捜神三国志・燭龍本紀
第二十九話 真実の道(三)
水音が近くなってきた。
慣れぬ暗闇のなか、もはやだれも口を利く者はなく、ただひたすら、足を前に進めるだけである。
お互いの荒い息遣いが聞こえるが、言葉を発しようが、だれも答えてはくれないであろうことは、なんとなく察しがついた。
道はゆるやかな坂道になっているが、進むうちに、どんどん幅が狭くなっていく。途中に隠し通路、あるいは隠し部屋がある気配もなく、噂に聞く黄金の宝など、欠片も落ちていないのだ。
先頭をゆく趙雲は、宝などに興味がないものだから、ひたすらまっすぐ前を進むが、赤頭巾、晴嬰、馬超の三人は、長いあいだ、だれも足を踏み入れていないのだから、もしかしたら盗賊に荒らされていない秘密の部屋でもないだろうかと、ひそやかな期待をした。
しかし、淡い蝋燭の明かりに浮かぶ通路は、ひたすら味も素っ気もないただの土壁であり、期待にすこしでも応えてくれそうな隙間すらなかった。
それだけでも、高度な建築方法に興味が行くところであるが、最初は、今日は三階層目の手前まで、と、なごやかにしていた三人も、いまは口を利かない。
不思議なものである。えんえんとつづく小さな階段を、昇ったり、下りたりをくりかえしているうちに、だれに説明されたわけでもないのに、作り手の想いが、なんとなくだが理解できてきたのだ。
どんどん狭くなる道。装飾もなにもない土壁。ゆるやかな坂道に作られた、無数もの階段。
進んでいくうち、不思議と、厳粛な気持ちになっている。
雑念が取り払われ、前後にいる者のことも忘れ、ただひたすら、自分の内面に目が向いてくる。
おそらくは、その心持は、山嶺を好んで登る者が、頂上へ向かう過程にて味わう気持ちと、まったく同じものだっただろう。
先の見えない暗闇のなか、古城を作った者、そしてそれを利用した者も、同じ道を通って、同じ事を考えたのか…いや、同じ事を考えるようにと、わざわざこのように面倒な通路を作ったのだろう。
ただの泥棒避け、あるいは侵入者を防ぐための罠にしては、階段があるばかりというのが稚拙である。
古城の利用目的はなんだったのか。
晴嬰は、すっかりくたびれていたが、休みたいとは思わなかった。
古城に入る前までは、危険だと言っても、暗闇の山中と変わらない程度のものだろうと考えていた。
暗闇の山中を、幼い頃に、兄の無実を晴らすために駆け下りた経験をもつ晴嬰は、あのときの心細さ、恐怖を思えば、すくなくとも、四足の獣が不意に現われないのであれば、いくらかマシではないかとさえ思っていた。
だが、実際に入ってみれば、人を人とも思わぬ盗賊や、君主を向こうに回してさえ怯むことのなかった董和たちが、古城は恐ろしいと口をそろえて言う理由が判った。
闇に粘度がある。
いつしか朝陽に追い払われる闇ではない。
この闇は、何百年と時を掛けて、じっとそこに蹲っている類いのものである。
周囲は人工物ばかりで、人の痕跡はあっても、人そのものは、存在しない。
まるで、かつてはここにいたであろう人間は、いつしか闇の中に溶け込んでしまったような、そんな夢想さえ自然と浮かんでくる。
だれも存在しないのに、無数の目に見つめられているような、じっとりと五体にまとわりつくような、不気味な感覚が薄れない。気を抜くことができないのだ。
それなりに体力に自信があったとはいえ、やはり戦場を何里も平気で駆け抜ける武将とはちがう。文字通り、足が棒になりつつあったが、それでも懸命に自分を励まし前に進んでいるのは、ひたすら董和のことがあるからだった。
董和は、獄中の兄を救うことはできなかったけれど、だれも話すら聞いてくれなかったなかで、真剣に話を聞いて、さまざまな手段を使って、兄を救うために力を尽くしてくれた。
子供だから、それがどんな危険なことか、わからなかったが、董和は、縁もゆかりもない小さな娘のために、自らの政治生命すら惜しまず、豪族相手に戦ったのだ。
晴嬰の兄が、晴嬰が董和に助けをもとめたときには、もう殺されてしまっていたことがわかったそのあとに、董和は成都の令から、蛮地に囲まれた巴東の都尉になった。
要するに左遷だったのだ。
