蛮』たちは、こぞって劉璋へ訴えて、なんとか董幼宰を成都の令に留めてもらうように懇願した。
しかし、必死の懇願も、豪族の圧力に屈し、二年の任期延長という結果しかもたらさなかった。
結局、董幼宰は左遷されてしまい、ふたたび、暗い時代が訪れた。 

董幼宰のような男は、どこでも慕われる。
あたらしい赴任先の巴東の地でも、彼らは民衆にしたわれ、おなじように、任地に期間以上、留任することとなった。
成都に呼び戻されると、益州の太守になった。

董幼宰が戻ってくる、との報せを聞いたとき、みな大喜びでこれを受け入れたという。
偉くなっても董幼宰の態度はかわらず、むかしとおなじように弱いものを慰撫し、豪族の横暴をことごとくはねつけた。
だが、残念なことに、もはやそれは付け焼刃であった。
益州の豪族たちは、堕ちるところまで堕ちていた。
董幼宰ひとりが、どれだけ奮闘したところで、もはや情勢が変わることはなかった。
兵士たちの目を光らせ、どんなに法科を厳しくしても、豪族たちは奢侈をやめようとせず、贅沢をするための奴隷を狩ることをやめず、虐待をやめなかった。
 
そんななか、情勢が変わった。
劉璋が、劉備とかいう、むかしの漢族のえらい人の子孫を名乗る男に追い出されたのだ。

豪族どもがあわてふためいているのを見、ゾトアオは、いまこそ天機なり、と思った。
そうして、国境に程近いところにいる豪族を、つぎつぎと襲撃してまわった。
奴隷として攫われた同胞を救うためと、報復のためである。

劉璋の主だった兵士は、みな成都に集められており、手薄な国境は、いつもよりたやすく落ちた。
豪族の屋敷をいくつも焼き払い、掠奪をほしいままにした。
かつてない戦果であった。
このまま、混乱する成都に攻め上ろうと言うものさえいた。
ゾトアオも、すこしその気になっていた。


 
ある村落を襲ったときであった。
いつものように襲撃を仕掛け、逃げ惑うひとびとを追い散らし、火矢を射掛けて家屋を焼き払った。
目につくものはすべて殺した。
老若男女関係なかった。
家畜は奪い、蔵のものはすべて、荷車につめて持ち帰った。

ある女が、子どもを抱えて、炎の中を、けんめいに逃げていた。
ゾトアオはそれを追った。
逃げ切れないと悟った女は、観念し、ひざまづいて懇願し、自分がどうなってもかまわぬから、子どもだけは助けてほしい、と言った。

なにをいまさら、とゾトアオは思った。
おなじ言葉を、おまえたちが『蛮』と蔑む民族の女たちは、おまえたちの同胞に訴えつづけてきた。
だが、おまえたちは聞き入れなかった。どれだけの女が、憐れみもかけられず、陵辱されつづけてきたと思っている。
虫のよいことを言うな。おまえもここで死ぬのだ。
おれはおまえたちと違うから、おまえを、ただ殺すだけにする。観念するがいい…

刃を振り下ろした瞬間に、するどい檄音とともに、刃が跳ね飛ばされた。
ありえない。
いままで、自分の刃を受け止めることができる人間さえ、この世に存在しないと思っていた。
それが、受け止めるどころか、跳ね除けられさえした。
そして、自分の刃を跳ね飛ばした者をみて、ますますおどろいた。
炎のような紅蓮の鎧に、漆黒の闇を切り取ったようなマントを羽織った、目も覚めるような美しい女がいた。
炎に巻かれた村のなかに立つその凛々しい姿は、女神の降臨を錯覚させた。
烈しい炎を宿した瞳が、じっとゾトアオを射抜いている。
そのかたちの良い赤い唇が、ゾトアオにむけて言った。
「おまえが、近ごろ黒イをまとめているという、ゾトアオだね?」
「そうだ。そういうおまえはだれだ?」
「わが名は祝融。黒イの族長アジョリトの娘だ。なぜ、こんな真似をするのだい?」
 
アジョリトは、黒イの宗家ともいうべき部族の長であった。
そこの娘というならば、姫と呼んでも差しつかえない。
道理で、とゾトアオは、その見事な肢体と、炎に浮かびあがる華麗な美貌に見とれた。

