捜神三国志・燭龍本紀

第三十話 臥龍、とうとう怒る(ニ)

「狂ったか!」
法正が、山雉のように甲高い声で叫ぶと、孔明は、突きつけた刃を、さらにぐっ、とその肌に押し付けた。
「狂ったのかもしれぬ」
その声は、完全に冷静さを失った者のそれだ。
震えている、という程度のものではない。揺れている。
双眸は濁り、憎悪ばかりを漲らせている。
形相は、まさに怒気を吐き、風を巻起こし、地に雷雨を落す龍のそれだ。

いかん。
董和は、遠くの廊下より、法正の悲鳴を聞きつけて集りつつある文官の、ぱたぱたという足音に気づいた。
素早く、偉度に命じた。
「この部屋の、扉と窓、すべてを閉ざすのだ。早く!」
偉度は、すぐに董和の指示通りにうごき、董和もまた、扉に閂と、さらに机や椅子を移動させて、力づくでも、なかなか開けられないようにした。
そうして、扉と窓の隙間より入る、わずかな光に浮かび上がる孔明と法正、さらに陽光の残滓を受けて、不気味に光る刃を見た。
おそらくは、常日頃から身につけている護身用の短剣であろう。
趙雲が、嫌がるが、無理に持たせている、といった、それにちがいない。
どんどんと、扉を叩く音がある。
だが、いま、彼らにこの部屋の有様を見せるわけにはいかないのだ。
董和は、さらに家具を移動させて扉を閉め、また、花窓を破っても、中が見れないように、敷布を掛けて視界を塞いだ。

「軍師、冷静におなりなさい!」
と、偉度が声をかけるが、孔明は、変わらず法正に刃をつきたて、法正は、文机を背に、のけぞるようにして固まっている。
法正が身じろぎするたびに、孔明は、怒りの表情のまま、ぐっと刃を押し付ける。
「貴殿ら、もしや、最初から、わたしを始末するつもりであったのか?」
と、孔明の形相に怖じた法正は、顔中から汗を滝のようにながしつつ、問う。
そうではない、と董和が答えるより先に、法正の言葉に、孔明はぎゅっと眉をしかめて、さらに握る刃の力をつよくした。
「貴様の考えることは、その程度か!」
「ちがうのか!」
孔明は、言葉をつづけるために、長い長いため息をつくと、怯えた顔をしておのれを見上げている法正に言った。
「法孝直、貴様の志をいえ」
「こころ、ざし?」
孔明が、唐突になにを尋ねたのかわからない法正は、怪訝そうにして、鸚鵡返しにした。
孔明は、苛立ちを隠さず、言う。
「そうだ、志だ。貴様の志を述べてみるがいい」
「なぜ」
「早く!」
孔明は、苛立ち、乱暴に、刃の切っ先を、脅すように法正に見えるように動かした。
これでは、軍師将軍の名が泣くだろう。
そのあたりにいる、ごろつきと、なんら変わりがないではないか。
「軍師、落ち着かれよ。これでは、話し合いにもならぬ!」
「すでに話し合いなどならぬ! どうした、法孝直、我が問いに答えられぬのであろう! やはり貴様は、漢王朝を腐敗させた不忠の輩のはらから。おのが邪魔者を粛正するにためらいのない、利権に群がる蛆虫ぞ!」
孔明の、決め付けた言葉に、恐怖の色を浮かべていた法正も、誇り高い性格を見せて、怒りで顔をゆがませた。
「どこまで人を愚弄するか、この青書生めが!」
「黙れ! わたしが青書生ならば、貴様はなんだ? 主公の危機においても、豪族どもとよしみを通じるのに腐心する。わたしの言葉もろくに聞かぬ。暗愚なここ狭き者よ、貴様のような輩がこの世にいるかぎり、乱世は終わらぬ!」
「主公が古城からお戻りにならぬなど、わたしは、さきほど、貴殿らの口から、はじめて聞いたのだ!」
「では、問う。貴様は、古城の宝を見たのか? 『得ればかならず天下を取れる宝』。まこと忠義の士ならば、主公にこそまっ先に献上すべきものを、貴様は我が物にせんとしていた。ちがうか?」
「もともとの由来も怪しいものゆえ、安全かどうかを見極めてから、主公に献上するつもりであったのだ!」
「安全であるわけがなかろう」
と、孔明は、それこそ地の底から響いたかのような、恐ろしげな低い声で言った。
「古城がこの地に生まれてより、すでに数百年という、気の遠くなるほどの時が流れている。わが一族は、この古城を作り出した者たちの、かつては王と崇められていた。古城に、『得ればかならず天下が取れる宝』があることは、我らは知っていたのだ。
だが、一族のだれ一人として、古城へ宝を取りに行こうとはしなかった。なぜだかわかるか、得れば必ず天下を取れる宝は、封印されたものであるからだ。つまり、真に天下にとって、有用なものであれば、封じ込めらるまでもなく、地上にあったはずであろう。
宝、などとはいうが、そのじつ、それは天下の害になるものであった。それがわかっていたがゆえに、我が一族は、だれひとり、宝を得ようとはしなかったのだ」
「莫迦な、あんなものが、有害だと?」
法正の言葉に、孔明は、ますます柳眉をしかめる。
「『あんなもの』ということは、やはり手に入れていたのだな。あきらめるがよい、人の命はひとつ、その一生も一度きり。永遠を願うことは愚かなもの。心をなくして肉ばかりが地に残るような生が、まことの不老不死といえようか」
「不老不死だと? 何を言うか、自分では読めぬようなものを、ただ眺めているだけで、不老不死を得ることができるわけがない」
法正の言葉に、孔明はいぶかしみ、押し付けていた刃の力を弱くした。
「読む? なんのことを言っている?」
「地下の三階層目にある図讖のことではないのか」

