捜神三国志・燭龍本紀

第二十六話 董幼宰、狼狽す

晴嬰が、趙雲に連れ出されたのか? それとも、趙雲が晴嬰を呼び出したのか?
どちらにしても疑惑はある。
なんのために?
あの二人に、いったい何の共通点がある、というのだ。晴嬰はわたしが目を覚ますまで、ずっとわたしの屋敷にいた。その際に、趙子龍となにかしらの話があったのか。
どんな話を、という段になって、やはり董和は頭が固まってしまう。
本当に趙雲と晴嬰だったのか。趙雲に似た男と晴嬰だったのでは?
いやいや、そちらのほうがよほど重大事ではないか。素性の知れぬ男と晴嬰が一緒だった。しかもこんな夜更けに二人で歩いていたという。

いまや、董和の頭の中には、晴嬰と趙雲という不可思議な取り合わせから導き出せる、さまざまな、たいがいはろくでもない憶測が渦巻いていた。
董和が動揺するのも無理はなく、長星橋商店街のひとびとは、董和に向けて、いかにも同情した眼差しを送ってくる。
つまりは、眠っている間に、思いをかけている娘をさらわれた哀れな中年男として見られているのだ。
とはいえ、なぜに若い男ではなく、趙子龍なのか。
董和が早くに結婚し、子をもうけたのにくらべ、所帯を持たない趙雲は(もともとの風貌というのもあるが)董和よりずっと若く見える。
年若い男が一緒であった、というのなら、やはり落ち着きはしないだろうが、どこか仕方ない、と思える部分もあるが、なぜに趙雲が、晴嬰と一緒なのか、やはり董和は納得しかねるのだ。
誇り云々はもはや頭になく、ともかく董和は落ち着かず、そうだ、なにかの間違いかもしれぬ、晴嬰の店に行ってみよう、と考えついた。

そうして、店にいけば、灯りは消されており、人のいる気配はない。
董和は、がっくりと気力が失せていくのをおぼえた。
ほかの店はまだ開いており、往来も、変わらず華やかである。
偽の晴嬰の店、とやらも繁盛しているようだ。あの勝気な娘が、偽の店が出ているのに、知らぬ顔をして店を閉めるはずはない。
いやいや、具合が悪いのかもしれぬ。
我ながら、往生際が悪いな、と思いつつ、董和は、晴嬰の店の前に立つと、しんと静まり返った店の扉を叩いた。
すると、中から、なにか、がたごと、という物音と、うめき声が聞こえてくる。そのうめき声は、か細い女のものではない。どこか獣じみた声で、董和は、晴嬰の店に、いつの間にか、野犬でも入り込んでしまったのかと思ったほどである。
隙間から覗いてみようかと扉に手をかけると、がたり、とほんの少しだけ扉が開き、驚いたことには、薄暗がりのなかに、二本の野太い足が見える。
だれかが店に忍び込んでいる。
董和は、晴嬰が、武器の代わりに、棍棒を裏口の横の桶に潜ませていることを知っていたので、すぐに取ると、扉を開けて、そっと中に入った。
店の中には、酒の匂いが残っており、晴嬰らしからぬことに、四人分の杯が、ただ重ねられただけで、洗われないまま、ほったらかしになっていた。料理も食べさしである。
しかも、喧嘩があったらしく、それなりに整えてはいるものの、木の椅子がぱっくりと割れているものがあり、しかも、晴嬰の大切にしている、死んだ兄の形見も、棚から落ちて床にあった。晴嬰は気づかなかったようである。
董和は、晴嬰の兄の形見を懐にしまい、それから、闇の中、董和に背を向ける形で、きょろきょろとしている巨体の男の背中に近づいていく。
そうして、問答無用で、思い切り背後より棍棒を振り下ろした。

どすん、と大きな音がして、男は店の床に倒れる。

さて縛ろう、と周囲を見回すと、まるであつらえたように縄が落ちており、董和は、むかし成都の令であったときの要領で、手早く、賊の手首と手足を縛りつけた。
そうして、男をひっくり返してみる。
驚いたことに、その中身は、九門古城にて、さんざん恐ろしい目にあわせてくれた、彭恙その人であった。
頭巾はすっかり脱げており、罪人をしめす、肩までしかない髪は、じっとりとにじむ汗によって、顔中にへばりついている。
董和の殴りようがひどかったためか、血が数滴、額から垂れていた。
晴嬰と趙雲が連れ立って店を出て、店にはなぜか、彭恙が忍び込んでいた。

