捜神三国志・燭龍本紀

閑話・二 闇に動くひとびと


しわぶきひとつない静けさを満たした空間に、徐々に徐々に、砂に水が沁み込むようにして、わずかに空気を乱す気配が近づいてくる。
沈黙をつづける男たちの視線を一線に浴びて、濃い闇の奥のほうから、ゆっくりと輪郭が浮かび上がってくる。それはまるで、漆黒の粘着をおびた液体の中から、人の形が浮かび上がってくるようにも見えた。
きりり、と蟲の羽音にも似た弓をふるわせる音がする。
そのわずかな気配にも敏感に、張大人は、となりにいる男にきびしく、しかし静寂よりも厳かに言った。
「これしきでたじろぐな。仲間だ」
張大人の声には、ふしぎな包容力がある。とことん身勝手で手の汚れまくっている男であるが、張大人から発せられることばは、万人の耳をかたむけさせ、なんということはない言葉すら、ありがたい言葉のように錯覚させることができるのであった。
九門古城の入り口に、張大人を中心に、弓をつがえた男たちが立っている。栄耀飯店の食客のなかでも、特に腕利きの男たちが張大人の周囲を固めている。そうして、篝火に照らされて、昼間のように明るい地下室に、異様なまでの濃さの闇をのぞかせて、九門古城の入り口がひらいている。
九門古城の入り口からあらわれたのは、張大人がいうとおり、たしかに彼らの仲間であった。
しかしその様子に、それぞれの修羅をかかえる屈強な男たちが、息を呑んだ。
仲間が、入り口から古城の闇の中へと入っていったのは、半刻ほど前のことであった。
戻ってきた仲間は、全身が真紅に染まっていた。ぽたぽたと床に垂れる血は、鮮やかに赤い。しかし、それが男自身のものによるものか、それとも、ほかにもいたはずの仲間たちのものなのかは、判然としなかった。
息も荒く、不規則にひゅうひゅうと咽喉を鳴らす男は、救いを求めるように手を伸ばしてきた。
そうして、男たちは、ようやく我に返り、崩れ落ちようとする男を助けに駆けつけた。
「おい、しっかりしろ、なにがあったのだ! ほかの連中はどうした!」
男たちは口々に、矢継ぎ早に帰ってきた男に質問をするが、帰ってくるのは荒い息ばかりで、言葉にならない。
ほかの仲間たちがどんな運命を辿ったのか。それは男の全身を染める血を見ればあきらかだ。
なにより男たちを怖じさせたのは、男が身にまとっていた鎧が、まるで四方から鉄槌で猛然となぐられつづけたかのように、ありえない深さでえぐられるように陥没していたことだ。そうしてもっとありえないことには、えぐられた痕には、はっきりと人の指の形がついていた。
「おまえだけか」
腹の底が冷えるほどのつめたい声で、張大人は、息も絶え絶えの男に問いかけた。
もうその男が長くはもたないだろうということは、誰の目にも明らかであった。張大人には、男に安らかな死を与えるつもりはなかった。この男へは、借金を棒引きにしてやったうえに、前金で相場の三倍もの金を払っていた。まだ元をとっていない。
「ほかの連中は、やつらにやられたのだな? 何人に増えていた?」
食客たちが、冷徹な張大人に、非難の目を向けてくる。
しかし気にする張大人ではない。ここにいる男たちのなかには、だれひとり、後ろ暗い過去のない人物がいない。人のことを、非難できる筋合いの人間など、だれひとりいないのだ。
男は、次第に弱くなっていく息の中、それでも張大人の質問に答えるべく、寒さに凍える人のようにぶるぶる震える体をはげまして、指で数字を作った。「6」と。
それを聞いて、張大人は眉をひそめる。
「また増えたか。まったく、これでまた連中に餌をくれてやったようなものだ」
どいつもこいつも役立たずが、といわんばかりの口調である。
それでもどこか、切迫感がないのは、この男の特徴だ。楽天的なのでも能天気なのでもない。自分の才覚で、乗り越えられないものはない、と確信しているのだ。
そうして、張大人は考える。
黄色い指輪の連中が、古城に眠る宝でもって、市井の人々を古城に潜らせている理由は、これだったのか?
