捜神三国志・燭龍本紀

第三十話 臥龍、とうとう怒る(一)

文官の頂点たる尚書令の位についている法正の執務室には、すぐとなりに陳情者のための待合室がしつらえられている。
これが、一種の汚職の巣になっていることは、想像にかたくない。
とはいえ、集っているのは、法正の手にしている利権に群がってくる悪党ばかりではない。
遠路はるばる、法正の力を頼りにやってきた者たちも多い。
漢族ばかりではなく、蜀をぐるりととりかこむ、あらゆる民族が一箇所に集っている感すらある。

集っている人々の顔が、いっせいにこちらを向く。
何十という視線を一身にあつめても、足がすくまないのは、場数をそれだけ踏んでいるからだが、集った視線が、なにかを察知したように、さっと素早く逸らされる、そんな経験をしたのは初めてである。
董和は、ちらりと、自分の一歩前を行く男を見た。
あらためて見るに、背の高い男である。
だが、これほどに大きかっただろうか、これほどに威圧感を覚える相手だったろうか。
董和とほぼ同じ位置にいる胡偉度も、馬車から降りて以来、ひとことも口を利かない。
董和の前を、足早に歩く男、諸葛孔明の発する気が、周囲の空気を震わせているのである。
もし気というものを目でみることができるのであれば、それは、器に注いだ水を激しく揺らしているような調子だったのではないか。
執務室へとつづく廊下を、衣擦れだけをさせて歩く孔明の姿に、法正に仕える文官たちも、顔を強ばらせて道を開ける。
孔明の顔が、鬼卒のように恐ろしかったのではない。
その表情は、むしろ、いつにも増して静かで、冷たくすらあった。
思いつめてもいない。怒りが込められているのでもない。かといって高揚しているわけでもない。
それなのに、激しい怒りに捕らわれているのだと、誰の目にも明らかなのは不思議である。はたしてそれが何故なのか、分析する余裕は、董和にもなかったが。

孔明がなにをするつもりなのか、董和には見当もつかなかった。
てっきり、自分が従弟との交渉をするために古城に潜るというのではと思っていたのだが、尚書令のところへ行くという。
尚書令が、栄耀飯店の張大人と結んだことは明らかなわけであるが、だからといって、劉備が帰らないことと、どう結びつくのか。
劉備と共に、孔明の主騎である趙雲も同行して古城に潜っている。
そのことで、責任を追及されたら、いかな寵愛あつき軍師とはいえ、立場が危ういものになるだろうに。

「お待ち下さいませ。法尚書令に取り次いでまいりますゆえ」
と、法正の主簿が、執務室からあらわれて、三人の行く手を遮った。
孔明のつれている主簿の胡偉度とは対称的に、ふくよかな、丸顔の青年である。忍耐強そうな顔をしており、気分にむらがある法正には似合いであった。
孔明は、それを無視して、執務室に入ろうとする。
それを、法正の主簿は、両手を広げて通すまいとする。
「お待ち下さいませ、どうか」
すると、孔明は、太い眉毛の主簿の顔をちらりと見ると、冷たく言った。
「取次ぎはいらぬ。尚書令殿はいるのだな」
「尚書令さまは、現在、ほかのお方と歓談中でございます。しばしお待ち下さいませ」
「それは、わたしよりも高位の者であろうな? そこを退け!」
「無礼でございますぞ!」
孔明の居丈高な命令に、法正の主簿は、顔を真っ赤にして抗議する。
だが、孔明はかまわず、主簿を退けて、執務室へと入った。
董和と偉度は、思わず顔を見合わせ、それにつづく。

執務室は、左将軍府の孔明の部屋よりも、ずっと立派なしつらえの部屋であった。
あちこちに配置されている調度品の、執務室にはそぐわないほどの高級感が鼻につく。
螺鈿細工の衝立や、飾られている凝った鼎、あるいは香炉、そのそれぞれに、董和はなんとなく見覚えがある気がした。
もしや、おのれで刑場に送った一族から掠奪したものではないのか。
孔明も、それに気づいたようであるが、渋い顔をして衝立を怪訝そうに撫でる董和に、目で、何も言うなと伝えてきた。