図讖と聞いて、孔明は驚きに目を開き、偉度や董和もまた、互いに顔を見合わせた。
彼らの様子を見て、法正は、自分がしゃべりすぎたことに、舌を打つ。

「あれは、渡さぬぞ! 張には、大量の金子を払ったのだ。わたしのものだ!」
「金子(きんす)」
「そうだ。ふん、図讖を読む娘ももろともに、わたしが買い上げた。宝が有用と判断してから、主公に献上するのだ。軍師、貴殿が悔しがる気持ちはわかるが、諦めたまえ。あれはわたしのもの。そして、いずれは主公のものだ!」
「図讖か…未来を読む、ということか」
孔明は、低くつぶやくと、短刀の先で、さっと法正の頬をなぶるようにして切りつけ、ふたたび首筋にぴたりと刃を突きつけた。
つう、と赤い筋が、宋は苦になっている法正の頬を流れる。
「なれば、この傷がつくことも、すでに貴様の中では了解済みであったというわけか? このわたしが貴様を殺す腹を固めたことも?」
「殺すだと? 出来ようはずがない! 軍師将軍ごときが、尚書令たるわたしに刃を向けることも異常であるが、その手を自ら汚すというのか! 益州の者たちは黙っておらぬぞ」
「いいや、黙る。黙るほかなくなるであろう。法孝直、主公のお言葉があればこそ、わたしは、成都を手に入れたおりの貴様の蛮行にも目をつぶった。その後の汚職の数々にも、あえて目をそらしつづけてきた。その結果が、これか! 
志なき輩よ、貴様は所詮、生涯を辺境の地にて暮らすだけの器量しか持ち合わせていなかったのだ。貴様の存在は主公を脅かす。ならば、後顧の憂いは早くに無くしたほうがよい。成都の治安がいまだ定まらないのも、貴様が短慮にあまりに多くの者を虐殺したせいぞ! 責を負って死ぬがよい!」

孔明の形相が、いまだかつてないほど凶悪なものに歪んだ。
この、外貌がきわめて柔らかで女性的な青年の中にも、あまたの武将も、その気配だけでたじろがせるような、激しいものが眠っていたのである。
いや、もしかしたら、静謐な肉体の中に、憎悪、憤怒といった暗い激しさを抱えているからこそ、孔明は龍と呼ばれるのかもしれない。