「あんたもおれとおなじ黒イなら、漢族への怨みもわかるだろう?」
「それはわかる。だがね、おまえはむやみやたらと殺してまわっているだけじゃないか。黒イの部族をまとめるにふさわしい英雄だと、ひとが噂をしているから、どんな男だろうと思ったら、ただの猪とはね、がっかりだ」
「祝融とやら、あんたはきっとみなにかしずかれてきたお姫様だから、漢族のやり口が、どれほど汚いか知らないのだ。
こいつらは、どんな目に遭わされても文句のいえないことを、ずうっとおれたちにしてきたのだ。
あんたも黒イの女なら、だまっておれのしていることを見ているがいい。さあ、そこをどいてくれ」

が、祝融は、そんなゾトアオの言葉を、鼻で哂った。
「正義のために戦っている、とでも言いたいのかい? 
これはほんとうに馬鹿だね。あんたがあちこちで人を殺してまわっているおかげで、黒イだけじゃない。苗族も羌族も、ほかのどの部族も迷惑を受けているのだ。
あきれたほどに視野の狭い男だね。さっき、あっちにいる男に聞いたのだけれど(その『あっちにいる男』は、家畜小屋の横で、したたかにぶん殴られたらしく伸びきっていた)、このまま成都に攻め上がろうと考えているそうじゃないか。
だったら忠告しておく。やめておきな。おまえたちは、みんな全滅するよ」
「黒イの姫ともあろう女が、漢族に怖気づいているのか?」
「怖気づく? あたしが? 冗談じゃない。あたしはね、おまえよりも、はるかに世の中というものを見通しているのさ。
劉璋を追い出した劉備軍は、思った以上に手早く成都をまとめている。
そのうち、いい気になっているおまえを討ちに、すぐに南下してくるだろう。
ほんとうに成都に攻め上がるつもりならば、もっと早くに動くべきだったね。
間者の報告じゃあ、荊州からやってきた兵士の中には、劉璋があんまりあっさりと降伏しちまったので、戦い足りないと不平を鳴らしている者もいるらしい。
おまえがこのまま暴れ続けたら、連中にいい口実をあたえて、あたしたちはみんな、もっと酷い目に遭わされる、っていうことさ。
そんなこともわからないのかい? だから、こんなちっぽけな村を襲って、命乞いをしている女を殺すくらいしか出来ないのだよ」
いいざま、祝融は、泣きじゃくる子どもをしっかり抱えて震える女に、言った。
「行きな。命は助けてやろう。ただし、これを恨んで報復しにきたら、今度は容赦しない」
女は、祝融の言葉に何度もうなずいて、這うようにして逃げていった。

「おまえは、ほんとうに、天下を取ろうと思っているのかい?」
祝融は、ぞくぞくするような挑戦的な眼差しを、ゾトアオに投げてきた。
「もちろんだ。蜀は古来、おれたちの土地であったのだ。それを漢族から奪い返すのは、おれたちの悲願だろう」
「ほんとうに、そう思っているのかい?」
「ほんとうだとも」
「なら、お聞き。『九門古城』の伝説は知っているだろう? そいつが、成都で見つかったらしいのだよ」

ゾトアオはおどろいた。
幼少のころに、長老から聞いた『九門古城』の伝説は、もちろん知っている。
しかし、それはあまりに古い時代の、壮大すぎる昔話であった。

むかし、大地は二つの勢力に分かれて戦い、結果、大地は炎に焼かれて、人々は住む場所を失い、つぎつぎと死んでいった。
残ったわずかなひとびとは、地下に城を作り、炎が治まるのを待ち続けた。
それが『九門古城』である。
古城は難攻不落の砦でもあり、敵をおびき寄せるための八つの門があって、そのうち、一つだけが正しい門である。
ひとびとは、そこで『敵』と戦ったが、結局、籠城しきれずに、降伏し、土地を追い出された。
『敵』は古城の存在自体を恐れて、地中にそれを埋め、だれの耳目にも触れないようにした。
だからあとからやってきた漢族はもちろん、『九門古城』のことなど知らないし、九門古城を作った子孫たちも、いつしか時代に流され、ばらばらになってしまい、わずかにイ族のごく一部の語り部が、その物語を伝えるに留まっている。