趙雲と晴嬰と彭恙の間になにが? 
共通することといえば、九門古城である。
彭恙と晴嬰には、面識はない。
だが、彭恙は、栄耀飯店と繋がっている男であるから、張大人にいわれ、晴嬰を攫おうとしたところを、いま董和が殴り倒した? 
となると、どこで趙雲が絡むのかが、よくわからなくなってしまうのであるが。

考え込んでいると、彭恙は、頑丈なところを見せて、意識を取り戻した。
そして、暗がりのなか、自分に屈みこむ董和を見て、屈辱のためか、涙目になって、うーうーと激しく唸る。
処刑の決まった罪人が、こんな目をするな、といささか不気味に思いつつ、血走る大きな目を見据えて、董和は彭恙に尋ねた。
「貴殿、なぜにここにいる。晴嬰のためか」
「だれだ、それは」
と、彭恙は、冥府の役人も怖じて逃げ出しそうな、恐ろしげな声で言った。
「喧嘩のあった気配があるが、暴れたのはおまえか」
彭恙は、しばしためらったあと、これは普通に答えた。
「そうだともいえるし、そうだとはいえぬ」
「どちらだ。なぜおまえはこうしているのだ。趙子龍は?」
「趙子龍なんぞ、どうでもいい。いや、よくはないが、後回しだ。くそっ、孟起めが!」
「孟起? 馬平西将軍を探しているのか?」

ますます、よくわからない取り合わせである。
晴嬰には、九門古城で馬超と彭恙に出くわし、きわどいところで、からがら逃げ出してきたことは教えてある。
なのに、店に入れたのは、趙子龍もその場にいたから、ということか。
馬超と法正は繋がっており、法正は栄耀飯店の張大人と繋がっている。いわば敵、といってもよい相手だ。
その敵と趙雲が、ただ酒を飲み交わそうとしていたとは思われない。
馬超は、法正を裏切り、こちらに付こうとしているのか? 
なんのために?

