水月玉女
一
「亮、起きなさい、亮!」
ゆさゆさと体を揺らされて、少年らしい深い眠りについていた亮は、ゆっくりと目を覚ました。
もともと、亮は眠りが深く、目覚めるのが遅い。夢も見ずに眠るので、いつも気がついたら朝なのだ。
しかも、徐州から荊州にいたる危険な道中のなかでも、夜は弟と枕をならべて、ぐうぐうと眠っているのだから、どちらかといえば病がちな亮を、癇の強い子だとばかり思っていた家人たちは、なかなかの胆力がありなさる、将来は大物でしょう、といって冷やかした。
ぼんやりと開いた眼に、真っ暗な部屋と、闇の中にかすかに輪郭だけがわかる姉の姿がある。手を伸ばせば、とろりとした感触が味わえそうな、真の闇であった。
声と輪郭で姉とわかったものの、まだ夜明けには遠い時間なのに、どうして姉が自分を起こしたのかがわからない。
そうして、だんだんと頭がはっきりするにつれ、昨夜は、親切な集落で宿を取り、ひさしぶりにゆっくりくつろいでいたことを思い出した。
ところが、眠っているあいだになにがあったというのか、闇のなかのあちこちで、ぱたぱたと家人たちが動き回る足音、そして荷造りを手早く行う、布と布の擦れる音などが聞こえてくる。
「何があったのですか」
まだまだ眠たい目をこすりつつ、亮が尋ねると、姉は密度の高い闇の向こうから、鋭く叱った。
「静かになさい。起きていることを気取られたらいけない。均も起こしてちょうだい。騒いではなりませぬよ」
姉は、亮の母親代わりともいうべき女性である。いささかきつい性格をしてはいるものの、若くて聡明で美しい、亮の自慢の姉であった。亮より一回り年長で、二十代半ばの姉と、亮と、弟の均とでは、それぞれ母親がちがう。しかし父親は、三人を隔てなく可愛がり、それを受けて、姉弟仲はたいそうよかった。
均は亮とちがってすぐに起き上がり、真っ暗闇のなかにばちばちと火花が散るような、ただならぬ気配に怯えている。
「沓をちゃんと履いて。よろしい、これからすぐに、ここを発ちます」
姉の言葉に、亮と均は顔を見合わせた。
「なぜです。ここは親切だし、しばらくお世話になってもよいと、姉上は昼間、おっしゃっていたではありませんか」
口を尖らせると、家人が表を気にしながら、言葉を副える。
「姉君のおっしゃるとおりになさいませ。そも、ここに宿を取ってはいけなかった。姉君を恨まれるより、この婆を責めなされ」
婆、というのは姉の乳母のことである。婆はかつて亮たちの父に恩がある、ということで、親戚の男たちをあつめ、徐州から荊州へと逃げる子供たちを守っていた。
「まだ疲れが取れていないよ」
「ならば、坊ちゃんはわしが背負って行きましょう」
と、婆の息子が、寝起きということもあってぐずる亮に言う。
しかし姉は、するどくぴしゃりと言った。
「いいえ、甘えさせてはなりませぬ。亮、そなたはいくつになったのです。均はなにも言わずに、御覧なさい、もう出立の準備が出来ているというのに、おまえはなんですか。恥ずかしいと思いなさい」
均は実によくできた子供である。亮は均がわがままを言って、姉を困らせているところを見たことがない。
ちょっと得意そうにしている均をかるく睨みつけ、しぶしぶと亮は姉の言うとおり出立の準備をした。といっても、寝台の横にそろえてあった沓を履いて、簡単な身づくろいをするだけだ。
寝乱れて崩れた髪を結うのを手伝いつつ、婆がぼやいた。
「まったく、どうしてこのようなことになったのでしょう。ご主人さまが亡くなれてから、この家はよいことがひとつもない。亮さま、昼間、集落の者に、なにか聞かれましたか?」
「いや、なにも。疲れて口を利くこともできなかった」
「それじゃ。だから連中は、見た目だけで判断したにちがいない」
と、婆の息子は一人合点する。亮はなにがなにやらわからないまでも、どうやらこの急な出立は、自分がらみであることを悟った。
すっかり頭が冴えてくると、姉にわがままを言って困らせて、悪かったなと思えてくる。謝ろうかと姉を見るのであるが、姉はいつになく緊張した面持ちで、家人たちをあつめ、事細かに指示を出しており、声をかけられる雰囲気ではない。