「話はそれだけじゃない。どうやら『九門古城』には、『得れば必ず天下を取れる宝』が隠されているらしい。
あたしたちのご先祖が用意した、あたしたちのための宝だよ? それを、あろうことか、漢族の愚図どもが、奪おうとしているのだ」
「得れば必ず天下を取れる宝? どんなものだ?」
「さあね。長老たちに聞いて見たけれど、そんな宝は聞いたことがない、と言われたよ。
ゾトアオ、おまえは、ちまちまと嫌がらせみたいに、国境の漢族をいじめているだけで満足なのかい? あたしと一緒に、九門古城へ潜ってみないか? 
そうして『得れば必ず天下を取れる宝』を探りあて、ご先祖さまの悲願を果たすのだよ」
 
もし、ほかの人間から申し込まれた話ならば、見かけによらず慎重なゾトアオは、そんな荒唐無稽な話には乗れぬと一蹴しただろう。
しかし、祝融は、すばらしく魅力的であった。
ゾトアオは、炎の女神が降臨し、自分に語りかけているのではとさえ錯覚した。
そしてゾトアオは、祝融の申し出を受け、そして共に成都へやってきたのだった。



「なんだかいま、剣戟が聞こえなかったかい?」
と、祝融が足をとめて振り返った。
『九門古城』に入ってからの祝融は、まさに黒のマントを羽織った女豹のようであった。
蝋燭にほのかに浮かび上がる道を、するどい勘で渡っていく。
いままで一度も行き止まりにぶつかっていない。

「祖霊が、あたしに呼びかけているのだよ」
と、祝融は言った。
そうかもしれない、とゾトアオは思った。
ここへくるまでに、ゾトアオは何度か祝融に求婚していたが、そのたびに、こっぴどく跳ねつけられた。
どんなに立派な宝をささげても、漢族の奴隷をあたえても、祝融はにこりともしなかった。
その頭の中にあるのは、九門古城の中に眠るという、『得れば必ず天下を取れる宝』のことだけらしい。
つまり、それを見つけ出してささげないかぎり、祝融は諾、と言ってくれないのだ。

幼い日に聞いた伝説を、こうして現実として目の当たりにしているわけであるが、ゾトアオは、気分が高揚するどころか、なにか、不気味な予感に包まれていた。
古城の入り口に立ったとき、やはり、おなじように三人の男が、中に入ることをためらっていたが、その気持ちがよくわかる。
この古城の闇は濃い。
まるで粘り気のある生き物のように、身にまとわりつく。
どこからか風が入っているらしく、呼吸が苦しいこともないし、地上よりむしろ涼しいのだが、どこか圧迫される。
不意に、物陰からなにか異形のものが襲ってきてもおかしくない。

ゾトアオは、自分が勇敢な人間だと信じている。
だが、同時に、慎重で鋭敏な人間だということもわかっている。
だから、ずんずんと先に進む祝融の背中を追いかけながら、なぜ自分は、これほどまでに恐怖を感じているのだろう、と思った。
たとえ、たったひとりで漢族の集落を襲ったとしても、これほどの重圧と息苦しさを感じることはないだろう。
「しかし、思った以上に人がいないね。たしかに張大人が言ったとおり、夜は盗賊たちも眠るので、この時間がいちばん空いているということか」
「でもおかしくないか。盗賊たちは、自分たちが引っ込むときも、持参した蝋燭を回収して地上に戻る、と言っていたじゃないか。
なのに、蝋燭はそのままだ。連中は、もっと先にいる、ということじゃないのか」
「そういうことかな。とすると、この先で、宝をめぐって、だれかが戦っているのかもね」
と、こともなげに祝融は言う。

祝融が、ハンパな武将などより、よほど腕が立つことは、成都にまでいたる道中でよくわかっていたから、戦いに関しては、さほど不安はなかったけれど、気にかかるのは、祝融の美貌にほれた男が、いま、自分がこうしているように、祝融に付きまとうことがないだろうか、ということだ。
しかも祝融は、自分より強い男の妻になる、と公言している。
それがどんな部族の人間でもかまわない、というのだから、あきれたものだ。
仮にも黒イの姫が、黒イ以外の人間の妻になるなど、考えられない。
祝融の父のアジョリトが、よく娘のワガママを聞いているものである。