「しかし、まさか貴様がここに来ようとはな! 俺も運がない。二度も殴られ、気絶するハメになるとは」
「一度目はだれに?」
彭恙は、戒めを解こうともがきながらも、鼻を鳴らした。
「孟起の短慮者めにだ。しかも、宮城の地下牢に押し込められたのだが」
彭恙は、なにがおかしいのか、狂気じみた、ぶきみな笑みをうかべて肩を揺らす。
「獄吏どもめ、いまごろ慌てていようぞ。まさか、これほど早く、彭永年が逃げ出そうとは、思いもしなかったにちがいない。間抜けどもめ、俺を、昔と同じ牢に入れるからだ」
「脱獄か…罪は重いぞ、彭永年。平民に落とされるくらいですむかな」
「脅すつもりか、ふん、貴様は、こんなところで何をしている。趙子龍と孟起と、あと一人…聞き覚えのある声なのに思い出せぬが、連中を追って、とっとと古城へ行くがよい」
彭恙の言葉に、董和は仰天した。
晴嬰と趙雲をつなぐもの。
それは董和と、九門古城。
まさか、晴嬰もあの古城に潜りに行ったのか?
「莫迦な、なぜ? あの古城にはいま、不死者が徘徊し、危険きわまりないというのに! わかっていて、なぜそんな真似を! しかも晴嬰をつれて、だと?」
すると、彭恙の表情に、さまざまな罪人、悪人を見慣れてきた董和ですら、ぞっと背筋を凍らせるような、邪悪な笑みが浮かんだ。
「そうか、貴様、なにも知らぬのであったな」
「なにがだ?」
「のう、董幼宰どの、ひとつお伺いしたいのであるが」
と、奇妙に優しい声で、彭恙は目を細め、揶揄するように尋ねてくる。
「貴殿、処刑場より逃げ出してから、ご子息の顔をご覧になられたか?」
「息子? 休昭か? いいや、あれはいま、視察で地方に出ているのだ」
とたん、彭恙は地の底から響くような、不気味な笑い声を薄暗い店内に響かせた。
「視察! 視察か、うまい言い訳をこさえたものだな。軍師将軍か? のう、董幼宰、それは軍師将軍が言ったことなのか?」
「そうだ。だからなんだ? 息子がどうした?」
「そうかそうか、視察か。しかしどこへ視察に言ったかは聞いておるまい。諸葛亮めが、気の利いた嘘をつくではないか。すべて話してくれようぞ、董幼宰。
じつはな、先刻、翊軍将軍に孟起と呼び出され、この店にやってきたのだよ。あれはおかしな男だな。軍師将軍のために、古城に潜りたいから、われらの使っている入り口を教えろという。
そんなことはできぬからな、断ってやったら、やつめ、孟起にいらぬことを吹き込みよった…いや、それはよい。それで孟起のやつめ、怒り狂って、おれを殴り倒したのだ。どうやら、もともと話がついていたらしい。奥に、まだ一人いたらしいからな。卑きょう者どもめが。
そうして俺は、縛られて、床に転がされていた。だが、実は目が覚めていたのさ。気絶をしているフリをして、やつらの話を全部聞いてやろうと思ったのだ。
そうしたら驚くではないか、軍師将軍のところのガキと、董幼宰の息子、それから費家の息子が、そろって攫われた、というではないか。それも、軍師将軍の縁戚に当たる男にな!」
「なんだと? 攫われた? 休昭が? 文偉まで?」
「そうよ。貴殿の息子は、九門古城を視察しておるのよ! だが、なんと哀れなことか。俺は知っているぞ、攫った男こそ、以前、俺と組んでいた男なのさ! やつめ、俺たちが張大人の側についたので、焦って別の方法を試しだしたのだ」
「何を言っている? おまえ、何を言っているのだ? 組んでいた男とはだれだ? 名前を言え!」
董和は、彭恙の胸倉を掴み上げ、ゆさゆさと揺さぶるが、もとより荒っぽく扱われることに慣れている男だ。平然として、むしろ董和の必死な顔を嘲り笑っている。
「趙子龍と孟起と、ほかのだれだかしらんが、そいつらは、おまえの子と、軍師将軍の子らを助けるために、古城へ行ったのだ。それなのに、親のお前が、こうして飲み屋でなにをしている? ええ? なにをしているのだよ?」
「軍師将軍は、すべてご存知なのか?」
自分でも驚いたほどに、乾いた冷たい声が出た。
彭恙は、いまや馬乗りになって、己の咽喉元を締め上げる董和を、見上げながら言う。
「知っているに決まっているであろう。知っていて、おまえを騙しているのだ。おまえが騒いだら、また民が騒ぐ。それが恐ろしいから、趙子龍にすべて任せて、おまえに内緒でことを納めようとしているのだよ!」
「本当だな?」
「本人に聞けばよかろう」
「そうしよう」
そういって、董和はぐっと拳をにぎると、薄ら笑いを浮かべ続ける彭恙の横面を、思い切り殴りつけた。
そうして、闇夜のなか、己が屋敷へ向かって走り出す。
そこにいるであろう、諸葛孔明に、すべてを問いただすために。


