捜神三国志・燭龍本紀
第三十二話 不老不死の正体
文官たちが持ってきた数々の竹簡、あるいは古書などにぐるりと囲まれ、孔明、法正、伊籍、劉巴の四人があつめられている。
その膨大な量、そして数々の稀覯本に、もとより書物の虫である彼らは、目を輝かせている。
宮城の一室である。
尚書令の執務室から遠く、左将軍府の人間もあまり近づかない部屋で、孔明と法正の、双方の立場を考慮したうえで、公平に決められた部屋である。
部屋を決めたのは偉度で、文官たちに、法科の制作に参考となるような書物を選ばせ、運ばせたのも偉度である。
董和には、偉度が、まるで今日のこの時を予想していたかのような手際のよさで、さまざまな采配を揮うのに目を見張った。
休昭と三つほどしか違わないようだが、さて、わが子は、あと三年で、ここまで立派になるのだろうか。
つい、反射的にそんなことを想像し、己の愛息の境遇を思い出し、臓腑を掴まれたような痛みをおぼえて、董和は沈み込む。
休昭、そして親友の甥である文偉、ふたりは無事だろうか。無事であって欲しい。いまこうしている間にも、彼らの身にどんな凶事が降りかかっていることだろう。
あれこれと暗い想像を働かせている董和をよそに、法科を制定する段取りについて、四人がそれぞれ話し合っている。
話し合っている、とはいっても、口を動かしているのは劉巴と伊籍ばかりで、孔明はたまに相槌を打つ程度、法正にいたっては、刃を突きつけられたことがどうしても許せないのか、孔明をじっとりと睨みつけたまま、話をほとんど聞いていないふうだ。
法正は、やはり法正で、どこであれ、誇りの高さは群を抜いているのである。
これに李厳が加わる予定なのであるが、李巌というのは、もともと荊州人士として、煌びやかなに名を馳せた美丈夫なのであるが、曹操が南下してくるときに、いちはやく劉表勢を見捨て、劉璋に仕官した。
そして劉備が劉璋に代わると、さして抵抗らしい抵抗もせず、あっさりと軍門に降った男なのである。
孔明、伊籍、劉巴、李巌と、たしかに荊州勢が多いが、その身の振り方は、四者四様である。
劉備がこの人選をした、ということだが、いま、成都にある派閥のうちの、それぞれの長が集っている、という感がある。
孔明は、荊州人士、
伊籍は、劉備の古参の文官たち(つまり年配者たち)、
劉巴は、投降者のうち、派閥に属していない者たちの、
李巌は逆に、元劉璋の家臣たちの、それぞれの代表である。
劉巴がいささか異色ではあるが、この、促されなければ、滅多なことでは発言しない男が、いまは、いちばん口を多くして、みなをまとめようとしているのが不思議であった。
「子初(劉巴)殿は、あまり主公に心服されておられぬと聞いた。屋敷に泊まりに来た張将軍に対して、まったく口を利かなかったというので、主公のご不興を買ったという噂もあったはずだが」
と、董和が声をひそめて偉度に尋ねると、偉度は肩を小さくすくめた。
「ああ、その事件ならば事実ですよ。賛否両論あるようですが、幼宰さまは、張将軍がお屋敷にやってきたら、どうなされますか」
「それはもちろん、主公の義弟である方だから、歓待するであろうな」
「では、幼宰さまが、もしも、ありとあらゆる派閥の争いに巻き込まれたくない、と思っていたら、どうなされます」
「うむ…やはり歓待はするであろうが」
「歓待したという事実だけで、あの方は、張将軍と親交があると思われてしまうのに?」
「しかし、口を利かぬというのも極端な。無礼と謗られても、いた仕方あるまい」
「ですがね、あの方は、己の評判を守ることを捨て、主公からも距離を置こうとなさった。その態度を軍師は非常に立派に思われて、事毎に、ほかの方々から子初さまを庇われているのです」
「ふむ、荊州時代に親交が?」
「親しいほどではなかったようですが、互いに何度か顔をあわせたことはあったようですね」
「おまえは軍師のことならば、なんでも知っているのだな」
董和が言うと、偉度は、まあ、付き合いが長いですから、と答えた。
