捜神三国志・燭龍本紀
第二十八話 真実の道(二)
孔明と二人きりで差し向かいになったとたん、扉が閉まったこともあり、部屋がせまく感じられた。
孔明は華奢な印象があるが、上背があるので、実際に相対すれば、まず体の大きさに違和感にも似たものを覚える。
董和も、激しい怒りをおぼえながらも、距離が縮まったなか、狭いなかに二人でいることに、いささか戸惑いを感じた。
自分の屋敷だというのに、孔明がそこにいるというだけで、なにやら見も知らない場所に迷い込んでしまったようだ。
いかん、これがこの男の手段なのだ。
つねに己の歩みに人を合わさせてしまう。
やんわりと、それでいて否応なしに力強く、人を従わせる術を心得ている。
それは、この男が、鋭敏な性質で、人の心を読むことに長けている、つまりは想像力が働くうえに、情報を正確に読み取ることができるからだ。
ならば、この怒りがどれほどのものなのか、判っているだろう。
「なぜだ」
二度目の問いを、董和は向けた。
裏切られたという怒りと、息子の安否を案じる心と、目の前の青年の心が読めない苛立ちとが、ない交ぜになって、董和の中に在る。
ぐっと握った拳を、さらに強く握る。
そうでなければ、孔明の細面を殴りつけてしまいそうになる。
「わたしを騙し、周囲にも、わたしを騙すよう強要したのか」
「あなたからすれば、そうかもしれない。だが、それはすべて、貴殿のことを第一に考えてのこと。貴殿は傷もいまだ癒えず」
「言い訳は聞かぬ!」
孔明の言葉を遮って、董和は一喝した。
孔明は、無理に言葉をつづけるようなことはせず、そのまま沈黙する。
「わたしは、一度免官になった身だ。隠居したも同然であった」
怒りを押し殺し、震える声で董和は言う。
「この家の主は、わたしであって、わたしではない。十七になる息子に、すべてを譲ってもよいと、わたしは思っておった」
孔明は、卓の上で軽く手を組み、じっと董和の言葉を聞いている。
「わたしは早くに妻を亡くした。母のない息子を不憫に思い、多少は甘やかして育ててしまったかもしれぬ。だのに、あれは実に素直で正直な男に育った。
まだ世間を知らぬゆえ、気弱なところもあるが、あれには、わたしにはない、しなやかさがある。いずれはこの愚父を超えて、世のために働ける男になるであろうと、いや、そうなるであろうと期待していたのだ。あれは、わたしの唯一の楽しみであった!
それを、賊に攫われたと、しかもそれを、周りはみな知っていたというのに、わたしだけが知らなかったなどと!」
「貴殿のお気持ちはわかります」
「これ以上、わたしをたばかるな! いったい、なにがわかるというのだ、人を莫迦にするのも、たいがいにするがいい! 貴殿は、わたしなど及びも尽かぬほどの知恵と、名声を持っておる。わたしには、何もない。せいぜいが、この家と、息子だけであった。貴
殿があっさりと解決できるような問題も、わたしのような凡夫には、それこそ、何日も、いや、何年もかけて解かねばならぬ。それほどの開きがあるのだ。わかるまい!