一方の孔明は、夜更けの訪問者にうろたえていた。
ほかならぬ、昼間に出仕したのに、すぐに勝手に帰ってしまった許靖であった。
無礼を謝りにきたのかと思いきや、軍師将軍にお会いしたい、と、にこにこと言って、家令の代わりをつとめている偉度がだめだというのも聞かず、勝手に上がりこみ、そして、戸惑う孔明に、型どおりの挨拶をしたあと、いきなり言った。
「軍師将軍、貴殿は短命となりましょう。その相が出ておられる」
「はあ」
ここで普通ならば、無礼な、と怒り出すところであるが、許靖ののんびりした、自分勝手すぎる態度にあきれ返ってしまい、孔明も怒るどころではない。
「貴殿のように玲瓏たるお顔は、なかなか例がない。それゆえ、わたくしもいろいろ書物をひっくり返し、貴殿のお顔をどう読めばよいのか、思案いたしました。が、ふと思いついたのです。貴殿は琅邪のご出自とか。琅邪とくれば、これは兵主神の名が、ぱっと浮かんでくる。かの神を祀る一族の伝説を思い出しましてな」
とたん、孔明の顔色は、誰が見てもあきらかなほどに強ばった。
だが、許靖は頓着せず、まあまあ、と、孔明をいなすようにして、先を続ける。
「で、思いついたのでございますよ。貴殿の顔は、類例がないのはあたりまえ。二つの顔を持っておられるからだ。二つの顔の特長を重ね合わせて読み取ればよい。ああ、ご安心なさい、その伝説とやらは、かつて洛陽にいた際に物知りの老人から聞いた、御伽噺のようなもので、わが家にそれに関する文献があるわけではございませぬ」
とたん、孔明はほっと息をついた。許靖は、孔明の顔から険が取れたので、嬉しそうに笑う。
「さて、話を戻しますが、貴殿の顔相、ちょっと面倒ではございますが、そこはほれ、わたくしの勘と経験とで、読み取り申した」
「そして、わたしが短命であると?」
「近々凶事が身に降りかかりましょうぞ。それは避けえぬこと。貴殿は、どうも最近嘘をつくことが多くなってはおりませぬか。まあ、職務上のこともあるのでございましょうが、嘘をつくことで、貴殿が持っておられる持ち前の運が影っているのでございます。ここで貴殿が、本来の己の姿を取り戻さぬかぎりは、貴殿の命は縮まりましょうぞ」
「つかねばならぬ嘘もございますゆえ」
「嘘をつく前に、嘘をつかなくてもよい方法を、考えられましたかな」
そこで孔明は、らしくもなく、ぐっと言葉につまった。
許靖のいうとおり、董和についた嘘は、嘘をつかなくてよい方法を考えることもなく、ただ怪我に障るから、と単純に決めたものである。
入蜀してより、独断専行が常になっていたから、いままで疑問にすらおもわなかった。
許靖の言うとおりである。らしくない。これは、以前の自分ならば、つかなかった嘘ではないか。
「礼を申さねばなりませぬな。孔明、いきなり目が醒め申した」
すると許靖は、人の良さそうな顔をして、ほうほう、とふくろうのように笑った。
「それはよかった。顔相でも占いでも、人を良き道へ導くのが、本来の目的。なにも凶事ばかりを避けるのが能ではない。さあて、それでは、わたくしはこれにて」
いくらなんでも、ろくにもてなしをせずに帰すわけにはいかない。間借りしている家であるが、茶でも出そうと引き止めたが、許靖は、
「けっこう、けっこう」
といって、やはり手前勝手に、席を立って帰ってしまった。

「なんであったのです?」
と、偉度が心配そうに戸口から覗き込んでいる。気づくと孔明は、卓の上にほお杖をつき片手は額にあてて、じっと考え込んでいた。
「偉度、子龍はまだ帰らぬか」
「まだお戻りではない様子。まったく、いったい、なんの用事があって、そう子龍、子龍と追い掛け回しているのです」
偉度の軽口にも乗らず、孔明は、ぼう然としたような目をして、独り言のように言う。
「先刻は、特になにも用事はなかった。ただ話をしたかっただけだ。だが、いまはちがう。謝らねばなるまい。いますぐに。偉度よ、最近の子龍の様子はおかしかった。わたしに対して、怒ってばかりいた」
「それは、説教将軍でございますからね」
「まぜっかえすな。大事なことだぞ。子龍は、わたしに大事なことを言っていた。なのに、わたしはその言葉を聞き流していた。子龍は、許靖の言ったことを、ずっとずっと、繰り返して言ってくれていたのに。謝ろう。許してくれるであろうか。もうすでに、わたしは見放されているのではあるまいな? なぜに帰らぬ。どこへ行った?」
「ときどき、貴方様がよくわからなくなる。それほどに心配なさらずとも、趙将軍は、決してあなたを見捨てたりなどはしませぬよ」
だが、孔明は額に手を当てたまま、深いため息をついた。
「なぜだかわからぬが、胸騒ぎがする。偉度、子龍の行きそうな場所を教えてくれ」
「聞いて、どうされる?」
「迎えに行くのだ、決まっているだろう」
「この夜更けに? 野暮はおやめなさい。趙将軍とて、すべてがすべて、貴方のものというわけではないのだから」
偉度は冗談で言ったつもりであるが、孔明には伝わらなかったようだ。孔明は、額に当てていた手を離すと、偉度をきつくにらみつけた。
「どういう意味だ?」
「どうもこうも…ああ、わかりましたよ、わたくしが悪うございました。いまのは、たちの悪い冗談でございます。趙将軍ならば、偉度が探してまいりましょう。あなたはここで待ってらっしゃい」
と、偉度は廊下に戻ろうとして、この家の主人が、足音も荒く、やってくるのを見つけた。
「おや、幼宰さま、お帰りなさいませ」
しかし、董和は偉度の言葉には答えず、沈黙のまま、孔明の前に姿をあらわした。


