捜神三国志・燭龍本紀
二話・董和、闇の巣窟へ降りること
栄耀飯店、というのは、成都の富豪・張大人の経営する、成都では知らぬもののない、贅を尽くした豪奢な飯店である。
ともかく、扉から柱から床から、極彩色の絵と彫刻を刻まれていないものはない。
一間の幅ごとに蝋燭がともされ、店ではえりぬきの美女たちが客をもてなす。
かつては劉璋もお忍びで、よくこの店にあらわれたという噂の店だ。
数々の政治の不正も、ここを舞台におこなわれた。
董和にとっては、居心地のよい場所ではない。
かつては汚職官吏の隠れ城とも呼ばれ、成都の令をつとめ、つづいて益州の太守をつとめたとき、董和は何度となく、この店の捜査をした。
しかし、あちこちに隠し部屋だの、隠し扉だのの類があるとかで、いちども捕り物を成功させたことがなかった。
どころか、踏み込むたびに、店の主の張大人があらわれて、壊したものを弁償しろだの、おかげで客が逃げたから、そのぶんを取り戻してくれだのと言ってくるのだ。
董和も職務にかかわることには血をたぎらせやすい性質なので、取っ組み合い寸前にまでなったことがある。
高級な香の焚き染められた、贅の尽くした空間には、もう客の姿はない。
「張大人が、おまえたちの頭目なのか?」
と、董和がたずねると、巨漢の肉屋が、ふん、と鼻を鳴らした。
「冗談じゃありませんや。あんな小心の強欲ネズミに、だれがついていくものですかい。おれたちの頭目は晴嬰さんですよ。この胸糞わるい店を拠点につかっているのには、事情があるんでさ」
「そのことについては、おいおい説明いたします。さあ、こちらです」
晴嬰は、そういうと、行き止まりになった壁に、二対の妓女の像が立っている広間に案内した。
正面の壁には、どこの浅学の徒が記したものか、ちぐはぐな詩が書き付けられている。
晴嬰は、そのまま身をかがませると、床の一部を撫でるようにした。
すると、どういった仕掛けなのか、取っ手があらわれ、それを引くと、地下への階段が現われたのである。
「こんなところに」
董和は複雑な気持ちでうめいた。
もし成都の令を拝命しているときに知っていたら、どれだけの不正を糺せただろうか。
階段を下りていくと、次第に、奥のほうから大勢の人々の声が近づいてくる。
下りきると、おどろいたことに、そこは大きな賭場であった。
大勢の博徒たちがあつまって賭けに興じており、むわっとした熱気がたちこめている。
おどろくべきは、そこにいる顔、顔、顔…
盗賊の頭目たちが、その配下を引き連れ、ここで賭博に興じているのであった。
堅気の人間も混じっているようであるが、その大半が、手配書の人相書きでよく見た賊たちばかり。
なかには、かつて董和が捕らえた者もいる。
男たちの歓声がひときわ高いのが、部屋の中央にしつらえてある、正方形の台であった。
そこでは、徒手空拳の男たちが、汗まみれで闘っている。闘技場だ。
台をぐるりと囲むようにして、男たちは、繰り出される拳や蹴りのひとつひとつに熱中し、こぞってはげしい歓声をあげ、自身も拳を振り上げながら、怒鳴っている。
人と人をあらそわせて、賭けているのであった。
台の上には、体のあちこちに刀傷を負った、獰猛そうな男と、まだ若い、しなやかな体躯の男が闘っている。
はじまってからだいぶ経つらしく、客たちは焦れて、そろそろとどめをさせ、だの、さっさと殺してしまえ、だの、物騒な声をあげていた。
巨大な空間のあちこちには、ほとんど裸にも似た淫らな姿の妓女たちが、客の相手をしている。
窓ひとつない地下とは思えない空間である。
たむろする男たちは、晴嬰を先頭にした黒づくめの集団がめずらしいのか、からかって声をかけてくるが、長星橋商店街有志は、無視して部屋をずんずん進む。おのれに向う視線が、特別痛いのは、気のせいではあるまい。
晴嬰たちは、栄耀飯店と、どのようなつながりがあるというのか。
羌族の商人は、賊どもが「ひとつところ」に集って、宝をめぐって争っている、と語ったが、まさかここが?