だが、わたしは、なんら引け目を覚えぬ。我が能力の及ぶ限り、精一杯のことをやってきたからだ! 功名心からではなく、ひたすら人のためと思い、生きてきた! その果てに、免官になったわたしにとって、息子がどれほど重い存在であるか、想像もつくまい! わたしに対する慰謝料のつもりで、掌軍中郎将の職を与えたのか? 口止めのつもりで?」
「そのような、心にもないことを」
さすがに孔明も顔色を悪くし、董和の言葉に反駁する。
だが、董和は、言葉をつむげばつむぐほどに激昂し、孔明の機嫌など、もはや構っていられなくなっていた。
「息子はどこにいる?」
「それは」
「答えられるはず! 貴殿は、いま廊下に侍っている偉度のような者を使い、あれこれと探らせていたはずぞ! 息子を攫ったのは誰だ? 尚書令か? 栄耀飯店の張か?」
「知ってどうなさる?」
「決まっておろう! 助けに行くのだ! あれは体が丈夫ではない。病を得ているかもしれないのだぞ。いったい、攫われてから、どれだけの日数が経っていると思っているのだ! いまもどこかで、わたしの助けを待っているかもしれぬ! さあ、言え!」
すると、はじめて孔明は、董和から目を逸らした。
「申し上げることは、できかねますな」
その頑なな態度に、とうとう董和の堪忍袋の緒が、ぷつりと切れた。
卓に座ったままの孔明の横面を激しく殴り倒し、飛び掛るようにして、床に倒れた身体を、襟元を乱暴に掴んで、起き上がらせた。
かつて、成都の令であったとき、捕り物に何度も参加していた董和は、いざとなれば、人を殴ることも躊躇しなかった。
孔明はまったく抵抗せず、董和に掴み上げられると、やはり静かな眼差しで、董和を見る。
そこには、さきほどまであった怯えはもうなかった。
覚悟を決めた、ということか。
ふと、かたり、と廊下で物音がする。
それが聞こえると同時に、孔明が廊下に目を向け、素早く一喝した。
「入ってきてはならぬ!」
空気をも震わせる一喝に、廊下で待機していた偉度の気配が、ぴたりと静かになる。
そうして、だれも入ってこないことを確かめてから、孔明は、ふたたび董和のほうを真っ直ぐに見た。
「お聞きなさい。ご子息は、いま古城に捕らわれている」
「なんと?」
「下手人もわかっております。狙いはわたしの持つ古地図と、貴殿だ」
「わたしだと? なぜだ?」
「下手人の男は、不老不死の術の完成を目指している。一度は成功させたけれど、それはあまりに不完全で、人間らしくないものだった。だから、別の方法を取ったけれど、素材が悪いのか、どれも出来が悪く、満足のいくものではない」
「一度目の成功は、貴殿の養い子のこと、別の方法というのは、もしや刑場から逃げてきた時に見た、不死人か?」
「そのとおり。たとえ不死となっても、ああも理性を失ってしまうのであれば、意味がない。獣になりたくて不老不死を願っているのではなく、かぎりなく天に近づくために不老不死を願っているのだから」
「それがわたしと、どう関係がある?」
「あの男は、貴殿のように精神力の強い人間ならば、理性を失わずに不死人にさせることができるのでは、と思っている。貴殿をふたたび古城に呼び寄せるために、ご子息を攫ったのだ。
とはいえ、計画性があってのことではない。すべて思いつき、行き当たりばったりの行動だ。あと、わたしに対する牽制も兼ねて」
「なぜに、貴殿を牽制する必要が?」
「わたしが、古城の入り口を敷地内に持つ、この屋敷を手に入れようとしたから。近づく人間をわざと傷つけて、わたしに古城のことを諦めさせようとした」
「貴殿に、屋敷を売らなかったことが、いけない、というのか?」
「たとえ売っていたとしても、やはり見せしめとして、似たような目にあわせたことでしょう。貴殿のご子息を攫った男というのは、気まぐれで、考えなしで、そのくせ理想ばかり高く、理想のためには平気で人を傷つけることができる、狂人なのだ。まともな対話が成立する相手ではない。下手に動けば、かえってご子息の命が危うい」
「莫迦な! 允が、不死人のような怪物にされていたら、どうする!」