「何事かね、軍師将軍! 無礼も甚だしいぞ! これが荊州の礼儀か?」
法正は卓についており、董和も顔見知りの豪族と士大夫たちが、ともに茶を飲んでいるところであった。外には陳情者がずっと待っているというのに、法正は朝から地盤固めに忙しく、それどころではなかったらしい。
法正の鋭い言葉にも、孔明はひるむことなく、むしろ傲然と胸を張って、高らかに言った。
「お人払いをお願いしたい。わたしは貴殿と話がある」
「話だと? それが話を聞いてもらう者の態度か?」
あからさまな嫌悪の情を見せ、法正がいまにも唸らんばかりに言う。しばし、孔明と法正は視線をはげしく戦わせた。
空気がさらにぴりぴりと肌を刺すような痛みを伴うものに変わっていく。あまりの居心地の悪さに、豪族たちも、互いに顔を見合わせ、腰を浮かしかけている。
それを見て、法正は、咽喉から頭につきぬけるような、独特の高い声で、制した。
「気にすることはない。この無礼な御方は、すぐにここより退出される。恥という物を知っているのならばな!」
法正の嫌味にも、眉根ひとつ動かさず、孔明は応じた。
「せっかくであるが、わたしは去らぬ。御辺らは席を外していただこう」
まだ若い孔明から、倣岸に言い放たれて、黙っていられるほど、豪族というものは人がよくない。
豪族が、抗議の言葉を口にしようとした途端、孔明は、素早く目だけを動かして、鋭くそれを封じ込めた。
口を開きかけた豪族は、顔を蒼くさせながら、決まり悪そうに、口を閉じる。まさに孔明の目線で弾かれたような印象である。
孔明は、ふたたび法正に視線を戻すと、こんどは、つとめて穏やかに、言った。
「話がある」
「こちらにはない。いまさらくだらぬ交渉には乗らぬぞ。それとも、貴殿のいままでの無礼な態度、これを謝罪し、今後はあらためる、という話なのであれば、おおいに耳を傾けるところであるが、それ以外は聞かぬ。帰られよ」
すると、孔明は、はじめて柳眉をしかめて、法正を見た。
法正のほうは、己の言葉の効き目に満足し、薄く笑ってみせる。
「図星か。早々に退出されよ。荊州人士の代表とも目される貴殿が、斯様に礼儀知らずだと噂になってもよいのかね」
ころころと声をたてて嫌味を続けざまに言う法正であるが、その笑いが途切れる頃合を見計らって、孔明の、低いつぶやきが部屋に響いた。
「噂を語るくちびるがあるのなら、だがな」
嫌味を通り越した激しいことばに、法正が笑みを引っ込めて、まじまじと孔明を見た。
「いま、なんと?」
すると、孔明は目を細めて、秀麗な顔に、酷薄な笑みを浮かべた。
「わたしの謝罪以外は、耳を傾けぬのでは?」
おのれの発した嫌味を、さらに嫌味で返されて、法正は顔を朱にして、はげしく孔明をにらみつけた。
孔明のほうは、そ知らぬ顔をして、後れ毛を指に手巻いて、法正の言葉を待っている。
「無礼な…人を人とも思わぬその態度! 同じ司馬徳操の門下でありながら、龐軍師とはなんたる違いか! あのよき人が戦死され、貴殿のような無礼で鼻持ちならぬ男が生き残る。世はまこと、無情なものよ」
「生き残るための運も、才能のうち。龐士元には運がなかっただけのこと」
「なんと薄情な」

法正は、龐統とは気が合った。
董和は、龐統という男を知らなかったが、人と合わせることに長けた、世間慣れした男だったらしい。
そして、荊州人士が、龐統を旗頭にする側と、孔明を旗頭にする側とに分かれて、争ったことがある、ということもあったという。
龐統の戦死により、自然と勝ちは孔明に与えられたが、しかし、いまもなお、比べられることは、おもしろくないにちがいない。

だが、孔明は、法正の意図を読んだのか、鼻で笑うと、言った。
「わたしの怒りを、別に向けようとしても無駄ですぞ。お耳が遠いようですので、繰り返しをいたしましょう。お話がございます。お人払いを」
「こちらにはない」
ふたたび、法正と孔明は、はげしく視線を戦わせた。