「なにがあったのだい?」
と、婆の息子に尋ねると、かつて義勇兵として官軍に参加していたときに支給された鎖帷子に、剣、という出で立ちの婆の息子は、答えるのをためらった。ますます亮がいぶかしんでいると、婆の息子は、言葉をにごしつつ、こういった。
「まあ、旦那様も背の高いお方でございましたし、亮さまもじき、大きくなられて、このようなことはなくなりましょう」
「亮、用意はできましたか」
と、家人たちに指示を出していた姉が、亮のほうへやってきた。
さあ、謝るのだ。
しかし、亮が口を開く前に、姉は早口で一気に言った。
「よくお聞き。これからわたしたちは、二手にわかれて集落を出ます。わたしは均たちと表から行きます。おまえは裏から婆たちと一緒にお行き」
それを聞き、亮は不安をおぼえた。姉弟のうち、なぜ自分が一人なのか。
姉は、亮に抗議するヒマを与えず、婆と、その息子たちに言った。
「ここから西へ一里ほど行った先に、以前に父上と親交のあった馬商人の常宿があります。先に使いをやらせているので、うまくすれば、途中で落ち合うことができるかもしれない。永昌までの道は、わかるわね? もしもわたくしたちに災禍がふりかかり、合流することができなくなっても、戻ってきてはなりませぬ。かならず、亮を叔父上のもとに届けるのです」
闇の中、みなが息を呑むのがわかった。姉は、しんとした闇を順々に見回し、力強く言う。
「でも、そのようなことにはならないでしょう。だって、みながいるのですもの。かならず、荊州へ行き、心穏やかな生活を取り戻すのです。さあ、わかったのなら、集落の者たちに気づかれぬようにここを出ましょう。牛や馬を出すのはむずかしい? それなら、置いていくしかない。必要なものだけをみなで分けて背負うのです」
そういって、姉はふたたび最後に亮を向くと、さきほどとは打って変わって、静かな口調で言った。
「そなたは何も持たなくてよろしい。よいですか、わたしたちは別にここから出ますが、おまえは決して振り返ってはなりませぬ。婆たちを信じて、ひたすらまっすぐ前へ進みなさい。必ず、叔父上のところへ行くのですよ」
ここへきて、亮はようやく、自分たちがかなり切迫した状況の中にいるということを、はっきりと悟った。そして、二手に分かれる、というのは、どうやら自分を逃がすためのことらしい、ということも。
いますぐ姉に謝らなければと思ったが、婆と息子たちに囲まれるようにして、お早く、とうながされ、姉や均と引き離されてしまった。
やがて、婆と息子たちに連れられて、足音をしのばせ、家の裏からこっそりと外へ出ることとなった。
真夜中で、しんとした中を、風がざわざわと不気味に木々を揺らしている。
ばさばさ、と羽音がひびき、みると両手の手のひらを合わせてもまだ足りないほど大きな、不気味な火虫が、亮たちの気配におどろいて、重々しく羽ばたいていったところであった。
その禍禍しいすがたに怖気をふるいつつ、亮が前方を見ると、おどろいたことに、万物が寝静まる時刻だというのに、集落のあちこちで松明が焚かれている。
集落を取り囲むようにしてうなる風の音にまぎれるようにして、ドンドン、ドコドコと、太鼓の音がひっきりなしにつづいている。
地面をつたわって、しっかり臓腑の奥にまで響くような、だれかの鼓動が忍び寄って、自分のなかに入り込んでくるような、不穏な音であった。
婆の息子のひとりが、こいつはまずい、集ってきてやがる、と唸った。
亮はわけがわからなかった。
むかし、家人のだれかが教えてくれた怪談が、そのまま現実のものになってしまったのだろうかと錯覚した。
すなわち、親切な宿に泊めてもらったが、じつはそこは盗人の宿だった、という話だ。旅人を歓待して油断をさせ、寝入ったところへ物品を奪い、役人にばれないように、その肉を食べてしまう。
その怪談の結末は、どうなっただろうか。うまく逃げおおせたのであったっけ?
