襄陽助っ人行状記
後編
庵の戸口に立つと、ほどなく、奥のほうから男が一人、顔を出してきた。
想像していたよりも、穏やかな風貌をした白髭の男である。
双眸も澄明で、恐怖に帯びえているわけでもなければ、あきらめきっているわけでもない。
何事が起ころうと黙って受け止める覚悟を決めている男の目だ。
梁景の手になにもないことを確かめてから、徐庶は振り返って、孔明にこっちへくるようにと手振りで伝えた。
すると、竹やぶに隠れていた孔明は、駆け寄ってくる。
「もしかして君は、車伯礼に仇討ちを頼まれたとか言う、水鏡先生のところの書生さんかね」
梁景にたずねられて、やはり噂は耳に届いていたのだな、と思い、徐庶はうなずいた。
「はい。徐元直と申します。連れは諸葛孔明、おなじく司馬徳操先生のところで学問を修めております」
「諸葛とはまためずらしい名前を聞いた。ご一族であろうか、おなじ名を持つ男を知っていたよ。穏やかで争いごとを好まない男だった」
すると、孔明が身を乗り出して言った。
「それは叔父のことです。袁将軍に仕えておりました」
「左様か。面差しは似ておらんが、口元が似ているかな。そうかそうか、ふしぎな縁もあるものだ。それで、わたしのところへ、仇討ちのために来たのかね」
冗談めかして梁景は言う。
徐庶は、この人物にすっかり好印象を持った。
きいきいと自分の主張ばかり喚き散らしていた車伯礼とは対照的に、人生の裏も表も知り尽くした男の落ち着きが見て取れる。
いまは穏やかな顔をしているが、これまで、数々の修羅場を潜り抜けてきたのだろう。
この男、おそらく車伯礼など、すこしも怖くないのだ。
「俺たちは、今日は仇討ちに来たのではありません。ご覧のとおり、武器などひとつも持っておりませんのでご安心ください」
「毒などもありません」
重要なことだ、といわんばかりに、孔明が素早く付け加えた。
「今日は、お伺いしたいことがございまして参りました」
「車伯礼のことかね」
「不躾かもしれませんが、車伯礼の父親と、貴殿のあいだに、なにがあったのかをお尋ねしたいのです。
車伯礼は、ご存知の通り、いま貴殿の命を狙っております。仇討ちの助っ人を断ったので、俺のことも狙っているようです。
俺はこの馬鹿げた騒動を早いところ終わらせたい。けれど、原因がわからなければ、終わらせることなどできないと考えました」
「なるほど、君はとばっちりを受けたのだな。たしかに君ならば知る権利があるかもしれん。よろしい、中に入りなさい。そちらの君も」
そう言って、梁景は徐庶と孔明のふたりを、自身の庵のなかに招きいれた。
庵の中は、余計なものなどなにもなく、男がひとり暮らしているわりにはきれいで、住み心地がよさそうであった。
徐庶は思わず、いま自身が寝泊りしている仮の宿を思い浮かべていた。
雨漏りのひどいあの家ではなく、こんな庵に住むことができたなら、どれだけいいだろう。
「いつか、だれかがわたしのところへ来るだろうとは思っていた。町の世話人あたりではないかと予想していたが、こんなに若い客が来るとは、予想外であったな」
梁景はそういうと、なにがおかしいのか、くすくすと声を立てて笑った。
「車伯礼がわたしを殺すことはできやせんよ。あれの母親も、それとわかっていて、でも引っ込みがつかなくなっているのだろう」
「でも、車伯礼は人を雇ってあなたを狙っているようです」
孔明が言うと、梁景は、さもありなん、とうなずき、それから、徐庶と孔明を、交互に見た。
「わたしが車伯礼の父親を斬ったのには理由がある。やつめ、袁公が袁大将軍のもとへ落ち延びようとしたときに裏切り、その財貨を横取りして、逐電したのだ。やつが奪った財貨の中には、袁家秘蔵の宝も含まれておった。
袁公は、いよいよ駄目だというときに、わたしを手元に呼び寄せて、言った。多くの家臣に背かれ、いまとなってはそれも当然だとも思えるが、車だけは許すことができない。なにがあってもやつを追いかけ、それ相応の罰を与えよと」
「それで車伯礼の父親を斬ったのですか」
「いや、だから斬ったのではない。やつとは同郷であった。いや、もっと言うならば、幼い頃からよく知る兄弟も同然の仲であった。袁公を多くの家臣が見限っていったが、車だけが特別であったというわけではない。車がとくに憎まれたのは、秘蔵の宝を盗んでしまったからなのだ。
とはいえ、その宝も、わたしが襄陽に戻ったときには、とっくに売り払われていたが。やつはあの混乱の中、いち早く立ち回り、つぎの主君を探し当てていた」
「それが許せなかった?」
徐庶が水を向けると、梁景はしかし、首を振った。
「いいや。そのことでもない。もし車伯礼の父親が、家族のためにやむを得ず主君を裏切り、そしてつぎの落ち着き先を決めたというのなら、わたしもやつを追うことをあきらめただろう。なにせ、やつを斬ったとしても、喜ぶ主君はとっくに墓の中だ。だれも喜ばない。残された家族が泣くだけだ。それは避けたかった。