「殺すならば殺せ!」
唐突に、法正が、これまた激しく応酬した。
「ここまで愚弄されて、黙っている男子がどこにいようか! それほどまでにすべての責めをわたしに負わせたいのならば、そうするがよい!」
この言葉に、孔明は、黙って、法正の、怒りに燃える双眸を見下ろした。
その視線に負けじと、法正も眦をつよくして、孔明を見上げる。
「志なき輩とぬかしたな? わたしが、どんな思いで、世のそしりを受ける覚悟で、前の主君を裏切ったと思うのだ! たったひとつ、巴蜀を、怠惰な君主から守るため、そして、心正しき仁君に、真の領土を与えんがため! 劉璋の治下において、わたしをはじめとする、心ある者が、どれほど卑屈になって生きなければならなかったか、貴様にはわかるまい! 
わたしが暴虐で不忠な輩とぬかすのであれば、貴様はなんだ? 主公に内緒で、やはり同じように部下を古城に潜入させていたではないか! 腹黒き男よ、貴様こそ、宝を手に入れたならば、一族の由来とやらを持ち出して、己のものにしようとしていたのではないか! わたしを殺すならば殺すがいい。だが、わたしを殺せば、この処置に疑問をもつ者が、やがておまえを糾弾するであろう。貴様こそ、ちっぽけな情に絡め取られ、盲目になっているのではないか!」
董和がおどろいたことには、孔明は、最後の言葉で、憤怒の表情をさっと解いて、顔を蒼ざめさせた。
それを見逃さぬ法正ではない。
さらに畳み掛けるように、言葉をつづける。
「貴様は、主公が古城に潜入して戻らぬことを恐れているのではない、古城と己の関わりとを、知られてしまうのが恐ろしくて、慌てているのであろう?」
すると、孔明は、肩の力をわずかに抜き、声をたてて笑った。
「貴様の想像力はその程度か。やはり生きていても甲斐のない男だ」
「いよいよ、その本性をあらわしたわけか、諸葛亮! 貴様は冷酷で、だれが横に並び立つことも許さぬ男よ。その狭量さは、やがて主公の首を締めてしまおうぞ!」
「狭量とは、己の政敵たちを、些細な理由で捕らえたあげくに、一族もろとも処刑をした男に言われたくない言葉であるな。そして、殺した一族の財産をこっそりと横領し、その金で、おまえは図讖を買ったのだ! 
血塗られたその手で差し出されたものなどに、主公は興味をお示しにはならぬ! 斯様な考えしかもたぬような男が、我が隣に並び立つことさえおぞましい!」
「そうだ、貴様の本音はそうなのだ! 己が理想ばかりを押し付け、型に収まらぬと切り捨てる! 主公がいなくなったなど、わたしはこれっぽっちも聞いておらなかった。この尚書令たるわたしがだぞ! 
宮城の者たちは、尚書令たるわたしを無視し、軍師将軍たる貴殿にのみ使者を送ったのだ。主公も、そうなのだ。われらを信じると口では仰るが、いったいどこまで本当なのか……我らは、仲間だと思われていないのだ、いつもそうだ」
「それは、己が身から出た錆であろう」


孔明と法正の言葉の応酬に、偉度は腕を組んで、難しい顔のまま、じっとその言葉に耳を傾けており、董和もまた、その隣で、すれ違いのつづく激しい言葉のやりとりを聞き続けていた。
閉ざした扉と窓の向こうでは、集った文官たちが、何事が起こったのかと、どんどんと扉を叩いてくる。