「いまだ!」
亮は、婆と息子たちに囲まれるようにして、集落の者たちに気取られないように、草の上を駆け抜けた。
集落はぐるりと周囲を濠で囲まれており、水は、近在の川から引いてきたものであった。集落に立ち寄る途中は湿地が多く、茶色い錘のようなガマの穂が、あちこちに並んでいた。川辺は近づくと、とぷとぷと不気味な水音をひっきりなしにさせており、どこか生臭い匂いが耐えなかった。
おそらく川の流れのせいで、集落のすぐそばの川辺が窪んでいることから、上流からの漂着物が集ってしまい、なにかが腐っているのだろう。
こんなところに住まなくちゃいけないなんて、どんな気持ちなのだろうと、亮は昼間、考えをめぐらせていたのであるが…
息子たちは、濠までやってくると、母親と亮をそれぞれ担ぎ、勇敢に浅い水を掻き分け、向こう岸に向かった。
さいわいなことに、かれらの起こす水音は、太鼓の音と風の音にまぎれて、集落の者たちには気づかれなかったようである。
濠を越えて、ほっとしたのもつかの間、地面に降り立ったとたん、濠の向こう側、集落の内側で、わあっと声が挙がったのがわかった。
太鼓の音が途切れ、風の音ばかりがごうごうと、集落の上空を暴れている。
亮が振り返ると、風になぶられる幾多もの篝火が、あちこちから一箇所に集りつつあり、それがどうやら、二手に分かれたうちの、姉たちに集っているらしい、ということが知れた。
亮はすぐさま濠を戻ろうとしたが、屈強な婆の息子の腕に押し留められた。
「いけません、坊ちゃん! 戻ってしまったら、お嬢様のお心が無駄になっちまいます!」
「無駄? 無駄ってなんなのだい? わたしは、ひとりだけ助かろうなんていうのは、絶対にいやなのだ。姉上や均と一緒でなければ、永昌になんか行かない!」
「なりません! 戻ったなら、坊ちゃまは殺されてしまいますよ!」
と、息子に背負われたまま、婆は言った。物騒な世の中だから、物騒な言葉こそ日常会話になってしまっているけれど、殺す、殺されるなんて最たるものが、自分に向けられるとは思ってもいなかった。
亮がおどろいていると、婆は諭すように言った。
「この集落で休みましょうと言った、婆も悪かったのです。それにめぐり合せも悪かった。この集落は、今宵、出遊の祀りを行うところであったのです。
出遊とは、河の男神に、娘を嫁がせる儀式。板塀に、盛装をさせた美しい娘を載せて、河に流して生贄とする、古い古い、野蛮な儀式です。
集落の者たちは、このご時世でございますから、亮さまのお姿を見て、これはきっと、男装した少女にちがいない、どうせ流民の子であれば、一人くらいいなくなっても構わぬであろうと勘違いしたのでしょう。風習では、生贄の花嫁は年若い乙女が好まれます。姉上はいささかお年が過ぎておりましたゆえ、亮様に目をつけたのでございましょう。そこで、わたくしたちを歓待するフリをして、亮さまを攫おうと考えたのです。
ですが、夜中に厠に立った息子がそれに気づいて、姉君は、すぐに出立されることを決意なすったのです」
「わたしを女だと勘違いしたっていうの? だったら、戻って、誤解を解けばいいことではないか!」
「なりませぬ! 誤解だったとわかったところで、彼らはすっかりわたくしたちのだれかを生贄にするつもりでいる。わたくしたちが姿を現さなければ、彼らは自分たちの子を捧げるつもりであった。
よろしいか、ひとたび希望を与えられ、助かると思った者は、たとえ一度は決意を固めていたとしても、希望を見てしまったからこそ、二度と絶望の淵に立とうとは思いませぬ。亮さまが駄目だとわかったなら、彼の者らは怒り狂い、はやり襲い掛かってくることでしょう」
「それでは、姉上たちは、なおさら危ないということではないか!」
濠の向こうを見ると、篝火の群に追い立てられて、闇の中、姉たちが懸命に濠を越えるべく、向かってくるのが見えた。
「助けてあげて! 助けてあげてよ!」
だが、大人であるがゆえに
、行動の結果が想像できる婆と息子たちは、亮の声にも足を動かさない。どころか、必死に戻ろうとする亮の肩をぐいぐいと押して、濠から遠ざかろうとする。
「どうして見捨てるなんて出来るのだ! もしかしたら、みんな助かるかもしれないじゃないか! わたしだけ永昌に辿りついたとして、叔父上になんて言えばよい? わたくしは、姉たちを犠牲にして、ここまでやってきた臆病者でございますと? そんなのは嫌だ! おまえたちが行かないというのであれば、わたし一人でも行く!」