「ご覧よ、ゾトアオ。あたしたちのご先祖というのは、ほんとうに偉大だったのだよ。すばらしい彫像じゃないか! 
部族のみんなにも見せてやりたいね。漢族には、これほどすばらしいものを作れやしないのだ」
祝融の言った先には、一本の木に、炎がいくつも宿り、その周囲を竜が飛んでいる、という図柄の彫像があった。
竜の数は九頭。複雑な枝振りを見せる木に、さまざまな姿態を見せて炎を吐いている。
洗練された図柄である。祝融が誇るのもむりはない。
おれたちの先祖は、かつてはこの地を治めて、高度な文明をきずいていたのだ。
そう思うだけで胸があつくなり、息苦しさも忘れる。
この古城が、いまになって姿をあらわしたのも、祝融がいうとおり、祖霊が導いてくれているのかもしれない。
 
「ほら、二階層目へ下りる階段だよ。張大人め、あたしたちが二階層目へ行く階段へたどり着けるのは、数日後になる、なんて言っていたけど、どうだい、たった一回で見つけられたじゃないか。
これは、あんがいはやく『得れば必ず天下を取れる宝』を見つけられるかもしれない」
「だといいがな」
「なんだい、気のない返事だね」
「いや、あまりにあっさりしすぎていて、な。おまえの勘がすごい、というのはわかったが、ほかの盗賊たちも簡単にこの階段を見つけたわけだろう? 
もし宝を隠すなら、こんなに簡単な一本道で、地下へ降りられるものだろうか」
祝融は、きつめの美貌をさらに険しくして、息を吐いた。
「ほんとうに馬鹿だね、おまえは。あたしたちがいま、一本道でここまで来られたのは、盗賊どもが、あたしたちの前にここを通って、たくさんあった仕掛けを解除していてくれたからだよ。
ま、盗賊といえども、その点には感謝してやってもいいかな。さあ、二階層目へ降りようじゃないか」
 
そのときである。
きつい臭いがした。
嗅ぎなれた、いまわしい、血の臭いである。
「女がいる」
と、地の底から響くような、不気味なしわがれた声がした。
いつのまにそこにいたのか、目の胡乱な、短いざんばら髪の男が、血だらけの武器を手に、そこに立っていた。
ひと目でわかる。
正気を失っている罪人だ。
巨躯の持ち主で、血を大量に浴びた鎧は使い古されたものであり、この男が、いくつもの戦場を駆け抜けてきた猛者だということをあらわしている。
 
まずい。
ゾトアオは武器を取って、祝融をかばうようにして前に立った。
祝融もまた、緊張した面持ちで、腰に差した剣を抜く。
それを見て、短髪の男は、不気味に、にやりと目を細めた。
「儂と遣り合おうというのか、愚かな。やめておくがいい。
その武骨なものをしまって、黙ってこっちにこい。大人しく言うとおりにすれば、痛い目には合わさぬぞ」
その言葉は、すべてゾトアオの背後にいる、祝融に向けられたものだ。
祝融は答えず、剣を構えた。
「永年、ここにいたのか。まったく、ここに潜るのも、はや三回目となるというのに、また迷ってしまったぞ。
空が見えないと、これほどまでに方向感覚が狂うものなのか……おや、どうした」
あきれるほどに、のん気で涼やかな声がした。

この狂気にとらわれた罪人の相方としては、まったくふさわしからぬ、颯爽とした美貌の男があらわれた。
ひと目で羌族の血を引いているとわかる、高い鼻梁、彫りの深い顔立ち、浅黒い肌。
手足はがっしりしていて長く、馬上の生活をもっぱらとする男のそれだ。
手には男の背丈よりもなお高い、立派な槍を持っている。
男は、永年、という字の男が、にやにやといやらしい笑みを浮かべて見ている方向に目を動かした。そして、感嘆する。
 