カラ元気なのか、それとも、相当に元気が余っていたのか、うるさいほどに元気な馬超を先頭に、趙雲、晴嬰、そして赤頭巾(劉備)の順に、一行はそろりと九門古城の中に足を踏み入れていく。
ひらいた石の扉に四人が並ぶと、劉備は、たしかこのあたり、と言いながら、周囲の石の壁をてさぐりで探る。
すると、どこかで、さきほど馬超が足踏みしたのと同じように、かちり、と音がして、ふたたび轟音とともに、石はゆっくりと下へと降りていった。
馬超も趙雲も晴嬰も、この大掛かりなしかけに仰天し、耳鳴りに苦労しながら、ぽかんと口を開いて、どんどん遠くなっていく夜空を見上げるしかない。
赤頭巾のほうは慣れたもので、石がうごきはじめるや、蝋燭に明かりを灯し、濃密な闇につつまれた古城のなかに、明りを入れた。

ぼおっと明るい光に浮かび上がる四人の顔は、まだ古城の入り口に入っただけだというのに、すっかり強ばっている。
九門古城という遺跡は、あまりに広大で、得たいが知れなさすぎるのである。
いつ、だれが、どうやって、どんな技術で作ったのか。想像すら働かない。
しかし晴嬰は、趙雲が、揺れる石の床に足を踏ん張らせながらも、ぽつりと、
「あいつがいたら、喜びそうだな」
とつぶやいたのを聞き逃さなかった。
あいつ? だれか友だちのことかしらん。

そうして、石の床は、ゆっくりと最下部へと降り立った。
ずしん、という音が周囲に響いたのを最後に、そこはすでに、沈黙の古城の世界であった。
前方にある、酸の海となっている第二の門の風穴から、ひゅうひゅうと風が入ってくる音が聞こえてくる。
そして、石の床が動かなくなったとたん、馬超が目ざとく見つけたのは、例の、石柱に守られるようにして突き刺さっている、見事な蒼い宝剣であった。
これは素晴らしい、とかなんとか言いながら、突き刺さった宝剣を抜こうとする馬超を、赤頭巾は止めようとするのであるが、一瞬遅く、またたきしたあとに見えたのは、石壁に叩きつけられて、悪態をついている馬超の姿であった。
「なんだ、いまのは! なんという仕掛けだ、いまいましい!」
「なんだかしらねぇが、そいつを抜こうとすると、吹っ飛ばされる。幼宰さんもそれで吹っ飛ばされたのだ。子龍、おまえも試しにやってみるか」
趙雲はといえば、蒼を基調とした、ところどころに龍の細工の施された、錆も欠けたところもひとつもない、それでいて、突き刺さった部分が鍾乳洞に覆われつつある、ふしぎな剣をじっと見つめていたが、やがて言った。
「遠慮させていただきます」
「なんだ、協調性のない」
と、馬超は、打ち付けられた背中をさすりつつ文句を言うが、趙雲は頓着せず、赤頭巾と晴嬰に言う。
「軍師の一族に伝わる話からすれば、この古城というのは、滅亡に瀕した部族の、地下に築かれた砦であったのです。とすれば、おそらく、その部族でなければ解けないような仕掛け、外敵を跳ね除けるための罠があちこちにある、ということでしょう。
この見事な宝剣も、邪なこころを持つ者を跳ね飛ばすという、部族の意志表明のようなものなのかもしれませぬ」
それを聞いた馬超は口を尖らせた。
「おい、俺は邪なこころなぞ持っておらぬ」
晴嬰も同じく口を尖らせる。
「幼宰さまだって、邪なんかじゃございませんよ!」
趙雲は、悪かった、と言うふうに手を振って、落ち着くように言った。
「喩えだ、喩え」
「どうも、貴殿の喩えは棘がある」
「おいおい、おまえたち、まだ入り口なのだぜ。そんなふうに今からいがみ合ってどうするのだよ。さあ、幼宰さんたちが行ってない道はこっちだぜ。さっさと先に進もうや」
と、赤頭巾のとりなしにより、一行はさらに足を先に進めることとなった。