妓女たちがいちばん集まっているところ、部屋の最奥に、皇帝の玉座のような豪奢な椅子にふんぞりかえっている男がいる。
張大人だ。
本人はおそらく、この淫らな小王国の皇帝のつもりだろう。
皇帝のつもりの男の座る椅子の周囲を、美麗な女たちが取り囲んでいる。
不健康そうな青白い頬に、酷薄そうな目をした、細身の男。
それが張大人である。
皮膚がよわく、頬のあちこちにそばかすが浮き出ているので、実際の年齢よりも若く見える。
董和は、また女たちの顔ぶれがかわっているな、と思った。
噂だと、張大人は無類の女好きだが、飽きが来るのも早く、たくさんの女が、いままで泣かされてきているという。
なかには、張大人と別れ話がもつれたきり、行方がしれない女もいるとか…
「これはこれは、お久ぶりですな、董幼宰どの。今宵はなんという夜でしょう。あなたさまが、お役目以外でわが館へ足を運ばれる日が来るとは、夢にも思っておりませんでしたよ。
旧来のしがらみは忘れ、おたがい、楽しく過ごすことにしようではありませぬか。主として、歓迎いたします」
と、張大人は、優越感を隠さずに、にやりと笑った。
成都の官吏のあいだに、人脈を深く食い込ませている男である。
董和が法正ににらまれ、免官になったことは、もう知っているにちがいない。
董和は腹がたったが、事情がわからない状況のうえに晴嬰のこともあり、ぐっとこらえた。
「いかがですかな、わが館の感想は」
「いかにも、そなたのような小ねずみが好みそうな、たいへん高級な趣味の館だと感心しておったところだ」
董和の嫌味にも、まるで表情を動かさず、張大人は笑う。
「気に入ってくださったとは、うれしいことですな。もちろん、今宵はあなたを賓客としてお招きいたします。
薄給のあなたさまでは、ここの一晩の酒代も出せますまい。
おっと、失礼、免官になられたのでしたな」
と、張大人は甲高い笑い声を、地下の部屋にひびかせた。
むかむかしながらも、董和は晴嬰のほうに視線を走らせる。
いったい、この宿敵とも言うべき男と、晴嬰たちに、どんなかかわりがあるというのか。
晴嬰は、目を細めてするどくし、一歩、前に出た。
「張さん、また例の一味を捕らえました。これで四人目。以前の条件は、おぼえてますでしょうね」
「もちろんですとも。例の一味を独り捕らえるごとに、わたしはあなた方の借財を減らす。
気の長い話ではありますが、この張も鬼ではありません。あなた方がわたくしの商売仇を片づけてくださるかぎり、いくらでもお待ちいたしますよ」
「借財?」
董和はおどろいて晴嬰にいう。
晴嬰たちは気まずそうに、たがいに顔をみあわせ、返事をしぶった。
それを見て、張大人が口をはさんだ。
「あなた方、成都を守るはずのお役人方は、おのれのことで手一杯であったでしょうから、ご存じないでしょう。
前のお殿様が、いまのお殿様に攻められているあいだ、商人たちがどれだけ損を被ったか。なにせ、蜀の桟道を通れないのですから、商売上がったり、いよいよこれまでと首を吊った者もいるのですよ。
とくに長星橋のあたりは、行商人目当ての店が多い。
商人の流れが減れば、彼らの生活が厳しくなるのは道理。
貧窮する彼らに、おなじ長星橋の住民として、わたしが手を差し伸べたのですよ」
「借財は、どれほどになるのだ」
董和が長星橋商店街有志にたずねると、とんでもない返答がかえってきた。
下手をすれば、成都の宮城にほどちかいところにある大邸宅が、まるごと買えてしまう値段である。
「張! 違法だぞ! 貴様、困っている者につけこんで、途方もない利子をふっかけおったな!」
「だまらっしゃい!」
怒鳴ったのではない。
むしろ静かな落ち着いた声であったが、この地下の隠れ部屋での張大人の力を見せつけるように、その一喝で、あれほど騒がしかった部屋が、沈黙した。
「もはやあなたは成都の令でもなければ、だれの配下でもない。わたしの商売に口を出す権利は、もうないはずですぞ。
あなたがこの芙蓉の間にあらわれた時点で、わたしは貴方を殺してさしあげてもよかった。その老いぼれた首がつながっていられるのは、だれのおかげだと思っているのです!」
董和は周囲を見回した。
芙蓉の間、とよばれる地下の隠し部屋には、董和に私怨を抱いているだろう盗賊をはじめ、かつての天敵どもがうようよしている。
もし晴嬰たちといっしょでなければ、とっくの昔にバラバラにされていた可能性がある。
いまいましいことだが、張大人の言うとおりであった。
「おかわりになればよろしい。わたしは陰湿な男ではありません。それでは話をもどしましょう。
あなたも、そこに転がっている男の話を聞いたでしょう。この成都に宝の眠る地下洞窟があり、そこに盗賊たちがあつまって、宝を捜し求めて争っている、という」
「ここが、その地下ではないのか」
「まさか! ここは単なる待合室のようなもの。九門古城はここよりもはるかに巨大で恐ろしい場所です。そこには『得れば必ず天下を取れる宝』が眠っている、という。
しかしうれしいかな、そこへ至る道中には、地下へ潜った勇気を讃えるように、すばらしい宝が落ちている。文字通り、無造作に落ちているのですよ。
思うに、『得れば必ず天下を取れる宝』を諦めさせるための、策略なのでしょうな。おかげで、天下を取りたい者から、小銭を稼ぎたい者まで、九門古城へ潜る者は、あとを断たない」
「すると、そこな男は、そなたの手下か」
董和は、まだ転がされたまま、唸りつづけている羌族の商人を指した。
張大人は、いよいよ我慢ができなくなったのか、甲高い声を爆発させて、大笑いをした。
「これは失敬! どうも順を追って話をしなければならないようですな。
代々蜀を治める人間に、秘中の秘として、『得れば必ず天下を取れる宝』のありかを示した地図が伝わっていたのは聞いておりますな?
