捜神三国志・燭龍本紀
第二十七話 真実の道(一)
やはり道がちがうのでは、と馬超が言いかけたとき、目の前に石の扉があらわれた。
石の扉の横には、ちょうど赤頭巾の腰くらいまでしかない石の人形が、ぽつりと立っている。
その顔は、どこか微笑んでいるようでもあり、目のきょろりと大きく、髯のちょこんと生えた、愛嬌のあるものであった。
身にまとうものは、漢族のものに似ているが、細かい細工が施されていた痕跡はあるものの、風化してしまって、形がはっきりわからない。
手には杓を持ち、扉に添う形で立っているのだが、首だけは、扉の前に立つであろう者たちのために向けられている。
まるで、やってきた者たちに、無言で微笑を投げているように見えた。
しかし、困ったことには、その扉には、取っ手がない。
ただ、石が塞がっているだけのようにも見えるが、扉であろうことは、扉と周囲の壁の隙間からわかる。
長い年月にさらされたために、扉である石が削られたのか、もともと急ごしらえのものだったのかは判らないが、扉と壁の隙間から、ひゅうひゅうと風が吹き、さらに水音がはっきりと聞こえてくる。
水音は、小川のせせらぎのように清(さや)かなものではなく、増水した川と同じように、どどうと激しい音をさせている。
この向こう側はどうなっているのか?
赤頭巾は、茶目っ気をだして、隙間から向こう側を覗こうとしたが、灯りが足りないために、見ることはかなわなかった。
「だが、向こう側はもしかしたら、出口になっているのじゃねぇのか。明るいぜ」
赤頭巾の言葉に、趙雲は首をひねる。
「さきほどのように、鍾乳洞の向こう側、というのならばわかりますが、このように作りこまれた建物のなかに入って、また出口、というのも面妖に思えますが」
「とっておきの扉かもしれねぇぞ」
言いながら、赤頭巾は試しに横に引いてみるが、やはり、動きはない。
「ただ、石が塞がっているだけだ。二階層目への入り口は、やはり一箇所しかないのだろう。行き止まりだとあきらめて、引き返そう」
と、馬超は言うが、趙雲は、首を振る。
「行き止まりではないと思う。聞くが、貴殿の通った二階層目へ行く階段の途中に、なんらかの仕掛けは?」
「あったのかもしれぬが、盗賊どもが、さんざん荒らしまわったあとであったし」
わたしには判らぬ、と馬超が答えるなか、晴嬰は口を挟んだ。
「いいえ、仕掛けはあったようです。幼宰さまが最初に潜られたとき、黒イの人たちが仕掛けを動かしてしまい、入り口が途中で塞がってしまったと、張大人が言っておりましたから。それであの晩は大騒ぎになったんですよ」
晴嬰のことばに、趙雲も深くうなずく。
「なんらかの仕掛けがあるのではないか。ここに意味ありげにある、妙な人形。これが怪しい」
「たしかに怪しいが…」
馬超は、怪訝そうに眉根をよせて、石の扉の脇に立つ、人形の頭を、こんこんと叩いてみせる。
しかし人形は、謎めいた微笑を浮かべるばかりで、なんの変化も起こさない
。手にしている石の杓を動かそうとしてみるが、びくともしない。
杓は、なんの装飾も施されていない、素朴なふつうの杓であった。
「たしかに若大将の言うとおり、これが二階層目の扉でなかったとしてもだぜ、出口がもう一個見つかるとなると、便利だと思わねぇか。こういう見も知らない場所に入るときってのは、かならず出口を事前に確認しておくってのは、基本だろう。どうだ?」
と、赤頭巾が言うのに、趙雲と晴嬰は、もちろんすぐに頷いた。
だが、馬超は、誰の言うことも、とりあえず反駁してみたくなるらしく、うむ、と納得しかねるような生返事をしたあと、石の扉を叩いてみた。
「扉の側面に、なにか仕掛けがある、というのではなかろうな」