都尉とは、軍とともに任地に赴き、任地を治める役人である。
董和はやりすぎたのだ。
いくら劉璋の命令だったとはいえ、それは、あくまで、清貧を訴える儒者を黙らせるための、形だけの命令だったのに、ばか正直に真に受けて、真剣にやりすぎたのだ。
そんな声が、去っていく董和の後ろを追いかけて行った。
董和は、一言も抗弁せず、幼い息子をつれて、任地に赴いた。
巴東の地は、蛮族が多く住み、衝突の絶えない土地である。
蛮族といっても、長きにわたり巴地方に住み、独自の文化を育んでおり、漢族が蔑むほどに、文明は遅れていない。
だのに、漢族は、ただ、漢ではない、というだけの理由で、ひどい差別をつづけていた。
もう帰ってこないかもしれない。
たった一人の肉親であった兄を失い、残された晴嬰であったが、董和は、その後見となり、兄弟たちに世話を頼んでくれた。
董和の兄弟たちは、董和に劣らず人がよく、娘のようにさえ扱ってくれた。
養女にならないかという話まであったが、これは晴嬰が断った。
これ以上、董和に面倒をかけたくなかったのだ。
それに、決して高給ではなく、賄賂すら頑として受け取らない董和が、遠路はるばる、巴東から成都へ送金までしてくれる。
董和の兄弟たちのひそひそ話しから、董和の台所事情がよくないことを知っていた晴嬰は、はやく一人前になって、送金を断りたかったのだ。
無理して断るのではなく、自分は立派にやっている、むしろ送金できるほどなのだと、笑顔で断りたかった。だから、懸命に働いた。
それから数年の歳月が経ち、董和の任期は明けたが、それでも成都には戻ってこなかった。
驚いたことに、巴東の蛮族たちが、董和に、ぜひにこの地に残ってほしいと懇願し、任期が延びたのである。
成都では、冷笑的な見方をされる董和であったが、見てくれている人は、見ていてくれるのだと、晴嬰は感動したものである。
もちろん、その話は、驚きとともに成都の民のあいだに伝わり、やはり董幼宰はちがう、と強く印象付けたのだ。豪族や、劉璋に阿る官僚たちは、やはり董和には、僻地が似合いなのだと笑っていたが。
董和とて、出世欲がなかったわけではない。
ただ、うまく立ち回ることができなかった。
頑なで一途なゆえに、目立ち、敵が多かった。
あの人との胸のなかには、どんな英雄とくらべても見劣りしないほど、大きな志が在る、と晴嬰は思っている。
だが、董和のいちばんの美質である、一途さが邪魔をして、五十に手が届こうという頃になっても、邪魔ばかりされて、芽がでない。
劉璋が追い出され、あたらしい殿様の世になったとはいえ、こんどはひどいことに、尚書令になった法正に睨まれ、免官。
そんな董和の唯一の希望が、十七になる一人息子の休昭だったのだ。
身近で父子を見てきた晴嬰だからこそ、董和が息子をどれほどに可愛がっているか知っていた。
差し引いて見ても、これほど仲の良い父子は、なかなかいないと思う。
休昭は、父親をたいそう尊敬しており、同じように、民を守る役人になるのだと言っていた。
一度も、偉くなりたいとか、金持ちになって贅沢がしたいなどと、言ったことがない。
金や名誉より、はるかに尊いものがあると、父の姿を通して知っているのである。
そんな息子の姿を、董和も期待をこめて見つめてきたのだ。
息子を失った董和は、きっと死んでしまう。
その恐怖からくる切迫感に押されるようにして、晴嬰は足を進めている。
自分や商店街の仲間の借金のことは、二の次だった。
幼宰さまには、いままでずうっとお世話になりっぱなしだったもの。
ここでお役に立たなきゃ、女がすたるというものじゃないか。
お殿様と、後ろの羌族の若大将は、戻ろうとするかもしれないけれど、趙将軍のほうは、まだ潜ると言うだろう。
そうしたら、あたしも一緒に付いて行こう。
かならず、若さまをお助けして、地上に戻るのだ。
ふと、先頭の趙雲が足を止めた。
赤頭巾が、ひょいと首を出して、声をかける。大きくなってきた水音に紛れてしまうので、声を張り上げて。
「どうしたい、なにかあったのか」
「いえ、道が。危のうございます。あまり前に出てはなりませぬ」
趙雲の言葉に、赤頭巾と馬超のあいだに挟まれるようにしていた晴嬰も、首をのばして、前方を見る。