不死者。
そうとしか呼びようのない、けっして死なず、斬られようと潰されようと、いかなる攻撃にも耐えて肉体を再生させる化け者。
不老不死は、始皇帝すら魅了した、永遠の夢だ。それを得ようと、始皇帝をはじめてとして、さまざまな階層の人間が、天地を駆けずり回った。しかし、それを得た者はいない。
もしここに、不老不死に憧れる道士たちを連れてきて、これがおまえの夢見た不老不死だと教えてやったなら、どんな顔をするだろう。みな怖気をふるって逃げてしまうにちがいない。
獣のうなり声のような、低い低い声が響いた。
部屋にいた男たちは、はっ、として入り口を見た。
古城に発生した化け物たちは、なぜか犬のように血の匂いに敏感だ。手負いの男を追って、ここまでやってきたのだろう。
「まさに餓狼だな」
蔑むようにつぶやく張大人の周囲では、食客たちが、やってくる敵に向けて準備をそなえている。あらためて矢をつがえ、剣を抜き、闇の向こうからやってくる者たちに備える。
食客たちは鍛え抜かれた兵士たちのように機敏に動いたが、これはなにも張大人を守るためではなく、目の前で死を迎えようとしている仲間、そして死んでしまったであろう仲間たちのため、意気が高揚しているだけである。
自分たちがあやうくなれば、われ先にと逃げ出すのも彼らだ、ということを、張大人は経験から、だれよりもよくわかっていた。
恨み言をつぶやくように、言葉にならないうめき声を発しながら、ゆるゆると、不死者がやってくる。そうしてあらわれた姿を見たとき、張大人と食客たちは、眩暈にも似た不安定な感覚をおぼえた。それは、見たものを、どう理解し、どう頭のなかで処理してよいのかわからなかったからだ。
ひどいものであった。
人の形はしている。顔もある。しかし、何日も、水にさえ事欠く古城でうろついて、腹をすかせたのか腹は空気で膨れ、髪はほとんど抜け落ち、体のあちこちに、さまざまな傷ができていた。もはや、『生前』の面影はなかった。たとえ生母とて、これがわが子と見抜けないにちがいない。それほど、あらわれた不死者は、人間ではない別のものに変わっていた。
動きもぎこちなく、鈍い。目も、不潔な粘着物でほとんど塞がっているような状態だ。唇のめくれた口からは、たえず、抗議のようにも聞こえる声が発せられている。これに知性があるとしたらおどろきである。
「射よ! 射よ!」
だれかが命じ、いっせいに矢が放たれた。
的である不死者の動きは鈍い。避けるような仕草をするものの、ハエを振り払おうとする緩慢な動きは、まるでなんの足しにもならず、不死者を針ねずみのように射抜いた。
しかし、不死者は動きを止めない。
「攻撃を止めるな、射よ!」
「くそったれ、てめえでやりやがれ!」
口汚く罵りあいながら、食客たちは、全身を射抜かれようと、まるで意に介さず、徐々に歩みを進めてくる不死者に矢を射続けた。
不死者には、この場の長がだれなのか、わかっているようであった。まっすぐ、張大人に向けて不死者は歩みを進めてくる。
張大人は、顔色ひとつ変えず、不死者の行動を見守り続けた。
これは、性質の極悪な刺客なのか? それだけの化け物なのか?