「あの男は、貴殿を古城におびき出すことと、わたしを脅迫し、古地図を放棄させることを狙っている。その目的が達せられない限りは、ご子息は無事だ」
「矛盾しておるぞ。さきほど、自身で、相手は狂人なのだと言ったばかりではないか!」
「狂人だが、人を見る目はある。もしも貴殿が、ご息子が無事でないと知ったら、どんな行動に出るか…わたしと組んで、それこそ一軍を率いて古城に下りてきかねないことを知っている。
だから、いまのところ、ご子息は無事と見てよい。お分かりか? 相手の目的が貴殿である以上、貴殿は古城に入ってはいけないのだ。入って、相手に捕らわれた時点で、貴殿ら父子の命は、ないも同然となってしまう」
「なぜにそこまで読める? 下手人とは誰だ?」
「古地図を放棄するということは、わたしが一族の家督を、その男に譲るという意味でもある。下手人は、わたしの親戚筋の洪という男なのですよ」
「親戚だと?」
「そう。わたしの子を、治療と称して、人間とは程遠い『なにか』に変えてしまった男だ」
孔明の胸倉を掴んだままの董和は、そこへ来て、ようやく思い出した。
彭恙は、孔明の養子である喬も、また攫われたのだと言っていた。
血を分けた父子ではないとはいえ、子を案じる立場は一緒なのだ。
朝、孔明がひとりで泣いている姿を見た。
あれは、亡き叔父慕わしさに涙をこぼしていたのではなく、攫われた子を案じての父としての涙ではなかったのか。
趙子龍はすべて知っていて、あえて董和に嘘をついたのだ。
そして、黙ったまま、晴嬰とともに古城に潜っていったという。
董和は、厳しい表情を崩さないまま、胸倉を掴んでいた手を、ゆるゆると離した。
孔明は、軽く息をつくと、乱れた襟元を直す。
董和に殴られた頬は、すでに腫れはじめていた。
「貴殿は、わたしの知らないところで、その従弟とやらと、交渉をつづけていたのか?」
「この屋敷の地下に、古城の一部があるのはもうご存知でしょう。不死人のなかには、辛うじて犬並の知恵を残しているものがいて、それに書簡を持たせて交渉を続けました。
ご子息も、共に攫われた費家の嫡男も無事。だが、わたしが家督を譲らぬかぎり、そして貴殿を使者として古城に潜入させない限りは、人質は解放せぬと」
「貴殿は、解放は、そもそもありえぬと踏んでいるわけか」
「左様。だが、貴殿は、そうとわかっていても、あえて古城に潜入する御仁だ。だから、黙っていたのです」
「解放がありえぬというのであれば、わたしが古城へ潜ろうと潜るまいと、息子の命は、危ういというわけであろう」
「まったく他の方法がないわけではない。いまそれを探っている。辛いのは判ります。だからこそ、慎重にならなければならない」
「慎重に、か」
董和は、眩暈をおぼえて、眉間をさすりつつ、のろのろと孔明に背を向けた。
「どこへ行きなさる」
孔明の問いに、董和は答えた。
「わたしは、貴殿の言う、ほかの方法とやらがわからぬ。それに、もし方法があるとしても、息子に危害が及ぶ可能性は、今、こうしている間もある、というわけではないか。わたしはただ、息子を助けたいのだ。宝なんぞ」
どうでもよい、と言いかけて、宝を得ることで、借金から解放される、長星橋商店街の面々の顔を思い出した。
彼らは、董和を信じて、その冒険を助けてくれたのである。
刑場にも、危険を押して駆けつけてくれた。
古城へ行く。ほかに道はないのだ。
董和は短い間に、意を決すると、孔明に止められる前に、さっと扉を開いた。
扉の外に留まっていた偉度が、驚いて声をかけてくる。
それを無視し、自身の寝室の横、いまは孔明の部屋となっている元物置部屋を目指して、一気に廊下を走る。
その董和の背後で、孔明の声がした。
「偉度、止めよ! みなも出合え! 幼宰殿を、古城に潜らせてはならぬ!」
まさに鶴の一声で、孔明の声に、屋敷のあちこちにいる家人が動き出すのがわかった。
勘の良い男だ。
董和は舌打ちしつつ、小部屋に入る。