だが、許せなかったのは、やつは妻子を捨てようとしていたことだ。あの男、盗んだ宝を売った金で、あたらしく女を囲っていたのだよ。その女を家に迎えて、妻子を捨ててしまおうと考えていたのだ。だから斬った。あのような盗人は、斬り捨てて当然だと思ったからな」
恐ろしいことを、妙に清清しい表情で、梁景は言う。
この男、やはり世捨て人のような暮らしをするだけあり、変わっているな、と徐庶が思っていると、孔明が口を挟んだ。
「逃げた男が妾を囲っているということが、どうしていけなかったのですか。こう言ってはなんですが、車伯礼の父親が妾を囲おうが妻子を捨てようが、あなたにはさして係わり合いのないことではありませんか」
すると、梁景は、苦笑いを浮かべつつ、首を振った。
「係わり合いのないことではなかったのだよ。車伯礼の母親は、むかし、わたしの許婚者であった。それを横から車伯礼の父親が盗んでしまったのだ。女はわたしよりもやつを選んだので、わたしも引っ込まざるをえなかった。だが、そのとき、女の腹には子供がいたのだ」
徐庶と孔明は顔を見合わせた。まさか、と思ったのである。
だが、梁景は、やはり清清しい表情で、きっぱりと言った。
「その子供が、車伯礼だ。つまりわたしの息子なのだよ、あれは。あれの母親は、自分がかつて捨てられそうになっていたことを知らない。憐れであるから、わたしはあれの母親には言わなかった。だから、あれの母親はわたしが昔の恨みであれの父親を殺したのだと思っている。その復讐のために、あれに仇討ちを押し付けているのだ」
「滅茶苦茶だ。俺たちにのん気に話をしていないで、それを本人に言ってやったらどうです。もしあいつがあなたの仇討ちに成功しちまったら、最悪の不孝をすることになっちまうじゃありませんか」
徐庶が言うと、梁景は静かに首を振った。
「そうなると、これまでの車伯礼の人生はどうなる。わたしを殺すためだけに日々を重ねてきただろうに、実は父親でしたといまさら名乗れるものかね」
「それでは、まさか黙って殺されるつもりなのですか?」
異常だ、といわんばかりに孔明が抗議を含めた口調で言うと、梁景は、なにが面白いのか、声をたてて、また笑った。
「だから、あれにわたしを殺すことなど出来やしないよ。ほかの誰にわからなくても、わたしにはわかる。あれにそんな度胸はない。だれに似たのか、どうみても文人肌で、仇討ちなんぞに向いてやしないじゃないか。
かわいそうに、向いていないことを無理やり押し付けられているので、あれはいつもあんなに人に怒鳴ってばかりいるのだよ。君にもさぞ不快な思いをさせただろう。すまなかったな」
「いや、俺に謝ってもらっても困ります」
「まあ、ほとぼりが醒めるまで待っていたまえ。どうにもなりやしないだろうから」
そう言って、梁景は、肩を揺らして笑った。
なにもかも、わかっているのだと言わんばかりに。
※
梁景の庵をあとにした二人は、かなり動揺して、行き先も定まっていないのに竹やぶの中を早足で歩いていた。
「どうする、こんな話を聞いたあとで、わかりました、では傍観しています、などと言えるのか」
言えないよね、と孔明が畳み掛けてくる。
徐庶は、深く考え込んでいるときの癖で、おのれの体を腕でぎゅっと抱きしめるようにして歩いていた。
「参った。こんな話を聞くことになるとはな。あの親父、伯礼には度胸がないなどと言い切っていたが、伯礼は人を雇っているのだろう。そいつらのことを忘れているのじゃないか。どちらにしろ、ますます黙ってみているわけにはいかなくなったぞ。困ったな」
「どうするの。伯礼に打ち明けるべきだと思うよ。まちがいが起こらないうちに」
「そうだよな」
徐庶は、いやでも穎川での出来事を思い出していた。
だれかが仇討ちをしなければならない。
しかし、そのだれかが問題だった。相手は郡の高官の息子である。
仇討ちに成功したとしても、あとで面倒になるのはわかりきっていた。
冷たい怒りと、激しい殺意が胸の中を渦巻いていた。
そこへ、人々が口々に言う。
おまえしかいない、いま、おまえがやらねば、悪がのさばることになるのだと。
義士になった気分であった。
正しいことをしようとしているのだと、頭から信じて疑わなかった。
だれも徐庶を止めなかった。
むしろ、後押しするようなことしかしなかった。
後悔したのは、仇討ちが始まってからであった。
怒りも殺意も、義士の気分も一瞬で吹き飛んだ。
怖くて怖くて、ただその場から逃げたいがために、その一心で剣を奮った。
殺された一家のためではなかった。自分のためであった。
美談にされる理由はない。
のぼせ上がったばか者が、義士の真似をして人を斬ったというのが真相である。