とはいえ、蜀の二大巨頭ともいうべき孔明と法正が、法科にかかりきりになる(実際には、法科を作るという名目で、二人とその取り巻きたちが、劉備がいないあいだに、勝手な真似をしないように見張るための措置である)のだから、その間の穴埋めが必要である。
そこで、糜竺ら、古参の文官たちを中心に、劉備が帰ってくるまでの文を、手分けしてまとめることになった。
張飛ら、血の気の多い武将たちは、劉備が古城から戻らないことを知らないでいる。
羌兵の部隊の将も同じで、大将に命を捧げても惜しくないほどに心服している彼らが事実を知ったなら、かならず騒いで、古城に潜りたがるであろうことは想像がつくからである。
古城は、大挙して押し寄せて、なんとかなる類の場所では無い。むしろ、いらざる混乱をさらに煽ることとなる。
そこで、武将のとりまとめは、老練な黄忠、馬超の従弟の馬岱が行うこととなった。
劉備のことであるから、みながバタバタと、その不在の穴埋めに右往左往しているところへ、ひょっこりと現れるかもしれない、という希望的観測もあったのだが、その日の夕暮れになるまで、劉備も、趙雲も馬超も、そして董和が少女のころから面倒を見てきた晴嬰も戻らず、主だった家臣たちに不安を残しながら、やがて日は落ちた。
さて、地上があわただしい動きを見せるなか、地下の世界では、一人の男が、ようやく病床から起き上がって、歩く練習をはじめていた。
玄女に助けられ、古城の一室で療養していた、張嶷である。
祝融と玄女が、薬草を採りにいってしまったあと、一人になった彼は、具合がだいぶよくなったことを感じ、起き上がって、だれもいない、不気味に静かな空間を、散策することにした。
もちろん、そんな気になれたのは、ゾトアオを襲った巨大蜘蛛や、金目の男が連れている不死人を、その目で見ていないからである。
玄女が、古城の地下にある薬草を採りにいくときに利用しているという、古布を鳥の巣のようにあつめて、なんとなく寝床のようになっている小部屋を出て、あきれるほどに瓦礫だらけの空間を進む。
小部屋にあった蝋燭を一本失敬しての散策であったが、地上の明かりなど、まったく差さない場所だというのに、どこかほのかに明るいのが不思議である。
壁、床、柱、目につくものすべてがほとんど破壊された空間において、なんとかその形骸をとどめている壁が突き当たりに見えたので、そこいらに転がる瓦礫を手すりの代わりとして伝って歩きながら、朽ちかけた壁に戻る。
それにしても奇妙なのは、朽ちた石のなかに、蛍のようにぼんやりと、光を放っているものがある、ということである。
破壊を免れて残っている壁には、光を持つ石は、巧みに装飾の一部として使われていた痕跡がある。
欠片のひとつを手に取ってみれば、それは熱を持っているでもなく、ただ静かに光を主張しているのだ。
よく洞窟などに生えている苔のなかに、光るものがあるが、表面を触れてみても、なにかが寄生しているふうではない。
こういう石なのだ、ということで、納得するしかなさそうである。
何事につけ、きっちり筋を通さないと気が済まない張嶷にしてみれば、なんとも胸のあたりが気持ち悪い結論ではある。
黒イの姫と、奇妙な老婆・玄女がまだ戻ってこないようなので、張嶷は、石のひとつを燭台の代わりにして、自分の体がどれだけ動くのか、軽くあちこちを動かしてみることにした。
彭恙から与えられた傷は、致命傷であったはずである。
もし、運良く助かったのだとしても、ほんの数日で起き上がり、身体を動かせるほどになったのは異常だ。
亀くらいに動けるようになった、などという生易しいものではない。
こうして身体を動かせば、まだすこし傷みが感じられるものの、ほとんど以前と変わらない状態に戻っている。
玄女が、古城の地下から採ってくる薬草の効能なのだとしたら、それこそ奇跡の万能薬ではないか
。始皇帝が欲したという不老不死の薬。
まさか、そんなものが、本当に、この地下にある?