ほどなく、明かりにぼおっと、人間がそのまま石にされたような石柱群のある洞窟に行き当たった。
蝙蝠の巣ともなっているらしく、蝋燭の明かりにおどろいて、ばたばたと羽ばたく、蝙蝠の不気味な羽音が響き渡る。
明かりを持っているのは劉備であったが、途中でぴたりと足を止めると、ほうれ、といって、天井を照らし出す。
すると、八本の腕を持つ巨大な朱で描かれた化け物の影が映り、馬超が悲鳴をあげた。
それを見て、劉備は大喜びして笑い、またまた蝙蝠がばたばたと騒ぎ出す。
「赤頭巾さま、おふざけになりませぬよう」
趙雲が言うと、赤頭巾こと劉備は、わかった、わるかった、と少しも悪びれない。そして、怒るべきか、ぶん殴るべきかを迷っている馬超の肩を、親しげに、ばんばんと叩いた。
「明かりは、晴嬰殿がもたれるべきでは」
趙雲が提案するが、劉備は赤頭巾の下から、それに反対した。
「莫迦、おまえは女人に、こんな危険な場所の道先案内をさせるつもりかよ。ほら、あんなのも、ここにはあるのだ」
と、劉備は、岩がまるで唇を半ば開いたような形で、外に開けている泉に明かりを向ける。
岩のように見えるが、泉の中央には、水牛の解けかけた骸が、あいかわらず横たわっていた。
「そこは酸の海になっていて、下手に足を踏み入れると火傷する。入り口だけで、これなのだ。これから先は、どうなっているやらだぜ」
「それならば、ますますおふざけはなりませぬ」
「わかったよ、子龍は、どこへ行こうと子龍だな」
当然でございます、と答えつつ、趙雲はちらりと怒りが不燃焼になっている馬超を見る。
馬超は、天井にある、不気味な化け物の姿に気をとられているようだ。
「どうした?」
「いや、なんのために、こんなものを描いたのかと。敵を威嚇するためか、それとも、味方を鼓舞するためか。八本の手を持つ神、か。どこかで聞いたようなことがあるのだが」
「すくなくとも、我らの神ではなかろう。さあ、先へ行くぞ」
しばらく行くと、狭い回廊に突き当たった。
ところどころに水が沁みこんでおり、苔むしている。だが進めば進むほど、回廊の幅は広くなっていき、その左右の壁も、美しい石作りとなっていった。
「こいつぁ、すげぇな」
と、感嘆の声をあげて、劉備は回廊の壁をさする。
どれも同じ規格をもつ石でぴたりと隙間なく組まれた、美しい石の壁を撫でさすった。天井には、木々に慕わしげにたかる小鳥の姿が掘り込まれており、床にも、失われし部族の意匠とおぼしき、典雅な模様が施されている。
「わしは、この前、ここまで来ていなかったが、若大将、この古城は、ずっとこんな調子で、道が続いているのかい?」
「すくなくとも、一階層目はそうだな。打ち捨てられた宮殿といったふうだぞ。案内してやろうか」
「いいや、時間がねぇから、まっすぐ二階層目とやらへ行こうや。ここからだと、どういけばいい?」
「入り口がちがうゆえ、うまくつかめぬが、このあたりではないことはたしかだ。うむ、右へ曲がってみるか」
そこは、まさに、馬超と彭恙から追われて、董和と偉度、そして張嶷が逃げ出した回廊につながる道であった。
曲がろうとする赤頭巾こと劉備に、趙雲が言う。
「お待ちを、前方より、水音が聞こえてまいりませぬか」
「水音?」
たしかに、耳をすませば、どこぞより、水の落ちる音が、古城の風の音に紛れて聞こえてくる。
「平西将軍、この一階層目に水路があるのか?」
「いや、わたしが知る二階層目への階段にいたる道の近辺には、水など一滴もなかったぞ」
「赤頭巾さま、一階層目が広大なれば、下に至る階段がひとつきり、というのは解せませぬ。もしかしたら、この前方に、もうひとつの階段があるやもしれませぬぞ」
劉備は、うむ、といいながら、左にいたる道と、前方の水音のする道をくらべていたが、
「そうだな、おまえの勘はよく当たる。それに従っておくか」
といって、前方に向かい始めた。
それを、馬超はおもしろくないらしく、口を挟む。
「勘が当たる、ということであるが、罠であったらなんとする」
「そんときゃあ、そんときだろ、こっちにゃあ、常山真定の趙子龍だけじゃねぇ、なんと天下の錦馬超までいるのだから、なんとかならぁな」
と、劉備は、のほほんと答える。
馬超としては、うまく煙に巻かれた様子で、うむ、と生返事しながらも、どこか不服そうである。
道を真っ直ぐ行けば行くほど、水音は、はっきりと聞こえてくる。
しかし、どんどん闇は濃くなり、道も狭くなる。それまで二人並んで歩けるだけの余裕があった回廊であったのに、ほどなく、一人が通り抜けてやっと、というくらいの狭さになってしまった。

二十七話へつづく…
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