捜神三国志・燭龍本紀

番外編 草むしり。

※このお話は、二十二話から二十三話のあいだのお話です。

怪我の養生のため休んでいたが、新鮮な空気が吸いたくなり、寝台から起き上がった董和が、ふと庭に目をやると、ちょうど植木の木陰にて、黒い塊が動いているのが見えた。
まさか、こんな街中に熊の子がいるわけではあるまい。
まだ怪我が治らず、眩暈がするので、岩が揺れて見えるのかな、と首を振る。
夕暮れも近いが、まだ視界は、厚い雲の隙間からふりそそぐ太陽の光をうけて明るい。

あんなところに岩などあっただろうか。
いや、趙子龍の小屋を作るにあたって、岩を動かした、とか。
たった三人で倹しく暮らしてきた屋敷に、これだけ大勢の人が集まったのは、初めてのことだ。だから、初めての出来事が満載なのだ。

董和は、目を励まして、じっと黒い塊をみつめた。
なにやら団子虫がうごめいているのにも似た…うむ、やはり動いているぞ。すこし眠るべきか。
そうして踵を返して布団に戻ろうとしたところ、黒い岩かと思った団子虫もどきは、ぶつぶつと言葉を吐いていた。
「ともに科など、無理だ…作れるわけがない…なにを考えてらっしゃるのか」
なぜか尖がった色を帯びてはいるけれど、この涼やかな声は、一度聞いたら、忘れられるものではない。
董和は、廊下から、地面に屈んで、なにやら動いている黒い塊に声をかけた。
日陰にいたので、降り注ぐ陽射しが絹の衣裳に陰影をつけて、かえって岩のように見せていたのであった。
どちらかといえば女人を思わせる風貌に目が行きがちで忘れてしまうが、この高雅な居候は、身の丈が八尺もあるのである。背中だけ見ていれば、遠目からは岩に見えるのだ。
けして董和の老眼ではない。

「軍師、なにをしておられる」
董和の声に、袖をまくって地面にむかってなにやらしていた孔明は、硬い表情のまま顔をあげた。
「幼宰殿、お怪我は如何か」
機嫌がわるいな、と付き合いの浅い董和さえもすぐにわかった。声に棘がある。
「おかげさまで、貴殿の薬でだいぶよい。なにか落し物でもされたのか」
「いいえ、そういうわけでは」
「では、なにをされている」
孔明は、説明しようと口を開けたが、気が乗らないのか、秀麗な顔を固く強ばらせたまま、手に持っていたものを董和に見せた。それは、根っこにまだ土の残る雑草の束であった。
どこにでもある、なんの変哲もない、それどころか名すらわからぬ雑草ばかりである。
「煎じて飲まれるおつもりか」
「まさか。単に草をむしっているだけです」

さきほど、がらがらと馬車の音が聞こえて、家人たちがぱたぱたと軽やかな足音をたてて玄関に集っているなと思ったから、孔明が帰ってきていることは知っていた。
家人の一人が、孔明は、宮城に行っていたのだ、と教えてくれた。
早く帰ってきたな、と思っていたら、なぜだか独りで草むしり。
この青年、見た目の豪奢さに比べて、行動が突拍子もないうえに、地味だ。意外というか、変わっているというべきか。

