水月玉女

正史三国志 蜀書 諸葛孔明伝曰く、建興三年、丞相諸葛亮は、春、大軍を率いて南征し、同年秋、蛮地の乱をことごとく平定した。

朝だ。
年を重ねるごとに、朝が早くなっていくのであるが、趙雲はもとより早起きの好きな男であったから、兵卒や諸将のだれよりも早起きをして、寝ぼけ眼の夜警に挨拶をし、陣に異常がないか見て回るのが日課になっていた。
蜀軍のなかでも、朝の趙雲の見回りに頼るものがすくなくない。蜀軍は、諸国の軍とくらべて、規律がしっかりしている軍であったが、それというのも、趙雲のように将軍職にあるものが、地道な毎日の努力を重ねているからであった。
そのおかげでもないだろうが、趙雲の体型は、もっとも脂の乗り切っていた三十代とほとんど変わらず、無駄な肉のたるみもなければ、肌の衰えもない。髪に白いものは混じりつつあるが、相貌は若々しく、矍鑠としており、それでいて年数を重ねて威厳は増していた。
趙雲は、関羽と張飛亡きあとの蜀の要であり、丞相孔明自慢の股肱の臣である。
起き抜けに、冷え切った井戸の水でざばざばと顔を洗い、それから、だらしなくそこいらに伸びている将たちを見て、なにをしているのだと、ため息をつく。
彼らは、魏延のもうけた酒宴に招かれていた者たちで、魏延のえんえんとつづく愚痴につき合わされ、朝まで断りきれずに酒を飲んでいた者たちである。
一方の趙雲は、いつまでも女々しいぞ、これは丞相の決定なり、と言い切って、さっさと席を立っていた。
魏延の酒宴の席をたてるのも長年の功労ゆえなのであるが、蜀軍のなかでも、魏延に直言を吐けるのが、いまや趙雲だけ、という状況を、如実にあらわしているところでもある。
南蛮での叛乱を鎮め、あとは帰るばかりだと将軍たちはみんな思っていたのだが、孔明は、これからこそが大事なのだといって、まだこの地に留まるという。魏延はそれが不服なのだ。

魏延という男、張飛にどこか似ているのだが、張飛とちがって、割りきりが悪い。
記憶力がいいのだろう。かなり昔のこともしつこく覚えており、あのときはああだった、今回はこうだ、やっぱり間違っている、といった論調がえんえんとつづく。
筋が通っているだけに、聞いているほうは宥めるしかない。

ちょうど孔明の幕屋から、蒋琬が出てきたところであった。
趙雲と蒋琬は、作法どおりに挨拶をませると、ゆったりと歩を進めながら、会話をはじめた。
趙雲は、あまり人と語ることを好まないが、この蒋琬という青年は、別である。
蒋琬には気取ったところがまるでない。総じて地味なのであるが、能力は高い。人の話をよく聞き、どんな者の心をもほぐしてしまう。
印象が鮮烈で、怜悧な風貌ににあわず、じつはなかなかな劇情家である孔明とは対称的に、雨にしっとり濡れた大木のようにかたわらに佇んでいて、人を安心させるのが蒋琬であった。
「昨夜はだいぶ魏将軍とお過ごしになられた様子ですな」
と、蒋琬は、陣のあちこちで酔ったまま寝潰れている将たちを見て、言った。彼らはいまでこそ気持ち良さそうに青草のうえでぐうぐうといびきをかいているけれども、ちょうどよい虫のエサとなっているので、目覚めたら、最悪であろう。
「たるんでおるな」
すると、蒋琬は、唇に穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ご安心なされませ、じき、成都より費長史が参ります。あれならば、魏将軍に気に入られておりますゆえ、酒の相手もいたしましょう。きっと今頃は道中で、南蛮の酒はどのような味がするであろうと舌なめずりをしているにちがいありませぬ」
「文偉が来るのであれば助かるな。魏延はむずかしい。漢中を魏の侵攻から守り抜いた功績により、先帝に可愛がられていたが、それがゆえに、自分が先帝の意志をだれより継いだと思っている。だから、先帝が生きていたなら、こうはしなかったであろうと思われることを見つけると、歯に衣きせず、批判をするのだ。
亡き御方を慕い、いまもって忠誠を誓い続けるその性根は賞賛すべきであるが、魏延の場合、それが過剰なのだ」
趙雲は、もとより孔明に近くいて、その考えに慣れているから、劉備が亡くなり、劉禅が帝位を襲ったあとの、孔明を中心とする蜀の体制になじむのも早かった。
だが、趙雲から見れば、魏延はいまもって馴染めていない。ひとりだけ、浮き上がっている。
危ういな、と趙雲は思う。
魏延はたしかに有能な武将であるが、武人としての活躍を期待されている者であり、だれもご意見番としての役目を求めていない。
魏延の役目を越しての行動は、いつかはいらざる軋轢を生むのではないか。