「ここに来るまでの天井やら壁やらとくらべると、ずいぶん味も素っ気もねぇ、粗造りな扉だよな。急ごしらえの扉なのか、それとも、家畜小屋とか厠につづく扉だったんじゃねぇのかな。不浄な場所ってのは、どんな民族のどんな家でも、作りが粗末だからな」
馬超が、あちこち扉の側面に手を触れているのに倣って、赤頭巾も、となりに並んで、仲良く扉をぺたぺたと触ったり、叩いたりしている。
趙雲と晴嬰は、通路が狭いのもあり、二人の後ろに立ち、その様子を見つめていた。
晴嬰は、さきほどから、粗末な扉にはそぐわないほど、よくできた人形に惹かれていた。
張大人が喜びそうな、高価なものには見えなかったけれど、こんな地下のこんな薄暗い場所で、長いあいだ、だれにも見られることもなく、ひとりぼっちでいた人形である。
顔に愛嬌があるのも気に入ったし、店の前にこれを置いたら、きっと映えるだろうな、ということも想像した。
だが、ちょっとばかり重そうなので、持ち帰るのは難しいだろう。
これをよく覚えておいて、模造品を、石屋に言って作ってもらおう。
そうして、ぺたぺた、どんどんと石の扉を叩く二人の横で、晴嬰は、変わらず、穏やかな微笑を浮かべている人形の前に屈み、その顔をよく見ようと、ちいさな首に触れて見た。
もちろん、石であるから、晴嬰のよく見えるように動くはずはなかったが…
「あら、動く?」
晴嬰が、人形の顎を上向かせるようにすると、かちり、と小さな音がした。
と、同時に、馬超が驚きの声を上げる。
「なんだ? 扉が、前に?」
それまで、びくともしなかった扉が、馬超が軽く押しただけなのに、ぐっと前に反り返ったのである。
いいや、反り返ったのではなかった。
馬超の上半身が、まるで見えない手で押されたかのように前にのめりこむと、同時に、扉が前に倒れた分だけ、内側にせり上がってきた扉の下の部分が、思わぬ勢いで馬超の足を掬った。
それは、となりにいた赤頭巾も同様で、まるで石の舌にぺろりと飲み込まれたような勢いで、二人は扉の向こう側に、巻き込まれてしまった。
同時に、ざぶんと、派手な水音がふたつする。
趙雲と晴嬰は顔を見合わせると、弱冠のずれを残している石の扉を慎重に開いて、向こう側を覗き見た。
扉がわずかに開いただけで、万の大軍の軍靴の音にも似た、すさまじい水音が、耳一杯に入ってきた。
馬超と赤頭巾の無事を確認する前に、趙雲も晴嬰も、目の前に唐突にあらわれた、激しい流れの滝に目を奪われた。
滝は、趙雲たちのいる出入り口よりずっと上方の水路から流れ落ちており、いままで歩いてきた通路と同じように、一分の隙もない、見事にくみ上げられた石壁を伝って、大きな人工の池に注いでいる。
人工の池には、さらに下につづく水路が何本もつづいており、その行く手は、暗闇に紛れてわからない。
水は清く、下水ではないため、土のにおいと水のにおい以外の汚臭はない。どこかの井戸とも繋がっているのか、かなり以前に井戸に落ちたか、身を投げたかして、そのままここに運ばれてきたと思われる白骨が、人工池のあちこちにある岩に引っかかっていた。
晴嬰はともかく、趙雲までもが絶句していたのは、蝋燭も篝火もない、闇であるはずの空間が、明るかった、ということである。
扉は、意地悪くも、横に軸がついている回転扉で、慎重にくぐれば、いきなり水に落ちることはなかった。
趙雲に助けられ、晴嬰は、扉をくぐると、水に落ちたはずの馬超と赤頭巾を探す。
人工池には、不自然な形で岩が点在しており、そこに落ちてしまったら、どこかを打って、怪我をしていただろう。
あるいは、水に落ちた衝撃で、気絶してしまい、そのままどこへ向うかわからない水路に運ばれて、さらに地下へ入ってしまったら大変である。