そして、寝台の下に隠された地下への扉を開こうとするが、慎重な孔明らしく、扉は幾重にも頑丈な鍵が掛けられているうえに、いつ改造したのか、そこだけが青銅の、ぶ厚いつくりに変えられていた。
一人では持ち上げることはできない。
それでも、董和が扉を開けようとしていると、家人たちが集ってきて、董和を抑えようと手を伸ばしてくる。
「離せ! わたしは行かねばならぬのだ!」
「無駄死にをしたいのですか! お止めなさい! この下は、いまは不死人が徘徊していて、あなたが武装もなしにのこのこと出て行けば、あいつの思惑通り、不死人の仲間入りですよ!」
と、偉度がまっ先に出てきて、扉を開こうとしている董和の腕を押さえにかかる。
董和も伊達に鍛えてはいないので、その腕を解き、鍵を壊そうと、手近にあった青銅の燭台を、錠前に打ち付けた。
「お止めなさい!」
振りほどかれてもなお、董和を制止しようとする偉度は、はっとして、ぴたりと手を止める。
偉度が止まると、ともに駆けつけ、董和を制止しようと、袖を引っ張ったり、襟首を掴もうとしていたりしていた手を、ほかの家人たちも止めた。
そして、互いに、緊張した面持ちで、ガンガンと、錠前に燭台を打ち付ける董和を見る。
董和は、最初は無心で錠前を打っていたが、やがて、なぜ偉度や家人が手を止め、怯えたようにこちらを見ているのか、その理由に気づいた。
青銅の扉が、董和が扉を打ち付けたのが理由ではなく、揺れているのだ。
下から、すさまじい力で、叩かれているのである。
偉度の顔が、月のように青くなった。
「音を聞きつけて、やつらが集ってきたのだ! 幼宰さま、本当にお止めなさい!」
「不死人が向こうから来たというのであれば、話は早い。こやつらに、軍師の従弟とやらの居場所まで、案内をさせようではないか!」
「案内をしてくれるほどに、親切な連中だと思うのですか! 仲間同士で見境もなく殺しあう連中ですよ! 止めろと言っているのに、この分からず屋が!」
いいざま、偉度がぐっと近づいてきたと思った瞬間、董和は、身体に強い衝撃を覚え、そのまま前のめりになった。
ふっと視界が暗くなる。
「お許しを」
と、偉度が言ったのが、失われつつある意識の果てに、聞こえた。
何度目かの角を曲がったとたん、目の前に、またも階段が続いているのが見えて、晴嬰は思わずため息をついていた。
もちろん、無理をしてついていく、と言い張ったわけであるし、ため息なんぞついてはおられないのであるが、二階層目に入ってから、いったいどれだけの階段を上り下りしたか知れない。
二階層目は、ただの通路ではなかった。迷路というのもちがう。
ただひたすら、狭い道をまっすぐに辿っていけばよいのであるが、それは何度も何度もうねうねと蛇行を繰り返す道で、しかも平坦な通路ではなく、小さな階段がいくつもいくつも繋がっているのであった。
階段は、たいがい二、三段であったが、上がったと思ったら、しばらくも行かないうちに、下りの階段があり、またしばらく行けば、上りの階段がある、といったふうである。
それがいくつもいくつもつづいていて、やがて右へ曲がり、階段がまたつづいていて、それを上下すると、今度は左へ、という具合である。徐々にゆるやかに下に向かっているのはわかったが、道が狭く、とても暗いために、果てがないように思われる。
しかも、それぞれは小さな階段とはいえ、何度も上がったり下がったりを繰り返していれば、息も切れてくるし、ふくらはぎのあたりが痛んでもくる。
なんだって、こんな面倒な通路を作ったのだろう。
単に、先に進ませたくないのであれば、迷路にすればよかったのに。
学のないあたしでもそう思うのだ。どうしてこれを作った人は、そうしなかったんだろう。
晴嬰のちいさなため息を聞いたのか、馬超が足を止め、言う。
「大丈夫か。すこし休むか」
あら、このひと、案外やさしいのだな、と晴嬰が感心していると、それに答えたのは、赤頭巾のほうであった。
「そりゃあ、いいや。ちょいとわしも疲れてしまった。すこし休むとしよう」
と、その場にどっかりと座り込み、腰にさげていた瓢箪から水をとる。