この二人は、話し合ったところで、傷つけあうことしかできなかろうと、董和は暗然として思った。かたや荊州人士の代表、かたや益州人士の代表。この両者には、劉備という人物を覗いては、利害も目的も、共通する要素がまったくない。
たとえ、二人がそれぞれ利権から離れたところで出会ったとしても、仲良くなる、ということは、万が一にもなかったのではないか。
権力を手中におさめた法正の傲慢さにも呆れるが……董和は、法正と視線を戦わせて、ひるむところを見せない孔明のほうが心配であった。

孔明は、法正よりずっと若いし、性格も素直で柔和である。これから成長する見込みはおおいにある。
だが、狭量にすぎる。
世間に対しても、自分に対しても、人に対しても、狭い。
危機に直面して頑なになっているというのであれば、これは尚のこと、一国を治める宰相の器ではないし、そうではなく、もともとあった我の強い性格が表面に出てきたのだとしても、これまた問題である。

あえて二人を制しようと、董和は足を踏み出したが、ぐっ、と横から袖を引かれて立ち止まる。
見れば、偉度が、二人の間に割り込もうとする董和に、いけない、というふうに首を横に振る。その顔を見て、董和はふたたび孔明に視線を戻した。

法正は、客人の前で恥をかかされている、ということで、すっかり怒り心頭であるが、かといって、相手は軍師将軍であるから、声を荒げて追い出すこともできず、しかし孔明は、相手を気遣って態度を変える気配もない。
孔明は、董和でさえぞっとするような、底意地のわるい笑みをうかべて法正を見ているが、その双眸はすこしも微笑んでおらず、むしろ冷徹に法正の様子を見据えているのだ。

策なのか?

法正という男、その権力を手にしたとたんに、かつての政敵たちを、一族もろとも、ことごとく捕らえて処刑したほど酷薄で狭量な男である。
あまりの酸鼻きわまりない所業に、訴えの声がしばらくやまなかったほどだ。
平和だった成都において、主人を裏切り、追い出した挙句に、残虐な虐殺を行った男として、法正は民からそっぽを向かれている。
それゆえに、法正は、さらに酷薄にならざるを得ない。
警護の私兵は、劉備の護衛より多いほどである。
つねに武装した騎兵に巾車を守らせており、遠目から見れば、まるで鉄鋼の甲羅をもつ巨大な亀のようだ。

董和は、孔明の意図を察知した。
法正を、わざと怒らせようとしているのだ。法正が権力に固執するのは、報復を恐れているからだ。権力は、法正にとって、鎧同然である。それを失ったら、自分が今度は虐殺される側になってしまうかもしれないと恐れている。
法正の心は、いつも戦々恐々としている。
この恐怖があるがために、まともに行っても、法正は本心を打ち明けない。
かといって、下手に出たら、この男は図に乗って、とんでもない条件を持ち出してくる可能性がある。
ならば、怒らせて、本音を引きだすしかない。
しかし、董和は、去るべきか留まるべきかを迷っている豪族と、士大夫たちを見て、不思議に思った。すでに朝陽がのぼってだいぶ経つ。
なのに、法正は、もしや劉備が戻っていないことを知らないのではないか、だから、呑気に客と歓談をしているのではないか、と思ったのだ。
尚書令たるものが、おのれの主の状態を知らないのか。
知っていたら、こうまで頭ごなしに孔明を否定しただろうか。
孔明は、尚書令がなにも知らないとわかっていて、挑発を続けているのか。
だから、人払いを勧めているのか。

「それがしからも、伏して尚書令どのに、人払いをお願い申し上げます。急を要する内密のお話でございますゆえ」
董和は、床に額ずかんばかりに、丁寧に頭を下げて法正に願い出た。
法正の性格は、董和のほうが、付き合いが長いのでよく知っている。
豪族たちを相手にした競り合いには抜群の強さを見せるが、慣れない状況にはとことん弱い。
山間の小国に長くいたせいであるから仕方ないが、臨機応変さに欠けるのだ。
強い一方では駄目だ。すこし気を弛ませて、そこでまた攻める。
孔明とは、何も打ち合わせをしていなかったが、通じたか、と顔を上げれば、振り返った孔明が、満足そうに、わずかに微笑をこちらに投げてきた。
ここまでは、よし。