前方は、それまで延々とつづいていた小さな階段の回廊から一転、真っ暗闇になっていた。
通路がない。
突然、奈落になっているのである。
「これは、嫌がらせのような道だな」
赤頭巾は、あえて混ぜっ返して言うが、趙雲は失望を隠さず、じっと闇を見つめている。
あまりに唐突な闇であった。
廊下が崩落した、というのではない。
きれいに切り取られたように、床が途切れ、地下に向かって闇が広がっている。赤頭巾が闇を払うべく、蝋燭を掲げたが、それでも周囲がどうなっているのかが見えない。どうやら、それまで土壁であったのが、ここへきて、柱も壁も、ありとあらゆるものが、真っ黒に塗りつぶされているようなのだ。
「性根が悪いというか、なんというかだな」
「なにも知らないで足を伸ばしたら、そのまま、まっさかさまに落ちてしまったでしょうね」
「ここで終わりなのか?」
趙雲は、そろそろと、闇の向こうに片足を伸ばすが、それを慌てて、赤頭巾が、肩を掴んで止めさせた。
「こらこら、こんなところで落ちたらただじゃすまねぇぞ! こんなところで死なれちまったら、わしはおまえの骨も拾えねぇ」
「水音が強くなっております。この下は、水路やもしれませぬ」
「そんなむちゃくちゃな話があるか。この真下が水路だというのならば、これまで、我らが辿ってきた階段の群れ。あれはなんなのだ」
馬超の言葉に、趙雲は首だけを振り向かせる。
ちょうど、切り立った闇の中に、唐突に口をあけているような場所の縁にぎりぎりに立っている格好なので、赤頭巾が、落ちないようにと肩をしっかり掴んでいる。
「わからぬ。だが、可能性は高いのではないか」
いいざま、趙雲は、指に填めていた指輪を、闇の向こうに投げてみた。
思い切りがいいなぁ、それ、高いだろうに、という赤頭巾の言葉を聞き流し、じっと耳を凝らしていると…
「水音が聞こえた」
「気のせいだろう。これほど大きな水音だ。まるで嵐の日の川の音のようではないか。そのなかで、指輪が落ちたわずかな耳音が聞き分けられたとは思えぬ。わたしでも無理な芸当だ」
「すくなくとも、おまえより、俺のほうが耳がよい」
「いいや、気のせいだ! いい加減にしろ、翊軍将軍! わたしは、おまえにかなりの辛抱をしてきたが、もう限界だ。そろそろ戻らねば、夜明けまでに地上に出られぬ」
「では、おまえだけ帰れ」
やはり、と晴嬰は思ったが、馬超は、目鼻立ちのくっきりした大作りの顔をしかめ、耐えなくつづく水音に負けないほど、大声で怒鳴った。
「貴様、約定を破るつもりか! この漢族め!」
「おいおい、漢だろうが羌だろうが関係ないぞ、こいつのこの頑固さは」
と、赤頭巾が素のままに馬超に反駁し、掴んだままの趙雲の肩を、促すように揺すった。
「子龍、お前らしくもねぇ、約束を破るのはいけねぇや。おまえだって、一度は諾と言ったじゃないか。それに、この道は行き止まりだとわかった。やっぱり、盗賊どもが出入りしている入り口のほうが、正しい道ってことじゃねぇのか。さ、戻ろうぜ」
「行き止まりなのでしょうか。それにしては、いままでの道の、多すぎる階段が気にかかります。守ろうとするものがあるからこそ、罠を張る。ただの行き止まりというのならばわかります。だがここは、わざわざ壁や柱に黒の塗料を塗って、闇の奥行きをつかめないように細工までしている」
「だが、行き止まりは行き止まりだろう。なにかあるのかも知れねぇ。だが、いまは判らない。子龍、孔明ならわかるかも知れねぇぞ。あいつ、こういうの得意そうだから」
「赤頭巾さま、軍師には、われらが今宵、古城に潜ったことは内密にと」
「おお、そうか。そうだったな。あいつのことだから、今日のことを知ったら、わしもおまえもただじゃすまねぇだろうな。どうなるかなぁ」
ははは、と何を想像したのやら、声をたてて笑う赤頭巾であるが、対称的に、馬超の顔は険しい。
「和やかなのは結構だが、戻るのであろうな? ええ? わたしは、罪もない羌族を罠に誘い、不死人などという化け物に変えている連中を、しとめるために来た。つまりは戦うためにきたのだ。