考え込んでいると、前方を、ひらひらと美しい羽根を持った蝶が飛んでいく。
それは大きな、黒い羽に赤い模様を配しためずらしい蝶であった。
南蛮の地は、とにかく自然が美しい。その自然に苦しめられたのも事実であるが、こうして戦がおわって心穏やかに周囲を眺めてみると、ちょっとしたところに咲いている小さな花さえも、色鮮やかに目に飛び込んでくる。
水はあくまで澄明で、空気はすがすがしく、靄にけぶるなかあらわれる人家の木目の黒さのぬくもり、そして鮮やかさ。なんてことなないところに生えている木も珍しく、そして蛮人のまとう衣装も、目も彩に楽しませてくれるものばかり。
「これは、丞相の性格からすれば、一年中遊べる土地であろうな」
趙雲がいうと、蒋琬は穏やかに、さようでございますな、と相槌を打った。
「ときに公琰、なにがあった」
趙雲の、遠慮ない直言に、蒋琬はうろたえたようであるが、すぐに居住まいを正して、答えた。
「なぜに」
「そなたの顔色でわかる」
「かまいませぬな。しかし、お答えすることはできませぬ。丞相に口止めをされておりますゆえ」
「その答えで十分ぞ。文偉が来るのであれば、魏延は頼む。あれは、こたびの丞相の逗留に、不満を持っている様子。あれと、あれの部将が、粗相をせぬよう、そなたと文偉とで見張っていてくれ」
「判り申した。丞相のことはお願いいたします」
「任せろ。ところで、蛮人たちの動向はどうだ」
「孟獲が丞相に心服したのを受けて、ふたたびこちらに有利な条件で交易の契約を結べそうでございます。とはいえ、丞相は、前回に結んだ条約では、あまりに蛮人に不利であろうということで、もっと公平な契約をするおつもりの様子。それに孟獲が感激し、各部族の洞主たちに働きかけてくれております。問題はなにもございませぬ」
「当初、なにゆえ蛮人にそこまで気を使われるのかと怪訝に思ったものだが、丞相はこの結果を想定して動いていたのであろう。幼宰殿や張伯岐に相談したのがよかったのだな。これで南は治まる。公琰、ついでといってはなんであるが、ことの経緯と、丞相のなされようとしていることを、寛大に過ぎると勘違いをしているやつらによく言い含めてやってくれ」
「趙将軍は、昨夜、かなりの愚痴を聞かされたようですな」
想像がつくのだろう、蒋琬はめずらしく声を立てて笑った。南蛮の美しくも穏やかな空気が、蒋琬の気持ちをも軽やかにしているのかもしれない。
「このままでは、魏延め、蜀の中で浮き上がる。それがわかっておらぬのだ。あれを孤立させてはならぬ。魏延たちにだけではない。丞相の周囲にいる文官たちにも、言動に注意するように伝えよ。そなたたちの言葉は、われらにとっての剣だ。不用意なひと言で、相手を切り伏せてしまうこともある」
「趙将軍がおっしゃられると、不思議に重みがございますな。おや、われらが弟君が参りましたぞ」