趙雲だけは、眉をひそめて、立ち止まろうとしない。
「このような狭い道で止まっては、危のうございます。攻められたなら、如何いたしますか」
「心配性だな、子龍は。みろ、この通路の、この土ぼこり。昨日今日、積もったものじゃねぇ。この通路は、ずうっと長い間、人の足が入っていないのだ。証拠に、わしらの足跡以外は、なにもねぇじゃねえか」
赤頭巾の言うとおり、埃が幾重にも積もった白い通路には、四人分の足跡しか残っていない。もし、だれかが先に足を踏み入れていれば、まちがいなく、痕がついたはずである。
「不死人だっけ? そいつらが歩いたとしても、足がねぇわけじゃなし。跡は残るはずだろう」
「仰る通りでございますが」
「翊軍将軍、姑娘のことも考えろ。ここで休まねば、途中で倒れてしまうぞ」
馬超の言葉に、赤頭巾はうんうん、と同調してうなずく。
趙雲は、ちらりと晴嬰を見て、それから、仕方がない、というふうに腰を下ろした。
趙雲は、早く先に進みたいのだろう。
で足手まといだということは判っているが、趙雲から気遣いの言葉がなにもないので、晴嬰は引け目を感じてしまう。
こうなると、いろいろと気にかけてくれる馬超のほうが、いい男に見えてくるのが不思議だ。
「いまはどの時分なのだろうな。こう暗くちゃ、さっぱり判りゃしない」
「もう月も中天を過ぎたのではないでしょうか。旦那さま方、あたしがこんなことをいうのもなんですが、明日のお勤めには響かないのですか。あたしは、きままな酒家の女将でございますから、一日や二日は、どうにでもなりますが、みなさまはそうはいきますまい」
痛む足を揉みつつ、おそるおそると言う晴嬰に、ずばり、赤頭巾がぼやいた。
「ああ、下手をすると、朝議には出られないかもしれねぇな」
すると、鋭く馬超が尋ねてくる。
「朝議? 赤頭巾殿は、役所づとめか。どのような仕事をしているのだ?」
「ん? まあな。なんといおうか、机に座ってだな、賢い人たちの意見をはいはいと聞いて、それに従って、ほかの役人にこうして下さいな、ああしてくださいなと申し伝えをする仕事をしているのだよ」
「ふうむ、伝令か。窮屈そうであるな。わたしは、机にむかって座るのも嫌だが。翊軍将軍、おまえはどうだ」
馬超としては、気を遣って、趙雲を会話に入れようとしている。
馬超は、天上天下唯我独尊な、協調性のない男ではない。たとえ行き摺りのような形でも、仲間であるからには、ある程度の親交を持とうと努力をするのだ。
一方の趙雲は、独立独歩の男であるから、さすがに五月蠅そうな、無礼な態度はとらないけれど、ぶっきらぼうに答える。
「事務仕事は嫌いではないな。しかし、晴嬰殿の答えに答えておらぬぞ、平西将軍。おまえはたしか、宮城に参内するのではなかったか」
「ふん、単にわたしの子飼いの兵士たちの様子を、劉備に報告するだけのものだ。岱でもこなせよう。馬超はこのところの成都の情勢に心を痛め、悩んだあまりに寝込んでいるとでもいえばよい」
馬超は呵呵大笑するのであるが、晴嬰はぎょっとし、趙雲はあきらかに怒気を浮かべて言う。
「馬超、貴様、いま主公のことをなんと?」
「ふん? 漢族は呼び方に細かいな。貴様とてわたしを呼び捨てにしたではないか」
「はいはいはいはい!」
と、ぱんぱんと調子よく手を打ちながら、赤頭巾が、にらみ合う二人のあいだに入る。
「止め止め止め! こんな狭いところで喧嘩なんぞしてくれるな、仲良く、仲良く!」
「いまのは、こやつがいけない。そもそもが事務仕事は嫌いではない、だと? 格好つけおってからに」
と、馬超が拗ねるのを、赤頭巾は明るく制した。
「まあまあ、子龍は、これは文官としても立派に通用する男なのだぜ。関羽と一緒で、勉強家だからな」
晴嬰は、この言葉にひやりとしたが、馬超は不自然さに気づかなかったらしく、そうなのか、と素直に納得した。
構えたのは、趙雲も一緒だったようで、馬超が、『関羽』と呼び捨てにしたことを疑問に思わぬかどうか、視線をそそいでいる。
晴嬰と趙雲が緊張した顔をしているのを、馬超はちがう意味で受け取ったらしく、鼻で笑って、言った。