しかしいままでの代々の領主というのは、この地図を本気に信じなかった。しかしとりあえず大切なものだというので、門外不出の地図として守ってきていたのですよ。
ところが、劉璋の代になると、あなたもご存知のとおり、蜀の風紀は乱れ、官吏は宮城の宝をこっそり盗んでは、金に換えるようになっていた。その盗品のなかに、地図が含まれていたのです。
地図は、ある盗賊の手に渡った。これが向こう見ずな男で、実際に、地図のとおり、宝を探しに『九門古城』の場所を探しあて、なかに本物の宝が眠っていることを知った。
ただ、『九門古城』はおそろしく広く、何層にもなっており、一本道ではない。いちど潜って見たものの、もうすこし念入りな準備が必要だということで、盗賊は地上に戻ってきた。
ところが、無用心なことに、酔って宝の話を外に漏らしてしまったのです。しかも宝をみなに見せびらかす、というおまけつきでね。
いまは仁義ある盗賊も減りました。
とたんに宝の地図をめぐって争いがおこり、盗賊は戦いに負け、死んでしまった。だが、そのときに、宝の地図も一緒に燃えてしまったのです。
あとに残ったのは、噂と、『九門古城』だけ。盗賊たちは、こぞって『九門古城』に入ろうとしました。
ところが、この地下迷宮、おそろしいことに数々の罠が仕掛けられており、命を失うものがあとを絶たない。
それに加えて、盗賊たちは、競合相手を見れば、たちまち殺し合いをはじめる。
さすがに、闇社会のなかでも、だれかが、この事態の調整役をつとめなければならない、と話が出た。
そこでわたしに白羽の矢が立った、というわけです。
なぜならば、奇遇なことに、『九門古城』の門のひとつは、わが館の地下にある。
そのうえ、昼なお暗く、陽光のささぬ地下のこと。だれかが明かりを灯さねばなりませんが、このための費用とて、莫迦にならない出費ですからな。なにより手間がかかります。
さて、仕切りをまかされましたわたしは、地下迷宮の道を照らす費用を請け負うかわりに、ある規則を定めました。
一、 張大人の許可なく『九門古城』に潜ってはならない。かならず申請をすること
一、『九門古城』での探索結果は、かならず張大人に報告する(これが門をくぐるための入場料の代わりとなる)
一、 堅気の人間には、けして『九門古城』の話を漏らしてはならない。まして官吏には絶対にしゃべらない
一、 『九門古城』で殺人や窃盗があっても、地上での法科は適応されない。内々の話し合いで解決すべし
一、 『九門古城』で発見した宝を売る場合は、かならず張大人の商家をとおしておこなうこと
一、 この規則が事情により、変更されることがあっても、文句は言わない」
「おまえにとっての都合の良い規則ばかりではないか」
「それが門を仕切る者の特権ですから。毎晩、あのおそろしい地下迷宮に人をやって、蝋燭を灯させるのだって、生半な出費ではないのですぞ。
ともかく、これで自体は落ち着くかに見えました。
ところが、得体の知れない連中が、またまた厄介ごとを増やした。
それがそいつらです」
と、張大人はいまいましげに、床に転がる男を指した。
「こいつらの目的はまったく不明。どんな拷問にかけようとまるで正体を吐きません。こいつらのことでわかっているのは、よそ者だということと、黄色い輝石の嵌った銀の指輪をしている、ということだけ。
なぜかこやつらは、成都中の酒場で、宝の話を吹聴してまわり、興味を持った人間を『九門古城』へ連れ込んでいる。
そのあと、連れ込まれた者がどうなっているかは不明です。だれひとり、生きて帰ってこないところを見ると、おそらく地下迷宮でさびしく死んでしまったのでしょう。
しかし、なぜそんなことをするのかが、わかりません。
じつのところ、わたしもいまはあたらしいお殿さまに代わったばかりなので、表の商売の建て直しに忙しくて、こやつらにまで手が回らない。
弱音を吐くわけではありませんが、あたらしい殿さまに付き従っている連中と来たら、若いくせして、頭の固い者ばかり。
とくに、あの軍師将軍の諸葛孔明とかいう若造ときたら!」
なにかとびきり嫌なことを思い出したらしく、いつもは腹が立つほど鷹揚な笑みを崩さない張大人が、その本性をむき出しにして、おそろしげな表情で舌打ちをした。
董和は、諸葛孔明という、めずらしい姓名の軍師将軍と対峙したことがなかったが、張大人の様子からして、逆にわるい若者ではないかもしれぬと思った。敵の敵は味方だ。
張大人は、はっと我にかえって、すぐさま仮面をかぶるようにして、元の笑みに戻った。
「ま、そういうわけで、長星橋商店街の方々にご協力いただいて、こやつらを捕らえてもらっている、というわけですよ」
「で、一人捕まえるたびに、借財を減らしている、というわけか」
然り、と張大人はうなずいた。
「さきほども申し上げましたが、返済期限は設けておりません。おなじ長星橋の住人として、気長にお待ちしますよ。
しかし、目の前に宝の山が眠っているというのに、あなたがたのだれも、地下に潜ろうとしないのは残念ですな。運がよければ、たった一度で、すべての借財が返済できるかもしれないのに」
張大人がそこまで言ったとき、わあっ、とひときわ大きい歓声が、闘技場のほうでした。