しかし考えることは張嶷の得意とするところではない。
黙って出てきてしまったが、董和たちはどうしただろうと考えながら、手ごろな石をひろって、壁に向かって投げてみる。
肩も調子が戻ったようだ。
これならば、剣も槍も持てるのではなかろうか…
と、石が壁にぶつかり、こん、と高い音を予測していた張嶷であるが、たしかに石は壁にぶつかったものの、弾力のあるものにぶつかったのか、予想していたのとは、だいぶちがう音をたてて床におちた。
何であろうと首をひねり、石を拾いに向かおうとして、足が止まる。
それは、意識をして止めたのではない。
自然と止まった。いや、竦んだのである。
山野を駆け巡り、狩猟を好んだ張嶷は、獣の気配に敏感だ。
竹林にひそむ虎、あるいは熊の気配と同じ、いや、それ以上の、危険な獣の気配がする。
それに、耳をすませてみれば、風の音にも似た、なんだろう、このなにかが大きく擦れるような音は。
そして周囲を見回して、張嶷は、ふと目をやった壁が、激しく動いているのを見た。
張嶷の足の半分ほどの高さで崩れ落ちた壁は、風に流されるようにして、いっせいに横に流れている。だが、奇妙なことに、壁の位置そのものは変わっていない。
壁面だけが動いている。
いや、正しくは、壁面の模様が、右から左へと流れて行っているのだ。
そんなことがあるか? それに、この音はなんだ?
しばらくぼう然と、この奇妙な光景を眺めていた張嶷は、音が遠ざかるとともに我に返り、壁面が移動したと思しき壁を、じっくり観察すべく、足を進めた。
壁そのものは、やはり動かずに、そこに残されている。動いたとばかり思っていた壁面は、近づいてみると、そこいらに転がる石と一緒で、不思議な仕掛けがしてある、というわけではない。
なぜ動いているように見えたのだろう。
張嶷は、壁面をさすって、なにかが張り付いているのを見つけた。
それを燭台に持っていって、よく観察すれば、大きな鱗である。
貝のような大きさの薄く固い表面に、どこか温かさが残っているのが気味悪い。
「おやおや、もう歩けるようになっていたのだね」
と、声がして、見れば、玄女と祝融が、瓦礫の山の向こうからやってくる。
しかし、二人連れではなく、背後に、熊のように大きな身体をした、やはり黒装束に長剣という出で立ちの、十歳くらいの子供を背負った男を連れている。
「怪我はいいようだね。もう試しただろうけれど、どこか痛むところはないかい」
玄女の問いに、張嶷は、彭恙に斬られた胸をどん、とたたき、答えた。
「ありがたいことに、どこにも痛みはないようだ。礼を言わねばならんな」
「礼なんて不要だよ。それに、もしかしたら、わたしを恨むようになるかもしれないんだからね」
「どういうことだ?」
張嶷の問いには答えず、さまざまな布を体中に巻きつけ、目だけを見せている小躯の老婆は、張嶷から燭台をとりあげた。
「かといって、ここは古城。危険なことには変わりは無い。いくら人気がないからといって、ひとりでうろうろするのはいけないよ」
「このあたりには、盗賊どもはいないのだな」
「そうだよ。四階層目はとくに破壊がひどくてね、天井の一部が崩れてしまって、五階層目と混ざり合ってしまっているのだ。不用意にうろうろすると、迷って戻ってこられなくなるよ」
「気をつけよう。ところで、その男と、子供は何者だ? 男は、見たところ黒イのようであるが」
張嶷が尋ねると、玄女が紹介するより先に、男が口を開いた。
「おれは黒イの長・ゾトアオだ。祝融の夫となる予定の男だ」
「冗談ではない、だれがおまえを夫などと」
と、すかさず祝融が大きく打ち消し、熊のような男は、祝融が照れではなく、本当に否定しているのだと見て、顔をしょんぼりとさせた。
黒イの若い長は、なかなかの切れ者なうえに、蛮勇を好むと聴いていた張嶷は、たしかに恐ろしそうな男ではあるが、素直な性質で、残忍さはさほど感じられない男だな、と感じた。
ゾトアオは、背中に子供を背負ったまま、大きな目をきょろりとさせて、張嶷に凄む。
「おれは名乗ったぞ。おまえも名乗れ」
「遅れてすまぬ。我が名は南充国の張伯岐という」
「ふん、南充国の男か」
と、ゾトアオは、張嶷を舐めるように、上から下まで眺めつくした。そして、莫迦にしたように、ふん、と大きく鼻を鳴らす。