董和は、二人のやりとりを聞いて、だんだん腹が立ってきた。
孔明は、法正に志がなく、欲に目を眩んだ嘘つきだと責め、法正は、孔明が冷酷で狭量で、自分たちを仲間と見做していない、と責める。
自分は、左将軍府の人間である。
掌軍中郎将の職を拝領したからには、孔明を上役と仰ぎ、これに従うのが筋だろう。
だが、孔明の言葉のすべてにうなずけるか、といえば、そうではない。
法正の指摘は、正しいものだ。
国の要たる劉備がいなくなったことを、文官の頂点である法正が知らず、孔明が知っている。
どういう経路からそうなったのかは知らないが、劉備の意図ではなく、周囲が勝手に、そういう仕組みを作っていたにちがいない。
劉備の一番の家臣は孔明であるから、と。
これでは、法正も立場がないし、仲間だといっても、それは口だけだろうと拗ねるのも当然だ。
そのことに思いやれず、妙な仕組みを放置していた孔明に咎はある。

だが、法正もおかしい。
黒い噂の絶えぬ男より、だれにも内緒で宝を買い取っていた。
しかもそれは図讖であるという。
二心があると、つまらぬ憶測をされるのは当然の行動だ。
それに、法正は、いまだ虐殺の清算をしていない。
それ相応の咎を受けていないために、孔明や、心ある者たちを納得させていないのだ。

どちらが正しいのか?
比べること自体が愚かなのではないか。
二人とも間違っているのである。
問題の要旨は、劉備が戻らないという、この一点である。
それなのに、蜀を大きく二分する派閥の頂点が、このように、ごろつきまがいの態度でもって、互いに互いをけなしあっている。
劉備が戻らなかった場合、これはふたたび蜀の主が変わるということだ。
そうなれば、益州人士は、自分たちの側から人を出そうとするであろうし、荊州人士は、これにおおいに反発し、やはり同じように、だれかを擁立して、これに対抗しようとするだろう。
そうなれば、もはや義もなにもない。
それぞれの頂点が、こうも口をきわめて相手を罵っているのだ。
平和裏のうちにことが治まるとは思えない。
つまりは、蜀に、今度こそ血風が吹き荒れる、ということ、そうなれば、もっとも被害を受けるのは、これから平和になるのだと信じていた民ではないか。

この二人は、互いに民のことなど、これっぽっちも考えていない。
ただひたすら、もっともらしい大仰な言葉をつかって、結局は、相手の非を暴き、自己主張を繰り返しているだけなのだ。

董和は、ずっと我慢していた。
本当は、いますぐにでも、息子と、晴嬰を(あとついでにほかの三人も)助けに行きたいのである。
だが、孔明は、政のこともあるから、それはならぬと言い、法正のもとに一緒にやってきた。
法正とうまく連合して、劉備のいないことを伏せ、すぐに地下に潜るための人員をそろえてくれるものだと信じていた。
ところが、この有様はなんだ。
いま、孔明が法正を殺したところで、内乱を誘発するばかりとなり、古城に潜るための人員なんぞ、割いている場合ではなくなってしまう。
怒り心頭で、たまりに溜まっていたものがついに溢れ出た…孔明の場合、おそらくはそうなのだろう。
法正も、孔明の怒りに誘発されるような形で、言葉を発したのだ。

何がしたいのだ、この二人は。
己の主張をどこまでも主張し続けて、互いに互いを滅ぼしたいだけか。
わたしは、いや、わたしを含めた、巴蜀の民はどうなる?