ちょうど、刀傷だらけの男の頭部を、若者が蹴り倒したところであった。
その動作は華麗で力強く、鵬が翼を広げたのにも似ていた。
刀傷の男は、そのまま昏倒して、動かなくなった。
汗だくになった若者に、妓女の一人が水を、もう一人が汗をぬぐうための布を差し出す。
若者はそれを憮然とした表情で受け取ると、上衣を脱いで、頭から水をかぶった。その背中に、刺青がある。
人頭蛇身の男女が、蛇の尾をからませている図案の刺青だ。
若者の汗のせいで、浮かび上がるそのうろこは、まるで本物のようであった。
伏犠と女禍。古代中国の夫婦神である。
といっても中原のそれではなく、苗族の祖神として、厚く信仰されている神であった。
「伯岐(はくき)! よくやった。こちらへくるがいい」
と、張大人が立ち上がって、招く。
賭けの勝敗が決したので、観客も、肩を落とすもの、大喜びするもの、苦笑いを浮かべるもの、さまざまだ。
伯岐、と呼ばれた若者は、男たちを無感情にかきわけてこちらを向いた。そ
して、張大人の声に、にこりともせず、つかつかとやってくる。
その体躯はしなやかで無駄がなく、山野の獣を思わせた。
いかにも武人らしい、厳しい、精悍な顔立ちをしている。
息子の休昭より、すこし上かな、と董和は計算した。
「おまえ、『九門古城』に一人で潜る、と申していたな。どうだ、こちらの方々に雇われてみては。
晴嬰さん、いまの闘いぶりを見たでしょう、こいつはわが一族の者ですが、若いのに武芸達者で、肝も据わっていると評判なのです。どうです、こいつを雇って、借金返済をめざす、というのは」
長星橋商店街有志の者たちは、意外な申し出に、顔を見合わせた。
強欲と冷酷が、人の皮をかぶっているような男。それが張大人である。
親切なフリをするときは、なにか企てがあるときだ。
晴嬰は、賢明なところを見せて、慎重にたずねた。
「でも、タダではないのでしょう?」
「おれを雇うならば…」
と、張伯岐が値段を口にした。
董和をはじめ、晴嬰ら長星橋商店街有志は、仰天した。これまた高すぎる買い物である。
「また借金を増やすようなものだわ。張さんのお話はありがたいけれど、やっぱり」
お断りを、と続けようとする晴嬰に、董和は口を挟んだ。
「待て、いましがた、その若者は、ひとりで潜る、と申していたな。なかには、宝を求めて賊どもが蠢いておるはず。しかも奇怪な罠が仕掛けられている、というのだろう。連れがいたほうが、身を守れるはず。
どうだ、わたしも共に潜ろう。わが名は董幼宰。旧益州牧より、成都の令を拝命していた者だ。腕におぼえはある」
「董幼宰…董和! 先の益州太守であった、あの御仁か」
張伯岐も、董和の名前を知っていた。
無表情だったその力強い顔に、おどろきの色が浮かんでいる。
重責を担っていたころは、つねに身の危険を感じ、心の休まるひまもなく、ときにはもう投げ出してしまおうかと思ったこともあったが、こうして免官になって、おのれの仕事の結果が威光となって身を守っている、というのは、なによりの褒美だと、董和は思った。
若者の尊敬のまじったまなざしを受け止めつつ、董和は顔をひきしめてつづける。
「ただし、わたしのほうもタダではないぞ。わたしは貴殿に雇われよう。金額は、いましがた貴殿が提示した額だ」
「む」
張伯岐は、むずかしい顔をして考え込んだ。とても張大人の同族とはおもえないほど、双眸の清い、邪気のない若者であった。
「旦那、駄目ですよ、罠です」
と、晴嬰が、つよく董和の袖を引っ張る。その顔は、真っ青になっていた。
「あたしたちのことなら、心配いりませんよ。張さんだって、返済をいつまでも待っていてくれる、って言ってるんです。あたしたちのためなんかに、危険な真似をしないでください。
それに、この人だって、張さんの親戚なんでしょう? 危険な場所に、いつ寝首をかいてもおかしくないような人といっしょに行くなんて、どうかしていますよ!」
董和は、幼子をなだめるように、やさしく晴嬰の手の甲に触れた。
「安心せよ。わたしは昔から人を見ることにかけては、誤ったことがないのだ。それに、『九門古城』とやらに潜るのは、そなたたちのためだけではない。
もしも、ほんとうに『得れば必ず天下を取れる宝』が眠っていて、それが悪党の手に渡ったらどうなる。わたしやそなたたちだけではなく、類はすべての中華に住まうものたちに及ぶのだ。それを見過ごしておけようか」
「だからって、旦那がそんな役目をすること、ないじゃありませんか!」
「いや…免官になったのも、おそらく天命であったのだろう。どうせ明日から、おのが屋敷で晴耕雨読するしかない身の上ぞ。どうだ、張伯岐、決心はついたか」
傍らで聞いている張大人は、思わぬなりゆきに、おどろくどころか、つまらなさそうな顔をしている。
張伯岐は、決心がついたらしく、くるりと族父のほうを振り向いた。
「聞いてのとおりだ。よろしいか、小父上」
「仕方あるまい。おもしろい成り行きではないが、おまえの好きにすればいいだろう」
「ではそうする」
張伯岐はそう言うと、董和にむかって丁寧に拱手してみせた。
「貴殿のご尊名は、おれも耳にしている。ともに闘えるとは光栄だ。おれは南充国の出で、姓は張、名は嶷(ぎ)、字は伯岐というものだ」