「気に食わん面だ。おまえは、人を幸せにすることができない顔相をしている」
とたん、祝融が、ゾトアオの頭をぺしりと叩いた。
「初対面に向かって、なんという無礼を言うのだろう。おまえのようなのがいるから、蛮だといって我ら全体が蔑まれてしまうのだ。
道すがら説明したじゃないか。この人は、あたしをあの嫌らしい彭恙という男から助けてくれたのだよ。そして、怪我まで負ってくれたのだ。命の恩人さ」
祝融は、短い日数ながらも言葉を交わしあったことで、一種の絆ができたと思っているのか、張嶷にやさしく微笑みかけてくる。
悪い気はしなかったが、感謝されること以上のことは、なにも期待していない張嶷は、曖昧に笑みを浮かべるだけにとどめた。
祝融が言葉をつづけているあいだにも、ゾトアオは張嶷をはげしく睨み続けていたからである。
「ところで、その子供はなんだ。まさか子供が古城に誤やまって入り込んでいたと?」
張嶷が尋ねると、祝融とゾトアオは困惑したように顔を見合わせる。
すると、それまで沈黙を守っていた玄女が口を開いた。
「その子供は、おまえと一緒なのだよ」
意味ありげな言葉に、張嶷は顔をしかめる。
「いままで何があったのか、あたしが説明してやろう」
張嶷は、玄女の口から語られた話を、意外に抵抗なく、すんなりと受け入れている自分に気が付いた。
そもそも、立っている場所からして、地上からは想像も付かない不思議だらけの場所である。不思議な場所では、
神話のなかの出来事のようなことも、普通に怒るのだと、納得するしかないではないか。
「大変であったのだな。事情はわかった。しかし、その子供が、俺と一緒だというのは、どういうことだ?」
張嶷が尋ねると、玄女は、ふところに仕舞っていた籠から、薬草をひとつ、取り出して見せた。
奇妙な草であった。
蓬のような葉を持ち、桃色の花がついている。
花の大きさは、牡丹ほどもあり、暗闇の中、遠くから見たなら、桃の実そっくりに見えたにちがいない。
大きな花弁をいくつも持つ花で、葉と花の大きさの均衡がわるく、花瓶に生けておきたいと思えない毒々しさを、なぜか感じる。
「これ、あたしたちがさっき摘んできた薬草じゃないね」
「見たこともない花だな。なんだか大きすぎて気味が悪いぞ。それに、いかにも近寄ってくださいといわんばかりの色をしておる。根性が悪そうだ」
などと軽口を叩きつつ、子供を背負ったままゾトアオが花を覗き込むと、玄女の手の中にあり、根ごと引き抜かれてくったりしているその花が、不意に動いたように見えた。
「蝋燭の加減だろうか。いま、動かなかったか?」
ゾトアオが、さらに顔を近づけて、その花弁に、ふうっと息を吹きかけると、花は、とたんに、魚のように身をよじらせて反応した。
その不気味さに、祝融、ゾトアオ、張嶷とも、思わず花から身を引く。
「花じゃないのか?」
張嶷が尋ねると、玄女は、幾重にも巻きついた布の奥から、頷いた。
「花のように見えるけれどね、これは虫なのさ。そこの黒イの長が言ったとおり、こいつはとんでもない性悪だ。さきに言っておく。張伯岐、これがあんたの命を救った」
「これが?」
「ああ。そして、黒イの長が背負っている子供。その子供を動かしているのも、この虫なのだよ」
玄女の言葉の意味は掴めなかった。
掴めなかったものの、言葉の奥に、とんでもなくおぞましいものが潜んでいる気配を素早く察知し、張嶷は、ぞくりと身を震わせた。
それは祝融も同じようで、一歩、足を進めて、玄女に詰め寄る。
「動かしている、って? ゾトアオを襲った蜘蛛の背中にへばりついていた花、もしかしてこれは、そいつと同じもの?」
「そうだよ。この『虫』は、宿主に寄生し、その身体に侵入して、餌を多く捕獲できるように、その身体を大きく成長させる。
宿主が弱っていれば、この根のように見える触手でもって、傷ついた身体を補修し、花弁に見える口から吐き出される液で、治療を施して、思うまま操るのだ」
張嶷は、思わず己の臓腑のあるあたりを、ぎゅっと掴んだ。
もちろん、肉を隔てて臓器そのものを触れることは叶わない。
だが、この肉の底に、おぞましい虫が巣食っているのだとしたら?