見ると、のっしのっしと象を引き連れて、えへんと輿に乗った孟獲が、さっそく孔明に会いに来たのであった。
孟獲は、孔明に七たび許されてより、すっかり孔明に心酔しており、孔明を『尊兄』と呼んで、自分は弟分のつもりなのである。
孟獲は輿の上から、趙雲と蒋琬の姿を見ると、おおい、おおいと手を振った。
「よき朝でございますな、お二方。ときに、我が尊兄はお目覚めか」
流暢な漢語で尋ねてくる孟獲に、蒋琬は言葉をにごすのであるが、代わりに趙雲が答えた。
「もうお目覚めぞ。大王、今朝は如何した」
「おう、あまりによい朝なので、尊兄を我が国にご案内いたそうかと思うてな。なにせ戦ばかりで尊兄は、じっくりこの地のよさを眺めておられぬ。ご覧下され、今朝の空の色。瑠璃色とでも申しましょうか。これほど深い青空の日に、外に出なくてなんといたしましょうや。わが領民も歓迎の準備をいたしております。どうか、尊兄にお取次ぎをねがいたい」
「大王どの、丞相は」
と、断りの口上を述べようとする蒋琬を、やんわりと制して、趙雲は答えた。
「よかろう、丞相にお伝えいたそう。それがしも同行するつもりだが、邪魔にはならぬかな」
孟獲は、蜀の二本柱を迎えることができると知って、手を打って喜んだ。大王の富を示す、金色の首飾りや腕輪が、孟獲がうごくたびに、陽光をうけてきらきらとまばゆく光る。
じつのところ、趙雲は蒋琬の様子から、孔明になにかあったのだ、ということの見当はつけたものの、それが何であるかはわからなかった。
費文偉が成都より呼び出されるというのも、魏延らを抑えるのが、孔明や蒋琬だけではむずかしいということを示している。いつもならば、こんな気弱な真似をしない。意地でもすべてひとりで行う男が、どうしたというのだろう。

さっそく孔明の幕屋へ向かい、脇侍に取次ぎを依頼していると、ほかならぬ本人が、声をかけてきた。
「子龍なのか。近う」
脇侍の者は心得たもので、孔明のところへ趙雲があらわれるのは、内密の話が多くを占めると知っている。だから、趙雲が奥へ進むのと同時に、自分たちは一礼して、幕屋の外へと去った。
「文偉が来るようだな」
「今日にでも着くであろう。人が不足しているので呼んだのではない。かねてより、幼宰殿より、文偉も南蛮行に同行させるべきだとお話を受けていたのだ。だが、あれも大事な費一族の長。あれの身になにかあれば、伯仁殿の息の根が止まる。それゆえ、情勢が落ち着くまで、呼び寄せていなかったのだ」
一気に喋る孔明の顔は、寝起きというだけではあるまい。どこか青白い。
「俺はまだ何も言ってはおらぬ。そういうことならば、それでよい。あれは朗らかな男ゆえ、貴殿の気持ちをいくらか和らげるであろうよ」
「ふむ、わたしはひどい顔をしているのか」
と、孔明は、不本意というふうに顔をしかめた。
孔明が劉備に遺児を託され、丞相の位にのぼり、蜀を実質上、治めるようになってから、二年の月日が流れた。
栄耀栄華を極めたようにさえ見えるこの出世も、事情がちょっとわかれば、とんでもない重荷を背負い込んだものだと知れるだろう。
事実、趙雲は、丞相になってからの孔明に、以前のような、向こう見ずなまでの明るさが減ってきたように思える。新野城にて引き合わされてより、十五年あまりの月日が過ぎた。おそらく生涯で、もっとも長く、そして深く付き合った相手である。
齢四十四となった孔明は、何を食べていればそうなるのか、不思議と老いの気配が薄い。
髪はいつまでも黒く豊かで、肌の衰えはなく、玉石のごときなめらかさをなお保っている。挙搓や言動は、以前よりもより深みを増し、ブレが減った。
かつてはあまりに冴えているために、恐ろしさを印象させていた双眸は、劉備の死を経て憂いを含み、いまは穏やかだ。心栄えがこれほどに容姿に見事に反映している人物もめずらしかろう。
趙雲は、朝の清清しい冷気に立つ、清雅な孔明の姿が好きであった。
「なにがあったのか、敢えては聞かぬ。表に大王が迎えに来ておるぞ。よい機会だ。ともに散策に行かぬか」
でも、と孔明はためらい、それから思い立ち、小首をかしげて言った。
「あなたも同行するのか」
「この地の様子に興味がある。外はすばらしくよい天気だぞ。大王は瑠璃色の空だと言ったが、まったくそのとおりだ。あれには俺より詩心があるらしい」
珍しく冗談を言う趙雲に、ようやく孔明の顔に笑みが浮かんだ。
「そうだな。ここで一人、じっとしていても、なんの慰めにもならぬ。それよりも、我らが同志となった大王の治める土地と、領民たちに触れるほうが、よほど有益だ。行くよ。支度をするゆえ、大王に、しばし待たれよと伝えてくれ」
うむ、と肯き、幕屋を出ようとして、趙雲はふと、踵を返す。
「やはり聞いてよいか。なにがあった」
だが孔明は、静かな表情を崩さず、首を横に振ると、答えた。
「成都に戻ってから言う。わたしの様子がいつもと違うことは、黙っていて欲しい。みなを動揺させたくない」
孔明の姿には、それ以上の問いを拒む気配があったので、なによりもその気性を知っている趙雲は、黙って大王に孔明の言葉を伝えるべく、外へと出て行った。