だれを恨むこともできない。
ただただひたすらに後悔のなかに自分を埋めて生きなければならない。
真っ当に生きようと思えば思うほどに、過去は重たく足を引っ張ってくる。
徐庶の毎日は、過去との対決の毎日でもあった。
いまだに振り切れない。
車伯礼もまた、周囲にたきつけられて、人を雇って仇討ちに備えているという。
その仇というのが、実父だということを知らずに。
そして、義父を斬った理由が、自分たちのためだったということも知らずに。
ここまで知ってしまった以上は、止めねばならないだろう。
「車伯礼のところへ行く」
「そうだね、言いに行ったほうがいいよ」
が、徐庶は孔明のことばに首を振った。
「さっきの話を伝えに行くためじゃない。仇討ちがどれだけ莫迦らしいものかを伝えに行くのさ。孔明、おまえにひとつ、頼まれてほしいことがあるのだが、聞いてくれるか」
※
車伯礼の屋敷では、異変が起こっていた。
食客として雇っていた男たちが、何の挨拶もなしにぞろぞろと屋敷を出て行ってしまったのである。
家人からそのことを聞き、あわてて外に飛び出してきた車伯礼であるが、すると、一人の人物にぶつかった。
徐庶である。
徐庶は粗末な麻の衣を身に纏い、片足ほどの大きさもありそうな、大きな剣を担いで、塵ひとつ落ちていない車家の玄関に立っていた。
徐庶の肩越しに、てれてれと、気だるそうに去っていく男たちの背中が見える。
車伯礼は迷った。
男たちを呼び止めるべきか、それとも、道を塞ぐようにして立っている徐元直をなじるべきか。
去っていく男たちは、のんびり雑談をしながら、どんどん遠くなっていく。
こちらを振り向こうともしない。
十分な謝礼を約束し、中には前払いをした者もいた。
しかし家人の話では、今日までの手当てを引いた分を、その男たちは突っ返してきたという。
なにがあったのか。そして、なぜ徐庶はここにいるのか。
仇討ちの助っ人を断った男だというのに。
「おい、どういうことだ! 君はなぜここにいる! なぜみんな去ってしまったのだ!」
「仕方ないだろ、俺が梁景の話をしたからだな」
梁景の名前がでて、車伯礼はぎくりとした。
今日の今日まで、梁景側の動きはなにもなかった。
しかしこちらが仇討ちをするぞと騒いでいるので、とうとう動き出したのか。
徐庶は車伯礼よりも六つほど年上の男であったが、実際よりも老けて見えた。
これまでの苛烈な経験が、徐庶の内側から、若者らしいはつらつさを削ってしまったがゆえだろう。
そのぶん、巌のような落ち着きを備えており、野生的な風貌とあいまって、なんともいえない雰囲気をかもし出していた。
一方の車伯礼は十八になったばかりだが、生来のわがままで甘ったれた性格がそのまま顔に出ており、実際よりも若く見える。
つるりとした丸顔には、仇討ちを控えているせいか苛立ちが顔に宿っており、そのため、車伯礼を、必要以上に余裕のない小人物に見せていた。
「梁景がなんだって。あいつがどうかしたのか」
「うむ、だから俺はここに来たのだ。あんまりおまえが気の毒だったからな」
厳かにうなずく徐庶に、車伯礼は不安の眼差しを向けた。
どれだけ脅そうと喚こうと泣きつこうと、助っ人なんぞ真っ平ごめんといい続けていた男が、急に同情してやってきた。
なにかよくないことがあったにちがいない。
覚悟を決めるため、ごくりと生唾を飲む。
すると、徐庶は肩に背負っていた大剣を地面に下ろすと、それを杖のようにして体を支え、ため息をついて、言った。
「おまえが助っ人を襄陽から集めたと聞いて、梁景も本気を出したのだな。向こうも助っ人を集めて仇討ちに備えているのだ。しかもその顔ぶれがひどい。札付きの悪ばかりを庵に集めているのだ。おまえが適当に集めた食客なんざ、何の役にも立たないぜ」
「どうして! 腕の立つやつらばかりだぞ!」
「自称・腕の立つやつら、だろう。事実、俺が、梁景が助っ人を集めた話をしたら、ほれ」
と、徐庶は、いまや豆粒ほどの大きさになって遠ざかった食客たちを指差した。
「そいつは敵わんと逃げちまった」
「連れ戻さねば!」
「待て待て。一宿一飯の恩義なんてこれっぽっちも感じてないやつらだぜ。実際に仇討ちになってみろよ、真っ先におまえを見捨てて逃げるだろうさ」
「では、あらたに助っ人を」
「集めるにしても時間がないぜ。だから気の毒なので俺が来た。助っ人になってやるよ。俺なら、多少は心得があるからな」
突然の梁景の助っ人の話に混乱していた車伯礼は、徐庶の申し出に、とりあえずホッとした。
とりあえず一人ではない。
が、まるで莫迦でもないので、疑問が沸く。
これまで、自分は徐庶のことを逆恨みし、さんざん悪評をあちこちにばら撒いた。
それを許して、しかも同情してくれるとは、なにか裏があるのではないか?