月明かりもないのに、この空間が昼間のように明るく、視界が利くのは、壁にとりつけられた、大きな光る白い石の所為であった。
崑崙で取れるという、玉とも違うそれは、ちょうど月のように真円に削られており、壁のあちこちに配置され、蛍のように淡い光を放って、空間をぼんやり照らしている。
まるで身近に、月がいくつもあるようだ。
趙雲も、この石が不思議でならないらしく、扉のすぐ手前の踊り場から進むと、槍の柄でもって、白い石をこんこんと叩いて、なんの反応も起こらないことに、頭をひねっていた。
晴嬰はというと、ひとしきり驚いた後、扉に巻き込まれた二人のことを思い出し、あわてて踊り場から、池を見下ろした。
回転扉の手前は、小さな踊り場となっており、壁に添う形で下につづく階段が作られている。
馬超と赤頭巾は、扉の勢いが強かったため、踊り場すら飛び越えて、そのまま池に放り投げられてしまったようであった。
「赤頭巾さま、馬将軍!」
晴嬰が呼びかけると、それに応じるように、池の表面に、ぷかりと赤頭巾の体が浮かんだ。気絶をしているようだ。
それを見て、趙雲は顔色を変えて、すぐさま階段を駆け下りて、水に飛びこもうとする。
それを、気絶せずに、泳いで、手近な岩にたどり着いた馬超が制止した。
「愚か者! 甲冑のまま水に飛び込めば、おまえも沈むぞ」
赤頭巾は、薄い鎖帷子しかつけていなかったから、浮き上がったのであるが、趙雲は、衣の下に、矢をも跳ね返すくらいの鎖帷子を身につけていた。
池の深さはかなりあるらしく、馬超は、両手で岩をしっかり持って、離さない。
「いま参ります、ご辛抱を!」
と、言いながら、自分でもじれったそうに鎖帷子を脱ぐ趙雲であるが、その音に気づいたのか、赤頭巾は、ぴくりぴくりと動きをはじめ、やがて、ぶはっ、と息を吐いて、水の上に仰向けになるような形で泳ぎ出した。
「ああ、驚いた。死ぬかと思ったじゃねぇか」
それでも呑気にそんなことを言いながら、あめんぼうのようにすいすいと水を掻き分けていく。
「ご無事でございますか!」
趙雲の声に、赤頭巾は、さらにノンビリと言った。
「このとおり、無事だよ。なあ、子龍よ。なんだか不思議なところだな、ここは。見事な建物があるかと思えば、ヘンテコな扉があって、その向こうには滝だの池だの、勝手に光っている白い石だの。
もしかして、わしらは、あの門をくぐったときから、冥府に紛れ込んじまったんじゃねぇだろうな」
そういいながら、赤頭巾は、馬超のすぐそばの岩にたどり着く。
趙雲は、脱ぎかけていた衣を直して、赤頭巾たちのいる岩のほうへと向かう。
ちょうど岩は、階段から等間隔に続いていて、さほど苦労もせずに池の真ん中を突っ切るようにして歩けるように配置されている。
岩の天辺は、人がひとり、ちゃんと立てるくらいの大きさで、さらに平らに研磨されており、実際に、人がそこに立つためのものだったようだ。
晴嬰は、赤頭巾が人形の足元に置き去りにしていた燭台を取ると、趙雲につづいて階段を下り、敷石のようになっている岩を使って、赤頭巾たちのもとへと向かった。
赤頭巾も馬超も、思わぬ衝撃に言葉少なである。
「赤頭巾さまはご無事で…平西将軍も怪我はないか」
水を向けられた馬超は、それでもいつもの如く、どこか揶揄したような口調で答える。
「怪我はないが、濡れて気持ちが悪い。まさか、かような場所で溺れそうになるとはな。久方ぶりに、肝が冷えたぞ」
「あんまり水に浸かっていると、お風邪を召しますよ。上がって、どこかで火を焚いて、服を乾かしたほうがよいのでは?」
「姑娘の言うとおりではあるが、しかし、あいにくと火を焚ける場所はなさそうだぞ」
と、馬超は、すっかり濡れた体を重そうに持ち上げて、岩の上に昇る。