「軍師将軍、人払いをと言うのであれば、そこな主簿と中郎将も下がらせよ!」
「それはなりませぬ。この者たちも、いわば当事者。そちらの方々はなにもご存じない。ですから、人払いを願い出ております。尚書令どの、人払いをしていただけるのか」
高飛車に言う孔明に、法正の顔は、茹でた蟹のように赤くなったが、そこへすかさず、畏まった董和が口を挟んだ。
「人払いをしていただけぬというのであれば、尚書令どのにとっては、おおいに不都合なことになるかと」
「不都合だと?」
咽喉から突き出るようなひっくり返った声を出して、法正は、畏まる董和と、相変わらず傲然とした態度を崩さない孔明の、奇妙な二人組を交互に見た。
法正の顔には、徐々に、はげしい怒りよりも、戸惑いのほうが表にあらわれつつある。
法正は、すこし息を整えると、卓の傍らに立ち、まるで主の命令を待つようにして、静かに法正の指示を待っていた豪族たちに向き直ると、作法どおりに頭を下げて、このとおりであるから、申し訳ないがご退出願いたいと申し出た。
豪族たちは、鷹揚に返事をしながらも、事態のただならぬことを察し、そそくさと出ていった。

法正が見送っているあいだ、孔明が、偉度にすばやく小声で指示を出している。
偉度は、何度も頷くと、法正に見えないように、傍らから手のひらにおさまるほどの小さな手鏡を持ち出し、窓から差し込む光をあてて、外に向かって、さまざまな間隔を持たせて、反射光をちかちかとかざす。
すると、外に何者かが待機していたらしく、風の動く気配があった。
おそらく、出ていった豪族たちが、無用な噂を流すのを止めるためだろう。
荒っぽい真似をしなければよいが、と孔明を見れば、孔明は、法正に見せた天邪鬼な表情とはちがい、真摯な顔を向けて、判っている、というふうに頷いた。

しかし、その顔も、法正が戻ってくると、とたんに冷笑を浮かべた、見ている者を苛立たせるそれに戻る。
演技だと知らなければ、諸葛孔明という人物は、きっと恐ろしい冷血漢だろうと早とちりしかねない顔である。
「無礼にも押しかけ、そのように不遜な態度をとり続けるからには、よほどの用件なのだろうな?」
胡散臭そうに言う法正に、孔明は軽蔑を隠さぬ表情で、言い放った。
「昨夜より、主公が戻られませぬ」
「なんと?」
「明け方前に、宮城よりわたくしのもとへ連絡がございました。夕刻に床に就かず、どこぞへお出かけになったきり、行方が知れぬと」
それを聞くや、法正は口をあんぐり開けて、まじまじと孔明を見た。
「貴殿、正気か? それは、まことなのか?」
「わたしが狂っていたほうが、よほど良かったでしょう」
「莫迦な…誘拐か?」
「いいえ、行き先は判っております。それに、お一人ではない。伴は二人。趙翊軍将軍と、それから馬平西将軍の両名」
「趙子龍…と、馬超?」

馬超の名を聞いて、法正は話がどこに向こうとしているのか察したらしい。
怒りのために赤かった顔色が、瞬時に蒼くなった。
そして、孔明と、董和と、偉度の顔をそれぞれに見回す。

