捜神三国志・燭龍本紀

閑話一 松喬と龍

孔明は、単身、馬車でやってきていた。
大人がやっとひとり乗れるほどのちいさな鹿車であるが、そのとなりにちいさな喬を乗せる。
喬は、おなじ年頃の子どもと比べると、ずいぶん幼く見える子である。大きな凧を抱えているので、余計にその大きさが目立つ。
孔明は、喬のために隣に場所を空けたのであるが、喬は、じっと養父である孔明を非難の目で見つめたまま、いつまでも乗ろうとしない。
 孔明は、ちいさなため息をつくと、赤い蝶々の凧を抱えたままの、喬に言った。
 「やれやれ、怒っているのだな? たしかに悪かった。そなたをダシに使ったことは謝ろう。うむ」
喬の表情が、わずかにやわらぐ。が、それもほんとうにわずかの間であった。
 「だが、これがわたしのやり方なのだ。これからそなたはわが子となるわけであるから、慣れてもらわねばなるまいな」
喬は、酢を甕ごとのみ干したような渋面をつくって、反抗を示したが、孔明はどこ吹く風であった。

喬は、めずらしく仕事を早めに切り上げてきた孔明に連れられ、凧と一緒に『あたらしい家』の下見にやってきた。
自分をぜったいに打たない、とわかっている家人たちと一緒だったら安心できたのだが、『あたらしい父上』と二人きり、というのを知って、がっかりした。
『あたらしい父上』は、あのふたりの仲間だ。
だから、いままでは離れて暮らしていたから、打ったりしなかったけれど、これからは、あのふたりと同じようなことをしてくるに決まっている。いまはこちらが益州に着いたばかりなので、向こうも遠慮しているのだ…喬はそこまで考えて、今日はぜったいに失敗をしないようにしよう、兄上のように、父上の言うことは、完璧にこなすのだ、と自分に言い聞かせた。
江東から荊州へ、養子として連れてこられてから今日まで、喬はだれからも打たれていなかった。だから、孔明とふたりきりでの外出、と聞いて、せっかく怖い思いを忘れていたのに、またおなじ目に合わなくちゃいけないのかと思うと、涙が出るほどであった。
たしかに孔明は、一度も喬を打ったりどなったりしていない。だが、油断大敵。あのふたりの仲間なのだ。断ったなら、どれだけひどい仕返しをされるか…それは、身を以て喬は知っていたから、孔明にさからわないことにして、しぶしぶ同行した。
孔明は、ちいさな鹿車に喬を乗せて、とりとめのない話をしながら、ゆっくり馬を走らせた。
ちゃんと『あたらしい家』についたが、孔明はそこで、奇妙なことを言った。赤い蝶々の凧を見せて、これはおまえにあげよう、おまえは、わたしよりも風伯に好かれているから、この凧もよく上がるだろうし、と言った。
なんだか意味がわからなかったが、めずらしいおもちゃがもらえるのはうれしい。
しかし、孔明は、凧揚げのついでに、ちょっと隣も覗いておいで、などと言う。
喬としては、お隣を覗くなんてしたくなかったから、気が進まないでいたが、結果的に、凧の糸が切れてしまったので、お隣を覗くことになってしまった。
槍を持った小父さんが立っていたのにはびっくりしたが、あの小父さんはいい人だ。
凧をひろってくれたし、なにより、自分の口が利けないことを、笑ったり、気味悪がったりしなかったし、それにあたらしい父上から自分を庇ってくれた。