「あっ!」
だれかが声をあげ、見ると、入り口にもうひとり、いや、もう一匹、というべきであろうか。長身の、真っ裸の土気色の肌をした不死者があらわれた。
「入り口をふさげ!」
ようやくその声に反応し、扉を閉めようと食客たちが扉に駆け寄るが、長身の不死者はまるで意に介さず、長い手を無造作に振り回し、たった一撃で、そばにいた食客たち数名を吹き飛ばした。
すさまじい腕力であった。
背中まであろう髪をざんばらに垂らし、顔の見えない土気色の不死者は、先にあらわれた不死者とはちがい、沈黙を守っている。先にあらわれた不死者よりは脆そうに見えるのであるが、大人しく、歩みもゆっくりという程度でぎこちなさが少ないのが、先の不死者よりも知性を感じさせ、かえって気味が悪かった。
仲間が来たことがわかったのか、先にあらわれた、腹の膨れた不死者は、土気色の不死者のほうを振り返った。そうして、吐き出すような、雄叫びをあげる。
それに呼応するようにして、土気色の不死者もまた、甲高い声を叫ぶ。
その両方が絡み合って部屋中に獣じみた声をひびかせるのだ。食客のなかには、すっかりおびえて耳をふさいで座り込んでしまうものもいた。
「だまりやがれ、この!」
食客たちのなかでもいちばんの腕利きが、棍棒を、腹の膨れた不死者に思い切りたたきつけた。
しかし、それまで緩慢な動きしかできなかったそれは、急に動きが機敏になり、振り向いたかと思うと、食客の頭部をがっしり掴み、なんと、熊のような巨漢を片手だけでゆうゆうと持ち上げた。
みし、と骨の軋むいやな音がした、と思うと、とたんに、男の頭は、スイカを割ったように宙で破裂した。
それが合図となり、食客たちは、降り注ぐ仲間の破片の雨を浴びながら、たちまち総崩れとなって、地上へと上がる階段に殺到する。
「逃げろ! ここはもうだめだ!」
「お逃げください、お早く!」
張大人の側近が、張大人の着物の袖をつよくひっぱって促したが、張大人は動かなかった。
恐怖のためではない。様子がおかしいのだ。
不死者たちは、互いに出会ったことに対して、まるで野良犬と野良犬が顔を付き合わせたように、抗議をしあっているように見えた。
そうして、なんと彼らは、食客や張大人を無視し、互いにはげしく争いを始めたのである。
それはすさまじい物であった。互いに武器はなにももたず、武器らしい武器は互いの肉体のみ。異常なまでの腕力を持つ彼らは、己の腕をつかって相手の四肢をもごうと掴み、引っかき、あるいは殴った。まさに身を削りあう戦いであった。腐りかけていた肉ははがれ、ぼとり、ぼとりといやな音をたてて床に落ちる。この世の終わりすら思わせる、不気味な戦いである。作戦や戦略はなにもなく、ただひたすら力と力のぶつかり合いなのだ。
この争いに呆気にとられていた一同であるが、醒めているのは張大人だけであった。
なぜ不死者は争いあうのか?
彼らは何者なのか?
彼らを動かしている者の正体は?
古城にあるという九つの入り口。このなかの一つから、不死者たちは出入りしている、というのか。しかし、彼らが地上のどこかに潜んでいるとは、やはり思えない。もともと、地下のもっと深い層で眠っていたものが、目覚めてしまったのか?
不意に、鳥の絶叫を思わせる甲高い声をあげて、髪の長いほうの不死者が、腹の膨れた不死者の、心臓のあたりに深々と拳を突き刺した。文字通り、腕が胸の中にめり込んでいた。不死者たちの表情はわからない。
髪の長いほうの不死者は、腕を引き抜いた。
その指先の何本かもげている手の中に、何かを掴んでいる。
張大人は目を凝らし、そうして、思わず感嘆の声をあげた。
「銀の心臓!」
不死者から引き抜かれたものは、銀色の心臓であった。作り物ではない証拠に、それはどくん、どくんと脈動を保っていた。心臓を奪われてほうは、取り返そうと腕を伸ばすが、それも無駄なことであった。心臓を引き抜いた不死者は、残酷にも、腹の膨れた不死者の目の前で、手にした銀の心臓を握りつぶして見せた。
心臓からは、血ならぬ銀色の液体がほとばしる。
とたん、腹の膨れた不死者は、身をもだえさせて暴れ、やがて、足元から、砂が崩れ落ちるように、倒れていった。
この機を失する張大人ではなかった。すぐさま、部下の手にしていた剣を奪うようにしてもつと、勝利の余韻に浸っているのか、じっとしている不死者の背中から、心臓めがけて、深々と刃を付きたてた。
不死者は、自分の胸に生えた刃が、いったいなんなのか、わからないようであった。