張嶷! その名を聞いて、はじめて董和は思い当たったことがあった。
劉備が劉璋を攻めているあいだ、その混乱に乗じるように、南充国の県庁を、山賊が襲撃した。
山賊たちの攻撃はすさまじく、県庁では成都の防衛のために出兵していて手薄であったこともあり、またたくまに征服され、県長は、単身でからがら逃げ出した。
しかし、県長の家族が、建物のなかに取り残されてしまった。
県の功曹だった張嶷は、山賊どもの白刃のなかを、わずかな手勢でもってかいくぐり、みごと県長夫人を背負って、生還したのだ。
その武勇譚は、いままでの殿さまが追い出されたというので落ち込んでいた蜀の民に、希望をあたえてくれた。
おれたちの中にも、気骨のある男がいる、押し寄せる数万の曹操軍のなかを、たった一人で赤ん坊と奥方をかかえて駆け抜けたという、翊軍将軍趙子龍にもおとらぬ益荒男ぶり、と。
その話を思い出すと同時に、やはり董和は違和感をおぼえた。
すると、ますますこの場は、勇士に似合わない場所ということである。
しかも、あの張大人の同族というのが、ちぐはぐだ。
「おれは信用できんか」
と、ずばり張嶷は尋ねてきた。その率直さに、おもわず董和は笑みをこぼす。
これは失礼。人を見るのに、同族が何者かなどというのが、まるで参考にならぬということを忘れておった。
わたしのほうこそ、貴殿のような勇士とともに闘えるとは光栄だ」
董和が拱手をかえすと、わずかに張嶷の仏頂面が、ゆるんだ。
晴嬰は、董和の袖を掴んだまま、心配そうに両者の顔を見比べている。
「さあて、お話がまとまったようですので」
と、張大人はわざとらしくあくびをしつつ、割って入った。
そして、脇にひっそりとうずくまるようにしていた書生に、声をかけた。
「偉度! この退屈な方々にお茶を淹れて差し上げろ。それから、賭場がしらけるから、この者たちをどこか別の部屋に連れて行け。これからの相談もあるだろうからな」
かしこまりました、ご主人様、と書生が深々と頭をさげた。
痩せっぽちの、小奇麗な身なりをしてはいるが、どこか締まらない書生である。
その偉度の案内により、董和たちは別の部屋に通された。
晴嬰たちはというと、夜も更けているし、明日の商売もあるからというので、先に帰っていった。
晴嬰は、一緒に残りたい、と最後まで駄々をこねたが、これは董和がゆるさなかった。
さきほどから、晴嬰に向けられている、張大人や盗賊どもの目が気になっていたのだ。
そうして、肉屋たちに晴嬰を託し、董和は、張嶷と対峙した。
「むずかしいお話をする前に、こちらをどうぞ。わが主からの差し入れにございますぞ」
と、貧相な顔のわりには、張りのいい声をあげて、偉度は酒をもってきた。
通された別室は、いままでのキンキラ趣味からすれば、だいぶ落ち着いた趣の場所であった。
壁面には、竹林とスズメの絵が描かれており、家具は黒塗りのもので統一されている。
董和が酒を口に運ぼうとすると、張嶷のほうが眉をしかめて言った。
「飲まぬほうがよいのではないか」
「毒が入っている、と?」
「かもしれぬ。恥ずかしい話であるが、あの男は貴殿を深く憎んでいる。毒が入っていても、おかしくはない」
「そのご心配にはおよびませぬぞ。わが主からの差し入れというのは嘘っぱち。その酒は、わたくしからの歓迎のあかしにございます」
書生の偉度が言う。
董和の息子、休昭は今年で十七になるのだが、それよりいくらか年上のようである。
若い男は、董和と目が合うと、人懐っこく、にいっ、と笑った。
「そなたの差し入れ?」
「さようで。董幼宰さまのご尊顔を拝見できるとは、光栄至極に存知ます」
「大仰な言葉はよしてくれぬか。私はもう、免官になった身なのだからな」
「まさかそのようなことは御座いますまい。貴方さまのご尊名は、とおく洛陽にまで届いておりまするぞ。
性質は剛にして、巴蜀随一の清廉潔白の士。ながらく蛮族どもへの対策に頭を悩ませてきた漢族のなかにあって、ただ一人、芯から蛮族に慕われ、そして心服させることのできる御方。
あなたさまを評価しない者など、この世にはおりませぬ」
董和は苦笑した。
それほど評価されているはずの身が、現実には、職を与えられず、明日から暮らしぶりを変えねばならない身なのである。
「あなたさまが再び天府の都の中心に立たれたときには、ぜひこのしがない書生をお忘れなきよう。
申し遅れました。わたくし、姓は胡、字を偉度、と申すもの。どうぞお見知りおきを」
「はは、貴殿のようなお若い方にそこまで褒め上げられては、悪い気はせぬ。そうだな、天運がめぐり、ふたたび宮城に足を運ぶようになったなら、かならずやあなたのことを思い出しましょう」
「ありがたき幸せ」
と、胡偉度は、ここで声を落として、つつ、と董和に寄った。
「お気をつけなされませよ、伯岐さまのおっしゃるとおり、この店の主の張大人は、貴方様によい思いを抱いておられませぬ」
さすがに董和も眉をしかめた。
「しかしそなたは、張大人に雇われている身であろう」
「痛いことをおっしゃる。貧窮の身なれば、仕方なく、でございます」
と、胡偉度はいまにも泣きそうな顔をして、裾で顔を覆った。
どうにも芝居がかった男である。信頼できないわけではないが、どうも言葉をそのままに受け取れない。