赤頭巾は、まるで風呂にでも浸かっているかのように、水に浸かったまま、滝や池や水路、そして見事な石組みの壁や、人工の月のような、不思議な白い石などを眺めている。
それを尻目に、馬超は濡れて乱れた髪をかき上げながら言った。
「やはりこれは、一種の入り口ではないのか。おまえの立っている岩に引っかかっているような白骨や、隅に葉や塵芥がいくらか溜まっているところから見て、この滝は、どこかの井戸とつながっているのではないか」
「井戸が入り口の一つと?」
趙雲の問いに、馬超は頷いた。
「そうだ。そして、入るばかりで、出ることができない入り口だった。つまり、人のための入り口ではなく、純粋に水路としてのものだったのではないか」
「では、この扉や、階段、妙に凝っているようにも思える敷石などはどう説明する」
「そこは、ほれ、池を掃除するためのものだったのではないかな。昔、ここに人が出入りをしていた頃は、ちゃんと下人が、白骨や塵芥を片づけていたにちがいない」
馬超の話は、たしかにもっともであったが、しかし趙雲も晴嬰も首をひねる。
「でも、掃除をするためにしては、敷石が小さすぎやしませんか」
「そうだ。それに、塵芥を取るのであれば、敷石はもっと端に配置したほうがよかろう。こんな真ん中では、あまり役に立たぬ」
二人の反論に、馬超は鼻を鳴らして、肩をすくめた。
「そんなもの、わからぬではないか。単なる設計の誤りかもしれぬ」
「こんなに見事な建物を作る人たちが、そんな単純な間違いをするものでしょうかねぇ」
晴嬰が言うと、馬超は、わかっていないな、というふうに首を振った。
「えてして、賢人ほど、つまらぬ間違いを犯すものだ。かつてのわたしが、まさにその通りだったようにな」
馬超は、芝居がかったふうに、自嘲気味にため息をつくと、石の上に立って、言った。
「ともかく、ここにはもう用はない。行き止まりなのだし、早く最初の道に戻ろうではないか」
「いや、それは必要ないみたいだぜ」
と、ようやく赤頭巾が、水から、ざぶりと音をさせて敷石のうえに上がってきた。
赤頭巾が水を含んで、重いし、気持ち悪いであろうに、そんな素振りはすこしも見せず、三人に向かって、顎で敷石の先を示してみる。
敷石は、池の途中で終わっているのではなかった。
それは、池を突っ切る形に並ぶ道の向こうに、構えるようにある大きな水路につづいており、その水路は、ほかの水路と違って、水だけではなく、水路に添う形で道が地下へと続いているのであった。
「どうやら、子龍の勘が当たったようだな。二階層目の階段だよ。壁を見ろよ、これはただの水路を使った脇道じゃねぇぜ」
赤頭巾が言うように、敷石の先につづく水路を見て、晴嬰は、あっ、と声をあげた。
中央の水路は、ほかのただ地下に流れていくものとはちがい、池の側面の壁に開いた穴につづいていた。
その穴の上には、ほかと同じく、美麗な石組みが並べられているのだが、驚いたことには、白い石のほうに気を取られていて気づかなかったのだが、茶色の大きな装飾が施されていた。
それは、滝に向かって手を伸ばす、巨大な樹の絵であった。
いくつにも分かれた枝は、四方に伸ばされており、ちょうど根元に二階層目の入り口が、ぽっかりと開いている、という具合である。
「驚いた、大きな樹。ぜんぜん気づきませんでした。これ、石に色を塗ったのじゃない。もともと、そういう色の石を、組み込んで積んだのですよ」
と、首を精一杯あげて、晴嬰が言うと、赤頭巾も、頭巾や衣裳から、ぽたぽたと雫を垂らしつつ、言った。
「ただの水路にしちゃあ、凝りすぎだ。若大将、あんたの知っているもうひとつの階段も、こんな具合だったのかい?」