孟獲は、孔明が姿を現すと、子供のように満面の笑みを浮かべ、輿から飛び降りると、「尊兄、尊兄」と言いながら駆け寄ってきた。
これがつい数日まで、角突き合わせていた大軍の大将同士なのである。
当初、趙雲は、孟獲の、見ようによっては卑屈ともいえる態度に、もしかしたら領民のため、孟獲は身を切って、みずから道化を装い、孔明の歓心を引こうとしているのではと考えていた。おそらく、孟獲側の思惑は、最初は推測どおりであっただろう。
だが、これまでの征服者とちがうことに、孔明は自軍の兵に掠奪をゆるさず、搾取をしたり、無理難題を押し付たりすることもなかったため、孟獲はすっかり本当に孔明に心服してしまったようである。
南蛮側に提示した交易の条件も、おおいに孟獲の気に入ったようだ。
「尊兄は、象に乗られたことはあるまい。牛馬なんぞより、ずっと見晴らしがよくて楽しいぞ。ささ、儂とともに輿へ」
と、孟獲は孔明を象の上にのせた輿に案内する。
象の上の輿から地上へは、なかなかの距離がある。
孔明がためらい、趙雲をちらりと見るが、趙雲は、これに無言で肯いて見せた。そうして象の背後よりぴったりと馬を寄せて、孟獲たちのあとにつづく形となった。

朝霧が次第に晴れてくると、斜面に並ぶ清い田畑のうつくしさ、瑠璃色に澄んだ空の下にある、白い峰の清らかな雄大さ。その麓に寄り合うようにしてある集落の平和なたたずまい、住む領民たちのまとう、色とりどりの衣裳が目に映える。
さまざまに色を取り入れた衣裳を見て、趙雲は祭りでもあるのかと思い、孟獲が趙雲のためにつけてくれた通辞にたずねたところ、この一帯の民は、いつもこうなのだという。
たしかにすぐれた統治制度はなく、識字率も低く、民族間で争いが絶えない土地ではある。
しかし、彼らは、漢族が野蛮の地とさげすむ、ここよりもはるか彼方の外にひろがる世界に目を向けて交易をしており、経済的には裕福なのだ。
ただ、争いが絶えないために、交易で得る収入のほとんどを、戦のために無駄に消費してしまっているのである。