それが顔に出たのか、胡偉度は泣きそうな顔をした。
「尊敬する董幼宰さまに疑われるとは。猛禽は寄る枝を選ぶ、のたとえのとおり、張大人にたよるわたくしなどは、きっと同じく穢れたものとお思いなのでしょうね」
「いや、そこまでは…」
「ご遠慮なさらずに。わたくしとて、このような不正と悪徳の渦巻く館で働くのは忍びないのです。
しかし仕方のないこと。天はなぜにわたくしに、かような厳しい運命を与えたもうたか」
よよよ、と崩れる胡偉度であるが、それでも、やはり同情しきれない。
そんな董和の心を代弁したのは、張嶷のほうであった。
「いつまでここにいるのだ。あの男に、われらの会話を聞いてくるようにと命令されたのか」
「とんでもございません、そんなこと!」
と、胡偉度はおのれの胸を掴んだ。
「いえ、実のところそのとおりなのでございますが、わたくしはあの男にウソをついてやるつもりでおります。
あの男こそ、成都に巣食う悪徳の権化。盗賊という盗賊の頭目。
つねに儲け話に目を光らせ、人を罠に掛けて利を得ることにかけては抜群の腕を持つろくでなしにございます。
たとえやとわれの身とはいえ、心までは縛られておりませぬ」
胡偉度は、不意にがばり、と床に平伏した。
「幼宰さま、どうぞわたくしも『九門古城』にお連れくださいませ!」
「なんだと?」
「実は、わたくしには、さきほどの長星橋商店街の方々と一緒で、あの男に負債があるのです。
その負債も、病気の父に薬を買ってやるために、仕方なく負ったもの。なんら身に疚しいことはないのですが、働けど、働けど、負債が軽くなることがありませぬ。
文が書ける、というので雇われて、辛うじて生きながらえておりますが、そうでなければ、とっくの昔に命を取られていたでしょう。病の父も、看病むなしく先日逝ったばかり。わたくしには負債が残され、殺されるまえに自ら命を断つしか、この重荷から抜けだす道がありませぬ。
しかしわたくしも男子として生まれた身。ただ世を恨んで死ぬよりは、すこしはだれか、お心の正しいお方のためになって、死んでいきとうございます。どうかどうか、偉度もお供に!」
「そなた、剣は使えるか」
と、張嶷が尋ねた。
「使えます、こう見えても町内では評判で…」
すべて言い終わらないうちに、張嶷は立ち上がると、問答無用で剣を抜き放ち、偉度の脳天めがけて、白刃を振り下ろした。
が、それは偉度の額を割る寸前で止まった。
刃に触れた前髪が、ぱらぱらと落ちていく。
絶句し、目を白黒させている偉度に、張嶷は言った。
「話にならん、駄目だ。地道に働いて借金を返せ」
「お、お待ちくださいませ。いまのはちょっとびっくりしただけでございます。それに、わたくしはあなた方にとって、大変な益となりますぞ」
「どのように?」
「実はわたくし、張大人にいわれて、『九門古城』の地図を作っております。張大人は、盗賊どもを『九門古城』に潜らせて、その地図を復元しようとしているのです」
「なんのためだ?」
「もちろん、狙いは『得れば必ず天下を取れる宝』でございますよ。
ただ、あの男の狡猾なところは、それを得て、天下を狙おうというのではなく、天下を狙っている方々に、巨額で売りつけようと画策しているところです。
聞いたところ、劉公(劉備)は質実剛健なお方で、あまり蓄財がないと聞き及びました。となると、売りつける先は」
「曹操か孫権」
と、うめくように董和はつぶやく。
そんなことになれば、この蜀の地が、ふたたび戦火にまみえることになるのは明らかだ。
兵士たちに成都を掠奪させなかった劉備は、支配者としては、かなり上等なほうである。
乱世において『普通の』征服者がやってきたら、この天賦の国は、ほしいままに略奪をつくされるだろう。
「させぬぞ、そんなことは!」
董和が烈しく言うと、張嶷もうなずいた。
「せっかく少しずつ落ち着いているというのに、また戦乱など冗談ではない。それに、曹公も孫権も、蛮族に対しての政策は苛烈をきわめる。巴蜀にとって、暗黒の世になるぞ」
「そのためにも、あの男より先に、『得れば必ず天下を取れる宝』を見つけ出すのが肝要でございますぞ。あの男には、もっと精巧な地図を作るため、自分で潜ってみたいと言っておきます。
どうです、闇雲に迷宮をうろうろしている盗賊などより、よほど効率よく探索ができますぞ」
董和は、張嶷と顔を見合わせた。
胡偉度の申し出は、自分たちにとって有利なものである。
だが、信じてよいものなのか。
「うむ、こうして雁首をそろえて、言葉だけを並べているのは能がない。どうだ、幼宰どの。すこしだけ、『九門古城』に潜って見ぬか」
「いまからか?」
張嶷はこくりと頷いた。
「入り口をちょっと覗くだけだ。そうすれば様子もつかめて、準備もうまくいくだろう」
董和は、『九門古城』への入り口が、栄耀飯店のどこにあるか知らなかったし、広い、広いと聞いてはいても、どれほどのものなのか想像もつかなかったので、胡偉度と張嶷に連れられて、芙蓉の間からつづく、さらに下へ下る階段を降りきるまでは、鍾乳洞などの、ごくごく一般的な洞穴を想像していた。
階段は、むき出しの土に、木材で補強されているだけの、粗末なものであった。
どこもかしこも整然と作りこまれた栄耀飯店の中では、その素朴さは、ひどく浮いていた。