ふしぎそうに胸を見て、やがて、先に殺した不死者のように、身を痙攣させて暴れた。その暴れ方のすさまじさに、張大人は手を離し、成り行きを見守った。
不死者は駒のようにくるくると回りながら、奇声を発し続け、やがて、膝から崩れ落ち、動かなくなった。
「これが『不死』とは笑わせるな」
いまや腐った肉の二つの塊と化した不死者を見下ろし、張大人は、軽蔑のありったけをこめて言った。
張大人を見る食客のまなざしは、畏怖の念にあふれていた。
冷酷なおとこ、吝嗇家。それだけではない何かが、この男にはある。
このひとは、いったい何者なのであろうか、とその場のだれもが、青白い、のっぺりした面差しの、年齢不詳の男を見て、思った。

※                       ※

処刑場にて董和をたすけだしてから、晴嬰は、もう二度と董和とはれまい、と決めて、屋敷までついていき、その怪我の看病をしながら、董家のじいやと協力して、諸葛家の家人とあれこれ折衝しながら、数日をすごしていた。
薬の服用からくる、泥のような深い眠りから目覚めたかとおもえば、おのが屋敷は居候でいっぱいだった、という境遇の董和のために、晴嬰は、ぴったり添うようにして世話を焼き、料理人に、董和の好きな食材や味付けを教え、諸葛家の家人たちに、好きな花や、習慣をおしえた。家人たちは晴嬰を中心に董和の屋敷になじみ、晴嬰は自然と、女主人のような役どころとなっていた。
もういっそ、ここに居座ってしまおうか、とさえ晴嬰は思う。
だが、孔明の息子と共にさらわれた、という休昭のことを思えば、そうして、その事実をいまだに知らされないでいる董和のことを思えば、図々しいに過ぎるだろう、と自分をいましめた。
董和もじいやも、晴嬰が屋敷に留まることに異議をとなえず(人が多すぎるので、道徳云々の判断が、はたらかなくなっているのだ)むしろその働きに頼っているところがある。主婦というものを経験したことはないが、こんなふうなのかしら、と晴嬰は甘い感情とともに、満足にひたるのであった。

さて、そんな晴嬰の天下も数日のことであった。
いつものように、諸葛家の女たちと食事の支度をしていると、裏口からまわってきた、長星橋商店街の、竹細工屋と肉屋が血相をかえてやってきた。
「晴嬰さん、たいへんだ。あんた、こんなところで油を売っていちゃいけないよ!」
「どうしたっていうの?」
物知りの竹細工屋は、おおげさなほど逆三角形の顔に渋面をうかべて答えた。
「これまた呑気なものだね。あんたの店のニセモノが、あんたの留守に出来たのだよ」
当初、晴嬰は親父さんたちがなにを言っているのか、さっぱりわからなかった。ぽかんとしていると、肉屋の親父さんが、こちらを興味深そうにうかがう、ちょっと垢抜けた諸葛家の女たちに愛想わらいをしつつ、付け足した。
「冗談なんかじゃないよ。あんたがこのまま、この家にずっといる、というのであれば、われわれだって呼びになんか来ないのだけれどね、董の旦那のことだから、そういうだらしのないことはしないだろう。そう思ってきたのだよ」
「ニセモノってなんなの? あたしは、いつから、そんな有名になっていたのさ」
「知る人ぞ知る、ってなもので、行商人の人気はいちばんだったようだよ。なのに、このところ、栄耀飯店のヤクザ者がうろうろしていたり、店が閉まっていたりすることが続いたからね。そノあいだに、ちゃっかり者が、『元祖・晴嬰の店』を出店したのだよ」
「元祖も何も、あたしはここにいるじゃないの!」
竹細工屋は、嘆かわしい、というふうに首を振った。
「商売っていうのは戦争だからねぇ。看板だって、先に言ったもの勝ちなんだよ、あれは。なかなか繁盛しているようだから、このままだと、常連をぜんぶ、取られてしまうよ」
「あたしのお客は、あたし目当てできてくれるんだよ」
「でもねぇ、あっちの店の『晴嬰』のほうが、あんたより若いからねぇ」
晴嬰は、とるものもとりあえず董家を辞去すると、飛ぶように自分の店へと戻っていった。


晴嬰は、店を開ける前に、行商人たちがくれた土産物のなかにまじって、ぽつりとある、ふるぼけた一枚の大きな布を拝んだ。
四尺はあるだろうその正方形の布には、八つのお経が、部屋が区切られているように、等間隔にならんでいる。
非常に精巧で、こまかく織り込まれた漢字がずらりとならぶそのお経は、どこの宗教のものなのか、来歴がさっぱり不明であるにもかかわらず、ずっと晴嬰の家の、先祖伝来の宝として伝えられてきた。めずらしいものにはちがいないが、古さもわからず、そもそものお経の意味がわからない、というので、骨董屋でも邪険にされてしまった。