途中、大きな花弁を持つ、桃色の花びらが降ってきた。
市場で彼らを待ち受けていた娘たちが、積んできた花を投げてきたのである。
孔明はあいかわらず青白い顔をさせており、象の輿の揺れが合わないのか、酔ったのではないかと危ぶむほどであったが、娘たちの歓迎に、ようやく明るい笑みを見せた。
孔明は、漢族のなかにあっても目立つ清雅さを備えた人物であるが、蛮族たちのなかにあっては、それは特に際立つらしい。
ひとびとは孔明がやってきたと知るや、店の奥、あるいは家の窓から顔を出し、果たして馬援の再来といわれる人物は、どのような顔かしらと興味津々であつまってくる。
そうして、馬援のように、威厳と風格を兼ね備えた老将を想像して、孔明を見て、その若さと、冴え冴えとした秀麗な面差しにおどろき、陶然となるのであった。
趙雲としては、あくまでこちらは征服者なのであって、いくら孟獲が同行しているとはいえ、彼らがいつ、暴徒に転じるかわからぬから、市場は足早に通り過ぎるべきであろうと思っていたのだが、孔明は、持ち前の陽気な面を見せて、輿から降りると、市場の者たちに通辞を介さず会話をし、さらに場を盛り上げた。
もちろん、片言ではあったが、漢族の一軍の長が自分たちのことばを口にしたので、ますます領民たちは大喜びである。
そうして、ひとびとは、売り物の果物や、めずらしい蛙の肉、タニシなどをつぎつぎに捧げてくる。
もらったところで食べられるのだろうかと趙雲が怪訝に思うのをよそに、孔明はすべてそれを受け取っていた。
おそらく律義な性格の孔明からして、ちゃんと陣に戻ってから、それらの食材を料理させるにちがいない。水桶に並べられた黒い蛙たち、大きな剣型の葉のうえにならべられた虫の干したものをちらりと見て、趙雲は、あまりご相伴には預かりたくないものだと思った。
孔明は、集った人々に名前を聞き、どのような字を書くのかと尋ねた。
すると、たいがいの人々は、自分の名前の字がわからない。
孔明は、音でもってそれにふさわしかろうという字を当てて、地面にさらさらと、相手の名を書いて見せた。
するとおどろいたことに、市場の人々は、まるでそこに魔法を見たかのように熱狂し、我も、我もと孔明のもとにあつまって、是非に名前の字を教えて欲しいという。
孔明はなるべく、そのひとつひとつに答えていたが、キリがないため、孟獲がそろそろおしまいにしようと場を収拾させ、市場を去った。

昼ごろになると、孟獲の自慢の砦に一行はやってきた。
その砦にあがる旗を見て、趙雲は緊張した。
そこには、それまで戦った蛮族の長の旗がずらりと並んでいたのである。しかも各洞主の近衛たちが、そこかしこで砦を守っており、いまにも戦を仕掛けてきそうな勢いである。
孔明の守りのために用意した手勢はごくわずか。これは孟獲の気遣いを最大限に尊重しようと、孔明が指示したものである。
はかられたか。
趙雲の緊張をよそに、象の輿のうえにおさまっている孔明には、なにが見えるのやら、呑気に砦の上に手を振っている。
すると、それに呼応するように、砦の上から、洞主たちが身を乗り出して、孟獲と孔明に親しげに手を振ってきた。
この段になり、趙雲は、ぴりぴりとするのをやめた。
つい数日前まで敵だった相手を、まるで遠方からやってきた親戚のようにもてなすことのできる、彼らの懐の深さにすっかり毒気が抜かれてしまったのである。
もはや彼らにとって、孔明は征服者ではなく、仇敵ですらない。歓迎すべきあらたなる仲間なのである。
砦には、近在の大小の洞主がすべて顔をそろえており、孔明はそれを見ると、
「これならば、このまま話を進めてしまったほうが早かろう」
と言い、孟獲を頭にして、洞主たちを一堂にあつめた。
そして、あらためて交易に関する条件と、そのための部族間の争いを無くすよう約束すること、その代わり、漢族は南蛮において、一切干渉をせず、役所も置かない、完全な自治を保証すると告げた。
部族間の争いを無くせ、という条件に、洞主たちはおどろき顔を見合わせ、そこまで自分たちを思ってくださる、この方はまるで父のようだといって、ますます孔明に心を寄せた。
とはいえ、交易に関する云々の知識のある趙雲は、部族間の争いを無くすことで、交易をさらに発展させ、南蛮から成都につづく交易行路を確保し、拡大させ、交易による国力の増強をはかる孔明の意図がわかっていた。
だから、純真に孔明のことばに喜ぶ洞主たちの姿に、騙しているわけではないけれど、心苦しさをおぼえたのもたしかである。
その後、孟獲によってささやかな宴が開かれ、各部族の踊り子たちが華麗な衣裳で、おのおのの舞を披露した。
食事は、さいわいなことに、孟獲の配慮により、漢風のものでばかりで、趙雲は安心して箸をすすめることができたのである。