「いいや、普通の階段だ。ニ階層目は、一階層目をさらに小さくまとめたような空間だが、迷路になっている。といっても、単純な迷路で、仕掛けはあちこちにあるが、命を落とすほどのものではない」
「小さく、か。古城は、下へ行けば行くほど、小さくなっているということだったな? 下にも水路がある、という話は、聞いたことがあるかい?」
「四階層目には水路があると聞いた。ここから流れ込んでいたのだな。四階層目というのは、非常に厄介な迷路となっていて、道も狭く天井も低いために薄暗く、ここで待ち伏せして、宝を運ぶ盗賊どもを襲って、上前を跳ねた連中が多かったと聞くが」
「この通路の噂は?」
「いいや、知らぬ。初めて聞いた。おそらく永年も知るまい」
「第三の門は、張大人も知らないのです。ですから、そこからつづく、この道も、盗賊どもは知らないはずですよ」
晴嬰が言うと、赤頭巾は深く頷いた。
「なんだか、わくわくしてきたよ。こういうときは、なにもかもが上手くいっているときでね。儂たちは、もしや大当たりを引いたのかもしれねぇ」
「先に進まれますか? 赤頭巾さま、今日はここを見つけたということで、明日、また先に進む、ということにしては?」
趙雲のことばに、赤頭巾は振り向いて抗議をする。
「なにを言っているのだよ。こういう『いい予感』がびりびり来ているときにこそ、一気に動くのが上策ってものだ。あいにくだが、衣を乾かしている暇はねぇ。それでいいかい、錦馬超さんよ」
赤頭巾の言葉に、馬超は不敵な笑みを浮かべて答えた。
「まあよかろう。幸運は、いちど捕まえたら、離さないほうが利巧だからな。翊軍将軍、おまえはここで留守番をしていてもよいのだぞ」
「そういうわけにはいかぬ。赤頭巾さまがどうしてもとおっしゃるなら、共に参ります」
「すまねぇな。さあ、そうと決めたら、さっそく二階層目とやらに行こうじゃねぇか。晴嬰さん、あんたはここで戻ってもいいのだが」
「そんなわけには行きませんよ。あたし一人で、ここから帰れとおっしゃるのですか、それだって薄情じゃありませんか」
「それもそうだな、悪い、悪い。さて、それじゃあ、仲良く四人で先に進むとしようか」
意気揚々と先に進む赤頭巾と、それに牽引される形で敷石を踏みしめる馬超。
が、さらにつづく趙雲は、なかなか前に進もうとしない。
晴嬰は、やはり趙雲が慎重を期して、先に進むことをためらっているのかと思い、尋ねた。
「どうなされましたの、趙将軍。なにか悪い予感でもなさるのですか?」
「いや、そうではない。俺よりも、と…いや、赤頭巾さまの予感のほうが当たるゆえ、あの方が良しというのであれば、まちがいないと思う。気を使わせてすまぬな。すこし、壁画と階段の位置が気になったのだ」
「なにかおかしなところでも?」
「うむ、俺の見方が悪いのかな。これは、樹だろうか」
と、趙雲は、気難しい顔をして、大樹の壁画を見上げた。階段をまたぐようにして根がふたつあり、そこから天井に伸びる大樹。いくつもの枝を持ち、幹はウロを表現しているのか、一直線ではなく、幹には、左右均等に、凹凸がある。
「樹だと思いますが」
「そうだな。気にすることでもなかろう。先へ行くとするか」
そうして、趙雲と晴嬰は、赤頭巾らとともに、二階層目に下りて行った。
おや、と小さくつぶやき、男は金色の目を輝かせて、周囲を見回した。
あたりに甘い、饐えた臭いが立ち込めている。
腐肉と汚物の発する臭いにも似た、その場にすこし居るだけで、吐き気がするほどの悪臭だ。
瓦礫に囲まれた空間には、白い膜が雪のように瓦礫を覆っており、白い膜のその下には、瓦礫とともに、白骨や、まさにいま、朽ちつつある兵士たちの体がいくつも閉じ込められていた。
「だれか、二階層目に入ってきたな」