董和は、腹と尻にぐっと力を籠め、拳を握りしめると、目の前で言い争いをつづける孔明と法正を見据え、怒鳴った。

「貴殿ら、いい加減にせよ!」

その声は、扉と窓の閉ざされた薄暗い部屋に、びりびりと響き、どんどんと扉を叩き続けていた、廊下にいる文官たちをも黙らせた。
孔明と法正も、そのままの姿勢で、おどろいて董和のほうを見る。
「もういい! 貴殿らがそのように争いをつづけるのであれば、わたしは貴殿らを頼らない! 己のことばかり喚きおって、貴殿らには失望したぞ!」
孔明が、口を開こうとするや、董和はさらに激昂して、つづけた。
「聞きたくない! 貴殿の口から出る美しい言葉には、実が伴っておらぬ! そこな尚書令の言葉とて同じことぞ! どいつもこいつも、いい加減にするがいい! 貴殿ら、出て行け! この巴蜀から、二人そろって出て行け!」
法正が、机に背をあずけた姿勢のまま、強ばった声で尋ねてきた。
「我らが居なくなれば、貴殿もおしまいぞ」
「おしまいになぞならぬわ、自惚れるなよ! 江東だろうが荊州だろうが中原だろうが、どこへなりと出て行け! そして、そこで好きなだけ殺し合いをするがいい! 巴蜀ならば、わたしが守ってくれよう、貴殿らは出て行け!」
怒りのあまり、小刻みにぶるぶると震える董和を、唖然と見る孔明と法正であるが、その空気をさらに進めるように、偉度がゆっくりした口調で口を挟んできた。
「幼宰さまがそう仰るのでしたら、わたしは幼宰さまに従おうと思います。お二方は、さようなら。蜀の桟道のところまで、お見送り申し上げますよ」
「なにを言う」
偉度の言葉に、孔明が顔をしかめると、偉度は、冷たい表情で、目を細めて、言った。
「軍師には失望いたしました。あなたとはしばらく絶交です。言うことを聞かせたけりゃ、なんだってわたしをこんなに怒らせたか、その理由を、賢いはずのそのおつむで考えたらいい」
孔明に言い放つと、偉度は、組んでいた腕をほどいて、董和のほうを向いた。
「わたしは、主公がお戻りになるまで、貴方の命に従います。さて、最初に、この莫迦な二人はどういたしましょう」
「うむ」
と、董和は、気持ちを落ち着けるために息をつき、気まずそうに黙ったままの孔明と法正を見た。
「牢に繋げ、と言いたいところではあるが、それでは、かえって、いらざる不安を民に与えてしまう。この二人には、変わらず職務に励んでいただく」
「また喧嘩しますよ」
「通常の職務ではない。この二人は、愚かにも、主公の命を忘れ、諍いを起こした。わたしと主公がお戻りになるまで、主公がお命じになったとおり、蜀の法科を作る作業にいそしんでもらうのだ」
ほう、と相槌を打った偉度であるが、口元に冷笑を浮かべたまま、また目を細めた。
「わたしと主公が、と、いま仰いましたな? では、幼宰さまは、また自ら古城に潜られるおつもりか」
「そうだ。主公はおそらく、われらが見つけた門から古城へ入った。われらが見つけた道が途中で二股に分かれていたのを覚えておるか。片一方は未踏破だったはず。
主公が第三の門より古城に潜られたのなら、不死人が徘徊しているという、通常の迷路のほうではなく、未踏破の道に向かった可能性が高いのではないか」
「ああ、たしかに。なるほど。となると、お一人では心もとない。わたくしも共に参ります。幼宰さまの武芸の腕を侮るわけではないが、わたしのほうが若いですからね。以前のように、素顔を隠す必要もないわけですし、きっとお役に立てますよ」
「いいや、おまえには、軍師と尚書令を見張ってもらわねばならぬ」
董和が言うと、偉度は、悪戯小僧のように声を立てて笑った。
「喧嘩しないように、看守みたいにそばにいて、じっと見ていろと? そういうのは苦手なのです。大丈夫、わたくしに考えがございます。このふたりを見張るのに、適任がおりますよ」



ほどなく、がらごろと車輪を勢いよく転がして、左将軍府より、一台の馬車が到着した。
そして、中にいた人物は、あわてて飛び出し、そのまま、転がるようにして宮城の真白い階段を上る。
途中の段で、ゆったりと歩を進めていた、見知った背中を見つけて、あわてて着物を直し、礼を取った。
「おや、貴殿もでしたか」
と、ゆったりした口調で、劉巴は言うと、流れるような仕草でもって、礼を返す。
左将軍従事中郎・伊籍、字を機伯は、劉巴のあまりの余裕のあるそぶりに、苛立ちながらも、周囲を見回して、小声で言った。
「いったい、どういうことでございましょう。主公が、昨夜から行方不明だというのは」
「そう慌てられずとも。すでに軍師将軍、尚書令も集っておられるとか。以前に主公より直々にあったあの話をするだけなのでは?」
「主公が行方不明なのに?」
「声が高い。行方不明であるからこそ、われらが平常心でなければなりませぬ。落ち着かれよ」
うむ、と伊籍は答えるものの、このわずかに年下の荊州の名族の、あまりに泰然自若とした空気に、付いていけないでいる。