亮は、自分の肩をがっしり掴んでいた息子の腕に、鼠のような勢いでかじりつき、力が弱くなったところへ、ぱっと身をひるがえして濠へ、どぶんと身を落とした。
ざぶざぶと水を掻き分けつつ、集落の者たちに追われている姉たちのもとへと戻った。
姉は、集落のほうばかりを気にしていたが、かわうそのものにしては大きすぎる水音に、ようやく亮が戻ってきたことに気がついた。
悲鳴にもちかい声を一度だけあげて、それから家人たちに厳しく言った。
「急ぐのです! さあ、急いで! 濠を越えたら、振り返らずに駆けなさい! 馬商人のところへ行くのですよ、急いで!」
いいざま、姉は、自分についていた武人の腰から、すれ違いざま剣を奪うようにして抜き放ち、みずから殿(しんがり)に立った。
「お嬢様! なにをなさいますか!」
「なにをしているのです! わたくしは言ったはずですよ! わたくしたちに災禍が降りかかろうと、亮を連れて逃げなさいと! さあ、あの子を連れて、早く!」
家人たちは、姉の無謀な姿に言葉をなくし、かえって怯えて足をすくませてしまう。
その間にも、集落の者たちは、ぞくぞくと押し寄せてきている。
その数、百人は超えているだろう。
亮は水の中で必死に叫んだ。
「みな、早くこちらへ来るのだ!」
家人たちは、亮の声に我に返り、一人、また一人と濠に飛び込み、さきに濠の向こう岸についていた婆の息子たちに引き上げられていく。
その様子を見ていた集落の長らしき男が、夜闇のなか、叫んだ。
「このままでは生贄に逃げられる! 堰を壊してしまえ! 儀式が中略になってしまうが、仕方がない! そのまま川に流してしまうのだ!」
水にぷかりと浮かんだまま、迫り来る篝火に、たった一人で剣を抜いて立つ姉のうしろ姿は、亮の脳裏に鮮明に残った。まるで伝説の九天玄女のように凛々しく、美しく見えた。
「姉上! お早く!」
亮が叫ぶと、姉は剣を振りかざしたまま向き直り、それから、遠方からひびく、どどっ、と大きな音に、耳を側立たせた。どうやら、長の言葉どおり、堰を壊し、濠に大量の水を入れさせたようである。
姉は顔色を変えると、迫り来る集落の者たちをひと睨みし、それから、剣をそのままに、亮のいる濠へと飛び込んだ。
「早く、向こう岸へ!」
言いながら、姉は必死で水をかきわけて亮のもとへとやってくる。
しかし、闇の奥から、まるで巨大な化け者のように、どどう、どどうと不気味な唸りをあげて、河の水が一気に押し寄せてくる。
亮は必死に姉に手を伸ばし、その手をようやく掴むと、二人して濠の向こうへと泳ぎ出した。濠の向こうでは、無事に泳ぎ着いた家人たちや均が、必死になって、早く、早くと手招きをしている。
だが、手足を懸命に動かしているのにもかかわらず、なかなか先に進むことができない。
大波が、いよいよ飛沫をあげてこちらにやってくる。あとすこしで岸辺なのだが、その少しの距離が、まったく縮まらない。岸辺の側には一本の木が生えており、その枯れ枝を掴めればなんとか波も凌げるかもしれないが、意地の悪いことに、どんなに頑張ろうと、その枝を掴むのはむずかしい高さであった。
だが、波が間近に迫っている気配を感じたとき、亮の脳裏に、床に横になっている父の話が浮かんだ。
父は、かつては太山郡の丞(知事)であり、現役時代に遭遇した珍事を、息子に聞かせることを好んだ。
そのなかに、珍しい特技を持つ泥棒の話があった。
その泥棒は、不殺、不犯を守る昔かたぎの職人肌で、ちかごろ出没するような群盗とは手合いがちがう。
武器のたぐいは、鍵をこじあけるためのちいさな手刀一本きり。
だが、どんな屋敷であろうと、ほとんど手ぶらで中に入り込める。
中には厳重に門を警護していた屋敷もあり、どうやって忍び込んだのだと亮の父が尋ねたところ、その純粋な好奇心からくる、興味津々の様子が、職人肌のどろぼうの気に入ったのか、ぺらぺらしゃべりだした。
曰く、鍵の類いはいらない。必要なのは、身軽な体と、飛蝗のように高く飛べる足と、そしてこれだ、といって、どろぼうは自分の帯を指した。
いつも帯は二本巻くことにしている。
一本は着物を押さえるための帯。もう一本は、商売道具なのである。
どうするかといえば、商売道具の帯を水に浸して、それでぴゃっ、と屋敷の塀に投げて引っ掛ける。金具なんかはなにもいらない。水に濡らした布というのは、意外につよい粘着力を持つ。
ひっかけた帯(なるべく薄っぺらくて平べったいもの)を足がかりに、ひょいと塀を飛び越える。そうして侵入したという。