「なにゆえ草むしりなど」
「目に付きましたから」
董和の屋敷は、敷地にくらべて屋敷より庭のほうが広い。
これはなにも、庭いじりが好きだからこうなったわけではなく、あばら家に自ら手を入れて増改築してきた董和の体力の限界が、そのまま屋敷の規模になっている、というだけである。
だからこそ、人が昏睡しているあいだに、趙子龍の小屋が出来たときは、複雑な思いがした。
「すまぬ、男所帯の家で、細かいところは行き届かぬのだ」
董和がそう言うと、孔明は、ようやく愁眉を解き、困惑した顔をして言った。
「そう言う意味で、草むしりをしていたわけではないのです。わたしは、一つ目についたことに気が行ってしまうと、とまらない性質でして、嫌味で草むしりをしていたわけではないのですよ」
それまで、孔明の、どこか得体の知れぬ、張り付いた笑みばかりがつよく印象に残っていた董和であるが、孔明がいま見せた、すまなさそうな、素直な表情に、ようやく好感を持った。
考えてみれば、この軍師、一回りほども年下なのである。
素の表情を出すと、実年齢よりも若く見える。青年というよりは、少年のような。
「目についたからといって、士大夫は、普通は草むしりなどせぬものだ」
すると孔明は小首をかしげて不思議そうに言った。
「そうなのですか」
「普通は、そうではないかね」
「司馬徳操先生の塾では、なんでもいろいろ実行してみるようにと教わりました。実際にそれを知っているのと、行うのとではどれだけ違うのか、若いうちに、その差がわかる感覚を身につけておくようにと」
たしかに、うちも、息子には、悪いこと以外は、なんでもさせているな、と思いつつ、董和は顎をさすりながら感心した。
士大夫だからと体面にばかり拘っていては、器は小さくなるばかりだ。
「とはいえ、わたしがなにかしようとすると、横から友が…徐庶というのですが、これが口だの手だのを出してきて、邪魔をするのです。だから、いまもって、その感覚がきちんと身についているか、自信がない」
「それはいけませぬな」
もっともです、と頷く孔明の足元をちらりと見た董和は、孔明が作業した地面が、まるでモグラが、家族連れで遊びにやってきたように、ぼこぼこになっているのを見た。
孔明はどう考えたかは知らないが、徐庶という男が、口だの手だのを出してきた理由が、なんとなくわかった気がする。
「幼宰どのは草むしりは?」
「妙な質問ですな。もちろん、ここはわたしの庭でございますし、草むしりもいたします。じいやが腰を痛めてしまうのでね。息子も手伝わせるが」
「ご子息は十七になられるとか」
「休昭ですか。左様、十七になるというのに、甘えたところのある子でして」
その言葉に、孔明は薄く笑う。
それは、微笑ましさに浮かべた笑みではなく、どこか寂しげな、憂いを含んだものであった。
「実の息子というものはどんなものですか」
孔明の言葉が、喬に対してずいぶん酷薄にひびき、董和は思わず言った。
「貴殿とて、ご子息があろうに」
「ああ、失礼。質問が悪かった。家庭というものは、どんなものですか」

牢内で聞いた、御伽噺ともつかぬ兄弟の確執の話を思い出し、董和は皮肉をひっこめて、目の前の青年を見た。
これほどまでに秀でた容貌に加え、若くして名声を得、なおかつ家人たちや偉度を見ればわかるように、稀有な求心力をも持つ青年に、なんの悩みがあろうかと思うところであるが、この青年、董和がいちばん大切にしているものを持っていない。
温かい家庭を自ら築けていないのだ。
そう思うと、とたんに不憫に思えてきた。