「なぜ」
その短い一言に、さまざまな意味を集約させて、疑い深そうに車伯礼がたずねると、徐庶のほうが、なぜ質問をされたのかわからない、というふうに眉を上げて、答えた。
「おまえが気の毒だからと言っただろ。俺は情が厚いのだよ。おまえにはさんざん迷惑をかけられたが、だからといって、見捨てていい理由にはならないだろう。このままおまえを見放したら、俺も夢見がわるい。だから、仇討ちを手伝ってやるよ」
「本当か!」
車伯礼は単純な若者であった。
わがままに育ってきたので、拒絶されるということに慣れておらず、徐庶を必要以上に恨んだが、今度は助けてくれるというので、一気に恨みは解消され、いまは感謝の気持ちでいっぱいになった。
この世の中に、これほど良いやつは二人といなかろう、とさえ考える。
崔州平から聞いた徐庶という人物は、義心にあつく勇敢で、人のためなら恐怖も忘れることができる、絵に描いたような剣客であった。
聞けば、撃剣の使い手で、穎川では並ぶものがいないほどであったとか。
それに比べれば、今日まで屋敷の中で、食事と寝床を当てにして、なめくじみたいに過ごしていた食客どもなど豚に等しい。
これならば、なんとかなる。
感激で目をうるませる車伯礼だが、徐庶のほうはというと、さして感激するでもなく、冷徹に、わずかに小首をかしげて、言った。
「あまり時間がないのだ、手短にいうが、条件があるぜ。向こうは助っ人を十人雇った。そのうえ、梁景も、たしかに年だが、腕の立つ武人だ。正直、俺がおまえの味方をしても、いまのままじゃ勝てないだろうぜ」
「人数が少ないからか」
「いや、それもあるが、俺に余裕が無さすぎる。俺は助っ人どもをすべて引き受けてやるから、梁景は、おまえがやるのだ」
徐庶のことばの意味がつかめず、伯礼は目をぱちくりとさせて、尋ねた。
「やる? やるって、なにを?」
「仇討ちだよ。そのためにおまえは大騒ぎしていたのだろうが。おまえが梁景を討つ。そうしたら、梁景に殺されたおまえの親父さんも喜ぶだろう。そういうわけで、ほれ」
と、徐庶は、杖の代わりにしていた、伯礼がこれまで見たなかで、一番大きな剣を、倒すようにして渡してきた。
伯礼はそれをあわてて受け取るが、とたんによろめいた。
とんでもなく重いのである。
「梁景がいつ襲撃をかけてくるかわからんが、それまで特訓をするぞ」
伯礼は呆然と、徐庶のことばを聞いた。
特訓とは、特別に訓練することだ。
訓練は、仇討ちのためである。
しかし、その次、仇討ちを自分が行うのだ、ということが、ぴんと来ない。
伯礼は、あくまで仇討ちは、人にやらせるものと決めていた。
なにせ、十八になるまで、書物より重いものを持ったことがなかったのだ。
自分ができるはずがないと、端からあきらめていた。
「金は払う」
と、伯礼は呆然としながらも徐庶に言った。
「これまでのこともすべて謝る。だから、梁景も君が斬ってくれないか」
すると、徐庶の鋭い一喝が飛んだ。
「ド阿呆! 俺の言ったことを聞いていなかったのか。助っ人どもは十人もいるのだぜ。そこに梁景を加えたら十一人。すべてを俺一人でやれってのか。俺が戦っているあいだ、おまえはなにをしているつもりなのだよ、ええ?」
「それは、そのう、応援をしていようかと思うのだが」
徐庶は、鼻をふん、と鳴らして、言った。
「莫迦が、仇討ちだぜ? 俺が助っ人どもの相手をしているあいだ、梁景がおまえを殺したら、そこで終わりだ。俺には戦う理由がなくなっちまう。どちらにしろ、仇討ちをするなら、おまえも戦わなくちゃならないのだよ。
それともなにか、どこかで土竜みたいに隠れているつもりか。襄陽じゅうの笑い者になるぜ」
「それはいやだ」
「じゃあ、戦うしかないだろうが。まさか剣を持ったことがない、とか言うなよ」
「あるとも!」
誇りの高さゆえに、つい嘘をついてしまった伯礼であったが、すぐに後悔した。
いまからでも遅くない、嘘だと言えばいい。
だが、徐庶はというと、それならばよし、などと言いながら、たすきで袖の始末をして、さっそく伯礼を相手に武術の稽古を始めようとしている。
伯礼の後悔をそのまま表わすように、徐庶から渡された剣は、異常に重たいものだった。
持ち上げることさえ容易ではない。
これでは振り回すことなど、とうてい無理だ。
「この剣は、どうしてこんなに重いのだろう」
けんめいに、平静を装って伯礼が尋ねると、徐庶はしれっとして答えた。
「そりゃ重いだろうよ。訓練用に特別にあつらえた剣だ。そいつを軽く扱えるようになったなら、ふつうの剣などちょろいもんだぜ。自然と剣の達人になっている、という寸法だ。時間が無いのだ。死ぬ気でやれよ」
滅茶苦茶だ、と思ったが、剣術にまったく疎い伯礼は、もしかして、こういうふうに訓練することが、剣の達人になるための近道なのだろうかとも考えた。
徐庶はというと、木の棒でもって剣の代わりにして、びゅんびゅんと振り回している。
そちらは軽そうだ。
「これをどうするのだい」
「そうさな、まず素振りを百回、つぎに突く練習を百回、慣れてきたら、相手の剣を受け流す訓練をするぞ」
「いきなり百回なんて無理だ。せめて半分にしてくれ。わたしは素人なのだぞ」
抗議すると、徐庶は、さすが元侠客、伯礼の肝が思わず縮みこむような恐ろしげな目をしてにらみつけてきた。
「死にたくなかろう。百といったら百だ。いますぐやれ!」
伯礼は後悔した。
まず、自分に多少なりとも剣の心得がある、などと嘘をついてしまったことがひとつ。