劉巴は、つねに口元に貼り付けたような笑みを浮かべている、白面の男であった。
髪はきれいに鬢付油で整えられており、身に纏うものも高雅で趣味がよい。
劉巴がおどろきあわてたところを見た者はなく、まして走っているところなど、だれも目にしたことがない。
劉巴は、荊州人士がこぞって劉備になびくなか、曹操に率先して降った、数すくない名族のひとりであった。
そのために、劉備の不興を買っているのであるが、孔明は、自分にはない劉巴の能力を高く評価し、つねに庇ってやっている。
伊籍からすれば、劉巴は得たいの知れない人物である。
孔明が、なぜに劉巴を慕い、こだわっているのかが判らない。

伊籍は、劉備が大好きな男であったから、その心に同調し、劉巴をおもしろく思っていないのだが、そこは世渡り上手なところを見せ、顔や態度に出すことはない。
いったい、何事か起こっているのかと、そわそわと足を進めてみれば、案内された一室には、なにやらぴりぴりした空気を撒き散らした孔明と、法正と、挨拶だけはしたことのある董和、それから昔馴染みの胡偉度がいた。
偉度の姿を見れば、伊籍はどうしても、かつての主君、劉琦を思い出してしまう。
一瞬ではあるが、伊籍は劉備のことを忘れ、偉度に近づいて、その華奢な手を取った。
「久しぶりだな、また背が伸びたのではないか。元気そうで何よりだ。おなじ左将軍府の人間だというのに、おまえとは、どうも顔を合わせることが少ないからな」
「背はもう伸びませぬよ。それよりも、来てくださってよかった。こちらは董幼宰殿。先日、主公より掌軍中郎将の職を拝領されたお方です。ご存知でしょう」
伊籍は、いかつい顔をした、硬骨漢ふうの中年男を見た。
文官というよりは、肌の浅黒さといい、鍛えられたふうの体つきといい、武将のようにも見える。
なにより、眼光が鋭く、つよい。
「これまたお久しゅうございます」
董和に挨拶をしていると、偉度が横から口を挟んできた。
「幼宰さま、軍師の見張りに、このお方こそ、適任はおりませぬ。そうでしょう、機伯さま」
伊籍は、奇妙なことばに首をひねった。
「見張りとはなんだね、軍師ほど、職務に忠実はお方はおるまい。それに、これほど性質の穏やかな方はおらぬぞ。軍師が一度もわたしに怒気を吐かれたことはない」
「そうでしょうか。何度か思い出せますが」
「おまえの見方が邪(よこしま)なのだ。そうでしょう、軍師」
と、気まずそうに黙って立っていた孔明に、伊籍が話を振ると、孔明は、さらに困ったように、あいまいに、そんなことはないでしょう、と短く答えた。
「ほらね、こういう方です」
といって、偉度は、友にするように親しげに伊籍の肩を、笑いながら叩いた。
伊籍のほうは、なにがなにやら、というふうに、首をひねるしかない。