「家庭はよいものです。外でどんなに辛い目に遭おうと、家に帰ればほっとするし、また明日も頑張らねばと思う」
「みな、そう言いますね。そうして次にこう言うのですよ。『貴殿も温かい家庭を築かれるよう、ご努力なされたらよろしかろう』。言おうと思っていたでしょう」
「図星ですな」
当たったのが嬉しかったのか、それとも皮肉に思えたのか、孔明はまた笑った。
「しかし、得ようと思っても、得られないものもある。家庭というのは縁の結実でしょう。そもそもの縁が存在しなければ、家庭も存在しない」
「決まったわけでもない」
「『まだお若いのだから』?」
「また図星だ」
「わたしが独りでいるのを気の毒がって、縁付けようとする人もおりましたよ。なかには、権勢のために、一族の婦女を、是非にとすすめてくる者も。ですが、みな断りました。喬のこともありましたし、やはり、縁がないように思えましたからね」
「なぜそう決め付けられる?」
「配分というものがあるかと」
「配分?」
「そう。家庭と縁遠いわたしを、哀れに思う者がいるかもしれない、実際にいるのですけれどね、負け惜しみではありませんが、わたしは一度も、自分を不幸に思ったことなどない。むしろ幸せだろうと思います。命を預けても惜しくない主に見い出され、これに仕えることができた。
得た仲間、生涯を共に駆けることのできるほどの者も得た。親しくなったいずれの友も申し分ない。むしろ自慢したいほどなのです。
主に、そして友に、仲間にこれほどまでに恵まれているのです。その分、家庭に恵まれないのでしょう。幸運の配分と申しましょうか」
「ほう?」
孔明は、そこまで言って、雑草を手にしたまま、肩をすくめてみせた。
「これは愚痴ですな。怪我をされている幼宰殿にお聞かせするような話ではない」
「愚痴を聞くのは嫌いではないが」
「ひとつ愚痴ると、幸運が逃げると言うでしょう。うちの家人たちも、愚痴を聞く名人ばかりですから、わたしはついつい口が軽くなる。これはいかん、と、こうして草を」
「むしっておられるのか。宮城に行かれたと聞いたが、この間のことで、なにかお達しがあったのとか?」
「そのようなものです。勘違いしないでいただきたい。わたしは、この哀れな、名も知らぬ雑草に八つ当たりをしていたわけではありません」
「ではなにを」
「雑草が好きだからです。わたしは寡聞にしてこの草たちの名前を知らないけれど、雑草はどこにでもあって、ちょっと気を抜くと、あっという間に繁殖する。抜いても抜いても費えることがない。その逞しさに惹かれると申しましょうか」
「やはり、貴殿は変わっておられるな」
雑草の逞しくも力強い姿に、己を励ましているのだろうか。
なかなか可愛らしいことをするものだな、と思っていた董和であるが…
「この雑草は、幼宰殿のようですね」
「わたしか」
不服そうな董和に、孔明は、ほがらかに笑ってみせた。
「失礼ですが、貴殿の経歴をいろいろ調べさせていただいた。貴殿は無茶ばかりなさる」
「そうであろうか。当たり前のことをしたと、自分では思っているのだが」
「謙遜なさるな。成都の民が、貴殿を慕う理由がわかり申した。これだけ混乱した世の中で、民はいつでも導き手を捜している。少しでもよい話を聞けば、それを十倍にも二十倍にも膨らませて、だれかを賞賛えずにはいられない。だが、残念なことに、そうして張子の虎が量産されていったのだ。
だが、貴殿はそうではない。偽者ならば、すぐに化けの皮が剥がれる。だが、貴殿は、いかなる妨害に遭おうと、主君に煙たがれようと、仕事を進める手を止めなかった」
「雑草のようにな」
「しかし雑草にも、踏みつけられれば、そのまま枯れて消えてしまうものもある。いままでしぶとく生き残り、今日の董幼宰があるのはなぜです」
この青年、物言いが独特なのだ。誉められているのだ。そう思うことにしよう、と自分に言い聞かせつつ、董和は答えた。
「それは、それこそ、貴殿、家庭があったからぞ。わたしは、つねに息子の前に堂々と立てる父であろうと思い続けてきた。それが結果になっただけだ」
「それだけ?」
「他には何もない。己の功名を追い求めたところで、それは一代限りのこと。われらはすべからく、命を繋げる役目を担っている存在なのだ。それを忘れ、己が功名を高めることに専念するは笑止。わたしは、人としての役目を果たしているに過ぎない」
「貴殿の言葉は、まったくもって健全で正しいのでしょう」
「気になることをおっしゃる。まるで、ご自分は正しくないような」
「正邪をはっきりつけるのであれば、貴殿の論理は正しく、わたしの論理はよこしまなものでしょうね。
わたしにも家族がいる。とはいえ、血縁ではない。わたしがもし、貴殿と同じ立場になったなら、やはり主命を果たすことに専念するでしょう。ただし、貴殿はご子息のために行動なさったかもしれないが、わたしはやはり、自分のために行動したでしょう」
「私利私欲のため、ということか?」
孔明は、笑いながら首を横に振った。
「財貨に興味はありません。ありがたくも、亡き父、そして叔父が十分すぎるほどに残してくださいましたから。わたし自身というのは、わたしと共に歩む、もろもろの者たち、わたしに命を賭けてくれる者のために、ということです。彼らは、すでにわたしの血肉ですから。わたしは、わたし自身を裏切れない」
「大きな家族がいるものだな」
董和の言葉に、孔明は、いままでに見せたことのない、親しげな笑みを浮かべた。
こんな優しげな顔が出来るなら、最初からそうすればよかろうに、と思いつつ、董和は、なぜか気恥ずかしくなる。
「なぜ、こんなことを口にするのかと不思議に思っておられるでしょう。わたしも自分が不思議です。口が軽いほうではないのですが。
さきほど、わたしは貴殿と同じ立場になったら、主命を果たすと申しましたが、その結果、たとえ誰かの恨みを買うことになったとしても、同じように貴殿のように、民に慕われるかと問えば、正直、自信がない。むしろ、石つぶてを投げられて追放されるのがオチかもしれない。
やはり、己だけ…いえ、言い換えるなら、己と己の仲間たちのためにと考えている、わたしの器量はとても小さいのでしょう。とはいえ、情けないことに、ではどうすると問われれば、よい答えが浮かばない。漠然とした不安ばかりが過って、動けなくなってしまう」