ところが、おまえたちが進みたがる道には、不死人どころか、ほかのだれも入った形跡がない。これぞ無駄足というものだ! しかも行き止まり! ここに留まる理由はない。帰るぞ!」
「仕掛けがあるかもしれぬ」
趙雲が言うと、さすがに赤頭巾もうんざりしたのか、
「子龍―」
と、声を上げた。
「おまえ、わざと我が儘言ってねぇか。駄々こねて、わしらを怒らせて、自分ひとりになろう、って考えじゃないだろうな」
しかし、それは意外にも図星だったらしく、嘘のつけない性格の実直な武人は、なにゆえ、という顔で赤頭巾を振り向いた。
「やっぱりそうか。ったく、おまえとの付き合いは…そうさな、おまえが十五の歳からだから、下手すりゃ、ふつうの父子くらいの長―い付き合いだけれども、おまえ、老害が出ていやしないか?」
「なんですと?」
「わしよりずっと若いくせして、黄漢升のじいさまより頑固じゃねぇか。老害だろう、それ。結婚しないからだぞ」
「お言葉ではございますが、斯様に邪推をなさるのも、老害ではないかと。貴方様もご結婚されないからではございませぬか。やはり、軍師のお奨めどおり、ご再婚を考えるべきかと」
間髪置かぬ趙雲の反駁に、赤頭巾は、ちいさく、うっ、と呻いて言葉を失くす。
晴嬰はといえば、この二人、主従というよりは、近所の商店の、口げんかばかりしているが、仲の良い父子を思わせる、などと考えていた。
趙雲の言葉や態度は、平時ならば、不遜だと非難されてもおかしくない。
しかし、このやり取りのなかでも、どこか安心して言葉を投げ合っているような雰囲気からして、普段から、そしてずっと以前から、こんな調子なのだろう。
「古城から出る、出ないの話が、どうして結婚の話になっているのだ! さっさと戻るぞ!」
業を煮やした馬超が、くるりと背を向け、元の道を戻り始める。
しかし趙雲は、変わらず行き止まりの縁に立ち続け、赤頭巾は、その背後にある。
晴嬰はといえば、馬超と趙雲のちょうど中間で、趙雲と残るべきか、それとも馬超を止めるべきかを迷っていた。
「まったく、なにが仕掛けだ。行き止まりは行き止まりだ。たとえば、この燭台を引っ張れば、なにか現われるとかいうことを、期待しているのか」
ぶつぶつ言いながら、馬超は、土壁にぽつんと突き出している燭台を掴む。
「燭台?」
趙雲は馬超の言葉に振り向き、ようやく縁から離れた。
だが、馬超はすっかりむくれており、不機嫌なのを隠さず、土壁から、まるで女の手首だけが伸びているような形の燭台を掴んで、何の気もなしに、それを揺すったり、回してみたりする。
「待て、それは動くのか? 不用意に触れてはならぬ」
「ふん、いまさら臆病風か。こんなもの、ただの燭台であろう」
「たわけ。いままでの道に、燭台があったか? 無かっただろう。そこだけだ。おかしいとは思わぬのか?」
「む?」
馬超が、趙雲の言葉に気づき、ようやく燭台から手を離した。
が、遅かった。
「なんだか、揺れていやしませんか?」
最初は、水音が強くなったために、耳がおかしくなったのだろうと思った晴嬰であるが、ちがう。はっきりと、地鳴りが聞こえてくる。
「おい、地震か? 床が、傾いているぞ!」
ぞくりと、全身を悪寒が貫いた。
床がたしかに傾いている。
足元がおぼつかなくなる感覚がつよくなり、晴嬰はあわてて縋れるものを手繰るが、床にも壁にも、支えになってくれるようなものはない。
ふと見れば、馬超は、自分が掴んでいた燭台を、ふたたび支えにして揺れに耐えている。
そして、晴嬰に向かって、長い手を差し伸べてきた。
「早くわたしの手を掴め!」
晴嬰は、どんどんひどくなる傾きに足を躓かせつつ、なんとか馬超の大きな手を掴んだ。
趙雲はというと、縋るものがなければ作れ、とばかり、床が傾いているのに気づくや、短刀を抜いて、柔らかい土壁に突き刺し、杭の代わりにして、縁にもっとも近いところにいた赤頭巾を、すばやく回収した。
揺れはなかなか治まらず、どころか、傾きはどんどんひどくなっていく。
床がなくなってしまうのではと、馬超に支えられる形の晴嬰は怯えた。
床は、まさに真っ暗闇に向かうような形で、斜めに頭を垂れているのだ。
ごうごうと水音がさらに近づいてくる。
この下は、やはり、水路?