父はどろぼうの手際に感心をし、足を洗うことを条件に、軽い罪だけで許してやったのだが、それに感謝して堅気になったという話ではなく、やはりどろぼうは、ふたたびどろぼうをして捕まり、今度は労役の刑に処されたという。
なぜだか憎めない男であったが、あれは生きるためにどろぼうをするのではない、楽しいからどろぼうをする、病気なのだ、といって父は笑った。
帯を。
亮はとっさに自分の衣の帯を解き、頭上高くある枝に向けて投げつけた。
一度目は失敗した。
二度目、渾身の力を帯に託して投げると、うまい具合に帯はくるりと枝に引っかかった。
亮は、姉の手を掴み、迫り来る大波に構えた。二人分の体重の力を加えられ、枝がいやな軋みを見せる。せめて、この波が落ち着くまではもってくれ。そう念じて、亮は大波に身を晒せた。
ざあっと大きく波が掛かってくる。
姉が自分の名を呼ぶのが聞こえた。亮もまた、必死になって、姉の手を離すまいと頑張った。かならずみんな無事で、荊州へ逃げ延びるのだ。こんなところで、河の神の生贄になんてされてたまるものか。
やがて、おおい、おおい、と聞きなれた声が遠くから聞こえてきた。
波に打たれて聞こえづらくなっている耳朶に、婆の息子たちが懸命に声をかけてきているのだ。
そして、波は落ち着き、自分たちはそれでも、手をしっかりと握り合ったまま、水中にぷかりと浮いている状態になっていた。
助かったのだ。
帯を握りしめている手がしびれて動かない。
よくも、もったものだと自分で自分に感心しつつ、互いに手をつなぎ合わせて、懸命にこちらに手を伸ばしてくる息子たちの手を取って、亮と姉は濠の向こう側へと逃げ延びた。
ふたりともすっかり体が冷え切ってしまっていたから、家人たちが交換でふたりを背負い、そして夜闇を駆けた。
背後より、集落の者たちが追いかけてきているのが、太鼓の音や、じゃんじゃんと不気味に高く響く銅鑼の音でわかった。
やがて先に使いをやっていた者が、馬商人とその護衛兵を連れてやってきた。馬商人は心得たもので、亮たちを保護すると、集落の者たちを追い払った。
そのときになって、ようやく一行は救われたのであった。
白々と明け染めた大地の、白いぼんやりとした光のなか、家人に背負われ、疲れきって眠る姉の顔は、亮が知るあまたの女人の顔のなかで、もっとも美しいもの、愛すべきものとして記憶のなかに残りつづけた。
それは母の顔であり、姉の顔であり、自分を守る者、これから永遠に慕いつづけることになる者の顔であった。
※ ※ ※
虫の音が聞こえる。
風の揺らす草の音がやさしい。
殺伐とした戦が終わったあとだというのに、この地はなぜだか穏やかな顔を保ちつづけている。
居心地のよい場所だ、と孔明は思いながら、ゆっくりと夢のはざまから、現実に戻ってきた。
幕屋の中には、寝台と天幕、そして脇侍の者がいる。
だんだんと夜が明け始めているなか、一晩中ともされていた蝋燭の火が、身の置き所がなさそうに揺らめいていた。
ふと、幕を掻き分けて、蒋琬が入ってきた。
「丞相、お休みのところ申し訳ございませぬ」
かしこまって拝跪する、いまや実質上の片腕となっている蒋琬であった。
「もう目覚めていたので、そう畏まることはない。何事か」
孔明は穏やかにいった。なつかしい夢を見たので、朝から気分がよかったのだ。おそろしいが懐かしい、胸の奥底に切なくうずくような、むかしの記憶をそのまま再現した夢であった。
「成都より、急使でございます」
「帝からか」
いいえ、といって、蒋琬は、脇侍のほうにちらりと目をやり、それから、孔明が近くへ、と呼び寄せるのを待って、成都から使いを出した者の名を告げた。
その名を聞いた途端、孔明は夢の意味に気づいて、はっとなり、まるでそこに、かの者が目の前にいるかのように、じっと蒋琬の顔を見た。
蒋琬は、何もいわず、孔明の視線を受け止める。冷静沈着ではあるが、気の優しい情の深い男なので、すぐに孔明の心の動きを読んだようである。
蒋琬の表情が、まるで自分の心をまるごと投じた鏡のように思えて、孔明は目を閉じると、深いため息をついた。
「諸将には、このことは決して洩らさぬように」
震えもせず、涙もせず、乾いた声で蒋琬に告げるおのれの声が、ひどく遠くから聞こえてきた。
「畏まりましてございます」
そう言って蒋琬は肯くと、孔明をひとりにするために、幕屋から出て行った。
※いただきましたリクエスト、南蛮編、いよいよスタートでございます。はたして、この冒頭のエピソードが、どのように繋がっていくのか、ドウゾお楽しみに(^^ゞ