もうひとつは、徐庶のように真面目で、しかし恐ろしい男と関わりになってしまったことがひとつ。
ちらりと盗み見れば、徐庶は自身も生真面目に素振りを始めている。
崔州平が言ったことが本当ならば、剣の達人だそうだが、なるほど、木の棒を振るそぶりは板についており、いかにも強そうだ。
体についている筋肉も鍛え上げられていて、無駄がない。
百回ならば、一から十まで数えることを十回くりかえせばいいだけのこと。
そう考えると、すこし楽なように思えやしないか。ともかくやってみよう。
だが、伯礼には体力もなかったし、重いものを操るコツも知らなかった。
最初の一振りですぐにふらつき、二回、三回と繰り返して、すぐに手首に負担がかかってきた。
なんとか十回目までこぎつけたが、十一回目はもう出来なかった。
腕が上がらなくなってしまったのである。
ぜえはあと息を切らし、汗を滂沱と流す伯礼のうえに、屋敷のそこかしこに植えてある銀杏の葉が降りかかる。
銀杏の実を拾いに庭にあらわれた家人らからの、同情の眼差しを受けながら、伯礼はその場にしゃがみこんだ。
「やはり無理だ、わたしには出来ない」
「なにを言っているのだ。まだ十回しか出来ていないじゃないか。あと九十回だぞ、がんばれ。おまえのために、あたらしい訓練も用意しているのだぜ」
ほら、と言いながら徐庶が指差す方向を見ると、厨のそばの地面の上に、等間隔に糸の張った二本の棒が置いてある。
仰天したことには、その糸の先に、絞めた鳥や豚などの臓物が、まだ血もなまなましくぶら下げられていることであった。
「なんだ、あれは?」
「おまえ、人を斬ったことがないだろう」
まだ整わない息の下から、伯礼は口をとがらす。
「ないから、助っ人を頼んでいるのじゃないか」
「そんなおまえのための特別な特訓だよ。いいか、人を一口に斬る、といっても、容易なことではない。血は吹き出るし、下手をすれば臓物が、こう」
と、伯礼がぞっとしたことには、徐庶は自身の腹が裂けて飛び出したさまを手で示した。
「それはそれは無残なものだぜ。その場になってうろたえて、なにもできなくなっては意味が無い。そこで、血の海を平気でくぐれるように、あれを用意した。鳥や豚の臓物だが、あれの下をくぐりぬけて度胸をつける。もちろん、その剣を持ってだぞ。素振りが終わってからの話だが」
「冗談ではない、そんなことできるか」
「死にたいか」
さらりと言われて、伯礼は返事に窮した。
当然のことだが、死にたくはない。
かといって、徐庶の特訓には、どうしても無理があるように思われた。
こんな重い剣、いつまでたっても振り回せそうにないし、豚や鳥の臓物の下をくぐりぬけたところで度胸がつくとも思えない。
くりかえすが、伯礼はわがままで甘ったれであった。
自分の未来のことよりも、まず目先のことを考える。
そのとき、伯礼の頭にあったのは、どうやってこの意味があるのかよくわからない特訓から逃げるか、であった。
「そうだ、元直どの、疑うわけではないが、梁景は本当に助っ人を集めたのであろうか。わたしはこの目で見ていないから、どうもぴんと来ないのだ。
それに、古人も、彼を知り、己を知らずんば、百戦危うからずと言っているではないか。梁景の様子を見に行くというのはどうだろう」
また一喝されるかな、と警戒した伯礼であるが、意外にも徐庶はあっさりとうなずいた。
「まあ、たしかにそれもそうか。おまえはどうも特訓から逃げたそうだが、梁景が本気だということを知れば、そんな気持ちも吹っ飛ぶだろう」
そうして徐庶と伯礼は、ふたりして梁景の庵に出かけることとなった。
伯礼はこれまで仇討ちを具体的に考えたことがなかった。
腕の立つ者を集め、自分はその後ろで高見の見物をしていれば、自然と終わることだろうと漠然と考えていた。
昔は立派な武人だったという梁景だが、もう年だし、若くて活きのいい荒くれ者たち相手にろくに戦えないだろうと、根拠なく考えていたのである。
だが、梁景の庵にやってきて、伯礼の甘い考えは吹っ飛んだ。
それというのも、梁景の庵の庭に、十名ほどの屈強な男たちが集まっていて、それぞれが、獲物を狙う猛禽のような顔をして、武術の稽古に励んでいたからである。
そしておどろいたことには、その男たちに指導をしているのは、司馬徳操の私塾に通っている諸葛孔明なのであった。
深窓の令嬢のように楚々とした顔立ちの孔明が、獰猛そうな男たちにあれこれと指示をだしているさまは、異様な光景であった。
男たちは、なぜか孔明の言うことを素直に聞いている。
唖然としている伯礼に、声を殺しつつ、竹やぶの徐庶は言った。
「おまえ、俺の家に来たとき、俺を罵倒しがてら、ついでに一緒にいた孔明のこともさんざん莫迦にして帰って行っただろう。
孔明のやつ、あんな顔をして、じつはけっこう執念深いのだよ。すっかりおまえのことを恨んでいて、梁景の味方をしているのだ。梁景に助っ人を頼むべきだと知恵をつけたのは、孔明なのさ」
「君、兄弟子だろう。孔明どのを説得して、こちらの味方につけてくれ!」
すると、徐庶は悲しそうに首を振った。
「そうはいかないのだな。孔明は一度恨むと、死ぬまで忘れない。俺の言うことなんて聞くものか」
蛇のようなやつに喧嘩を売ってしまった、と後悔した伯礼であるが、そこへ、孔明の勇ましい声が聞こえてきた。
「よいか、今宵は新月ゆえ、襲撃はなかろうと向こうは油断しているはず! われらはそこを突き、一気にかたをつけるのだ!
