捜神三国志・燭龍本紀
四話 休昭、朋友に打ち明ける
一日は、あっという間に過ぎた。
ともかく、どこになにがあるのかを記憶するのに手一杯だったのだ。
先輩官吏にどやされながら、必死になって職務をこなし、右往左往している間に、一日が終わった。
休昭の心は塞いでいた。
父の方針に従い、幼い頃から、贅沢品のひとつも与えられてこなかった休昭は、使い古しのオンボロ鹿車の停めてあるところへ、とぼとぼと歩いていく。
良家の子弟の場合、りっぱな馬車に、りっぱな身なりの御者がついていて、ご主人のあらわれるのを待っているのだが、休昭の場合は、みなの目を避けるようにして、眠たそうな目をした、とても綺麗とは言いがたい斑点模様のちいさな馬とともに、無人のそれが待っている。
馬も、見た目が悪いものの、馬力がある、といって、董和が市場から安値で買い取ってきたものだ。
この鹿車のよいところといえば、泥棒も遠慮するくらいボロなので、盗まれない、ということだ。
休昭の心を塞いでいる原因は三つあった。
父
友
上司
わかりやすい取り合わせである。
「おおい、休昭、待ってくれ!」
追いかけてきたのは、朋友の費文偉であった。ふたつ年長の文偉と休昭は、親同士に親交がある、ということから付き合いが生じ、たがいに年の近い兄弟がいなかったせいもあり、仲良くしていた。
が、休昭は、今日は文偉に会いたくなかった。
「どうしたのだ、黙ってさっさと行ってしまって。冷たいではないか」
うむ、と目を合わさずに休昭は言う。
できることならば、そのまま黙って鹿車を走らせ、屋敷に戻って、ひとりになりたかった。
そんな休昭の様子に気づかず、文偉はつづける。
「いやはや、宮仕えというのは退屈なものだな。そうは思わぬか。わたしには向いていないのかも知れぬなあ。
それに、近頃は蝋燭と油の値段が上がっているから、残業はしないように、だと。まさか、そんなとんでもないことを、だれがするものか」
と、文偉は無邪気にけらけらと笑う。
この友は、あれこれ画策して物を言う、ということができない。その言葉に裏などないことを休昭は、よーく知っているのだが、それでも今日は素直に聞けない。
「どうだ、今日はどこかに寄っていかぬか」
くいっ、と文偉は杯を傾ける仕草をする。
とてもそんな気分になれない休昭は、暗い顔をしたまま、よしとく、とだけ言った。
酒…とくれば、どうしても酒家、父、と連想してしまう。
今朝早くに、目の下にクマを作って現われた酒家の女、晴嬰の姿が浮かぶ。
そして、父は明け方まで帰ってこなかった。
「具合でも悪いのか」
文偉はようやく、朋友の様子がおかしいのに気づいた。
遅いのだよ、と甘ったれ気質の休昭は思う。
そうして、やっとちゃんと言葉を発した。
「具合は悪くない。いろいろ思うところがあるのだ」
「ほう、どんな」
「いろいろ、だ。おまえ、明日も仕事があるのだぞ。なのに、今日も酒家か」
文偉は酒豪である。
ともかく飲む。さまざまな口実をつけて飲む。貧乏なのに気にせず飲む。
昨日も、初出仕記念、といって、夜更けまで、ずうっと飲んでいた。
「それが人生の楽しみだぞ。なんだ、つまらぬ。おまえが行かないのであれば、だれか誘うか」
一度でも挨拶を交わせば、すぐに友と見なす、人好きの文偉は、手ごろな相手はいないか、とあたりを物色する。
新人官吏としては、あまりに大胆な態度であった。
こういうのを淫らというのではないかしらん、と思いつつ、休昭は帰り支度を始める。
ブチの小馬が、大きく鼻息を鳴らした。
「なんだ、ほんとうに帰ってしまうのか」
「ほんとうだ。では、明日な」
「待て、待て。なんだか気になる態度だな。おれは何かしたか? 気に障ることがあったなら言ってくれ」
「なにも」
事実、文偉はなにもしていない。
仕事はしていた。
休昭と同じ仕事を割り振られたのだが、おどろくべきことに、文偉はぶつくさ言いつつも、おそるべき速さで仕事をこなし、一度言われたことは、けして忘れず、物の在り処もすぐに覚えた。
これには上司もおどろいて、費家の人間は優秀だ、さすがは費将軍(費観)のお身内なり、と褒め上げた。