さて、交易条件について、洞主たちの快諾を得て戻ってきた孔明は、文官たちに、なりゆきで話を進めてしまったことを詫びたのだが、蒋琬をはじめとする文官たちは、孔明の手際のよさに感心し、さっそく、各洞主たちに向けて、交易の条件を記した文書を書き送った。
かくて南蛮における丞相孔明の仕事はすべて終わり、あとは蜀に無事、帰還するだけである。
魏延や馬岱などは、ようやく成都に戻れるといって、大喜びし、さっそく成都よりやってきた長史の費文偉をさそって、どんちゃんと賑やかに最後の宴をはじめる始末。
文偉のおかげで、無理に酒に付き合わされなくてよくなった部将たちはほっとし、それぞれ帰還のための準備をはじめた。
趙雲は、あちこちから酒宴の誘いがかかったが、すべてを断った。
南蛮の平定は、完璧と評価してもよいほどに大成功をおさめた。
しかし、今回はもっとも功績をあげた孔明の顔色が、一向にすぐれない。
いまさら、犠牲者が出たことについて、くよくよ悩む性質ではない。屍の山を、ひたすら無言のまま、前へ、前へとのぼり続けるのが諸葛孔明である。
様子がおかしいのは、今朝からだ。
笑顔は絶やさないでいるものの、その笑みにはどこか無理がある。ほかの者ならば気づかないかもしれないが、長年にわたり支え続けてきた趙雲には、孔明が今日一日、かなりの無理をしていたことがわかった。

あちこちの幕屋において、帰還をよろこぶ武将たちの、にぎやかな笑い声、歌声が聞こえてくる。
だれにとっても帰郷はうれしいものだ。今回の戦では、おのおのに大きな褒賞は与えられないけれども、蛮地を見事な手際で平定したという栄誉は、どんな低い地位の兵卒の誇りをも満足させていた。
掠奪も許されず、私財を増やすこともできなかった。並みの軍であれば、不満がそこかしこに出ている。
魏延のような例はあるものの、おおむね、軍は規律を守っている。やはり孔明の手腕という者は、並ではないのだ。そのことに、まだみな気づいていないけれども。
何事も起こらない、ということがどれだけすばらしいことなのか、何事も起こさせていない孔明がどれほどすばらしいのか。それを知るのが、まだ自分だけということに、趙雲はささやかな喜びを見つけてみる。
これは、新野からずっと諸葛孔明という人物が、まことの龍であると信じて付いてきた趙雲にとっては、なによりも代えがたい喜びであった。