「となると、わたしは尚書令殿のほうの見張りというわけかね」
と、やはり落ち着いた風情で、訳知り顔の劉巴が言った。
すると、孔明は緊張した面差しで丁寧に拱手をし、法正は、あからさまに迷惑そうな顔をした。
法正の顔には、味方か敵か、判じかねている者が来た、と書いてある。
劉巴は、一同の顔をあらかた見回したあと、最後に孔明に視線を戻して、静かに言った。
「同じ左将軍府に属しながら、気づかなかった。しばらく見ないうちに、とても恐ろしい目をするようになっていたのだね」
「恐れ入ります」
と、孔明は、丁稚のように恐縮して頭を下げた。
この素直な、どちらかといえば、劉巴を恐れているかのような態度に、ほかの者たちは驚いている。
劉巴は、もの静かな態度を崩さぬまま、一堂の視線をあつめつつ、言った。
「だいたいの事情は飲み込んでいる。主公のご不在において、われら重臣が諍いを起こすなど、愚かなことであり、これこそ不忠といえよう。
主公は、わたしと機伯殿、軍師と尚書令、そしてここにはおらぬが李将軍に、それぞれ知恵を出し合って、蜀科を作るようにと命じられた。政情もいまだ不安定なのだ。主公がご不在であればこそ、われらは一つところにまとまっていたほうがよいと思う。
主公の命令を遂行しつつ、そのお帰りを待つ。それでどうであろうか」
「異存はございませぬ」
と、孔明が言うので、伊籍もそれにならって、頷いた。
「実のところ、まったく事情が飲み込めておらぬが、軍師がそれでよしと仰るならば、それで」
「左将軍府の人間ばかりではないか」
と、法正が不平を鳴らすが、それを劉巴が封じるように言う。
「ご不満か? 人員の選抜は主公がされたのだ。あとから現れよう李将軍は、左将軍府の人間ではない。荊州人士ばかりというのが気に食わないのであれば、だれか主公に推薦されればよかろう。ただし、主公がお戻りになってからだ」
法正が、不満そうな顔をしたまま、それでも黙ると、劉巴は頷き、そして偉度のほうを向いた。
「ここから先は、わたしがしばらく仕切らせていただく、ということでよいのだろうか」
「問題ございませぬ。どうぞよろしくお願い申し上げます」
と、偉度は、劉巴に、深々と拱手する。
傍らで見ている伊籍は、ハテ、劉巴と偉度は、いつ、こんなに仲良くなったのかな、と首をひねっていた。



劉巴に恐ろしい目だと指摘されたことで落ち込んだのか、孔明は黙ったままであったが、董和は、それに近づくと、手を差し出した。
「出しなさい」
言うと、孔明は、怪訝そうに小首をかしげる。
董和は、つづけて言った。
「出しなさい。貴殿が、尚書令につきたてた、あの短刀だ」
ああ、と合点した孔明だが、それでも出し渋って、動きがおそい。
「わたしは、必ずや、主公と我が子らと、貴殿の御子を取り戻して戻ってくる。貴殿は、地上で、待っておられよ。だが、地上の貴殿の動きが危ういのであれば、わたしも敵に専念できぬ。貴殿の短刀は、趙子龍より与えられたものであろう」
孔明は、それを聞くと、驚いて眉をあげた。
「なぜそれを」
「口止めされたが、あえて言う。趙子龍は、貴殿のことを、くれぐれも頼むと、わたしに頭を下げた。主公も、同じように、わたしに、貴殿を助けてやってくれと仰った。
両者より、それほどに心を掛けられておりながら、貴殿は、町のごろつきのように、尚書令を脅しつけ、己が心を弁舌ではなく、力で押し付けようとした。その短刀は、貴殿には預けてはおられぬ! 
よろしいか、なにゆえ、趙将軍と主公が、貴殿を心配しているのか、そして、さきほど、劉曹堟(劉巴)が仰ったこと、合わせてよーく考えるように!」
とたん、驚いたことには、孔明の、それまで険の取れなかった双眸に、じんわりと涙が浮かんだ。
さすがに涙をこぼすところまではいかなかったが、孔明は、沈黙のまま、ふところにしまっていた短刀を取り出すと、董和に渡した。
董和は、ようやく孔明という人間が理解できた気がした。
あまりに多面的で複雑な青年であるが、それは心が柔らかく、少年のように素直であるからだ。
柔らかさが弱さに繋がると勘違いをして虚勢を張ってはいるが、傲慢の病は、心の奥までは、まだ侵食していない。
「かならずや戻る」
言うと、孔明は、ほんのすこしだけ、笑みを浮かべて見せた。
その顔は、ひどく寂しげな子供が、あてのない約束に、どう返答したらよいのか、困っているような顔であった。

つづく…
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