趙雲は、土壁に突き刺した短刀を頼りに、傾きに耐えていた。
ところが、土壁が軟らかすぎたのか、赤頭巾と趙雲、ふたりの体重に耐えられなくなったのか、短刀は、唐突に、ぱきり、と無情な音をたてて割れてしまった。
「お殿さま! 将軍!」
晴嬰の呼びかけも虚しく、悲鳴もあげられぬ間に、二人は吸い込まれるようにして、闇の奥へと飲み込まれて行った。
豆粒が鍋に落ちるように、それはあまりにも呆気ない光景であった。
「いかん! わたしたちも耐えられぬ!」
見れば、馬超は、晴嬰を支えているがために、燭台を持つ腕がしびれてしまっているのだ。
咄嗟に晴嬰は言った。
「手をお離しくださいまし!」
「ならぬ!」
迷う間もなく、馬超はするどく叫んだ。
「わたしは、誰であれ、もう二度と、女の死を目の前で見たくないのだ!」
「このままでは、二人とも落ちてしまいますよ!」
「ならばそれでよい! 一人で残されるなど、もう御免ぞ!」
晴嬰に叫んだのではない。馬超は、天に叫んだのかもしれない。
ふっと体が宙に浮く、不安と未知の心地よさが綯い交ぜとなった感覚が、最初にあった。
落ちるのだ、と晴嬰は思った。
闇の中に、ゆっくりと吸い込まれていく。
耳に届くのは、風の音なのか、水の音なのか、もうわからなくなっていた。
「晴嬰!」
自分の叫んだ声で、董和は目を覚ました。
悪夢だった。
晴嬰が、谷底に落ちていく夢を見た。
董和はそれを見ているのに、助けることができない。あの娘の兄と同様、必死に手を伸ばしても、助けることができなかった。
気が付けば、いつもの見慣れた自室の寝台の上で、窓の隙間から、ほの白い朝陽の欠片がこぼれている。
なつかしくも清潔で、静かな屋敷。
だが、董和は首の付け根の痛みと共に、悪夢はいまだ続いていることを、すぐに思い出した。
おかしい。静かすぎる。
諸葛亮は、出て行ったのか?
あんなことがあったすぐ後で?