「これはなんと美しい! お初にお目にかかる、わが名は平西将軍、馬孟起。女神の如き女武者よ、ご麗名をお聞かせいただきたい」
馬鹿丁寧に、作法どおりの流れるような拱手をしてくる。
余裕なのか、ふざけているのか、本気なのか…全部のように見える。
「あたしの名は祝融。黒イの長アジョリトの娘だ」
「祝融! なんと似つかわしい美名か。それがしのことは孟起、とお呼びくだされ、女神よ」
「馬孟起! 曹操すら震え上がらせたという、涼州一の武将、錦馬超だね?」
「おお、わが名をご存知とは。光栄の至り。しかし女神よ、このような血なまぐさい場所で、いったい何をされているのですか」
「決まっているだろう。『得れば必ず天下を取れる宝』を探しているのだよ」
「さようでしたか、それは奇遇ですな。それがしも同じものを探しているのです。となると、われらは敵同士、ということになりますかな?」
「孟起、この女、二人でやっちまおう」
と、永年が舌舐めずりするようにして言う。
ぞっとすることであった。
なにがあっても、祝融を、こんな薄汚い男に奪われてなるものか。
馬超は、永年の言葉に、眉をしかめた。
「莫迦を言うな。女には手を上げないのが俺の信条だぞ」
「この女も、さっきの盗賊たちと一緒だ。おれたちの邪魔をする」
「そうとは決めつけたものでもなかろう。美しいお方、それがしが出口へ案内いたします。ですからどうぞ、ここからお出になって、二度と立ち入らぬと約束しては下さいませぬか。
あなたと戦うことは、それがしには出来かねるのです」

馬超の申し出に、しかし祝融は、顎をつんとそらして答えた。
「そうはいかないよ。この古城は、もともとあたしたちのご先祖が作ったものだ。だから、隠された宝も、あたしたちが得る権利がある。
なんと言われようと、出て行くわけにはいかないのだ」
「それは残念ですな。ならば、力づくで追い出すしかありますまい」

いいざま、ぶん、と馬超は槍を振るった。
その巻き起こす風だけで、するどい衝撃が伝わる。
いままで漢族の武将と、何度となく刃を交わしてきたが、この男は段違いだ。
音でわかる。相当の使い手だ。

「おれは無視か、きんきら馬超とやら。なにがあっても、祝融には手を触れさせぬ!」
「おお、すまん、忘れておった。女神に従者はつきものだ。とりあえず、名前を聞いておいてやろう」
「黒イのゾトアオだ」
「うむ、知らん。墓を建ててやる前に忘れてしまったら、許せ」

 軽く言いざま、馬超はぶん、と槍をふりかざした。
ゾトアオは、巨漢に似合わぬ敏捷さで、それを避ける。
槍の起こす風だけで、身を切られそうな錯覚をおぼえる。
見た目はゾトアオよりだいぶ華奢で、腰などは細くて、女のようであったが、持てる力は百人力ということか。
槍、というのは間合いがとりにくい。
剣と槍とであれば、剣の使い手であっても苦戦する。
ただし、槍の問題点は、狭い場所だと扱いがむずかしい、ということだ。

ゾトアオは、馬超がふたたび槍を構えるより早く、剣を振りたてた。
熊のような外見からは、想像もつかないほどに俊敏な動きである。
燕のような速さのそれは、交わされても追いすがり、右へ、左へと馬超を追い立てる。
馬超は足場を徐々に後退させていく。
二階層目の階段のある付近へ。

馬超はそれでも、余裕たっぷりにゾトアオの攻撃をしのぐ。
一撃一撃が、どれも渾身のものなのであるが、こうもたやすくかわされてしまうと、焦れてくるし、息が上がるのも早くなる。
馬超もそれをわかっていて、余裕の態度でいるのだろう。
だが、その余裕こそが狙い目なのだ。
馬超は面白そうに、薄笑いを浮かべて、必死の面持ちのゾトアオを見下ろしている。

「ほらほら、どうした、これでは子どもの遊戯だな。それとも小熊の調教か」
こしゃくな男だ。
だが、徐々に自分の体が、階段のまん前に来ていることに、気づいていない。
「墓石はまだ必要ないわ!」
叫びざま、ゾトアオは、渾身の一撃をお見舞いした。
しかしそれも、馬超はあっさりかわし、左足をすこし後ろにやって、それから、ぐらりと身を揺らめかせた。
そこではじめて階段が背後にあるということに気づいたらしい。
蝋燭のか細い明かりのみが頼りの、この視界のせまい空間で、馬超はおのれの足場を見誤っていたようであった。
こんな莫迦なとでも言いたそうに、馬超は、二階層目へつづく階段の、ぽっかり開いた闇の中へ落ちていった。