「安心せい。わたしは、これしきのことで剣は抜かぬ」
どうやら呼び捨てがつづいたあとだけに、『関羽』は『関羽』ということで、うまく流されたようである。
「子龍よ、おまえは明日は、なんであったかな?」
「はい。槍兵部隊と歩兵部隊の模擬合戦の指揮をする予定でございましたが、これは叔至でも勤めを代われます」
と、趙雲は言って、赤頭巾のほうを見た。
「それがしは、このまま奥に進もうと思います。どうぞ、赤頭巾さまは、晴嬰殿とともに、一度は地上へ戻ってはいただけませぬか」
「ふん、そして一人で子供を助けに行く、と? おい、なぜわたしを人数から外すのだ」
揶揄するように馬超が言うと、うるさそうに趙雲は目を向けた。
「おまえも帰れ」
「何故だ! 長坂の戦いの名声、いま一度、というわけか?」
「おいおいおい、止せと言っているのに!」
と、赤頭巾は、また二人のあいだに割って入る。
「子龍、おまえがここから出ないというのであれば、わしだって、ここから動かぬぞ」
「お戯れを。朝議は如何為されますか?」
「わしの代わりなら、なんとでもなるだろう」
「なるわけがございませぬ!」
「ふむ? 伝令の為り手がおらぬのか。宮城も人手不足なのだな」
と、馬超は首をひねる。
「だいたいな、おまえが戻らねぇとなったら、この若大将も意地になってここから動かねぇだろうよ。わしと晴嬰さんがいなくなったら、おまえたち、二人仲良くやっていけるのか? 無理だろうが!」
「ですから、それがしが一人で参ります」
「駄目だ! おまえを一人残して、戻りましたとなったら、わしが孔明に恨まれる」
「このまま共に進んだほうが、よほど恨まれます」
「いいや、戻ったほうが恨まれる」
「進んだほうが恨まれます」
赤頭巾と趙雲が、恨む、恨むとお化けのように言い合いになりつつあったので、晴嬰は、二人をいなすために口を挟んだ。
「赤頭巾さま、趙将軍、馬将軍も、今日は、この入り口がわかった、ここまでは仕掛けがなにもない、ということで、また日を改めて来ては如何でしょうか?」
だが、趙雲は頑として首を振った。
「駄目だ。こうしている間にも、人質がどうなっているのか、わからないのだぞ。軍師の子のためだけではない。董幼宰殿の子、費家のあととりの安否も気にかかる」
「お言葉ですが、あたしだって、休昭さまのことは、心配ですよ。ちいさい頃からよく知っているのですからね! けれど、このまま四人で、朝を気にしながら口論していたって、仕方がないじゃありませんか。あたしなんかはともかく、貴方様がたが朝まで戻らねば、きっと皆様、騒ぐことでしょう。それを心配しているのです!」
「ああ、そりゃそうだな。尚書令も孔明も大騒ぎするな。古城のことを知っている奴なら、なんとなく見当をつけて、ほかに広まらないように誤魔化してくれるかもしれねぇが、わしだけじゃねぇ、子龍や若大将までもいないとわかって騒ぎになったら、ちと面倒だな」
「では、こうするか」
と、馬超が口を開く。
「翊軍将軍は先に進みたい。が、姑娘の言うことは理にかなっている。ともかく、わたしたちは、一旦は地上に出て、みなに無事な姿を見せておく必要があるのではないか。騒ぎを起こさせぬために」
「それはそうだが」
「ふん、俺ひとりならば、騒ぎも起こらぬのに、という顔をしているな、翊軍将軍。公平に行こうではないか。わたしも譲歩するゆえ、おまえも譲歩するがいい。
こうしよう。まず、今日は、このくねくねした道が、どこに続いているかを確かめる。まさか、一気に最下層ということはあるまい。この道の果てを確認したならば、一旦引き返し、おのおの持ち場に帰るのだ。そして、仕事を早引けするなりして、またここに戻ってくればよい。
ここまで来るのに、今日は時間がかかってしまったが、つぎは知った道ゆえ、もっと早く先に進めるであろう。どうだ?」
馬超の提案は、互いに譲歩しあう、という言葉が利いたのか、趙雲にも赤頭巾にも受け入れられ、そして一行は、とりあえず道の果てを探るために、ふたたび闇の中を歩きだした。