薄暗い。
蝋燭の明かりがゆらゆらとあたりを不安げに照らし出す。
のおかげで、空間の広さも、正確なところがわからない。
降り立つと、そこは、ぽっかりとだだっ広い広間であった。
洞穴などではない。壁には整然と均等の大きさの石が詰まれ、隙間などどこにもない。
完璧なほどの美しさを誇っている。
ひやりと冷たさを感じるのは、地下に降りたから、というだけではあるまい。
信じられない、と董和は周囲を見回した。
天上にも床にも、なんらかのシンボルが掘り込まれている。
一朝一夕で掘り込まれたものでもなければ、安っぽい装飾趣味で彩られたものでもない。
なんらかの意味があり、信念なり、信仰があって、腕の良い職人たちが、何人もあつまって作り上げた空間であった。
振りかえると、董和たちが降りてきた階段というのは、正規のそれではなく、横穴から、むりやり壁を壊してできたものだと知れた。
その無作法をした盗賊は自分ではないが、自分も同じようにひどく無作法で無知な人間に思えて、恥ずかしかった。
本当の門は、穴の真となりにあったのだが、開けて見るとびっしりと土砂が埋まっており、だれが書いたものか、『崩壊の危険あり。開放を禁ず』とあった。
「盗賊の高勝は、地図を見つけたときに、『九門古城』の入り口が、ちょうど栄耀飯店の真下にあるというので、大金を出して部屋を借り切って、張大人にひみつで、この穴を掘り上げたらしい。その好奇心にはおそれいる」
と、張嶷は淡々と説明する。
歩くたび、色とりどりの大理石に、足音が響いた。
胡偉度がその話に振り返った。
「ほほう、それは初耳でございますな。とすると、先代高勝が殺された事件は、じつは張大人が糸を引いていたのは、まちがいないのですな」
「おれは現場に居合わせたわけではないが、そうだと聞いている。
わが族父というのが忌々しいくらいに、残酷な男だ。張大人は、高勝が地図のありかを語らないので、拷問の限りを尽くしたそうだ。
しかし、結局は殺してしまった。それに憤った高勝の部下が、張大人の目の前で地図を焼き払ってしまった。焼き払った男も捕らえられ、四肢を切り刻まれたがな」
「ああ、おそろしい」
ぶるり、と胡偉度は身を震わせた。
董和は、というと、地下に突然のようにあらわれた遺跡に、ただただ、魅入られている。
ほんとうに信じられない。
この空間は、どう見ても、はんぱな古さではない。
それにあちこちに見える神樹をかたどった意匠。
漢族とはちがう思想と信仰をもった一族が、この高度な空間を作り上げたのだ。
「古城とは、よく言ったものだな。まさに地下宮殿の名にふさわしい。これほどのものを作り上げた王は。いったいだれなのだろう」
「それはわからぬのですよ、幼宰さま。もしそれがわかれば、『得れば天下を必ず取れる宝』の正体が、すこしは探れるかもしれませぬがなあ」
ふう、とため息をついて胡偉度が言った。
天井が高い。
正方形の部屋の天上には、円形のレリーフが刻まれており、それを写すように、地上にも中心に、おなじレリーフが刻まれていた。
柱という柱は、すべて樹の装飾がなされている。ぼんやりと、蝋燭の明かりが空間を浮かび上がらせる。
その奥。
やはり文様の刻まれた扉があり、そこが半開きになって、向こう側からの風を呼んでいた。
最初は、かつての学究の徒らしい好奇心で、部屋を見て回っていた董和であるが、その奥に近づいた途端、強風を叩きつけられたような、すさまじい恐怖を感じた。
足がすくむ。まるで百の獣ににらまれたようだ。
怖い。怖い。
手が、足が、頭が、五臓六腑が、全身のすべてが、恐怖を訴えてくる。
ここにいてはいけない。下がれ。この先に進むな。
立ち止まった董和の肩を、ぐいっと張嶷が掴み、壁際に寄せた。
足がすくんだのは、一瞬のことだと董和は思っていたのだが、そうではなかったらしい。
大丈夫か、と張嶷の声がして、つづいて、ぽっかりと口をあけた扉の奥から、どたどたと騒がしい足音が近づいてきた。
「どけどけ! 怪我人だ! どかねぇと、たたっ斬るぞ!」
盗賊たちである。どれもこれも、怪我を負っている。先頭の男も、右目に布をあて、それに血が滲んでいる。
ほかの盗賊たちも満身創痍だ。
動けるものは、担架をかついで、うめく病人を運んで、董和たちがいましがた降りてきた階段を、矢のように駆け上がっていく。
張嶷は、そのなかに見知った顔をみつけたらしく、つかまえて話を聞いた。
「おい、どうした。おまえたちがこれほどの深手を負わされるとは、いよいよ、最下層にたどり着いたか」
「最下層? 冗談じゃねぇ、おれたちは二階層でやられたのよ」
張嶷と、胡偉度がおどろきに顔を見合わせる。
董和は、わけがわからないまま、血のしたたる二の腕をおさえている男の話に耳をすます。
「おそろしいやつらが参入してきやがったもんだぜ…伯岐さん、あんたもいよいよ潜りなさるのかい。
おれたちはあいつら二人に…いや、正確にはひとりだ…あの鬼神に遭っちまった。ほとんどが殺されたよ。
もう一味も解散だな。へへ、よけいな欲はかくもんじゃねぇな…」
「二人ですと? 地下に潜るのは、すくなくとも三人以上の組でないと、危ないはず」
泥と血にまみれた盗賊は、胡偉度の言葉に、にやりと笑って見せた。