「ゾトアオ!」
祝融のするどい声に振りかえると、短髪の男、彭恙が、こともあろうに祝融を羽交い絞めにしているところであった。
馬超と対峙しているときは、このうえなく冷静であったゾトアオであるが、祝融の姿を見て、かっと頭に血がのぼった。

「おのれ、祝融をはなせ!」
しかし彭恙は、野太い片腕で祝融を拘束したまま、もう片方の手でゾトアオの一撃をかわす。
こちらも相当の使い手らしい。
「小うるさい孟起がいなくなったところで、存分に楽しませてもらおうぞ」
と、彭恙は言うと、蛇のように長い舌を、祝融の耳に伸ばす。
そのぶきみな感触に、気丈な祝融もちいさく悲鳴をあげた。
そうして、身じろぎをして、腕から逃れようとする。しかし、彭恙は岩のようにびくともしない。
「離せ、離せったら!」
祝融は、それでもなお抵抗を示し、背後にいる彭恙の腕や顔に、爪を立てたり、つねったりしている。
だが、さして有効ではないようだ。
「くそっ!」
ゾトアオは、ふたたび彭恙に向かって剣を振りかざした。
彭恙は、祝融を片腕で抱えるようにしたまま、身をひねり、剣戟を繰り出すゾトアオに、返しの刃を送ってくる。
その表情もまた、ぶきみに歪んでおり、いたぶることを楽しんでいる、豹のそれに似ている。
「このっ!」
羽交い絞めにされた祝融の片足が、背後にいる彭恙むけて蹴りを加える。
しかし大木を蹴っているように、まるで動じない。
どころか、数回目のけりは見事に体からそれ、壁にある、炎を吐く竜の彫像のうち、一匹の竜を蹴っただけに終わった。
 
だがそのとき…

遠くで、ごおん、と、岩の移動したような音が聞こえた。
はっとしたのもつかの間、今度は、この部屋自体がはげしく揺れはじめた。
見ると、祝融が蹴った龍は、きれいに凹んでおり、それはなにかの仕掛けと連動していたらしい。
ぶきみな地響きが、九門古城ぜんたいをつつみはじめた。

しかし、この揺れのおかげで、彭恙の腕がゆるんだ。
隙を逃さず、祝融は手を伸ばして彭恙の胸倉をつかむと、しなやかに身をかがませて、大きく前方へ投げ飛ばした。
「ゾトアオ! とどめを!」
祝融のするどい声にはじかれるようにして、ゾトアオは地に伏した彭恙に向けて刃を振り下ろした。
だが、彭恙はすばやく起き上がると、徒手空拳のまま、ゾトアオに飛び掛ってきた。
体勢を整えられないまま、均整をくずして、ゾトアオは背後に倒れる。
ちょうど、例の炎を吐く龍の壁に、叩きつけられる形となった。
 
ずぼり、と奇妙な感覚があった。
石に呑まれる。

起き上がることができなかった。
壁は、まるでゾトアオを待っていたかのように、ぴったりとその体格のままにくぼみを作り、そのまま飲み込んでいく。
石ではなかったのか、という奇妙な連想が浮かんだが、それもまちがい。
壁は仕掛けになっており、ここにぶつかってきた者たちを、そのまま背後の隠し扉へ飲み込む仕掛けになっていたのだ。
「ゾトアオ!」
祝融が手を伸ばした。それを掴もうとするが、手が届かない。
わずかに指先が触れた。
だが、それきりであった。
全身を、不安な浮遊感が包み、落ちていくおのれの身体を、ゾトアオは意識した。
そうして、闇のなかに、意識を溶け込ませていった。

「ゾトアオ!」
祝融の叫びもむなしく、壁はゾトアオひとりを飲み込むと、ふたたび元の姿を取り戻した。だが揺れは続いている。
背後に気配を感じ、祝融は振り返った。
彭恙が、性懲りもなく、またも祝融に手を伸ばそうとしているのだ。
祝融は、さきほど落としたおのれの剣をひろい上げると、揺れで足元の定まらないなか、男を払いのけた。
命中はしなかったが、ひるませるに十分だった。
逃げるわけにはいかない。
ゾトアオは、この壁の向こうに閉じ込められてしまったのだ。

その燃えるような眼差しに、彭恙は楽しそうに目を細めた。
女がはげしく抵抗すればするほど、喜ぶ類の男なのだ。
祝融は、剣をかざした。
この男の精神は、狂うまでもなく、汚れ果てている。
憐れみや慈しみなど、かけらもない。欲望に満ちた眼差しが、そう語っていた。
こんな男の意のままになんぞ、なってたまるものか! 
 