ふと、孔明のいる幕屋を目指していると、おなじみの長身痩躯の人影が、伴もつれずにふらふらと歩いていく。
脇侍はなにをしているのであろうと思いつつ、趙雲はそのあとについていった。
天空には折れそうな三日月が浮かび、さんさんと賑やかにまたたく星明りが大地を照らしている。篝火の助けもあり、陣のなかを歩きまわるには、不自由はなかった。
なにをしているのかと疑いつつ、孔明の後ろを歩いていると、孔明は、陣から抜け出て、そのままひたすら歩いていく。
孔明は歩くことを好み、意外に足が早い。しかも陣から離れれば、頼りになるのは星明りのみ。
これは見失うな、と判断し、趙雲は足を早めて孔明の後を追った。
やがて、孔明は陣のそばにあった川岸に来ていた。そしてなにをするでもなく、近場にあった大き目の岩に腰をかけ、子供のように、履いていた沓を砂利のうえに放り投げ、それから満点の星を見上げている。
近づくと、孔明は、星を見上げたまま、背後にやってきた趙雲に言った。
「子龍か」
「気づいていたのか」
「足音で。陣を出るときにだれか伴をと思ったのだが、あなたがついてきているようだったので、だれにも頼まなかった」
「ならば、ひとこと言ってくれ」
心配した、という言葉は飲み込んだ。孔明は、足をぶらぶらとさせたまま、じっと空を眺めている。
つられるようにして眺める空は、黒衣の上に、ありったけの宝玉をぶちまけたような豪勢さで、地上のふたりを圧倒していた。
そのあいだも、川のたゆたう音が、絶え間なくつづいている。たまにぽちゃりと跳ねる音がするのは、魚か、あるいは夜間にうごきまわる動物が、魚を獲りにあらわれたのかもしれない。
「なにがあった」
「成都に戻ってから話すと言っただろう。それより、見たまえ、なんていう星空だろう。月さえかすんでしまうようだ。曇りがちの成都じゃ、なかなか見られるものではないな」
「天文方が喜ぶだろうな」
「あなたは嫌いか」
「好きでも嫌いでもない。美しいなとは思うが」
趙雲は、孔明の座る岩の背後に並びつつ、雲ひとつない星空を見上げてみる。ひとつひとつが絶え間なく輝き、主張を繰り返している。
ひときわ美しい光彩をはなつ天狼星の、青白い凍った輝きが、趙雲は好きである。
「星というのは、死者の転じたものだという話を聞いたことがあって、だからだろうか、星空を見ると、どこか墓参りをしているような、神妙な気分になっていかん」
それを聞くと、孔明は声をたてて笑った。
「死して人は星になる、か。では、わたしたちのことを、死者はいつも闇からこうして見つめているというわけだね。なにか言い残したことがあるから、あれほどまで光り輝いているのだろうか。どうせならば、判りやすい言葉で語ってくれればよいものを」
なんだ、ずいぶんらしくもなく、感傷的になっているものだな、と趙雲はたじろいだ。
孔明は曹操のように詩をものしたりする人間ではない。おのれの中の感性を、文字に向けるよりも、道具作りに向ける類いの人間だ。
「おい、ここで星を眺めるのもよいが、存外に風がつよい。陣に戻れ。大将たる貴殿が病に倒れたら、明日にでも成都に向けて出立できると喜んでいる兵卒たちががっかりしようぞ」
「正論だな。だが、わたしはしばらく、ここにいたい」
「いつまで」
「気が済むまで」
やれやれ、と趙雲はため息をつく。こうなると強情なので、へそを曲げた水牛のごとく、引っ張っても動かなくなる。
「わかった。しばらく、ここにいろ」
「うん?」
いつもならば、なんだかんだと小言を繰り出す趙雲が、あっさり引いたので、それまで夜空をながめつづけていた孔明は、おどろいて振り返った。
「俺は、これから陣に戻り、酒を取ってくる。ここにいるつもりなら、酒を飲んで、体を温めろ。念のため、俺が戻るまで、これを持っておれ」
と、趙雲は愛用の剣を孔明に手渡した。
「それでは、あなたが丸腰になってしまうぞ」
「短剣がある。それに、たとえ丸腰でも戦える」
孔明は納得して肯いた。
「あなたはそういう人であったな。ここで大人しくしているよ。ああ、肴の類いはいらない」
趙雲は、孔明を置いて、ふたたび陣に戻ると、酒袋に酒を入れ、それから杯を用意すると、孔明の待つ川岸へと向かった。
だが、川岸に戻った趙雲は、岩の上に孔明の姿がないことに、まずうろたえた。
大人しくしているといったくせに、いったいどこへ行ったのか?
そうして、闇に目をこらすと、川辺にて、孔明がぼんやりと立っているのがわかった。
それを目にした途端、趙雲はぞっと背筋を凍らせた。
孔明に何事かあったわけではない。ただ、孔明は立っているだけなのであるが、その姿が、かつてないほど頼りなく、また力がないように思えた。
手には文官らしく、ただ抱えているだけの剣がある。もし剣を持っていなければ、その寄るべない様子のうしろ姿は、これから川の流れに身を投じようとする者のそれに見えたであろう。
「丞相!」
酒袋などをすべて岩の上に置き、走り寄るのであるが、孔明は振り返りもしない。
「おい、どうした!」
思わずその肩を乱暴に掴むかたちとなったが、孔明は、じっと川面のほうに目をやったまま、表情を凍りつかせている。
何事か、と同じく川面に視線を走らせた趙雲であるが、川岸には、板塀に載せられた、美しく着飾った娘が蝋のように白い肌をして、横たわっていた。
※南蛮編、本編突入でございます。平定後からはじまりますので、平定のエピソードを期待されていた方、いらしたらごめんなさいです。BBSでご指摘いただきました点、改良しました。二箇所だけ加えただけですが、内容的には変化はありません。四十代の孔明と五十代の趙雲のやりとり、あんまり代わりばえないなぁ。いつまでたっても趙雲は孔明の世話を焼かずにはおられない、ということで…^^;

つづく

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