みな、気合を入れて今宵にそなえよ、あの無礼きわまる不届き者・車伯礼の首を取ったものには、わたしから特別に恩賞を与えるぞ!」
孔明が言うと、男たちから嬉しそうな歓声があがった。
それを聞いて、徐庶はため息をつきながら腕を組み、言う。
「孔明め、金持ちぶりを見せつけやがって」
「問題はそこではないぞ、元直どの、襲撃が今宵というのなら、もう間に合わない! どうしたらいい!」
「どうもこうも、腹を括るしかあるまい。でなければ逃げるか」
「逃げよう!」
迷いもなく言うと、しかし徐庶は言った。
「逃げても追いかけてくるだろうぜ。孔明は蛟のようにしつこいぞ。あいつは自分を莫迦にした連中に仕返しをするために、水鏡先生のところで兵法を学んでいるのだ」
すると、竹やぶに囲まれた庭で、孔明が派手にくしゃみをしているのが見えた。
「どうすればいい!」
「どうもこうも、道はふたつ。戦うか、逃げるか」
「そんな」
「いや、もうひとつあるか。逃げるに近いが、あきらめる」
「あきらめる?」
伯礼は目をぱちくりとさせて、徐庶のつぎの言葉を待つ。
「もう仇討ちはやめましたと梁景に言うのさ。もともと、おまえが仇討ちをするのだと息巻いて、こんなことになったのだ。おまえが引っ込めば、向こうも引っ込む。
孔明だって、理由がないのにおまえを襲撃しようなどとは考えないだろうぜ。外聞を気にするやつだから」
「しかし、仇討ちを止めるなど、母上はお許しにならないし、父上の無念も晴らすことができぬ」
「かといって、このままじゃ死ぬだろ。死んだら孝行はできないぜ。嫡子のおまえが死んだら、家は断絶しちまうじゃないか」
「たしかにそうだ」
「嫡子は死ぬわ、家は断絶するわ、おふくろさんはこの世にたった一人残されるわで、いいことなんぞひとつもないぜ。こう言っちゃなんだが、おまえもおふくろさんも、仇討ちを軽く考えていたのじゃないか。助っ人さえいればなんとかなる、とか」
その通りであったので、悔しさがこみあげてきたが、ちらりと孔明に指揮されている男たちを見て、伯礼はぐっと気持ちを飲み込んで、素直にうなずいた。
「たしかにそうだ」
「助っ人がいようと、なんともならんよ。いまはあきらめるのだな。それとも、いっそ華々しく討ち死にしてみるか」
「死ぬのはいやだ」
「なら、決まりだ。あきらめろ。梁景への使者の役目は俺がやってやる」
「しかし、母上をどう説得すればいい」
「さて、それはおまえが知恵をしぼってするべきことだぜ。それこそ、死ぬ気で説得してみるのだな。息子のおまえの言うことなら、おふくろさんも真剣に耳を傾けるだろうぜ。たった一人のかわいい息子の言葉なのだからな」
徐庶に説得されて、伯礼の心はすっかり、あきらめる方向に動いていた。
もともと、父親のことはよくおぼえていなかった。
家にほとんどおらず、いても酒を煽っているばかりで、あまりかわいがってもらえなかった。
とはいえ父親である。
父親の仇は、いつかは討たねばなるまい。
しかし、いまは駄目だ。
そうだ、母上には、力をつけてから仇討ちをすると言えばいい。
いまのままでは死ぬだけなのだから、そう言えば、きっと許してくれるだろう。
伯礼はあくまで単純であった。徐庶の言葉に説得され、自分に都合のよい材料をかきあつめて、あきらめる理由をけんめいに作った。
世間で笑い者になるかもしれないとか、梁景が本当にこのまま引っ込むかわからない、といったことは頭になかった。
ともかく死にたくない一心であった。
やはり伯礼は、仇討ちというものを、どこか甘く考えていたのである。
※
「風邪をひいたようだよ。くしゃみが出た」
鼻を気にしながら、集めた男たちに賃金を配る孔明に、徐庶は近づくと、言った。
「俺のあばら屋で寝泊りしていたから、体が冷えたのだろう。今日からは、ちゃんと自分の家で寝るがいいぜ」
「ということは、うまくいったのだな。さすが徐兄」
「まあな」
徐庶の策は単純なものであった。
まず、伯礼の家にあつまっていた食客たちを解散させる。
食客たちは、襄陽の侠客たちで、徐庶に対しては『穎川のすごいやつ』という認識があったので、説得するのは容易であった。
かれらが仇討ちなど一度もしたことがない、というのも、この場合、よかった。
そして、伯礼を焦らせたあと、梁景が助っ人を集めているようだと嘘を教える。
剣を握ったことのない伯礼が、みずから体を鍛えねばならないように仕向け、そのうえで、孔明に集めさせていた侠客たちを梁景の庭で見せる。
孔明が集めてきた侠客たちは、仇討ちのことなど知らない。
ただ、賃金につられて、演武の真似事をしていただけである。
この場合も、徐庶の名前がものを言った。