ゾトアオほどではなかったが、祝融の剣檄も早かった。
ふたたび槍を手にした男に、目にも止まらぬ速さで打ちかかる。
だが、男は一行に引く気配がない。
足元がおぼつかないなかでも、まるで根が生えたようにどっしり構えている。
狂っているように見えても、武芸の勘までは狂わせていない、ということだ。

祝融がふたたび剣をかざそうとした、そのときである。
がくん、とひときわ激しく振動がやってきた。
と同時に、信じられないことに、周囲の床板がせり上がってきたのだ。
まるで、祝融を守ろうとしているかのように。
男は、事態を察して、祝融に飛びかかろうとしたが、それより床板の動きの方が早かった。
目線とひとしい高さまでに壁がせりあがってくると同時に、どん、と男が壁に衝突した音が聞こえた。
そして床板は、ぴったり天井までせり上がると、完全に、祝融と男をへだてた。
あらたに、祝融のための小部屋が作られたようなものであった。
 
男が、壁の向こうで、はげしく叩いている。
しかし、壁はびくともしない。
ほんとうに、祖霊が守ってくれているのだ、と、祝融は信じた。
そうでなければ、こんなことが信じられるだろうか?
敵から身を守るために作られたという『九門古城』。
いままさに、子孫の危機を見事に救ったのである。

「そうだ、ゾトアオ!」
祝融は、ふたたび沈黙をはじめた彫像の壁の、あちこちを触った。
叩いたり、撫でたり、蹴ったりもしてみた。
しかし、どういった仕掛けになっているのか、壁は完全に沈黙し、ゾトアオを隠したときのように、凹んでみせたりしなかった。
男たちから逃れられたのは幸いだが、最悪の可能性が生じた。
このせまい空間に、たった一人で閉じ込められてしまったのだ。
辛うじて、手持ちの松明がまだ明かりを保っているが、それがなくなってしまえば完全な闇。
それに、この密閉空間で、空気がどれだけ持つだろう。
祝融は、やっきになって、目の前の壁に体当たりしたり、あちこち触ったりしてみた。
しかし、駄目であった。
そのうち、だんだんと呼吸が苦しくなってきた。
動くと、さらに空気が薄くなる。
新しく出来た壁の向こうの音は、まるで聞こえなかった。あの男たちは、まだ外にいるのだろうか…
 
だんだんと意識が朦朧としてきたころ、ふたたびあたりが振動をはじめた。
みると、九頭の龍のうち、1頭の部分が、押してもいないのに凹んでいる。
同時に、祝融を閉じ込めていた、床板の壁が、ゆっくりと降下をはじめた。
祝融は、剣を抜き、外で待っているかもしれない男たちに備えた。
だが、杞憂であった。
目の前には、もうだれもいなかった。
いや、ほんとうはいたのであろう。

回廊のところどころに灯されたままになっている蝋燭の下には、血まみれで倒れている盗賊たちの、死屍累々の姿があった。
どれも一撃で殺されている。
さっきの男と、錦馬超の仕業にちがいない。

ともかく、ここはひとりでは無理だ。
ゾトアオを救うにも、だれか仲間を呼んでこなくてはなるまい。 

屍を踏み越えて行くと、前方で、盗賊たちが、壁に向かって騒いでいるのが見えた。
ほっとしたことに、なかには女の姿もある。いきなり襲い掛かってくることはないだろう。

馬超と彭恙の姿はどこにもなく、どこかへ行ってしまったようだった。
盗賊たちの前方にある壁は、祝融がここへ来たときには、なかったものであった。
「おお! 開くぞ!」
と、だれかが叫んだ。
そのとおり、扉はゆっくりと、まるで見えないだれかが開いているかのように、壁に飲み込まれるようにして、左右にしまわれていく。
そうして、開いた先には、盗賊の仲間たちが待ち受けており、閉じ込められて混乱を起こしていた仲間たちを出迎えていた。
そのなかに、張大人の姿もあった。

十話へつづく…
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