董和は、寝台から降りると、自室に繋がっている元物置部屋で、古城の入り口のひとつがある部屋の扉を、慎重に開いた。
ふと、不気味な妄想が脳裏を走る。
自分が寝入っているあいだに、もしや、あの不死人が地上に這い出て、屋敷のものをすべて殺してしまったのではないか。
生き残ったのは、気絶していた自分ばかりではないのか。
いや、ありえぬ。
もし人が間近で苦しんでいれば、きっと目が醒めた。
董和は、ゆっくりと扉を開く。
すると、真っ白い朝陽のなかの、寝台のうえに、たった一人、護衛もなく、諸葛孔明そのひとが、腕を組んで座っていた。
董和の殴りつけた頬が腫れているが、その膨らみがあってもなお、孔明は、神々しいまでの近寄り難さを醸し出していた。
その姿をひと目見ただけで、気が引き締まる。
自分を騙した男であるが、憎みきれないのは、この朝の冷気にも負けぬ凛とした雰囲気に、魅力を感じるためであろう。
孔明が口を開かぬうちから、董和は、悟った。
「なにかあったのか」
「ええ。問題が起こりました」
前置きもなしに、互いに言葉を交わす。
そして、孔明は、長い睫毛に閉ざされた双眸を開くと、まっすぐに董和を見つめた。
その迫力に、気圧される。
昨夜の孔明は、一人の子の親の顔、思い悩む青年の顔をしていた。
いまの孔明はちがう。
これは、董和が初めて目にする顔だ。
つよい決意と、押し殺した怒りとが奥底にある、力強くも恐ろしい顔。戦場で見せる顔である。
「主公が夜半にお出かけになったきり、朝まで戻られませぬ」
「なんと?」
「わが手の者の報告によれば、馬平西将軍も同様にいらっしゃらない。それに、子龍もまだ戻りませぬ」
趙雲も戻らない、と聞いて、董和は心の臓を錐で突かれたような痛みをおぼえた。
昨夜、趙雲は晴嬰と一緒だったのだ。その趙雲は、戻ってこないという。
夢の光景が、はっきりと浮かぶ。
「どういうことだ?」
董和が尋ねると、孔明は、おそろしいまでに冴えた目線をまっすぐに向けて、言った。
「おそらくは、古城へ向かったのでしょう」
「なんだと! なぜ!」
「貴殿と偉度、そして張伯岐が見つけた三番目の門。あそこに偉度をやらせましたところ、どうやら、だれかが古城へ潜入した痕が在る、と。門の存在を知るのは、貴殿ら三人以外は」
「主公しかおらぬ。が、待たれよ。なぜに主公がみずから古城へ行かれる? もしや、『得れば必ず天下を取れる宝』を探しておられるのか?」
「あの方は、そのように、得たいの知れない宝を得るために、股肱の臣を連れ、だまって行かれる方ではない。それに、もし本気なのであれば、子龍ではなく、張飛どのを連れて行かれたでしょう」
「では、なぜだ?」
「平西将軍が共にいるのが解せませぬが、子龍の理由はわかり申す。おそらくは、わたしの子のために潜ったのでしょう。それを聞いて、主公も賛同なさって、出かけたのだ」
「莫迦な…天下がいまだ安定せぬ状態で、戦の途中で、べつの戦場へ赴くようなものではないか!」
「そのとおり。だが、あの世話好きなお方からすれば、十分に考えられる話だ。手の者に、念のため、出入りしそうな酒家や妓楼を回らせておりますが、おそらくは空振りでしょう」
趙雲が、孔明の子を助けに行ったという。
ならば、晴嬰は、どう関係している?
あの娘の性格からして、趙雲たちの話を聞いて、自分も共にと、申し出やしないだろうか?
晴嬰が谷底に落ちる夢。あれはもしや、夢ではなかったのではないか?
晴嬰は、長星橋に帰っているのか?
確かめるために、表に飛び出そうとした董和であるが、不意にあらわれた偉度によって、行く手を遮られた。
「無駄足ですよ。あのひとはいなかった」
と、これもまた前置きも無く、偉度は言った。
どうやら眠っていないらしく、顔は蒼ざめ、髪も崩れており、妙な色気を醸し出している。
偉度は、朝陽のなかにあっても、どこか夜の気配を纏っている。
「いない? 晴嬰が、か?」
「軍師、そして幼宰さま。聞きこみましたところ、趙将軍と晴嬰さんらしい二人が、神政門のほうへ向かって歩いていくのを見た者が複数おります。男女の二人連れはめずらしいが、なにやら色っぽい雰囲気とは程遠く、せかせかと急いでいる様子だったので、目についたと」
「神政門か。三番目の門のある場所だな。四人が一緒…いや、主公と子龍と晴嬰殿は一緒かもしれぬが、馬超は単独かもしれぬな」
「それが軍師、やはりほかに、平西将軍と、派手な赤頭巾を被った男が、なにやら賑やかに話しながら、神政門へ向かっていく姿を見たという者がおりまする」
「四人が一緒と断定してよいか」
「なんのために?」
董和の問いに、孔明は小さく首を振って答えた。
「その問いは後回しにいたしましょう。いまは、このままでは騒ぎが起こる。これを鎮めることに専念しなくては」
「どうするのだ」
孔明は、ふたたび董和をまっすぐ見据えると、明朗な深い声で、告げた。
「法尚書令に会いに参ります。どうやら、こういう運命であったらしい」