徐庶の嘘を信じた伯礼は、すっかり尻込みし、仇討ちをあきらめた、という次第である。
とはいえ、あまり達成感がこみ上げてこないのは複雑であった。
伯礼は莫迦なやつだと思うが、同時にかれのなかに、過去の己を見ていたのも事実である。
無我夢中で行った仇討ちであったが、傍から見れば、俺もあんなふうであったのかもしれない。
徐庶が大剣をながめている一方で、孔明から賃金を受け取った男が、徐庶に挨拶をしていく。
それを軽く返していると、孔明が言った。
「みな、徐兄のためだといったら、快く集まってくれたよ。人気、あるじゃないか」
「そうかね。だったら嬉しいが」
「素直に喜んでおくべきだよ。それと、伯礼のところにいた食客たちからも、徐兄によろしくと伝言があったよ。
襄陽の荒くれどもが、そろって徐兄のことを兄貴だなんて呼んで慕っているのだもの。ふつうはそんなふうに慕われたりしない。もっと誇りに思うべきだよ」
「州平の嘘っぱちにみんな騙されているだけさ」
「広元が、徐兄は謙遜しているだけだ、ほんとうは噂よりもっとすごかった、と言っていた。石広元は州平とちがって、大げさなホラは吹かないだろう」
「広元は俺に気を遣っているのさ。ああ、そうだ、おまえがいまみんなに払っている賃金、代書の仕事が戻ってきたら、ちゃんと払うからな、ちゃんと帳面かなにかにつけておいてくれよ」
「気にしなくていいよ。出世払いということで。徐兄はいつか、天下に名前の知れた人になる。それまで待つさ」
孔明が自分を高く買いすぎていることに、徐庶はときどき戸惑う。
孔明はこちらに好意を持っているから、その未来も輝かしいものだと思っているのだろうか。
一方で、孔明は、世の中に出たくない、い、一緒に隠棲しよう、などと矛盾したことも言ってくる。
こいつもまた、現実を知らない子供なのかもしれない。
徐庶は手にした大剣を持って、しげしげと眺めてみる。
自分の足の太さほどある大きな剣である。
両手で持って、やっと持ち上がる。
これを振り回すなど、とんでもないことだ。
「この剣、鍛冶屋から借りてきたのだがな、新野にいる劉予州ところの家臣が特別に注文していったものなのだそうだ。なんと言ったっけ。講談で有名になった、劉予州の義弟で」
「張飛」
「それだ。その男が、これを兵の調練に使うからと注文していったそうだよ。しかし、本当かね。こんなもの、そんなに簡単に使えるようなものだろうか。新野の連中は化け物ぞろいだな」
「新野の劉予州といえば、あちらこちらの勢力を渡り歩いてきた人じゃないか。まあ、これだけいろいろあるなかで、局面のど真ん中にいながらいままで生き残ったのだから、そのご家来衆も化け物なのかもしれないよ。徐兄、興味あるの」
「まあ、なくはない。とはいえ、仕官は考えていないぞ。俺はまだまだ勉強しなくてはならないことがある。どこへ仕官するにしても、まだ早いさ」
「そう。では、しばらくは一緒だね」
そう言って、孔明は先のことを考えたのか、楽しそうに声をたてて笑った。
※
徐庶が庵に行くと、梁景は旅装で、身支度を整えているところであった。
庵のなかの家財道具も、きちんと整理整頓されており、主の帰還を大人しく待つ準備ができている。
さて、ほとぼりが醒めるまで旅に出るのだろうかと思った徐庶であったが、梁景は、あいかわらずの穏やかな笑みをうかべて、言った。
「長らく冀州で行方の知れなくなっていた妹夫婦から信が来たので、一緒にそちらに住もうと思う。もうこちらに戻ってくることはあるまい」
徐庶はおどろいた。
せっかく状況が落ち着いたというのに、梁景は去ろうというのか。
「伯礼のことがあるからですか」
「それもある。仇討ちをあきらめたことはありがたいが、しかし、わたしがこのままこの地に留まっていては、あれも笑い者となってしまうだろうし、また同じことを繰り返そうとするかもしれない。わたしがここを去るのが一番だ」
「父親だと言ってしまえばいいでしょうに」
と、つい口にしてから、徐庶は後悔した。
他人だから軽く言えることであって、当の本人からしてみれば、重い話である。
状況は、こじれにこじれた。
いまさら実の父親だと告白することはむずかしいだろう。
「伯礼は何も知らないのが一番だ」
梁景は言うと、さびしげに笑った。
徐庶はがらんとした庵のなかにぽつりとある、旅装の梁景をあらためて見た。
薄幸な男である。
許婚者を奪われ、めぐりめぐって、その奪った憎い男を斬り伏せることとなった。
しかし実子は、斬った男こそ実父と信じており、敵として自分を狙ってくる。
なにがいけなかったのだろうと、徐庶は考える。
この男が、この喜劇に似た悲劇から脱する手立てはあったのだろうか。
かつておのれを捨てた女のために、男を斬った。