「これが、古城の伝説のひとつ、不老不死を与える『薬草』の正体なのだ。そして、不死人とは、この薬草を飲まされた『死人』だよ。
もうすでに死んでしまっているから、理性もなにもなく、ただの腐った肉の人形としてしか動かないのだ。
ゾトアオ、おまえの背負っている子供は、おそらく『薬草』を飲まされたとき、まだ生きていたにちがいない。だからこそ、見た目もまともで、普通の人間らしいのだ」
「つまり、この子供は、生きているのに、体を虫に乗っ取られている、っていうことか?」
ゾトアオが尋ねると、玄女は、こくりと頷いた。
「可哀相に、『薬草』は、はるか昔には治療の最後の手段として用いられることもあったのだが、たとえ体が元通りになったとしても、寄生された人間は、元の生活に戻ることは困難になってしまう。
虫の意志はつよく、大量の餌を欲しがるからね。しかも、忌まわしいことに、この虫は肉食なのだ。さらに不思議な習性があって、お互いの仲間同士で殺しあう。縄張り意識が強いのかもしれない。
だから、『薬草』は次第に地上に持ち込まれることはなくなった。単に病人を殺人鬼に変えるだけのことになってしまうからね。桃が不老不死の妙薬という話は知っているだろう。あれは、桃そのものを指すのではなく、この虫のことを指すのさ」
祝融は、ちらりと張嶷のほうを見て、慎重に言葉を選びつつ、尋ねた。
「ねえ、あんたは、伯岐さんにもこれを飲ませたね?」
「仕方なかった。この男は古城に呼ばれたのだ。それに、虫を飲んだ人間のすべてがすべて、虫に操られるようになってしまうわけじゃない。意志の強い人間であれば、虫を己の制御下において、命を長らえた例もあるのだ。ただ死ぬか、それとも、虫と戦って生き延びるかだ」
「勝手なことを! こんな得たいの知れない虫に操られて、人を狩るようになってしまうかもしれないのにかい? これが『宝』? こんな酷いものを兵士に飲ませて、不老不死に仕立て上げていた、って話なのかい?」
「この地において戦が激しくなったときは、そんなこともあったようだがね、だが、これは『宝』ではないよ」
「婆様、あんたは、全部知っているのに、あたしたちに黙っている! なにか企んでいるのじゃないだろうね?」
「いや、感謝する」
と、張嶷は、低く、つぶやくように玄女に言った。
「あんた、律儀すぎるよ!」
張嶷の代わりになって激昂している祝融を宥めるように、張嶷は、よいのだ、と答えると、玄女に向き直った。
「虫と戦うには、どうしたらよいのだ」
「おまえはそう言うと思ったよ。この古城で、果たさねばならぬことがあるおまえならば、虫と戦うだろうとね。
いまは、虫はおまえの身体に馴染んでいる状態だ。そのうち、餌を求めて動き出す。動き出すまでの潜伏期間は三月。
三ヵ月後、虫は餌を狩る為に、おまえに人殺しを命じてくるだろう。水を飲もうが珍味を食そうが、まるで満足できない飢餓感が襲ってくるはずだ。それにひたすら耐えるのだ。
なかには気が狂ってしまう者もいるそうだが、この飢餓感さえ乗り越えてしまえば、虫はおまえの体の中で生きようとするから、逆におまえの意志に従おうとしてくる。
だが、ひとつだけ良いことがある。これが、いまのおまえにとって最良の贈り物になるとよいのだが。潜伏期間中は、虫はおまえの体を補強し、自分の根城を固めようとする。
だから、もしおまえの肉体が損壊しても、虫がこれを直してくれる。つまり、ちょっとやそっとの怪我は、恐れるに足りぬ、ということさ」
「三ヵ月後までは、俺は無敵だと言うことか」
そのとき、張嶷の耳には、馬超と斬りあったときの剣戟、そして趙雲と彭恙が斬りあっていたときの、あの激しい音が響いていた。