董和は、唐突に触れた孔明の本音におどろいた。
この倣岸なまでに自信にあふれているように見える青年が、ここまで繊細だったとは思わなかった。
これは、この青年の、董幼宰を相手にした独り言なのだろう。
聞いてやることだけで慰められるにちがいない。
子供が独りあそびで、水溜りに映えるおのれの姿に声をかけるのと同じではないか。
ふむ、するとわたしは水溜りか。
水溜りならば、水溜りらしくしようではないか。水溜りというのは、じきに太陽にさらされれば蒸発するもの。
董和も、孔明の言葉を、あえてこの場限りで忘れるようにしようと決めた。
孔明は、自分で語っているように、口の軽い青年ではない。それがあえてこのように言葉を吐露したのには、きっと訳があるにちがいないのだ。

孔明は、雑草を掴んだままの手を見て言う。
「いまのも愚痴です。ほら、だから幸運が逃げて、わたしの手は泥だらけになってしまった」
「軍師」
「なんです」
「いまの言葉を、わたしが聞かなかったことにすれば、愚痴にはならないのでは」
「愚痴とは相手がいて始めて成立する、という類いのものでしたか」
小首をかしげる孔明に、董和は大いに頷いた。
「そういうことにされるがよい。ところで、貴殿、囲碁はたしなまれるか」
「象棋のほうが好みですが、ええ、囲碁も」
唐突になんだろう、と不思議そうにする孔明に、董和は言った。
「寝てばかりいると退屈なもの。囲碁でもせねば、この老いた頭はとたんに鈍くなってしまう。董幼宰が錆びつく前に、哀れな中年を助けると思って、相手をしてくださいませぬか。如何でしょう、草むしりより、服も汚れぬし」
「まあ、たしかに」
と、孔明は己の姿を見下ろして、言った。せっかくの高価な衣裳も、思いつきで草むしりをしていたため、あちこち泥で汚れている。
「判り申した、着替えてお部屋に参ります。それと」
「ご安心を、幼宰の口は、貝より固い」
「ありがとう」
内気な青年は、はにかんだように笑って、礼を取ると、着替えのために去っていった。
董和はそのうしろ姿を見て嘆息する。
ようやく、まともに対話というものができた気がする。共同生活ということで、不安が先に立っていたが、諸葛孔明という、かの青年の上にかぶせられた華麗な評判をはぐってみれば、どこか過去の己にも似た、生真面目な青年の姿が出てきたではないか。
良かった、これならば、共に暮らせよう。
休昭も、あれは人見知りだから、最初は戸惑うだろうが、やがて慣れるであろう。この父のように。
さてはて、囲碁は弱いのだが、まあ、わたしでも、すこしは気を紛らわすことができるかな。
ところで、庭の穴ぼこ、だれかが躓かないといいのだが。あとでじいやに言って、埋めさせておこう…
思いつつ、董和は、囲碁の道具を押入れから出すために、自室へと戻って言った。

インデックスへ戻る 
更新履歴へ戻る