「もしや、向かわれた先というのは?」
「お察しのとおり。九門古城に潜られたのだ」
「何故だ? 主公に古城のことをお知らせしたのか?」
法正は、はげしく震え始めた。緊張しているための震えにしては、大げさである。
怪訝に思いつつ、董和がその問いに答える。
「だれがお耳に入れた、と言う話ではない。主公は、偶然に古城の入り口を見つけてしまったのだ」
「偶然だと? では、『得れば天下を取れる宝』のこともご存知なのか? もしや、それを得るために、将を二人率いて、古城に潜られたのでは? しかし、昨夜、隠密にであろうと、軍を動かしたなどという話は聞いておらぬ! あのような、案内人でもなければ迷ってしまう恐ろしい場所へ、主公が御自ら潜られるなど、信じられぬ!」
その言葉に、孔明をはじめ、偉度、董和も、互いに顔を見合わせた。
「尚書令、貴殿、古城へ潜ったことがあるのか?」
董和の問いに、法正は、はっとして大きく首を振った。
「いいや、いや、知らぬ。そのようなことはない!」
孔明は、常日頃の矜持を捨ててうろたえる法正をじっと見据え、冷徹な声音で問うた。
「馬将軍は、貴殿を裏切った。これも人徳の為せる業かな」
「笑止! あのような蛮族の長なぞ、もともと当てにしておらぬわ!」
孔明の言葉に完全に挑発され、頭に血を上らせた法正であるが、叫ぶや、すぐに失言であったと気づき、孔明から目を逸らした。
だが、孔明の追及はゆるまない。
「貴殿が栄耀飯店の主と組み、古城に入り込んでいたのはすでに掴んでおる! いまさら隠し立ては無用! それゆえ、わたしもこうして自ら出向いておるのだ。ことは急を要する! 主公が、古城で遭難した可能性があるのだぞ! もはや、地上でわれらが角を突き合わせている場合ではないのだ。わたしも手の内を明かす。貴殿もすべての手の内をさらされよ!」
「手の内だと? 貴殿の手の内なんぞ、すでにこちらも見通しておる!」
法正の強がりを、しかし孔明は首を振って、砕いた。
「いいや、貴殿は、知らぬ。尚書令どの、宝がどうとか申されておったが、主公はそのような不確実なものに夢を見て危険を冒す方ではない。主公が古城に潜られたのは、我が子らを助けるためだ」
「なに?」
「主公は、古城に攫われた、わたしと、幼宰殿の御子、そして費家のご子息を助けるために、趙子龍らと共に古城に潜られたのだ。宝なぞが目的ではない!」
法正は、何度か目をぱちぱちと瞬きしたあと、孔明と董和の顔をそれぞれ見て、ゆっくりと、追いつめられ、怯えた兎のように言った。
「我らではないぞ。益州人士のだれも、そのような真似はせぬ」
「下手人はわかっております。貴殿らではない。もちろん、中原とも江東とも繋がりのない者。ゆえに、次の手が読めませぬ。わたしが手をこまねいているのを歯がゆく思った趙子龍が、古城に単身で潜るところを、主公もそれに付いて行った。馬平西将軍については、なぜに同行したかはわかりませぬが、おそらくは、主公と一緒であるはず」
「家臣の子を助けるため? なんと愚かしい…諸葛亮、貴殿、わたしをたばかっているのではあるまいな?」
「もとより嘘をつく意味もない。我が子のことは、わたしはすでに諦めております。しかし、主公だけは別。事態を把握していただけましたかな? 
この際、貴殿と栄耀飯店の癒着がどのようなものか、幼宰殿をなにゆえ亡き者にしようと画策したかは問いませぬ。主公が戻らぬということは、わたくしが手配して、宮城のごくわずかな者しか知らないように抑えております。
しかし、あまり時間は稼げませぬ。万一、これが他国に知れたなら、どうなるとお思いか? ここぞとばかりにわが国に入り込んでいる細作どもが、民の不安を煽りたて、内乱が起こるように仕向けて参りましょう。その動きとあわせて、大軍を引き集めて押し寄せてくるかもしれない。
巴蜀は、いまだ情勢が不安定で、人心もまとまっておりませぬ。豪族のなかにさえ、主公に忠誠を誓うものと、そうでないものが混在している。もしわたしが他国の者であれば、これを潰すのはわけがないと思うことでしょう。
わたしたちは、もはや反目している場合ではなくなったのです。古城から手をお引きなさい。そして、夢物語のような宝の話など忘れ、地上での民の暮らしを安らかにすることのみに心を砕いてはいただけませぬか。もちろん、わたしも協力を惜しみませぬ。いまは、主公を古城より無事にお救いすることに専念しなければ」
「古城から、手を引けと? 貴殿は? もちろん、貴殿はそうするのであろうな?」

孔明の族弟という男が、子供たちを誘拐し、不死者をのさばらせている。
それを法正に言えば、この男のことだから、孔明の弱みを握ったとして、立場を逆転させようと仕掛けてくるだろう。
孔明は真実を語るまい。
董和が、そう判断したとき…