つぶやくと、傍らにいた、頭の半分崩れている不死人が、言葉に反応して、首をひねる。
不死人は、『生前』の知恵をほとんど失い、獣のように本能の赴くままに行動するが、壮絶な殺し合いの果て、生き残った者には、辛うじて、人間らしい振る舞いができる知恵が残されていた。
不死人は不死人を殺すことができる。
だから、厳密には不死とはいえない。
だが、常人にとって、その斬られようが叩き割られようが、痛覚もなく、瞬時に肉体を再生することができる彼らは、不死と呼ぶにふさわしい存在であった。
金目の男は、不死人を汚らわしそうにちらりと見ると、言った。
「そもそもが失敗であったな。術の性質上、殺し合いをさせねばならぬから、屈強な者を優先して古城に呼び寄せたが、結果がこれだ。図体と力ばかりで、頭の足りぬ化け者だけが残ってしまった。知恵のある者、そして精神力の強い者を選ぶべきであったのだ」
そう、董幼宰や、諸葛孔明のような。
「やつめ、古地図を寄越さず、討伐隊でも寄越したか」
いまいましい。
古城に来てから、すべてがうまく行かない。これが、自分と、従兄との差なのだとは思いたくない。
深窓の姫君のように慎重すぎるあの者に、行動などとれるはずがないのだ。
あせることはない。現に、人質は三人とも、自分の手中にあるのだから。
金目の男は、傍らで、汚臭を放ちながら、犬のように主の命令を待つ不死人に告げた。
「喬が遅すぎる。視界が途切れた。くそっ、また『死んだ』のか? 出来損ないめ、面倒な手間をかけさせおって。おまえ、行って、連れ戻して来い」
無慈悲な男の声に、不死人は、唸り声のような声をあげて、ぎくしゃく、のろのろと上に向かう階段へ歩いていく。
その姿を見送ったあと、男は、白い膜に覆われた瓦礫の世界に、唄うように呼びかけた。
「さあ、食事の時間だ。二階層に、おまえのご馳走がやってきたぞ。存分に食すがよい。ただし、全部は殺さず、生きの良さそうな者は、捕らえてくるのだぞ」
その声に、静まり返った空間のなかで、なにかがしゅうしゅうと蠢いたが、姿はだれにも見えなかった。
董和は、この数日のあいだに、いま目の前にいる青年に好感を持っていた。それは、こいつはすごい奴だという実感と、一時は落ちるところまで落ちた感のある巴蜀の地に、新しい風を吹き入れてくれるのではないか、という期待が入り混じったものであった。
だからこそ、掌軍中郎将という役目を拝領し、その片腕となって働くことにも、悪い気はしなかったし、なにより、荊州だの益州だのといった地域の垣根を越えて、左将軍府に集められた若者たちの、颯爽とした姿を見るのは、孤軍奮闘をつづけてきた董和をして、多くの後輩がたくさんあらわれた気がして、嬉しくもあった。
若者たちは、だれも董和のことをよく知っていたし、事前に下知があったのか、董和に対して、まるで古くからの先輩のように、丁寧に接してくれた。
ただ阿ろうとしているのではない(一時は無位無官の男に、阿る必要など、どこにあるだろうか)、この青年は、自分の実績を、本当に高く買って、ともに進もうとしているのだと思えば、多少の反感もひっこんで、逆に好感が高まるのは当然のことである。
だからこそ、裏切られたときの反動は大きかった。
彭恙は、あのように粗暴で、人を人とも思わぬ男であるし、おのれの利の高いところに、簡単になびく男でもあるから、その言葉を鵜呑みにすることはできない。
どうあれ、諸葛孔明は策士なのだ。
どこか得体の知れない、容易には突破できない壁が、あの男にはある。
だが、ここまで酷い嘘をつく必要がどこにあるだろうか。
一人息子がかどわかされて、行方も知れないということを隠してまで、こちらの力が必要だったのか?