だが、この意味不明のもののために、晴嬰の兄は罠にかけられて殺されてしまったのである。
以来、晴嬰は、このナゾの宝を憎むと同時に、兄の化身のようにも思って接してきた。
『兄さん、今日も商売がうまくいきますように』
山深い村で暮らしていた晴嬰は、最初、文字がまったく読めなかった。
いまでも全部読める、というわけではないが、お経にある文字のほとんどは読める。董和が、これを使って文字を教えてくれたからだ。
兄が死んだとき、癇癪を起こして、古布を燃やしてしまおうとした晴嬰に、董和は言った。
「これはおまえの兄さんだけではなく、おまえを生んでくださった両親や、そのまた両親がずっと大切にしてきたものだ、おまえの短気で、だめにしてよいものではない」
それでも、この古布はもう持っていたくない、という晴嬰に、董和は、それならば、これを使ってわたしが文字を教えてやろう、といった。董和としては、晴嬰が一族の宝を手放すことで、自棄になってしまうことを恐れてのことだった。
『ついでに幼宰さまのお怪我がよくなりますように』
董和の傷は、日ごとによくなっていき、日常的なことは、ほとんど全部一人で出来るようになっていた。
冗談混じりに、
「もう古城へ潜れるぞ」
などと言って、事情を知る人々…偉度や孔明を笑わせている。
が、董和をよく知る晴嬰には、それが虚勢に見えて仕方ない。
董和と劉備のやり取りを聞いていた晴嬰は、董和に、『荊州と益州のあいだをとりもつ』という重要な仕事をまかせるなんて、このあたらしいお殿様、見る目があるじゃないか、と鼻高々であったが、同時に、董和は責任感がつよすぎて、なんでも背負い込みすぎるので、また、やりすぎてしまって、敵をつくってしまわぬだろうかと心配していた。

いや、董和の敵が増えることを心配している場合ではなかった。
晴嬰が、店をあけて前の路地に打ち水をしていると、栄耀飯店の方角から、のしのしと、みなれた二人組みがやってくる。
張大人が雇ったヤクザであった。
「よお、『元祖・晴嬰の店』のニセモノ! 店じまいしたのかと思ったら、まだやっていたのかよ!」
「元祖、なんて名乗るほうが、偽者なのだよ! まさか、うちの偽者、あんたたちの雇い主が経営しているのじゃないだろうね?」
「うぬぼれていやがるぜ、張大人が、おまえごときに、そんな金を動かすわけねぇだろう」
「まあそうかもね、あんたたちデクノボーを雇うのなんて、雀の涙ほどの金子で十分だろうからね」
「なんだとう!」
ヤクザ者が、あまり締まっていない、よく肥えた豚足のような腕をにゅっ、と突き出したところで、不意に、にぎやかだった往来が、ぴたりと静けさにつつまれた。
まさか、このヤクザ者のだらしのない腕に、周囲が怖じたわけでもなかろう。
成都一の歓楽街の、遊び人たち、呼び込み、すべてが晴嬰たちを通り越し、往来の向こう側を凍ったように身動きひとつせずに、見つめている。
晴嬰は、往来の人々のこわばった視線の先を追って、自分もまた、顔をこわばらせた。
すでに一番星のまたたく長星橋商店街の目抜き通りを、三人の巨漢が横一列にならんで、押し黙ったまま、軍隊の行進のように規律ただしく歩いてくる。
どれも無表情で、不機嫌そうに。
まさに一触即発。下手に「よってかないかい」などと言おうものならば、たちまち袋叩きにされそうな気配だ。
三人のうち、二人に晴嬰は見覚えがあった。
泣く子も黙る錦馬超。これは、董和が逮捕されたときに会ったことがある。向こうが覚えているかどうかはわからないが。
真ん中に趙子龍。これは董和の屋敷に居候している一人なので面識がある。
そしてもうひとりは、目つきの怪しい不気味な大男。蛇のように長い首に、巻きつけるようにしてたくさんの首輪をつけている。
その男たちは、気のせいだろうか、どんどんこちらに向かってくるようだ。
「お、おい、急に用を思い出したので帰るぜ」
「おれもだ。あばよ!」
栄耀飯店の三下は、そう言うと、うろたえた様子を隠そうともせず、背中を見せて、ぴゅう、と駆け去ってしまった。
あんな連中でも顔見知り。行ってしまうと心ぼそい。
ざっ、ざっ、と足音がどんどん近づき、やがて、その三つは、晴嬰の店の前で止まった。
「いらっしゃいませ」
ほかに言葉がなかたので、とりあえず晴嬰はそう言った。

二十四話へつづく…
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