「子供らを攫った者は、わが血族の末にあたる者。それゆえ、手を引くわけには参りませぬ」
「なんだと?」
法正は、まじまじと孔明を見た。孔明は、その視線を真っ直ぐに受け止め、つづけた。
「主公が危険にさらされている原因を作ったのは、貴殿の血族だと言うか!」
「責任は如何様にも。しかし、いまはその時ではない!」
孔明の言葉に、それまで状況に翻弄されていた法正の細面が、にやりと歪んだ。
「責任を取ると、いまはっきり申されたな? 董中郎将、貴殿が証人ぞ。軍師将軍は、いま、はっきりと責任を取ると口にした!」
董和は眩暈をおぼえるほど、法正の人となりに失望した。思わず、言葉が飛び出す。
「そのような追及は、主公を無事にお助けしてからにされるがよい!」
とたん、法正は不機嫌そうに顔をしかめた。
その表情は、さきほどまでの余裕のない追いつめられたものではなく、すっかり主導権を取り戻し、余裕たっぷりなものに戻っている。
「たいそうな口を利いてくれるではないか。結局のところ、おのれの尻拭いに焦るあまり、わたしを脅迫する真似さえやってのけた、というのが本当のところではないのかね。
主公もまったく、お気の毒に。斯様な者たちのために、わざわざ己が身を危険に晒すとは!」
孔明は、大きく息をつくと、忍耐づよく、ゆっくりと言った。
「ご協力いただけるのか、否か?」
「貴殿が、伏してお頼み申し上げますと言うのであれば、考えなくもない。そこに平伏してみるがよい。なれば、責任の所在の追及も、手加減してやらぬこともないぞ」
「貴様!」
激昂したのは偉度であるが、それを手で制し、孔明は、法正にさらに問いかけた。
「わたしが貴殿の前に膝を折れば、古城から手を引くとお約束いただけるのですか」
法正は、あえて返事をせず、顔をそらして鼻で笑っている。
すると、孔明は、ためらう間もなく、法正の前に身を屈め、膝を折り、皇帝に家臣がするかのように、平伏して、頭を深々と下げた。
それまでの、挙搓が流麗であるために、惨めさはないが、法正の得意な顔と比べれば、胸の痛む光景であった。
「このとおり、伏してお頼み申し上げる。尚書令どの、よろしいか?」
孔明の、思い切りのよい態度に、法正は、いささかうろたえたようだが、しかし、すぐさま顔をゆがめさせ、声をたてて笑った。
「わたしは、平伏をすれば、約束をする、とは言い切っておらぬぞ。軍師将軍、貴殿の一族の罪は罪。貴殿には、主公のご指示を待つまでもなく、牢に入っていただくしかないようであるな」
「卑怯だぞ!」
これは、さすがに董和が口を挟んだ。しかし、法正は、ちらりと冷たい一瞥を董和に向けて、言った。
「卑怯なものか。もともとの騒ぎが、軍師将軍の血族にあるというのであれば、科に照らし合わせ、その一族もろとも責めを負うべきところであろう。頭をひとつ下げたところで、主公の命が危険にさらされた事実は消せぬ」
「いや、そうではない。軍師は、己の責任は取る、だから、貴殿も宝のことは忘れ、古城にはもう触れてくれるなと仰っているのだ。話の趣旨をすり変えるのは卑怯であろう!」
「宝を忘れろというが、あれが他国に渡ったら、なんとする? わたしは、益州のためを思って発言しているのだ。余計な口出しは無用!」
「『あれが』だと? 貴殿、宝の正体を知っているのか? 見たのか、『得れば天下を取れる宝』を?」
法正は、いささか気まずそうにしたものの、それでも、さきほどのように、不様にうろたえはしなかった。
自分の立場が、孔明たちより、はるかに有利だとわかったからであろう。

答えるつもりがないのか、曖昧に笑うばかりの法正を、はげしく睨みつける董和であるが、ふと、身をかがめたままの孔明が、懐から、なにかを取り出すのを見た。
なんであろうと訝しく思ったそのとき、孔明は素早く立ち上がると、卓を背にして立っていた法正の咽喉下に、取り出した短刀を、ぐっと突きつけた。
「軍師!」
偉度が制止するべ声をかけるが、その声は続かなかった。
主簿である偉度が、孔明の様子に怖じたのだ。
孔明は、今度こそ本当に、腹の底から怒り狂っていた。

つづく…
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