 「ほら、早くお乗り。それとも歩いて帰るのかね」
できることならばそうしたいところであるが、喬の出来る反抗というのは、目でひたすら訴えることだけであった。
つい最近まで存在も知らなかった『叔父上』で、『あたらしい父上』、そして『ほんとうの父上』にまるで似ていない孔明であるが、喬がいつまでもじっとしているので、眉根をきゅっと寄せた。
孔明の表情の変化に、喬は、はっとした。
しまった、図に乗りすぎた、打たれる。
『ほんとうの父上』よりも一つ頭ほど背の高い、大柄な『あたらしい父上』が、御台から身をずらし、喬のほうに手を伸ばす。
喬は、身を強ばらせた。そうして、やってくるであろう平手打ちなり拳固なりを覚悟して、身体を亀のように硬くした。しかし、いつまでたっても、おなじみの衝撃はやってこない。代わりに目の前にあったのは、差し伸べられた細長い手のひらであった。
『あたらしい父上』は、さして苛立つわけでもなく、ほら、と言って、手を差し出してくる。
目をぱちくりとさせている喬に、孔明がふたたび、ほら、と言ったので、喬は、自分がこの手を掴まなければ、今度はほんとうに打たれる、と判断した。さっき打たれなかったのは、たまたま機嫌がよかったとか、単に手が届かなかっただけかもしれない。
おずおずと手を差し伸べると、孔明はぐっと手を引いて、自分のとなりに喬を乗せた。
喬は、なるべく身体をくっつけないように、ちいさな身体をさらに小さくして隣に座る。そうして、抱えている赤い蝶々の凧を、お守りのように抱きしめた。
「ずいぶん気に入ったようだな。凧揚げは楽しいか」
こくり、と喬はうなずいた。すると、孔明は満足そうに、そうか、と言って馬をゆっくりと歩かせた。
「そなたは風の子であるからな」
と、孔明はよくわからないことを言って、自分で自分のことばに笑った。
『あたらしい父上』は、どうもよくわからない。引き取られてからこのかた、喬はいちども打たれていない。怒鳴られたこともなければ、叱られたことすらない。いつも忙しそうにしていて、明け方に出て行くと、夜がとっぷり更けてから帰ってくる。たまに、しらない小父さんたちがやってくるが、どう見ても『あたらしい父上』より年上だったり、立派そうに見える人々が、ぺこぺこと頭を下げたりしている。
喬の知る限り『父上』というのはいつも忙しく、いらいらしていて、すぐに怒る。だが、『父上』の弟だ、というこの『あたらしい父上』は、忙しいにはちがいないが、あんまりばたばたしているところを見たことがない。家人に怒鳴っているところも見たことがない。そういえば、あんまり『父上』に似ていない。背だって『父上』より高いし、顔の形や雰囲気も喋り方も、どれひとつとっても似通ったところがなかった。似ていないだけ、もしかしたらあのふたり…父上や兄上とちがうのかもしれない。

江東での暮らしを思い出そうとすると、喬の頭は靄につつまれる。
一つ一つをばらばらに思い出すことはできる。
たとえば父の瑾は、お客がいるときは穏やかな人だが、奴婢や家人にはつらくあたる、とか、兄の恪は少年ながらも、頭の回転が早いので、主公の孫権に気に入られて、宮城によく通っていた、とか、
だが、それらを繋げて思い出そうとすると、吐き気や頭痛がするので、ぼんやりとしか思い出せない。
たとえば、自分を怒鳴っている父の顔、兄ばかり誉めている父の顔、打ったり抓ったりする兄の顔、自分を嘲う兄の顔、まるでこちらを見てくれない大人たちの輪郭…そんなものは自在に思い出すことができるのだが、なぜ叱られたのか、そのあとどうなったのか、それが思い出せない。
江東から、馬車に乗って、『あたらしい父上』とともに荊州へ向かった、というのも人から聞いたことで、その道中の光景も記憶があやふやだ。
気がつくと、父も兄もいない屋敷に、まったく知らない家人たちに取り囲まれていた。
そこがあたらしい自分の家で、『父上』にまったく似ていない、背の高い仙人みたいな人が、ひょい、と出てきて、これからわたしが『あたらしい父上』だ、と言ってから、喬の記憶はようやく鮮明になる。