まさか、そうではあるまい。
だいたい、なんのために?
冷静になって考えても、軍師が自分に嘘をつく、その理由がわからないではないか…
要するに、董和は信じたかったのである。
孔明が、自分の地位を危うくしてさえも、まったくの他人であった自分を助けようとしてくれたことは、動かせない事実であった。さらに、好感さえ抱きつつあった青年なのである。
裏切らないでくれ。
そんな祈るような気持ちで、自邸に戻った董和は、しかし、目の前にいる、青年軍師の緊張した面差しを見て、確信してしまった。
董和は、全身の血が凍っていくのをおぼえた。
なんのために。
董和は、強ばった顔のまま、じっと向けられた視線を受け止める孔明に、無言のまま問いかけた。
孔明は、視線を受け止めたまま、なにも言わず、ただ董和の言葉を待っている。そこには奢りはなく、どこか叱られるのを覚悟して待っている子供のような、怯えが感じられた。
董和はその顔を見て、さらに心が乱れた。
この青年とて、嘘などつきたくなかったのだということが、すぐに感じ取れたからである。
では、なぜ。なんのために。
怪我の具合を慮ってのことか? それとも、董和が騒げば、先日のように民が騒ぐと懸念してのことか?
この青年ばかりではない。
この青年を取り巻く者たち、胡偉度や趙雲、さらに晴嬰やじいやまでも、大事なことを黙っていた。
ここへきて、冷静になって、孔明の配慮に、感謝の辞を述べられるほどに、董和は冷徹な男ではなかった。
全身が冷えていくと同時に、腸の奥底から、煮えたぎる油のような、はげしい怒りが、ふつふつとこみ上げてくるのが感じられた。
体の奥底は怒りで溶岩のように熱くなっているのに、全身は氷のようにつめたい。
そのちぐはぐな感覚が、さらに董和の平常心を削っていった。
あれから何日経ったのだろう。允は生きているのか。攫った人間は、なにか要求をしてきているのだろうか。
水面下で交渉は行われ続けてきたのか。
それとも、もしや、允はすでに?
董和は、おのれの想像を、すぐさま打ち消した。
そんなことはない。そんなことはあってはならない。
もしも、允に凶事が降りかかれば、すぐに判ったはずだ。
なによりも全身全霊を傾けて、慈しみ育てた一人息子なのである。
そう思う一方で、董允が攫われたその後の数日間、孔明の嘘を鵜呑みにして、息子が視察のお供に随行していると、なんの疑いもなく信じていた自分をも、董和は疑った。
怪我のせいとは思いたくない。
目の前に居る青年の華やかさに目が眩み、知らず、平静さを失っていたのは自分だ。
でも、なぜなのだ。
「なぜだ?」
前置きもなく尋ねると、孔明は、董和から目を逸らさないまま、慎重に、ゆっくりと答えた。
「真実を語れば、あなたは、怪我を押して飛び出して行かれたでしょう」
「当然だ!」
カッと頭に血が上った。
思わず、荒々しく部屋に入り、孔明に近づこうとすると、脇から、すばやく偉度が入ってきた。
「幼宰さま、軍師はお疲れなのです。主簿であるわたくしが代わりにお話を伺いましょう」
そこをどけ、と董和が口を開く前に、卓を前に座る孔明が、しずかに告げた。
「偉度、下がれ」
偉度は、軽く眉根をひそめ、怪訝そうに、首だけを孔明のほうに振り向かせる。
「ですが」
さらに食い下がろうとする偉度に、董和から視線をはずさないまま、孔明はきびしく言った。
「下がっていなさい」
孔明の表情は、あいかわらず固かったが、その口調は、最初に偉度を制したときよりも、むしろ柔らかいほどであった。
が、偉度は口を閉ざし、仕方がない、というふうにため息をつくと、
「では、わたくしは外で待機しておりますゆえ、なにかあったらお呼びくださいませ」
と言って、部屋の扉を閉めて出て行った。