そこに間違いがあったというのか。
責める気にもなれなかったし、笑う気にもなれなかった。
ただ、気の毒だと思った。
人を斬るということは、容易なことではない。
一瞬で終わることでも、その重さは、えんえんと付きまとう。
逃げることは叶わない。
「徐元直どの、貴殿の尽力には感謝しておる」
「俺は自分の仕事がなくなると困るので動いただけですよ」
本音である。
梁景に恩を着せるつもりなど、これっぽっちもなかった。
だが、徐庶のことばを聞き、梁景は歯を見せて笑った。
「それでも結果としては、わたしも助けられた。どうであろう、その礼といってはなんだが、わたしがいなくなったあと、この庵に住んではもらえぬか」
願ってもない申し出であった。
徐庶は、いまのあばら屋の雨漏りには、もううんざりしていた。
ここに住めるなら、雨が降るたび憂鬱な気分に支配されなくてすむ。
「よろしいのですか」
「この家は、わたしの少ない財産のひとつだ。貴殿ならばきれいに住みこなしてくれそうな気がする。住み心地は保障するぞ」
「ありがとうございます、ぜひに」
感激に頬を上気させる徐庶に、梁景はうれしそうにうなずいた。
「愛着のある家なのでな。貴殿になら、快く譲れる。わたしはおそらく、戻ってくることはないだろう。家のことが気になっていたが、これで肩の荷がひとつおりた。それと、もうひとつ約束してほしいのだが、伯礼のことは、だれにも口外しないでほしいのだ。これで終わりにしたい」
徐庶はためらった。
伯礼に本当に黙っていてよいものなのかどうか。
しかし、梁景の、こちらをじっと見つめる真摯な眼差しにぶつかり、決めた。
これは父子の問題だ。他人が口を出せる問題ではない。
「わかりました。孔明にも言っておきます。あれは口が固いのでご安心を」
「感謝する」
短く言うと、梁景は、徐庶の見送りを受け、武人らしく、あとを振り返ることなく、潔く冀州へと去っていった。
※
こうして車伯礼の仇討ち騒動は終わった。
徐庶は代書の仕事をふたたび取り戻し、そのうえ、小奇麗な住処まで手に入れて万々歳であったが、しかし気分がすっきり、というわけにはいかなかった。
やはり、梁景のことを車伯礼が知らないままということが気になったのである。
落ち着かない気分がつづくなか、仇討ちのことが世間ではすっかり忘れられたころ、孔明が庵にやってきて、言った。
「もう聞いたかい。おどろいたよ」
「なにが」
「車伯礼だよ。かれ、樊城に招聘されたらしいのだが、それを蹴って、冀州へ行くことにしたのだそうだ」
「冀州? なぜにまた」
と言ってから、徐庶は、はっとした。
冀州といえば、梁景が妹夫婦を頼って去っていった土地ではないか。
もしや、懲りずに、ふたたび仇討ちを狙っているのではないのか。
不安に顔をゆがめた徐庶に、孔明は意外そうな顔をして、言った。
「徐兄は、車伯礼の母上が亡くなったことを知らないのだな。だいぶまえから病身だったそうなのだ。
これは聞いた話だが、虫の息、というときに、伯礼を呼んで、重大なことを言ったらしい」
「なにを」
「それはわからないよ。医者も遠ざけられたそうだから。ただ、伯礼はそのあと、号泣して、とんでもない過ちを犯すところだったと大騒ぎしていたそうだよ。
おそらく、伯礼の母上は、伯礼の出自について、正しいことを教えたのだと思うね」
「それでは、冀州に行く、というのは、梁景に会いに行くためか」
「そうだろう。母親をなくして、伯礼も天涯孤独の身になってしまった。梁景も妹夫婦の厄介になっている身なのだろう。
一人ぼっちになった息子と、一人ぼっちの父親が再会するのさ。よかったね。これも徐兄が仇討ちを止めたおかげだよ」
「そうか、それはよかった。俺のおかげかどうかは知らんが、これですっきりしたな」
徐庶は父と子が再会した場面を想像し、心をなごませた。
この庵に住んでいた男は、きっといまごろ、うれしい再会におどろいていることだろう。
俺もこれで、心置きなく庵に住めるというものだ。
徐庶は心より安堵して、本当におのれの住処となった庵を振り返った。
そこにはもはや、先住の梁景の気配はなくなっている。
日に日に遠ざかっていく自身の仇討ちの記憶も、こうして日々を重ねていくうちに、きっといつか消えてくれるだろう。
時が癒してくれる。前に進むことが出来る。
そうだと信じて、徐庶は、窓の外に見える、空にひろがる曇りない青空を、すがすがしい気持ちで見上げた。
ご読了ありがとうございました(^^♪
おしまい
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(C)Hasamino Nakama 2008 12 23