あたらしい家には、さまざまな人が遊びにやってくる。
深刻な顔をしている人も稀にやってくるが、そういった人が来ると、たいがいあたらしい父上は、そのまま一緒に外に出て行ってしまう。家にまで追いかけてきて、語られる話、というのは、大切なものばかりだから、知恵を貸すために父上は外出されるのですよ、と家人が教えてくれた。屋敷を訪れる人が、ぺこぺこと頭を下げるのも、あたらしい父上は、江東の父上なんかより、ずっとみんなから大切に思われている人だからだ、ということも教わった。
しかし喬は気付いているのだが、あたらしい父上は、来客があんまりうれしくない。家にいるときは、ひとりになりたい、静かに過ごしたい、と思っている。だから、来客がやってくると、神妙な顔をして、深刻そうに頷いているが、じつのところ、自分の苛立ちを抑えているから、そういう渋い顔になるのだ。
きてくれて嬉しいお客もぽつぽつといる。
なかでも、喬もうれしいお客は、市場で買ったというおもちゃやお菓子をマメに買ってきてくれる小父さんで、荊州の屋敷にも、ちょくちょく顔を出していた人だ。
ところで、喬はあたらしい自分の字である『伯松』が好きではない。
とはいえ、反対することなどできないから、がまんをしたのであるが、あたらしい父上が喬の名前を『仲慎』から『伯松』に変えたとき、喬のこころを代弁して反対してくれたのが、この小父さんであった。
「赤松子に王子喬…松喬か。また妙なところで凝った名前を付けたものだな。『伯慎』ではいかんのか」
ごもっとも、と、同席をゆるされていた喬は、心のなかで相槌を打った。
「なぜだね、赤松子も王子喬も不老不死の仙人だよ。めでたい名前ではないか」
と、これはあたらしい父上。
「諸葛松で、字が伯喬、というのであれば、おれも異議をはさまぬ。しかし、諸葛喬で字が伯松では、不老長寿をあらわす『松喬』の順序の逆になっている。つまり、早世を招くまじないになってしまうぞ。悪いことは言わぬ。ほかの名前に変えろ」
すると、あたらしい父上は、ころころと笑った。
「早くも成都の人間に影響されて迷信深くなったのか。順序が逆になってしまったのは仕方ない。すでに名は決まっていたのだし、それに、この子には、雨師(雨の神)たる赤松子の名を授ける必要があるのだよ。その加護を得るための、ね」
「迷信深くなっているのはどっちだ」
と、小父さんはいい、喬はおおいに肯きたいところを、ぐっとがまんした。
この小父さん、普段からいかめしい顔をして、ちょっとばかり近づきがたいのであるが、そんな怖い顔を前にしても、あたらしい父上はまったくひるまず、言った。
「この子は炎に魅入られてしまっているからね。炎を避けるためには、水の加護を得るのが一番いい。さいわい、わが家系は風伯と雨師には縁が深い。それに、『松喬』の順序が逆になってしまったのも、一種のまじないでもあるのだ」
「…おれに判る言葉でしゃべってくれんか」
小父さんの言葉に、喬は、やはりおなじく、もっともだ、とおおいに頷いた。
「名前というものは不思議なもので、単に字面がよいとか、響きがよいからというだけで決めた名前でも、ふしぎと宿命をあらわしているものだ。あなたの名にもわたしの名にも、それぞれ宿命が託されている。この子もそうなのだよ。兄上は、この子が生れ落ちたときに、あまりに小さいので、大きくなるように、とそれだけで『喬』と名づけたとおっしゃっていたが、なかなかどうして…わたしには、この子の未来を見通していたような名だと思うよ。わたしが『伯松』と付けたのは、この子の生涯をあらわす名前であると同時に、さだめを打ち砕いて欲しいという願いも籠められているのだ」
「それほどにひどい怪我だったのか」
と、小父さんが言うので、喬は、なんのことだろうと首をかしげた。思い出せないものの、喬の身体はどこにも怪我をした痕がない。
あたらしい父上は、悲しそうにわずかに笑うと、喬のほうにやさしい笑みを投げて、言った。
「でもこの子が、死んでいるように見えるかね?」
 む、とうめくように小父さんはいい、言葉をつづけようとしなかった。喬は、あたらしい父上は、どうして変なことばかり言うのだろう、とふしぎに思った。あたらしい父上は、つづけて言う。
 「この子はわたしよりも諸葛の血を濃く継いでいる。わたしはね、残念ながらこの子が、常人の人生をあゆむのは、おそらく無理だと思っているよ。だが、運命に挫けて、嘆くばかりの人間になってほしくないのだ。子龍、これも親心というものなのだろうか。わたしはこの子がほんとうの子のように思われてならない。九門古城の伝説がほんとうにあって、この地がまさにそれであるならば、わたしはどんな手段をつかっても、宝を得ようと思う」

十四話へつづく…
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