あの雷光のようなすさまじい武を得ることは、もしかしたら一生涯無理かもしれない。しかし、ほぼ無敵であるというこの肉体、限界を知らぬ肉体さえあれば、その境地を得ることは可能ではないのか。
「まあ、南充国のヤツは喜んでいるようだから、よしとして、婆さま、この子はどうなるのだ」
張嶷の心境が理解できないゾトアオが、胡散臭そうな顔をして、背中の子を背負いなおして尋ねてくる。
祝融が、眠り続ける子供の背を、そっと撫ぜてやった。
「かわいそうにね、こんなところに連れてこられてしまってさ。母上や父上に会いたいだろうに」
「でも、こいつは子供にはちがいないが、蜘蛛でおれを殺そうとしたのだぞ。なんだか怪しげな鈴でもって、蜘蛛を操っていたようだが、その虫は、鈴の音に反応するのか」
「虫を操る方法はあって、それは、古城のもともとの作り主であった王の一族しか知らないのだ。それに、その子はどうも虫に支配されていないようだね。これも理由がわからないが、鈴かなにかと関連があるのかもしれない」
「不死人を連れていた、金目の男が王族?」
祝融が鼻を鳴らす。玄女は頷いた。
「古き王の血族が戻ってきたのさ。あの男がなにを狙っているのかは知らないが、張伯岐、おまえはおまえの望みを果たす前に、あの男を倒さなければならないよ。でないと、おまえはあの男の下僕にされてしまう。潜伏期間が過ぎたら、虫が前面に出ようとするからね」
「金目の男とやらは、どこにいる?」
「七階層目さ。さて、ここで提案なのだがね、おまえたち、このまま奥に進むにも、武装は十分ではなく、食糧も尽きかけている。
それに、その背中の子にとっては、古城の金目の男の側にいることは良くないのだよ。あらためて先に進むためにも、一度、地上に戻るべきだとは思わないか」
祝融とゾトアオは顔を見合わせた。
「そうだね、婆様の言うとおり、これから先がどれだけ広いのか、見当もつかないし、準備が足りなさ過ぎる」
「しかしよ、祝融。こんな不気味な虫がうようよしている場所の奥にある『宝』が、天下を取れる宝なのだろうか。そんな宝が、人を幸せにできるものだろうか?」
ゾトアオが言うと、祝融はぴしゃりと跳ね除けた。
「いくじなし、腰抜け! じゃあ、おまえは地上に出たなら、ひとりで雲南に帰るがいい。あたしは伯岐さんと一緒に潜るよ」
「んな」
「伯岐さん、あんたの目的ってのも、あたしは知らないが、古城に用がある、ということだけは一緒だろう? 途中までになるかもしれないが、しばらく組んでみないかい。このふぬけ、もう国に帰るそうだから」
「帰るなどとは言ってないぞ!」
「そうと決まれば、婆様の抜け道をつかって、地上に戻ろうか。ああ、そう思ったら、急に太陽が恋しくなってきた。やっぱり、人は太陽を眺めて過ごすように天の神様が決めてらっしゃるにちがいないよ」
ゾトアオの抗議を無視して、祝融はずんずんと間道へ向かっていく。
闇の奥を睨みつけて、立ち止まっている張嶷に、玄女は言った。
「おまえの求めるものが、宝なんかじゃないことは判っている。おまえの言う図讖なんてものだって、、おまえは存在そのものを信じちゃいないだろう」
「俺は、うわごとでも口にしていたのか」
「いいや。あたしは、長くこの古城に関わってきた。だから、いまこの古城を巡って何が起こっているのかの、だいたいは把握しているつもりだよ。
おまえは、自分を理解せずに、ひたすら太陽に向かって梯子を立てかけているような生き方をしている。黒イの長がどういうつもりかは知らないが、言ったことは正しい。
おまえは、何の為に生きるのだい? ひたすら自分のためかい? では、どうして約束を果たそうとしているのだ」
張嶷は答えず、玄女を追い越して、祝融たちのあとを追いかけて行った。