しかし、一方の休昭は悲惨であった。
まず、緊張のあまり、上司の指示を聞きまちがえた。
言われた竹簡を書庫から出せなかったばかりか、あせっていたために、整然と積まれていた竹簡の山を崩してしまい、しかも物の在り処がわからず、先輩官僚に何度も質問したため怒られた。
これを見て上司は、さすがは父親が免官になっただけのことはある、と、ぼそりと言った。
「うむ、もしかして、さきほど尚書さまに言われたことか」
天真爛漫な気性なくせに、直感が異様にするどいのは文偉の特徴である。
友の表情で、然り、と悟ったか、文偉は言った。
「おれはあの方は好かぬな。身内が偉ければ、おれも偉いという道理がさっぱりわからん。
それに、よりによっておまえの父上のことを、あのように言うなど、信じられぬ」
「嫌なやつだ」
「そうとも、実に嫌なやつだ。みなも言っておったぞ、あんな嫌なやつはおらぬ、人を出自で贔屓してばかりいる、とな。
落ち込むな、休昭。こたびの人事はなにかの誤りだ。幼宰さまは、やがてみなが納得する高位に復帰なさる。そうなれば、あの上司もおまえにへこへこするだろうよ。
そのときの顔を想像して過ごそうではないか。どんな顔をするかな」
さっそく文偉は想像をしたらしく、ははは、と高らかに笑った。
「おまえは本当に暢気だな」
「すまぬ。これは生まれつきだ」
記憶力のよいのも、性格がよいのも、生まれつきなのだろうか。
父母を早くに亡くし、伯父を頼ったものの、戦乱に巻き込まれ、荊州より蜀へ疎開してきた、というのが文偉の生い立ちである。
くわえて、蜀でおちついた、と思ったら、今度は政権交代。
劉璋の姻戚、という肩書きは、新しい主公にとっては、けしていい印象は与えない。
文偉は、自分では想像もつかないほど、世の中の醜い部分も見てきただろうし、嫌な思いもしたはずだ。
それなのに、どうしてこれほどに明るく笑うことができるのか。
『わたしはなんと性質の厭らしい人間なのだろう。おのれの至らぬところを文偉のせいにして、腹を立てているのだ』
至らぬところは、努力して矯正するしかない。今日から、読書量を倍にしよう。父上によい書を選んでもらって…
「おい、やはりおかしいぞ、ため息なんぞついて」
と、文偉は、今度こそ心配そうに顔を覗きこむ。
今日は曇天があたりまえの成都では、めずらしく一日中晴天がつづいた。
卵黄のような太陽が、ゆっくり西の空に落ちていく。
焼けるような空の中、鳥が群をなして去っていくのが見えた。
「文偉、父上が、再婚なさるかもしれん」
「なに、それは目出度い」
身を乗り出してはしゃぎかけた文偉であるが、一人だけ先に夜を迎えたような顔をしている友の表情に、気持ちをしぼませた。
「おまえ、それでそんなに落ち込んでいるのか」
「落ち込みもする。相手の女人は、三十にもなっておらぬ、酒家の女主人なのだ」
「ほう。いい女か」
「ふつうより上だ」
「なるほど。性格はどんなだ。蓮っ葉なのか」
「いいや。何度か顔を合わせたことがあるが、芯のしっかりした、感じのよい女人であった。料理もうまい」
「酒家の女主人と幼宰さま、か。意外な取り合わせだが、わるくはない。
いちど、その女の顔を見てみたいものだな」
「冗談ではない。再婚など。年が離れすぎているではないか!」
「なになに、主公は孫権の妹君と結婚したが、親子ほどに年が離れていたのだぞ。
なれば、主公より年下の幼宰さまが、同じことをされたとしても、おかしくはない。世に親子ほど年齢の離れた夫婦は多いぞ」
「でも、主公は結局、孫権の妹君と別れたではないか」
「あれは政略結婚だったからだろう。幼宰さまが同じ轍を踏むとはかぎらぬ。
うまくすれば、おまえに新しい弟か妹ができるかもしれぬな」
「よしてくれ! 父上は再婚なぞなさらぬ!」
普段はおとなしく貴公子然としたところをくずさない休昭であるが、このときばかりは乱暴に言うと、友を振り切るようにして鹿車に乗り込み、ブチの小馬をめちゃくちゃに走らせた。
「まったく、父離れのできぬやつ。あいつは、あれでもほんとうに十七か?」
と、その姿を見送りつつ、文偉は、やれやれとため息をついた。