「あんたがたも、あいつらに遭えばわかる。あんな常識はずれにつよい男は遭ったことがねぇ。張大人に雇われたやつらじゃねぇな。
長星橋商店街の連中が、追いかけてる一味じゃねぇのか…いや、わからねぇ。
ともかく問答無用でやられちまったんだ。しばらく夢に出そうだぜ。真っ暗なところで、あいつときたら、まるで闇のなかでも目が見えているようだった。
くそっ、こんな怪我さえしてなけりゃ、おれたちを唆した張大人をとっつかまえて、あの首をたたっ斬ってやるのによ!」
盗賊は、体を支えている張嶷の胸倉を、ぐいっと掴んだ。
「おれたちの間じゃ、妙な噂が広まってるんだぜ。案外、張のヤツは、あたらしい殿さまと繋がっていて、宝なんてのは嘘っぱちで、おれたちをそそのかして、穴倉に押し込めて殺し合いをさせてるんじゃねぇかとな。
おれたちがいなくなりゃあ、地上のお役人どもは、まさに漁夫の利ってやつだろう? ほんとうは、そうじゃねぇのかい、伯岐さんよ」
「おれも多くを知っているわけではないが、張は劉公とはまだつながりを作れていない。おまえたちの噂はウソだ」
盗賊は、張嶷の胸倉を掴んだまま、自嘲気味に笑って見せた。
「…すまねぇな。目の前で仲間がばたばたと殺されていくってのに、なにもできなかったので、気が立っているんだ。
おれは地上に戻ったら、しばらく盗賊稼業から足を洗うつもりだぜ。あばよ、伯岐さん。武運を祈る」
「ああ。おまえも、はやく堅気になじめるといいな」
盗賊は、一度だけ、張嶷に向けて手を振ると、そのまま足を引きずりながら、地上への階段を登っていった。
董和は、恐怖を抑えながらも、ぽっかりと闇に開かれた扉を覗き込んだ。
さきほど駆け抜けていった男たちの、生臭い血の匂いが残っている。
「聞きたいことがあるのだが、この『九門古城』の広さは、どれくらいなのだ? そなたたちは、さきほど二層目がどうとか、最下層がどうとか話をしていたな?」
「その質問に答えられる人間は、本物の地図を見た高勝だけですよ、幼宰さま。古城の深さがどれほどあるのか、それすらわかっておりませぬ」
「それともうひとつ。晴嬰たちが捕まえた男も、さきほどの賊を蹴散らした男も、張大人の目を盗んで、この入り口から古城に入れはしないだろう。もしかして、入り口というのは、ほかにもあるのか?」
「ございます。やはり地図が焼けてしまったので、正確な位置がわかりませぬが、あと八つの入り口があるはずです。
だから、ここは『九門古城』と呼ばれているのです。
晴嬰さんたちの追っている男たちや、盗賊を蹴散らした男たちは、未確認の入り口から古城へ降りているのでしょう。
現に、張大人に反感を持つ盗賊のなかには、手下を使って、張大人の息のかかっていない、ほかの入り口を探らせています。
とはいえ、古城の広さはハンパではありませぬ。いまわかっているだけでも、二階層目の階段にたどり着くまで、一里は歩きます」
「一里! 計測がまちがっているのではないか?」
「いいえ、張大人が何度も計らせました。ただ、古城は、下層に潜れば潜るほど、狭くなっているようです」
「そうか…途方もないな。それでは蝋燭を用意させている張大人も、赤字だろう」
「ですから、潜る場合は、かならず大量の蝋燭を持たせ、蝋燭を灯す係、というものを作らないと、行きはともかく、帰り道がわからなくなります。
逆に、蝋燭のあるところは、すでに人の手の入ったところ、と判断できるわけです。蝋燭の係は、この胡偉度がつとめまする。どうぞご安心を」
「うむ…」
董和は生返事しかできない。
まだ入り口にきたばかりだというのに、じつはもう、後悔をはじめていた。
董和は勇敢な男である。一人息子の休昭もりっぱに成人し、宮仕えができるまでになった。
思い残すことはなにもない。心残りといえば、十年ちかく、その成長を見守ってきた晴嬰のことだけである。
だからこそ、晴嬰のために、一肌脱ごうと思ったのだ。
けして、その場の勢いで思いついたことではなかった。
だが、仁義や情愛など、嘲り、蹴散らすほどの威力が、この得体の知れない闇にはあった。
その根源が、どこにあるかはわからない。
ただ、怖い。
だれの意向かはわからぬが、高度な技術で作られた、巨大な地下古城の神秘と、繰り広げられる、太陽のとどかない闇の中での死闘の、おそろしさゆえだろうか…
「恐怖を恥じることはない」
と、張嶷が口を開いた。
その無機質な声に振りかえると、驚いたことに、張嶷も緊張した面持ちである。
おれも、その先に進むのはおそろしくてできない。ちゃんと装備を整えて、武器を幾つも持たなければ入ることなど考えられん。
幼宰どの、怖じるのはあたりまえだ。闇とは恐ろしいものだからな。真に恐ろしいのは、闇を恐れない者たちの心のなかにある、蛮勇ともいうべき無知と、無情さであろう。
だが、われらには志がある。貴殿は長星橋商店街の者たちを救うため、胡偉度は自由を得るため。そしておれもまた、だれにも恥じぬ理由がある」
「ほう、貴殿は、族父に命令を受けたから潜るというだけではないのだな」
「すまないが理由はこれ以上いえん。だが、想像力が現実を塗り替えて、恐怖に力を与えてしまわぬうちに、地上に戻ろう。じきに夜も明ける…」